Thursday, November 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十四章 人の悪口、陰口と世論調査

 私の嫌いで信用出来ない人とは「私人の悪口を言う人って嫌い」と言う人である。
 何故か?それは二つ意味においてそうである。
 まず人の悪口というのは全く言わないでいると、特に生き馬の目を抜く様な集団内の会合、組織内会議などの連続する日々に於いて、極めて息苦しくなるし、ストレスも充満する。とりわけ自分の集団内での立場が芳しくない時、或いは自分と意見的に合う人や同調者が少ない場合などはそうである。日頃のストレスだけが溜まる重要な場で息をつかずに何かを討議したり、プロジェクトを進行させたりしていく時には、時間外にストレス解消を巧く日常的に配分していく必要は絶対にある。それなしにいると、次第にフラストレーションが溜まり精神衛生的によくないからだ。意気投合して同じ他者の悪口を言い合えるということは、端的にかなりいいことである。
 しかし重要なことは、ある人の悪口をある相手を捉まえて言って、その者が憤ったり反意を示したりしない様な相手を直観的に選ぶ必要がある。これは結構難しい。何故なら相手に誰かの悪口を言って、それに同調して貰えるということは、色々な意味で、つまり思想的傾向から性格から何から何まで阿吽の呼吸で理解し合える部分がなければ駄目なのであり、そういった相手を選び取ることはかなり直観的である必要がある以前に、そうでなければ出会えないものであるからだ。それはある程度運命的出会いでもあり、生涯巡り合えぬ者もいるだろう。それはそれでよい。
 さて私が人の悪口を言うことを嫌うと言う人を嫌いで信用出来ない二つ目の理由は、端的にその意見自体が論理的に矛盾しているからである。当然であろう。何故なら人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。
 要するに差別する人が嫌い、とか、人に厭な態度を取る人が嫌い、とかそういった全ての言説は差別する人への差別であり、厭な態度を取る人へ取る厭な態度以外ではなく、その事実に気付いていない段で、積極的にその者によって批判されている差別者や厭な態度を取る人以上に寧ろ始末に終えない。
 さて人間関係とはある意味で、我々はそういった一緒に誰かの、勿論厭な人への悪口を言い合う相手を探す為に必死に集団内で動き、仲間を作っていっているということなのであり、それを外れる如何なる人間関係も、社会も、共同体もない、と言っても過言ではない。
 只それが集団の人数が多くなり、規約、規則、公約が大きくなればなるほど、巧妙にその人間の対他者観に於ける精神実利的な本音性を隠蔽していくのである。まさにそれが地方公共団体とか国家とか民族とか社会とかなのである。
 従って本音を一切言わないままで、実はそう言わずにいる(本音は言うものではないと直接誰かに言うということもそうだし、本当に心の中の本音そのものを安易に人には告げないでいるということ)人同士で皆のそれぞれてんでばらばらな本音を「一応体裁上では」守りましょう、つまり最低限皆の共通するところではどの様な他者にもプライヴェートな空間は守りましょうということが、公的規準なのであり、それを皆暗黙の内に理解している(現実には)。
 さて問題なのは、しかしこの社会も、この国家も、この民族も実は極めて個人と同じ様に常に誤りを犯すということだ。しかし個に於ける粗相に対しては誰しもとやかく言い、それを悪いことであると思わないのに、それがかなり多くの人数となり、ある纏まりになっていくと(つまり集団化、組織化されると)次第に容易に本音を敵対者同士でも言えなくなってくる。それはある個人を名指しして気の合う友人同士で悪口を言い合うことと違ってきてしまうのだ。
 だから例えばマスコミはかなり頻繁に世論調査をしては、テレビ、新聞などでニュースとして、記事として視聴者や購買者に流すのだ。しかし重要なことは、ある時節に於いて、ある責任者自身による恣意的判断によってその世論調査自体が実施され、その結果を情報として流すということ自体に纏わる意図とか方針は一切見えてこないし、又公表されない。実はここに極めて大きな問題がある。
 ここ数年何人もころころと短期間で総理大臣と政権が交代してきたことの理由の一つにも、実はこの極めて恣意的判断による世論調査の、しかも極めて頻繁に執行されてきたという事実に最大の理由があるとも言えるのだ。
