Friday, April 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十七章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)

 今回は少し私的な経験から得た私流の日常生活での意志決定に役立つ自己分析について考えてみたい。
 私は一昨年ある哲学の有志研究グループと京都に永井均氏の講演を聴きに旅行した際に知遇を得た。彼等もまた永井氏の哲学に共鳴する人達で、私同様その講演を聴いていたのである。
 彼等は京都で活動するグループで既にその時点で数年以上活動を維持してきていた。彼等には京都流にアヴァンギャルド的な革新的なムードが最初からあった。それは端的にその場では如何なる社会的地位も年齢も階層も無化するという徹底した学究的態度である。
 それはある部分ではかつて私が所属していた中島義道氏の哲学塾カントでも共通した部分はあったし、氏による無用塾も似たところはあったと思うが、唯一決定的に異なるのは、氏自身が師であり指南役であるということだ。
 それは京都のグループには基本的になく、要するに世話役として若い26歳の青年が今現在担当しているし、それ以外のNPO法人の代表のある造船会社社長である40歳の中年男性と二人三脚で維持してきた、という歴史がある。
 さて私は当初彼等のその完全な平等主義にいささか面食らったし、相互の年齢とか経験を超えた完全対等主義的態度にどこまでついていけるかという事自体に関して、自分自身の忍耐力との兼ね合いから鑑みても不安はあった。しかも若い世代に当時十八歳(現在二十歳)の青年もいたし、彼等の中でも彼は突出して血気盛んだった。
 しかし私は彼等の中には何かある、という自分の中に彼等との交際が私自身に何か新鮮なものを齎してくれる予感のようなものと直観の方を優先したし、未だに彼等との交流が続いている事自体はそれを証明している。それだけ私は彼等との出会いを一つの大いなる邂逅と認識してきた。何故ならそれまでの私の人生でそれほど長く関わったグループは専門的な勉強以外ではなかったからである。
 この場合私自身が自己分析してみると、次のようになる。

① 最初彼等に接した時余りにも拘りのなさ、或いは対話における歯に絹着せぬストレートな対論において、新鮮さを感じ取りもしたが、同時にいささかの不安を感じた。或る種のアヴァンギャルド的過激さを私は匂いとして嗅ぎ取っていたということもある。
② しかしそれにもかかわらず、私は常に次に彼等と又会うべきかどうかを考えあぐねた。そしてそういう風にもう二度と会いたくはないと簡単に結論することが出来ないということは、それまでにそうなかったことだ、と思い当たった。
③ そこで私は私自身が彼等の存在に何か途轍もなく新鮮でいい雰囲気を嗅ぎ取っていて、率直に私自身はずっと同じ面メンバーで活動してきた彼等の中に私が加わっても私自身は新参者であるが故に軋轢はあるのではないかということを考えるようになっていったが、それでもそうだ、もう一度だけ出席してみようという思いも立ち上がっていた。軋轢その他への不安、それは端的に私自身が彼等の存在に惹かれているという何よりの証拠である、と思い至ったからである。

 そこで私は彼等が東京の高円寺まで出向いてきていたグループの研究会に一度出席することに決心した。そして以後続けて更に二回出席した。その都度世話役の26歳の青年が発表を担当した(最初一回は造船会社社長と合同発表であった)。そして続けて他人の発表をつきあったので、次回6月に私自身はこのブログなどで考えてきたことを発表することになったのである。
 ここには私自身の意志決定の合理化の過程が示されているように思うので、もう一度前記の①から③までを再考してみよう。

 重要なことは、私たちは何かを決断する時、敢えて決断するという場合、例えばある申し出を受け容れるか断るかという事に於いて、既に粗方自分の内心では受け容れるということと、断るということを決定してはいるが、受け容れる場合、それを憂慮なくスムーズに肯定出来る理由を、逆に断る場合は余り波風を立てずに婉曲に巧く断ることの出来るいい方法を模索していて、即決意を表明出来ないという時に、決断された行為を滞りなく決行する様に整えていること、つまり体勢を作ることを意志決定の合理化と呼ぶ、ということなのではないだろうか?
