Thursday, October 29, 2009

結論になり代わるもの、あるいは言葉を巡って考えられる自由と責任②

 哲学とか思想は人生の諸場面での経験によって書かれている。故に観念的なこととか論理的なことは、そういった経験的な真理を証明するために有効なのであり、論理自体の美を追求していくと、そこで待っているのは寧ろ数学であり物理なのだ。それはまた一つの価値だが、特に孔子とかソクラテス、あるいはプラトンといった偉大な著作にどこか共通性があるとしたら、それは人生において経験する様々な責任遂行の内に忍耐とか、忍従もあるし、逆に権力の横暴や人間の欲望によるエゴイズムに対する反省もあり、従ってそういう人間存在の実存に対して何らかの作品的固定化を我々が望む時、良心の側からの要請に従ってやんわりと示されるエロスが介在しているからこそ、そこにアナロジーを発見するのではないだろうか?つまり孔子もソクラテスもプラトンも生きた人間だったのである。

 しかしその親和力が親しんだものを大切にする一方、知らないものに対しても敬意を抱くという心理を介在させる時、そこに思い遣りという感情が生まれる。(第十三章参照)親しい者同士には固有のエゴが相互に発揮される。それは親子とか兄弟を見ても分かる。だからこそ「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるのだ。思い遣りはだから責任と容易に結びつく。そして責任の最たるものとしてやはり私たちには言葉がある。言語活動、言語行為と色々な呼び方が学問上ではされてきたが、言葉を他者と共有し、意志を示す時にそれを利用することが、直接社会機能となっている。だからたとえ本当はただ朝寝坊をしてしまっただけの場合でも、「実は今日電車が少し遅れました」と遅刻の言い訳をすることが建前上だけでも要求されるのだ。だから説明責任とは言葉を換えれば人間が思考本能的に携えている辻褄合わせ的納得に根拠がある。
 自由とは責任の遂行をする中で得る報奨であると我々は受け取っていることについて最も大きく扱った哲学者はヘーゲルだろう。
 ヘーゲルの「諸権力はむしろ、ただ概念の諸契機としてだけ区別されていなければならない」(「法の哲学Ⅱ」中第三部 倫理中§ニ七ニ、290ページより)という一説は明らかに概念の心情、愛、霊感に対する責任論的優位を示している。それは国家秩序希求の心理が私たち主体にあるという主張である。つまり一方で我々は心情や愛を内的には至上の価値としながらも、外的にはそれが行動によって示されなくてはならないことは家庭生活においても、隣人、あるいは同僚との関係においても当然のこととして知っている。つまり人間は心情とか愛を行動に置換することでその内的意志を他者に示すという当然の真理をヘーゲルは言っている。つまり本論で考えられていることを適用して考えれば、ヘーゲルは言葉の仕組みとしての概念という理を、「伝えるべき内容」=徳 にすることに粉骨するあまり忘却してきたことに対して覚醒の意図を持って読者に突きつけているのだ。
「それゆえ肝腎なことは、諸権力の諸規定が即自的には統一的全体である以上、それらの諸規定がすべて現実に顕現した姿においても概念の全体をなさねばならないことである」(同書同中、290ページより)
 ここでヘーゲルは心情、情緒、人治主義からの翻弄を何よりも訴えたと言える。その意味ではプラトンのイデア論の忠実な実践者としてヘーゲルを位置づけることも可能である。先の引用は
 「ふつう三権といえば立法権、執行権、司法権のことが語られるが第一のものは普遍性に、第二のものは特殊性に照応するのに対し、司法権は概念の第三の契機ではない。というのは権力の個別性はこれらの圏外にあるからである。」
と続く。ヘーゲルは同書をそのまま踏襲すれば、「国家の終局目的をカントの考えるごとく判決という形式的正義の実現にあるのではなく、普遍と特殊との真実の一体化にあると考えた」(同書292ページより)。
 ヘーゲルはここでフランス革命に懐疑的な立場を貫き、君主制をよしとした。
 恐らくヘーゲルは理想的代表者にして、象徴でもある君主というものを、私の言葉で言い換えれば偶像として認可することによって個々の特殊的意志をより制御し得ると考えたのだろう。その意味ではヘーゲルには内的革命論者的部分は皆無であり、偉大なる保守主義者である。そして言語活動において主軸をなす概念の優位性の主張において、彼は言語が理想的権威による訓示という性格を帯びていることを誰よりも自覚的だったと思う。つまり言語と偶像化作用を一致したものとして捉えることで、社会を安定したものとして維持出来ると考えたのだとすれば、現代社会でメディアに頻繁に登場する人気タレントやコメンテーターたちのメッセージをより親和力のあるものとして受け取る時、私たちは無意識のエロスに対する要求をごく自然な形(これが意外と難しい)での許容範囲内で授受しているという私の主張からヘーゲルはただこちこちの頭の固い哲学者なのではなくよりエロス的次元で生の実存を考えていたことも示している。事実彼は多く婚姻や性生活に対する言及をしており、羞恥という概念も何度も登場する。(同書第三部 倫理中第一章家族 
より) 
 つまり女子中学生が本音の部分では言いたいとも感じる「女の幸せが欲しい」ということ(心情)を無意識の言葉の仕組み(概念)として、しかし実際にはやんわりと建前的な配慮を踏襲して先生や目上の人たちに自らの将来の願望を伝えようと選択された「伝えるべき内容」(認可されたエロス=言葉の偶像化)に存する本質は曝け出さない形での強烈な自己主張でもあるということがヘーゲルが「法の哲学」で目指したことかも知れない。
 ヘーゲルがこの晩年の大著「法の哲学」中第三章 倫理中国家で主張していることは、国家自体が一つの意志を持ち、それが成立する基盤として個=主体の内発的要求(ニーチェ的権力への意志とも無縁ではない形で)があり、君主(ヘーゲルは共和制を否定し、立憲君主制をよしとした)による特殊的意志と個々の存在者の特殊的意志とが巧く均衡を維持している内はよいが、一度各権力が私物化されると、解体(内から)と崩壊(外から)を招く危ういものであり、その意味では個が危ういものであるのと同じであることである。
 しかしこれはとどのつまり国家であれ、個の存在者であれ、それを一つの統一体として見た場合、内的関係としての思考・想像の自由と言う時の自由はしかし、外的関係としての自由、つまり責任の遂行の報奨として我々が受け取っていることの微細な分析であるとも言える。
 ヘーゲルは「法の哲学」中同箇所でマルチン・ルターの意志を汲んで国家と宗教の分離をよしとした。(「法の哲学Ⅱ」中280ページより)つまり外的関係としての理と内的関係とを明確に分離したのだ。しかしそのことはヘーゲルが国家を蔑ろにしていたのでは決してなく、人民の良心によって国家が秩序あるものとしてあることを彼は望んだのだ。つまり国家が宗教を基礎とするのあれば、彼は理性的本性に基づかねばならないと言っている(同書273ページより)が、それは一つの理想として言っているのだ。つまり彼は宗教そのものが統治者として失格だとしている(同書276ページより)が、それは信心が良心を使い何事も規定されず主観的感情が立法者となると全ての法が反故にされることをもって、信心を外的関係に適用することの危険性を主張する。要するにこれは責任の信心や良心との分化の主張である。そこにヘーゲルの近代的性格が読み取れる。これはプラトンの「国家」以来西欧形而上学が考え続けてきた問題の一つの帰結である。
 ヘーゲルは言葉の仕組みに本当は内在するのに「伝えるべき内容」の陰で黙殺されるレアな信心=羞恥の対象=差別の契機を重々知っていたのだ。
 しかしこの考え方で行くと、責任論の重圧に人間が屈してしまうこともある。そこで現代精神分析等では内的外的な二分論、つまり主客からの脱却が試みられてきたと言うことが出来よう。土居健夫氏、和田秀樹氏、小浜逸郎氏等に共通しているスタンスとは共存、依存、甘え、自愛を基礎として私たちの存在が成立することである。今度はこの観点からその出自と、思想的背景を、言葉の仕組みと「伝えるべき内容」の二分論をベースに考えてみよう。
 
 写真の出現が絵画に存在理由を問うたように、テレビの出現が映画に存在理由を問うた。インターネットはテレビに影響を与えたのだろうか?私は第一章から使用してきたマスコミとは新聞、テレビを基本として言ってきた。しかし「究極のワンフレーズ力」たるテレビも、インターネット出現以降は確固たる存在理由を剥奪されてきたとも言える。皆一日に一回テレビは見る。しかしテレビをもっとよくしようと思う人は少ない。何故ならテレビがつまらなければネットやブログを利用すればいいと思うからだ。言語の歴史からすれば歴史の風雪に耐えてきた言説の数々は当然過ぎるほどの真理・論理だけなのだろう。しかしそれは同時に風雪に耐え切れず掻き消された数多くの無数の言説も常に飛び交っていたという厳然たる事実へと私たちの意識を向かわせる。実はインターネット以降のメッセージの在り方は、風雪に耐える言説自体に対する不信ではないか?
 万人に向けて開かれていてもそれを万人が見るわけではないと誰もが知っている。個々のユーザーはメッセージを自分なりにチョイスしている。だから公とか一般性という言葉が常に自分なりの判断と遊離してきていて、それは益々開いていくだろう。つまり第一章で述べたようにそもそもマスコミの在り方自体に責任を我々が求めないことが、逆に斜に構えてマスコミの作り出す言説に対応するというスタンスを各個人に植え付け、ネットやブログの利用の仕方自体も益々オタク化していく。オタク的選択と、公とは幻想であるという二極分離を象徴するものは2ちゃんねるだが、そこで展開する文章はメール(携帯電話もパソコンも)による遣り取りも影響を与えている。そして誹謗、中傷、差別の全てにパターン化した傾向がある。それは正規のルートでは発表出来ないような性質のものが氾濫していて、その氾濫は恐らくこれからもなくならないだろう。そしてここに精神分析的な意味での依存と甘えや自愛があるように思われる。責任を回避するために無記名で臨むこともその一つだ。その考え方はポストモダン以降の論客や思想家、哲学者たちが私たちの立つ時代は固有なのだと考えていたように、哲学史そのものを無効化するような時代の在り方を象徴している。その意味でニーチェを多くの論客が手本としたことは必然的だったし、ミシェル・フーコーのバイオポリティックスはまさにその正統なる系譜と言っていいだろう。
 我々は他者に接する時身構えるし、その構え自体を作るものがある種の公に対するステレオタイプである。「こうしておけば間違いない」ことが「伝えるべき内容」の選択を真意からかけ離れたものにする。言葉の仕組みは実は言いたいことを言うことにあるのではなく、言いたいことを理解して貰うように「言うべきこと」に置き換えることにある。これが「伝えるべき内容」として完成する時には言いたいことはどうでもよくなっている。真意を伝えることは真意を「公意」に置き換えることなのだ。私たちは公私を往来する。
 自愛の心理は全ての存在者が持っている。しかしその自愛を真意として実践するとしたら、全ての隣人や他者と共存して生活することが困難になる。「今日は俺は誰とも会いたくない」時には会わなければいいのであり、そういう時に敢えて会って「今日は会いたくはない」と伝えることには意味がない。しかし社会はそれを求めるのではないかと個が脅迫観念を抱くのが一つの「構え」に他ならない。
 だから巧い人づき合いの人間なら「構え」を持続する必要がないように常に配慮するだろう。「私はオタクです」と宣言する必要のないように生活全体を持っていく。だから言葉の仕組みとは言葉が必要な時以外は言葉を作る努力を発動させないように温存しておきましょうということでもあるのだ。
 
 必要な時以外は言葉を安易に使わず保留しておこうという心がけは個人には適用出来るが、マスコミはそうはいかない。絶えず言葉を発信し続けなければならないからだ。「究極のワンフレーズ力」という言葉はかつて宰相の下で直接中央政治にかかわった竹中氏による謂いであることは説得力があるが、それは同時にかなり危険なことでもある。人気があるという意味ではヒトラーはまさにその典型だった。
 アレントは「責任と判断」で「良心に無制限の自由を認めると、組織的な共同体は滅亡してしまう」という謂いにおいてヘーゲルの視点をナチスに対する抵抗へと置換させることで利用しているが、権力に対する服従が積極的な一つの支持であると認識することで、「集団的な無実のようなものはありません。罪と無実の概念は個人に適用されなければ意味をなさないのです。」(38ページより)という考えで補強している。彼女はアイヒマン処刑についてマルチン・ブーバーが「ドイツの多くの若者の感じている罪の感情を消滅させる役割をはたす」(同ページより)と表明したことを批判し、ナチスに利用された若者たちが大人たちと等しい行動力と判断力を持ち得ず、罪を彼らが感じているとすれば、青年たちが間違い、混乱し、知的なゲームを演じているかいずれかだと考える。(尤も実際には狂ったふりをしてナチスへの協力を逃れた青年もいたかも知れないが)この考えにおいて、ブーバーはプラトン的系譜から、アレントはアリストテレス的系譜から考えている、つまりブーバーは純粋哲学的思惟を応用し、アレントは哲学外的可能性を哲学から探っているのだ。しかし哲学者が哲学外的思惟に赴く時、そこには哲学者が生きて、社会で生活するという現実と実存に纏わるモラルの問題へと突き落とす。例のアレントの遺作もそういう主旨のものだった。
 コンディヤックは「人間認識起源論」において無言劇というギリシャ文化を注目しているが、それは哲学が言葉を通して全てを理解しようとする試みの歴史である以上当然である。それは人間が言葉とは無縁の経験があったとしても、それは他者‐自己による人間性確立の中心には位置しないという信念がある。しかしそのことはオタク文化の現代社会の浸透とも無縁ではないし、ある私が最近読んだ対談を思い出せる。東浩紀氏と大塚英志氏は対談「リアルのゆくえ」で相互にオタクに対する全く異なったアプローチを試みている。
 この対談は大きく分けた二つの時期に行なわれている。最初が2001、2002年、そして次が2007、2008年である。そして最後の年のものは例の秋葉原事件後に行なわれている。2002年(第二章)で東氏は「理念や言語が社会を大きく動かす時代は終っていて、都市計画や情報システムのようなインフラの構造がダイレクトに人々を管理する時代になっている、というものなんですね」(119ページより)と言うが、ここで東氏は論壇や文壇のことを言語という一語で代表させているのであり、記述→印刷・出版→本の読書という形だけで言語行為が行なわれるのではないという主張をしている。しかし都市計画も情報管理も、批評的言語でも、文学でもないがやはり一つの厳然たる言語であり、設計図も口頭での指示といった全ては社会ゲームとして我々の言語的営み以外のものではない。情報工学言語、建築学言語、政治言語である。これより少し前の箇所で東氏は非人称的で工学的権力の作動(116ページ、氏は監視カメラを特に挙げて考えているが、これは大屋雄裕氏の「自由とは何か」(ちくま新書)での考察とも関係してくる。大屋氏はしかし老人の孤独死をネガティヴなだけではなく一つの選択肢としても捉えている。)を現代社会の危機的状況として捉え(まさに第六章36ページのレヴィナスの危惧そのものである)「ぼくの問題意識はまさに、権力者の意志から離れたところで、エンジニアの善意と市民の不安が組み合わさったところに自縄自爆の権力が生まれてしまうというところにある」と述べているし、それは説得力がある。しかし東氏は便利への極度の恐怖が支配しているようにも私には思えてしまう。(私は監視カメラに対しては肯定的ではないが)
 この対談で興味深いのは東氏がミームとしてのオタク文化を、大塚氏が個々のクオリアの感じ方としてのオタクを捉えている。(大塚氏はおたくと平仮名に拘っている。)しかし119ページの指摘と矛盾する形でここでも東氏は言語の本質論、つまり個々のクオリアの捨象、後退という性格に着目する。要するに氏は言葉にしか興味がないのである。そのことは氏の「ライトノベルの文体にしても、よく言われる批判は「行間を読むことができない」ことです。なんらかの現実を描こうとしているんだけれど、言葉がそれに追いつけないという不可能性の雰囲気。作者はなにかを伝えようとしているんだけれども、この言葉では言えなかったんだろうな、という苦闘の跡が行間ですね。だからそれがライトノベルにはないのは当然で、彼らはマンガやアニメの無意識のデータベースから描写を取ってきているのだから、文章は現実そのものなんですよ。この変化がいいのか悪いのかと言ったら、小説読みとしてはそれは悪いと言いたくなる。(中略)そこでは一度達成された豊かさが失われているのだから」(第二章 2002年‐言葉の変容中、165~166ページより)という発言からも頷ける。しかし内容的にはここで東氏が言われていることは、文学や批評言語の伝統的コードに対する盲目の信頼ではないだろうか?
 文学は言葉の仕組みから考えていくものだし、批評は文学についてのものであれば文学の言葉の仕組みについて「伝えるべき内容」を考えるが、その伝えるべき内容の仕組みについて考えなくてはならない。そもそも文学も批評も前段階の伝統的コードを破壊し、豊かさの定義を再編することに全ての目論見がある。つまり豊かさを失った豊かさを前提にして考えることが文学であり批評である筈だからだ。文学が言葉の仕組みから作り変える意図以外のものではないことと、批評は文学やマスコミの言説に対するメタ言語であるがそれでも、メタ言語の仕組みを作り変える意図以外のものではない意味では東氏はここで「豊かさ」を従来通りの「伝えるべき内容」から考えている。(第二章参照)
 私はこの対談で大塚氏共々双方の立場を理解することが出来る。ただ言葉には感覚的個別性を蹴散らすくらいのパワーがあり、それ自体の問題が考えていくべきことだ。つまり言葉で表現出来なさを言葉で決着つけようとするか、漫画や絵画、イラストやデザインで表現するかは個々の選択であり、つまり固定化した様式と似た言語のミームとしてのオタクを主に係わるか、感覚オタクとして生きるかの違いである。(桜というタイトルは既に日本人にとって偶像化されたミームである。J‐ポップで何曲同一タイトルの曲があるか数えてみればよい。)
 東氏は対談相手に理で攻めるので、どうしても相手は情で応酬せざるを得なくなる。感覚論的には氏はオタクではない。オタクはオタクを客観的には見られない。かく言う私もある部分ではかなりオタクなので同様だ。しかしオタクを考えるなら、オタクを分析する必要があるのでオタク外的に生きねばならない。そもそも分析オタクは分析を論に役立てることが出来ないが、論を論として纏めるのには分析も必要であり、分析オタク外的でなくてはならない。その点東氏は成功している。理念的オタクになることに成功している。
 現代人に何故2チャンネルが必要でブログ、ホームページ、新聞、テレビと親和的私秘性と公とされるものが共存するかと言うと、2チャンネル的私と幻想かも知れない公(「伝えるべき内容」を作らせるもの)との間の往復の中に意味や理があると私たちが殆ど本能的に感じ取っているからだ。オタクは特別な人を指すのではない。引き篭もりもニートと呼ばれる人たちもそうだ。全ての人たちが少なからずオタクで少なからず別のタイプのオタクや引き篭もりやニートを差別する。つまりオタクを否定する人たちとは別種のオタクでしかない。そして意味は私にも公にもない。その往復の中にある。自由は恐らくその意味を見出す思索と往復する行動の中でのみ見出され得る。勿論レヴィナスの言うように自由は責任を先験的に伴っている。(自由は責任が生むほんの一つの現象である)
 孔子が言う徳や仁はこの意味が理として作用する集積による一つの成果であろう。礼は理を守る一つの形式的所作、法として明文化される以前の「構え」である。映画「おくりびと」に代表される表現上での死を巡る思索もここに存する。カテゴリーは概念として時代毎に少しずつ変わる。しかし意味はそれとは少し違う。それは概念の相対性と違い、一つのメッセージに内在する公‐私の往復の中に見出されるものだからだ。
 2チャンネル的世界はその世界なりに一般化された偶像を作る。概念の偶像化は一つの時代の趨勢である。趨勢たる思潮が概念を変化させる。権力は思潮に乗る者に付帯する。しかし自由はニーチェに啓発されたドゥルーズが哲学者は真に反時代的たるという主張と同じようにそういう関係の中にはない。
 

Tuesday, October 27, 2009

結論になり代わるもの、あるいは言葉を巡って考えられる自由と責任①

 現代は情報化社会である。そして情報の手段は多様を極める。しかしどんなに新奇な手段であっても、それ以前の手段の存在理由を熟知して登場している。つまりそれ以前に常套的であった手段に欠けている要素を実現させてきたわけだ。例えば文字の発明は、その文字が模倣した意味を伝達する発声行為があって、それを下に音声を記述することから生じた(だろう)。(勿論文字の発生が音声より先であった可能性もゼロではないがここではそのことは問わない。)そして文字というものがあり、その文字を紙の発明は書き写すことを発明し、やがて書物が出来て、書物は人の手によって書き写すものであったが、印刷技術が可能にし本として市販されるようになり、新聞も出来て、その延長戦上に、写真が発明され、映画が発明され、電話が発明され、ラジオの発明が齎され、テレビが発明され、パソコンが普及してインターネットが発明され、メールという通信手段も出来、メールは携帯電話でも出来るようになり、そしてブログを誰でも簡単に作れるようになった。現代では政治家を選ぶのも、自分でも知らない内に誰かが選ばれているというような昔と違って、きちんと誰が立候補しているか知って、自分でも投票して選ぶことが出来るが、一度も政治家の姿を実際には見ていないで選んでいる場合も多い。つまりメディアを通じてその姿とか人物を知って投票することも多い。しかしこれは極めて人類の歴史においても特殊な状況であると言っていいだろう。現代とはマスコミ、マスメディアというものを前提として、しかもその前提としていることの内に言葉というものを通した実際上の人間の知遇を得たりする仕方ではない仕方によるコミュニケーションが加速度的に増加している(かく言う私もネット、メール上だけでの知人というものも大勢いる)のだ。こういう状況だからこそ、人類にとっての言葉を、私たちの行為や行動の自由と責任において考えることは意味がある。
 本論は第一章で言葉の問題から入り、第二章でマスコミというものの私たちにとっての在り方を考えた。その過程で自由と責任の在り方について考えてきた。そして差別という意識が生じるから偶像化が起こり、私たちの偶像化作用が、例えば職業意識を生むというところまで論じた。私たちが国家や国民、民族、出身地毎の地方意識を生じさせるのも、他と差別化するという意識からである。しかし結論というものはそう簡単に導き出せるものではない。つまり結論としてだからこうすべきであるとか、だからこうなるから気をつけろことはそうたやすくは言えるものでもない。ならば何故そう言えないかというと、そのように人類は大昔から何らかの結論を出そうとしてきたのであり、それが歴史であることだ。そして歴史が続いている以上その結論は出ていない。
 結論の代わりと言っては何だが、私は先に取り上げた孔子の「論語」にヒントを得てそれを書こうと思う。孔子は「論語」の中で徳も仁も礼も大切であると言っている。しかしその内でどれが一番大切であるかとは言っていない。そこでここで私の独断と偏見で、徳も仁も礼もその基礎として理、つまり言葉の意味、仕組みのこととしてもいい、この理(そこには法も含まれるし、習慣とか、物理とか、論理というもの全般が含まれる)が、それをベースにして「論語」中の重要だと思われる言説を、西欧哲学と併行させながらその形而上学的、精神的展開を人類がどういう形でしてきたかことを中心に考えていってみようと思う。

