Saturday, January 30, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十章 他人の目が気になることの構え

 文章は本当は一番言いたいことを述べるべきだし書くべきなのに、なぜか書く段になって他人の目を気にして書いてしまうということはよくあることだ。
 だから日記がそういう意味では他人に見せるわけではないから一番いいのだが、日記も毎日つけていくと段々ノートも溜まるし、尤も一日に一言だけであるならそれほどでもないが、一応散文の体裁をとったものばかり毎日つけていけばかなりの量となるので、整理も大変である。それに字の下手な人はなかなか後で自分の文章を読み返すことが厭になるということで、ツイッターやブログでそれを書き込めば整理とか字の下手さ加減の問題については一挙に解決する。
 しかしそれらは他人の目に触れてしまう。そこで他人の目を気にした当たり障りのないことを書いていってしまう傾向もある。人が書いたものを見るかもしれないということが、どうしても一人で書いて後で一人読み返すということとは違った意識を与えてしまう。これは一つの構えである。つまり他人ならそのことに関してどう考えるだろう、どういう意見を持つだろうということを前提とした何らかの考えを書き込むということになってしまう。
 しかしそれは一体一人で書いて一人で読み返すような日記形式の場合でも同じではないのか?その点はやはりかなり難しいと言える。たとえ後で読み返すのが未来の自分だけであっても、やはりそれはそれで今の自分からすれば立派な他人でもある。そこで我々は未来の自分という特殊な他人に向けてものを書く時やはりそれなりの配慮を心がけるものではないだろうか?
 しかしブログ、ツイッターでは最初から色々な人が、しかもそれも知らない人が読んでいるかも知れないということを前提として書き込む。そこで我々は自分で書く文章を後で読み返すという自分の考え方、感じ方の変遷を知るために書き込むということと、それに加えて他人一般が自分の考え方、感じ方に対してどういう意見を持っているのか、どういう意見が反響を呼び、どういう意見がそうではないか、つまり黙殺されるのかという違いを知りたいという欲求も必ず介入している。 
 しかし少なくとも日記につける時に記述されるよりはずっとオブラートに包んだ表現に終始する可能性は大きい。つまりあまり直接的表現を避けようとする意識が無意識に働くということはあるかも知れない。しかし恐らくそれでも尚我々はそのオブラートの包み方自体に自己の考え方、感じ方の変遷を読み取ることは十分可能であろう。
 つまりもう一度自分の書いた文章を読み返してみた時に、意外と思えることもあるだろうが、必ずあっそうだあの時はあんなことを考えていた、感じていたということをある時は即座に、ある時には暫く経ってから何らかの形で思い出すことが出来る。尤も七年も八年も経ってからそれを読み返すという場合ではそうもいかないこともあるだろうが。
 問題は要するに他人の目を気にするということの構え自体が、実はかなりの部分未来の自分へも向けられているのであり、未来の自分を納得させられないものが他人をも納得させることが出来るだろうかという目測は常に我々の念頭にあるように思われるのだ。
 哲学的他者と言うと、ある意味では存在者として生活しているということ、そしてそれが遠目で確認出来る存在をも含む。しかし他人という時、我々は明らかに私が京都を旅行した時に道を尋ねたり、駅で尋ねたりする観光客とか駅員といった人たちは他人である。他者は実はそこに不在であれ、世界にたった一人孤島で過ごす人間にとっても想念上、表象上存在し得る。しかし他人はそうではない。必ず何らかの反応を私に示すのだ。それは「大覚寺はどうやって行けばよいのですか?」と天龍寺で質問する時、そこで働いている事務員の人や住職の人たちは他人である。他者ではない。他者は仮に私に対して一切の意思疎通を拒む者であっても規定し得る存在である。