 確かに躊躇しているという意味ではある申し出を受け容れることと断ることとは隣接してはいる。つまり容易に受け容れられないことと容易に断れないという意味においてである。
 だがある決定的なこととしてこの二つは異なっている。それは受け容れる場合に即座に実行出来ない場合に往々にして我々に介在しているものとは、こちら側の沽券とかプライドとか、拘りであり、断る時に即座に実行出来ない場合に往々にして介在しているのは、明らかに相手を傷つけたくはないと言う、或いは断る自分が相手から悪く思われたくはないということである。
 その意味では私が京都で知遇を得た連中との哲学研究サークルに属する事となった経緯において私が①で既にある程度彼等の存在、そして彼等の活動自体に関心を持ち、惹かれているということが事後的な自己反省において判明していた。そして②で、もしその段階で一切次回もう一度会う気がないような場合、次回はどうしようか、などと考える筈はないと、私は考えたのである。
 ③において最後に私は本当は次回も出席したいのだが、ある部分ではそれを滞りなく実行させるものとして、自分より彼等の方が全員その時点では若い人達であったという事に於いて、自分に対して決して刃向かわない様なタイプの人間関係であるなら、私がどこかの講師として招かれてそこで生徒とか聴講生として集う人達と私自身は完全にビジネスとして講習料を徴収するという形で接する以外にはないが、少なくとも私は年齢的なこととか、そういった師弟関係的な階層性を求めて彼等と接していたわけではない、従って私は変な自分の中のプライドを一切棄てて彼等と全く対等の同レヴェルで研究し合うということを決心することとなったわけだ。
 要するに意志決定の合理化とは端的に「本当はそうしたいのだが<受け容れる場合でも断る場合でも>」それを押し留めようとする何らかの力を撥ね退ける理由を探っているということが出来る。
 それは今挙げた私が京都の連中と交流することとなる理由とは逆の「断りきれないのに、相手がどうしても好きになれない」という理由で自分の精神衛生的理由から断りたいという時に踏ん切りをつける為に正当的に断れる理由を探るという場合もある。
 
 そのことを考える際にかなり現代社会とは既に好感度よりも反感度によって最終決定を下す事が多いということを考えおく必要がある。つまり快・不快であるなら、何が心地よいからそれを選ぶという積極的理由よりも、寧ろ何が心地よくはないという消極的理由から何かを選ぶ、つまり職業などだったなら、積極的に「これがしたい」からではなく「これなら我慢出来るから」という理由で選択することが大半の人生では常套的なことではないだろうか、ということである。
 つまり何かに積極的に感動出来るからそれを選ぶというのは日常的には趣味的なレヴェルでの選択であり、義務的なこと、社会行動的なこと、職業とか対人関係的なこととは、理想的なことからではなく、もっと現実的なことで選択しているわけだ。それはある職業や行為や対人関係を選択する(例えば患者が精神科医を選択し、就職したい人が企業を選択する<勿論もし二三社から採用したという通知を受けた場合に限るが>)場合、「それ、あるいはその人なら我慢出来る」ということは、逆に「それ、あるいはその人だけは我慢出来ない」というものに対して、積極的に選ぶのではなく積極的に避ける形で、消去法的にある別のものを辛うじて選択するということである。
 それを極めて象徴的に示しているのが、ツイッターのフォロワーとフォロウィングの選択基準に既に最初からアンフォロウとブロックが具えられていることである。何故ならツイッターの場合自分のツイートに対して挑発的に喧嘩を仕掛けてくるツイーターが必ずいるからである。勿論友好的なツイーターもいる。だがそれはあくまで偶発的に自分のツイートに引っかかってきた人であり、理想選択によってではない。そのことが重要である。つまりツイッターでは偶発的邂逅自体にその都度、それを積極的に受け容れるか、それとも拒否するかという選択を迫られていて、その決断続行自体がツイッターをユーザーとして利用することを維持していく理由となっているのである。
 そういった消極的選択の、つまり常に向こうから偶発的に引っかかってくるフォロワーの選択をその都度していくという仕方であるツイッターは率直に言って「そうしてまでも得られる相互のツイート内容という瞬時で素晴らしか下らないかを判断することを通した情報摂取」を価値化されたものであると我々が感じ取っている場合にのみ積極的にツイートしていくことを我々に誘引することだろう。
 しかし少なくとも京都の哲学研究のサークルとの出会い、まさにそれこそが人生の邂逅ということなのだろうが、それに対して私が抱いた事後反省における①から③は、全て私は彼等の私の人生における存在理由を出会った瞬間認可していて、その認可を滞りなく正当なものとして認識し続けていく理由を、つまりそこに何の拘りもなく受け容れる理由を探るものであった、ということがこれで鮮明化したと言えよう。
 そしてツイッターのような便利で日常生活において直に人と会うことなく、それでも有益なコミュニケーションをすることを可能とする交流(言葉の上での純粋な意味提示行為としての)と、それをも含むが直に会うことによって得られる人間的交流ということの併存を我々が人生で多層的に望んでいるということを示してはいないだろうか?