 私にとって極めて日本について興味深いこととは、昨今あった幾つかの大相撲に関する出来事についてである。例えば日本相撲協会にしても、横綱審議委員会にしても、我が国ではある平素から素行が問題視されている外国人力士が優勝した時にガッツポーズを取ったことを品格として訓戒措置を取っていたようだが、これなどは吉田神道という皇室と密接な歴史を背負った国技であるという意識からくる、要するに他の一般のスポーツとは違うのだということに対する見せしめであるが、本来相撲もまた一つのスポーツであるなら、彼の取ったポーズは何ら意味的に、意志表示的に悪いことではないと私は思う。つまりそれは上野由紀子がソフトボールで優勝した時に諸手を挙げて喜んだことと同じことだからだ。神道的作法云々で言うのなら、もっと現代的解釈で他の部分で改善すべき余地があるのではないだろうか?例えば興味深いことには、大麻吸引していた力士は即刻解雇して、永久追放を決め込むことによって、臭いものに蓋をしていたことである。これはここのところ頻発した不祥事であるが、そういう不祥事を招いた協会全体の指導方針とか、そのやり方の不備については一切問うことをしない。いや問わせないようにしているとしか思えない。寧ろそちらの措置の方がより国技の精神に悖るのではないか。
 つまり一方で品格を求めておきながら、他方自らの不祥事に対する協会全体の指導方針を巡る体質に対する批判だけは巧妙にすり抜けるように有無を言わさず、若い不祥事力士だけを排除する。これでは相撲界全体に蔓延した旧態依然的空気、それが大麻汚染やまさにあの若い見習い弟子の折檻死事件をも招聘したのであるが、そのことに対する反省は皆無である。しかしここには典型的な責任転嫁、つまり社会全体に責任がある、つまり薬物が蔓延しているのは何も相撲界だけではない(事実だが)という暗黙の主張がある。それはそう言い抜けなければならないとする私たちの判断がたまたま相撲界にもそういう態度を採らせるわけだ。その問題発生時の力士の親方であれ、相撲協会の理事であれ、責任転嫁出来ない成員を私たちは頼り甲斐のない無責任な人間であるという烙印を押すことに対する恐怖が責任ある地位の人間にはあるのだ。本質的な問題は決して責任者個人の問題ではないというメタ認知が出来ないとその本当の問題の解決にはならない(それは正しい面もあるが)という認識が、責任というものの所在を曖昧化していく。それは不景気になった時にも経営者たちだけは責任を取らずに済むという事態となって顕在化している。
 言語が最も頻繁に使用される概念を下に全てを判断していくような思考傾向を私たちに賦与しているのは、実は最も権威ある筋がその概念を使用すればそれに右に倣えするような模倣の原理が私たちに染みついていることに起因する。ここにある権威ある言説に対して一定の信頼を寄せるという判断を正当化する私たちのごく自然な心理(それをニーチェは権力への意志と表現した)と、そのように偶像化された言説を、理からではなく、信用から引用する頻度を増加させる判断を正当化させる心理とは全く同じベクトルのものである。そして言語が最もこのように偶像化しやすいものである。
 例えばこれが音楽の持っているモードであるなら、それこそ十年というスパンが一つのスタイルが保持されていく限界だろう。コンディヤックが「人間認識起源論」においてかつて歌詞が主体であり、歌詞のない音楽が考えられなかった状態から今日の状態、つまり歌詞から音楽が独立していることも普通であるようにまで来るのには多大な時間的プロセスを要したという主張も、実は私たちにとっての言語の歴史における最も顕著なある性格を示している。(コンディヤックはギリシャで書く行為が詩的言語から発達したと考えている。)それは言語活動が進化していく上で果たした意味の呪縛である。しかし同時に彼は想像力を重要な柱として論を展開する。つまり古代の人類の方が、現代のように音楽的表現が複雑で完成されていなかったために些細な音楽表現上での進化に対して鋭敏な感性があったに違いないという推察からは、人間がより欠如した状態から、想像力を働かせ文明を築き上げてきたという歴史的真実を見据えている。彼はパントマイムのような身体表現的言語についても同じように捉えている。身体表現としてのマイムはしかし言語活動をするようになってからの人間による表現なので、非言語的言語以外のものではない。言語活動以前的には我々は果たして身体表現そのものが可能だったのだろうか?身体的な動きで何か感情を表現することもまた、コンディヤックの主張する想像力の下で、それなりに意志は伝わったのだろうか?因みにサルトルも想像力を重要視したが、彼もコンディヤックの考えていたような哲学の系譜にあることを物語っている。
 本来言語活動とは身体的行為であり、恐らく音楽的欲望とそう変わらないものだったのだろう。しかし徐々に社会形態が秩序化されていくに従って呪術的な発声行為は意味の伝達へと進化していった。そして意味が主体となり、音声的な唸りとか呻きといった音声そのもののクオリアは付随的な要素へと後退して、そこでは意志伝達という形での言語=意識的行為媒介という秩序が形成されていく。哲学でそういった考えを前提にして言語論を展開したものの典型としてコンディヤック以外ではルソーが挙げられるだろう。
 しかし繰り返すが、音楽は音楽的欲望と衝動によるものが発祥の起源だとするなら、音楽が歌詞に従属させられるようになるという社会進化過程とは、人間が音楽本来の欲望や衝動を忘れていく過程と言い換えてもいい。つまり逆に言語の方も、実は身体的に顕在する音楽的欲望とか感情といったものを根幹に据えていると考えることも充分に出来る。だからまさに言葉の歴史であると言ってもよい哲学の歴史は、同時に哲学が考える領域が言語だけではなく言語外的なものにまで及んでいるので、必然的に言語によって言語も、言語外的なものも記述する歴史だったと言ってもよい。だからこそ必然的に哲学には哲学固有の論理に内在する音楽性というものも宿っている(ニーチェは道徳も音楽だと言う)。
 プラトンが記述から発声による対話へ重点を移した(意味の呪縛の一例)のと逆にデリダが発声から記述へと重点を移したのは、god とdogとが前者の方が後だと言って辞書が出来た時大騒ぎした西欧人たちの見た現実と同じ風に理解することが出来る。今日我々は孔子の言葉も、プラトンやアリストテレスの本も、仏陀やイエスの言葉も、アウグスティヌスの言葉も、エックハルトの本も、デカルトも、カントも、フッサールも、ベルグソンも、サイードも、隣接した書棚に陳列されていて、その中のどれを選ぼうが自由である。それはテレビでたまたまつけたチャンネルで爆笑問題が司会のクイズ番組で、別のチャンネルをつけたら石田衣良が同じ時間帯に別の番組に出ていて、別のチャンネルを廻したら西川史子が出ていたことに気づくことよりももっと珍妙なことなのだ。それは時代も、国境も、思想的な乖離もものともせずにどれでも並列的に探すことが出来る。しかしこれはアカデメイアでプラトンが目指したことでもある。そしてそれは実現したし、実現することを見越して彼らは人間にとっての世界の在り方に内在する真理を記述したのだ。
 プラトンが唱えたイデアが意味の進化と歩調を合わせ、我々は「伝えるべき内容」の選択に骨身を砕くようになっていく。しかしハイデッガーが存在とその配慮に注目した。ハイデッガーにとって言葉は人間の個にとって不可避な歴史認識の道具であると同時に、行為も歴史だし、理性も歴史である。そして歴史は私たちが存在する証である言葉によると考えたわけだ。デリダはこの精神に深く傾斜する。
 「わたしたちが神に対してすべてをさらすならば、神はわたしたちにもまた神のもっているすべてを明かしてくれる」(「エックハルト説教集」中82ページ)とか「わたしたちが神に隠すことがあれば、神もわたしたちに隠すことがある」(同書83ページ)というエックハルトの考えの内には功利主義哲学にはない、そのように真摯に神や他者と接しても報われなかったにしても、そういう気持ちになれたことで悔いはないという心の充実への快、幸福追求の考えに対する決心がある。エックハルトの考えの基礎にはフレーゲ的経験主体の考えがある。このスタンスはレヴィナスにも受け継がれている。あるいはプラトンが天上のものとしたイデアとはこのようなものだったのかも知れない。だからプラトンの真意を汲んでいたのはカントのような例外は除いて哲学者よりは宗教家だったかも知れない。ホッブス、ミル、ベンサムがアリストテレス的系譜であるなら、明らかにカントもレヴィナスもプラトン的系譜である(中島義道氏はカントを反プラトニストと捉えているが、そうだからこそ系譜学的にはそうなのである)。ルソー、ヘーゲル、ニーチェらはそのどちらでもないと言えるかも知れない。私が第一章で述べた「伝えるべき内容」は、法的規制、社会的強制力、あるいは文化伝統的な良識や通念である。しかしそれは寧ろ理と対立していくものである。
 しかし「べき」を我々が考えるのは、ある理が通っていく時、その効果や波及力が予測し得る時に他ならない。プラトンと違ってプラトニズムが批判対象となるのは、プラトニズムの方がよりプラトンの効果や波及力を助長するように政治的に動いているからである。だから一つの言説や定説、あるいは閃きに対して警戒心を持ちそう容易に認可したり、受容しない(差別する)こともある程度仕方ないとも言える。事実偉大なものとは実害として作用することも多いからだ。しかしそれは昨今言われることの多い霞ヶ関文学ではないが、「論語」中巻第三 擁也第六.一八 の言説に示唆的である。

 子日、質勝文則野、文勝質則史
 文質彬彬、然後君子

 子の日わく、質、文に勝てば即ち野、文、質に勝てば即ち史。
 文質彬彬として然る後に君子になり。
 
 先生がいわれた、「質朴さが装飾よりも強ければ野人であるし、装飾が質朴よりも強ければ文書係りである。装飾と質朴さがうまくとけあってこそ、はじめて君子だ」
 
 文書係り_「史」は朝廷の文書を司る役人で、典故に通じて文章の外面的な装飾をつとめる。

 形式か実質か、凡庸で安全な言説を善しとするか、偉大だが危険な言説を善しとするかは各人の主観に拠る。孔子は君子に対して書かれた心得書きでもあるので、理解することが困難なところもあるし、プラトンのようにその波及力に危険性があるのではなく理解や応用実践の仕方に危険性が潜んでいる。
 私はこのエッセイ風論文をこう始めた。
 「私たちは言葉という規約、規制に取り巻かれて生活している。恐らく現代人は言葉の力を借りずには何一つ社会を生きることも何一つ行動することも出来ないだろう。これは一日中誰とも話さずに過ごすデイ・トレーダーにしても変わらない。」
 これは実は古代、いやもっと人類が発祥した頃からある程度決定されていたことなのかも知れない。
 私の知人に絵を趣味で描く人がいる。彼はリタイアする前はテレビヴァラエティー番組の美術の仕事を監督されていた方だ。その人はあまり本を読まない。そして活字そのものをあまり信じていないというスタンスを取って生活している人である。しかしこの生き方ほどある意味で言葉に呪縛された生き方はない。そもそも絵画とは一つの言語活動であると例えば哲学者の永井均氏も認めている。(「なぜ意識は存在しないのか」より)しかしそれだけではない。それは言語に対する不信を抱くという心理自体が既に言語に絡め取られていると私は思うからである。
 それは最近のことを振り返ってみても、「あなたとは違うんです」と言って辞めた政治家のことをその業績からではなく、その言葉と態度で後世まで記憶する人が多いだろうことや、靴を投げられて辞めていったどこかの国の大統領にしてもその我々にとっての印象の持ち方は同じである。彼もまたその靴をよけたその所作という行為性という型に押し込めた言語的認識において記憶されるのだ。そしてその印象はそれまでにどんなに素晴らしい業績を挙げても、リタイアする時に持ってしまった以上我々はどうすることも出来ない。勿論その後継者にしてもどんなに幸先よく期待されても、辿る運命は演説の巧さと実質的手腕とが一致しなければ恐らく似たり寄ったりだろう。(そうでないことを祈る)
 だから仮にテレビもラジオも一切かからない孤島で過ごすことを決め込んで生活しようとしても、それこそ言葉の呪縛に絡め取られているという意味では言葉の力から自由であるわけではない。
 出版社の多くは経営難であり、自費出版を強力に推し進めていきたいと願っていても、本質的なムーヴメントという意味ではネット社会には太刀打ち出来ない。つまり尼僧で著名な文学者までもが一時携帯小説を試み圧倒的なアクセス数を獲得したがすぐに止めてしまったというが、携帯による配信とか、ネット配信といったことに纏わる波及力そのものが既に言語認識から逃れられないという我々の運命を示している。私自身何年も新聞を取っていずニュースは全てネットを利用しているが、その事実が既に私もまた言葉のネットの中にいることを示している。
 絵画とか舞踊とか舞踏のような表現手段においても我々は言語から自由になってそれらを鑑賞しているわけではない。絵画を鑑賞する時にも我々は言語的思考を巡らせているし、舞踊や舞踏を見てもそこに言葉を見出す。それは送り手にしても変わりない。
 だが我々の前に歴史的に残っている文化遺産における言語の在り方はそれらの認識とは少し違う。例えば孔子が素晴らしい人物であったかどうかことはあまり大した問題ではない。そのことは次の「論語」の一説が見事に語ってくれている。

 子日、君子不以言學人、不以人發言
 子の曰わく、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。

 先生がいわれた、「君子はことばによって(立派なことをいったからといって)人を抜擢せず、また人によって(性格が悪いからなどといって)ことばをすてることをしない。」

 真実徳がその人にあるかどうかでテクストが文化遺産として残っているわけではない。ハイデッガーが積極的にナチスに対して協力的であった事実は彼の哲学の本質を歪めることはない。尤も私の挙げた例だけでは正確ではないかも知れないが、行動もまた性格の一つとして解釈することも可能だろう。勿論言説と行動の一致において歴史に残っているものもある。ハンナ・アレントはその一例だろうし、レヴィナスもそうである。そこへ来ると、孔子の言説とされる「論語」中の幾つかのものは、現代社会の様相を考える時、時代の違いをまざまざと感じさせる。例えば次のようなものである。

 (巻第二 里仁第四)
 子日、古者、言之不出、恥躬之不逮達也

 子の日わく、古者、言をこれ出ださざるは、身の逮ばざるを恥じてなり

 先生がいわれた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに
追いつけないことを恥じたからだ。」

 (巻第二 里仁第四)
 二四 子日、君子欲訥於言、而敏於行、
 子の日わく、君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。

 先生がいわれた、「君子は、口を重くして、実践につとめるようにありたいと望む。」

 (巻第三 公治長第五)
 子路有聞、未之能行、唯恐有聞、

 子路、聞くこと有りて、未だこれ行なうこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを怖る

 子路は、何かを聞いてそれをまだ行なえないうちは、さらに何かを聞くことをひたすら恐れた。

 現代社会は有言実行が当然のこととなっている。不言実行は寧ろ説明責任を蔑ろにしていることで、古いとされる。私はその現実を半分仕方ないと思い、半分戦慄を覚える。つまり言語的認識のごく初歩的で規約的な呪縛から現代人が自由ではないことから、その自由でなさを説明で補うことは致し方ないと思うと同時に、一切の言説を行なわない者を暗黙に絞め殺すような雰囲気があるからである。私は沈黙を美徳とも思っていなし、本を読まないこともいいことだと思わないし、責任転嫁の巧妙な成員だけが他者から一切の揶揄を受けないような社会通念が罷り通っている現代社会では、特に自己防衛的に言説を自己流でもいいから携えていることがマナーである(それをしない無垢を美徳として考えることも私には出来ない)と考えているが、実行することの本質に対して見極めることを億劫になり、先例の政治家の業績からではなくメディア上のイメージで判断してしまう私たちの現実に戦慄を覚えるのだ。
 つまり現代社会では専門性があまりにも細分化されてしまっていて、領域侵犯的行為とか学際的行為は、接触領域に対する配慮と、大衆に対する啓蒙精神によってメディア化され、イメージ化されざるを得ない。劇場型政治は何も云々劇場と呼ばれたかつての宰相にのみ賦与される特権的イメージではなく、寧ろ劇場型政治や、イメージ戦略の否定とか批判においてさえ成立している。つまり反体制とか、市場原理主義批判とかの言説の中に既に劇場型政治、メディア戦略型社会の様相が組み込まれているのだ。しかし九鬼久造の「<いき>の構造」のタイトルを土居健夫氏がもじって、現代社会を「<甘え>の構造」であると命名した瞬間本家取りの戦略の中に、ネット化された言葉の魔力を素直に認め受け容れる姿勢が示されている。
 しかし僅か数年前に席捲した言説が容易に覆され、しかし新聞の一面の見出しや様々なコピーやキャッチフレーズには主張する世間一般の考えの豹変とは裏腹に語呂的な覚えやすさ(キャッチーさ)だけは踏襲しているような人間の音楽的欲望に対する配慮はどんな経済状態で、どんな社会通念が罷り通っても変化しない。つまり常に同じ思考回路で違う局面、違う倫理に対処しているのが私たちなのではないかということだ。例えばサルトルは「存在と無」で崖の上に立った時に、そこから身を投げてしまう自分の衝動に対して恐れ戦く描写が登場する。実は私もホームに電車が来る時、いつもここで身を投げたならどんなに楽だろうと思う。つい最近ある老婆が私の自宅からの最寄り駅のホームを降りて線路内をしかも電車がやって来る方向へてくてく歩いている姿を見て、急いで駅員を呼んで止めさせた。私にとって衝撃だったのは、そこに居合わせた女子高生(彼女たちはひそひそその姿を見ながら笑ってさえいた)をはじめ、大人の誰もが彼女の行動(恐らく自殺したかったのだろう)に対して止めようとしたり、駅員に報告しようとしたりしなかったことである。(その時いた女子高生たちは恐らく「女の幸せが欲しい」などと担任の先生に告げて顰蹙を買う勇気など微塵もないだろう。)これは現代人のヒューマニズム云々以前の行動学的規範が崩壊している証拠である。
 例えば「論語」中の次の一説を読者諸氏はどのようにお考えあろうか?

 (巻第四 述面第七)
 子所雅言、詩書執禮、皆雅言也

 子の雅言する所は、詩、書、執礼、皆雅言す。

 先生が正しい言語を守られるのは、詩経・書経〔を読むとき〕と礼を行なうときで、みな正しい言語であった。

 正しい言語_古注に従う。伝統的な由緒正しい言語。新注では「常言」と解して「ふだんにいつも話題にしたこと」となる。

 これは言語的認識とか、言語的説明責任とか、要するに公的なこととして、孔子が考える規約ということにおいて理性論的に正しい言語の使用方法を踏襲することはよいが、そのように社会行動の知において正当であることを把握する以外の局面では理路整然なこと、あるいは理性とは必ずしも全ての規範とはなり得ないという主張のように私には思える。例えば今私の目前に溺れかけている子供がいたとしたら、私はそれが私に助けられる範囲の状況であるなら、助けようとすだろうし、それが出来ないのであれ救援を要請すべく何らかの行動を採るだろう。言葉の正しい使用法というテーゼは緊急事態にはどうでもいいことである。意志が伝わることの方が大切である。つまりこのような臨機応変な考えの内に逆に言葉の正しい使用法という概念が生きてくるのではないだろうか?言葉に関する記述は「論語」ではかなり多く、次のようなものもその典型である。

 (巻第七 子路第十三)
子路日、衛君待子而為政、子将 先、子日、必也正名乎、子路日、有是哉、子之迂也、 其正、子日野哉由也、君子於其所不知、蓋閾如也、名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所 而巳

 子路が曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に をか先にせん。子の日わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是れ有るかな、子の迂なるや。 ぞ其れ正さん。子の日わく、野なるかな、由や。君子は其の知らざるれば即ち礼楽興こらず、刑罰中らざれば即ち民手足を措く所なし。故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟しくもする所なきのみ。

 蓋閾如たり_「蓋し閾如す。」と読むのがふつうであるが、蓋閾如は踧踖如などと同じ双声畳韻の形容語である。

 子路はいった、「衛の殿さまが先生をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何から先になさいますか。」先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」子路はいった、「これですからね、先生のまわり遠さは。〔この急場にそんなものを〕どうしてまた正すのです。」先生はいわれた、「がさつだね、由は。君子は自分の分からないことはだまっているものだ。名が正しくなければことばも順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ儀礼も音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人民は〔不安で〕手足のおきどころがなくなる。だから君子は名をつけたらきっとそれをことばとして言えるし、ことばで言ったらきっとそれを実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげにしないものだよ。」

 衛の殿さま_衛の出公のこと。述而篇第十四章(中略著者)。孔子が「正名(君臣父子の名分を正すこと)」をいったのは、出公が父と争っていて国中の名分が乱れていたからである。
 名が正しく_名と実があっていること。父は父として、子は子として、
 儀礼や音楽が・・・・・_『孝経』に「安上治民は礼より善きはなく、移風易俗は楽より善はなし。」とある。礼楽が衰えると刑罰が適切を欠くようになると考えられた。
 君子は・・・・・_この結びは、子路の失言を戒める意味を持っている。子路は衛に仕えていてその内乱に巻き込まれて死ぬ。

 分からないことは黙っているものだ、という一説はソクラテスを彷彿させる。名とは形式、言葉は概念、仕事は責任遂行、儀礼や音楽は責任によって獲得する自由、刑罰は刑罰と考えればいいと思うが、儀礼や音楽ことを、人間の音楽的欲望と考え、儀礼という形式を名の形式とは違う人間の意識を鼓舞したり、和らげたりするものと考えると、刑罰という法秩序的執行という責任遂行は、人間の内的自由の領域がそれを保持するために必要悪として刑罰を科すことを意味するのだろうか?つまり精神の自由を確保するために法的に逸脱した者を刑罰によって制裁し、社会の安寧を図ることなのだろう。
 また「論語」の中の次の一説は最もソクラテス的である。

 (巻第一 為政第二)
 子日、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也

 子の日わく、由よ、女にこれを知ることを訓えんか。これを知るをこれを知ると為し、
 知らざるを知らずと為せ。これ知るなり。
 
 女_皇本・清本では「汝」。両字は通用。(著者省略)

 先生がいわれた、「由よ、お前に知ることを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知ることだ。」

 孔子もソクラテスもプラトンも社会の動乱期にその考えを熟成させたというところに共通性があると思われるが、一切その種の歴史的解釈は専門家に譲るとしてここでは何故そのように時代が離れた二つの思想に共通点が見出せるかに焦点化して考えてみよう。
 
 靴を首脳に投げつけるのも、通り魔殺人を携帯メール予告するのも、その連鎖的に頻発することとは、模倣性に軸を置いている。行為を言語的に認識しているのが私たちだが、その言語的認識の基本は模倣である。言語脳科学者が考えているように言語が思考を、思考が言語をインスパイアしている。ネットで瞬時に駆け巡る情報、メールの書き込みの応報、全ては言葉から連想する行動の模倣である。
 パソコン市場では不況の煽りを食らって多機能パソコンから機能を極度に絞り込んだ低価格パソコンが主軸になることもまた株式市況に関するニュースであったり、新聞の記事であったりする。世界経済の動向という不可避が既に言葉のネットによるものである。
 ワルター・ベンヤミンは「パサージュ論」において住を基本としたパリの都市生活について、建築、デザイン、流行文学、市民によるアンティークの趣味といったことに目をつけ、様々なタイプの記述から引用し、時々自分のメッセージを挿入するスタイルでコラージュ的な論説を試みているが、その手法は明らかに既に出揃ったメディアを思考するために活用することで、様式美に対する言及となっているが、彼が本当に描出したかったのは、住を基本とした人間の深層心理なのである。それはプラトンが地下に閉じ込められた囚人が見た地上の姿の影を実体だと思っていたという有名な下りに示された実体と虚との関係で言えば、実際のモードが虚であり、実体は心の中の欲望だということだ。
 その欲望は現代社会ではロングテールビジネスにおいて大勢の人たちが一つの売れ筋の商品を求めている事実に対応するのではなく、個々の消費者のオタク的なニーズに対応して様々な商品を取り扱うというアマゾンなどの戦略などに見られるような欲望の一元化からの開放の意図もあったと思われる。
 かつて女性は深夜まで働くことなどなかったが、コンビニが24時間営業となってからは夜間に働く女性ことはタブーではなくなったが、昨今犯罪にコンビニが狙われるケースが多くなると、再びコンビニの24時間営業に関して待ったをかける考えも提出され、京都はいち早く実践しようとした(結局実現しなかったが)。
 つまり人間の新たな欲望は、何かそれまでに欠如していた状態が充足されると更新される。そしてその新たな欲望に対応した新種の犯罪が登場し、それを今度は防止する意図で新たな措置、新たなメディアや販売戦略が考案される。
 例えば竹中平蔵氏のニュースヴァラエティー番組中の言葉を借り「テレビは究極のワンフレーズ力だ」としたら、それは何故影響力が絶大であるかと言うと、「あなたとは違うんです」もそうだが、少し前では「弟です、息子です」がそれこそ問題化された時期には毎日何度も繰り返し映像が流された。それはプロデュースサイドの、そして局全体の意向だが、その反復から私たちはよりショーアップされた現実、つまり劇化された現実を目の当たりにする。そしてそれは完全なる受身としてである。そこでインターネットが存在理由を確保しているのは、ユーザー個々の意志でアクセス出来るからである。しかしテレビは絶対に観ないという人でない限り、ネットの現実はテレビの提供する現実と相互に影響し合っている。例えばネットで検索することは意外とテレビで得た情報を更に詳しくという形でなされることも多い。そしてテレビで頻繁に登場するタレント、コメンテーター、司会者などが示すメッセージが反復されることでその発信者の知名度をアップさせ、その有名な発信者によるメッセージが親和力を獲得していく。そして実際に会って話したりする時に持つ親和力や、友人と知人に対する親和力とメディア偶像や、メディアで偶像化された言説(「究極のワンフレーズ力」もそうである)との境界が曖昧化していく。親密度の指数の高い人物の発する効果的なメッセージは社会そのものが主客という形で形成されているという認識からではなく、より異なった要素を抱いた存在者たちが共存しているという現実(ハイデッガーの言葉を借りれば存在への配慮)、あるいは主従という形ではない相互依存という現実を基礎としている。そして現代のオタクとはその共存と依存の裏返しとしての自愛が基礎にある。
 本論に何度か登場した写真や映画といったメディアは純粋な視覚的メディアではない。絵画が実自体に対する内的な実という形での虚的実現であるのに対し、写真は実そのものを絵画手法によって示すのではない形での実自体の虚である。そしてそれを顕現されるものは機械という主観の欠如したメディアである。映画はそれに動きが、そして次世代では音まで加わった。そしてそれらのメディアが持っているのも親和力、つまり「見慣れたものを見慣れた仕方で知覚する」という欲求と願望の実現である。肖像画として描かれたモデルは、その絵を描いた作者とモデルの関係で見られることが多いが、写真に撮られたモデルは(報道写真であっても記念写真であっても)より撮影者よりモデルの実にまず目線が行く。(特別の腕の写真家によるものでない限り)そして写真で撮られたモデルが実際に目撃されることは、絵に描かれたモデルが目撃されるよりも虚と実の一致において前者の方が「本人であるための確認」上での信憑性が大きいことも手伝って、テレビに出演しているタレントやコメンテーター(ドラマの演技ではない形での発言等を通した)のメッセージがより強力に社会に対して波及力を持つのは、この信憑性と、映像を通して日常化される親密度である。
 ヒューバート・ドレイファスは「インターネットについて」で次のよう述べている。

 アリストテレス以来われわれは、より広い集合の下位により狭い集合を包摂するヒエラルキーを作って、その中に情報を組織するという習慣を身につけてしまっている。そこでわれわれは、事物から生物、動物、哺乳類、犬、コリー、ラッシーへと下っていくことになるのである。情報がそうした階層的なデータベースの中に組織されていれば、ユーザーは意味の環を辿って下り、特定の情報に行き着くことができる。その代わり、ユーザーはその情報を見つけだす前に、情報が属している特定の情報クラスに身を委ねることを強いられる。例えばもし私が亀に関する情報を見つけだそうとすれば、私はまず動物に対する関心に身を委ねなければならないのである。そして、一旦、データベースの中に動物系統へのコミットメントがなされたならば、私は、すでになされたコミットメントを逆に辿ることなしには、無限に存在するはずの他の問題に関する情報を調べることはできない。
 
 ここで示された考えは、哲学者の中島義道氏が大森荘蔵氏との対談での次の考えを私に連想させる。

 (前略)そこに馬が見え「馬」という名前を知っているからその物体にその名前を張りつけるという話ではなくて、むしろ馬という観念を知っているから、その物体が馬として見えてくるんですね。もし、馬という観念を持っていなければ、動物として見えてくるんでしょうね。動物という観念もなければ、物体として見えるでしょうね。物体という観念さえなければ、多分何も見えないでしょうね。全体に光の渦が巻いていて、何も見えない世界が広がっている、これがもしかしたら実在かもしれないわけです。(「たまたま地上に僕は生まれた」128ページより)

