Saturday, May 29, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 言語行為で駆け引きと配慮が一致する地点(理想的遣り取り)<発信者と受信者の利益>

 通常、電話もメールもツイッターのリプライも最初にメッセージを送信したり、かけたりして話す者が、そのメッセージを受信する者から何かの情報を得たいと要請しているか、さもなければこちらから向こう側へ情報を提供したいと考えている。従って送信者(発信者)は相手へ伝えたいか、相手から伝えて貰いたいかのいずれかである。
 通常、メッセージ発信者がメッセージ受信者から何らかの情報を引き出したいにせよ、こちら側から情報を向こうへ提供したいにせよ、いずれにせよ何らかの利益をそこから発信者が得たい、それが仮に実利的目的ではなくても、息抜きとかストレス解消の為の会話だとしても、そうすることを最初に望んだのが彼(女)であることは紛れも無い事実だ。
 するとメッセージ受信者に対して迷惑がかからないということを最低限の前提に理想的には相手のメッセージ受信者から感謝されることが最良の成果である。
 つまりこちら側から相手に言語行為を望み、且つ相手から感謝されるには、相手が望む情報をこちらが提供するように心がけるか、相手から情報を引き出しつつ、相手のこちらへの情報提供の快(相手から感謝される<この場合電話をかけて話しかけたり、ツイートのリプライをする人から>ことに於ける)を与えるように巧く持っていくには、余り性急に相手へ情報を与え(恩着せがましく)たり、相手から引き出そうと焦ることは禁物だ。
 つまりその相手の感情を荒立てずに、巧く言語行為を援用していくかどうかの技術、つまり駆け引きが、相手に対しあたかも挑戦するかのように受け取られずに、逆に感謝されるように持ち込むことこそが、寧ろ言語行為上の最高の駆け引きと言える。つまり言語行為上での駆け引きとは、駆け引きであるという形式を露骨に示し合うことなく(あまり、せっついたり、がっついたりして欲望を剥き出しにせずに)行うことこそが、逆に最高の駆け引きであるということだ。
 これは全ての大人の会話の基本だ。
 つまり全ての実りある会話とはメッセージ発信者(送信者)と受信者が偏利的でなく相利的に利益獲得、享受する形に於いて理想を見ることが可能である。
 このことは資本主義に於いて、生産者と供給者、或いはそれらと消費者の関係にも適用することが出来る。
 このことは人間が利益取得という実利性、功利性を前面に出すよりは、あくまでそれは結果として付帯してくることを理想とし、相互の遣り取り自体を楽しむ、或いはその遣り取りの円滑さ、行為に纏わる充実感を求める感情的動物であることを示している。

Thursday, May 27, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 出会いの必然と偶然と知らない世界と知る限界① 

 私達は日々自分にとって関わりの深い人達と交流し、一緒に仕事をし、共に暮らす。しかしその人達との出会いはかなり偶然的要素によって設定されていた筈だ。
 例えばどこで生まれ、どこで育ち、どういう学校や学歴を重ね、どういう職業に就いたかということによって(その経路自体も偶然的要素と、生まれ持った資質とか才能とかとも関係があるが)どんな人達と出会うかという事も決定される。知り合った相手の人達も自分と同じ様な偶然と必然の要素を抱えて貴方と出会うまで生活してきたわけだ。
 私達は現在インターネット上でブログ、ツイッター等で日々新たな出会いを作ろうと思えばかなり大勢の人達と知り合うことが出来る。しかしどんなに出会ったとしても、例えば百人親しい人が出来て、かなり深く交流する様になっていったとしても、せいぜいその中の数人と親しくなり後はそれほど密な付き合いではなく軽い付き合い、中には深く交流した後決裂していく他者もあるだろう。そして新たに補充していってもせいぜい数人加わるくらいだろう。
 兎に角日本人の人口の全員と知り合う事など物理的(時間的にも空間的にも)も、精神的にも不可能なのだ。
 だから山があって雨が降り水脈に沿って出来る川の様に、かなり細かい水路の決定には偶然的要素が介入しても、大まかな水脈の流れと方向は必然的に地形その他の条件によって左右されるということから決定されている様に、私達が出会う人達の顔ぶれも、どういう職種に就くか、あるいはどこに住むかで粗方決定されてしまう。
 勿論その中でも些細な部分ではよく行く中華料理店とか行きつけのスナックとかということで、そこに集う人達と出会うという形での偶然はあり得る。長く同じ場所に暮らしていても、恐らくかなり大勢の人達と一度も顔を見合さずに終えるということもある筈だ。