 要するに他者の中で限定的に必ず自分に反応を返す者を我々は一応他人と呼ぼう。そういう意味では我々は他人の目を一切気にせずに生活していくこと自体は実質上不可能である。
 そこで未来の自分という他人を軸とした実際の他人への対応、接し方といったことが実はかなり重要な指針となっている、と言うことが出来る。つまりツイッター、ブログで我々が何かを語ろうとする時、そこには必ず「誰かは定かではないけれど、誰かは見てくれている」という意識を前提に何かを書くわけだから、必然的に我々はある部分かなり日記的意識の延長として日記を「完成させる」ことをその都度心がけているということも言えるが、日記のような読み返すことが目的ではなく、ツイットするその時、あるいはブログを更新するその日の他人の反応を確かめるためだけになされる、ということもあり得る。
 つまり我々はブログやツイッターに文字を書き込む意識が最初から全く日記のように後で読み返すという目的を持たないように分けて考えるということも可能である。
 日記の完成体として認識する段でのブログ、ツイッターと、そうではなく最初から全く違った目的において書き込むという両方の使用仕方が存在するということだ。
 しかしいずれにせよ、そこには自分一人で考えた内容を書き込むということはあるが、メールやチャットよりもより便利であるから他人とか知人とそれらの代わりにツイッターに参加するという目的は大いにあり得るが、それ以外でなら、日記は未来の自分という一番切実な他人、そしてツイッターやブログはその日その日更新記事を確認してくれる他人、つまり同時進行性ということが問題となっている。そしてそこには当然特殊な構えがある。それは相手の顔は見えないが、意味世界だけで理解し合えるという一つの言語の可能性を見出しているのだ。
 しかし本を読む時著作者のプロフィールを写真でだけ知っている場合、テレビ等で知っている場合、実際一切のそういうデータがない場合とでは、やはりその本を読んだ感想という意味では一切データのないものが一番意味内容を把握するという面では善いと言える。
 そういう意味では相手の顔が見えないということは真理領域的なこと、つまり意味世界ということから言えば最良の意思疎通手段だ、と言える。何故なら実際の人間関係には必ずパワーバランスが介入してしまうからだ。相手の年齢、相手の職業、相手の性格や人格が具体的に付帯してしまって、「純粋な意味」(そんなものが仮にあってという想定の下での観念であるが)だけで意味伝達し合えないということが言える。
 だから我々は実際の知人も必要だが、既にネット上だけでの知人も、実際の知人からは得られないいい意味での純粋な意味世界的意思疎通パートナーとして必要としているのである。それは決してネット社会の対人関係的閉塞感というネガティヴな文明批評からは理解出来ないもっと本質的に有意義なものである、と私は考えている。
 つまりそこには固有の構え、純粋に一人の世界であるのに、その文字書き込みに対する反応を知る時、我々は実はその「一人でいることを理解してくれているもう一人の一人でいる他人」という存在を常に念頭に置いているわけだから、必然的に「一人でいること」の意味を真に覚醒させてくれる手段としてブログやツイッターは存在しているのだ。
 「一人でいること」の構えとは本質的にどんな共同体であっても、我々は所詮一人で生れて来て、一人で死んで行くという運命の下で孤独は悪いことではない、という再認の意味もあるのだ。
 実際に四人で会って話すということと、ツイッター上で四人で連携して同じ話題について書き込むという時の構えは「一人でいること」の意味はより後者にあり、実際に会って四人で談話する時は集団を構成している、という意識の構えになることだけは確かなことであるように思われる。