 この記述はだが極めて矛盾している。まず私たちは親しいものに対して命名されたものとしての自覚を持ち、然る後にその親しいものが何に属するかことを知る。物体を知り、そしてその中に動物もあり、その中に馬があるという順で知るわけではない。中島氏は完全に二十歳以上の大人の判断のみを哲学の基本としているから、そういう理念の上でなら理解出来るが、それは言語習得や生成論的にはナンセンスである。つまり馬という名指しとは親しいものを見て知ってそれを何と言うかということで対応させてまず知り、然る後に動物、物体と徐々にカテゴリーを理解してゆく(そこまで理解出来たら、馬そのものが観念であることも理解出来る。)が、全体的なカテゴリーを理解出来るようになっても、親しいものの存在理由的特異性は失われない。また最後の「物体という観念さえなければ、多分何も見えないでしょうね。全体に光の渦が巻いていて、何も見えない世界が広がっている、これがもしかしたら実在かもしれないわけです。」という記述は言語のない我々の世界に対する想定であるが、やはりそういう中でも漠然とした親しいものとそうではないものとの間の識別は恐らく可能であろう。ただそういう場合には確固たるカテゴリー的な記憶はなされないから、随時判断することだけの現実となり、常に不動の観念に支配されているというような状況は私たちに齎されないだろうからそれを現実と認識することも出来ない。
 ただ中島氏の主張で頷けることは、要するに言葉を身につけることが知覚を成立させているということである。言葉を身につけることがカテゴリー認識することと一致しているのだ。その意味ではネットの検索とはカテゴリー認識を形成しつつある子供のためにではなく既にそれを了解している大人のためのものであり、アリストテレス的カテゴリーは先に私が述べた親和力とは対立する。そして責任とは概してカテゴリー認識によるものである。つまり私には家族がいる。そして親友もいるし、ただの知人もいる。しかし私は私の家族や親友を愛情や友情の面では最優先しても、責任の面ではそれほど親しくはない人に対しても、親しい人と等価に払う必要もあるし、義務がある。それが社会の成員として生活することだし、公的なこととを私的なことと区別することだ。
 「女の幸せが欲しい」と女子中学生が公的に発言出来ないという気持ちは、それがかなり親和力のある内容のものだからである。最近ではテレビでも自分の母親のことを「お母さん」と言うタレントが多いが、韓国では他者に向けても「お母様」と言わなければならないが、日本語では本来親族とか同一集団の成員のことを他者には「母」とか例えば「内の藤村」と言う。つまり公的な場とは責任を遂行すべき場であり、家庭内とは愛情が第一に発揮される。故に「女の幸せが欲しい」と仮に娘が母親に向かって言ったとしても、母親ならその時「お前の気持ちはよく分かるけど、未だお前には早い、今は勉強をもっと一生懸命しなさい」と言うかも知れないし、「よく分かるわ。でも皆の前では特に先生の前なんかではそういうことをあまり言ってはいけないわよ」と言うかも知れない。つまり親和力とは公的にはタブー視される傾向があることだ。それはどこかで親和力がエロスと接触しているからだろう。だからあるタレントとかコメンテーターが異様な人気を博すことの内には彼らが何かしら性的なニュアンスに対しての親和力を発散しているとも言える。ここら辺の問題は社会生物学系列の生物学者たちによる性選択という考え方がより説得力を持つだろうが、ここではそれ以上は触れない。
 何故そのように時代が離れた二つの思想に共通点が見出せるか、ということの一つの回答を述べよう。私たちは既に人類発祥の段階から恐らく固有の他者に対する羞恥を介在させていた。そのことが例えば私が示す「女の幸せが欲しい」という発言を女子中学生に対して公的な場では憚らせるのだ。そして親和力とは人間がただ責任の遂行だけでは息が詰まるという良心(良心とは人間性というものをどこかで本能と直結させている)の側からの要請で、やんわりと唯責任論に対して抵抗しているのである。そしてこの良心の要請というところに親和力が介在するのだ。つまり親和力は公的な場で唯一許されるやんわりとしてソフィスティケートされたエロスの表現なのである。だからテレビで人気を博すタレントとかコメンテーターたちの所作がそのやんわりと示す固有のエロス表現があまり猥褻感を醸し出さないというところに我々に魅力を感じさせるのかも知れない。それは話題にしてもいい範囲内の存在なのだ。 

Sunday, October 25, 2009

第十二章 偶像と差別

 私たちが日常において何らかの判断をする時、その判断を支えるものとは意外とよくあることに、たまたま起こったことを結びつけている。たまたま起こったこと自体がかなりいいことであれ、悪いことであれそれを特別のこととして受け取ると大変なことになり身が持たない。だから本当に特別なことというのはいざという時にだけ取っておいて、それ以外はよくあることにしておくことが私たちが日常で取る態度である。よくあることというのは顕著な真理である。そしてそれは私たちが責任を負うことを拒む時にすることである。よくあることだからこそ、一々全ての他人の物言いに気にしないでおこうと思うのだ。だからいじめはなくならないことが前章の結論であった。
 例えば権力と無縁の多くの人間にとって権力とは責任を負う者の典型である。自分は責任を負う必要がない、何故なら自分には権力がないからである、というのが一般的に私たちの態度である。と言うことは逆にある者に真実に権力があると考えることは、その者を自分たちとは違うと差別していることを意味する。そしてそれは尊敬する対象、尊崇する対象にも言えることである。差別とは尊敬する者にも、敬愛する者にも、崇拝する者にも適用出来る(前章でも述べた)。
 例えばそれは私たちが他人にかける言葉にも介在している真理ではないだろうか?
 「あなたは別格なんですから。」
 「彼は努力したもん、君とは違う。」
 そう誰かに言うこと、それは尊敬する者に対しては、その者の力量で勝手にいいことをしてくれるのだから、こちらからは一切の責任は持たない、一切面倒など見ないことを意味する。つまり私たちは縋るものに対してはいつまでも自分が子供であることを決め込む。相手を大人として、自分を子供としておくことは端的にその者への責任を一切負わないという意味で、差別的である(だから子供の言動とは残酷である)。そのものに対して一切の批判を免除するという尊崇とは、そのものに助力することも拒否することだから、必然的にどこか軽蔑にさえ近い心理であると言える。
 だから何か優れたものに対しても、さほど普段接している普通のものと変わりない態度を採る時にこそ、寧ろそのものに対する愛情が溢れているとも言える。つまりそれが人間であるなら、その者は優れているけれども、未だ若いから失敗することもあるかも知れないし、思い上がるかも知れない、だからそういう時にははっきり彼に告げてやろうという思い遣りがあるからだ。それはその者と接する上で自分も責任を負うという決意である。
 だから逆に日頃誰か特定のアイドルとか、特定の人気者(どんな職業の人であってもいい)に対して贔屓感情を抱くことは、責任は一切こちら側にはないことを意味しているのであり、ある日突然そのアイドルが自分にとってあまり切実なものではなくなることも充分あり得る。しかし私たちにとって一般的に世間で通用するものに対する接し方とは大体そんなものである。
 それは言語そのもの、つまり名辞とか概念ということに対してもそうなのである。
 オタク、ヒッキー、フリーターといった言葉に自分を当て嵌めて、その帰属意識を盾に、それ以外の成員、つまり自分と共有し合う資質の一切ない成員を部外者とすることで、その者に対する責任を実は自分から免除しようと画策しているわけだ。被差別者が被差別ではない普通の人に対して仲間はずれにすることすら一つの差別なのだ。
 それは自分を公務員、官僚、会社員といった風に自己紹介する時に既に起こっていることである。それは偶像に接する時の心理を知らず知らずの内に自分にも適用しているのだ。
 マスコミは自分で言葉を捏造することを避ける傾向がある。誰か特定の言葉を編み出した人にこそその言葉を発した責任があるのであり、その者の吐く言説が流行すればそれを流すだけのことである(流す責任は取らない)。しかしその者の言説が顰蹙を買えば、ただちにその者の言説を流通させることをセーブするだけのことである。しかし先にも言った通り、私たちはそういう風に実体のないものとしてマスコミをしておきたいのだ。それは私たちが言語行為をすることそのものが、実は全ての責任を自分が負うのではなく、ある部分では自分も負うが、別の部分では積極的に責任を誰かに転嫁し、要するに責任を他者に委託していることを宣言しているからである。つまり全てのコミュニケーションとはこの委託が介在している。だからマスコミとはそういった私たちの深層心理を反映するものとしてのみ存在し続ければよいし、それ以上のものになる必要もなければ、そうなり得ないことを一番私たちが知っている。
 ヘーゲルの「法の哲学」の優れたところとは、端的に共同体の一つの究極的な完成態であるところの国家とは、私たちの内心そのものがそれを求めていること、つまり全ての責任を自分が負うことを回避し、責任を他者に転嫁することそのものにおいて共有した意識の所有者たちによる合意であるとしているところである。
 だからある意味では自己の職業に対する誇りとかプロ意識といったものは、あのマックス・ヴェーバーによる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」によっても示されていたように、それを持つことによって神との契約をなすという題目、大義名分と言ってもよいが、それを果たすことにおいて自分の就いている職業以外のものを他者に委ね、責任を委託し、転嫁し、専門外の事項を「自分には責任を持てないもの」であると差別化していくこと以外のものではない。ヴェーバーのテクストにおいて考えられている徳のようなものは、それを持つことによって社会機能が安寧に維持されていくための方便として採用されていると考えればよいだろう。
 だからある部分では積極的に自分が所属する職業専門分野以外のものを軽蔑したり、差別したり、関心の埒外に置いたり、それらの人々を敬遠したりすることというのは、その閉鎖的集団内ではかなり有効に権力機構そのものを安泰にするためには役立つことである。
 それは再び見方を変えれば、自分の所属する集団内のトップに対して尊崇の念を抱くことは、その者の責任を剥奪せず、その者に責任を委託・転嫁することであることと、自分の所属していない集団内でのいかなる委託・転嫁においても不干渉を決め込むという決意でもある。それは自分にとってのアイドルとしての権力者に対しても差別することでもあれば、自分のアイドルではない別の集団のアイドルに対しても差別することである。ただ自分のアイドルに対しては(特にその者の前では)尊敬の念を示し親密的態度を示すが、他にとってのアイドルに対しては軽蔑の念を、あるいは無関心な態度を示すという態度の違いがあるだけで、内的関係における私たちの両方のアイドルに対する距離の置き方並びに差別の仕方に寸分の違いが横たわっているわけではない。

Friday, October 23, 2009

第十一章 差別といじめの関係

 しかし誰しも差別はいけないことだとそう思っている。つまり言説的な理解、つまりモラル的にそう思っている。しかし差別はいけないが、多少のいじめなら誰しも大目に見てくれるのではないかと、そう思うからいじめは根絶されないのだ。
 私はいじめと差別を似たようなものとして前章では処理した。しかしそれはこの章の序章としての配慮からである。前章のおさらいをしておくと、本質を追求することを隠さない勇気のある者は、そう出来ない勇気のない者を知らず知らずの内に差別しているとも言える。ソクラテスはそうでなかったなら、処刑されなかっただろう。勿論それを敏感に察知する勇気のない者は勇気のある者に対して先制攻撃をしかけ周囲皆の合意で差別する。
 つまり差別される者、迫害される者とは、差別する者、迫害する者全般に対してまず自分から距離を作っている。それは差別される側に固有の差別する者に対する無意識的な差別なのである。たとえそれが宣言であっても、暗黙の態度であってもそうなのだ。
 例えば日本ではいじめというものは厄介だが、差別はいけないと知りながら、大勢の人たちは気楽に差別しているし、差別されることにも慣れている。
 例えばエリートとは大衆から差別されていて彼らはそれを受け容れている。裏方の職業の人たちと表方の職業の人たちは差別し合っている。営業畑にいる人と開発部にいる人は差別し合っている。ビジネスマンたちは全ての教育者(学者を含む)を自分たちより楽だと思っている。伝統芸能の人たちはテレビで知名度を上げることは不可欠な戦略である。本当は舞台を中心にして生計を立てたいと願ってもそれはなかなか大変であるし、テレビだけで著名なタレントたちのことを心底では自分たちとは違うと差別意識を持っていたとしても、そういう心理は顔に出てしまうので、表面だけ繕っている人はテレビでは重宝されないままでいるからテレビで活躍出来る人だけが生活に困窮しないでいられる。学者は芸術家とか芸人を尊敬しつつ差別しているし、サラリーマンを違う世界の住人だと意識する。また彼らは頭脳の官僚なので頭脳の政治家である評論家を見下す傾向があるし、逆に評論家は自分たちの方がより社会とかかわっていると考えている。舞台役者は舞台を踏まないテレビタレントを差別しているだろう。売れっ子のテレビタレントもまた彼らを差別する者を差別する。芸人は学者やエリートを差別する。既婚者は独身者を自分たちより気楽だと思う。経営者は株主を差別するし、株主も経営者を差別する。勤勉な人は、ルーズな人とか怠惰な人を差別するし、その逆もありだ。
 差別という言葉がよくないのなら、無縁と思ったり不干渉を貫き、敬遠していると言い換えてもいい。私が差別と言う時そこには軽い気持ちの自分の属する世界に対する誇りと、それ以外の人たちを別種に扱う(違う世界の人たちだと思う)心理のことであり、企業が営利追求のために差別化するという時の差別も広く言えばその一つである。
 勿論個人的レヴェルでは決してそうではない人もいるし、いつもそうであるわけではないものの、気楽にそういう気持ちになることは今言ったようなタイプのこととして誰にでもある。つまりこういうことだ。差別とはある意味では一つの意識のカテゴリーに属さない者を異分子として見る見方(彼らは自分とは違うという意識)のことである。だから差別とは端的に相手に対する尊敬においても成立すると私は考える。
 例えばもっと分かりやすく言えば、オタクとはオタク外的な人を自分たちの仲間とは見なさない。SNSとは、端的に仲間以外の人には知られないタイプのコミュニケーションである。これらは皆そういう風に閉鎖的に親睦を図ることを通してそれ以外の人たち、つまり関係者以外をシャットアウトしているのだ。そして固有の帰属意識を持つことによって部外者に対する無視を決め込んでいる。
 まさに「そんなの関係ない」なのである。つまり何らかの集団に属することとか、何らかの意識を誰かと共有することは既にそういった集団に属さない人とか、意識を共有し得ない人に対する無視の姿勢の表明であり、それ自体が一つの差別以外の心理ではない。しかしそうしながら、積極的に「自分は彼らを差別している」と言ってはいけないものなのである。これもまたジジェク的認識である。つまり差別は端的にしてはいけないと知りながら意外と安易に誰でもしているし、またされることに慣れているという部分すらある。しかしそれはそうしてもいいとは決して言ってはいけないことなのだ。
 しかしいじめはそうではない。いじめは軽いことであるなら許されるとさえ多くの人は思っている。いじめられたらいじめ返せとか、差別することはよくないが、せめて軽いいじめくらいならしても非難されないだろうとさえ多くの人は思っている。だからこそいじめは根絶されないどころか益々増加するのである。つまりいじめとはいじめられた側がいじめられたと意識することも多分に手伝っていて、いじめた側にはそういう意識ではないと考えている場合の方が多い。差別は違う。差別は明らかにそうしている側もそうしていると知っている。それがいけないと知っていながら、差別されること自体に差別される側が積極的に慣れ親しんでいる場合すらある。
 いじめという言葉が適切ではないのなら、嫌がらせとか、意地悪と言ってもいい。誰でも他人に厭な態度の一つや二つはとったことがある筈だ。しかしその時、相手はいじめとか嫌がらせとか、意地悪と受け取ることもあるだろう。それが積み重なれば必然的にいじめの成立と言ってよい。差別の場合予防線を張ることを未然にすること(敢えて誰かとつきあわないとか近づかないという選択肢が)が可能なのに対して、いじめは突発的に起きるからそうはいかない。
 例えば本当はそれをすることがよくないと知りながら、相手から黙認して欲しいのに、厳しく言及されるとむかっと来ることというのは誰しも経験あるだろう。例えば学校でクラスの誰かを茶化した生徒がいたとして、その者を「そんなことを言うものではない」と衆目の前で糾弾する生徒がいたとしたら、誰かを茶化した生徒はその正義の味方に対して強い恨みを持つだろう。つまり本当はいけないことと知りながら、それがいけないとはっきり言わないで済ますことの方が無難なケースも社会には多くあり、それを見過ごさないタイプの成員に対して概して我々は「潔癖」とか「融通が利かない」とか判断する傾向もある。いやその一言を意地悪と受け取るのだ。
 しかし茶化す相手を探すことも相手に対して明らかに差別していることだし、正義の味方の方も、どんな些細な悪も見逃さないという意味で、小さな悪の実践者に対して無視出来ないという差別をしている。だからこそ逆にそうではないつまり見逃してもいいものとしていじめとは存在する。しかし同時に今の例で言えば正義の味方が出現しない限りいじめはなくならない、とそう簡単にも言えない。つまり誰かにそのように言及された者は、却って茶化した生徒に対してそれまで以上に辛く当たるかも知れない。つまりたまたまそこに居合わせた正義の味方がいじめを黙認してくれなかったがために、「お前のために俺は恥をかいた」と最初はほんの出来心だったその茶化した相手に対する感情が本物になって、正義の味方のいない時には積極的にその者をいじめるようになる。これは殆ど必然的な成り行きである。そしてこれは差別ではない。差別はそうしていると公言してはいけないものなのに意識の上では容認されている。しかしいじめは黙認される可能性が極めて大きいし、こういう場合いじめる側も知っているからである。しかもいじめの場合親しい者同士ではない相手(部外者)に対してそうしたとしても、その親しい者同士では罪にさえならない。差別してはいけないという大義名分を果たしているのなら、別にそれくらい許されることを親しい者同士というものは考えの上で成立させる。
 つまり差別とは端的に誰でも軽い気持ちですることもあるが、理念的に正しくないと知っていることであるのに対し、いじめはよくないことであると知りながら理念的なレヴェルの問題にまでする必要がないと決め込んでいることなのだ。だからある店に見慣れない人や人種が入店することを拒むことは差別に繋がるからしないとしても、厭な顔をするくらいなら許されるという意識を持っていることがよい例であろう。そしてそれが積もり積もれば本当のいじめになるし、本当のいじめが恒常化すれば、それはれっきとした差別となる。そしてそうなったなら、いくら何でもいけないことだと殆ど全ての人は知っている。だからこそ小さなレヴェルでの嫌がらせとかいじめはなくならないのである。それくらい許してくれなければ息が詰まっちまうというわけである。

Wednesday, October 21, 2009

第十章 差別意識が発生すること

 差別とは本当のところ、差別される側が差別されたという意志を無意識の内であれ、意識的にであれ表示してしまうことに端を発するのではないか?つまり差別されたという意志を表示する行為自体が、差別する者に、意図的に差別する知恵を植えつけたのである。
 例えば職場ではそもそもベテランは新参者に対して差をつけたがるし、それはある程度仕方のないことだ。しかし新参者が差をベテランからつけられることによって新参者が不愉快であると言ったところで、新参者はベテランに代わって仕事をすることが出来ない。だから新参者に対するベテランによるいじめとかそういうことは殆ど人類の曙から恒常的なことだったろう。そういう風に差をつけられること自体が一つの問題としてクローズアップさせられてきたのは、ここ一世紀の間のことかも知れない。
 奴隷制のあった国でもなかった国でも恐らく何らかの形で人間社会に特権階級と、そうではない人との間での差というものは常にあっただろう。しかし差別というのは何らかの意味合いにおいて、差別されているという意思表示が比較的スムーズに出来る状態になってから顕在化したのであって、それ以前の、つまり差別を訴えることなど思いも寄らない状態の社会においては、たとえ行動において差別することがあったとしても、それを殊更差別であると訴える者など一人もいないという状態も多くあったと思われる。そういう状態の社会では構造的にも差別意識とか、差別問題がクローズアップされることすらない。しかしだからと言って、差別問題そのものがクローズアップすることによって、より差別される側がそれ以前の状態よりも救われるかと言えば、それは寧ろ逆で、差別されることをある他者に対して規定することそのものが既に差別であるから、差別とはそのように問題化すること、クローズアップすることそのものに存していると言えるだろう。
 例えばLGBTと呼ばれる性の問題にしても、そのような悩みは恐らく人類の発祥の頃からあっただろう。ただそれが一つの社会意識として定着することの背景には、そういうことに対する差別という意識が芽生え始めた恐らく近代という時代が必要だったのかも知れない。王政とか、貴族社会においては、寧ろそういう性の問題は恐らく多くの国では皆知っていても、一々問題化することなどなかったろうが、産業革命以降、徐々に働く者、とりわけ労働者階級が権力者から付与された職業意識を身につけるプロセスにおいて、差別意識を自らの誇りと一体化させて権力の側から認可された労働者の特権として、社会貢献している者に賦与される当然の権利として権力の側から積極的に黙認されていったのだろう。
 日本には貫通罪というものが廃止されて久しいが、韓国では未だにそれが通用しており、それだけ見ても貫通罪というものが一つの法による差別を意味しているように思われるが、それがいつ頃からあったのかは歴史家に教えていただきたいものだが、かなり古くからあっただろう。
 要するに差別とは、普通であるという意識がある種の誇りと一体化した段階で発生するのだ。要するに普通ではない状態に対して普通者たちが「あれは普通ではない」とそう規定するのである。
 しかし社会意識の変遷に伴って常に普通というものの定義は変わる。不変のものではない。そこでその時々で当然差別される立場の人の差別される理由も変わる。
 しかし難しいのは、差別する側が差別される側に差別することを促すものが、いじめと全く同じで自分が差別されたくはないという恐怖心自体であることだ。いじめは端的にいじめる側によるいじめられる側に対する小さな恐怖に根差す。当然差別もその点では同じである。
 例えば性の問題の場合、誰しも同性愛的傾向も、両性愛的傾向もある。しかしそれを殊更声高に自分もそうだと宣言することに対して多くの人はただ躊躇を抱くだけのことである。そしてそれを声高に叫ぶ、そうであって何故悪いと叫ぶ勇気のある者に対して叫べない勇気のない者が「そんなことは止めろ」という意思表示として差別し始めることは考えられる。「お前がそんなことを叫ぶのなら、俺が黙っていることに示しがつかなくなるじゃないか」という非難が物事の本質について叫ぶ者を諌める立場の人の心理なのである。そのような本質追求的なスタンスに対する端的な恐怖が差別を構成するのだ。
 だから「女の幸せが欲しい」などと恐らく多くの女子中学生も心の中では抱く。しかしそれを口に出す生徒がいてそれを黙認したたままにしておくと、自分もそのように告白しなくてはいけなくなることに対する恐怖が、世間一般の生徒の本分という通念によって、正直な生徒を爪弾きにしていくという仕掛けである。
 本質を追求することとはいつの時代にも疎まれることなのだ。
 しかし面白いのは、最初に本質を叫ぶ不心得者を糾弾する成員というのは、彼以降にそうする者よりは多少の勇気が要る。つまり最初のいじめ者とか、最初の差別者は、二番目以降の者よりは勇気が要るのだ。そこで一番勇気のある本質を叫ぶ者を諌める立場に立った二番目に勇気のある者を三番目以降の者が立てることによって自分の安泰を保証しようとするのである。全ての付和雷同はこの点では一致している。ある意味で全ての権力とはこのようにして発生していったのかも知れない。権力とは必ず権力から弾き出される犠牲者を必要とすることだ。
 それに一つの差別が克服されると今度は全く今までにはなかった新しい差別を作り出すのが人間である。それはまるで新種のウィルスのようにどんどん更新されていく。そして常に差別される立場を作り出そうとしている立場の人というのは、そうすることによって常に自分だけは差別されないような立場に自分を持っていきたいこと以外の心理にはない。
 ある意味では差別することがいけないことを一番実践しているのは本当の意味での宗教家だけかも知れない。例えば科学者は科学的真理に疎い者を知らず知らずの内に差別しているし、哲学者もまた非哲学的思考の人間を差別している。芸術家は彼らにだけ理解出来る芸術的なモードやクオリアを理解し得ない者を差別するし、政治家も、経済人も、ビジネスマンも全てその世界での非常識者に対して差別する。その差別そのものがいけないと考えているだけでも宗教家は偉い。例えばオタクや引き篭もりについての記述を真に理解するのは彼ら以外の人たちである。従って私がもしこの論文を私と似たようなオタクや引き篭もりに向けて書いているとするなら、それはサルトルが「存在と無」を理解し得る者はそれが奨励していることを実行することの出来ない人たちであるというジレンマを味わったと似たようなことを味わう運命にある。しかし宗教家なら私より巧く効果的に、しかしそれを戦略的ではない形で私が伝えたい人へと私が伝えたいことを伝えるだろう。(第十一章参照、次回更新予定)
 例えばマスコミというものは社会が差別したいと望む者に対して全て差別を決め込む。それはそうすることで全ての責任、責任には本質追求もあるのだが、それを回避することが出来るからである。(だから社会から糾弾された者の失点を追い討ちをかけるように報道する。最近では朦朧会見大臣の辞任以降の報道に顕著だった。氏が急死されたこと二間しては哀悼の意を表したい)端的に差別する者の意識に最も顕著なことは、差別意識は責任を負いたくないことに責任を負おうとする者に対してなされるということを差別者がよく知っていることなのだ。つまり責任転嫁とはそれだけで一つの差別なのである。責任を負いたくはないと思っている者が、責任を自ら背負い込む者に対して責任を極度に押しつけることそのものが小さな差別以外のものではない。
 しかも性の問題における差別とは、それが羞恥の問題に抵触しているからなかなか厄介なのだ。羞恥レヴェルの本質に対する追求者に対して、追求回避主義者たち(かなり殆どと言ってよい人たち)は、概して羞恥的なことをそう声高に叫ぶなとそう言いたいのである。「お前が叫ぶから、俺も叫ぶことをしないでいると勇気がないと言われるじゃないか」ということは既に言った。もしこれがもっと生活レヴェルの権利要求であるのなら、勇気を捻出することも勇気のない普段叫ばない人さえある程度容認するかも知れない。しかし羞恥的な部分のこととは、そうは問屋が卸さないのである。つまりそれは個人的なことだから、勇気を持つ必要がないとそう多くは感じてしまうのだ。またそれは責任を持つ必要もないと感じることでもある。例えば貧乏であることを蔑むこと自体があまりよくないことは殆どの人がそう感じているのに、性的な快楽とか、性的な安心感の個人差について差別することそのものに対してひどく嫌悪を感じるという人間は貧乏人に対して差別する人よりもかなり少ないというのは事実である。だから多くの性的に正常ではないと自分で思っている人たちは自ら名乗り出ようとまでは思わないままでいることが多いだろう。
 勿論性的な問題においては昨今かなり表立った差別は影を潜めてきた。しかし表立って差別することが影を潜めていることは差別がなくなったことを意味しないのは当然である。例えばアメリカで奴隷制が廃止されてから黒人に対する差別が本当の問題となっていったように、影を潜めてからが、本当の差別が誕生する時期に入ったと言ってよいのである。私の中にも差別したくはないが、知らず知らずに誰かを差別していることに気づく瞬間がある。そしてその時私は端的に何かに対して怯えているに違いないのである。つまり自分以外にその怯えに対して勇気を持っている人がいることを薄々気づいていて。

Tuesday, October 20, 2009

第九章 書くことの起源と葬列の順位

 フリーターよりもニートは更に格下であると考えている人が大勢いるかどうかは定かではないが、少なくともフリーターはその日の稼ぎ自体がどうにかこうにか何とかなるという式の生活である以上、働く意志だけはあるわけだから、まあニートよりはずっとましと考えておられるなら、そうでもないとだけは言える。
 要するにニートとは働いていない上に、学業も修めていないし、就職予備軍として訓練を受けてもいないという定義だそうだから、始末に終えないようだが、思考・想像だけは自由なのだから、空想したりする時間だけはたっぷりあるというわけだ。しかしフリーターとなると、その日食えることは食えるが、日常生活自体に疑問を何ら抱いていないという場合であるなら、それはそれで向上心がないわけだから、ニートより将来の可能性はないかも知れない。尤も本当に今しているフリーターの業務が自分に向いていると思えるのなら、それもまたいいかも知れないが。
 ニートに話を限ろう。何とかネット配信にかかるだけの金は捻出し得ることを条件に考えてみよう。もしそういったことに該当する人が、読者の中にもおられて、今日一日中ネットサーフィンしていたのなら、その日に見たブログとかホームページとかネット上でのデザインとか興味を惹かれたものとか、要するに気になったものだけでもいいから書き留めるのだ。つまりネットであったことを日記にするのだ。そう語られるタイプの人はまずブログさえ拵えていないだろうから、ブログを拵える余裕のある者は何も言うことなどない。しかしブログは書いて出す以上、それ相当の何らかの反響を得ることを、いい意味でも悪い意味でも覚悟しなくてはならないが、自分で日記をつけるだけであるなら、そうでもないし、第一もっと自由気侭に何かを書き留めることが出来るというものだ。
 あるいは古代の人々にとって書くという行為はそういうことだったのかも知れないし、あるいは一握りの人だけが書くという行為をしていたのかも知れない。しかし私が問題にしたいのは、そういうことではなく、もっと書くことの起源とは一体何だったのかということなのである。