 繰り返すがツイッターでは不快なツイーターを積極的に拒否していく、そして受け容れられるツイーターは消極的にアンフォロウしたりブロックしたりしないということにおいて成立している便利なメソッドである。メディアである。その消極的選択の持つ日常生活上での現実性、実利性、有用性といったことが、そういった「不快ではないこと」、つまり否定を否定したいという欲求が肯定を肯定したいという理想追求よりも、より長期持続には耐えられることという真理を表わしてもいるように私には思える。
 つまり退屈な行為の方がより長期持続には耐えられ、逆に瞬時に楽しい行為はあくまで短時間内で充足し、余り長期持続であると辟易していくものである(芸術表現では概して絵画は前者、音楽は後者であると言える)という真理を表わしているようにも私には思えるのである。

Friday, April 16, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 心地よい言葉の伝え方とは何か?言葉の持つ効果とは何か?

 言葉に於いて一番重要なことはその伝達内容、意味内容であることは誰しも知っている。にも関わらず同じ伝達内容でもその伝え方次第で全く変わった印象になってしまう。そのことは意外と日常的場面では重要である。
 それを言語学、構造主義的にシニフィエ、シニフィアンとヤコブソン的に考える必要はない。そういった学術概念規定的パラダイムとは少し違う問題である。
 伝え方には当然文法的配慮、言辞、表現方法等色々なことが考えられるが、一つは言葉を示す時の心構えとでもいっていいものがあるように思われる。
 言葉を発し合うこととは、それが実際の会話であれ記述を通した伝達であれ、その言葉の持つ意味を心地よく受信したいというごく自然な欲求に根差している。
 その為には発話者、記述者の言葉を最後まで心地よく聴いたり、読んだりすることを聴く側や読む側が自然に納得する形で発話者が記述者がその言葉の使い方を選ぶ必要がある。
 その極意とは端的にそれを聴く側、読む側が心の負担にならないような巧い言い方、つまりそういう不安を与えない情報様相にすること、それでいて取り繕った物言いではない真摯な言葉である。それはどういうものなのだろう?
 一つには助詞の使い方である。
 例えば相手の立場や年齢、職業などを考慮してもしないでも、一定の言葉の内容の後に加える「さ」や「な」や「よ」といった言辞はかなり日本語では大きなウェイトを持つ。
 「さ」にはある種のやるせなさが、「な」には対等な人間同士の同意確認、「よ」には相手に対して念を押す押し付けがましさが介在する。
 人間は言葉の意味だけでなく言葉の伝え方やタイミングなどを心地よい形で意味を伝えて貰いたいというごく自然な欲求がある。余計な一言、語彙、特に助詞が日本語では禁物である、と言ってもよい。
 つまり敢えて言えば、「言うべきことではない」とまでは決して言えないものの、敢えて言う必要もない、或いは言わぬに越したことはない、或いは言う必要がないから言わずに済ました方が無難な言葉はかなりあるのではないだろうか?
