Tuesday, March 30, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十二章 言語行為のプロセス

 前章では相手を殲滅や壊滅を目的として言語行為が文明を構築進化させていく上で成立し得るのかということを最後に考えた。それはチンパンジーにおいてもミラーニューロンが働き、ある個体が同一種の個体に対する関心の方が他の、例えば人間に対する関心より強いということが証明されたばかりであるが、要するに同一種に対する関心とはどのような種においても成立し得るのではないかという可能性への示唆になっていた実験結果であるが、それが正しいとすれば、他種に対してなら他種を欺く擬態といった進化が必然化されても、同一種内で他個体を殲滅する為にある他者壊滅目的の言語行為が進化していくということはほぼ確定的に進化論的に、自然選択的に誤りであるとは言ってよいであろう。
 多大なストレスを同一種に与えるようなタイプの言語行為が高度な文明を構築していくために障害となって作用するという可能性の方が大きいと容易に想像されるからだ。
 さて本章ではではそれを前提として、同一種内で我々人間が言語行為をするに当たって、どのような心的なプロセスが顕現されているのかということについて考えよう。
 情報の格差認識と共有意志、或いはその都度の意志表示能力と欲求とそれら三つに対する認知、それを踏まえた意志伝達が他者との間で利益となる事自体への認知は、即ち他者も又自己と同一の利益を得ることを認知していて、こちらの意志と相手への要請を理解出来るであろうという目算が意思疎通の基礎としてある、ということは意思疎通を成立させる条件であったが、今度はそれを自己において行為へと変換させていく際の心的プロセスについて考えてみよう。
 それを私は次のように考えてみた。

① 言語使用者である他者の認識
② 言語行為実践の意志発動(自己と同一言語使用者であることの認知を得た後の意志発動)
③ 言語行為における発語、つまり情報格差の説明(何かを聞き教えて貰いたい時は、こちらが相手は知っているだろうが、自分は知らないことを伝える)
④ 他者(発語相手)からの応答の授受の開始・相手の応答に対する認知と情動(情動とは、相手の応答の仕方、親切度を推し量って相手とそれ以降も意思疎通を続行していくべきか否かを決定する)

 この四つのプロセスは必須であると思われる。
 言語使用者である他者の認識とは奇異に思われるかも知れないが、あるいは精神的に安定を欠き、精神疾患であるかも知れないという可能性を認知し得る時、我々は相手から何か危害を加えられるかも知れないという畏怖の感情から相手から距離を置こうと画策するであろうし、相手が何かテロリストであるかどうかということも同じように警戒心を発動させる十分条件だ。だが勿論それは相手が言語使用者であることは間違いないが、この場合自分にとって意思疎通するのに適切であるかという意思疎通相手選択の条件としては、自己の安全か確保出来て、しかも一定時間内に相手と意思疎通する事自体が成立し得るか否かの判定における言語使用者という適切性に関する心的プロセスであるとご承知頂きたい。①
 それがクリアされた段階において我々は次に初めて相手に対して何らかの意思疎通の意志表示をする為のアプローチの手段を講じる。その為に観光地で道に迷った時などは、地元で生活している人であると思われる人に目星をつけて我々はそういった当の人に対して会釈したり、頭を少し下げたりして質問をしたいという態度を示すように身体を構えていくわけだ。②
 そして十分そういった意思表示を状況説明的に相手に納得させて然る後、仮に京都で観光旅行しているという事が自分の立場ならそれを簡単に説明して、尤も金閣寺に行くにはどのバスに乗ればいいのですかとか、ここから歩いて行くにはどういう風に行けばいいのですかというような質問をいきなりするだけで、京都とはそもそも観光地であるということは地元の人たちも知っているので、一々説明をする必要はない場合も多いであろう。
 要するに「金閣寺に行きたいのですが」ということを相手に言述する③ことによって、金閣寺へのルートという情報を欠如している自己をアピールする。ここで情報格差に対する相手への説明が終了して、相手がもしその情報欠如を穴埋めしてくれる事が出来る、つまりその地理的情報を知っている者であるなら、教えてくれる筈だ。そして③の後にその教えてくれ方、応答の仕方で、いい印象を持った場合、つまりこちらの情報格差の説明と窮状の説明に対する応答の誠実さを判定する事を通して、我々は更に金閣寺の次にはどこそこに行きたいとか、近くで食事をしたいという意志を示すことによって、更に適切なアドヴァイスを得るという事が可能か否かをその段で判定することとなるのだ。④
 これが極基本的な日常的な「何かを他人に聞く」ということを通した意思疎通の言語行為プロセスにおける心的順序であると言ってよい。
 実は我々はこの心的プロセスを日常的に何の気なしに反復する事を通して、それが可能である他者を無意識の内にリストアップしていき、円滑に情報を交換し得る者をその情報交換の情報内容に応じて優先順位をつけ、親友とか最良の同僚であるとか、地元の顔見知りとか、同じマンション内の隣人とかの中で親しい人とそれほどではない人との間での格差を通した階層的な面識者のネットを形成しているのである。そして親しさを得ることの最大の誘引材料とは、上記の心的プロセスにおける④での相手に対する好感度と、そこで得た情報内容の適切さと密度といった獲得情報の重要性に対する判定に依存しているということは言うまでもないだろう。