 マスコミはニュースを報道する時ある一つの重大な前提を彼らが設定して報道していることそのことは誰にも告げない。それはマスコミがそれを報道するサイドにとって、対象となり得る視聴者とはそのニュースであれ、何であれ安全地帯にいてゆっくりとした状況でそれを受信していることである。
 今現在何か差し迫った状況にある人にとってゆっくりテレビの画面を見ることも、文字を読むことも出来ない。尤もどこかに監禁されている状態ででも、私たちは監禁された部屋にあるテーブルに置かれたその日の新聞の文字を拾い読みすることくらいなら出来る。
 でもそのような状況というのはあくまで特殊であり、そういう状態では安心して文字を読むことなど出来はしない。要するに報道されるニュースというものは緊迫した状況を伝えていても、それが国民全体の関心事項であっても、そのニュース等を受信するサイドはゆるりとそれを鑑賞するように見ることが出来ることを暗黙の前提にしている。つまり火事のニュースや交通事故のニュースも、そのことによって病院に運ばれている最中にそのニュースを見ることなど出来ないことは、要するにマスコミは歴史について言及したとしても、その時あった大ニュースを報じていたとしても、それは安全地帯にいる人に対して「あなたはでもこのニュースをゆっくり見ることが出来てよかったですね、お互い災難にこれからも遭わないように気をつけましょうね。」という挨拶としてそれらの報道が機能していることを我々も重々承知しているのだ。
 これは報道全般が私たちの日頃の関心事項に沿った形での好奇心を充足するための道具として機能している証拠である。つまりそのようなものとして全ての情報は、それを摂取するサイドが好奇心を抱くようなものとして拵えられた作為であるという機能的な存在理由は、古来からそうであったのではないかと私は思う。
 文字を読むことは、文字を読ませたいという心理によって拵えられた執筆者の術策に嵌ることを意味する。しかし術策に他人を嵌り込ませるという意識は、何らかの形で他者に対する思い遣りが前提されている。つまり他者を向こうから主体的に巻き込むことの内に、既に巻き込まれる側からすれば、巻き込もうとする立場の人から親切を得るという意識にさせられていることだから、必然的にまず他者に対する思い遣りと、それを受け取るという最低限の人間関係的な儀礼が存在していなくてはならないだろう。それは声を出して何か喚くことだけとっても、そういうことをするのが人類の発話行為の起源であったとして、その行為を相手にただ唸り返して非難するような目つきではなかったことだけが、その後言語行為を人間がすることになった最低限の条件である筈だ。つまりある成員がそういう習慣のなかった時期に、偶然的にか意志的にかはともかく、取り敢えず何か感情とか、相手に対して知らせたいことを唸ることによって遂行し得たからこそ、その後私たちは言語行為によって意思疎通し合うという歴史を持つことが出来たのだ。
 私たちが歌を歌う方が言語行為をするよりも先であったことを人類学者たちは考えているようだが、書く行為も、それが文字のように正確なものではないのなら、かなり言語行為定着以前的にあった可能性も考えられよう。それは絵のような形象を描き、それを指示し合うという性格のものだったかも知れない。
 しかし相手を自分の術中に嵌めることは、ただ音声を発することでも成り立つことは既に述べたが、そこには他者存在を自分はあなたを通して容認しているのだという表明ともなっているその発声行為の理由づけそのものが他者に向けて発声することにあるのなら、そこには他者‐自己の間で感情的交流、つまり思い遣りが、心的に用意されていることを意味する。
 スティーヴ・ジョーンズは次のように「遺伝子=生∣老∣病∣死の設計図」(河田学訳、白揚社刊)において述べている。

 豊かな国では、家族に何人が生き残れるかという点での家族間の違いは小さくなっている。これは自然選択が働く余地が小さいことを意味するが、一万年前は、生存競争が実際に大きな意味をもっていた。洞窟の墓で見つかった骸骨を調べると、二十歳になるまでに生き延びることができた人間はほとんどいなかったことがわかる。もしも古代における出生率が現在部族生活を送っている人々の出生率に近かったとすれば、女性は一人当たり約八人の子供を生み、その大部分が若くして死んでいったことになる。人類の進化の歴史の一〇分の九に当たる期間は、社会は村の学校さながら幼児やティーンエイジャーがその大半を占め、それを数少ない大人の生存者たちがうるさがる、といった具合だったのだ。人が死ぬといえば、そのほとんどすべてが次の世代に遺伝子を残す期待がもてたはずの若い人の死亡であったから、これは潜在的に自然選択の原材料になっていたはずである。今日では状況は一変している。イギリスでは新生児100人中九人までが十五歳まで生き延び、幼少期に死亡(かつてはこれが自然選択の形態としては主流だった)を通して働いていた自然選択はほとんどなくなってしまったのである。(第十六章 ユートピアの進化中、354~355ページより)

 つまり私たちの祖先の大半は、このような社会状況の中で、若い死者を葬礼する必要性があった。すると、必然的に死者を弔う立場は、多くが若年者であったろう。しかし社会そのものの運営はやはり年配者による采配が主だっただろうから、当然葬礼において、葬列の順位は、年配者が死者の時には、家族以外では年功序列のようなものがあったとしても、若年者が死者の時には、若年者同士親交の深かった者が葬列で最優先されるというような思い遣りが年配者によって施されたかも知れないと私は考えている。すると年配者によるあまり長く先まで生きられない可能性の大きい、自分よりも若い人たちに対する意識そのものが思い遣りの萌芽であるのなら、若年者同士の葬列において「若い人には若い人だけにさせてあげる」という意識から、必然的に同年の親友を失った若年の葬列者に対して「一人でいたいだろうから、そっとしておいてあげる」という意識を生じさせたとしても不思議ではない。つまり社会全体の責任論的な立場上での優先順位とは別個の思い遣りという良心的発現こそが、一人でいさせてあげるという、社会秩序外的なプライヴァシーの確保を生み、引いては言語活動において、音声を顕現させるだけのものから、一人で読むという行為、つまりプライヴェートな時間を成員に賦与するという意識を育んだと見ても強ち間違いではないだろう。
 ニートや引き篭もりの起源とは、実はエクリチュールに対する受け取りという行為に既に萌芽としては顕現していたのである。労働は肉体労働を基準として私たちはともすれば考え勝ちであるが、実際文字にかかわる仕事というものは本来的にはフリーター的性格よりはずっとニート、引き篭もり的性格のものである。しかし世の中は認められた才能の人々、作家や評論家、あるいはコメンテーターといった文化人に対してはそのようなレッテルを貼ることをせず、賞賛し、片や引き篭もりタイプの人々や、ニートに対しては冷たい視線を送る。そしてフリーターに対してはまだ身体を動かすだけまともであると捉えるのだ。しかし人間は肉体労働に関してさえ、実際には他者から伝達された要望に受け答える形で身体を動かし、それはそれで既に言語行為の一環なのだ。そのどちらが尊いというような価値判断が成立するとしたら、それは死者に対して私が他人の中では一番親しかったのだと葬列を巡って争うのに似ている。それは個人的な経験に根差す偏見でしかない。肉体労働も尊ければ、頭脳労働も尊いとしかいいようがない。小中学校や、高校、大学、果ては会社や学者の世界等でも顕在化しているいじめとか派閥争いの発端となっているのは、全てこの個人的経験に根差すある種の自己本位の偏見以外のものではない。そこにあるのは、端的に論争とか対話が完全に不在な思考停止状態以外のものではない。つまり情緒主体の行為意志決定論なのである。
 しかし文字を読むという行為に内在する一人で行うことは、私たちが成年に達するまで行ってきた教育機関における朗読とか、英文読解とかで行う集団による同一テクスト、同一言説への追体験とは異なった、つまり目的論的には明らかに「一人でいる」=「一人でいさせられる」=「一人にしてあげる」という「ほっといてあげる」型の社会成員に与えられた権利と相互に気遣う思い遣りに端を発しているとは言えないだろうか?いや学校でもそれを集団で行うのは、あくまでいつかは一人で全て執り行うことが可能になるような教育者からの配慮によるものである。
 しかし本来一人でいることを与えられた時間と空間での文字を読むという行為の定着は勿論最初は公示のような表示性からスタートしたかも知れないが、それとて各自勝手にその文字を目に留めるという性格のものである。そしてこの公権力による公示に内在する通達性ということが、エクリチュールにおいても「一人にさせてあげる」と「公認された文字を通達する」という二つの性格を同時に帯びさせることになっていたことが、この言語偶像化論の骨子である。
 つまり文字を一人で読解することの内には、必然的に「一人にさせてあげる」も「完全に一人で生活しているわけではない」、つまり文字を読む側に文字を受け渡す文字を記す側の立場、つまり「一人でいる今のあなたは本当は一人ではない」という発令としてその通達を読む側が意識し、そこに「一人でいることは、皆で生活することの一部である」という意識を生じさせる。つまりそれは国家を論じたヘーゲルの「法の哲学」の視点でもあるところの主体的、内発的な要求によって、一人で生活することをたとえ選んだとしても、それは、皆で社会秩序を構成することに供せられるのだという認識を通してエクリチュールに接する側の者がそれを発する者(それは概して権力者である)に同化しようとすることとなるのだ。ここに葬列の順位から発生した思い遣りは実は用意周到に人間の無意識が書くことが権威的な行為であり、読むことがその権威を容認する行為であること、すなわち葬列の順位がたとえ年長者よりも先であったとしても、それはその権利に与かった若年者にとっては一時的な年長者からの配慮でしかないという意味合いで必然的に権力機構の一部に自ら率先して組み込まれることを望み臨むことだからである。
 要するにただ酒ほど高価なものはないという喩え通りなのである。この見解は幾分スラヴォイ・ジジェク的である。しかし人間はある意味では制度を受容する仕方、そして欺瞞的な正義を仮面のようにつけて生きていくという決意の中からしか真の自由を発想することは出来ない。だから当然思い遣りも、権力を滞りなく遂行したい権力者の側からの配慮以外の何物でもないことを、非権力者の側もよく心得ていて、その同意の中で非権力者には非権力者なりの安寧を求めて、同意しやすいタイプの権力者を選ぶことの自由を少なくとも現代では保持しているように見える。勿論それは比較的最近の歴史においてである。
 しかし昔はそもそも権力とはいつか知らぬ内に誰かの手によってどんどん持ちまわされていたことかも知れない。しかし少なくとも言語行為が常習化していった頃の人類は、思い遣りという名の言語的な制度を恐らく私的な時間とか、私的な空間を権力者が非権力者に与えることによって何らかの形で自分の権力に逆らうことを未然に防止するような措置として人類が利用していたのではないかとだけは想像し得る気が私にはするのだ。そして一旦言語のそのような仕組み的思い遣りが組み込まれれば、言葉の仕組みに対してそれがいいとか悪いとかもう問うことをしなくなるのが人間だったのだろう。勿論書くことそのものも一般の市民がするようになるのに時間がかかったというのが歴史の実情であろう。しかし少なくとも書くという行為は、一人でして、一人で読まれることを前提としていることの方が多かっただろう。公示とはその前提の上で成立していたことだ。
 ほんの一握りの人によって書かれ、読まれていたにしても、それが一人で書かれ、一人で読まれることの内に既に思い遣りという制度が言語記述行為においても組み込まれていたことだけを本章では強調しておきたい。

Sunday, October 18, 2009

第八章 書くことと書く内容(伝えたい内容)

 書くこととは、書く内容が書くに値するものであるかどうかを書くことによって示してくれる。人に対して発話する時には、そういう試行錯誤がとんでもない結果に終わることがあるから、予め言おうと思っていることがその人に対して適切に聞いて貰えるかということを考えなくてはならないが、自分一人で誰かに読んで貰おうと未だ考えていない段階ででも、私たちは何かを書くことなら出来る。
 何故書いた内容そのものが書くほどのものであるかどうかを示すかというと、書くという行為においては、物事に対して理解する(何が大切で、何がそれほどではないかに関して)ことが出来ているかどうかが書く内容に対しそれが書かれるべきことであるかどうかを決する基準だからである。だから必然的に書かれた内容が書かれるほどのことはないと感じられるとしたなら、それは私たちがそれを書いた時あまり物事に対する理解を通して書いてはいなかったことになるのだ。
 これは前章において孔子の言葉から考えたことと関係がある。
 つまり一方で言葉は、言葉自体の力以外のものではなく、その言葉を言うのに相応しい人を選ばない。しかし他方、その言葉を書く際に、その言葉が説得力を持つかどうかとなると、途端にその言葉を書こうとする者の世界に対する意識の在り方が反映するのである。
 あるコンサート会場での熱狂というものは、そのコンサートで奏でられている音楽自体に対する関心と共感なしには理解することは出来ない。例えば哲学を映画に求める人は、スティーヴン・セガールやジャン・クロード・バンダムが主演の映画を見に行こうとなど思わないだろう。映画は哲学的では全くないものにも存在理由があるからだ。彼らの映画を鑑賞することが好きな人の前で映画と哲学との係わり合いなどという会話は不適切だろう(尤も映画の仕組みを考えることは哲学でありドゥルーズもジジェクも書いている)。
 つまり何かに対して関心があることは常に同時に、自分にとってまるで関心のないものに対しても常に関心を抱く他者は大勢いるのだということに対する理解と共になされる心的作用である。
 それは言葉自体にも言葉の受け取り方自体にも内在している。ある言葉はある状況においては親切な一言であるが、別の状況ではその言い方がいかに丁寧であっても、いや丁寧であるが故に却って辛辣である場合すらあることである。
 例えば「お荷物」という言葉は、ホテルなどで従業員たちが宿泊客をもてなす時以外では通常、厄介者という意味以外のことではないし、「お断りする」こともデートの誘い文句に対する言い返しの言葉であるなら、辛辣な拒否宣言以外のものではない。
 私たちは何かに熱狂することを人に公言する時、その熱狂自体に対する少なからぬ共感を求めていると同時に、そのように期待すべき共感を得られないことも常に充分有り得ることを承知でそう言っているのである。それは要するに自分が熱狂したり、関心を抱いたりしているものとは、あくまで自分にとってはそうであるだけのことであり、それに対して全く無関心であったり、共感し得ない大勢の人がいることを前提にしてあるものやことに熱狂し、関心を示し、共感していることを自分でもよく知っているのだ。また同じものが別のあるタイプの人々にとっては極めて不快以外の何物でもない場合も往々にしてあることも知っている。それは一つの語彙が示す意味合いが状況次第で全く語彙の意味を変えることと同じである。あるコンサート会場とはそのコンサートをするミュージシャンが嫌いな人のためにコンサート状況に供せられているのではない。
 マスコミは取るに足らないこと、そして興味本位のことを寧ろ本質的なことよりもクローズアップして伝えようとする。しかしそういう興味本位のことを大衆が望んでいるという図式を、寧ろ私たちの方が容認していることの方が重要である。下手にマスコミが本格的な情報機関と化したなら、その方がずっと恐怖を感じるという考えがどこかに私たちの方にある。だからマスコミに乗せられた情報が、大衆的視点のものであると「たかがマスコミの垂れ流す情報ではないか」と逆に安心するのだ。
 しかし自分にとって切実なものはどのような情報であれ、どのようなジャンルのものであれ、真剣に報道して欲しいと、自分にはさほど関心のないものはあまり注意を払わないようにマスメディアを利用している。そしてどうして自分の関心のあるニュースだけ小さく扱われているのかと疑問に思ったりするものだ。つまりどのような趣味を持つ者でさえ一応情報を満遍なく摂取することが可能なように機能しようとするのがマスコミなので、私たちはその中から好きな部分だけをピックアップしてこざるを得ないというわけだ。そして本当に熱狂出来るものは寧ろあまり大勢の人にとって切実であって欲しくさえないような心理でいる。「俺たちだけが贔屓にしていればいいんだから、あまり有名になって欲しくない」とまで思ったりする。
 マスコミは常にニュースソースを探しており、そのために必要以上に変革が必要なのだ。そこでいつ政権交代があるかというような論調で捲くし立てることをするように新世代のスターを各分野で物色している。あたかもそれまでの権威が失墜して、新たな存在が全てを担えるかの如きイメージでゲストに迎え、意見を拝聴するようなポーズを取る。だからマスコミをただ享受する立場の私たち一般は、そのようにマイナーな立場に身を寄せる人々にとってだけ偶像であったものが、一般大衆全般の共有財産になってしまうと、そのように一般偶像化されたものを褪せたイメージで見るようにもなる。つまりオタク的熱狂対象とは少々マイナーなものに限るというわけだ。そこでそのマイナーな存在に対して着目している立場の人はマイノリティーであればあるほどお互いに示しがつく。そこでそういった人たちの間では妙な連帯感が生じ、まさに関係者以外立ち入り禁止という立て札に示されるような特権意識がこの人々の間で広まる。しかしそれも時間の問題で、やがてそのマイナープレゼンスはメジャーへと転向していく。そうなると今度は最初にファンだった特権階級は解散し、体制側のマジョリティーに対して批判的眼差しを向け、もっと自分たちに相応しいマイナーな存在を物色するようになる。常にその繰り返しなのだ。
 このようなマイナーな偶像、しかも自分たちだけの偶像に対する信奉は、しかし一方では本当にメジャーなものの中でも許容し得る存在に対する通り一遍の偶像化作用と常に歩調を合わせてもいるのだ。つまり私たちは一方でメジャーなものを容認しながら、同時にマイナーなものにも奇妙な執着を見せる、またそのようなものをメジャー以外で確保しておくことによって精神的なテリトリー、他者には容易には踏み込まれ得ない安全地帯を確保しておこうと画策してもいるのである。この世間一般の偶像化作用を踏襲しつつ、他方マイナーな存在に対してオタク的熱狂をしているという奇妙な二つの存在における往来とは、常に相互に促進されており、相互に補強し合っている。
 この章では書くという行為においてそのことを考えてみたいのだ。
 デリダは「言葉はそれを考えることと、発することの間に常にずれがある」と考えたと私は言ったが、それは表象という言葉で置き換えてもよい。表象を保持するとは不在対象に対する現前化作用ということだ。そしてそれは言葉を発する上でも、書く上でも立ち現われるが、それは思考・想像の自由の領域においてであり、何か書かれたものを読むという行為においても、その書かれたイメージを想像することにおいて私たちは読む行為の時間と、その読んだものをイメージとして纏めてそれを糧に想起したりする時間との間にもずれがあるし、書いた人は、それが読まれる間に全ての読者との間に時間的なずれがある。書くという行為は書く人にとっては、自分が考えたことを一旦書くために纏めて、更にそれを書き、文章としての体裁を取らせて、そしてその出来上がった文章を推敲し、それを出版社なり何なりに渡し、そこで出来上がったものはあたかも他人が書いたもののように自分でも接することの内には、まさに四回もの時間的なずれを経験していることである。
 マイナーなものに対する着目は常に文章を書こうと思っている人たちにはつき纏う。権威主義からの脱却を試みている全てのライターたちにはそれがある。だから時に新しい主義や、イデオロギーを書くことで試みるタイプの論客たちは敢えて省みられなくなった作家や、評論家、文学者たちを再評価しようとする。そこでもオタク的な特権意識が生じており、それが広まってメジャーになり過ぎると、途端に興味が失せ、新しいオタク対象を模索するようになるという筋書きである。尤もそこで得た既得権にしがみつきながら生涯を幸福に終えたいというのも一つの選択肢である。
 デリダにとっての師であるハイデッガーはまさにディルタイたちに対して着目したことで、生の哲学という領域を現象学と融合させようと試みた。ハイデッガーはプラトニズム、つまり物事の裏に真理、イデアがあるという考えに抵抗し、現象されるものに立ち戻るためには、ソクラテス以前へと回帰する必要性があると考えた。その考えは確かにデリダによって音声中心主義に対する抵抗として蘇っている(私たちは文字表記を巡る痕跡によって逆にパロールを遂行しているという考え。原エクリチュールのこと)が、ソシュールの時代には逆に意味中心主義に対する抵抗から通辞的な通史観的歴史観から、ラングという名の共辞的意識へと私たちの関心を移行させようと試みた。つまり恣意性という考えは、「私たちは言葉に勝手にそれぞれ音をつけている」という現実へと私たちの目を移行させようと試みる中でなされた意味の呪縛からの開放の意図もあったのである。
 しかし意味は発声でもあるし、文字そのものに意味作用的な制約を与えていることでもあるが、同時に心の中で不在対象に対する想起促進としての現前化作用でもある。つまりここに書くことそのものが、書く内容の選択以前、既に不在対象に対する想起という思考・想像の自由の領域での心的作用であることを意味している。つまり伝える内容は「伝えるべき内容」へと検閲されて整えられてから、発せられたり、記述されたりする。それを促進することが身体的な話すという行為とか書くという行為だというわけである。
 あらゆるマニフェストはメジャー志向のものであっても、最初はマイナー化されているものに対するメジャー志向的着目を題目とする。「これこれこういう存在は、今まではマイナーな地位に甘んじていたが、それはおかしい、今までメジャーとされてきたものの方こそエピゴーネンにしか過ぎないのではないか」という提言がなされるのだ。要するに書く内容はその都度歴史的な認識における文脈主義によって個人に齎される。しかし本当の自分というのはどこにあるのだろうかと訝るタイプの読者もおられるだろうが、では本当の自分、つまり歴史とも、他者とも一切かかわりのない形での純粋な自分など成り立ち得るだろうか、あるいは意味がある考えなのだろうか?
 勿論ある時代には常に様々な考え方が犇めき合っており、それらが競合すること自体に私たちは向き合っており、その中で特定の何らかの考えに惹かれ傾斜する。しかしある考えは、その考えに対する批判とか、対立する意見と共存し、相互に存在規定し合っていることによって意味を得てもいる。ソシュールはソシュール以前の全ての言語学によって逆にその存在理由を得ていて、ハイデッガーもデリダもそうなのだ。
 私は私以前に書かれた全てのテクストのお世話になっているし、私自身の考えは、過去の何らかの先人たちによる考えたちの複合であるとも言える。しかし重要なことはその様々な考えや作品の中から私は私なりに幾つかのものを常に選択していることだ。その選択が「伝えるべき内容」が形成されていく本論で繰り返し論じてきたことと同じように書く行為には顕在している。だがそれは書く行為を自己によって確かめるという作業において顕在させること、つまり自分の中の他者と出会うことによってなのだ。

 ところでオタクについて少々拘ってみると、この言葉はここ十数年の間に定着した言葉だが、新しい社会現象ではない。もっと昔からずっとこのような心理はあった。しかし戦中、戦後社会においてそういう個的な心理は、社会という外部的な大問題とされることの影に隠れていただけのことである。引き篭もりさえ新しい社会問題ではない。ただそれ
が社会問題化されやすくなってきたというだけのことである。
 それにネット社会がそれを助長しているという論調も説得力がない。それを言うなら読書の虫のようなタイプの人こそ最も引き篭もりである。書くという行為に拘ることもまたそうである。読書やものを書くことは尊いとされ、ネットに嵌り込むことを悪と見なす考えは安易だ。寧ろ私が先に述べたように個人的な特権的偶像を所有したいと望む心理の方に着目すべきである。カルト的信者としてのファン心理において顕著なマイナー・アイドルに対する崇拝心理こそが、生活態度にまで引き篭もりとかオタクを作る。それは反体制とも違い、もっと本質的に人間が社会的存在であることを知っていて、敢えて一人で過ごすことの意味において問われるべき筋合いのものである。
 そもそも日本人は土居健夫氏が「「甘え」の構造」において指摘したように意識の上で集団帰属性が強く、集団の利害を最優先するという性格から、精神的不安定要因を極度に嫌い、羞恥の対象とするところがある。しかし精神疾患を隠蔽する羞恥は、欧米ではあまり見られない。欧米では既に個の内的関係における苦悩の除去が観念として定着しているからこそ、例えば米国は精神科医が一人につき必ず一人はいてそれを隠しもしないのだ。
 しかしオタクとはオタクの人間が犯罪を引き起こすと、途端に生活態度からして、犯罪要因のように語られることも多いが、本来犯罪を引き起こすのはオタクであるというのは偶然的な条件に過ぎない。しかも引き篭もりとはいけないことだという観念があるが、それは生活態度において集団にほどよく同化することが価値だという先入見から来る判断にしか過ぎない。一人で部屋に閉じこもって行う仕事も世の中には多く存在する。そういう仕事に向いたタイプとして一つのタイプにしか過ぎないという判断が起こらないのは何故なのだろうか?
 それは引き篭もっている人たちの大勢が集団に対してある種の恐怖を抱いているからだろう。しかしそれとて例えば両親が死ねば、必然的に両親からの介護を求めることなど出来なくなるのだことは一番本人が理解しているのではないだろうか?
 それは自らの失敗体験によるトラウマの問題なのだろうが、例えばものを書くという行為はよく考えると病的な行為である。それは他人と会話するのとはわけが違う。つまり一人で文章を書き、一人で読むという行為には必然的に引き篭もる様相が伴っている。しかも書くという行為を持続するためには人とあまり多くを話さないという決意も必要だ(特別執筆欲を催させるタイプの友人がいれば別であろうが)。ならば引き篭もっている人にしか出来ないことを彼らに要求することを試みるのも必要かも知れない。勿論最初はそれさえ断るかも知れないが、少なくともネットを通して彼らの言い分を聞くようにすれば、それも可能となるに違いない。彼らにとって伝える内容とは、伝えるべき何かということに対する規制に対する恐怖によって閉ざされている可能性があり、それを解除するには、伝えたいことを伝えればいいのだという安心感を与える必要がある。伝えるべき、の「べき」を取り払い、伝えたい内容とすれば、彼らも同意してくれるだろう。オタクが引き篭もりと違って健全である証拠は、次々と自らのマイナー・アイドルを求めて変遷していくことに恐怖していないことだ。それに対して引き篭もりは、自らのアイドルを仮に持っていたとしても、それを他者に告白することとそれに伴う極度の羞恥から臆していて、しかもそのアイドルがより一般に流通していくことを歓迎出来ないタイプの成員は、やがてそのアイドルに対する寄りかかりに拍車がかかり、しかも他人に知られそれが有名になった時に自分がその対象から急激に興味が失せてしまうこと自体に対する恐怖が更に頑なに何に対しても無関心にするのではないか?引き篭もりは集団恐怖を自閉的防御自愛で処理するのだ。偉大な哲学者たちは、本当は一歩間違えばオタクであるだけであるか、引き篭もりにさえなったかも知れない可能性の強い人々の集まりである。しかし彼らはそれらの恐怖に打ち勝ち、勇気をもって自分が「伝えたい内容」を、「伝えるべき内容」からの規制を振り切って発表したのである。