 特に対話においては発話であれ記述行為(メール、ツイッターその他)であれ、相手から対等だと思って貰いたいのであれば、相手に対して対等であるという態度をあからさまに示すべきではない。或いは少なくともそう受け取られる様な言辞をしないように注意すべきである。
 確かに理性論的には、仮にそういった言辞、助詞などによる物言いをしてしまっても、どうということはないと敢えて言うべきなのだろうが、如何せん人間は極めて心地よく相手の主張を聞き入れたいので、正しいことをあからさまに正しいのだ、と示されるとむかっとくるのだ。
 それは何故か?正しい事を正しいとあからさまに示されると、その主張を誇示する者の態度に即座に傲慢を読み取ってしまうものなのだ。
 それくらいのことに目くじらを立てることは確かに大人気ないとは言える。しかし人間は皆完全なる大人ではない。つまり神様ではないからだ。従ってそのような誤解を招く物言いなどは極力慎むに越した事はない。そう言う些細な日々の積み重ねでかなり得をする者と損をする者との間に開きが出てくる。
 繰り返すが、それを過大視すべきではない。しかし出来るだけ相手に不快な印象を与えないように気をつけるくらいなら誰にでも出来る範囲のちょっとした努力ではないだろうか?

Sunday, April 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 場を白けさせない為に「合わせる」工夫の意味

 我々は日常的に集団になると、集団が運用しているある固有の流れに身を任せるということがある。それは大きな政治経済の流れでもそうだし、小さな集団内での笑いなどでもあり得る。
 例えばある学会に入会した新人の会員がいたとしよう。それがたまたま分析哲学に関する学会だったとしよう。その学会では既にクワインの「論理的観点から」とかクリプキの「名指しと必然性」などの論文の検証からごく初歩的な会全体の知識や現代哲学的通念が共有されているとしよう。がその新人はその二冊をたまたま読んでいなかったとしよう。そこで皆が固定指示詞といった語彙を別の内容の論文を発表するある会員のプレゼンにおいて会員全員が流用していて、それを承知の上で会全体が進行していたとしよう。するとその新人は本当はそこで会の進行を止めて質問をしたかったのだが、その流れを阻む事自体を会の全体の運用から憚られて、その会終了後などにたまたま飲み会などが有志だけで開催された時たまたま隣の席に座ったやはり未だ入会後一年くらいの会員の人が感じがよかったので、そのことについて全員で何か発起人が音頭を取って司会していた時間帯を過ぎまちまち勝手に会話しだした頃を見計らって質問し、その会員から笑顔で親切に教えて貰うというようなことというのは日常茶飯なことである。特に学会などでは優れた論客などが数人主導権を握っていて、そう容易にその流れを堰き止めたり滞らせること自体憚られるものである。
 それは逆のケースでも十分あり得よう。例えば仮にテレビなどのメディアで文化人的に有名になったある本当は堅い専門分野の学者が、歌手やお笑いタレントたちが挙って出演するヴァラエティ番組にゲストとして出演した時など、そこに出演していた大勢のタレントたちが一瞬で理解したジョークとか駄洒落の意味を、余り昔からヴァラエティとか歌謡番組とかお笑い番組を見てこなかったその者が、皆が大爆笑になったので、適当に皆の歩調に合わせて一緒に笑うというようなことは、映画を見ていて皆が笑ったので、自分のつられて笑うということと同じくらいに頻繁にあり得ることである。
 その学者は番組収録とか生放送終了後に、たまたま打ち上げについて行って、個人的に親しくなったあるお笑いタレントから「あの時のジョークの意味私理解出来なかったのですが」と密かに二人だけで会話する機会を見計らって質問したら、相手のタレントは「何だ、そんな事ですか」と言って親切に教えてくれたという事もあり得よう。
