Thursday, August 26, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十九章 言語―情動、価値、倫理

 言語行為をする時私達は「AはBである」という形で何かを相手に伝える時、その相手を選んでそのことを伝えるという一事を取っても、既に情動的行為であることが了解される。その相手は今話している相手でなくてもよかった筈だが、どういうわけかある話者を相手に選んで何かを伝えているのである。だからそれがジョン・ラングショー・オースティンの言うconstativeであったとしても尚、特定の相手に何かを伝えるという状況全体が既に情動的である。
 語彙選択がもし相手に従ってある程度限定されるなら、それもまた情動的であると言える。年配者や社会的地位上位者に対する配慮の中にも情動的判断がある。
 言語行為自体が既にそういった相対的な対他者判断が介在している以上、どんなに形式的、対外的な言辞であれ、発話であれ全て情動的な位相から語られるべき筋合いのものである。
 だが情動とはそれが発動されるということ(勿論脳内で、であるが)には、それ以前的に一つの社会制度的呪縛と、それに対する半強制的同意という事実がある。小学校を卒業すれば中学校に行くという順路もそうだし、税金を払うという義務もそうである。
 要するに社会制度的な追随的行為自体への懐疑心などそこに持ち込む余裕はない。だからこそ逆にその事実全般に対して反省意識(勿論それも言葉を習得しているという制度受容的現実に支配されているのだが)を個的に持つ時に、我々は価値的な認識を抱く。それは日頃どんな些細なことに於いても持つ心の作用であり、それらが集積されて一定の信条とか人生に対する思想を持つということが、個々の場面にも情動を発動する誘引材料ともなっている。
 つまり自己に対して他者自体が環境である様な意味では自己さえもが環境なのである。それは身体的存在論的にもそうだし、物理的な意味だけでなく精神的にもそうである。
 従ってそういった固有の環境の所有者として、或いはその住人として生存している我々は個々の場面に於いて情動を発動する時、明らかに既に一定程度常に確立されて保持している信条や人生に対する思想という裏づけ、或いは背景と言ってもいいが、そういうものによって意味づけられている。従ってどんなに感情的なことであっても動物本能的な部分を持っていても尚、それは認識論的な意味でも存在論的な意味でも言葉習得者としての思考秩序と無縁で成立しているわけではない。
 又価値自体は常に主観的部分を持つだけではなく、その主観的部分を社会成員全般との間で一致部分と齟齬部分を自己なりに常に意識しているから、自己と他者一般、自己と共鳴し得る他者の考えとか、そういった相対的判断も必ず介在する。そこで我々は価値自体の体系に対して、その体系に対する明示的認識がない場合でさえ、一定の思考をする。そこから倫理的問いが産出されるのである。
 もし地球上に私一人しか生存していない状況である日突然私が地上に存在を齎されたなら、私は果たして自己という意識を保有し得ただろうか?もしし得たとしても恐らく今の様なものとしてではなかっただろう。
 つまり価値とは既にそれが成立する段階で、自分以外の多数の生存者としての人間の存在を前提している。そしてその多数の存在の中の一個の存在という認識が根底にあればこそ、我々は価値を自己のものとして他全般との対比の中で価値化し得る。そこには当然一致部分と齟齬部分双方へ認識が張り巡らされている。
 価値自体が孤立的なものの様にかなり思われる場合ですら、それはウィトゲンシュタインが後期に到達した概念である「私的言語」同様、一個の生存者だけでの共同体の非存在では成立し得ないものと少なくとも私にはそう思われるのだ。
 価値とは漠然とした何か大きなものという認識があると同時に、ある特定の領域に於いて自分にとって価値あるもの、つまり具体的なものもある。例えば小説家がどこそこのメーカーのプリンターが文章作成後のプリントには適しているとかの考えも一つの価値であろう。
 しかしその様な個別具体的な価値とは、それよりは大きな価値、つまり今の例で言えば、小説家は小説やエッセイを書き、それを発表してそれで稼ぐという社会的制度上での行為事実が前提されていて、それ自体も又一個の社会内的価値である。