 つまり私達は自分にとって重要な出会いや、住む地域によって決定される出会いといったことを総計しても、せいぜい数百人以内の人と面識があり、それ以外で顔だけ知っている人もせいぜい同じくらいの範囲に留まるだろう。
 それは知ることが出来る限界が脳にもあるし、私達自身の個人的行動半径にもよるし、知らない世界、知らない人達が知っている世界や知っている人達よりも遥かに多いだろうということは、漠然とした確信、曖昧であるのに絶対的確信として私達の脳裏に収納されている。
 つまり自分が知り得る限界を知っていることで、逆に自分が知り得ないことの広大さを実感しているのだ。或いはこうも言える。確かに私達は自分の努力次第ではそれまでに手掛けてこなかった、取り組んで来なかったことにも挑戦することは可能だ。しかしそれまでしてこなかったことの数はしてきたことの数よりもずっと多いので、必然的に新たな挑戦をするとしても、その数は生きてきた年数からすれば残りの時間内で一定程度達成出来るものとなると、限られてくる。従ってかなり未来の不確実性に於いて、今後自分で出来る範囲というものは量的には限定されている。しかしずっとスポーツをしてきた人がそれ以前に関心さえ抱かなかった手工芸の世界で身を立てるということは現実味が薄いかも知れないし、ずっと事業をしてきた人がいきなり一度も描いたことのない絵画を始めるということも、趣味的に好きでなかったなら、かなり一撃を食らわされる大きな出会いで触発されるということがなければ展開し難い事である。勿論スポーツパーソンが趣味でもなかった手工芸に嵌るという可能性も常にゼロではないし、あらゆる可能性はあらゆる人達に開かれているとは言える。しかしそういった多くの開かれた可能性の中のほんの一部だけと出会う仕組みになっているとも言えるのだ。
 だからこそ前の段落の最初に述べた様に、知っている世界、知っている人の数がそれ以外の知らない世界、知らない人達の中のほんの一握りの偶然的出会いによって構成されていることを我々は薄々常に知っていて、それだからこそ知らない世界、知らない人達の広大な領野に自分自身が取り囲まれているということを概念的にも現実認識的にも薄々であるのに、あるいはその知らないが故に曖昧で確定的な像ではないにも関わらずかなりはっきりと我々は確信しているのだ。自分が知っている世界、知っている人達以外の多くの世界、大勢の人達が自分とその世界の周辺から、そのもっと先まで広大に続いている、と。
 勿論地球があって、それは球状であり、世界には色々な国々があり、どれくらいの人口を抱えているかということを我々は粗方知識として把握しているし、それ以外にも日々ニュースや新聞、その他本や人から聞くことなどから類推してその知らない世界とか、行ったことのない地域さえ想像することは出来るし、写真や映像で見たことがあるなら、それを更に引き伸ばして想像することはそんなに難しいことではない。
 従って全く目にしたことがないこと、一度も会ったことのない人でも想像することは出来る。
 しかしその想像は自分の中でも実際にしてみれば、或いは行ってみれば、会ってみれば、必ずそれまでの想像の通りだった部分以外の、意外な部分を発見するだろうということも経験上我々は確信を持って「その通りだ」と思っている。
 と言うことは世界とはその限界とは必ずあるし、自分が生を営んでいる時間にも限界があるのだし、しかも未来の事象は細かい所までは今からは把握出来ないし不確実である故、どう展開していくかは分からない。そして経験を出来ることの範囲も自ずと限られている。しかしやはり限界がある中でも放射状の開けている可能性の中の何かを我々は選択せざるを得ず、その自分にとっての世界の限界に対する曖昧ではあるが、そんなに逸脱することのない範囲でなら想像することも可能だし、しかし同時に確定的な像という意味では常に不確定的要素を残しつつ未来へと向き合っているのだ。つまり世界の限界とはそういう意味では時間の中で未来へと向き合っている限り確定的ではないし、常に流動的だし、限界ということ自体もイメージすることは困難なくらいにファジーなのだ。それは物質の最小単位が粒子であるか波動であるかという事自体も確定する事が出来ないのともどこか似ている。
 認識における世界の限界ということと、その実際の具体的像が思い描けるかということは全く乖離した状態にある、と言うことが出来る。