 それが生涯を左右するような裁判などで自分が無実の罪を着せされて冤罪にされそうになった時に、判事や証人の証言などに対して反論したりすることの重大性に比べれば、たかが遊びなのだ。従って場の空気を敢えて白けさせる必要もあるまい、という配慮から「それどういう意味ですか?」などと質問することを憚るということの本質とは、ある部分では集団内での和秩序を維持するための協力とも言える。しかし実際上、我々が学生時代とか、少年少女時代に、学級委員会などで皆が理解しているような雰囲気の時とは、通常誰でも知っている四文字熟語をたまたま自分だけが知らなかった時など、その場で「聞くは一時に恥、聞かぬは一生の恥」的なことがあったとしても、その時に質問しないのであれば、あとでずっと損をするということででもない限り、家に帰って自分で辞書を引いて調べておこうとメモをとるなりしていたことを誰しも一度は思い出すことだろう。又どんなに偉い学者とか専門家でも誰しも一つか二つくらいは当たり前に普通の人が知っている熟語を知らなかったり、変則的な漢字の読み方などを間違って覚えていたりするものである。又仮にそういうことが一つあったからと言ってその人がいい仕事をしてきた人である場合、その人の社会的評定がぐらつくということがあってはならないだろう。そういうことで揚げ足を取ろうとする者がいたとしたら、その者の方が非常識であり卑劣である。
 話しを戻そう。その場の全体的な運用の流れを殺ぐことを恐れてよく理解していないことがあっても、その段では質問をすることを自ら積極的に控える工夫とは、協力であると同時に、集団内での責務偽装であり、同時に、そのことをその時に「よく理解出来ない」とか「知らない」ということを表明することで得る恥ずかしさを回避する意味合いから羞恥偽装でもある、この二つが合わさった意志選択である、と言えないだろうか?
 大人社会では恥ずかしさを素直に表明すること自体を忌避する工夫がある種の人生経験的狡さとなって身についており、それをこういう時に援用するのである。故に「知っているのに、知らない振りをする」という悪意もあるし、「知らないのに知っている振りをする」悪意もあり、後者にそれを位置づけることも可能であろう。もう少し高度になると「知らないのに知らない振りをする」ということになる。これは落語の高座で聞いた話からのものである。
 責務偽装とは若いアナウンサーがニュースで昔活躍して今はリタイアしている政治家とか実業家などの死去のニュース原稿を読む時に、本当は多少名前を聞いたことがあってもその原稿を読む本人はあまりよく知らなかったり、全く知らなかったりした場合でも、さもよく知っているような表情を浮かべてテレビのカメラに向かってそのニュースの視聴者に向かって原稿を読む行為などに見られる職務上での演技のことである。それを全体の運用、流れを殺ぐ結果へと結びつけないように巧く滞りなく「白を切る」ということが、まさに歌舞伎での十八番である勧進帳的な意味合いでもそうだし、もっとそんなに切羽詰ったことではないケースでも日々我々は経験していることである。
 そして老練で百戦練磨の大人、あるいは海千山千の大人というものは、本当は自分でよく知らないこともあるのに、さも全部知ったような表情や素振りをしたり、本当に親しくなった他者にしか自分の無知を曝け出さないようにしたりすることによってその場その時を巧く演技して切り抜けてきている。それは彼等が羞恥偽装をすることを子供なら心の中で悪意を持ってする、つまり嘘をついてはいけませんよ、と両親から躾けられていることを敢えて自己責任の下に逆らって行うようなこと、それがまさに子供が自我に目覚めていく過程でもあるのだが、それくらい朝飯前ということで本音と建前を使い分けるような処世術、処世訓を習得していくに従って子供が抱くような贖罪の心理など微塵もなくなっていく。またその倫理的贖罪心の鈍磨こそがある意味では厚顔無恥な老化現象、まさに感情の老化現象でもあるのだ。
 人間は時には恥をかいたっていいのである。それを畏れないで常に向上したり、分からないことは、相手は年配者であれ、自分より年少者であれ真摯に問い尋ねとりすることを厭わないでいるということこそが、精神的若さを維持していくことへ直結している、と言える。

 付記 この集団内運用、流れに協力する「合わせる」ことと、自己内の羞恥による無知の隠蔽は、サルトルの「存在と無」中の自己欺瞞とか、カナダ社会学者のゴフマンによる儀礼的無関心などとも関連づけて考察可能であろう。又勧進帳による武蔵坊弁慶による胸源義経に対するレスキューなどは私自身の定義からすれば詐欺偽装(サラ金の受付穣が笑みを浮かべて借金に訪れる人をさも親愛の情で惹き付ける演技や、テロリストに監禁された人が自らの拉致状況において、自分たちが人質として殺されないように如何にテロリストたちを刺激しないように友愛的態度を偽装することに見られる「合わせる」態度、振舞い)に近いものである。偽装心理については後章で詳述する。

Saturday, April 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 場が打ち解けたり、個人と親しくなったりするきっかけとは何か?