Friday, March 26, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 異星人との意思疎通が可能である条件、と言うより私たちと彼らが同じ言語所有者である条件

 私たち生命は皆外部の情報を摂取して生活している。只それはサンゴやナマコも同じようにそうしている。しかし彼らに脳はなく、それを「情報」であるという認識は持てない。勿論極論すればそれを「情報」と名指せるのは当然人間だけであるが、少なくとも名辞的理解ということのもっと原初的な形でなら多くの哺乳類でもあり得る。
 例えばその極プリミティヴな条件(情報を情報として認知し得ること)とは何であろうか?
 それを私は自己と他者を存在論的にも認識論的にも把握し、その両者が情報を摂取してその二つの間に質的、量的な差異がある、ということを認識し得るということに他ならないと思う。
 だがそれはあくまで情報を情報であるという基本条件であり、その情報を伝え合うという行為へは未だ直結しない。その情報を伝達し合うということ、あるいは自分に携えている情報を他者に伝える、ということはとりもなおさず相手から相手しか知らない情報を伝えて貰うということと期を一にしているが、それがなされ得る条件を私は次のように設定してみた。

① 情報格差が自分(自己)と他者間、あるいは他者と他者間において存在する。
② 情報共有の意志・欲求が存在する。
③ 自己と他者間相互に要請・依頼・命令・禁止その他の意志表示能力と欲求が存在する。
④ ①から③の意味を認知し得る(説明がよく出来なくてもそれ自体を把握している)。
⑤ ①から③をすることによって利益を得るということを認知し得て、実際にそれをしてみようという意志・欲求がある。

