Thursday, December 10, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四章 トラフック・モメントとは何か?

 私たちは個というものを考える時明らかに私と結び付けたがる。しかし個において私は公との相関においてのみ重要である。何故なら公において個を晒す時必然的に私が浮上するからである。しかし自という意識が私と共にあるとすると、それは他ということを私と公としてではない形で考えることを促す。公とは集団であり、個とはその一員であるという意識である。しかし案外私たちはそれをまず基本として叩き込まれ、然る後一人になった時に自を意識するのかも知れない。私とは公に対する個ということの性格を他から植えつけられている部分と自でしか理解出来ない部分との相克において顕在化しているとも言えよう。
 さて私にとって他者全員は、自にとっての他一般という形で何らかの形で公あるいは集団に属していると考えられるし、感じられるが(勿論例外もあるだろうが概ねという意味で)、しかしその他とは常に特定の自による関心対象である。その関心対象に対して私たちは自としても私としても固有の興味とかもっと知りたいという欲望を抱くが、常にその関心対象にのみ釘付けになっているわけではなく、刻々とその関心対象を移行させている。それは食べて歩いてパソコンでワードを打ち込んで、眠くなり睡眠を取り、散歩をし、風呂に入り、再びパソコンの前に向かうという行為の切り替えにおいても、関心対象の移行においても、実際に会う他者の顔ぶれに対しても、仕事のルティンにおける順番とか手順においても、常に切り替えをすることを誘引する動因と言う者がある。ある行為に赴くこと、ある行為を中断すること、それら全ては知覚自体がある対象にのみ注視していることが出来ないある種の辟易というものもあるし、移り気ということもある。それらは概して気分や衝動の問題である。
 しかしそれらを我々はあまり見てこなかったと言える。あるいは見ること避けてきたとも言える。それを私は関心対象、実際の行為に切り替え、中断、再開、変更の全てをトラフィック・モメントと呼ぶのである。これは端的に知覚と行為への動因である。
 我々は生において一度たりとも同じ状況での同じ知覚も行為もすることはない。常にその時々で一回限りのことである。
 私はある部分では自において成立する他、他において成立する自において、他に自以外の全て、つまり私で出来ること以外の全てを委ねておこう、そうすることで、その領域においては自は他に対して偶像崇拝する(前章でも述べた)、そして自においては他から一定の偶像崇拝された部分を担うという意識こそが、トラフィック・モメント足り得るのではないかと考えているのである。実はその中にこそ意図も、感情も、知覚も、自由意志も、意識も、クオリアも、記憶も介在したり、発生したり、持ち出されたりするのではないかと考えているのである。
 動因があるから記憶や感情があるのか、それとも記憶や感情があるから動因があるのかということは決着がつかない問題だろう。第一それは常に双方が双方の因果である。
 往来の契機(トラフィック・モメント)こそが往来を促し、往来が新たな往来の契機を形作ると言える。それは男女があるから愛の睦言があり、セックスがあり、愛の睦言をしたい気持ちがあり、セックスする欲望があるから男女があるとも言える。男女という差異が仮に私たちになくても尚、何かそれに代わる自と他の相関における動因は存在したであろうと我々は想定出来る。愛の睦言も男女の関係ではなければそれなりにあるし、自と他との間の羞恥とその温存、払拭全てに対する構えにおいてあると言えよう。それは第一章の図式における次の部分が該当する。