 通常我々は余り親しくはない相手に対しては、自分の正体を余り率直には示しはしない。或いは会合等で冊子が配られてそれに目を通している時も、その冊子でも説明が今一説明不十分であったりして、難解な説明であるが故に理解し辛いということがあったとしても、尚それを他者に悟られまいとして、あたかもふむふむよく理解出来るかの如き表情と振舞いで隣に座る社会人の人に内心を悟られまいとするだろう。
 ところがあるものの弾みで、隣に座る老紳士が仮に会合で説明する司会者に対して、その説明の途切れたところで質問をする。
 「この冊子の概要が今一つよく理解出来ないのですが。」
 そう言ってもう一度概要を説明願えないかと老紳士が聞くと、一斉に周囲の社会人全員がそれに頷き、笑みが毀れ、それまで一切隣に座る人に何か聞くということもなかったその場が一気に和み、相互に教え合ったり質問し合ったりする光景などということは日常的にはよく見られる。
 それは自治会でもそうだし、社会人向けの啓発セミナーなどでもそうである。
 これは意外と重要である。自分が相手に対して予防線を張って、一切自分の弱点、欠点、無知な部分を曝け出さないように配慮している内は、その相手に対して対人関係的には自己防衛心でガードしているわけだから、相手も又心を開かない。が、一旦自分がこれこれこういうことがよく呑み込めないのだ、とか、よく理解出来ないからもう一度説明してはくれないか、と質問すると、途端に相手は真剣に接してくれるようになる。
 ある種の他者に対して相手が信用出来るか否か未だ判然としないが為に張っている予防線を解除することを通して人は相互に信用したり、信頼したり出来るようになるのだ。
 端的に人間関係において他者と親しくなる条件というか、親しくなれるきっかけとは、自己の他者に対する優位を示すことではない。これは最も忌避すべき態度である。これは特に若い世代の人の年配者に対する態度に見られるが、これをしていると、年配者は若い人たちに対して自己経験上でのノウハウを伝授する気持ちにはなれないだろう。
 また相手を競争相手であると認識しているような態度では、真実の情報交換が望めるということはない。勿論例えば学会に出席するような場合我々は学会員全員が学者という意味ではライヴァルかも知れない。同一政党内での同僚議員などもそうかも知れない。がそれでも尚相互の信頼関係というものは、相手に対して挑発的態度で形成され得るだろうか?それは例えば政治の世界などで仲良しクラブ的な雰囲気では政策的な信条を貫くことが出来ないから、それは官政談合的な意味での「淀んだこと、腐敗」ということへと直結するから忌避すべきである、ということとは別箇に必要な態度である筈だ。
 例えば論議議題的には敵対する立場の者同士でも卑近であるが故に意外と必要な情報交換などにおいて、例えば営業マン同士が地理的、実際の営業区域の情報を相互に教え合ったりするということは、端的にライヴァル同士であるが故に必要な行為だろう。
 そこで相手に対して自己の弱みを一切示さずに対峙姿勢を崩さないままであれば、相手も又態度を硬化させ続けることだろう。従って必要な情報を欲しいということを真摯に打ち明け、よく新人で理解出来ないことであれば、上司、先輩、あるいはある事項に関して部下の方がよく心得ているのであれば、そういう他者に積極的に自己内の欠落した状況を説明して、相手から有効な情報を引き出すことも求められている。
 その為には積極的に自分の不得手なこと、不得意なこと、苦手なこと、理解しきっていない点などを真摯に相手に告げるという態度こそが、悧巧な他者との接しにおける他者の活用の仕方であり、情報化社会を生き抜く智恵と言えるのではないだろうか?