 これらは他者と自己の関係を理解するという事に他ならない。それを全部満たした時に言語行為を意思疎通として機能させ得る条件が揃ったと言ってよい。勿論我々地球人にとっての言語行為初期設定条件である。
 さてもし地球上にある我々の星から遠く隔たった惑星から到来した異星人が宇宙船のタラップから降りて来て、彼らと意思疎通しようと地球防衛軍の長官なりアメリカ大統領が異星人の対話手の一人と言葉を交わす時、少なくとも彼らが個体毎に移動するようなタイプの生活者であったなら、個体毎に考えがあり、自己と他者があるに違いないとそう思いまず声を発するだろう。だが勿論彼らに口のようなものがあれば、我々はそうするだろうが、顔の形状も、顔の位置もまるでよく分からないというようなことであれば、声を発しても、もしかしたら彼らには聴覚というものが存在するかどうかさえ分からないから、あるいは恐る恐る肌に接触しようと試みる地球人の代表も現れよう。尤もかなりぬめぬめとしたり気色の悪い風体だったりするなら、それをも躊躇するだろうけれど。
 だが少なくとも個体がその個体の身体から声を発するという形式で意思疎通がなされているのなら、我々はそれを言語行為と見做すに違いない。
 只重要なのは、個体と個体が声を発して言語行為をするにしても、記した①から⑤の条件を満たしているかどうかはやはり依然定かではない。
 例えばこの①から⑤の中の①が欠落しているとすると、彼らにとって地球人のAとBが語ることがそれぞれ別箇の個体から発せられていると了解されても尚、ひょっとしたらそれぞれが「異なった」考えを抱くという事、即ち異なった情報を異なった状況で摂取するということが理解出来ているとは限らない故(例えば一個体の発する発言が全ての成員による合意でなされている可能性もある)我々はかなり注意して発言することが求められる。
 例えばひょっとしたらこの異星人は全ての個体へと何らかの方法で全ての情報を瞬時に送信しているという可能性もある。だから個々が異なった発言をすることが当然である我々の流儀で意思疎通していいものであるかとめいめいが勝手に発言することが憚られる。
 しかしまず地球人は、この地球へと異星人が彼等にとって異星であるにもかかわらず訪れたという事実に於いて、それだけで意思疎通の意欲、つまり他者への好奇心があることを知っている。 
 好奇心とは何か?他者に対する最初期の認知を契機に、認知量が積み重なるに従って相手への好奇心が倍増し、その好奇心が更なる「知りたい欲求」を生み出し、認知量を倍増させるという認知と好奇心との相互補完関係が我々には認識可能だ。
 こうして恐らく異星人は地球を何らかの契機によって発見し、こうして訪れたというわけである。
 そして遠い星から私たち地球人と直接交信する為に宇宙船に乗ってやって来ているわけだから、当然それ相応の文明、つまり科学技術を持っている筈だ。そしてそれは我々の文明をも凌ぐものであるに違いない。
 そして逆に我々はそれ程の科学技術を発展させるだけの知性が①から⑤の条件を満たさない形で進化し得るか、恐らく地球上の全ての哲学者、認知神経学者、脳生理学者たちが挙って彼等異星人の知性を推し量ることだろう。
 情報量や質の個体毎の差異を認識し①、それを相互に交換し合う、例えばAのみ知り得るBの知らぬ事をAがBに、逆にBのみ知り得る事Aの知らぬことをBがAに伝えるという行為が成立する②。
 つまり②はAはBから、BはAから情報を摂取する事に利益があると理解している、ということは、それ以前にAはBを、BはAを自分と同じように理解しているだろう、と目算を持つことを意味する。私たちは実はこの①から②のプロセスにおいて、情報格差と情報交換への進展に於いて、相手もこちらと同じ認識と理解を持つという目算=直観を殆ど本能的に持つものと思われる。