Friday, October 16, 2009

第七章 自由・選択・責任

 私は日本人であり、市民として世界のことや人類のことを考えることが出来る。例えば今私は私が住むこの日本のある都市の生活を捨て、外国に行って生活し、そこで死ぬという選択肢もあるし、事実そういう風に私の人生が運命づけられていないとは現時点でも言い切れない。しかし恐らくそうなったとしても、私が今現在50歳の時点で日本以外の土地に足を運んだことがなかったという事実は消えてなくなるわけではないし、まして私が日本人として生まれたという事実も変わることはない。
 つまり誰しも中学生くらいになると世界平和とか国際的視野というものの存在意義に目覚めるが、しかしそのように自分を世界市民として位置づける見方自体も、既に日本人として生まれて、日本語を話すという現実を受け容れているという前提の下でであり、その事実から離れて世界平和とか国際的視野という観念だけで意志することは不可能である。
 サルトルが若い私に何やら青春のどうしようもないやるせなさの前でニヒリスティックだからこそ大人っぽい雰囲気で語りかけてきてくれたことは既に述べたが、サルトルは絶対的自由主義者であったから、当然のことながら、性別、国籍、職業、宗教といった人間に対する帰属性には全く無関心であった。だから行動あるのみなのであり、しかもその行動は自分で自分に対して責任を取ればよいのであり、他者というものは想定されていない。だから彼が不在とを言う時、明らかにそれは私にとって他者の不在以外のものではない。
 しかもサルトルは神を信じていなかった。このことは彼にとっては重要であったが、今彼のテクストを読み返してみると、そのことはテクスト的な性格という意味では極めて有神論者のテーゼに近いものが奇妙にもあることが分かる。
 例えばエックハルトは教説において次のように言う。 
  
 第二に、あなたは清き心でなくてはならない。あらゆる被造物を無にしてはじめて心は清らかなものとなるからである。第三にあなたは無から自由でなくてはならない。地獄で燃えているものは何か、と人は問うが、師たちはそろって、我慢であると答える。しかしわたしは真理に照らし、地獄で燃えているのは無であると言いたい。たとえで説明しよう。人が燃えている炭火をとってわたしの手のひらにのせたとする。もしわたしがそこで、炭火がわたしの手を焼く、とでも言おうとするならば、わたしは炭に対して不正をはたらいていることになるだろう。わたしの手を焼くものが何であるか適切に言うとしたならば、炭は、わたしの手がもってい無いあるものをそのうちにもっているからである。見よ。この「無」がわたしの手を焼くのである。もしわたしの手が、炭の本質や働きをすべてもっているとすれば、わたしの手は完全に火の本性をそなえていることになり、そうすれば、だれかが、燃える一切の火を取ってわたしの手のひらに注ぐとしたところで、わたしには何の苦痛も与えることはないであろう。同じように、神および神を見るすべての人たちは、真の浄福のうちにあって、神より離れ去った人たちがもってい無いなにものかをもつのであるから、この「無」が地獄に堕ちた魂を、我欲や何かの火といったものよりもはるかに責めさいなむのであるとわたしはいいたいのである。わたしの話すことは真実である。あなたにこの「無」がつきまとう限り、それだけはあなたは不完全なものとなる。完全であろうと思うならば、あなたがたは「無」から自由でなければならない。(「エックハルト教説集」田島照久訳、岩波文庫37~38ページより)
 
 この私にはない要素というのがサルトルの不在とか無に直結する。不在とは他者から見た他者のことではなく、あくまで自分から見た他者のことなのである。そして私ではないとは、私にはないものを持っている、私にはない性質(性格)を持っていることである。そしてそれは私という視点を見失わない限り可能である視野とその視野を射程に入れた想念のことである。そしてエックハルトはそれに惑わされず本質を見よと言っている。その点においてサルトルの他者とは無縁の自分の行動と結びつく。その意味でデカルトもサルトルもエックハルトの教説に示されたテーゼに対して遵守していることになる。
 しかしこれがレヴィナスやハンナ・アレントになると事情は少し変わってくる。
 レヴィナスはフッサールに対して多くの言及をしている。その代表的なものが「フッサール現象学の直観理論」、そして「実存の発見フッサールとハイデッガーとともに」あるいは、若い頃から晩年に至るまでの論文を集めた「歴史と不測」であり、それらを翻訳されたテクストによって我々は彼にとって他者であったフッサールやハイデッガーの思想を知ることが出来る。しかし彼のテクストでは幾分他者に対するオマージュ的意味合いの論文と、自分自身の考えを述べたものとの間にはニュアンス的な違いが横たわっている。1972年に発行された彼のテクスト「他者のユマニスム」中 同一性なしに では次のような文を彼は冒頭に掲げている。

 もし私が私について責任をとるのでないとしたら、いった誰が私についての責任をとるのだろうか。しかし、もし私が私についてしか責任をとらないのだとしたら-果たして私はそれでもなお私であるだろうか。『バビロンのタルムード』アポト書六a

 この一節はかなりレヴィナスの思想を理解する上で役立っている。要するに 責任=他者に対する意識 をまずここで楔として打ち込んでいるわけだ。
 レヴィナスはその「他者のユマニスム」(小林康夫訳、 書肆風の薔薇 刊)において責任について多く触れている。その箇所を抜粋引用して彼が考えた責任というものを把握しておこう。

 A(前略)<自我>であることは、ちょうど創造の建築のすべてが、私の肩にのっかっているかのように、責任から逃れることができないことを意味している。(80ページより)

 B 言いえないものの言表不可能性は、言われたことのうちには現われることができないという、その無・能力によって記述される以前に、なによりも他の人々に対する責任の起源以前性によって、あらゆる自由な参加・契約に先立つ責任によって記述されるのである。(中略)感受性を通して、主体はみずからの責任を負うのだが、しかしまたみずからの逃亡・脱落の痕跡を留めることなしに、その責任を逸れることは不可能である。主体は志向性である前に責任である。(122~123ページより)

 C プラトンはわれわれに、太陽をそれ自体の場処において見つめようとする眼が必要とする長期間について語っていた。しかし太陽はけっして眼差しを逃れはしない。聖書の不可視なるものは、存在の彼方における<善>のイデアである。責任を負わされていること、それには始まりがない。しかしそれはなんらかの永続性、みずからを永遠であると主張するような(そして、おそらく、《悪無限》を与える外挿法であるような)永続性という意見ではなく、引き受けることができるような現在への換位不可能性という意味なのである。それは、ただ純粋に否定的であるのではないような概念である。それは自由の限界を超えた責任、すなわち他の人々に対する責任である。その責任は、みずからに対して現在を、そして表象〔再現前〕を拒む過去の痕跡、記憶の届かない過去の痕跡なのである。解約不可能性であり、忌避不能であり、委譲不能であり、かつある選択へと遡ることもできない責任へのこの義務は、それが<善>によるものであるからこそ、結局ひとつの選択にぶつかることになるような力ではないのである。(128~129ページより)

 D 自由に先立つ純粋な受動性は責任である。しかし、私の自由にはなにも負っていない責任、それは他の人々に対する私の責任である。私が傍観者として留まることもできたであろうところにおいて、私は責任があるのであり、さらに語るものであるのである。もはやなにも演劇ではない。もはや劇はゲームではない。すべては厳粛なのである。(129~130ページより)

 E 主体と<善>との無始源的な結び付き‐それは、なんらかの資格で選択における主体に対して現前しているような原理の仮定として結ばれることができない結び付きであり、そうではなくて、主体が意志であったことがないうちに結ばれた無始源的な結び付きなのであるが‐、それは責任という《聖なる本能》や《利他的ないし寛容な本性》、また《自然な善意》などによる構成なのではない。そうではなくて、それは、ある外部へと連結するのである。そして盟約のこの外部性は、まさしく、エロスにも熱狂(それは占有するものと占有されるものとの差異が消えてしまうような占有である)にも無関係であった人々に対する責任が要求する努力のうちに保持されている。だが、それにはまた、盟約をたやすく破ることができるという誘惑があるのでなければならない。すなわち、無責任性というエロスの魅力であり、それは《みずからの兄弟の番人ではない》者の自由によって制限さてしまった責任を通して、ゲームの絶対的な自由という<悪>を予感しているのである。そして、そこから、<善>への従属の真っ只中において、無責任性へと誘いかけ、みずからの責任に対して責任がある主体におけるエゴイズムの蓋然性、すなわち服従する意志のなかにおける<自我>の誕生そのものが由来するのである。(131~132ページより)

 F 《悪》の乗り越え難い両義性こそがその本質なのだ。誘惑するものであり、容易である悪には、おそらくは、端緒‐以前の歴史‐以前の隷属を断ち切ること、手前にあるものを無化すること、けっして主体が、契約したわけではないものを拒絶することはできない。罪は罪として、つまりみずからの意に反して、責任の拒否に対する責任としてみずからを示す。(133ページより)

 G 誰も‐様々な宗教を約束する者たちでさえも‐、死からその槍先を取り除いたと言い張るほど偽善者ではない。しかしわれわれば、死に同意しないわけにはいかないような責任を持つことができるのである。<他人>は私の意にかかわらず、私に係わるのである。(135ページより)

 H 人間の人間性、主観性、それは他者に対する責任であり、極限的な傷つきやすさである。自己への回帰は、絶えざる迂路となる。意識と選択の以前に‐被造物が、現在と表象のうちに集摂し、みずからを本質とする前に‐人間は人間に近づくのである。責任によって、人間は本質をずたずたに引き裂くのである。それは、責任を引き受けたり、責任から逃れたりするような主体、自由な同一性として構成された主体ではない。そうではなくて、それは主体の、無制限の‐というのも約束によって測られないからだが‐責任、責任の引き受けも拒否もともに、そこに送り返されるような責任のうちでの他人への非‐無差異〔非‐無関心〕の主観性である。それは他者たちに対する責任であり、それが引き裂く主観性の《感動した蔵腑》のなかで、その他者たちの方へと再帰の運動はそらされるのである。(160~161ページより)

 I ある種の固体として、あるいは存在論の領域に位置づけられた‐存在者として理解された人間、あらゆる実体と同様に存在のうちに執拗に持続する人間は、人間の現実の目標として確立するようないかなる特権も持ってはいない。だが、また実体の自存力あるいは内的な同一性よりもっと古い責任から出発して、人間を考えねばならない。すなわち、つねに外へと呼び出しつつ、まさにこうした内面性をかき乱す責任から出発してである。自己の意図に反してすべての人の位置に身を置き、その非‐交換可能性そのものを通してすべての他者の人質であり、すべての他者は、まさしく他なるものであり、自我は同じ種には属してはいないのである。なぜならば、私は私に対する彼らの責任についてすら、最終的には、そしてはじめから、私は責任があるからである。そしてこの補足的な責任を通してこそ、主観性は∧自我∨Moi ではなく、自我〔私〕moiであるのである。(162~163ページより)

 J みずから閉じこもることができず‐置き換えに至るまで‐すべての他者に対して責任があるような主観性の理念、その結果として、私とは別の人を守ることとして了解されるような人間の守りという理念が、今日、人間主義の危機と呼ばれることの中心にある。この危機は《文芸》Direは<言われたこと>Ditへと連れ戻され、みずからの条件と連携するようになり、そのコンテクストとともに構造をなして、言うこととしてその若さを失ってしまっているような固定化された責任を拒絶しているのである。この若さとは、コンテクストの断絶であり、裁断する言葉、ニーチェ的な言葉、予言的な言葉、存在のなかに位格(ステータス)を持たず、しかし恣意性も持たず、というのは誠実さから出たものであり、言い換えれば、他人に魂の状態として感じられたものではなく、自己の自己自身において意味するものであり、灰に覆われた澳火のように(だが突然に、生ける松明として燃え上がるのだが)燃え尽くさせる主体の主観性であるこの無制限の責任‐他者たちによって被られた残酷さと不幸とに身を焼く傷であるこの責任によってこそ、その残酷さ、その不幸そのものと同じくらいにわれわれの時代は特徴づけられるのである。(164~165ページより)
 
 Aはニュートンの有名な言葉を使った比喩だと考えられるが、自我論の基本に責任を考えている。Bは前半が責任が「伝えるべき内容」を決めることを、後半が人間の所与(生来)の責任は<善>以前的だという主張だ。Cは最初は責任とは始まりがない=終わりがない、つまり所与の能力であること、後半はヘーゲル批判的な考えの下で自由は責任の中のほんの一部の領域のものだということ、責任の他性認識性、そして現在と表象に対する無意識的記憶(痕跡)の優位性の主張であり、責任の<善>(善悪の)選択以前性、Dは前半はやはり自由が責任という広大な領野の一部であること、(後半は次の段落以降で説明)Eは生を楽しむことの出来ない差別された人々への配慮を伴ったモラル論的責任の無差別的要求が前半で語られ、後半は「それにはまた」から「予感している」までは付与された自由選択を通して私利を克服する主張となっており(最後の文章はJの後に説明)、Fは最初の文が神への契約外のことの実存者の無縁、次の文は罪の責任への帰属を言い、Gは死への恐怖の克服を誰もなしていていないこと、死を超えた魂の永続への信仰をも含む責任に対する主張と他性自体はそれとは無縁の実存であることを述べ、Hは生物学的自然(本質)への人間の抵抗と、責任は意識的(定立)なことであり、それは責任に対して拒否も受容も無関心ではいられない主観性を生むことの他性に関する運命を言っている。Iは前半がハイデッガー的歴史認識、そして責任=自‐他の内面性との無縁、後半が自‐他の断絶があるにもかかわらず他者の私に対する態度をも含めた責任の範囲の拡張を言っている。問題はJである。どうもレヴィナスは他者存在が現代ではシステム論的に責任に対する無制限の要求を個に齎す偶像化について言っているように私には思えるのだ。これは理のある人に備わる徳が理を離れて一人歩きする他者に対する偶像意識が高じることで、責任の範囲を責任を持てない他者にも無限に要求するエゴイズムであり、それはEの最後の「そこから、<善>への従属の真っ只中において、無責任性へと誘いかけ、みずからの責任に対して責任がある主体におけるエゴイズムの蓋然性、すなわち服従する意志のなかにおける∧自我∨の誕生そのものが由来する」とかかわる。つまりEの<善>への従属の真っ只中とはまさに「伝えるべき内容」の欺瞞のことであり、それさえ果たしておれば後は何を考えてもいいという内的責任の放棄に対する揶揄が後に続き、主体が特定の他者を尊崇する(エゴイスティックに)ことで偶像化する中で、ニーチェ的権力への意志となって顕現する中で服従の意図が自我を生むということを現代的状況で示していると取れば、これはJと共にメディア社会に対する批判と解釈することが可能である。Eで言う「ゲームの絶対的な自由という<悪>を予感している」とは次の段落で述べるDのゲームと重なり、人生という実が社会ゲーム(ニ段落目で説明)という虚に同化してしまうこと(偶像化された存在と身近の人との境界が曖昧化してしまう)の現代的状況を述べているものと思われる。(後日掲載の結論を後日参照されたし)
 彼がDの「もはや何も演劇ではない。もはや劇はゲームではない。すべては厳粛なのである」と述べる時、彼にとって私たちの生活自体が劇であり、劇化することなしには生活し得ないことを告白しながら、同時にその劇は既に演劇ではない、つまりあらゆる虚構を虚構として認知することを前提としたゲームではないことを主張している。これは私たちが生活する現実を言語ゲームと呼んだウィトゲンシュタインのテーゼと真っ向から対立する。
 私は元来言語ゲームとウィトゲンシュタインが呼んだものとは、その言語習得をして以来私たちが考えていくという習慣を自然と身に着けていくことからすれば、そしてその言語とは他者、通常は家族を基本とする家庭環境において親密度とか、自分にとって身近なものから、そうではないものへと意識が拡張されていくに従って、道具とか非道具とかいったハイデッガー的なヴィジョンの獲得と共に認識と把握と理解の度合いを深めていく一つのプロセスによって解明し得ると思ってきたし、基本的には今もそうだ。そしてそのプロセスのことを私は社会ゲームと呼び、それは実際の社会でも、家族内でも、ペットのような動物と接している時にも実践されていると考えている。
 しかしこのゲームという言葉による指定は、レヴィナスが考えたDで主張されたゲーム性の排除という考えとは矛盾しないと思う。何故ならレヴィナスは劇化を、ゲーム的なものより以上の実存であると事実的に認識していたからである。
 確かにウィトゲンシュタインの中期に考えていた言語ゲームは社会全体から見た個という考え方ではないし、そうかと言って他者を常に必要とすることは当然であるとしても、レヴィナスのように他者に対する責任において考えられてはいない。しかし彼の考えた後期の私的言語にはその責任は濃厚に関係してくる。そして私的言語のことを言う時にも彼は言語ゲームという概念をそのまま使っている。つまりウィトゲンシュタインが私的言語ゲームによって考えていたのだが、レヴィナスが「私が傍観者として留まることもできたであろうところにおいて、私は責任があるのであり、さらに語るものであるのである」と述べる時、決してウィトゲンシュタインが考えていたゲームと矛盾しないものだと私は直観したのだ。
 しかし私たち日本人にとって極めて理解し辛いことの一つは、明らかに欧米キリスト教世界の信条の一つである罪という観念である。この罪という観念は個による神との契約が理解出来ないことには何らその意味は掴みようがない。しかしここでキリスト教教義から全てを考えていくことはあまりにも私には荷が重過ぎるので、その重過ぎることを背負った彼らの姿において彼ら哲学者のテクストに見られる苦悩から考えていこうと思う。

 フッサールはデカルト主義を克服しようと試みたように思われるが、終ぞそれはなし得なかったというのが私の考えである。しかしだからと言ってそのことがフッサールの価値を下げることにはならない。つまり彼の考えた事実学と法則学との区別とは裏腹に彼自身生活世界と呼び重視した事実学的視点を通した法則学的認識も、実際のところそれを非生活世界と並列して考える、幾分デコトミックな考え方により、それを考える自らの視点は一点透視的な神の視点以外のものではなかったという意味では、私には彼の作為が極めてスピノザやヘーゲルの試みに近いものを感じるのだ。
 しかしサルトルは無神論的に全ての意志と行動を自らによる自らに対する責任によってのみ遂行することを説く時、一見極めてマニフェスト的ではあるものの、そもそも彼の考えるような理想の絶対的自由主義者は哲学的反省意識を一切しない、従って彼のテクストなどは読みもしないようなタイプの人々である。つまりサルトルによるテクストの視線の先にあるものは終ぞ彼のテクストなどは読まずに終わる人なのであり、逆に彼のテクストを読む人というのはサルトルによるテクストの視線の先には決して到達し得ない人たちなのであり、そのことに対する明示行為が彼のマニフェスト的なテクストの在り方になっているという自己矛盾が彼のテクスト記述、あるいは彼のテクスト発表行為の特徴だ。
 そもそも記述とはそれが書かれたよりは未来に読まれることを前提にしている。つまりテクストを読むことはいかに最新のものであっても、過去からの声に耳を澄ますこと以外のことではない。そういう意味ではもしサルトルがそのようなことを踏まえてテクストを書いていたとしたら、それは極めてニヒリスティックな行為であったと言ってよい。何故なら彼のテクストを読まない人のことを彼のテクストで示された生き方を実践するモデルとして示したテクストを、それを読んだからと言って終ぞそのテクストの示すようなマニフェスト通りになど実践し得ないようなタイプの哲学志向者に向けて書くことだからだ。
 この点確かにフッサールはサルトル的性格のテクストの記述者ではないので、幾分普遍的にも感じられる。しかしと言うか、あるいはと言うか、だからこそレヴィナスはフッサールに対しては最大限の敬意を払いつつも、自らの哲学的実践においてはサルトルと真逆の態度を貫いていく必要があったのである。
 レヴィナスにとって生きることは受動的なことであり、隷従とか隷属という語彙が彼のテクストには度々登場するが、それはまさに他者存在がオブセッションのように迫り来るという彼を取り巻く事実(彼が哲学テクストを書くことになる現実、つまりモティヴェーションとしての書く理由)が、彼自身による言説をよりデカルト的デーモンへと連れ戻す。
 サルトルにとってのデカルトは彼の思惟を可能にするところの哲学の作法であり伝統なのであり、レヴィナスにとってデカルトとは伝統ではなく、双子自己対象のような存在だったのである。

 画家は視覚像を画布や紙に自己固有の事実学たる世界像に準じたフォルムや色を写像することを通じて世界の法則のようなものをそこに定着させようとする。その際視覚像を構成する手がかりに意外と重要なことは筆や刷毛を画布や紙に接触する時に生じる触覚なのではないか?私も絵を描くのだが、少なくとも私はそうである。
 視覚的に顕現されるイメージは画家にとって結果として示されればよいのであって、見た通りにただ色やフォルムを画家は画布や紙に写し取っているのではない。もし写実的にそう描いている時でさえそこには何らかの操作が加わっている。しかしそれらが円滑に行くかどうかは、実は画布や紙の感触を肌で感じることが可能な筆や刷毛とかペン先の感触なのである。これはどのようなタイプの絵を描く作業でも同じである。円滑に作業が捗るか梃子摺るかとは意外とアトリエとかスタジオの整理次第であったり、使う道具を巧く配置しておいたりといった職場環境の快適さである。
 勿論快適さというものには個人差もある。しかし少なくとも円滑に作業が捗ることは、大抵そういったことに対する配慮が行き届いているか否かによって決まる。そのために油彩画家は大抵、画面の最下層に地塗りをするものである。これは絵を描く環境の最も絵の内容に近い場所の整理である。そのことは哲学者や思想家にも当て嵌まる。
 
 サルトルの哲学は、彼が同時に小説家であり劇作家であったことから、極めて優れた散文という要素もある。だからそのあまりに巧みな文章からしばしば私は映像が浮かぶ。それは「嘔吐」でもそうだった(あの樹木の生々しさに対してロカンタンが驚愕する下りなどがそうである。確か図書館でのエピソードだった)、「存在と無」でのカフェでボーイの姿を恐らくシモーヌが来るのを待っている間に観察して書いていたのだろいうというサルトルの執筆の姿さえ思い浮かぶ。
 しかし何故かあまりサルトルの文章を読んでいてそこに絵画的なものは感じないのである。勿論それは私にとってである。寧ろ絵画的な想念、と言うか、要するに一枚の画布上や紙上の絵画作品が彷彿とされるタイプの哲学者たちは、フッサールである。レヴィナスも少々おどろおどろしいが、絵画的なイメージを持っている。
 それに対し、メルロ・ポンティ、ミシェル・アンリ、ジャック・デリダは優れた絵画分析家でもあったが、文章そのものから絵画は連想されない(少なくとも私にとっては)。ただ彼らが絵画について語る時そこでは勿論当該の絵画が思い浮かぶが、それは書かれた内容としてであって、文体から来るものではない。
 脱線してみた。しかしこういった脱線というのが意外に重要なヒントが潜んでいることもまた確かなのである。
 ところでフッサールは「イデーン」で異星人について述べているし、「幾何学の起源」においてはラジオのことについても触れているが、では果たして彼ら哲学者たち、例えばフッサール以外にもハイデッガー、レヴィナス、サルトルといった面々が現代に生きていて、活動していたとしたなら、現代社会のマスコミやマスメディアについてどのような考えを思い巡らしていたであろうかことを中心にして、それぞれの考えを現代哲学者たちと絡めて考えてみたい。

 その前に哲学史的な捉え直しという意味で個々の哲学者の業績を私にとって問題になるような仕方で定義しておこう。

 ソクラテスは「私は何も知らないことだけは知っている」と言った。
 プラトンは「物事の裏にはよい本当のことがあり、それはどこかに必ずあるし、それが世界だが、私はその世界の中にいる」と考えた。
 ホッブスは「私たちはそもそも悪いことをする性質だからこそ、よさというものを求めるのだ」と考えた。
 デカルトは「世界があってもなくても、私がそれについて考えていると言うことだけは確かだ」と考えた。
 ヒュームは「知ること、見えること、考えることが集まったものこそが私だ」と考えた。
 カントは「世界とは私(の感覚的な能力)が作るのだ」と考えた。
 ヘーゲルは「私の中に命令する私と命令される私とがいる」と考えた。(対自・主人と奴隷・正と否)
 ニーチェは「よいこととは、よいとされるものとして私たちによって作られるし、人に同情してはいけない」と考えた。
 フロイトは「私が考えていることは、普段は気がつかないような違うことを考えているもう一人の私が『私が考えている』と思わせている」と考えた。
 ユングは「私たちは常にもう一人の私が<私たち>を求めている」と考えた。(集合的無意識)
 ソシュールは「私たちは言葉に勝手にそれぞれ音をつけている」と考えた。(恣意性)
 フッサールは「私の心が向かう先と、私の心をそこに向かわせることが私であることだ」と考えた。(ノエマとノエシス)
 ベルグソンは「私はずっと続いている時間と共にある」と考えた。(純粋持続)
 ラッセルは「五分前に世界が誕生したと言っても、それが間違いであるなどと証明することは出来ない」と考えた。(五分前世界誕生説)
 ウィトゲンシュタインは「私一人だけで成り立つ世界など結局はあり得ない」と考えた。(言語ゲーム・私的言語)
 ハイデッガーは「私は自分がいつかは死ぬことを知っていて、世界があるとは私が生きてそこにかかわっていることだ」と考えた。(現存在)
 ウィトゲンシュタインもハイデッガーも共に「私が死ねば、そこで世界とは終わる」と考えた。
 レヴィナスは「私は他人という存在に囚われている」と考えた。(隷従<属>・人質)
 サルトルは「私たちは誰もが自分だけの責任において何をしてもいいが、誰も助けてくれはしないし、神もそうだし、第一神などいはしない」と考えた。(自由の捕囚)
 メルロ・ポンティは「世界とは私の身体と、その身体にとっての世界だ」と考えた。(知覚と身体)
 ライルは「私たちの行動は内面の心をも表す」と考えた。(行動主義)
 オースティンは「言葉とはそれを語ることによって意志を固める宣言にもなる」と考え
た。(行為遂行的発言<パフォマティヴ>)
 クリプキは「世界とはこうだったかも知れないという形で常に存在する」と考えた。(可能世界意味論)
 ドゥルーズは「私はいつでも同じではないし、そもそも私などというものは幻想かも知れない」と考えた。(同一性への懐疑)
 デリダは「言葉はそれを考えることと、発することの間に常にずれがある」と考えた。(差延作用・原エクリチュール)
 メニンガー、ロジャース、コフート、カーンバーグたちは「私たちはお互い相手に対して常によりかかって生活している」と考えた。(依存と共感)