 そのようなビジネスシーンでなくても自然人的な触れ合い、つまり趣味のサークルなどでも積極的に自己のコンプレックスを告白し合うということこそが、親しくなるきっかけとして最もよく見られるパターンであることは誰しも心の奥底では知っていることではないだろうか?
 新入生諸君、新社会人諸君、転職者諸氏、リタイアされた方々諸氏、全ての人に言いたい。格好つけている内は誰も貴方に心を許して真摯に教えてはくれない、ということを。 
 そしてそんな事貴方だってとっくに知っている筈のことなのである。従って最近対人関係に苦慮しているということがあるなら、もう一度素直に誰でもいいから、自分の情報的不足、理解しきっていないことを頭を下げてもいいから(何かものを聞くということがそれほど苦痛なくらい頭を下げることではないことくらい貴方が一番よく知っている筈である)質問し、問い質して相手の情報的優位を認めて、指導、教授を仰ぐということをしてみてはいかがであろうか?

Thursday, April 1, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 実用と応用③人間に対するメタ認知について

 再び少し実社会的な俗なことについて考えてみたい。
 率直に言って私は哲学者、論理学者などをはじめとする学者一般に対して最大の不満と、彼等に対する欠如部分を認識している。それは純粋の学問を学ぶ姿勢と、彼等自身が教育者としての立場があるということから、世間知らずであることである。
 その最たるものは、彼等が極若い時期からずっと先生とか教授とか呼ばれてきているので、自分が担当する学生とか、カルチャーセンターなどでの一般社会人に対する応答に対しても若い学生たちとそうではない年配者に対しても同じように対応する。勿論学問自体に相手を社会的立場で区別して接することは許されないという不文律によって彼等はそうしているのだが、実際上人間は若い人には未だかなり多く時間が残されているし、年配者はそうではない。従って相手を見てアドヴァイスの仕方を教授や先生、講師と呼ばれ、そう世間から認識されている人は慮って対応すべきなのであるが、それがなかなか出来ないのが哲学者、論理学者(故に恐らく数学者とか理論物理学者たちもそうであろう)一般の最大の欠陥である。
 さて私の考える対人対応術とは、相手も見て対応せよ、ということである。相手が物分りのよさそうなタイプの人間かどうかを鑑みて我々は例えば道に迷ったりした時に質問する相手を選別している。それは殆ど直観的な判断である。それと同じことが全ての対人対応術に適用出来る。
 例えばカルチャーセンターなどで各講義を受講する聴講生として参加する社会人は、端的に大学院で学位を取ろうとしている学生と同じではない。院生などは本当にその者が将来学者としてものになるか、あるいは一般社会で通用する人間になるかどうか全くの未知数であるのに対して、聴講生はきちんと社会で働いたりして、それ相応の時間を人生で過ごしてきているのだから、全く異なった心得でよいし、またそういう区別をして接して来ない講師などを人間的に相手にするべきではない。
 学者とは一般に世間知らずの最たるものなのである。狭い世界でだけ生きている者なのである。故にそのことに対して自覚的で自省的なタイプの講師だけが信頼出来ると言える。
 また相手の本などを読んで、予めそういう講義を聴講する場合には、質問内容を考えておくということも大切である。相手は営業で知り合う一般社会人ではない。従って自己の専門的学問分野に対する自負だけに凝り固まった人達なのである。従って通常の市民のような大人性が欠如している人達なのだから、それ相応の適度に相手を持ち上げて相手の知の領域の内容を予めメタ認知して、相手からこちら側にとって有効な情報を聞き出すくらいの智恵が求められる。
 カントが言っている根本悪とか善意志といったことは、人生を抽象化した哲学純粋定理的な意味合いを帯びているのであり、それは実践したら危険である。それはニーチェにしてもウィトゲンシュタインにしてもハイデガーにしても、偉大な哲学はソクラテス以来全てそういう実用、応用的な危険性を伴うということをよく認識して学問に接するべきである。つまりそれこそがメタ認知なのである。