 脳科学的にミラーニューロンでも証明されているが、このミラーニューロン・ファンクションが、あるいは好奇心を発動させ、その好奇心の発動が情報交換による利益を、偏利ではなく相互のものとして認識させる時、それを習慣化させる決意の下に、我々は「友情」とか「同志愛」とか「同僚同士の結束」とそれを命名し(心の中で記述する)ようとするだろう。つまりそうやって格差→交換のシステムそのものをその様に意味づけ只単なる生活を超えた人生の価値として位置づけようとするわけだ。
 その人生の価値を持続していきたいと願う心理が科学を生活上で定着させることを我々が歴史上でしてきたことを鑑みると、彼等異星人もまたそうであるに違いないと結論するのではないだろうか?
 こうして最初抱いていた異星人に対する懐疑的な意思疎通を巡る違和感を解除して、今度は彼等が発する音声を意味として理解しようと翻訳に努めるようになるだろう。通訳が登場して活躍する以前にまず翻訳家が彼等の音声を録音とか録画をして再生しつつ解析していく必要がある。
 言語行為である為には発語者にとってそれを発することによって、何らかのメリットが齎されるという目算が発語者にあり、そのメリットは、発語される側が発語され、それに応じて自分が返答すること、そしてその返答を聴く相手である最初の発語者がその返答自体をメリットのあるものとして認識することを相手が示すことによって得る快を認識しているということに他ならず、その双方における同意が暗黙の内であれ、言葉的説明であれなされていないのであれば、意思疎通としての言語行為は成立し得ない。
 発語する以前に、発語することで相互にメリットを確認し得るか否かという判断が介在しているのだ。それは相手が少なくともこちらが攻撃を仕掛けない限り向こうからは攻撃してはこないだろうという目算によって成立しているのだ。
 すると相手が個体毎にもし発語することが可能であると地球人が認識し得たのなら、基本的にそれは私的言語ではあり得ない。そこで文法解析、語彙の意味の解読が徐々に要請されていき、我々は異星人を地球人と同じ言語行為システムの保持者と認識していくことになるだろう。
 尤も発語行為をすることによって発語内行為にしろ、発語媒介行為にしろ、より相手を制覇したり、存在を壊滅させたりするような目的でだけで成立する、本当の意味での武器としての言語行為も全くあり得ないということもないかも知れない、という可能性に対して、それを打ち消すことは、そういった攻撃と壊滅だけを目的として言語行為によって進化を遂げる事、少なくとも異星にまで宇宙船を飛ばしてミッションをこなす事自体が文明化されたレヴェルで可能か、つまり文明自体がそのような相手に対する制覇と壊滅を目的としたサディズムにおいて進化し得るかという思考実験によって我々はその可能性の有無について判断し得るだろう。相手と対話する事で、仮に齟齬を来たしていくことがあったとしても尚、対話する以前よりは何かを得る事が出来ると認識し得るか否かによって言語行為の成立与件が証明され得るだろう。
 だがやはり我々には齟齬や対立さえ、一定の相互のメリットにおいて認識されていない限り、そのような本当の武器としての言語行為が成立し得るということ、あるいはそういった言語行為において文明が進化していくのだろうかということになると、いささか懐疑的にならざるを得ないというところが本当のところではないだろうか?そしてその理由を徐々に我々は解明していく必要があるだろう。それは直接その命題を考えることからよりは、寧ろその周囲の命題を一つ一つ片付けていくことによってのみ解明され得るだろうとは言える気が今は私にするのである。