 と言うことはある意味ではその都度の「~である、或いは~ではないか」という判断や、世界の限界がある、と言った認識は、とどのつまり知る限界を知っていて、知らない世界、知らない人達といったこと、つまり未知の世界と他者全般を知る限界の中から楔止めしておく為の曖昧で不確定的な想像を停止させる為の処方である、ということになる。
 確かに知らない世界、知らない人々とは実際に遭遇もしていなければ、経験もしていない見聞きしていない世界且つ人達なのである故、想像に伴う労力は実際に見聞したことで費やされることとは桁違いに行ったり来たりして、要するに茫漠とし過ぎている。それは妄想的な思念に近い。従って一旦停止させる必要性を我々の脳は自らに命じるのだろう。
 それは一種の判断停止(エポケー)である。
 知らない世界や知らない人達とは、知る世界や知る人達という具体的像が脳に思い描けるが故に「それ以外」という形で認識可能である。つまり知る世界や人達がなければ必然的に「知らない世界、知らない人達」という想念は生じ得ようもない。故に知ることによって知らないことを作っているとも言える。しかし同時に知ることは知らないことと同時に把握されてもいる。
 例えば朝出勤時に、電車が人身事故か何かで遅れてきてやっとホームに到着した時ふと右隣にいた女性に「やっと来ましたね」と声をかけて、向こうも「そうですね」と返答したとすれば、その時左隣にいた男性には声をかけずに終わったということを意味する様な意味で、我々は誰かと出会った時、それと引き換えにその人と出会わなければ出会っていた人と出会わずに終わったということを認識することが可能である。それを運命と呼んでもそれは自由であるが、兎に角全ての人生上での時間はその様に何らかの選択をすることによって、逆に選択し損なった膨大な行為、出会いを積み重ねていくことでもあり、それは特定の経験を積み重ねれば重ねるほど、未経験のものをも積み重ねていくことだとも言える。
 つまり得ることで失っていくことの集積が人生だ、とも言えるわけだ。
 だからこそ私たちは「自分が歩んできた人生」が、「自分が歩むことなく終わった多くの人生」との集積の中からたった一個の「自分が歩んできた人生」を選び取ってきたということであると、それがそうしている時には終ぞ意図的ではないと思っていても、過去を振り返った時にはそう思えるのだ。
 従って自分が選び取ってきた(それがかなり偶然的な選び取りであったとしても尚)世界、人達とは、それと引き換えに選び取り損ねた多くの世界、人達との出会いの可能性を棄ててきた事を意味するから、必然的に選び取ったこととは、選び取らなかったこと全般に対する象徴的偶像であると言える。つまり知らないままで終えた世界、人達との出会いがなかったこと全般を代表して知ることとなった世界、人達との出会いが自分にとって存在しているというわけである。
 だから定義し直すと、知らない世界や知らない人達とはそれ自体偶像であるが、その偶像とは想像困難で曖昧な存在であるが故に、その想像出来なさを想像出来る「知る世界、知る人達」に委任することで、我々は「知る世界、人達」を「知らないままで終えた世界、人達」全般への偶像化しているとも言える。
 つまり偶像の不確定的曖昧さ、想像し難さを払拭する為に、知る確定的存在を利用して、それをもう一個の偶像とするという心的決定を下しているのである。
 だから私達人類にとって神に偶像がある場合、それは知らない世界、知らない力、知らない自然法則全般を、自分達の知る姿を通して(故にこそ神の偶像は人間を象っている。勿論アニミスティックな宗教では人間以外の動物、例えばヒンドゥー教では牛だったり、他にも象とか色々な動物だったりという風にされてきているわけであるが。)崇めることとしてきたのである。

Tuesday, May 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十八章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)PART2

 私たちが何か集団に属したりするように自分を持っていく時、そこには自分以外の誰しも何らかの形で集団に帰属して、或いはその様に自分を持っていって自分を鍛えているのだとそう思うからこそ、自分もそうしようと思う。
 これは何も態々ピアプレッシャーなどという語彙を使用しなくても誰しも思うことである。そしてどういう集団が自分には適合しているのだろうかと考える。
 その時必ずどの集団に属すにしても、何らかの形で自分にとって刺激になる様な自分を鍛えるのにいいと思える対自己的スパルタ教育的な決心と共に、それとは逆方向の「自分だって何とか務まるのではないか」という算段もある。つまりある意味では何をしても一切自分には勝ち目もなければ、歯も立たないような集団に自己を置くという決心はあり得ないと私は考える。