 行為への意識が自・行為を振舞いとして意識させる

ここに自は自らの羞恥を知る。羞恥は行為への意識によって創出され、ア・プリオリに付与されたものとされる

 偶像崇拝的逃避もある種の行為への動因である。何故なら他は他である立場とかある態度とかがあるということであり、自はそれとは別の意味で立場や態度があるということだからだ。しかし自においては私においてよりも立場や態度は希薄かも知れない。つまりそこにこそ哲学で自己と他者という概念を考える余地があると言える。
 偶像崇拝的逃避とはある部分では完全に他に対する関心を払拭する意味合いがある。不干渉であり無関心であり自自体への意識の集中へと切り替え、それに集中させるために他一切に自において行為不可能なことを委ねるという意識を持つ。あるいは自への集中においてそれを必然的に結果させる。
 つまりトラフィック・モメントにおける重要な動因の一つとして偶像崇拝的逃避というものを考えることが出来る。
 また偶像崇拝的逃避とはトラフィック・モメント成立に寄与する記述とも言える。そしてトラフィック・モメントが行為や知覚の切り替えを動因するとなると、それは知覚や行為を生じさせる時の構えであるとも言える。偶像崇拝的逃避はそれを意識の上で介在させる際に羞恥が生じると言える。自の全てを他に悟られたくはないという自動的な予防措置が心的にあり得る。何かを説明する時もそうだし、何かを聞きだそうとする時もそうだし、何かを終わらせようとする時もそうである。何らかの契機を必要とする。その時我々はトラフィック・モメントを探す。それが見出せればトラフィック・モメント自体が我々に行為や知覚の切り替えをする。
 一つの行為や知覚の持続は辟易を呼ぶ。そこで我々は偶像崇拝的逃避を応用してトラフィック・モメントを探る。それはほぼ同時的である場合もあるだろうし、多少時間的ズレがある場合もあるだろう。食事をし終えればレストランから出て行くし、トイレで用を足せば、トイレから出て行くし、ATMで金を引き下ろせば銀行から出て行く。一つの行為の終了に対する確認がこの場合トラフィック・モメントであり、ある長くつきあっている異性から許せない一言を聞いてそれが許せないと感じたら、別の異性に対して関心を示しだし、長く付き合ってきた異性と別れようと決意する時、その決意のトラフィック・モメントとするものこそその異性の不用意な一言である。
 つまり我々は公私を往来させる時も、行為や知覚を切り替える時も、新たな行為へと赴く時も、ある行為を中断したり、止めたりする時、ある集団から抜け出したりする時にもこのその決心を誘引し動因するトラフィック・モメントを自覚し、認識するのである。その際に我々は偶像崇拝的逃避を採用したり、利用したり、それ自体をトラフィック・モメントにしたりすることもあるわけだ。

付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇を取ります。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Wednesday, December 9, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三章 「ふりをすること」の正体

 私たちが何かの「ふりをする」時明らかにあまりそのことをしたくないのに、したいように振舞うことである。それはある部分偽装である。しかし偽装するということ自体に既に我々がある行動をする時、行動を他者に見られる場合、行動自体が真意に沿ったものであるということを他者に円滑に示すことが出来るか否かという振舞いにおける巧さという観念が定着していることを意味しよう。だから巧く他者に「何か」が伝えられるということ自体が既に内心と外面ということが乖離していくという現実に対する覚醒がある。だから巧く伝えようと思う時既にその者の内心では偽装するという選択肢もあるという認識は形成されている。「ふりをする」こととはだからあまりそれをしたくはないのに、義務的にしなければいけないという状況があって、あまり嫌々それをしている風に他者から察せられたくはないという事態の出現があって以降の人類による意識である、と言ってよい。
 それは行為自体に対する記述が脳内で常習化した末の結果である。だから何かを意識してする、そのように振舞うという、他者に向けられた意識そのものが既に他者に対する構えが臨戦態勢にあることを意味する。その時自らの行為を自動的にするのではなく、あくまで恣意的意図の下にするわけだから、行為自体への意識という意味で行為性として脳内で記述している。だから演技すること、振舞うこと、装うことといった全ては既にそれ自体で記述された末の意図である。
 本章で考えているところのものは第一章における後半の次の部分の認識に拠っている。