Monday, January 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第九章 価値の組み換えについて

 近代ケインズ理論等による勤労観自体の組み換えが今求められているのではないか、という視点で考えてみたい。
 現代の脳科学や神経科学では既にリラックススと集中が統合された形での成果ということがリハビリテーション理論等とタイアップされて注目を集めている。脳波もその一つだし、グリア細胞の仕組み等も注目を集めている。まさにかつて仏教世界で問われてきた呪文とか思念とか想念が見直されてきているとさえ言い得るのである。
 すると我々は意識化された世界だけに注目するのではなく、夢現の状態とか、まどろみなどの世界のリアリティにもっと敏感になった方がいいかも知れない。
 つまり言葉自体が既に生の時間における死の挿入、つまり不在と表象という生の生きられたものに対する一つの死というメリハリをつけることであるとすれば、その変化を意味化することが一つの我々に要請された意志ということになる。
 つまり意味化とは全ての情報の中から忘却すべきものを一切忘却することを通して、メリハリのある主観的関心を惹くもののみを記憶する脳のシステムを応用したものである、と捉えることが出来る。それは古典的勤労観とは別種ののんびりとした創造的世界への再考ということである。
 意味とは端的に偏差である。それは同一の単純な反復ではない。従ってそのメリハリの中から特筆すべき価値が浮上することをごくニュートラルな脳の状態で活性化させることが出来るか否かということが、量産システムから質的転換を絶えず行うと言うことに直結する。
 記憶は過去事象全体への一つの価値的投企であり、過去化である。それは同一反復に対する辟易が生んだ自動的な構えである。無意識の活用は脳を絶えず、その時々で関心のあるものの方へと傾注させ、その赴く動きに逆らわないということに尽きる。
 だからいい意味での成果主義が近代的勤労観から脱却していく必要性の上では、不安や鬱的世界を只ネガティヴに捉えるのではなく、その内向性自体に価値を認め、活用するということである。それは生だけを価値とするのではなく死も又一つの価値とするということ、そして記憶されるべきものだけに注目するのではなく、忘却されるものをも価値として注目するということである。
 要するに脳は絶えず関心領域を移行させているし、それは端的に切り替えを欲しているということである。だからものとものの間とか人と人の間の偏差とか類型的偏差と共通性を絶えず注目しているけれども、我々自身が意識化において言語的説明がし難いだけである。だから睡眠もそうであるが、寝たい時に寝て、働きたい時に脳を働かせるということ、そして概ね規則正しくあった方がよくでも、常に同じ労働のルティンと、同じ時間配分ではなく、メリハリをつけるような無計画的計画、あるいはその時々に応じた成果における予定変更、あるいは大胆な新計画を絶えず怠らない、原則に呪縛されることを拒否し続けることが意識的に求められている。
 それこそが生成過程を我々が楽しむということである。夢の世界は大概がネガティヴな内容であり、それは不安を顕現する。しかしその不安とは端的に希望と表裏のものである故、それをポジティヴな価値に変換していくことをルティンとするような創造性が求められているのである。
 その意味では脳科学、神経科学、認知科学、制御工学、精神分析、哲学、論理学、倫理学等が常に隣接し合うように画策し、どれを選択するかという意志決定ではなく、それらを常に緊密に連携させ得る可能性を探るような統合的な学問体系と実践課程が要請されているのではないだろうか?