 ここで取り上げたヘーゲルとフロイトはある意味ではデカルトとカントの考えなしには登場し得なかったと言える。何故なら世界があるか否かとはかかわりなく私というものを考えることと、世界とはそもそも先験的にあるのではなく私によって作られるのだという意識がなければ、私の中で命令する私も命令される私もあり得なく、私の中のもう一人の私というものを発見することも出来なかったからである。
 そして世界とはそもそもそう捉える時点で、私一人によっては成立し得ないことへとこれらの考えは必然的に結びつく。そしてそれは例えばソシュール、ユング、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、ライル、オースティン、クリプキ、ドゥルーズ、デリダ、メニンガー、ロジャース、コフート、カーンバーグといった人たち全ての考えの基礎となっていると見ることも出来る。と言うのも世界とは言語を通して私というものが他者と語ることを前提として考え、私たちという意識を作る基礎となっているからである。要するに彼らはそれぞれ異なった考えを持ってはいるが、私と世界とが言語と他者存在において結びつけられていて、そもそも私や世界が存在することが言語というものを私たちが持っているからであるという考えでは一致している。これはフッサールもベルグソンもハイデッガーも全く同じように考えていた。私たちは死に対する理解を、時間のずっと続いているという感じに対する理解と、個々の出来事に対する記憶をその時間の中に位置づけるという能力の故に獲得していると考えられるからである。それだからこそ、私たちは何かを知るとか知らないとかを、あるいは世界とはどういうものであるかを、ソクラテスやプラトンのような人たちが考えたように古来から考えてくることが出来たのである。そしてそれはメルロ・ポンティが身体というものを、言葉と切り離して考えたのではなく、まさにその身体を伴う言葉として考えたことに一致しているのであり、言語が身体によって発せられるというところから私たちは世界の成り立ちがどうであるかとか何かを知るとか知らないとかとはどういうことであるかというような考えが成立しているし、それがまさに哲学を私たちに育ませてきた能力なのである。
 そのことに関してホッブスやニーチェが考えた人間の善悪とか、ヒュームの考えた能力の集合体としての私とも繋がり、その点において全ての哲学や精神分析、あるいは言語学といったものは一致していると言うことが出来る。この考えは恐らく現代の脳科学においても全く該当するだろう。
 つまり私たちが特定の思想や哲学を心に抱くことは、身体存在として生きることを、他の動物たちとは違う形で他個体を他者として、そしてその他者と私を繋ぐものとして相互に理解させることが出来る言語思考能力による恩寵であると考えることが出来、その能力を介在させている、あるいは私という意識をその能力によって顕在させているという事実が、全ての善悪、道徳、倫理、論理の素であると考えることが出来るのである。
 すると、現代のマスコミやマスメディアの存在は、そういった私たちの言語と身体と他者と自己といった関係によって必然的に要請されて成立してきたものであると考えることが出来るのではないだろうか?
 例えば脳科学者の池谷裕二氏は、「ゆらぐ脳」という著書の中で、「私の科学者としての信念とは<斉一性>に対する信頼だ」と述べておられるが、氏がもう一つの語彙として使用している再現性とこの斉一性とは、何回も同じことが起きることであり、反復することであるが、それは物理法則に適用した時に科学者が考える一つの思考様式である。しかし氏は同一テクストの中で「因果律とは人間の脳の妄想だ」と語っておられるが、そのことは極めてこのことを考える上で興味深い。と言うのも斉一性とか再現性というものを考える上で最も基本的な思考様式とは因果律に他ならないからである。氏は科学者としての信念を科学の思考様式そのものの限界に対する認識と共に考えておられるのである。
 しかも更に興味深いのは、進化を科学者が考える時、それは二度と元の形や機能には戻らないことである筈なのに、その元に戻らなさを支えているものが斉一性であること、つまり同一パターンによる反復であること自体が、極めて私には世界の実存の在り方が自己矛盾的なものであるように思われるのだ。
 哲学者たちはしばしば科学とか数学とは一体どういうものであるかと論じてきた。しかしその結論を常にその都度出してはいるものの、その結論が永久的なものであるとは誰も考えてはこなかっただろう。それどころか一つの哲学テクストにおける結論とは、それを踏み台にして更に全く異なった考えが出現することを期待するものとしてのみ自分の論文を彼らは扱ってきたのである。
 それなら彼らがもし現代に生活していたなら(前記の中には未だ顕在の人もいるが)、マスメディア自体がそれを享受する側の私たちの欲望を反映するものであることにおいては一致した考えを持っていただろうが、マスコミ自体はどうあるべきかということでは個々で全く異なった考えを抱いていたことだろう。
 しかしあるいは次のような考えにおいては一致していたのではないかと私は密かに思っているのである。それはマスコミがある種の偶像化作用としての私たちの欲望を象徴しているのではないかということに対する意見の一致である。
 私たちは通常家族の間では気のおけない関係を維持している。そしてそれは他者に頼ることの基本として君臨している。縋るべき他者とは唯一家族であろう。しかし家族に対して接するようには私たちは他人と通常呼ばれる他者一般に対しては接することが出来ない。しかし同時に他者一般とは、家族内での限られた人員、成員間で成立する欲望の実現においては、更に無限である。つまり自己や自己にとっての家族内では終ぞ実現し得ないことに対して、他者一般とは無限の可能性を秘めている。つまり自分や家族には出来ないことでも他人に対してなら期待することさえ出来る。
 例えば若い頃一時期役者やスターになることを目指して頑張っていた人というのは大勢いるだろうが、その中で最初の志を実現させてきた人というのはごく限られよう。しかし一度は目指したことに対してその夢を完璧に実現させている他者とはそれだけで自らの欲望を代理的に実現させてくれている偶像である。つまり自分が出来ないことを、自分に成り代わって実現してくれる存在というものをどこかで私たちは常に求めているのだ。
 だから他者の成功とは、例えば出世競争において同僚と張り合うという意味では、自らが勝者でありたいと常に私たちは望むが、自分にとってとおに諦めたことに関しては、それに関して成功している他者を常に羨望の目で追いつつも、常にどこかでは応援したいという気持ちも抱いているものである。
 その際に私たちは彼ら成功者に自分の生活に関して縋ったり、頼ったりすることは出来ないが、自らの欲望を代理で実現してくれる存在として憧れるし、尊敬もするだろう。
 甘えられないとか縋れないとかは対他的な羞恥がそうさせているわけだが、そもそも私たちが言語を習得し得たのも、その起源的な意志から考えれば、側頭葉に存在する言語中枢の能力を発現したという表現よりは、赤ん坊の頃私たちが大人の会話を羨望の目で見つめ、その原羨望を頼りに、必死に模倣をしたことであろう。だからこそ一旦言語習得した後で得た知力において、私たちはただ他者に縋ることをしないで責任という意識を持つのだ。側頭葉の言語中枢は羨望と好奇心によって狩り出されている(作っているかも知れないが)。つまり羨望の心的作用とは、自己内における欠如に対する覚知、それは殆ど直観的であり、無意識的なことなのだろうが、それを主軸とした、憧れの対象である他者において実現している能力を身に着けたいという欲望以外のものではない。そしてそれが実現したら、今度はそれが実現していない他者に対して思い遣りを持つことが出来るのだ。
 しかし自分にとって欲望というものは実現し得るものと、そうではないものとがあり、そのことに対して誰しも直観的、無意識的に認識している。そこで自分にとって認識している、実現不可能な欲望に対する実現が、偶像化され仮託された存在に対する関心となって顕在化する。すると、その偶像化された存在にとっての敵対者に対して自分も一緒になって敵対するような心理にもなる。そして自らにとっての偶像がその敵対者を倒す姿を見ると、私たちはまるで自分のことのように溜飲を下げる。
 私たちがオリンピックなどで日本の選手を応援していることもそういうことなのだ。その自分にとっては出来ない能力の実行者に対して感情移入して観戦し、あるいは俳優の演技や歌手の歌唱を鑑賞するのである。それは仕事に関しても全く同じように捉えられる。
 例えば科学者は、過去の科学者たちの業績を共有しつつ、検証し、更に新たな業績をそこにつけ加えるという野心を抱くが、とどのつまりは、科学史そのものをそうすることによって偶像化しているのだ。あるいは哲学者たちもまた過去の哲学者たちの思想を再考し、批判することを通して自ら哲学史に参画し、哲学史を偶像化している。それは画家でも作曲家でも、文学者でも同じことであり、過去の偉大な業績に対して模倣、改良、批判することを通して自らもその歴史に参画し、美術史、音楽史、文学史といったものたちに対する偶像化を図っているのだ。それは赤ん坊が大人を偶像化しているのと寸分も変わりない心理によるものである。
 その心理を逆手にとっているのがコマーシャルの戦略かも知れない。つまり時々私たちは酷く趣味の悪いコマーシャルを目にすることがあるが、不思議とその悪趣味は印象に残る。つまりその商品を売る側にしてみれば、印象に残ってその会社の名前が記憶して貰えればよいのだが、そのために敢えて悪趣味な印象に残るものを採用していることは、実はマスメディア自体の存在を私たちが偶像化した存在として容認しているという事実に対してスポンサーは熟知していて、その私たちの心理を利用しているのである。つまり私たちはマスメディアに流通しているイメージに対しては条件反射的に、一応目に留めておく必要があると身構えるからである。私たちがマスコミに対して、そう身構えることは、実はその流通されるイメージがいかに俗悪なものであっても、無視し得ないのはその俗悪さ自体が私たちの欲望によって生み出されていることをよく私たちが心得ているからだ。
 これはある意味では学問や芸術が私たちの脳内の欲望によって生み出されてきたことと並列な真実としてマスコミを受け留めている証拠でもある。確かにマスコミの在り方自体に対して自由であり、選択することの権利もこちら側にあると言っても、マスコミ全体を規定しているその張本人は、政治や経済をそうしている張本人と同一のこの私たち一人一人なのである。本当に実害があるものであると理解しているのなら、私たちはとっくにマスコミもマスディアも破壊しているだろう。しかし私たちは一定の批判をつけ加えながらも、完全にそれらを無視したり、完全に生活から切り離したりすることなど出来はしないのである。何故そうであるのかと考えてみると、それはマスコミというものが基本的に私たちの言語活動を基本としているという事実に行き着く。私はマスコミを私たちが生活から切り離せないことの最大の理由を、それらが人間の言語活動に依存していること以外のものから見出せないのだ。
 例えば劇場公開用映画に全く人間が登場しないようなものがあったとしたら、それは地球の生命進化のようなテーマのもの以外には考えられないだろうし、ただ雲の動きだけを映した映像を延々と二時間も映画館に閉じ込められた状況で鑑賞出来ると問うたら、恐らく無理だろうし、大概の観客は眠りこけてしまうだろう。勿論雲の自然科学的メカニズムをテーマとした記録映画なら話は別であるが。本当の雲を眺めるのと映画で見るのは違う。
 つまり私たちはある程度の長時間鑑賞に耐えられるものとなると、私たち人間の意思疎通的なことととかかわりのあるものと限られてくるのである。つまりそれだけ私たちの生活において言語活動、つまり自己と他者のかかわりことは切実且つ興味の尽きないものである。
 ハイデッガーは「存在と時間」において頽落という語彙を使用しているが、これは世人という語彙と対になって考えられている。つまり私たちはつい日常において真理とか本質とは無縁の取るに足らないことに関心を差し向け、人生とか生というものに向き合わないことを彼は言いたかったのだ。しかし彼は何もネガティヴな意味合いからだけこの語彙を使用したわけではないのだろうと私は思う。それは丁度、カミュがシジフォスの岩運びのような不条理とか、サルトルが自己欺瞞を、ただ日常から追い出すべき否定的なこととして取り上げたのではなく、もっと運命的なかかわりとして取り上げたのだ。
 あるいはウィトゲンシュタインの「哲学探究」においてメインテーマである私的言語というものは何かと考えてみると、彼は最終的にそれは成立し得ないことを結論づけるわけだが、他の一切の人には理解出来ないような自分の身体を巡る状態や気分に対して勝手に命名して、それを自分の日記に記す場合それを彼は私的言語と呼んだのであるが、それは他者に見せる目的で記したものではない。従ってそれをしようと思って何かを書く場合、気構え自体も変わってくるだろう。さてそのようにして書いた文章は既に私的言語ではない。その時それを書いた者はある意味では世人となったと言えるのではないか?何故ならその自分で書いた文章を読む時私は他人である私が書いた文章と認識して読むからである。私たちは他人にも説明出来ないことを自分には説明出来ないし、文章を書くという行為自体に既に自分を他人化するという作用が含まれている。書くことは私的言語の放棄以外のことではない。つまりその私的言語の放棄という決意こそが世人として生きることであり、しかもその世人以前の私的言語創造者としての自分をすっかり忘れこけてしまうという生活上での致し方ない現実こそをハイデッガーは頽落と呼んだのではないだろうか?
 そうすると、マスコミで流通する言説の全ては私たちに対して積極的に私的言語を放棄させて、世人としての生活を全うさせるために利用された用意周到なる管理社会を実現したいという権力者の欲求と、その権力者的立場の考えを偶像化して同意する私たちもが権力者たちと共に作り上げる幻想であることになる。
 つまり私たちは頽落した状態に慣れることを積極的に管理社会的現実を肯定しつつ、同意しながら、マスコミの流通させる言説を非私的言語として受け容れる形で社会に同化しようとしているのである。 
 そしてそのことは、世人としての責任を常に私たちはどこかで求めらてはいるものの、実存者、つまり現存在としての責任も時には考える必要があるというメッセージとしてハイデッガーの「存在と時間」を読むことも可能だし、そもそもウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んだものとは、この世人としての責任に追いまくられている私たちの現実のことを言ったのであり、それを言語ゲームと命名することを通して問題化することの内にハイデッガー的な頽落にのみ依存することのない現存在の在り方を考えるという意図さえウィトゲンシュタインの内側にはあったかも知れないという想像へ我々を誘う。
 私たちはマスコミに対して決して自由ではいられないが、常にどうあって欲しいかという選択をしたいと願っているのだ。

Wednesday, October 14, 2009

第六章 理性と責任という名の言葉の力

 人間は個体としてのエゴ(極自然な欲動としての生存的な欲求)を子孫繁栄のための本能として発動するという社会生物学的認識を採用するなら、明らかにその本能的エゴを隠蔽するために理性という概念を発明したと言える。そしてしばしば責任とは種内の、あるいはある血縁共同体内の利害(それらの違いは何を利他主義の対象とするかによる個々の戦略的選択の差に依存する)を保守するために外部への攻撃を正当化しつつ、それを履行することで全うされる。
 そして自由とはこのように責任を果たすことで公的な集合体内部にも支えられる利益の供与という形で保守される行動(居住、食物摂取)というレヴェルから言えば、自由の定義として私が第三章で示した前者、つまり自由に行動し得るような状況設定をすることが出来て、だからこそ守れる内心の自由になり、誤った政策が多数決で施行されることに甘んじるという中間状態を経て、全く理不尽な外部からの圧力によって、行動の自由を奪われ拉致監禁されていることを対極とするなら、定義の後者、つまりどんなに行動が自由を奪われても、最低限心の思考・想像の自由だけはどうにも外部の圧力にも変形することが出来ないことになる。
 よって責任はある集団の特殊意志的なエゴによるものも含まれるが、自由は本来、私たちが集合体内部において自由であることが外部から見たらただ単なる特殊意志たり得、一般意志となっていないと判断される段になったら理性論的には自由とは言えなくなる。しかし経験論的には私たちは心の中の自由を確かに知っている。
 だからこそメール文で生な形で何らかの自己内の欲求を曝け出すような場合、その感情的な発露という意味ではその時の動揺、怒り、欲情とかは表現し得るだろう。しかしそれを意味のレヴェルへと転換し得た時、私たちは抗議とか苦情を言う時に却って感情を抑制した方が言われる立場になってみるとこちら側の困窮した状況やら、それによって被った精神物理的苦痛がよく伝わることがあるような意味で、メールによる私的ないじめにはない形での文意というものの仕組みに対する理解を通した「伝えるべき内容」の強さというものがある。
 責任とは端的に自由の定義とは必ずしも一致しない(内心の自由というものが責任には含まれないからでもあるが)し、同時に外部を他者とするなら、外部は必ずしも圧力をかける存在なだけではなく寧ろ、私たち(常に私たちは何らかの集合体の成員である)に対話を求め自分の内部から発せられる応答を待ち望む存在故、それでも尚圧力という語彙に固執するなら、その場合内部とは個人となり、外部は自然環境(居住環境を成立させる)及び社会環境となり、外部の圧力は社会状況とか時代状況になるだろう。
 今までの論から綜合すると、本能の隠蔽こそが、自由の獲得であり、その隠蔽を私たちは理性と呼んできたのである。
 つまりいじめのメール文が陰険であるのは、そういうメール文にしか慣れていないという若い世代にとってそれが生な文章であるからであり、彼らが生ではなくこの理性という俎板に載せた文章、つまり語彙や文章の仕組みを理解した後に立ち現われる「伝えるべき内容」のレヴェルに意識が向かっているのなら、そのような陰険さに立ち向かうことが出来る筈である。つまりその文を書いた時の感情がどうであるかは振り返ってみた時には取るに足らないものであり(全ての文章はそれが書かれた時点より未来に読まれることを目的としている)、文そのものの持つ意味に着目したのなら、私たちは必ずや視覚的にメール文が与えるある種の感情的な様相の伝達を超えたもっと本質的な(本質的であるからには冷酷であることも含めて)意味理解に意識が進む筈なのである。
 しかし同時に私たちは理性と呼んだ取り敢えずの行為を、いつの間にか全てが理性を起源とするかのような錯覚を持ち始めもするのである。つまり理性とは本能を隠蔽するために、あるいはその止むに止まれぬ必要性から拵えられた概念である。だからその理性と呼ぶ力を必要とした本能的な能力というもの、つまり仁以前に備わった勇気、つまりいいことであれ、悪いことであれ大胆な行動を発動させる心の状態に対する着目を見失ってしまいがちなのである。
 ある能力の行使とは、それが社会的にいいとされる目的に利用される限りにおいて賞賛され得るものとなる。例えば闘争本能は、法逸脱者(犯罪者)にとっては傷害、殺人などになるが、そういった闘争本能を別の行為の手段とするなら、格闘家、武闘家、軍人、機動隊員、シークレットサーヴィスといった職種にも活かされ得る。それは性欲であれば性犯罪に走らずに円満な家庭に繋がる(このことはヘーゲルが「法の哲学」において詳細に記述している)。つまりある本能をどのように発動させるかの制御能力こそが理性という名で呼ばれる行為に対する意味論的な把握なのであり、それは本能を本能依存者としてではなく、潜在的能力保持者として位置づけることでもある。
 例えば本当は異性に取り入りたいという欲求そのものは本能的なものであるが、そのような生な態度を決して相手には読み取られないように紳士的に振舞う能力の誇示こそが社会生物学的見解としては、より優秀な子孫を設けることの可能な性的パートナーという判定を相手に下させることになるのと同じである。
 それは言葉の力にも繋がるのである。私は前章において「言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られることに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。/つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。/仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。/しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあることだ。/それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。」と述べた。この中に登場する「一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人」というのが実なかなり曲者であると私は思っているのである。
 これは簡単に言えば買被られるタイプの人というのがいることである。概して日本では言葉少なめで行動することに潔い人というのは尊敬を集めるし、偶像化されやすい。しかし孔子も言っているように、徳のある人は言葉も持っていなくてはならないが、時として徳を備えているように見えてその徳に言葉による裏づけのないタイプの、つまり見せかけだけは人格者のような見掛け倒しの人というのがいるのだ。
 それに比べれば、ある理論や言葉による思索をする人というのは、外見からはひ弱に見える部分もあるし、行動的には少々野暮ったい場合もあるかも知れない。しかしそういう風に論理的な裏づけのある人の方がいざとなったら、頼りになることもあるのだ。つまり私たちは意外と外見による風格のようなものに惑わされやすいのである。だから寧ろ風格とか品格といったものは、その者が責任を果たすことを積み重ねる内に次第に身についてくればよいのであり、最初に論理や言葉以前的にまず風格や品格を求めるというのは実はかなり危険なことなのだ。論理的な意味づけや理論、言葉による思索のない行動が勇敢に見えるのは、まさに孔子も否定しているような見掛け倒しである場合が多いからだ。
 私は前章で「私は孔子が(中略)文が「伝えるべき内容」はやはり言葉が持つ仕組みに依存していると無意識の内に考えていたと思う。それは要するに徳のない人でもいい言葉を発することが出来ることの方に寧ろ比重を置いた考えである。しかし孔子は恐らく意識的には徳のある人は必ずいい言葉を持つことの方に比重を置いていたかも知れない。」と言ったことの理由がここにある。何故なら私たちはある言葉を吐くのに相応しい外見というものをつい重視しがちであるからだ。だから逆に行動がある言葉による慎重な検証を経た確固とした信念に支えられているのなら、外見的な日常的行動のレヴェルである言葉を吐くのに相応しい人に委任するよりは、そのような言葉を自らの考えから伝える能力の人に委任する方がより堅実なのだ。
 私が何故このように言葉の持つ力を力説するかと言うと、それは私が述べた「真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまう」ことからもよく理解出来ると思うが、要するに風格とか品格の内に何故かモラルというものを外見で判断しがちだからなのだ。しかし理性というものが必要に迫られて本能を隠蔽するために招聘されたことはプラトンの「国家」を読んでもよく理解出来る。その理解のためにもモラルは外見的な手続きではなくもっと本質的な責任論に根拠を持つものであることに対する理解が私たちには必要なのだ。
 つまり誰も見ていない場合でも何か善なことをなすことこそ、モラルの起源であると考えられるからである。しかしこの責任は脳科学的には特定の部位にその働きが今はまだ認められていないそうである。しかしもし今後もそういう状態が長く続き、全く責任を司る部位が発見されないままでいるとしたら、その時はあるいは責任という意識が極めて言語的な脳活動の一つであり、言語のない状態では脳は責任を意識することが出来ないという可能性もあるように思われる。
 ならばある行動を採るのに全て言葉による思索とか思考を経過させずにただ闇雲に直観だけに頼ってするのであるなら、こんな危険なことはない。あるいはそういうタイプの成員に何か大きな責任を委任することも同様に危険である。勿論私たちの生活においては直観で判断した方がいい場合もあるだろう。しかしそれは寧ろ言葉によって思索を重ねた末どうしても結論が出ない場合に限るのであり、それ以外は殆どが言語的認識によって解決がつくものである筈だ。思考や想像において言語的認識は必ず登場する。勿論思考・想像の中でも非言語的なものも多く含まれるだろう。しかし思考・想像に全く言語的認識が登場しないことは殆ど考えられない。 
 しかし言葉による思索の裏づけのある人がここに二人いたとして、その二人のいずれに大きな責任を委任するかということになると、最終的にはいざとなった時、つまり言葉による思索の結果、両方とも正しいと結論されるような方針が出されたような場合、どちらを選ぶかということにおいて潔く決断し得る、つまり非言語的な直観力が優れた人材の方に我々は大きな責任を委任すべきではないだろうか?しかし重要なこととは、そのように最終的に残った二人のどちらの直観力が優れているかということに対する判断そのものが言葉による思索によってだけでは得られないことであり、結局この判断の根幹には直観が控えていることになるという矛盾があるのだ。しかしよい直観というものは言語的認識によって論理性を引き出しあらゆる思索を積み重ねた末にひょいと立ち現われるものでもある気が私はするのである。そしてそう私が思うこともまた言葉による思索そのものから引き出されているわけでもない。しかしそれほどではない場合の決断は多く言葉による思索によってどうにか下せるものが多いと私は思う。そしてそういった日々の言葉から論理を引き出すようなタイプの思索の積み重ねが直観力を養うのではないか。
 
 付記 昨日のニュースでチンパンジーも人間のようにかなりの割合(60%近く、また75パーセントは相手からの要請に応じて)血縁ではない相手に対して設けられた穴から向こう側の檻にいる相手に道具を渡し、向こうにいる相手が取りたいものを取らせられるようにする、つまり自分には一切得にならないことをし、それが血縁関係、特に親子とかとなると更に九割近くの個体がそれを実践する(しかし相手からの要請なしには親子ではしない)ことが京大霊長類研究所などの研究チームによって証明されたことを報じられていた。実はこのことが人間もまた進化の途上においては、非言語的思考が根幹にあり、然る後言語がそれを肉付けしていったということが理解されるかも知れない。しかしある意味では寧ろそのことが却って言語が思考や感情を円滑に相手に伝達し得るのだ、という真理も炙り出すように思われる。

Monday, October 12, 2009

第五章 言葉というものの本質

 言葉そのものは差別しない(仮に自分のことを余とか、朕と言ったとしても、そのことに対して怪訝な顔をするのは人間であり、その言葉自体ではない)。全ての感情、全現象、事物を表現するために私たちがそれを利用し、私たちはその中の忌まわしい語彙に対して眉を顰めることがあるだろうし、醜いことを意味する語彙を忌避したいだろうが、言葉が私たちにそうさせているのではなく、私たちが言葉にそういう意味を付与して勝手にそう感じているに過ぎない。
 私たちは自分で自分のことを自由だと思っているし、そう思いたい。しかしそのことと死が突然やってくることはまるで別個のことのようだが、実は繋がっている。人生が何度でもやり直せ、時間はいつでも引き返すことが可能であるなら、全ての哲学、全ての文学や芸術、科学さえも私たちに齎しはしなかっただろう。 
 だから言葉はそのことを知っている。と言うより私たちがそのようなものとして言葉を有らしめている。例えばそのことの中で自由とは選択という意味になる。選択したことは再び選択し直すことが基本的には出来ないことだ(ある時に選択しなくて別のある時に選択するとしても、最初のある時には選択していないことには変わりない)。あるいは、進化という語はある種が一度変異をきたしたのなら、元の姿には戻れないことである。生という語はそれが永遠ではないという意味に他ならず、永遠とは私たちにはつきとめようがないという意味に他ならない。
 言葉がモラルを作るのではない。私たちが言葉を生きることによってそこにモラルを読み取るのである。私たちは悪い言葉を品性のある言葉より早く親しみのあるものとして覚える。だから全ての品格・品性といったものは形式的・儀礼的であることを私たちは知っている。それらの語彙に対して私たちは型通り義務的に使用し、その語彙の意味するところを履行しておけば後は私的な時間を私的な空間において過ごすことを私たちは皆望む。しかしそういった私的日常にも抽象的語彙、抽象的思考、形式・儀礼的語彙や思考は伴う。
 私たちは完全に私的であること、完全に非形式的、具体的、非儀礼的、非抽象的であることは少なくとも発話、思考、いや想像においてさえ不可能であることを知るより他はない。それは責任遂行(仕事・職業)においても完全に公的であるだけではないことと一つのことである。
 私たちの思考には深く言葉が入り込んでいる。事象に対する概念語と違って関係概念は話者の感情を実は最も如実に表現する。特に否定辞は意味と肯定の拒絶、拒否、捨象を感情的に示す。全ての関係概念は、同意・同感・合意・協調・協力・共感、逆に反感・断絶・反対・異議・批判などを示す。
 名辞は概念設定上、私たち殆どの成員にとって忌むべき対象・事象以外は中立的なものとしてとどまっている。しかしそれは発せられるや否や、私たち他者に対しても自己に対しても感情を付与する。意味とは事象に対する感情であることはこのことからも明らかである。つまり言葉とは私たちがそこに意味を投入し、仮託する場なのだ。そして言葉における私たちの責任とは、その言葉を通して意味を伝達することが出来るかどうかということである。と言うより意味とは相手に自己の感情を伝達し得た瞬間に成立する。それはその語彙を通したある発話意図の伝達を通した相手の話者に対する感情の表明以外のものではない。つまり話者相互の対相手への態度表明という大きな舞台の上で演じられる演目こそが、個々のメッセージなのである。個々の意味に対しては分析哲学がよく考察したが、その舞台に関しては生の哲学がよく考察したと言えるだろう。
 私は本章を「言葉というものの無情な本質」と余ほどしようと思ったが、それを思いとどまった理由とは、本質とはそもそもそれ自体極めて無情なものだからである。
 「論語」に次のような一節がある。