行為への意識が自・行為を振舞いとして意識させる

ここに自は自らの羞恥を知る。羞恥は行為への意識によって創出され、ア・プリオリに付与されたものとされる

羞恥は以後の行為、言語行為に「ふりをする」という意識を付与する

「ふりをする」という意識は自を他へ向けた構えと自の内的世界を二元化させる(二元的に認識させる)。

 つまり我々は自というものを他との疎通了解において考える時、自の行為、とりわけ言語行為において考えられる自分にとって自然であることと、他にとって理解しやすいこととの間に介在する齟齬を必ず自覚する。それは言語行為においてそうであるから、実際に語りの入らないジャスチャーにおいてもそうなる。
 つまり内的世界と外的世界をその段になって知るのである。それが最後の「自を他へ向けた構えと自の内的世界を二元化させる」ということに他ならない。
 しかしその過程で我々が必ずと言っていいほど経験することとは、端的に「こういう気持ちを伝えたのに伝わらなかった」とか「こう考えて話したのに理解して貰えなかった」という挫折である。挫折こそがこの内的世界と外的世界との齟齬を我々に教え、他に対してなされる自の行為を「振舞う」「装う」あるいは「ふりをする」という様相において理解させることとなる。
 だから「ふりをする」ことの本質的な実体とは恐らく「自然にする」ということ自体に内在するものに必ずあること、それが「敢えてする」こと「恣意的にする」こと「技とする」こと「意図的にする」こと「人工的にする」ことである。
 ここには自然であるということ自体に内在する多義性、両義性がある。
 トラフィック・モメントは偶像崇拝逃避によって自と他の領域を責任転嫁的に明確に峻別することにおける安心、そしてその安心を突き崩す他の自への領域侵犯によって、あるいは自の他の領域への好奇によって発動する。他によって見られる自の「在り方」に一抹の不安と懸念を感じるからこそ我々は「ふりをする」ことをその都度構える。自による自に対する他からの視線への同化を試みるのだ。
 よってトラフィック・モメントとは偶像崇拝的逃避があるからこそその再考と検証においてなされるのである。その際に偶像崇拝的逃避自体への懐疑が「ふりをすること」を促進すると考えてもいいだろう。

Tuesday, December 8, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二章 意識とは 記述と構え によって作られている

 意識は先験的に私たちに付与されているわけではない。それは寧ろア・ポステリオリに私たち自身の意味(私たちが私たちに付与した)→人格、人格→意味 という連関によって先験的であるように思い込んでいるに過ぎない。意味は体験的記憶に伴う感情であり、その傾向性が人格を理性的方向付けとの兼ね合いにおいてその都度決定している。
 記述とはその都度の私たちの判断そのものの傾向性こそが、個々の対象への構えとして構成させている。
 ここに次に図式が成立する。

  →
意味 記憶
  ←↓ ↑
  →
記述 判断
  ←↰↓ ↑→構え
↳ 傾向性

 これら個々のトラフィック・モメントも又、傾向性そのものと理性的判断、あるいはその都度の決心に依存している、と言える。
 尚前章で私が示した図式の↓はあくまで概念上での展開可能性として示しているのであり、因果的時間系列ではない。それはある部分では常に同時的であるとも言い得るし、ある部分ではある事象に対して後天的にそう認識し得るということである。
 尚人格について言えば、それは他との相関性において自においても決定するし、また記憶内容の概略的事実以外のエピソードに纏わる意味は刻々と変更させていっている。そういう意味では全ての心的決定はその都度の偶像崇拝的逃避(本ブログ「トラフィック・モメント」を参照されたし)、つまり自において他に責任転嫁的に委ねておけばよいという判断に基づいて、こればかりは他一般という偶像には委ねられないというもののみを自における対象化すべきもの、つまり関心事項とする。
 要するにここで重要なこととは、端的に我々は常に意識が全ての行動、意志決定の出発点であるように思い勝ちであるが、それは一種のそう思いたいこととしてであり、内実的には我々にとって意図(ここでは図式に登場しないが、記述が行動と結びつく時には登場する)こそが全てを決しているのであり、そこには目的と期待、願望といったものがある。しかしそれは覚醒しているという意味では確かに意識ではあるが、覚醒していることと意識とを通常我々は形而上的には違うものとして考えている。つまり意識とは意志と覚醒とが結びついている時のことを言う。すると意識とは本質的に後発的な複合化された概念ということになる。そこで私は複合化される以前的なものとしては記述と判断、傾向性そしてそれらの相関性を軸とした構えを意図の根源と考え、構えが行動へと移される時に意図となって明白化、顕在化される、と捉えるのだ。
 だからこそ本章を 意識とは 記述と構え によって作られている としたのである。

Monday, December 7, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第一章 相互構成関係