 つまり一個の固有の価値はそれ自体だけでぽつんと存在しているのでは決してなく、あらゆる他の諸価値との間での相対的位置関係を常に意識的ではない場合にせよ、持っているのである。
 そこに初めて価値全体を支える体系、つまりその時々での私達自身による判断を一般的傾向から、特殊な決意を産出することに至るまで規定していく様な指針として立ちはだかる。
 それこそが価値全体を例えば一個の個である「私」が抱くということであり、その事実全体を支える認識力である。しかしその認識力は常に私を個として成立させる社会成員全体の共同体的秩序や、制度上での半強制的現実に晒されている。そこにその現実自体に対して好悪、善悪、快不快を判断させるべき世界の体系がある、と言ってよい。その自己内価値体系と、世界にもそれがある意味では自己内価値体系の雛形として、ある意味では社会通念的見本として、ある意味では対自己的に強制してくる脅威として存在し得るものこそ、倫理体系的な価値である。
 それが先行しているのか、それともまず自己内価値体系が先行しているのかとい問いは無意味である。既にそれらは一束で纏まった思考の作用である。
 世界自体を覆う体系自体が言語的認識を言語習得してきた我々の幼少期に既におぼろげながら介在してきたというのは紛れもない事実であるし、それを並行させて自己内価値体系は我々をその都度自己内で要請されつつ保持してきたのだ。
 倫理がもし漠然としてでも大切なものである(それは守るとか守らないということ以前に思考することに於いて、反省意識に於いても現在時点での決断とか意志とか意図に於いても)という意識が我々にあるとしたら、それはこの我々自身が言語習得してきた幼少期から現在迄の思考航路自体への反省意識と、それなしに言語共同体内で生存してはこられなかったという事実への覚醒によってである。
 従って倫理自体が全ての情動を決定すると言うよりは、寧ろ倫理という概念を殊更思念する時があるという事実とは、端的に情動的にある行為を正当のものとするか、そうではないかという思念が自己行為に於いても他者行為観察に於いても思考上介在するという事実を持ってであろう。ある好悪、善悪、快不快を情動的に判断し得るという能力こそが我々をして、それらを一纏めにして世界全体の価値体系というひょっとしたら幻であるかも知れない絶対的規準を想定せずにはおかない。つまりそれが幻想であれ思念されるという事実があらゆる社会投企を我々が試みるという行為事実の根拠であることは間違いない。
 その中でも我々は常にそれを行為として意図として決定させるものがやはり自己内価値体系であることを知っている。勿論それは行為している時には一々そう思念されるわけではないものの、ある行為を終えて後そうだったと考えることが出来る。
 そして自己内価値体系全体が常に外側に思念上、問題設定上、仮想されている世界全体の価値体系と連動しているという事実全体を認識論的に我々に納得させ得るものこそ倫理である、と言ってもいいだろう。
 そしてその倫理への問いにもまた、情動的判断は常に付き纏う。
 従って世界とは全体的価値体系という幻想を自己内で創出することで他者全般へと我々を接する様に仕向ける事実自体を、一個の世界事実として容認させる様な一つの秩序である。そしてそれは価値を巡る例えば「私」個人と、それ以外の全世界構成成員との間の関係を倫理から規定するべく思考させる様な形での思考判断自体が情動によって誘引されている、と言うことも出来る。
 従って因果的先行関係を全ての思考行為根拠として設定することの不可能性だけが、情動的発動と価値設定の不可分性、価値認識、倫理的反省という一連の思念と行為を意味づけるとも言い得るのだ。

Wednesday, August 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 二十八章 テクスト主義とモティヴェーション主義

 構造主義では我々はシニフィエとシニフィアンという区分けをかなり流用した。これはソシュール起源の考えをヤコブソンが発展させて完成させたものである。シニフィエは意味内容、シニフィアンは意味作用とされた。
 現代で最もこの考えに基づいているのは批評界かも知れない。批評言語とはメタ言語を一番理解しやすいものであるとも言える。小説や詩に対する批評が、言葉自体への言葉による解釈という形を取るからだ。