Tuesday, March 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 対話する上で亀裂がなかなか埋まらないこと

 哲学命題上での論争において私が実感してきたこととは、端的にある命題、例えば意識、自由意志、ゾンビといったことを考える際に、一番要となることとは、そのことを考える人間がそれらの命題を通して実際はどういう信念で述べているかということである。
 全ての言語行為は、結果的には示された記述や、発話内容の、意味に帰する。にもかかわらず、ある部分でどうしても理解が相互に得られないこともかなり多い。
 その場合実は多分にタブー視している、アンタッチャブルは信念、端的にその大半が有神論であるか無神論であるかということなのだが、それを相互に口を噤んでいるが故に、最終的にかなりの度合いで理解が得られているにもかかわらず、ある一線では決して相互に踏み越えられないという齟齬の感触を掴むこととなる。
 意識が神から与えられていると考えるタイプの論客でも興味深いことには、彼らは生自体への執着心を棄てきれないということである。もし来世があり、それがあるから死がその来世への旅立ちであるとするなら、本来死に対して恐怖を抱く必要がない筈だというのが私の意見であるが、彼らは端的に死を忌み嫌う。にもかかわらず彼らにとって生とは神からの思し召しであり、且つ来世は保証されているのである。
 これは私の実感からすれば矛盾しているように思われる。つまり来世などないというのなら、死自体への恐怖というのはよく理解出来る。しかし彼らは違う。
 クオリアを論じるということの不毛を私は以前から感じ取っていたが、そのことを表立って主張しているのは、ダニエル・デネットら極少数である。
 何故クオリアが論点として不毛であるかと言うと、あるクオリアを感受する人の感受の仕方(それは機能論的なメカニズムではなく、もっと現象的なこととしてのものである)自体が客観的には確認出来ないということだけではない。あるクオリアが発生するということが、赤いクオリアの意味が、例えばそれまでそんな鮮やかな赤い色を見たことがないという印象の問題であるのか、それともその赤い色を見た時に得た色彩的な感受それ自体なのか、それともそのようにその赤いクオリアを感じる一連の意識の流れ自体を指しているのかということそれぞれに対する「~がクオリアの感受である」という定義がデネットが「スウィート・ドリームズ」で述べているように、曖昧だからである。
 従って私見ではクオリアとは極めて知覚的印象に依存していると考えるのが自然であり、それはその印象を極めて特化するものとして記憶ということが考えられる。
 それはまさにデヴィッド・チャルマースの主張するような意味で「ハード・プロブレム」であることの理由自体が他の全てのように数値化し得ないということではなく、総体的な知覚体験の中でクオリア感受という事態をどのような水準で規定していったらよいかということに全てが収斂される気がするのである。
 それは痛いという感覚においても同様ではないだろうか?つまりある痛みを肌とか内臓に感じたということの持つ意味が、それまでにない痛みだったということ一つとっても、ある人生の時期において初めて得た痛み自体も、それが若い頃であるなら、身体的にも若いし、抵抗力もあるから、我慢することが出来たというようなことも考慮に入れるなら、痛み自体の感受とその痛みの性質自体も極めて過去から現在までに至る記憶的なことと大きな相関を持っていると言えるだろうからである。
 それはかなり身体論的なことであるし、痛みの感受自体への記憶の問題である。だが言語体験、言説上での体験、端的に幼児期における宗教体験性に根差した信念において、我々は死後の世界をそれこそカントのように概念設定上での条件として提示しているような時代と同様に信じている人と、そうではなくそれ自体に疑念を持って哲学に臨む人との間にはある種超え難い亀裂が命題論争中にも生じてこよう。
 日本人が進化とか自然と言う時そこには多くアニミスティックな感慨があるように経験上私は感じ取っている。それは幽霊とか霊魂、心霊写真などに端的に散見することが可能である。つまり科学的な信念として「それは非科学的だ」ということと、それが何となくあるように感じるということは確かに共存し得ると言えば言える。しかしそれを払拭し得るのが進化という概念への理解であるし、自然という科学的認識の理解ということであるなら、多くの日本人は死んだら無になるという発想自体を受け入れられない人の方が圧倒的に多いというのが私の印象だ。つまりそういう考えを持っていると老いた人に対して冷たいという意識を巣食わせることが多いようなのだ。
 欧米の形而上学とはそれを批判する上でも形而上学が拠って立つ神という認識を一旦は受け入れざるを得ない。にもかかわらずその命題論的な論争においても、真に神を信仰する者と、そうではない者との間の亀裂はなかなか埋まらないであろう。
 つまり死後にも意識が残存するということを含めて自由意志一つ論じていくに際しても、死後は無と化すということとでは全く論争は嚙み合わないし、意識も同様だ。それは従ってゾンビであるという状態の認識一つとっても(実は未だに私はゾンビであるということの意味がよく理解出来ない)、あるいはクオリア自体の感受をどういう状態のことを言うのかということに関しても多大な精神的ロスを来たしていくというのが私の意見である。
 それは前章で述べた最初の信者と二番目の信者という宗教教団的な意味合いでの結束ということで言えば、確かに最初の信者の信心に感動するということがあるかも知れないが、こと宗教というものは論じるものではない(避けるといった方が適切かも知れない)為に我々は友愛的な協調性を発見するが、最初の信者と第二の信者が論じ合う中で必ず齟齬が顕在化していくのではないか、ということが私の考えなのである。

Monday, March 8, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 信じることとは何か?感銘を受けたりした人や好きな人の考えに合わせることと科学的事実 