 意味とは価値化であり、脳内記述に他ならない。従って価値倫理システムをより活性化するためには、メリハリと我々の脳を疲労させないような形で常にリフレッシュするようなリラクゼーションと、意味創造のリハビリテーションが求められている。それは生成のシステム自体に常に立ち会うということであり、絶えず関心を注ぐという心的状態を肯定的に創り出すことであり、ネガティヴな価値をポジティヴな利用の仕方を率先してすることである。そしてそのためにはメリハリ自体を、ハレとケとか、聖と俗とか、固定化と流動ということを絶えずインタラクティヴに作用させ続けること、つまり外界とのインターフェイスを固定化させるだけではなく変則的にしていくことでもある。流動的固定化、固定化的流動、俗的聖、聖的俗、ネガティヴ的ポジティヴということが常に変換され続けるようなことが極自然に行われることが望ましいということになるのである。
 それは構えを意識的にするだけではなく(そういう必要性のある時はそれでよいが)自動的に対象を移行させたり、要するにそこにもメリハリを導入したりするということである。
 次章ではそのために我々の存在自体を一つの捉え方として羞恥をポジティヴに捉えることの基本的考えについて述べたい。そのためにも本章でのメリハリを一つの遊びとして捉える認識が重要となってくる。

Friday, January 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第八章 偶像崇拝的逃避と軽蔑

 真に人間に対する尊敬心というものは必要であろう。従って相手に対して敬意を抱くということは大事なことであるかも知れないが、どんな相手であろうと相手を尊崇し過ぎ、崇拝しだすと全く様相を変えてしまう。
 私はそのことを偶像的に相手を崇拝することで、相手に対する普通の人に対して接するような配慮を忘れ、相手の能力や寛大さ、包容力を信じ過ぎて却って相手に対する配慮に欠く心理状態になることを「偶像崇拝的逃避」という風に勝手に呼んでいる。この心理の最大の問題点とは端的に他者に対する配慮というものが崇拝する相手には通用しなくなって、相手を過大な能力の保持者であるとしながら、相手に頼りきることを言っているのである。
 日本人は政治家に対してこのような心理で臨むことが多い。彼等も所詮人間であり官僚も裁判官とも全く同じで間違いも犯せば、欠点だってある。
 しかしあまりにも相手の立場が社会的地位が大き過ぎて対等ではないということから、逆に何を相手に言ってもいいとか(批判したりする時に言えることであるが)過大な自分たちへの期待を当然のことである、とそう思ってしまうことが多いと思われる。
 従って私は本ブログの最初の「トラフィック・モメント」において尊敬という心理が意外と軽蔑に近いということを言ったのだが、結果的には尊崇している相手に何を言っても相手がその鷹揚さにおいて許してくれると思い込むことこそ最大のミステイクである。それは軽蔑している相手に素気無い態度を取ることと寸分変わりないものである。
 ある意味では相手の能力を過大に評価し過ぎたり、相手を信用し過ぎたりするということは、相手に対する自分の側の責任を忘れ去って、相手を支える態度を放棄しているが故に私はそれを逃避と呼んだのである。
 つまり相手を真に思うならば、相手も又人間であり欠点もあれば弱点もあるということで過大な期待を相手にかけないということに尽きる。だから逆に相手に対して期待し過ぎるということを平気で行うという心理にはどこか相手の魅力に対してつけこむ、つまりその当の本人を覚めた目で見るということを放棄していくことを誘うミステリアス・ガンダンスが待ち構えているのだ、と捉えた方がいいかも知れない。
 つまり相手を尊崇することを通して無意識の内に相手が失脚した段人になると、可愛さ余って憎さ百倍ということを実践して、普段のストレスとか鬱憤を解消することを望んでいることになるからである(これは相手が人間ではなく真理とか原理とか信仰心とかにも言えることである)。
 我々は相手に対してそれがどんなに社会的地位とか経済力とか、要するに自分と対等ではない部分を発見してさえ特別扱いをすることは結果的に相手に対する非礼へと直結する、ということだけは心得ておかなければならない。