 分析哲学では大半の論客が意味作用としての解釈をモットーとしている。つまりあるテクストは書かれた背景とか書いた人の内的動機がどうであれ、結果として示された言語自体の主張や、言語全体の持つ意味作用的可能性を重視するという意味で、それを仮にテクスト主義と呼ぼう。それに対し、あくまでどういう動機で書かれたか、どういう時代的背景で書かれたかということを重視する考えをモティヴェーション主義と呼ぼう。
 テクスト主義は文学批評でも分析哲学でも科学主義に根差している。それに対しモティヴェーション主義は書いた人の心の事情とか、様々な内的、個人的理由を重視するわけだから、人道主義的であると言えよう。
 しかし私は完全にテクスト主義者である。
 何故ならある書かれた言葉群とは、あくまで作者、筆者の意図とか思惑を遥かに超えて普遍的価値になることは必然であるし、又そうであるべきだと考えるからである。
 このことを私は「言葉の運命」と捉えている。
 だから本章は前章の否定ということに就いて考えた第一弾から継続された内容であると考えてもいい(前章のPart2は時間をかけて本論の結論へと持っていこうと思う)。
 言葉とは本来それを発する、或いは記す人の脳内に浮かんだ想念に形を与えたものである。しかしそれは一旦発話されたり、記述されたりすると、明らかに外部に出力され、「言葉」自体として独立して作用する。それをシニフィアン的位相から考えてもいいし、社会性と捉えてもいいが、要するに発した人内部の事情がどうであるかということや、書いた人内部の思惑がどうであるかということとは別箇に、それ自体として認識され、独立した意味を与えられる(その言葉を受け取る全ての人によって)ということが「言葉の運命」であると考えているのである。
 意味とは何らかの意味を伝えたいと欲する人の脳内に留まっている内は、意味作用しているわけではないが、一旦それが発話とか記述に於いて実現されると、それを聴く人、それを見る人から意味を与えられ、意味作用という社会的現象を引き起こす。
 従って歴史哲学的に解釈すれば、カントが書いた論文は、それ自体カントの内心の思惑とか書いた動機以上に、そのテクストがどう読まれるか、つまり筆者の意図とは別箇の社会性を帯びた現象的一例として例えば「純粋理性批判」が解釈され得る対象となるし、その受け取られ方自体が「純粋理性批判」の齎す後代への波及力となり、その受け取られ方の方をこそ、我々はその当もテクストを通したカントの意図と受け取るのだ。従ってカントがそれを書いた時点での思惑からは大分ずれ込んでいるということは当然あり得ることである。にも拘らず私はカント自身の内部の意図や思惑、書いた動機などよりもそちらの方を優先すべきである、と考えるのである。
 つまりそれこそ言葉自体が自立し、独立した価値と力があるという考えに拠るものなのである。
 何故私がモティヴェーション主義を排するかというと、それはモティヴェーションを他人である我々が読み取るという行為的意図にある不純さを感じるからである。つまり我々はそれほど他人のことを理解出来る筈がないからである。しかしその立場を重視する人達はあたかも自分達だけがそれをよく理解し得ると考えているが、よく考えてみると、彼等も又「本当はカントが考えていた事は~だった」と書かれたテクストとか、カント自身が著したテクストの文面からそう受け取っているという事実を忘れている。
 従って他人の心をまさに自分自身だけが理解出来る自分の内心の様に理解出来ない以上、テクスト主義しか成立し得ないということこそ科学的客観主義であると私は考える。
 では科学的客観主義は万能かという意見がモティヴェーション主義から提出され得よう。つまり客観的な分析ではなく直観的な理解だってあるのだ、と言う風に。しかしそれは違う。何故なら分析とはそもそも直観に根差すからである。そのことをモティヴェーション主義は見落としている。私達は直観自体を全く分析を通さずに信じるということにある危惧を感じなければならないと私は考える。
 それほど我々は我々自身の理性を信じてはいけない。人間はその日その時の気分でかなり縦横無尽に恣意的な解釈を施すものなのだ。つまりだからこそ「言葉の運命」を真摯に受け取るなら、我々は仮に内心では大した志を持たないふと思いついた一言であっても、それがいい意味作用を呼び起こすものをこそ重視すべきなのである。どんなに真摯にモティヴェーションを持っていたとしても、それが心無く他者を不快にしたり傷つけたりする言葉を我々は歓迎するだろうか?