 私たちは何かを信じる時、ある考えの場合、それをじっくりと考えそれが正しいと判断してあることを正しいと信じている。その場合理性が感情を統制している。
 だが一方ではあることを発見したりして何かを信じるということ(考えにおいて正しいと判断しているのではなく実例を経験して正しいと判断する)、ある人が、とりわけ自分が好きな人とか尊敬出来る人がしていることとか考えを正しいと思いたいので(仮に自分のそれまでの考え方と違っていたとしても尚)その考えを採用し、次第にそれを正しいと信じていくようになるということもある。
 そしてこの二つは必ずしも常に分離しているわけではなく(勿論分離して別箇の仕方でも存在し得るけれども)同時的である場合も多い。
 前者の判断は理性論的(合理論的)考えであり、後者は経験論的考えであると言える。
 例えば私たちはこの後者の例をあるキリスト教への改宗者の改心に喩える事が出来る。
 聖書は最初誰かによって書かれた。その時点で書いた人(あるいは人たち)はそこに記述されている事柄を事実として書いたか、それともそれを事実として人々を信じ込ませるために「作り事」として書いたわけだ。だが聖書が一旦万民へと行き渡ると、その聖書を読んで一字一句正しい、つまり本当にあった事として信じる者が出現し、その者が信者となる。その者を「最初の信者」と呼ぼう。
 その信者は布教活動をするようになる。やがてその布教活動をしている最初の信者の行動を観察して、次第にその姿に感銘を受けるようになる者がいたとしよう。その者を「第二の信者」と呼ぼう。
 その者もまた一度は聖書を読んでいた。だがその時点では決してそこに書かれていることを真実であるとは受け取らなかったとしよう。しかしその布教者である最初の信者の布教する姿と、聖書に書かれた事への信仰(本当の事であると信じている事)自体に感銘を受ける事によって、それまで「そこに書かれてある事は「作り事」である」という考え自体を修正し、「それは違う」と思おうと決意するに至る。そして最初の信者の信じるように「それは本当にあった事だ」と信じるようになっていく。要するに最初の信者の信念へと自己の信念を同化させていくようになる、というわけである。そして第二の信者になる。
 この信念の形成は理性が感情を統制していた最初の信者への懐疑が、最初の信者の布教行動を粒さに見るに連れてその信念に感銘を受ける事によって改心するわけであるから、感情が理性を統制する一つの典型と見ることも出来る。
 しかし同時にこの感情が理性を統制する事というのは、宗教的改心(この場合あくまで最初の信者に対する感情という事で考えているわけであり、それ以外の最初の信者のようなタイプのものも仮に彼が最初に聖書を読むまではそこに記述されている事を知らなかったが、それを読んでそれを信じるという改心のようなものもあり得るだろう)だけでなく、例えば理論上では正しいと思っていたこと、つまり理性論的に正当性を主張していた事が、ある科学実験過程を通して「違う」と実験結果から判断されるような経験論的判断においても成立し得る。つまり宗教的感情というものにあると取り敢えず私によって仮想された最初の信者に対する第二の信者による人格的、行動論的な感動という事実から、理性的判断、そういう素晴らしい人が信じる事は正しいに違いないという判断及びそれを信じ続ける信念は、実はそれを自然界の実験結果という経験的事実に対する「実験でこれだけのことが証明されたのだから、それまで頭で考えていた事とは違うということは正しいに違いない」という判断及びそれを信じ続ける信念と構造的には何ら変わりないという事が言える。
 そこで哲学的には自然科学的事実への信念も又一つの宗教的信仰の決意、つまり「それは正しいに違いないから信じることとしよう」という言わば感情が理性を統制しようとする信念形成のプロセスと捉える事が可能となる。
 信念が形成される時必ず何らかの根拠が必要とされるとすると、ある行動を意志し、それを決行する時には必ず意志決定の合理化がなされる。そしてある命題的態度を行為へと移行させる過程において、なされる「それは正しいに違いないから行為しても間違いではあるまい」という決意が介在することとなる。
 その意志決定の合理化において正しいと信じられることに対する信念を確固とするものとは、端的に「そうであると考えれば正しいと納得出来る」とか「そうであると考えればそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という理性論的判断であるケースと、「ある信じられる人が信じているから正しいと納得出来る」とか「ある信じられる観察事実によってそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という経験論的判断であるケースとに概念規定上は認識し得る。だがそれはそのように全く相反するケースであるように認識され得ることもあれば、そうではなくその二つが密接に絡み合って一個の判断と信念形成となっているということもあり得よう。またどちらか一方である判断と信念形成だけでは心もとないということから、他方の判断と信念形成を適用して、そちらも充足し得た時のみ「それは正しい」と結論し、それ以降それを信じていくということ、つまり決意することもあり得るということになる。