 子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁

 子の日わく、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。

 先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)

 言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られることに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
 つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
 仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらある。だからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。
 
 例えばフッサールが最晩年に「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というテクストで生活世界と言う時、彼にとってもう一つ頻繁に登場する世界生活のことを考えているから、それは必然的に世界生活世界を言い含んでいると読者は通常考えるだろう。事実そのように読者が考えられるように彼はそのテクストを書いており、彼は言葉の真理を読む人が気づくように配慮した言葉を綴ったと言える。
 言葉は読む者が考えることが出来るように書かれるような仕組みになっている。また話すことはそれが書かれるようなことがあった場合それを書くことが円滑に出来るように聞かせる仕組みになっている。つまり書くことの仕組みを反復するようにして相手を理解させることが出来るようになっており、その仕組みは私たちによる誰かと話したいという気持ちによってのみ発動するようになっている。
 私たちは言葉を通して何かを伝えつつ、その伝えたいという気持ちを理解させてあげることにおいて自ら責任を作る。言葉を通して理解を他者から得るために他者が自分の言葉を理解するように持っていくことが、私たちにとって他者に対する責任である。
 プラトンは「国家」の中で悪いことを唆す友人と、自らの心の中に潜む悪い心という、言わば外的なことと内的なことを相互補完関係において捉えた。(「国家(下)」藤沢令夫訳 250ページ、第9巻、二 575A)ホッブスが「リヴァイアサン」において、あるいはヘーゲルが「法の哲学」において考えていた、外的なことと内的なことの結びつきとは、既にプラトンによって考えられていた。そしてその考えはネオ・ダーウィニズムあるいは社会生物学と呼ばれる人々の考えの中にも受け継がれている。つまりリチャード・ドーキンスはその著「延長された表現型」の中で個体と個体間の関係だけでなく、その個々の個体が持つ遺伝子同士が一つの内部に閉じた関係である個体を離れて相互補完関係、共進化関係にあるという仮説を採っている。このことを彼は「延長された表現型」と呼んだのだ。これはある意味ではあるテクストに書かれた文章の持つ真理が、それを読む者の考える真理と共鳴することにおいても体現されていると考えることを可能にする考えでもある。
 しかし共鳴とは、いい意味でならこんなにセレンディップなことはないし、感動とか直観とかそういうことと直結するのだろうが、昨今問題となっている携帯電話による文字入力による他者に対する揶揄には、言葉の持つ冷酷さが鮮明に示されている。しかし「うざいんだよ、死ね」といったメール文に対して敏感に反応する若い人たちを見ているとどこか文章というものの本当の強さというものは知らずに、表層的な言葉のイメージに戯れているよう思える。勿論言葉の戯れそれ自体が悪いわけはないし、それはそれで価値である。
 私は若い頃、病気で死にかけたことがあり、その時読んでいたジュネの文章は何かとても堅い印象を抱いたが、あれは恐らく翻訳に起因するのだろうと思う。フランス語は文語的に翻訳しがちになる文法の言語(しかしそれはあくまで英語と比較しての話であるが)なので、直訳すると確かに文語調になる。しかしジュネとは恐らくもっと現代で言えば2ちゃんねる的な文体を試みたのではないだろうか?
 しかしもし2ちゃんねる的な文体を施したにしても、文学とか論文とかエッセイとかいうものにおけるいいものとは、皆その時の感情を直に示しているものではない。もっとどこか冷めた目で客観的に自分の感情を見つめている目があるのだ。
 それは誰の文章であったか忘れたのだが(その当時読んでいたのが彼らのテクストだったので恐らくヘーゲルかフッサールかメルロ・ポンティかだったと思う。)認識と解釈とは違うものであることが書いてあった。確かに認識とはあるものに対してそのものが有している状態や性質に対して下す判断であるのに対し、解釈とはそのものがそのものであるために持っている背景や事情を考慮してそのものに対して下す判断であるから、どちらかと言うと翻訳に近い。しかも意訳である。それを下に言うなら認識は直訳である。
 つまり私は哲学テクストを直訳する必要性というものが最初はあるかも知れないと認めつつも、文学の場合直訳してしまうと、それを読む者はフランス文学とかフランス語のプロフェッショナル以外の人にとっては文学的なニュアンスは失われてしまうと思うのだ。
 そもそも哲学は難しい語調でしか表現し得ないようなニュアンスも多く記述するものなので、直訳という作業が最初は必要となる。つまり解釈はその次のステップアップされた段階のものであり、いきなりそれに突入することは危険だ。曲解とか誤解を生む恐れがあるからである。しかし文学とはそもそもそういう風に解釈を正確さの下に行うものとは違う。従って翻訳という作業はそのままその作品のニュアンスを決定づけるようなものなのだ。もしある海外文学に感動した人がいたとしたら、最初はその翻訳によるニュアンスの再現に起因するわけだ。しかしその人はそのニュアンスをそのままただ受容するだけでは飽き足らず、解析する意図で原文にチャレンジするかも知れない。その時翻訳されたものの原文で直面するのは恐らく最初読んだ翻訳が原文の持つニュアンスをより再現しているかどうかという自分による判定であろう。
 となると、最初に私が引用した「論語」中のあの文意は、私が前章で示したように言葉の方が普遍的であり、その言葉を吐く人がモラリスティックであるわけではないという意味は勿論成立し得るも、孔子の考えでは、言葉はモラルを考える必要がある私たちがそのモラルに従って生活する中で生み出されるものであるという、要するに実存的な生成論であり、発生論であることになる。だから文学におけるニュアンスとは、文が「伝えるべき内容」のことであり、文の仕組みではないのだ。
 しかしいざ翻訳されたものの原文に挑む海外文学のファンがいたとしたら、彼は恐らくただ翻訳を素通りする人よりは深くその文学のエッセンスを理解するに至るだろう。つまり彼(女)は明らかに「伝えるべき内容」を汲んだり、載せて運んだりする容器、つまり言葉の仕組みの方により意識を移行させているのだ。しかし一旦そうやって理解し得た言葉の仕組み(先ほどの例で言えば、原文フランス語と翻訳された日本語の違いを通した小説の文章理解の根拠となっている文意)を把握した後は、再び「伝えるべき内容」に立ち戻り、文学というものの言葉に対する直観的感受とか感得に彼(女)は感動するに違いない。 
 しかし私は孔子が仮に二つ前の段落で述べたように、文が「伝えるべき内容」はやはり言葉が持つ仕組みに依存していると無意識の内に考えていたと思う。それは要するに徳のない人でもいい言葉を発することが出来ることの方に寧ろ比重を置いた考えである。しかし孔子は恐らく意識的には徳のある人は必ずいい言葉を持つことの方に比重を置いていたかも知れない。しかし何故この「論語」の一節が残っていて私を惹きつけたかと言うと、言葉とか勇気の普遍性ではないかと私は考えているのである。つまり仁とは正義的なモラルのことであるが、勇気は端的に悪党にも備わっている。しかし恐らく人類が勇気さえ持てない、つまりそのような能力を付与されていなかったのなら、モラルを考えることも出来なかったのではないかと私は考えるからである。次章ではそのことを念頭に入れて考えてみたい。

Sunday, October 11, 2009

第四章 憧れられる存在

 私たちは既にマスコミを当然の社会環境として受け容れて生活している。天気予報、株式市況、ニュース。それらマスコミを私は一切信じませんと言いながらも、そういうタイプの成員でもその存在自体は認めざるを得ない。
 印刷技術はグーテンベルグによって発明されて以来「あることに対する説明」そして少し時代がたつと、「自分の考え」や「私の考え」が印刷され、複数の同一記号として流布することで、それらの文字記号に示された考えは像となる。そして写真、映画、ラジオ、テレビ、インターネット、ブログの発明により更に像は、声、顔(表情も含めた)と更に像の範囲は拡がり、ある説明、考えや作品を創造する人間の内側に対する視聴者たちの興味に沿う形で彼らの日常生活や人生、生き方にまで受け手は関心を抱くようになる。これこれこういう生き方や生活を送る人からこのような説明、考えや作品が示され、生み出されているという因果関係をそれらの説明、考えや作品と人との間に我々は自然と読み取るようになる。ブログはそれを自分から率先してアピールすることが可能だ。
 しかし実は活字だけの段階であるテクストを創造した人々以外にそれを送り出した人々、つまり出版事業にかかわる人々の判断がつけ加わっていたように、それ以後の全て示された説明、考えや作品はそれを像として構成する人々の思惑が絡んでいる。つまり像をより少しでも「憧れられる存在」へと高めるような配慮が施されているのだ。
 しかし像がテレビになると、そこに出演する人物の像(役者であれ、アナウンサーであれ、文化人であれ、スポーツ選手であれ)受け手が抱く全体の印象の方が作品よりも先行してしまい、その印象に沿った説明、考えや作品が求められ、自然と当該の人々もそれを意識して作品を作っていってしまう。
 インターネットはテレビ文化に対する反省意識によって生まれ、ネット以降は視覚的な文字像がより鮮明化しブログはホームページなどに対する批判、つまり仲介者なしの情報発信という形で主張する。
 活字・ラジオ音声・テレビ映像・ネット配信・ブログ掲示板といった手段を通して私たちはそこに情報全体から個々の受け手が構成する像は自分以外の人々の多くが受け取る像自体に対する一般的認識というものを一方でしっかりと認識し、常に自分自身が抱く認識との一致点とずれる点とを双方理解する。
 つまりその一致点が好ましい印象である場合のみ、私たちはそれらの像を「憧れられる像」として認可する。そうでないものは自分だけが好ましい印象を持っていても、やがて流布されなくなってしまうだろうから自分の中からも脱落させていく。
 しかし世間一般に広く流布するタイプの像と、オタク的なものや専門的なものを含む、要するに特定の人々へと流布する像とは次第に別々のもの同士として、あらゆるメディアにおいて共存してゆき、前者はマスコミを席捲することもあるが、後者は世相の動向を前者ほどは敏感に反映せずに寧ろそういう広く流布するタイプの像の存在の仕方自体の批判体として存在してゆくものとなり、前者における「憧れられる存在」をそうであるようにする支持母体とは次第に分化してゆくだろうが、しかしそれらの間には無数の中間段階が存在しグラデーションを作ることは言うまでもない。しかし「憧れられる存在」は支持母体が多く存在すればするほど偶像化されてゆく。
 私たち人間はオリンピックなどをして金メダルを獲得する勝利者を作り出すような意味で、全ての像の中での「憧れられる存在」という偶像を常に望む。それは近頃の政治にはとんと関心がない、何故なら支持したい政治家が全くいないからだ、という意見そのものが、既に魅力ある政治家の存在を望む心理を反映しており、そこではただ政治政策の正当性だけではなしに固有の支持したくなるキャラクター、つまりそういう政治家像としての魅力を湛えた存在を偶像として求めている。それはヒーロー、ヒロインたちになるアクター、アクトレスたちへの贔屓や好き嫌いこそがある映画を観に行く動機であるのと寸分も変わらない。
 私たちは全て発信される情報(娯楽番組とか他の作品全てをも含む)に対して何らかのレッテルを貼ろうとする。発信者の同一性を社会的一般的認知の下に像としての存在理由=意味を規定しようとする。それは個人に対してもそうであるが、集団や法人組織に対しても等しく、それらを他と分かつものとして個的存在として認識するのだ。
 小説家誰それの小説やエッセイ、各種学問のエキスパートによる論文とか説明書、NHKのニュース、日経新聞の社説、~教の信者の告白本、~社所属の研究員の入門書、誰それのニューアルバム(ミュージシャン)、つまりそこにある個人、あるいはある集団に帰属するとしても、その集団一般の認知度とか世間からの信頼度というフィルターを通して我々はそれらの像の存在自体を認識する。ある作家は今度どこそこの出版社から出版したというように。つまり私たちの像に対する評定はそのようなある考えとか作品とか説明に対する、それらを成り立たせる背景から考えるメタ認知によって支えられている。つまりそのようなものとして一般的評定を何に対しても付与しようとする。
 またそうすることでその一般的評定を基準にして期待に応えるか裏切るかの判定をその都度何かの像に対して私たちは作り出し、判断し、それを自分と世間一般との間で一致点とずれる点を見出し、その都度私たちは自分の立ち位置を確認しているのだ。
 要するに私たちは発信される像に対する印象の持ち方、認識の仕方における自分固有のものと、世間一般のもの(その像が世間へ与える影響力を含めた波及効果をも考慮に入れた)とを常に悟性レヴェルで判断することによってその像の存在理由を理解しているのである。その理解とは多分に反省意識による。またそうすることで一々全ての像の存在に出会う度毎にたじろいだり、うろたえたりすることがないように未然に防止している。そのこと自体は惰性的なことであり、感動がないことだが、実際我々はそうして情報の全てに振り回されないように心がけている。
 それはある特定のジャンル、専門分野に対してもそういう態度で臨む。「私はスポーツに対してなら関心があるが、政治には一切関心がないのだ」というように考えるわけだ。しかし仮に政治に関心がないとしても、関心がないという形でその者は政治に関与している。それは何に対してもそうだ。つまり関心のあるものに対して関与しているばかりではなく関心の全くもてないものに対しても我々は無関心という形で関与している。
 私たちは恐らく何に対してもさほどの関心がないような場合ですら、世間一般では「憧れられる存在」が世間ではあることを認知する形でそれらに関与している。それは社会的認知度が高いとされるものに対する理解を通してである。さてその理解とは一般化された価値に対する存在理由が確固としていることに対する認知である。そしてこれは私たちが名辞に対してその名辞を利用してあらゆる言語行為・記述行為を履行する際の理解の仕方と極めて性格的には似通っている。
 つまりそれは、それを世間一般に流通する像として世間一般に流通する像として存在理由が認可されたものとして他者一般へと名辞として言語行為・記述行為の際に利用することで得られる効果に対する一定の自己内の信頼が獲得されていることを意味する。
 するとここで一つの効果に対する信頼によって、何物かの存在理由に対する認識や理解(例えばNHKのアナウンサーによるニュース原稿の読み方とか、日経新聞の社説とか、~社の発行する専門書とか)は支えられていることになる。つまり何物(発信される像)かに対する流布されている存在理由に対する認識と理解とは、それを利用すれば他者とコミュニケーションし得るという事実や事例に対する信頼が自己内で獲得されていることを意味する。つまりもっと簡単に言えば、自己内での認識や理解とは自分以外の他者一般にも概ね認識され理解されるであろうという自己内の判断が成立することであるし、その認識像・理解像を名辞として利用することで他者一般とコミュニケーションが可能であることに対する信頼があり、それは我々の人間性を構築する基盤として形成されている信念に基くのである。 
 よって「憧れられる存在」のような存在の仕方は、あるよく使用される言説、例えば昨今では「テンションが上がる」とか「テンションが下がる」とかYKとかいったその時代固有のラングである慣用句(イディオム)とか、言い回しとか、語尾上げ口調とか、要するにその時代に固有の理解しやすさとか阿吽の呼吸の得やすさなどにも該当するのだ。

Friday, October 9, 2009

第三章 自由の定義

 私は自由を、思考・想像の自由という内的関係においてのみ今まで本論で使用してきた。しかし行為のレヴェルから考えれば、思考・想像は自由の名に値しない。そのことをより私たちに理解させようとした哲学者はサルトルだった。
 しかし私は大学生時代愛読の哲学者はモーリス・メルロ・ポンティだった。ポンティの文体、彼の哲学的主張には生きることの意味、そして本質に私はある固有の暖かさを感じ取ったのだ。しかし暖かさとはややもすると野暮ったさにも通じる。つまり青春にはヒューマニズムよりもニヒリズムが似合っているという部分があるので、ニヒリズムの方により大人的な感性を嗅ぎ取っていた(今では必ずしもそうとは言えないが)私は、たちまちサルトルのテクストに誘い込まれてしまっていた。例えば「アルトナの幽閉者」とか「聖ジュネ」とかを熱読した記憶がある。
 確かにポンティのテクストは生の本質的な喜びと感謝の念が溢れているし、ヒューマニズムという名は彼に相応しい。しかし私は必ずしも完全なるエリートコースを歩んでいく青年では全くなかったし、そうかと言って特別全てにドロップアウトしていた青年でもなかった。勿論内面においてはかなり反抗心というものはあったが。
 そういった青春に特有のやるせなさとか倦怠感において、私にとって強烈にニヒリスティックではあるが、同時に最低限の責任さえ全うしておれば、何を選択しても構わないという大人の選択のようなものとして、あるいは他者全般に対しても不干渉主義を貫くようなドライな感性に、実存という響きに固有の強さを感じ取っていた。そこには規制のなさに加えてある種の冷淡さもあるが、生きるとは所詮そういうことであるという諦念のような大人性があるように私には思えた。このことは次の次の章で詳しく考えることにしたい。
 サルトルは写真で見ると、カミュやジャン・コクトーたちほど伊達男ではない。それどころかどこか奇怪でさえある風貌は、しかしピカソほど豪放磊落のようにも見えないし、威厳とか自信に溢れる表情でもない。つまりいい男でもなければ、太っ腹でもなさそうである。また世渡りに長けたタイプにもとても見えない。つまりそういった屈折した部分が彼を固有の境遇を齎し、ある種社会や人間間に通用する通り一遍の信頼という奴に痛烈なる復讐心があるようにさえ思えたし、それは今も彼に対する変わりない印象である(この印象に関しては次章で詳述する)。
 サルトルは斜視であったし、その明快な強者の論理と弱者に対する極度のニヒリズム的な突っ放し方と、社会全体に対するニヒリスティックな眼差しの読者への強要とも取られるような文体といった彼の選択は、イケメン男たちや世渡り上手たちに対する潜在的で激烈な嫉妬とか嫌悪が生み出したのではないかとさえ思えてくる。
 話を戻そう。
 しかし自由というものを私たちはいかに定義していったらよいのだろうか?
 つまり何事かを実現していく力としての自由か外部からの圧力によって自らの行動の自由が抑制された形ででも持てる心の内面の自由という、この全く相反するような二つの関係を検証し直す必要があるだろう。
 まず外部に対して行動の自由を権利として享受するような最大限の自分を取り巻く状況を自分にとって良好なものとして確保しながら、行動に関して何ら他者から干渉されることなく生活することは、一見外部から圧力を受けて要するに自分にとって何を行動するに対しても自由が利かない状況で内心においては信じるべきものや理想を打ち砕かれないことと比較したとしても、それらはただ単に生活上での利便性とか要するに欲求の実現というレヴェルでの程度の差にしか過ぎないとも言える。
 つまりある行動がそれをするのに相応しいものであるような状況をより容易に設定し得ること、例えばそれに相応しい社会的地位が獲得されていることとか経済力や時間的余裕があることと、そういった自らの社会環境に関してあらゆる意味で全く行動を容易にすることを阻むくらいに自らの行動をスムーズにすることが可能な社会環境が全く設定されていないとしても、それら二つは共に同一志向性を持った心における自由の在り方であると言えないだろうか?勿論前者の方がよりいいことくらいは誰でも理解し得よう。しかし後者であっても、何らかの行動を実現したいという欲求が顕在化していて、それへと向けて思考・想像を巡らせているという意味では前者と何ら変わりないからである。少なくとも絶望している状態の人間がいかに高い社会的地位や豊かな経済力があったとしても、それは幸不幸のレヴェルではそちらの方がより不幸であり、それは要するに何ら将来に対する希望を心が持ち得ないことではないだろうか?
 つまり行動の自由を確保することによって内心の自由に関しても他者から干渉を受けることなく保全し得ることは理想的自由の在り方であるかも知れないし、そうではなくて外部から圧力を受けても、それに屈している心の状態ではなく、せめて心の中ではそういった状況を打破している状態を希求するような心持でいること、つまり内心の自由だけは侵害されないままでいるというのは最低限の権利であり自由においても、それは最も理想からは隔たってはいるけれど、ミニマルな在り方の基本である。
 しかし重要なことは、内心の自由を保全するためになす外部的行動を自由にすることを可能にするために働いたり、社会的地位とそれに伴う責任を全うしたりすることに全てを注げば最初に価値としてあった筈の自由は徐々に振り返る余裕さえなくなることもあり得るだろう。つまりある内心の自由を死守するために供せられる手段の方がずっと目的よりも増幅してしまうようなタイプの生活というのもあり得る。
 例えば最初は何かに関心があり、それを専門とするような生活が手中に入っていたとしよう。そしてその専門を社会一般に啓蒙することをするようになり、次第にその啓蒙の方に注ぎ込まれる精力の方が、その専門の何かに注ぎ込む精力よりも過大なものとなっていき、啓蒙行為が手段から既に目的化してしまっているような状態というのは常に容易に社会においても散見し得ることである。
 例えば政治家が自らの政治信条とか政策をアピールするためにテレビの討論番組出演することが頻繁化すると、次第に「アピールされる内容」よりも「アピールする姿を晒すこと」の方が先行してしまい終いには目的化してしまうというようなことはよく眼にする光景ではないだろうか?それはあらゆる権力に関しても言えることである。つまり権力とは何らかの責務、しかも一定の大きな責務を委任されていることによって生じているわけだが、次第にその委任されていることによって生じる一般の人々との距離自体が目的化していくことによって権力に対する陶酔という状態が生じる。
 しかも現代社会では全ての権力さえマスメディアとかマスコミに乗せられると、タレント化してしまうという運命が辿られる。つまり人気のある政治家、経営者、コメンテーターという風になるのだ。各種文化人、例えば科学者や専門の学者、あるいは人気タレントたちや作家、文化人たちは、次第にマスコミに流通した人格的なイメージ、つまりメディアによって存在理由を与えられた先行的イメージによって、書かれる作品とか発表される作品や仕事、論文といったものが評価されるようになる。そしてテレビに彼らが出演する目的は、あたかも彼らの仕事を宣伝するためになり、宣伝されたイメージによって新たなファン層や読者層を増やすことにだけ執心するようになる。
 そこでは政治責任とか、経営責任、あるいはマスメディアにおいて発言した責任が常に時代の流れに乗ることによって先行されてしまい、曖昧にされていく運命にある。つまり経済状況の好不況に伴うその時々に求められる主張・思想・人材が常に流動化され、使い捨て的にチェンジしていく。だから個々の政治・経済・思潮状況に対する責任を遡及することが極めて困難となってしまう。つまり全ての発言、言動が無責任的に次から次へと流布されるだけの現象と化してしまうのだ。
 本来自由とは責任が伴うものだというのは、少なくともそれが行動に移される時のことである。しかしその責任も現代社会では極めて法的な手続き上での契約責任の方によりウエイトがかけられ、そこにだけ厳密さとか正確さが求められる。政治家や経営者たちは、確かに政策が失敗したり、業績が不振となったら選挙で落選したり、株主総会で解任されたりすることがあるが、それ以前にリストラされた派遣社員を含めた従業員たちはトップが交代しても返り咲くことが困難である。しかもそういった社会状況を作った張本人とは、そういった政治家や経営者を選んだ全ての関係者であり、国民であり、要するにそういった流れに反対を唱えようが、静観しようが私たち以外の者ではない。
 法そのものも常に流動的であり、しかも一つの法が効力を発揮する期間は益々期間が短くなっている。そしてある法につき従うことが善ではないように思われる法、つまりその効力が極めて短い法という存在は、それが決定された時点ではいかに大多数の人々によって歓迎されていたとしても、既にそれが施行される段となると時代遅れのものとなってしまい、しかも順当ではない法の在り方に対して遵守する自信のない成員が法に逸脱する行為をして、それに対して法に対する厳密な遵守者たちが法執行の正当性からではなく、法遵守の正当性から法逸脱者たちを取り締まろうとすると、途端に我々は法自体が私たちの幸福のために設定された社会環境であるという本来の図式に対する信頼とか、行動の自由へと向けられた自然な欲求といったものが挫折する運命となるし、不信だけが横行するようになる。
 そうなると自由とは一体何なのかという問いに対して、耐えられ得る外部からの個人の行動の自由に対する圧力下にあって私たちは思考・想像の自由という形でのみそこに安らぎを見出すようになる。それは内心の自由の外部からの圧力による享受という「致し方なさ」である。しかも外部からの圧力が誤った方向へ突き進む法への遵守を強いるものであれば、私たちは法(これは法以前の国家や共同体による不文律を含む)の再設定へと赴かねばならなくなる。しかしその決意はかなり大変なものである。
 サルトルが「存在と無」以降訴えてきたものとは、工場労働者たちに対する決起などに象徴される社会参加というアジテートであり、投企に対する覚醒の促進であり、行動を伴った理想的自由の在り方に対する明確な位置づけであり、思考・想像による内的な自由は行動する権利が生きていることが実存に附帯することにおける志向性としての基本に据えられている。その主張の基盤は既にヘーゲルの「法の哲学」において示されていた。
 だからそれはそういう風に行動が本質的に思考・想像の自由に伴って実現されている限りの話であって、例えば今日の政治家、学者、文化人たちのマスメディアによる露出度と、その受け手から得る親近度において、殆どの成員は、ただ視聴率アップのために利用される便利なテレビタレント化しており、私たちが官僚を通してその税金等の采配を一手に管理させている権力も、とどのつまり私たちが専門分化した職種に対して、専門外のことには口を出さないという不干渉主義を肥大化させ、閉鎖的な特権階級を構成させているのだ。そしてテレビタレント化している人々も、官僚も共にそれほど内心の自由を謳歌しているわけではない。本質的に彼らは社会全体からの要請という幻想か、社会を管理すべきであるという使命感の幻想によって多忙に多忙を義務的に自らの日常を課しているだけのことである。それは殆ど法以前の法、つまり不文律に支配されているだけのことである。
 「憧れられる存在」としての著名人と彼らに群がる大多数の市民、しかしそのいずれもマスコミが彼ら全員の生活を取り巻いている現実の前では殆ど等しい存在でしかない。「自由とは一体何なのか」という問いに対する明確な答えを常時用意することが出来ないままでいるという意味では等しいのである。つまり「憧れられる存在に憧れる存在」という関係において、では彼ら全員を無視する人たちがいたとしても、彼らとて、「憧れられる存在を憧れる存在という関係を無視する存在」となり、三者の関係にかかわりを持たずにはいられない。つまり全ての成員は個々の時代状況のその都度の外部からの圧力に対する応答として自由の在り方を考えるという意味において常に同一水準の意識の成員である。
 そこにはブルジョワもプロレタリアも、資産家もホームレスもない。つまり社会的水準とか、時代状況全てから自由であるとしたら、それは永遠に生きていないこと、つまり生者として存在しないこと、つまり死んでいること以外にはないのだ。
 よってもし仮にここで自由を定義するとしたら、個々の時代状況でその都度の外部からの圧力に対応する応答を、生者として自分なりに下していくことを可能とする状況を設定することと、その状況設定へと自らの行動を可能化し得る思考・想像が健全になし得る、そういった感情が自然に持ち得ることになろうか?
 しかしこのように定義すると自由とは、可能性に対する信頼がその根底に潜んでいることになろう。つまりある状況を設定し、その設定した状況に従って何かをすればそこに更なる欲求の充足と、その先に新たな欲求が芽生えることと、新たな状況が待ち構えているという可能性を予感として見出し得ることであり、そういった状況設定そのものに対する信頼が基本として自由を支えていることになろう。