 そこがまさに責任倫理的な考えを重視するか、心情倫理的な考えを重視するかの境目である。
 カントは確かに心情倫理的に根本悪とかそういう内心の動機に根差した善意志を重視した。しかしそれはあくまで内心の動機や言葉を産出する心の在り方自体が、言葉へと転用される段に反映してしまうということを彼が熟知していたからではないだろうか?
 このことの結論は保留にするが、責任倫理をカントが少なくとも無視して哲学書を書いた様に私には思えないのである。そしてそれは勿論私がカントテクストに接して読んできた(専門的に熟読してきたわけではないにせよ)得た解釈である。その意味では私も又テクストを通してしか当然カントを理解することは出来ない。
 結果主義とテクスト主義は微妙に違う様に私には思える。結果さえよければ何をしてもいいという考えと、発せられた、記された言葉の意味の可能性を重視しようという考えとは根本的に私には違うものであると思う。
 何故なら本章で述べてきた後者は責任倫理的であるが、前者は歪な功利的思惑だけが見透かされる心情倫理である様に思われるからである。
 ここにテクスト主義から考えてきた「言葉の運命」が深く社会性、つまり倫理の問題に抵触しているということが明白化したのではないだろうか?
 次回は言葉の持つ倫理性に就いて問おうと思う。

Monday, August 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十七章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part1

 昨今脳科学分野に於いて神経経済学など新奇な潮流学問も導入され、次第に以前羽振りよかった社会生物学や進化心理学が片隅に追い遣られて来ている。しかし別に神経心理学が進化しても必ずしも進化心理学や社会生物学が全て無価値になった訳ではない。認知科学が現象学のメソッドを今でも場合に因っては流用する様に、全て利用価値はある。全否定も全肯定も安易な背理論へ赴かせるだけだ。集団遺伝学的からだけじゃなく古生物学、解剖学から見たっていいわけだし。
 しかし潮流というもの自体は絶えずその流派を作ろうと画策するその時代毎に存在する一群の人々の政略的思惑があるから、そんなに簡単に全ての分野の考え方を並列的に辞書の様に利用価値あるものとしてストックしておけばよい、という風に巧くはいかないものらしい。
 だがその様な学問間の思惑に於いて各該当者達自身が相変わらず援用してきた一つの態度がある。それが否定だ。
 否定とは断固たる意志とスタンスを示す為に必要な態度である。
 だが面白いことに文面上では肯定と否定は只単にある命題「AはBである」を、それに並列的に「AはBではない」という形で二値論理的に配分するだけである。それは論理値としての認識上でに浮上する秩序でしかない。
 つまりだからこそその秩序に於いて否定を採用する時には、肯定を採用する時以上に内的感情が露にされるとも言い得る。
 入学試験、入社試験に於いては採点基準が既に学校や大学側、会社側などにあって、それに随順する形で機械的に処理されていくことが多いだろう(又そうでなければ公平ではない)が、学界的現実、社内通達的現実に於いて、学者、ビジネスマンに関わらず否定とは、否定的通達を申告すべき相手に対する通達者の感情が最も露になっているとも言える。
 だからこそ肯定と否定の二分しかないという現実に於いて、本当は否定したくはないのに責任上否定せざるを得ない場合や、本当は肯定したくはないのに肯定せざるを得ない場合が必ず状況としては付帯する。そこに逡巡や躊躇を持った決定というものが登場してくる余地がある。
 又それは些細な日常会話でも散見される。
 例えば相手の言いたいことを理解し得る場合は、感情的には相手の言いたいことに同意したい気持ちがあっても、責任上それをすることが憚られるという様な場合、肯定したいのに否定せざるを得ない場合が出てくる。