 それどころから全ての決心は「かなり自分よりも優位にある知性の集まりだ」とそう考えても逆に「でも自分の方が世渡りは巧い筈だ」とか、逆に「かなり自分よりも世渡りの巧い連中の集まりだ」とそう考えても、「でも自分の方がより知性では上である筈だ」という目算があってこそ、つまり何かに関してなら自分は決して他の成員全員と比較しても見劣りしないだろうという可能性に対する確信があってこそ、ある集団に帰属することを決意させることとなるのだ。
 ある部分では何か自分が決心する時に必要となることとは、全ての未来事象とは不確実である故、その不確実性の中には思ったよりもまずい結果になるということから、思ったよりもよい結果になるということまで触れ幅がある。
 しかしかなり十分に検討した結果、向こうがこちらを迎え入れてくれるのであるなら、それに対し快く承諾するか、それでも尚固辞するかということの間には必ず逡巡もあるし、躊躇もあるだろう。そして決心する時には「この集団に属したらかなり他の成員は自分よりも上手で二進も三進も行かないかも知れない」という不安と共に、それをも凌ぐ「いやもしかしたら、自分の努力次第では自分の能力を他の成員に誇示するいい機会かも知れないぞ」という希望(楽観的であるが、尤も楽観的ではない希望などないのだが)が介在して、その両者の釣り合いに於いて後者が僅かでも上回れば、迷うことなく決心するだろうし、かなり謙虚に「何、最初は皆から遅れを取ったとしても徐々に挽回していけばそれでいいさ」という気楽さがある場合(その場合他の成員の顔ぶれとか、中心人物に対する評定に於いてかなり感情的に良好であるということが前提となるが)でも、案外躊躇なく決心出来るとも言える。
 このことから、人間の感情が尊敬心自体も又、かなり侮蔑的感情と同居している、しかもそれは尊敬する対象に対して、同時に侮蔑的であり得るという意味でそうである、と言える。
 私達は愛情を持てるもの(物でも者でも)に対し一定の感謝の気持ちと同時に、一定のこちらの方が優位に立てるぞという打算とがかなりの比重で双方入り混じっていると言えるのだ。
 特別性悪論的な見方をしなくても我々は純粋動機主義的でもなければ純粋打算主義でもない、常にその中間辺りに我々自身の意志決定の合理化に対する基準を設けている。
 私たちはかなりその揺らぎの中に、自分を常に横たえて「次はどうしようか」と出方を探っているのだ。その出方とは自分自身の内心の感情を推し量るということ、つまり未来の自分も又今の自分からすれば他人であるし、又今の自分もその時(未来に於いては)の自分からすれば他人であるということに対する我々自身の了解に於いて、自分自身の出方に対する短時間に於ける直感的な思いを見定める事を通して、自分自身の性格的な決定傾向性をその都度査定している。
 又そうする事でその自分自身の仕方が、自分がよく知る周囲とか、一定の成功を収めている成員との間ではどれくらいの位置にあるのか、という相対的判断、メタ認知をすることを通して判断自体の、意志決定の合理化自体の仕方に対してその都度の判断、つまり反省をしたり、逆にこのままでいいのだと開き直ったりすることを促進するのである。
 故にこそ他者全般に対する「もしからしたら、かなり手強いかも知れないぞ」という判断と、「いや、それは思い過ごしで意外と御しやすい、思ったほどじゃないかも知れないぞ」という判断は常に隣接しており、ある意味では相互に中和し合っているし、解毒し合っているとさえ言える。
 だからこそ、愛する対象に対して同時にかなり畏怖の感情を抱いたり、逆に畏怖の感情を抱く対象に、同時に見縊っておいても大丈夫だという判断を同時に常に介在させたりしていくのである。
 これはアンヴィヴァレンツな感情である、とそう一言で言い切ってしまっても意外とつまらない。勿論そんなに単純ではない。常に本当は未来が完全に不確実である様に、反省しないで済む事自体も常に予測し得ない。かなり調子が悪い場合でも結果的には巧くいったと後で思えることもあれば、逆に絶好調で臨んだ割には芳しくない結果しかついてこない場合もかなり人生ではあることである。
 その不確実性に対するその都度の見切りをつけるという事自体が意志決定の合理化なのであり、その合理化とは、一つの対象に対する配慮ある尊重という相手に対する敬遠と同時に親しみのある気安さという対対象的な意味での防衛心の解除、の相反する二つの感情が同居し、その相反する感情は常にどちらかが少しだけ相手を凌ぎ、その力関係も徐々に揺れ動いているということが言えるのである。