 だから政治家に対してもいつも批判的な眼差しを忘れずにいることも大切だが、相手が少しでも血を見せたなら突いてやろうという悪意を持つくらいなら、最初からあまり期待し過ぎずにいることが大事だし、何か苦境に陥っても、最後の復活のチャンスを相手に与える心の余裕を持たない限り、いつまで経っても我々は自己責任を偶像を尊崇することを通して尊崇者からのマインドコントロールをされ続けるという脆弱な個という図式から脱却出来ずに、偶像崇拝的逃避と軽蔑の往復を余儀なくされると言える。
 このような尊崇と軽蔑の反復であるようなトラフィック・モメントとは最悪な心理的構えである。

Wednesday, January 13, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七章 トラフィック・モメントとミステリアス・ガイダンス

 私たちは何かを決断する時、意志決定の合理化をする。勿論、結婚や離婚、職替えといった大きな決断から、ツイッターをしようとか、趣味で油絵を描こうとか(実際はそういう重大ではない決断も又人生に於いては大きな影響力を持つのだが)といった日常的場面での些細なことから趣味の選択に至るまでそのシリアスさには程度の差もある。
 しかし如何なるケースでも何らかの今までしてこなかったことをしたり、行ったことのない場所(観光地とか趣味の集いとかに至るまで)へ行ったりすることを決心させる直接の契機を私はトラフィック・モメントと呼び、そのトラフィック・モメントに於ける外部からの誘い、誘惑、誘引をミステリアス・ガイダンスと呼んだ。しかしそれは事後的にあのもの(対象としての出来事、つまり見聞きしたこと、知った内容、情報)が私に決心させたと知るのであって、そのものに出会うや否や我々は既に行動し始めているのであり、その時に「これが契機だ」とは断じられない。つまりそのように当該の瞬間には確定的に明示し難いものであるからこそ、我々は極スムーズにある行動へと移ることが出来る。つまり形而上的行為論へと我々の思惟を向かわせるものは、その行為論自体が日常的行動や所作とは画然と区別された認識だと我々が既に認知しているからであり、その事実は逆に日常的に行動を誘引し、一々のことを意志決定させるものが仮に形而上的行為論であるなら、我々は一体何も些細な行動に至るまで決定することさえ出来ない、ということを意味する。
 だからこそ逆に私が日常的行動の移り変わり(シフト)や往来、反復を誘引するものを別箇の仕方で捉え、それを踏まえた後初めて反省意識に於いて形而上的行為論、因果論、あるいは自由意志論、心身論、意識論などといった諸々の哲学命題論を必然的に捻出することが出来るのだ、と認識しているという意味合いでは、私の方法論のヒントとなったものは多く生の哲学や現象学である。だから逆に捻出されたものこそ分析哲学的方法へと転化されよう。
 私たちにとってミステリアス・ガンダンスへと無意識の内に囚われている時ある意味では脳内では既にその行動への準備はなされている(準備電位)であろう。その脳内準備が何らかのミステリアス・ガイダンスを見出すのだ。トラフィック・モメントはそのミステリアス・ガイダンスより遥か前に印象づけられた何かでもあり得るし、ミステリアス・ガイダンスとの遭遇自体を想起するという事後的なことでもあり得るし、ミステリアス・ガンダンスとの出会いの瞬間でもあり得よう。つまりその時々で状況は異なっていよう。

Sunday, January 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六章 命題的態度と想念

 私たちは私自身の人生の全部を肯定すべきもの、美しいもの、価値ある時間であるなどとは露ほど思っていない。
 だが哲学ではそういう雑多な無意味でさえある人生の苦悩自体をあまりおおっぴらには表現しない。何故か?それは哲学を語る者がそのことを重々承知しているからである。つまり人生の汚猥を知り尽くした者だけが美しい言葉によって人生の苦悩や無意味さや虚しさを体系的に哲学言語へと置換することが許される。
 そういう意味では瞬間乀の命題的態度とは、只単に痰を吐き捨てたいとか、股間がむす痒いとか、脱糞したいとか、要するに決して美的ではない。だからこそ逆にそういった美的ではない瞬間乀の命題的態度を哲学的文脈の中に一定の秩序、それはそれ自体が秩序であるわけではなく、生理的身体を維持し、生活実体を形成するために必要とされる構成要素として位置づけることを哲学者は怠らない。
 そういう意味ではそういう意味では個々の諸々の美的ではなく些細な命題的態度をそういう一定のルールの下で位置づけることを促進することこそ想念である、と言える。