 世界とはア・プリオリにあるのではない。他に対して構える時世界は現出する。他は構えられていて自によって世界を構成することに参与する。
 構えそのものを自覚する時、そこに意識がある、と私たちはする。
 他が自の前に現出する以前のそれは未だ構え自体は自覚せられていなければ意識ではない。
 自覚すること、そうしながら構えを過去との対比で現在のものとする、つまり構えそのものを記憶する時、意識が人格を構成するものとして把握される。意識が人格を構成するものとして把握されれば、世界は意識によって記述される対象となるが、世界が対象であることが、恒常化すれば意識は既に記述によってのみ認識され、世界も記述することによってのみ成立するものとなる。これが言語化された世界(「世界」)の最初の構えである。
 語彙はこの構えにその都度引っかかってくる。どのように引っかかってくるかと言うと、世界に対する判断によってである。知覚と対象化の構えに対する自覚と、反省的判断が他の存在とその認知を通して語彙は選択されるが、言語行為においては自を「世界」の中に位置づけ他をもそれと並列されたものとして要請する。
 言語行為は対象に対する全ての判断を事後化する。
 しかし意外と言語行為は他への構えよりも「世界」への構えを優先させる。それは 意味=過去と現在の連続の自覚 の合間に反省されるし、反省対象となって現出する。
 意識は言語行為中は 「世界」=意味 の背後にあり、寧ろ言語行為の合間に言語行為の意味の往来への反省、つまりそこに人格を自然と認識的に形成し、(持続された)構えに対する 自覚=対自 の事実そのものである過去と現在の連続の自覚から現出する意味は、言語行為の認識だが、実はこの人格規定(自に対しても他に対しても)そのものが、あるいは他に対する自、自に対する他の認識、あるいはその往来そのものが意味を創出している。私たちはここに次のような図式を得ることが出来る。
 
意識の記述化が言語化の構えである

他を通して構えの自覚という自を、他と自の並列化への手段とする

記述された「世界」の中に自の人格を形成し、人格は他との言語行為において、その反省意識によってその都度決定される。

反省の伴う過去と現在の連続の自覚が、自と他との間の人格の往来を自覚させる

自・他の人格の往来が意味を創出し、意味が自の行為を自のためのものも、他への投企をも行為そのものへと意識を向かわせる

行為への意識が自・行為を振舞いとして意識させる

ここに自は自らの羞恥を知る。羞恥は行為への意識によって創出され、ア・プリオリに付与されたものとされる

羞恥は以後の行為、言語行為に「ふりをする」という意識を付与する

「ふりをする」という意識は自を他へ向けた構えと自の内的世界を二元化させる(二元的に認識させる)

 「ふりをする」は意味を伝えることに供せられる。あるいは意味を伝えることのために自の内心をこの次のものとする。
 ここに往来(トラフィック)がその都度意味を作るから、意味とは意味に対する作り変えによって意識される。
 つまり意味への構え、意味から別の意味への作り変えを誘引するものとは、言語行為であり、 「世界」への構え=記述 であり、 自・他の言語行為の反省=人格への自覚、あるいは確認 であり、これらこそ、自・他の意味(人格を作る)、人格(意味の伝達の手段)を往来の契機(トラフィック・モメント)とする。
 意識にとって記述と構えはその都度なくてはならぬものであり、まさにこれこそが「世界」を構成、私たちを存在者としている。あるいは記述と構えが成立すること(事実)そのものを、意識自体は反省によって得られる。
 反省こそ過去と現在の往来の契機(トラフィック・モメント)が作用している。それは私たちが世界を知るために「世界」(言語化作用)を通したその都度の関心という固有の構えである。
 反省という構え、関心という構えを構え自体として自覚し意識することそのものが記述であり、この記述こそが自・他において意味と人格を作り、その都度作り変える。
 反省(過去と現在の連続の自覚への構え)と関心(世界を知るために「世界」を通して何かを対象化すること)こそ行為を誘引し、意味と人格を作るトラフィック・モメントである。
 
 トラフィック・モメントはア・プリオリに付与された傾向性と、そのことへの自覚と反省、そして傾向性の作り変えをも含めて常に新たに意味と人格と関わっている。トラフィック・モメントとは反省と関心の質量である。
 「世界」とは意味の公理化によって構成されている。