 逆に慣習上どうしても社会的地位的にある人が否定しなければいけない圧力がかかっている様な場合、その慣習自体を悪習として拒否発動することには勇気が要るし、その場合に相手を否定せず肯定する場合、肯定に纏わる意志決定に介在する否定決定への逡巡が重要な動因となる。その場合不正が蔓延っているような状況下相手を慣例上では肯定しなければまずい雰囲気の中で相手を否定すべき場合(見過ごせない場合)、否定に纏わる意志決定に介在する肯定決定への逡巡が介在することとなろう。
 もしそういった複雑な心的過程を通過した上で意志決定されている様な場合の脳内作用が脳神経学的に鮮明になれば、必然的に唯認知メカニズムの論理至上性への否定乃至批判的データが産出され得る可能性はある。それは情動が論理的に明示可能となることに他ならない。そうするには、対論理自体への拒否反応自体を論理的に明示する必要がある。
 要するに否定を只単に認知事項としてではなく、情動反応的態度的構えとして立証する必要があるのである。
 肯定と否定に纏わる論理決定性とはそれ自体言語ゲーム的制度への加担と依拠がその本質にある。肯定命題に於いて我々は言語ゲームへの信頼を絶対化している。それに対し否定命題に於いて我々は言語ゲームに依拠しているものの絶対化してはいない。それは相対理解誘引的明示だ。ここに重要な論点がある。
 つまり会議でも何でも相互の意見交換に於いて意思疎通的意味合いでも、同意出来る意見が提出され続けている間は和やかであり、一つの内閉的空間内でも各成員毎の言語ゲーム自体への参加意義も、意見交換自体の存在理由的認識でも相互に会議開催自体へ絶対的信頼が保たれる。しかしそういう場合よりは、多くは途中で意見の食い違いが顕在化したり、議事進行上で何らかのトラブルに遭遇する。それこそある意見に対する否定的見解の登場によって、和やかさは一気に緊張感に包まれ、相互理解は前提されていなかった旨が全参加者間で明白となる。そうなると今度は相互理解を最初から対立軸自体の明確化をする中で誘引する様に各参加者が明示していく必要性に迫られる。
 共感、賛同、賞賛には端的にその意見なり何なりに一定の加担自体へ逡巡や躊躇は一切ない。しかし否定に於いてある意見や命題的正当性への見解に於いて否定的関係を示すことには、その正否自体を問われること、つまり自ら回答者として問われている状況自体への賛同ということに於いてのみ参加意義を認めているわけだから、必然的に依拠的である。
 だからこそ肯定は加担的であり、否定は依拠的であるというのが心的実相なのである。つまり依拠には固有の「致し方なさ」があるのである。
 拠って結論的には加担と依拠を論理的に明示し得れば、唯論理ゲームの不毛を摘発することが哲学的に可能となる。それは言い換えれば肯定と否定の非対称性の明示なのである。
 唯論理ゲーム自体の不毛性を摘発し、それを無効化へと追い込む為に必要とされるものとは、端的に非対称性が明らかに介在し、積極肯定と消極肯定の差異と相同のメカニズムがあることを証明すればよい。
 我々が何かを肯定する時明らかに否定に対する逡巡は微細だ。何故ならそういう発想自体が余り思い浮かばぬ故だ。が否定する時には明らかに肯定に対する逡巡は切実だ。それは肯定したくはないという欲求に拠って成立する命題だ。この非対称性、差異こそが論理的二値性への懐疑を招聘し得るかも知れない。
 逆に肯定に於ける否定に対する逡巡は誰か特定の存在者から反論された時のみである。否定する者さえ不在であれば我々は肯定に否定への逡巡(反論されれば躍起だが)をする必要はない。ここに言語ゲームの存在者間応対状況依拠性がある。メタレヴェルでの言語ゲームの発生根拠である。そこにキーがあるのだ。
 要するに肯定は論理空間的信頼と認知信念的だけど、否定は情動的なのだ。それを論理的に明示出来れば、かなり面白い二値論理的論理至上主義批判論が書ける。

まず単純に我々は次の図式を描くことが可能だ。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationこの段階論的な過程が心的には存在する。肯定と否定の二分法に収まらぬ。しかも②は強制された同意、③は強制された禁止だ。