Wednesday, October 7, 2009

第二章 モラルと制限、思考と想像(3)

 責任転嫁とは何か悪いことをして、その責任を誰かに押しつけるだけなら通常許されるものではない。しかし集団や共同体、社会全体に害悪を与えないように自分の責任が取れる範囲を明示するために、必要以上の能力があるように他者に見せかけることよりはずっと責任倫理に沿った言動であると言える。つまりここで言っている責任転嫁とは、あくまで自分以外のある行為の責任を全うする者に責任を委譲するという、未然に自分が無責任に終わることを回避する知恵のことである。
 しかし偶像崇拝的逃避とは、ある意味では常に完全には充足され得ないものである。何故なら常にどんな成功者であれ、功労者であれ欠点もあるし、通俗的な趣味があったり、思考・想像レヴェルでは別に何ら普通の人と変わりなりなかったりするからである。つまり全ての偶像崇拝的心理とは、挫折するべく運命づけられている。理想は理想でしかないのであり、責任遂行に相応しい美化されたモラルをそこに発見することさえ出来ないのが通常である。
 しかしマスコミは常に理想が彼方にあるかの如く吹聴しまくる。特にそれが酷いのが、政治に対する期待においてである。つまり現政権、現社会状況、現経済状況の全てに対して幻想を煽り立てるかの如く、「彼方にあるべき」理想の政治、社会、経済状況というものを暗に示し続けるのだ。それに同調するあらゆるコメンテーターやあらゆる知識人、文化人、アナウンサーたち。つまり今よりいい時代の到来を常に仄めかすことがマスコミの基本姿勢である。つまりそういう風に私たちの心理を常に先へ先へと想像させることを通して、マスコミ自体の責任を見え難くし何か常に外部的なものによって現状は阻まれているという風に私たちを認識させるように論調全体を持っていっているのである。
 何故そのようにマスコミが私たちの心理を一定方向へと注ぐように仕向けるかと言うと、実は報道や放映自体には実はさほどの実体がないことを何よりマスコミ自体がよく知っており、過大な影響力を持つこと、あるいは先にも述べたようにマスコミが絶大な権力を持つように思われても困るからである。またそのようなものとして私たち自身もマスコミをあたかも私たちを取り囲む自然環境のように自然な言語環境として設定してもいるのだ。
 私たちにとってのマスコミの在り方に対する心理基準とは、そこそこに偶像崇拝的逃避を成立させることが可能なように機能して欲しいし、同時に自分もいつかはそのマスコミを見る側ではなしに出る側として利用する機会が訪れる可能性があるという風な状態のものとして幻想されていた方が精神的にも不安を除去出来るということにある。要するに偶像崇拝的逃避自体を既にモラルとそれによる制限で私たちがマスコミに登場する頻度の大きい人の発言することを信頼して、そういう本を買う(それはお笑いタレントがヒット作を出すことも同じことである。それは庶民の味方という幻想をセールスポイントにしている)という行動において積極的に採用してもいるからである。それはそうならない可能性の方が大きいのに、いつかは自分もあのタレントのように、あるいは自分もいつかはあの文化人のようになれるかも知れないという仄かな幻想を自分に与えてくれるものとしてマスコミ全体の存在感を位置づけておきたいという心理でもあるのだ。またそういう心理でいることによって内的な思考・想像は自由であるべきだという権利だけは保証されているという安心感を得てもいるのだ。
 所詮マスコミは、自分の生活とは直接関係がないことをも含めて、例えば国会や政府が決定したことを報道したり、そのこと自体を批判したりすることが自由な場であることを承知しており、マスコミは常に社会全体のムードを反映するものであり、それ自体は実体などないと私たちはどこかで冷めた目を持っている。しかし自分のこととか、自分の将来のこととなるとそうはいかない。人間が他者の死を経験して悲しいと感じる理由とは、その死者とは二度と生者としては会えないことだけではない。その死者の生前、私とその者しか知らないことというのがあったとして、その者が今は死んでいる以上、今は私以外の誰もそのことを知らないことの意味とは、あるいは私以外ではその死者だけがその死者が生前に私と過ごした時間に対する記憶を持ち、今は私によってだけ保たれているという事実の意味となり私が死ねばそのことについて語ることはおろか、記憶している者さえいなくなることに対する漠然とした恐怖、つまり生きていること自体が幻影であるようにさえ思われる寂寥感ではないだろうか?
 それは端的に自分の死がそれだけ一歩近づいたことでもあるが、それだけでもないだろう。その者にしか示さなかった私の態度や、その者にしか話せなかったことがあるとしたなら、その者は私にとって唯一の私のある部分の目撃者であるのにもかかわらず、その者が不在であるというのは、それだけである私の部分の死を意味する。
 そうであるなら、尚更「伝えるべき内容」を、その都度修正しているような日常からおさらばしてもっと「語り合うべき内容」があるのではないかと私たちは奮起すればよいのに、なかなかそういう決意へは至らないものだ。それは何故か?それは端的に自分の死というものを直視したくはないからである。だからその死という事実に対する思索からの逃避こそが言葉の仕組みを考えることを回避させているのだ。そもそも言葉の仕組みとはそれ自体で死と隣接している。そのことはしかし次章で詳述することとしよう。
 この論文の最初に第一章で述べた女子中学生が「女の幸せが欲しい」と彼女の担任の先生に述べたとして、そのことに対してませた中学生だとその生徒を叱責するとしたら、本当はその担任の先生こそが最も非哲学的な考えであることは明白である。と言うのもこの世の中には一度も結婚することもなく、いや成人することもなく何らかの理由によって死んでいく魂たちが大勢いることを全く考慮していないからである。
 私は教育者ではないから、そういう機会に恵まれることなどないだろうが、もし私が中学校の教諭でそういうことを私の生徒が言ったとしたなら、「そうか、そうなるといいな。そのためにもしっかりご飯を食べて、きちんと勉強もして、今は立派な大人になるように努力しろよ。」とか言いたい気分である。
 本来中学生の女子が「結婚をしてお母さんになりたい」と言わず、「女の幸せが欲しい」と担任の先生に言ったとしても、それが社会的害悪ということなど一切ない筈なのだ。そういう言説を忌避し得る風潮が社会にあることの方が問題なのである。そしてその発言に対して顰蹙を買うのは大人だけである。その発言をはしたないとか、恥ずかしくないのかと言う大人こそが、彼ら固有の羞恥に端を発して、ことの真実、つまり誰でもいつ何時突然死するかも知れないことに対して、あるいは幸福と縁がない人生も多く存在すること(尤もそれは「女の幸せ」とはどういうものであるかことに対する判断の問題へと帰着するのだが)に対する認識を全く欠如している、あるいはそういったことを通した人生全体に対する見識を全く欠如しているとしか言いようがない。
 しかしそれにも増して「幸せな女」という記述をより、「女の幸せ」よりもまともな「伝えるべき内容」としている理由というのが、その言説には一切のエロスとタナトスが感じられないこと、そしてそういうエロス的、タナトス的な言説というものは概して避けるべきであるという社会通念が蔓延っていることの方が極めて私には不可思議に思える。
 つまりより無味乾燥な言説の方が、社会的責務とか社会的責任を負わせる人間に対して附帯する発言として相応しいという観念そのものが私には極めて陳腐なものに思えるのである。それこそがモラルとその制限による観念である。つまり「女の幸せ」という言葉とか記述がモラル上ある琴線に抵触するのは、他でもなくその言葉の持つ仕組み、そしてその仕組みを通して私たちがその言葉に与えている意味そのものの持つ思考・想像の内的な自由を想起させずにはおかないという事実に拠るのであり、社会通念としての「伝えるべき内容」というものが、あるいは責任レヴェルの言説というものが生み出される際に、責任とモラルが手を組んで社会において平穏な状態を一瞬でも破壊すること自体に恐怖するという私たちの心理に根差している。
 しかしそこへ来ると、全てのアート、文学、哲学は本来その平穏な状況の破壊を旨とするものなのであって、従ってそれらはモラルと責任の結託という社会性とは対立するものであり、言葉の仕組みにかかわっている。逆にモラルの側からすると、マスコミが「~までなら出来る」、「~以上は出来ない」と明言することとは、マスコミ自体が言葉の仕組みに言及することとなるから、その本来の「伝えるべき内容」の範囲から著しく逸脱することを余儀なくさせるので、それは出来る相談ではないのである。何故ならそれを明言することは、マスコミの存在理由を生きていることそのものの本質に対して無力であることを宣言することとなるからである。ジジェク的に言えば、私たちはそういう内実があたかもそうではないように振舞ったり、装ったりすることをマスコミ自体が求めているというより、そういうものとしてマスコミを期待する。何故なら生の本質に対して何より個々が勝手に内的に思考・想像の自由において考えればそれでいいし、そのことを私たちは知っているからである。つまり私たちは知っているのだ、マスコミ自体が一切の思考・想像の自由とは無縁のモラルと制限という私たち自身の要請によって成立しているのだということを。
 
 だからアーティスト、文学者、哲学者たちにも私たちは偶像崇拝するかの如く、そこに自分にとっての理想の姿を見たいと望む。科学は客観的観察結果という実証性を求めるので、好き嫌いというレヴェルでは推し量れない基準で私たちは望むが、自分の生について、死についてとなると、やはり主観的なことであるし、それ以上に私秘的なことである。それ故自分の感性にぴったりくるテクストを選択したいと望むのは自然なことだ。しかしあるものに対して気に入ってしまい、他のものへは眼が向けられないようになることは実はかなり危険なことであり、憂慮すべきことなのだ。何故ならそもそもアートや文学や哲学といったものは、思考・想像の自由という内的なアナーキーに対する暗黙の賛美だから、それはかなり各個人の偏見も含まれるし、たった一つの考えや感性に毒されることはよいことではない。それだけではなく崇拝される創造者の側に立てば、それら本来の存在理由からしても、美化され偶像化されることは、それらの持つ抵抗とかニヒリズムとか諦念とか、要するにネガティヴな叫びであるパワーや本来の主張が無化され弱化されてしまう運命を辿る。これはテクスト創造者、作品創造者にとっては極めて避けたいことである。
 しかしにもかかわらず、私たちは彼らのテクストや作品を偶像化し、教養というモラルと制限に当て嵌めようとする。これもまた行為者の価値の固定化を通した彼らの創造物に対する同一性の認定ということだ。
 カントが権利問題として内的思考・想像における自由のレヴェルから晩年志し、未完に終わった責任問題(とりわけ内的なものとしてではなく、対社会的なものとしての)への視点をヘーゲルは内的自由をカントさながら踏まえた上で考えたと言える。
 ソシュールとフッサールは書記(シニフィエ)に対する能記(シニフィアン)のレヴェルから考えた。その際ソシュールはラングを、フッサールは生活世界を取っ掛かりとした。
 ハイデッガーとバタイユはそれが死と隣接していることに対する覚醒から考えた。しかし言葉の仕組みの持つ不可思議は、実は言葉を道具として他者と接する実存者の内的な発話意図の背景となる思考・想像の自由を巡る羞恥の問題でもあった。サルトルはそのことを僅かながら直観していたが、彼の興味は社会への企投としての自由、そしてそこから誘引される行動であった。
 しかし羞恥が自らを根拠に「伝えるべき内容」を選択するその仕方は個々の存在者で異なる。しかし羞恥が外部へと向けられる眼差しとその外部発信時に対処する仕方の個人差とは、そのまま権利問題としての思考・想像の自由の確保という社会性に起因する。つまり羞恥はその確保として、それ自身を原羞恥としながら、全ての成員がその確保を確約するための共同体システムとして原音楽行為として成員間の、ヘーゲルが言った主体的法設定意識を結集するように仕向けてもいるのだ。つまり羞恥が社会を作り、その社会が羞恥を守るのだ。その対処の仕方として存在するのが個別住居であり、プライヴェートな時間である。そして個別住居居住行為への個々の権利が相互規制的なモラルとして主体的な発信制限を促進し、それでいて表現の自由は、それとは別個に設定する。要するに「何を言ってもよいわけではない」からこそ、「どう表現してもよい」表現の自由という権利を我々は自身に与えているのだ。しかし幾つかのケースにおいては表現の仕方次第では「伝えるべき内容」以上の伝えられる側及び、伝える内容に登場する側に対する衝撃を与えてしまうことを忘れてはいけない。特にこれはマスコミに対して言えることだし、マスコミに迎合するタイプの考えで行動している人間にも言えることである。

Tuesday, October 6, 2009

第二章 モラルと制限、思考・想像の自由(2)

 つまり私の考えでは社会内部での責任遂行者並びにその実績者、つまり社会的に何らかの功労があった人に対する盲目の信頼とそこまで行かなくても、尊敬心こそがモラルというものを形成しており、それは一種の権威主義から派生した考えであることには変わりないと思うのだ。このことは私がわざわざ繰り返すまでもなくニーチェの視点でもあるのだが、その考えの下には責任遂行者の責任遂行を巡る能力そのものが思考・想像において自由であるからこそ成立しているかも知れないその可能性に対する認識を不可能にするかも知れないという考えがあると私は思う。
 つまりある行為実績を巡る社会的評定とは、その行為がたった一回限りのものであっても、社会全体にとって有益である場合には、その人に生涯付き纏う信頼に寄与するであろう。そしてその信頼性がその人の発言の全てに対して拝聴する価値のあるものとする見方こそが私たちのモラルとそれによる制限という項目を私たちの心の中に育み、「伝えるべき内容」に対して自主検閲を施すのである。
 要するにモラルとそれによる制限とは、権威ある成員に対する妄信があれば極度に狭いものになり、そこに発言の自由は消去されるが、そこまで行かなくても少なくともその者に対しては一目を置くという姿勢そのものが既にモラルと制限を生み出すのだ。
 妄信、崇拝、信仰といったものは全てこの範疇に含まれる。しかし部分的には確かに我々は何かを信じないことには何ら行動も発言もしようがない。しかしもしこのモラルと制限を、内的な自由、つまり思考・想像の自由にまで拡張しようとすると、まさに外部から内部を抑圧することへと繋がる。それは責任遂行能力そのものが思考・想像の自由によって育まれていることを見失っている。だからここに至ってモラルの存在根拠そのものに眼を移す必要があると思われる。つまりそれは端的に性善説的な責任論に対する見直しが求められる余地を生じさせているのだ。
 第一章でも既に多少触れたが、完璧なる仕事、完璧なる任務遂行、完璧なる責任遂行自体もある者の評定に際して私たち自身が与えているものなのだが、その者への尊崇とは、ある種のモラルそのものの美化と、彼らへの尊崇とが結びついた形で立ち現われやすいことが言えると思う。つまりそもそもモラルとは一定の水準に社会の平穏が保たれることを目的として、予め犯罪抑止力としての効果を発揮するものとして期待されている価値とか、考えである。それは常に前例として歴史的偉業であるとかのモデルケースが過去にあるのだ。だからそのモラルとは常に過去の例によるものである以上旧態依然的な部分が必ずある。そしてそのモラルの形成によるモデルとなった対象に対して我々は痘痕も笑窪的な見方、つまり恋は盲目的な見方を採用してしまうのだ。それが前例者としてモデル化された人物に対する美化である(だからこそ時として権力への魅力にとりつかれた人というのは、責任遂行をすると自分以外の一般の人々に対して思考・想像の自由に制限を課すようなモラルを提示するようになるのだ。またその権力者や権威者の魅力に参っていると私たちもそれを遵守するようになる)。
 しかし一方で社会から認められている筈の権利問題としての思考・想像の自由とは、そのモラルと制限のメカニズム自体にも眼が向けらていなければならない。ところが何故それをつい忘れ去ってしまうかというと、それは私たちが「伝える資格のある人から伝えられたい内容」という根拠を持った「伝えるべき内容」という建前主義とか社会的責任(社会的責任の多くは、云々という職業は「~までなら出来る」ことにおいて成立している以上仕方ない面もあるのだ。)において自らの発言をしてしまい、発言する者とは無縁に言葉の真理は成り立つという本意、つまり言葉の仕組みへの着目をつい忘れてしまうからなのだ。つまり「伝えるべき内容」そのものが既にモラルという私たちの犯罪抑止に対する要請によって制限を加えられているからに他ならない。それが表面的には語彙選択、伝え方の選択となって立ち現われる。
 しかしよく考えてみれば、実際私たちの思考・想像の自由こそが、責任遂行者に対してより大きな責任遂行への野望とか、機会を与えてもいるのに、そのことはすっかり忘れて、寧ろ一旦彼(責任遂行功労者)に付与した我々のレッテルこそが、つまり権威とか信頼性に裏打ちされた彼自身への疑いのなさや安心となって責任遂行者の行為を美化し、引いてはそこにモラルという幻想を付与してもいるのである。既に死去した者に対する美化と、生存者に対する美化とは実はかなり異なった結果を招くことも多いと私は思う。つまり生きている人がもしかなり若ければその者に対する妄信とは、その者に対する思考・想像の自由を奪うことにも繋がるし、またその者の中に悪辣なる権力欲を発生させることもあるからである。と言うのも私たちは責任遂行をする者に対してより過大視して、期待された責任遂行者に対して、より大きな責任遂行を彼(女)がし得るために彼(女)に与えた思考・想像の自由を権利として与えておきながら、他方同時に責任が遂行されると、彼にその責任遂行に相応しい「かくあるべし」という幻想やモラル的制限を彼(女)に当て嵌めようとして、要するによい結果がよい原因によって齎されるという理想的な在り方をそこ(偉業)に読み取りたい故にそう想像して幻想するようになるという次第なのだ。これは性犯罪者の自宅の様子を警察が捜索した結果、沢山集めたAVが犯罪を誘引した原因だと特定することと極めてよく似ている。しかし実際のところ、よい結果となったものが常に清く正しい(?)動機によるものではないことくらい中学生でも知っていることではないだろうか?
 つまり何か挫折をしたり失敗したり、恥を他人の前でかいたりしたことによって奮起して成功したような場合、動機的には復讐に近いものがあるだろうし、偶然的によい結果を招くことだってあるかも知れないではないか。例えば祭りの日は留守をしている家がその周囲では多いので、たまたまその日に空き巣を狙っていた者がいたとしよう。しかし祭りの日にそれを決行しようとして、たまたま自分が狙った家から既にその家に侵入していた泥棒がいたとしよう。彼がまさにその家に向かう途中でその泥棒がその家から出てきたところだった。しかもその泥棒を更にその日に追い詰めようと以前から警察が狙っていて、その家から出たところを警察官が捕まえようと後から追いかけてきているとしよう。すると彼は咄嗟にその家に侵入することを諦め、逆にその自分の方に以前からその泥棒をマークしていた警察の追手から逃れようと走ってきた泥棒を捕まえたとしよう。彼は泥棒に入ろうと思ってその家に訪れたのに、咄嗟の判断で後日警察に表彰されることとなる。そして結果的には彼のしたことは善行であったとしても果たして彼は内的には善良なる動機でその家へ向かったわけではない。勿論これは極端なケースである。
 つまりあらゆる成功とか偉業とかも実はこのような偶然的なこととして結果したことも多く含まれるのである。勿論偉業は偉業だし、善行も善行であるには違いない。しかし恐らく全ての偉大なる責任遂行者は、普段は普通の人たちであるし、間違いも犯すし、欠点もある。しかし私たちは往々にしてそういった成功例に対して権威づけたくなる(中位権力者は、自分よりも上位の権力を構成して、その上位者に対して敬意を抱かない者を爪弾きにする権限を持ちたいものである)ものなので、その成功を必然的なものとして位置づけることをするのだ。つまりかなり悪戦苦闘の末に獲得した成功であっても、そもそもそういうことなし遂げる才能があったのだと言いたいわけである。しかし悪戦苦闘をした末に獲得した成功例であるなら、それは本人にとっては予め与えられた能力をただ実践したというのとはわけが違うだろう。しかし私たちは権威とか偉業に対してそのように思いたい気持ちがある。つまりそのことを理由に、「所詮努力しても自分にはそもそもそういった能力が備わっていないのだから」と努力を回避する理由にしたいからである。この心理を取り敢えず、私は偶像崇拝的逃避と呼んでおこう。これは歪んだ形での代理感情である。
 しかし勿論この心理自体は完全に否定すべきものとも言えない。と言うのも私たちが他者に何事かを責任転嫁したりする場合の自己防衛力となってこの心理が働いていることもあるからである。それは先に述べた自分の責任の範囲を限定的に明示しておくことで、社会的な害悪を未然に阻止することに利用されるのなら、それはこの心理の有効利用にもなるからである。

Sunday, October 4, 2009

第二章 モラルと制限、思考・想像の自由(1)

 私たちはありとあらゆることを思考・想像することが出来、誰もがそのことを心に留めているのに、その全てを口に出すことは社会的に許されないことを知っている。そして本当は誰しも思考・想像と実際の行為は切り離しているのに、法を逸脱する者が出現し、社会にとって害悪となり得る行為が実際に起きたりすると、それは日常からよくない思考・想像をすることが、引いてはそういう行動を実現することに繋がると、一般的にはそう判断された報道がなされる。だから性犯罪者の住居で多くのアダルトヴィデオが本棚などに陳列されていることを大きく報じたりするのだ。しかしそういうものを鑑賞する趣味の人間の中でそういう犯罪を実行する者はほんの一握りだし、またそういう類のものを一切見ないで性犯罪に走る者のプライヴェートは一切報じない。
 要するにマスコミはモラルと制限に関し日頃の思考・想像のレヴェルから制限することこそが道徳的(モラリスティック)であると報道するかの如くである。モラルが必要であり、そういったモラルを育むのは日頃の思考・想像の抑制的訓練であるかの如き考えがそこにはある。確かに思考・想像レヴェルでの内容如何に行動レヴェルのモラル的実現という意味で抑止力があることは一定量としては認めよう。しかしそのような心がけで全ての犯罪が一掃されたらこんなに楽なことはない。警察など要らない。要するにマスコミとはある性犯罪者の自宅から多量のアダルトヴィデオが発見されたという事実と、その者が犯罪を実行に移したという事実を何らかの因果関係において結びつけたがるのである(またマスコミは一旦地に落ちた権力者の些細な失態をも執拗に掘り出し報道する)。
 しかしマスコミが賞をとった人に対して同じ番組に出演している皆が先生、先生と普段からはそのような学問や芸術や文学などに関心さえ示さないのに、急に周囲と調子を合わせるかの如く謙ったりする姿を放映することに全く躊躇を示さないことは、一面では私たち自身がそういう権威主義的判断を有効なものとして生活している、つまりある発言がなされて、その発言自体が有益なものであったり、真理をついていさえすればそれでいい筈なのに「誰がそう言ったの?」と質問して、その発言者が権威ある者であると信頼するが、そうでなければ急に信頼しないという習慣があるからこそ、そういう私たちの習慣を反映してそうなっていくのであり、また私たちの中に自分でもそのように反省すべき点があるからこそテレビなどに出演しているコメンテーターやレギュラー陣の発言の中から特にそういう箇所に即座に眼と耳が行くこともあり得ることである。
 しかしそのような権威主義的な安易な信頼性に対する考えの習慣と同じくらいに、この思考・想像に制限を加えれば行動レヴェルでモラルが守られるという考えもまた実に根深いものがある。しかしこの思考・想像レヴェルから制限を設ければ、あるいは日頃のプライヴェートな生活において趣味とか嗜好のレヴェルから制限を加えれば各個人から社会に害悪となり得る行為を除去し得るのではないかという考えを私は間違っていると思う。
 しかしそのことを問う前に、まず責任とはそもそもそれを果たしてさえおれば、後は私生活で他者(家族をも含む)に対して迷惑がかかることさえしなければ、何をしてもよいことが社会では一応容認されているという事実があることに眼を留めておく必要がある。つまりその事実から思考・想像の自由をそもそも社会は暗黙の容認として我々に与えていることになる。例えばその一つが信教の自由である。 しかしそうなると、先に述べたモラルは社会的害悪を未然に防止、抑止するために設けられたという事実と、責任遂行をしていればあとは自由であるという社会の暗黙のルールを各個人に認定しているという事実とは矛盾した間柄になってしまわないだろうか?つまり責任さえ果たしておれば、社会からその存在理由と認定された同一性を保証されている個人という事実が、何かの責任遂行者であるからその発言は信頼が出来るとする「伝えるべき内容」を享受する側から考えれば「伝えられるべき内容」が、実は「伝える資格のある人から伝えられたい内容」となり、社会が我々に、我々が社会に作るモラルがある筈だとする我々による責任遂行者に対する評定そのものがある種の欺瞞に彩られていることとなる。つまりモラルとは端的に「伝えるべき内容」の適切性の判断基準そのものが「伝える資格のある人から伝えられたい内容」で醸成された信頼性に依拠しているという事実に立脚していると私は思うからである。