Sunday, December 6, 2009

〔言語の幻想とその力〕5、「ふりをする」ことの哲学

 その女性は結婚した。そして夫と共に生活する道を選んだ。彼女は愛しているふりをしていた。しかし愛してしまった。愛してしまった以上は身を焦がすほど接近することを求め始める。求め始めると所有したくなる。しかし所有は所詮不可能なので、常に距離が感じられる。他性認識の発生である。距離が彼女の愛を求めることを更に促す。求めることは求めるふりをすることから始まる。求めるふりをすることが愛するふりをすることになる。だから何かをすることとは、何かをするふりをすることと寸分違わないのだ。ふりをすることは示すことであり、それを受け取る者がその通りに受け取ることを望むことである。自己の本意とその本意の外面的現れは一致しないこともあるかも知れないが、一致しないことばかりであるということもまたあり得ない。だから愛しているから愛しているふりをすることとなるが、愛しているふりをすると、愛することともなるのだ。行為の持続がその行為を望むこととなるのだ。愛するふりをすることの下手な者は、愛しているが、そのふりをすることが出来ない(嬉しい時に嬉しい表情が出来ない。)こともあるし、逆にそれが上手な者は愛していないのに、そのふりをすることがどうといこともないのかも知れないが、表面だけのふりは長くは続かない。それを見破る者が必ず現れるからである。だから表面的な取り繕いは他者に対する社交辞令的な行為と見做される。
 憂鬱な態度、刺々しい性格といったものも一面では、その人間の身体病理、例えば胃や肝臓を治すとか、痔を治すとか改善する部分があるから、心と身体は一繋がりである。だから逆に身体病理を抱えているのに、晴れやかな顔をするのは、偽装となる。それ以外の偽装では相手を快く思っていないのに、好感を抱いたりすることがよく見受けられる。しかしそれを持続してゆくとストレスが溜まり、一気に爆発してしまうであろう。だから逆に楽しいのににこにこしないで、ぶすっとした態度を採っていると、段々と本当に楽しくなくなるものなのだ。だから「ふりをする」ことは、それが本意であるのなら、不可欠な大切な行為である。それは意思表示なのである。意思表示はその時の心の内容を伝える意志の表示であると同時に、その表示が真意に基づくものであることの態度表明である。それは表情と見つめ合うことの中で取り交わされる。
 ただ「ふりをする」ことは、職務上のマナーである場合、偽装であるということも考えられる。例えば幼児なら両親に連れられてどこかの商店に入店した時に、にこやかに来客に笑顔で接する店員に対して「ねえ、あのお姉さん笑っていたよ。あの人僕のこと好きなの?」などと両親に問い詰めるかも知れない(尤も私の幼い頃はそういう素直な無垢な子供が多かったが、今時の子供はテレビ等からの影響があって、そのような純真な感慨は持てないのかも知れないが)。しかし職務上のマナーはたとえ笑顔でも「ふりをする」ことであり、その人間の真心であるかどうか断言することは極めて難しい。たとえ消費者金融の事務職員さえ、金を借りに来る客に愛想よく笑顔で接するに違いない。しかしそれは相手に対する忖度ではなく、あくまで実利的な装いであるに過ぎない。

 付記 一応「言語の幻想とその力」はここで終了致しますが、暫く論文作成のため休暇を頂き、この最終章のテーマである「ふりをすること」は極めて重要なテーマなので、再度別の形で本格的に論文を作成してから掲載更新致します。当ブログはそれ以降も「理屈っぽいあなたに贈る言葉集」、そして引き続いて「権力の構造」を修正した後に掲載更新致します。(河口ミカル)