しかし一方それは只否定感情へと肯定感情から至る強弱に対する段階論的認識に過ぎず、本質的心的理由が無視されている故、次の図式を思い描くことを可能とする。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationとしたが、様相的には①→③/④→②という経路も考えられる。要するに最初は正直な気持ち、後で強制が入るという事だ。それは外圧的屈服である。

 次回はこの外圧的屈服ということの心的過程とその根拠について考えたい。 

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 感動の構造

 私達は何らかの形で日常生活で感動を味わうことがある。それは日常的に些細な場面に於いてもだ。しかし感動の中でも演劇や映画、映像、戯曲(つまりドラマ全般)を読んだりする時の感動は、又一際変わっている。勿論その特殊な感動を我々は日々求めてやまない。
 今回はそれを取り上げて考えてみよう。
 感動とは何処か我々自身がいつか死滅することを我々自身が知っていて、その儚さ自体への諦観とか、虚しさと関係があるかも知れない。
 だから感動は自分自身の行状に対してであるが、より直接的に感動している自分を発見し得るのは他者全般への感動だろう。その中でも先ほどのドラマ全般からの感動は、より自分自身で感動していることが理解しやすい感動である。
 それを少し分析してみよう。
 とりわけ悲劇的結末のドラマに関して考えてみよう。

 私達は悲劇を好む。それは悲劇的現実が実際にある事を知っているからであり、その現実の冷酷さそのものを必死に生きる我々自身にそこはかとない感銘を受ける。生きているということを感銘する自分をまざまざと見つめつつ、しみじみと感じるのだ。
 悲劇には最終的には救いのなさがあり、その救いのなさに自分自身が巻き込まれる可能性は常にあるが、その可能性が現実になる迄は他者がそれに巻き込まれていく姿を見て気の毒だと思う。憐憫が生じていることが、悲劇をより感銘に咽ぶものとする。
 だが肝心なことは、可能性としては何時何時自分も同じ運命を辿るかも知れないけれど、今現時点では未だそうではないという状況が外部で自分自身へと語りかけるドラマに感動することを許すのだ。その意味では感動とは残酷さと裏腹であるとも言えるし、それを皆どこかでは知っている。
 それは自分自身は安全地帯にいて、その安全地帯にいない気の毒なヒーローやヒロイン達を鑑賞することを通して、ああ自分自身はそういう状況に巻き込まれていずによかったと溜飲を下げる仕組みでもある。
 悲劇には古代よりギリシャ悲劇とか色々な伝統的な文化がある。ウィリアム・シェークスピアも同じ様に過去の文化遺産から咀嚼している。ギリシャ神話「ピュラモスとティスベ」をベースに書いたとも言われているし、ヴェローナというイタリアの都市に15世紀(間違いかも知れない)にあった教皇派と法王派との市民同士の争いで実際にあったことをベースにしているとも言われている。
 しかしシェークスピア自身が着目していたのは、当然のことながら、人々が悲劇に感動するという体質を先験的に持っているということそのことである。
 悲劇的結末を迎えるドラマに対してある種の感動を我々が得るのは、余りにも巧く行き過ぎること自体に懐疑的であるからだ。それは自分自身の人生を振り返ってみても分かることだし、他人の人生を見ていても分かる。
 余りにも幸運な人というのは殆どいないということを我々は知っていて、それどころか大半の人達が恵まれず、不遇であることを知っている。
 だからラッキーな主人公のドラマも時には息抜きにはいい(特にアクション映画などではそうかも知れない)が、いつもであっては飽きてくる。