 つまり想念とはそれ自体個々の知覚とか些細な日常的動作自体が一定程度集積された段階で持つ反省意識が生み出す、それ自体反省意識であると確固として言い得るものではなく、寧ろふと出くわす集積の結果再認される真理(そういう意味ではクオリア的感動も含まれるだろう)とか、因果論的真理であるとか、要するにその都度生み出される実感なのである。
 だから想念の親とは個々の些細な日常的動作とか知覚による潜在的記憶であるとか、要するにあまり重大ではないが、その凡庸であるからこそ、生の不条理へと気づかせてくれるような種類のものなのである。
 だから想念自体がミステリアス・ガイダンスとなって作用して、新たな行為へと転換させたり、動作自体を転換させたりする。ミステリアス・ガイダンス自体がトラフィック・モメントになり得るということを証明する意味でも些細な動作、取るに足らない知覚習慣といったことが個々のトリヴィアルな命題的態度を自然と沈殿させつつ、統合させるもの、つまり想念を生み出すものこそその人間の日々の心がけ、つまり人生に対する思想である、と言えるだろう。人生に対する思想とは端的に人生全体への想念が生むと言えるし、人生全体の想念とは個々の想念がやはりある一定の人格によって統合される、と言える。しかしその人格もまた個々の想念が生理的に統合されると言えるし、また生理的統合を促進することも又その個人の日々の心がけ、つまり人生に対する思想である、という円環構造が見出される。
 一大転換的トラフィック・モメントとは二箇所の住居を往復したり、二つの職業を往復したりすることによって成し遂げられるが、もっと些細なこととしては、メールもネットサーフィンもするし、ブログも作って毎日更新しているが、ツイッターもするということなどにおいて示され得るであろう。
 そこには必然的に日々の人生に対する思想や生理的健康状態が複合化された一つの関心事、あるいはそういうタイプの統合された想念が関わっているし、その想念が統合される前の個々の想念である間あまり我々はその想念自体には感謝の念を捧げない。つまりそれらの個々の想念は日常的習慣とか、生自体のその都度の目的とか、その都度の習慣自体への考え、つまりその習慣が自分に向いているか否かという快不快の判断などによって形成されている。想念には多分に気分や衝動も関わっているが、気分や衝動の方も又、その都度の人生に対する思想が決定させている決心とか言語的思念であるとか、要するにかなり観念的な悟性や知識や文字情報的認知によって成立しているから、我々人間は決して純粋に非動物でもあり得なければ、純粋に野生的動物でもないという状態を恒常的に維持している、と言うことも出来る。
 だから個々の命題的態度とは野生による生理的呼び声から発するその欲求に対する自覚であり、言語把握的態度であるが、想念はそれ自体生理的呼び声も含むが、その生理的呼び声の一定期間における平均的傾向全体への把握を言語的思念が潜在的に脳内で行っていることの結果である、とも言える。

Wednesday, January 6, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五章 命題的態度と構えについて

 私たちはある意味では世界というものを自‐他の知覚的、自己同一性的認識以外にも、かなり主観的な様相で把握している。
 例えばジョン・レノンという一人の極めて魅力的人物にとっての世界一つをとってみても、彼にとってある時期はポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンが中心であり、ある時期においては妻シンシアと息子ジュリアンであり、ある時期はビートルズという集合体であり、ある時期からはヨーコ・オノであり、ある時期からは妻ヨーコと息子ショーンという風に世界はその都度、中心となる人物的対象、つまり自らの人生における最大の関心事であったと思われる。
 つまり客観的自己認識以外にも我々は世界の様相を決定させる親近度としての世界というものが存在する。
 一般にドナルド・デヴィドソンによって提出された命題的態度とは、自‐他認識的な客観性のように世界に対して考えられるが、我々は他方かなり主観的世界から世界一般を理解しているとも言える。 