付記 次のブログにおいて本章と関連あることを述べているので参照されたし。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-05a6.html

Wednesday, March 3, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十八章 応用と実用②他者にレスキューを求めることを恥と思うな 

 ホームレスへと転落した人の大半は、一人で全てを抱え込もうとするプライドが禍しているのだ。その事こそが現状を招いたと自覚せよ、これが本章で言いたいことである。
 他者から恩を受けることに対する極端な恐怖、あるいは誰かから雇用されることに対する極端な恐怖が人に何かを要請したりすることを躊躇するようになり、自らレスキューを求めることすら閉ざしてしまい、そこから抜け出せずにホームレスへと転落してしまうということも多いものと私には思われるのである。
 自分を救うことが出来るのは、本質的に自分だけであり、それは自己困窮の状況説明、自己能力、つまりレスキューして貰う代わりに社会復帰する際に少しでも被雇用へと直結し得る業務内容をハローワーク等で説明せよ、ということである。その為にも要請内容を明確化せよ、ということである。それよりも何よりそのようなレスキューをいよいよ必要となるようになる前に、例えば貴方が仕事で何か困窮した時には、即座に上司なり、その上司に説明したり相談したりしても埒が明かないときには友人や知人へと相談することを躊躇うなということである。そうしておけば、例えば営業成績が不審でリストラ対象になる以前に手を講じることも可能だからだ。つまり最悪な状況になる以前に、心ある他者に説明し、相談するという選択肢を経ていれば、何らかの対策を講じることも可能だという事である。往々にしてそのような対策を講じなかったが故にホームレスにまで転落していってしまうということがことの他多いのではないかと私は思っている。
 またこちらから働きかけなければ、行政とは一切動かないのである。つまり自己救済を確立する為にこちら側から救済する正当性、つまり行政がある個人を救済することの正義を理解することが出来るように、仕向け、説明することをいつでも用意しておくべきなのである。
 それは営業部員が上司に受け持ち区域のクライアントの分布状況を鑑みた営業戦略を事前に綿密にノルマ達成範囲の現実性と可能性の説明をする能力などにも適用出来るのである。つまり人間とは他者に対して、その他者が情報的に不足している部分を補うように常に情報交換をしておけば、より円滑にこちら側に課せられた業務内容やこちら側に適用される努力目標が明確化して、無駄な誤解を招くことを未然に回避し得るのである。つまりそれを日常的に怠っていると、青天の霹靂の如く、ある日突如、上司から怒鳴られ、こちらがちっとも相談していなかったが故に自分一人で悩みを抱え込み、果ては責任を取らされるという憂き目に遭うこととなるのである。つまり常に自己の立たされた状況把握をして、最悪のパターンだけは回避させるべく努力をすべきであり、それは自分一人では解決出来ない案件に関してなら積極的にその事に精通した他者に相談するなり、説明して自己の立たされた困窮に対して理解を得ることが求められているのである。そのことは残念ながらホームレスにまで転落してしまった場合にさえ当て嵌まる。つまりその最悪な困窮状況から一刻も早く離脱する為に、行政からレスキューを得ることを要請すべきであるからだ。常に我々はこう念じておかねばならない。それは「他者にレスキューを求めることを恥と思うな」ということなのである。

 付記 最近あるホームレス救済をしている人のレポート番組で、何と大勢の仮施設で救済されるべく収容されているホームレスの人たちが生活保護申請用紙を渡されて生活保護受給を提案されていた時拒否していたことを知って驚いた。要するに彼らは依怙地なプライドが禍して却って生活上での困窮を招いているのである。(河口ミカル)