 悲劇には自分自身さえ最悪の状況でなければ、適度に自分自身の人生の中にあった挫折に対する記憶と、そこから得た教訓を思い出すことも出来るし、自分自身の人生がドラマ化され得ぬある種の余りにもドラマにならなさ自体を承知で、ドラマになる悲劇自体へ価値的に我々の心は称揚する。ドラマとは全ての人達からの憧れ、美しき人生に於いて、その心の純粋さ故に滅ぶという運命の過酷さに、やがて来る私達自身の死という運命自体への予感と、その予感を常にどこかでは忘れ去ろうとしている楽観主義に於いて、自分自身の代わりにドラマの中で美的に生き抜き、美的に滅んで欲しいという欲求なのである。それを見たいという欲求なのだ。
 それは端的に私達自身が自らの死に対し怯え、只管美しく生きることを通して様々な軋轢の中で押し潰されることを未然に阻止し、出来る限り巧く衝突を避けて生きている自分自身を美しいと感じないということをも知っているからである。
 もっと簡単に言えば人は皆、自分自身は美しくあることより、衝突を避け、巧く余り辛くはない人生を送りたいが、純粋に生き、様々な衝突と軋轢の中で打ち滅ぼされていく美しき者の姿に対して一定の敬意と尊崇の気持ちだけは持っていて、理解出来るからである。
 だからそういった偶像を歴史上の悲劇的人物や、それらをベースに作られた戯曲や小説、映画のヒーローやヒロインの存在によって充足させているのである。
 自分自身は小狡く、円滑に仕事や地域社会での安定した生活を守る様に、周囲に美しさを引き受けてくれる他者に、あらゆる正義や倫理的信念を責任転嫁することを通して、自分自身は過大な責任を負わされるストレスを極力回避すること自体が一般的な人生の生き方である。
 つまり我々はその範囲内で楽しみとか、息抜きとか、人生を豊かにする仕事の遣り甲斐とか幸福感を獲得しているのであり、主義や信条、理念だけに殉じるという生き方自体は、仮にそういう態度で生きている人があったとしても、大半はお門違いか勘違いで、依怙地でそういうスタンスを貫いているに過ぎない。
 人間は何より自分が信じて疑わないドグマの信者である。ドグマとは仮にどんなに崇高なことを言っても宗教心と何ら変わりないものである。だからこそ逆にドラマの中では理想系としての美しさを表現されることを望み、それも又一つの創作上のドグマであることを知りながら、潜在的には自分自身の人生も又どこかではドグマに支配されているという直観を必ず介在させて生活しているので、「そうではない美しさ」をイデアの様にドラマの中に封じ込められていることを期待し、その者が美しく死ぬとまるで自分自身にも僅かながらもそういう美しさを履行し得る可能性が残されているのではないか、という気持ちを起こさせるのだ。
 人間にとって歴史とは一つのフィクションの様なものでもある。何故なら既に過去は現在には存在しないからである。現在に存在しないものは如何にリアリティのあることとして過去に自分自身で体験されたことでさえ、どこか空ろな感じを我々は抱く。
 ということは我々は常に記憶と知識と経験の上で膨大なフィクションを心に保有して現在を生きていることとなる。生きることは記憶を頼りに現在を現在として認識し、未来へ向かってその不確実性の中から何かを掴み取ろうとする躍起な心との共存である。
 感動はそういった小説世界、戯曲世界、映画世界といった虚構自体が、実際にあった出来事自体すら虚構化されつつある時間の中で一瞬出来事とか人間の心の動きの有り様に対する価値として受け止めておきたい気持ちが誘引する「閉じ込め」作用である。
 どんどん虚構化していってしまう実際にあったこと、経験したこと、記憶の中だけにある自分自身の過去のことを、やがて死んでいくことを知っている主体が「自分自身の人生、それは感動的な事実であった」と思いたい気持ちが、同じ様な気持ちを持って存在していたとされる歴史上、創作上の人物の美しい行為に対する共感することこそ感動の正体であり、「自分自身も本質はそうであるのに、実際には様々な社会的軋轢によってそれを実現し得ぬままでいるのだ」という事の自己弁解と、それでも尚悲劇的主人公の姿に感動出来る自分の理解能力自体への確認によって安堵を得ることこそが、感動という心の作用の本質的構造であると言えないだろうか?