 つまり世界の中に立たされている自分という認識と同時に、世界そのものを自分で構成しているという認識が同時に成立するように、処々の知覚や関心が反省意識の中で統合されて世界となるとも言えるが、その時々での感情的関心志向性によって世界がその都度の関心や知覚を伴って顕現している、とも言い得るのである。
 だから命題的態度が「自分は今何をしたがっている」と言う時にも、その自分がまっさらな自分である以前的にあるバイアスのかかった自分であるということを最も自分は知っている。
 つまりある行為へと自らが生きる身体と共に構える時、そこには我々にとって手慣れた方法とか、習慣とか、要するに親しみを感じさせる仕方や世界への対峙仕方、見方が備わっている。それらがない状態では世界に対峙することも、世界を構成することも出来ない。
 世界そのものは常に一定の価値を与えられたものとしてのみ我々は世界を事実として認知する。
 ホッブスは世界へと事実として向き合った。しかしカントは世界を我々による我々自身への権利問題を育む場として捉えた。この二つはある意味ではかなり親密に相補的である。
 我々は知性も感性も全て身体に宿っていると一般には考えている。しかしその身体は言語によって把握されてもいる。つまり我々は身体という情動を育む場と、言葉という認知を促進する場の両方を生きている。そしてそれらは一体化したり融合したりしている筈なのに、常に二極分裂されているかの如く世界に立ち現れるかのように全てを知覚し、全てに関心を注ぐ。カントにとって理性や理念は全て理想を追い求めることを権利として我々が保持していることに対する確認の意図によってのみ意味があった筈だ。
 つまりその時点で我々は既に価値の呪縛から逃れられない。それは否定的ニュアンスだけでなく肯定的ニュアンスとしてもそうである。
 価値自体も実は一つの気分であり衝動である。我々が身体という語彙を与えている身体自体もまた一つの価値である。その価値を言葉で認識しもする。つまり身体という一つの価値を言葉によって確認する。その事実、つまり身体の中に宿る衝動や気分ということと、衝動や気分を言葉によって世界を理解することを通して作るという側面が両義的に鬩ぎ合っている。だからこそ価値自体が情動をも生み出す。
 だからクオリア自体は、過去の潜在的記憶をも含めた再認に他ならない。再認という記憶作用において我々は主体的に想起することもするが、身体の内奥から想起が自然に沸き上がることもある。それらは受動的ではあるが、嫌々そうなっているのとも決定的に違う。主体的でも受動的でもない想起こそが理性を超えた想起である筈だ。
 それは言語認識的な意味からも、前言語認識的な意味からも両義性と弁証法のディアレクティクであると言える。
 命題的態度は従って「意思決定理論(decision theory):*選択(choice)・選好(preference)を、確率(probabilities:信念に相当)と効用(utilities:欲求に相当)とによって形式的に説明する。」http://phil.flet.mita.keio.ac.jp/person/yosaku/doc/murota/hail05a.pdfと室田憲司が示しているところによると、選好とはミステリアス・ガイダンス(Mysterious Guidance)である。つまり我々にはその都度、意思決定を合理化される神秘的誘いがある。
 それらが過去への反省意識の中で「あああれがあのことをしたきっかけとなった」とトラフィック・モメント(Traffic Moment)として位置づける。
 つまりその時々での関心志向性こそが一つのその時々での我々の人格を形成しているとも言える。だからその時々での他や物質への、あるいは道具への接し方には固有の構えがある。使い慣れたボールペン、使い慣れた自室のトイレ、見慣れたブログ、座り慣れた自室の椅子。
 その構えの傾向性こそが我々の他者への態度、外界での歩行や移動にも固有のトラフィック・モメントを与えている。そこにも人格と行動という両義性がある。つまりある人格がある行動を、ある行動がある人格を形成している、という風にである。
 その時々での固有の構えというやはり一つの気分であり衝動であるものこそが、ある行為を、ある言語行為を誘引しているトラフィック・モメントであり、それが関心を抱いている外界の、あるいは自の内部でのミステリアス・ガイダンスを追い求めて行為は断ち切られたり、新たに求められたりする。
 つまりあるミステリアス・ガイダンスに引き寄せられてトラフィック・モメントを作るということ自体の中に全ての命題的態度が具えられているのである。