Thursday, December 3, 2009

〔言語の幻想とその力〕4、客観としての他

 フッサールが言う超越論的主観性というのも、ハイデッガーの言う現存在による配視も、ミシェル・アンリが言う限定態としての他性認識も、レヴィナスが言う贈与とか他性も共に、我々が主体とか自己といった認識を得る際に、根源的に他を客観的に認識する能力に発しているという思想性に裏打ちされている。それは対自的認識の発生根拠であり、対他的な認識も、対自によって得られた即自的な認識の発生の事後的な在り方かも知れない。さてフッサールが「論理学研究」期において示した純粋心理学的見地はどちらかと言うと、即自的認識であった。しかし即自へといきなり行くということにはある種の不自然さが伴う。フッサールは超越論的主観性においては、即自以前的な対自認識を「イデーン」期において規定した。そしてその根源的な思想には場といったものであるとか、他性ということが背後にはあったのかも知れない。事実志向性というものさえ、他を必要とするからである。そうである。主観とは客観を起源としていのである。そして客観とは同を得る以前に異を得ることであるが、根源的には異とはそれ自体で同であり、然る後、我々は自己を同であると認識する。そして異を他へと転化させるに至るというわけである。
 ヒラリー・パットナムは現象学を批判的に捉えているが、彼が言うように「生起するものとは能力である」(「理性・真理・歴史」より)という捉え方は明らかに外在主義的視点のものである。我々の意識を内在主義的に捉えたのと逆のベクトルが哲学上のスタンスとして介在している以上、パットナムの批判を受け入れ、即座にフッサールを批判するわけにもいかない。その意味では幾分ウィトゲンシュタインもまた外在主義的である。言語それ自体を使用と捉えるその遣り方は、使用する側からの発言であるよりは、寧ろ使用されている事態を俯瞰した物の見方であるからである。そこでフッサール的な前言語状態といったような根源性への認識と私というものと外延との、つまり経験し得ることの全て、目撃し、体験し得ることの全てとしての世界と私の一致というウィトゲンシュタインの認識もまた、外在主義的視点の応用として位置づけることが可能である。よって先述のように私がそのどちらを選択したらよいかを決めあぐねているという事態の回答としては、我々がフッサール的言語観を正統とするか、ウィトゲンシュタイン的言語観を正統とするかという問いそのものが不毛なものと化す、ということだけは確かなようである。これは採用される視点と問題設定の質的な相違に応じてどちらかを選択するというよりないという結論に達するのだ。
 少なくともフッサールもウィトゲンシュタインも共に哲学が外在主義的な脳科学的な解釈とか神経学的解釈として納得し得ることだけで人間が生を理解し得るとは思われないという面では全く一致している。そしてそれはハイデッガーの次の一言(「存在と時間」中公クラシックスⅡの41~42ページより)の主張を説得力あるものにしている。
<現存在の非透視性は、ひとえに、また第一次的に「自己中心的」な自己錯覚のうちにその根をもっているのではなく、それと同じくらい、世界を識別しえないことのうちにもっているのである。>
 つまりハイデッガーの言う現存在は極めて意識の自覚というのに近いものなので、現在「生」を実感している私のこの息遣い、思考の志向性といった全ては、時間論的に言えば、そういう全てとして把握し得ると思った途端に次の瞬間に移行しているようなものなので(「存在と時間」は時間という謂いは最後近くしか多く登場しないが、全編に渡って時間意識の哲学テクストである。)そういう全体的な推移の中でだけしか自己を把握出来はしないある種の曖昧さ、大まかさといったものが、我々に純粋な現存在という意識を確固たる指示を不可能にしている。それを恐らくハイデッガーは非透視性と呼ぶのであろう。透視というのは真理の直視である。真理とは純粋であり、曖昧さとか大まかさはない。そこで我々はこの真理の直視の不可能性において、それが認識上は可能であるということを我々自身が信じて哲学するわけだから、それにもかかわらず認識論上真理という名辞として指示し得るのだから、出来ない能力を名指すことそれ自体をハイデッガーが「自己錯覚」と呼ぶという風に私は解釈する。
 そしてそれはフッサールとウィトゲンシュタインを巡る言語の二つの認識の在り方から見る私たちの外在主義ならざる認識としての哲学の在り方が、今内在的に自らの心の在り様を解釈しようと欲すると我々はそれを曖昧な、大まかなものとしてしか掴みきれないことをも示しているのだ。しかしその現実の掴み切れなさとは無縁に、あるいは反比例して認識上の真理はどこまでも明快である。「そういうものとして理解する」ことが哲学の認識の在り方であるとすれば、純粋な正三角形は世界には実体論的には存在しない。しかし正三角形の定義とかその定義を通して理解し得る概念上の正三角形は常に我々が存在し続ける限り我々の理解上、つまり脳内に存在する。そして後者の概念上の純粋な正三角形こそ真理である。そして客観性というものはそういう真理として実存するものの他としての価値論的な認識に他ならない。