 従ってメタ認知とは、そういう風に相手(実際の人間であれ、書物上だけでの接しであれ)を対象化して認識し、その者の存在傾向をよく鑑みて接しよということである。
 その為には、本を読んで理解するということでなく実際に会って話しを聞いたり、質問したりする場合にはあまり最初から本音を言ってはいけない。本音とは相手の正体をよく認知してから然る後に少しずつ自己の内奥から引き出すべきものである。
 従ってあまり誠実過ぎる接し方を最初から他者には取るな、つまり相手をあまり信用し過ぎるなと私は言いたいのである。それは特に新人社員とか社会人一年生的な若い人には言いたいことである。
 それは例えば院生で担当して貰う教授に媚びよという事ではない。勿論それが必要なこともあろう。だが寧ろこちらが学費を支払って接しているのだから、必要以上の持ち上げをすることはない。だがそれでも尚、相手の立場、相手の学問的専門性と、思想傾向をメタ認知することによって、余り自己内の真意を全て明らかにするべきではない。
 人間は相手に対して一定の敬意を持つということは、最初からその者に対する感情を相手に正直に伝えることではない。つまりそういったクッションを置いて、寧ろ質問をした当の担当講師などが質問者に対して適切な応対をし、よいアドヴァイスや意見を引き出すようにする為には、寧ろこちら側の真意は積極的に抑えて、相手自身が本音や真意を言いたくなる雰囲気を作ることこそが求められているのである。
 つまりカントやニーチェといった哲学者が訴えてきている誠実性とは、心の中の本音を全て語れと言っているのではない、ということである。つまりカントが嘘をつくなと言っていることとは、端的に「全てを語れ」と言っているのではない、ということだ。「語るべき内容」よりも、「どういう風に語るべきか」と真摯に熟慮して語れ、ということなのだ。
 つまり相手があまり言いたくないことを引き出そうとしてはいけない、という事なのだ。相手が快く質問に返答してくれるような質問の仕方、つまり雰囲気作りが必要だということである。従って余り挑発的な質問をする、つまりそういう部分で変に誠実性を示してはいけないし、そういう風にバカ正直になれ、と哲学者は私達に語りかけているわけではない、ということだけを我々は心得ておくべきである。
 それは新入社員達にとって上司や先輩に対する接し方においても全く言えることである。
 だから逆に一般社会人を相手にする日頃は大学などで教授、講師などをしている人に求められていることとは、相手を見て区別して応対せよ、ということである。まかり間違っても相手が自分の聴講生だからと言って、青年も中年も老人も同じように応対すべきではない。それは哲学の講師であるなら、哲学命題的な意味で言っているのではない。それは全く差別するべきではない。勿論大人には大人の、青年には青年の哲学的心得はあるにはある。しかしそれは哲学命題的な意味では然程大きなことではない。私が言っているのはそうではない。相手の人生経験に応じて質問者であり得る聴講生に対する態度を区別せよ、と言っているのである。
 つまり質問をして相手から情報を引き出す立場であれ、相手から質問されて情報を供給する立場であれ、バカ正直に誠実であってはいけないということである。この世界において適度の嘘や欺瞞を一切なし得ないで誠実性だけで接する人がいたとしたら、只の狂人であると私は言いたいだけである。
 哲学命題における誠実性とはそういう社会的処世術と決して矛盾するものではない。実はもっと深いところにあるのである。その深いところをよく直観することを通して、寧ろそれほど深くはない世間的な礼節的部分では適度な処世術的智恵を働かせ、巧くやれということである。つまりそれこそが自分にとって有効でよき利益を得られるように他者と接するということである。その為にこそ冷徹に接するべき他者に対する像をメタ認知(勿論自分なりの主観によってでよい)をせよ、ということである。