 つまり客観的な認識を持つことそれ自体が正三角形という概念上でしか存在し得ないものをあたかも存在するものとして認識し、それを基準に三角形に近い存在物を認識しているのが私たちである。それは客観的に他を認識することを通して、知らず知らずの内に我々は本来持つ我々の能力として他を、そこに真理を見るための方策として利用しているのである。他は真理を持つために見るということにしなければ、一々固有性や個別性という異だけに捕らわれていたら、一切の処理、つまりちょっとだけ見たものをやり過ごすということは出来ない。全部の事物を我々は過度の関心を持って臨むことなど出来はしない。そこでやり過ごすためにこそ、その事物をすぐに取るに足らないものとして忘却対象として位置づけるためにこそ、例えば都会で電車で乗った時に見たひとたちの顔は、それから仕事上、友人関係として必要な識別性においてではない限り、一々全員の顔を記憶に留めておく必要もない。そこで我々は電車に乗った時に人の顔は、それがどんなに魅力的な異性であっても、誰か知人に似ていても、そういう魅力的な人、似た人がいたということだけを頭に留め、後は忘れるように脳が指令を出しているのであろう。そういうものはすぐに忘れるものである。だからこそ他として自己認識以前的に立ち現れる客観的な基準の認識は、ちょうど今述べた「魅力的な人」、「誰それに似た人」というカテゴリーの名札を付与して留めおくだけで、あとは全部忘れようとするのだ。
 しかしここで一つの問題が浮上してきた。それは他者というものの存在が我々をして意思伝達せしめる誘因作用として位置づけられるなら、他性というものが即ち他者の存在を自覚、意識して初めて客観的な認識を得ることの必要性に迫られるということになる。なぜなら他者がいないのなら、我々は殊更事物を客観的に存在するものとして位置付け、「あの男性」とか「あの車」という風に陳述する必要などないであろうからである。客観としての他は存在する事物も人間も全てひっくるめて他者の存在を必要とするし、またそれなしには認識上の必要性には迫られない。(とは言え、一人で孤島に暮らしている人間でも、規則正しい生活パターンを身に付けることが可能なように<コリン・マッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」勁草書房刊の最後部を参照されたし。>客観的認識それ自体は他者との意思伝達なしにも可能であろう。しかし少なくとも、他者との接触を一度でも持ったことのある人間は、対自己的にも客観的なる他という認識を持つことが出来るが、生後間もなく人間社会から隔離された状況の人間(それは生物学的なホモ・サピエンスでしかなく、少なくとも言語活動による理性的人間のあるべき像ではないであろう。)、昔アベロンの野生児というケースがあったが、そういう者は恐らく客観的認識としての他を心的には感じることは出来ても、他者にそれこそ客観的に説明する能力がない。(それは動物も同じことである。)そういうものの場合、我々は客観的認識とは呼ばず、ただ主観的な記憶という風に呼ぼう。(尤もフッサールはこの客観的認識それ自体をも全体的な主旨から逸脱する可能性があるので省略しようと思う。関心のある方は西研著「哲学的思考」<副題、フッサール現象学の核心>を参照されたし。要するにフッサールはあくまで言語を取り巻く状況から考えているのであり、ウィトゲンシュタインは言語内で思考することを問題としているのである。その意味でフッサールは言語を外在的に、ウィトゲンシュタインは言語を内在的に捉えていると言える。)
 しかしここで問題となることの内で最も重要なこととは、他者の存在が誘引する客観的認識の説明責任的必要性が、他者を他者一般として、例えば親しい友人でも「これこれこういう性格の人間的なタイプ」のように叙述する可能性をも含めたカテゴリー化された認識を人間にも採用するのである。そして我々が概して社会生活において偽装する、例えば若い年齢のアナウンサーが昔活躍した政治家が死去した時に、あたかも自分もその政治家に存在をよく知っているかのように振舞う(実際に政治に詳しいアナウンサーなら可能であるが、もしそうではなくてもニュース原稿を読む際に「あの」、「例の」という風にあたかも知っているかの如く原稿を読み上げる職務上の責務を帯びている場合、我々はその原稿を読む際にアナウンサーになった誰しもが恐らく他者一般(例えばニュースで「お年寄りの方にはご存知でらっしゃるでしょうが」というような陳述は、老人一般に対しても、若いのにその人のことを知っている人に対しても失礼になるので、そういうニュース原稿作成者なら原稿は書かないであろう。つまり何十年代に活躍したとかいう風に表現するに留めるであろう。)を想定して発語しているのだろうし、またニュース原稿作成者も、そういう視聴者一般を想定している(全体的に他者一般を指示している)のであろうと思われる。
 ここに来て本論はこの職務上の偽装的とも受け取れる「ふりをする」ことの哲学に突入せねばならない。次章ではそれを扱おう。