 ある部分菅総理乃至菅政権自体が例の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関して映像を国民に公表しなかったという事実も、極めて今述べた世論調査によって国民が政権批判をするのではないかということへの恐怖がそうさせた、とも言い得るのだ。つまり政府、国会、否政治全ての局面で全ての関係者がこの世論という化け物(それは一切実体がないし、誰もその信憑性からその本質的正しさ、見解の意味の精度、世論の傾向自体の本質的一致があるのか、ということを確認も証明もし得ない)に右往左往し、まさに翻弄されている、と言っても過言ではない。
 それは国会答弁にも反映されている。APECでの総理の中国主席との対談での紙きれのメモを見て話していたことへの批判、ヨンピョン島での北朝鮮軍からの砲撃時での政府の対応に対する決然としなさ(北に対する非難を明確化していなかったなどの)、又小沢元幹事長への党内対応に対する批判(山本一太、世耕 弘成による参議院予算委員会内での質疑から)となって立ち現れている。まさにそれらは一切人の悪口を言ってはいけないという不文律だけを踏襲する為に人が誰とも本音を言い合わない状況を示唆さえする、国会内で見られる政治家による国民へのパフォーマンスだけなのだ。まさにそれを国会中継を視聴している国民が「そういう見栄を与党に対し野党は切ることを期待している」ということを前提とした「やらせ」、言ってみれば見え透いた猿芝居なのである。
 それはニュース報道にも言える。まずトップニュース自体が国民が「そういうものに一番今関心があるだろう」という想定が前提されているし、司法も裁判員の心のケアの為に死刑判決の出た被告に上告を勧めるという事態にまで発展している。端的に司法はつい先日出た裁判員参加裁判による初の未成年への死刑判決によって今後幾多の類似案件が似た判決になっていく可能性、つまり世論自体に司法も逆らえないという社会での不文律(事実上三権分立も、司法のケース毎に独立した判断自体も全て建前であり、世の中全体の世論<の様な雰囲気としてそれに従わざるを得ないものとして裁定者に迫る実体の実はない>に従属していずには存在し得ない)に沿って履行されている。
 つまり誰も社会自体の運営に、実はかなりのレヴェルで深くこの実体なき世論が強迫観念として全ての人達(マスコミ自身さえそうであるし、政治家、経営者、司法関係者等全て)に浸透している。そしてそれを問うことは一切しない。本当はまさにその実体なきものへの従属こそ問わねばならないと言える。劇映画の流行やゲームソフトの流行自体がその時代の世相を反映するのは、ある意味では世論迎合であり、ある意味では世論という実体なきものへの批判であり、その都度監督や製作者、クリエイター達の時代への読みと表現意図によって決定されているが、その決定が只商業資本として収益が回収され得るということだけが目的化してしまっている様な状態が社会全体に蔓延しているということだ。
 この際私は世論調査とはもう少し緩やかに、せめて三ヶ月に一度くらいにしておくべきであると全てのアンケートその他の調査機関並びにマスコミ全各社に提案したい。そうしないと、次々と不測の事態へと直面する政府や行政全体へ、常に不確実な世論迎合的な与野党の政争だけの顕現を招聘し、一切の実りある国民全体への利益として還元され得る国会も、政治的決定(政府その他による)もなされ得ないと思う。
 何故これだけ頻繁に世論調査をしなければいけないか?それは人の悪口を公的には確かにそうであるが、言ってはいけないことであるという不文律に余りにも心の奥底まで我々が強迫観念的に従属しきっているが故に、それを踏み外すことを恐怖して、その代理機能として世論自体が肥大化してしまっているからである。その肥大化した実体なき世論は一人歩きして、全ての権力者、権威執行者まで一切の悪口を言わない様に口を閉ざさせているのである。それは悪口を言う事を極度に忌避する雰囲気から作られ、それが陰湿な陰口へと変質し、次第にそれがスケープゴートを探し、その者が見つかると一斉に攻撃することに全ての外野席観客は右へ倣えするのだ(まさにその都度法相であったり、官房長官だったり、国土交通相だったり、文部科学大臣だったり、防衛大臣だったり、要するにその都度誰でもいいのだ、そういういじめ対象さえ見出せれば)。
 私は何も本音を全て言え、と言っているわけではない。一定の本音を全ての人に言い合える様な雰囲気を政治家、マスコミ各社経営者は雰囲気として作る努力をせよ、と言っているのだ。
 全くそつなく粗相をすることをしないだけの形式踏襲主義者だけが大手を振るえるが故に、言いたいことを噤むことが常習化していくのだ。例えば確かに前柳田法務大臣の地元広島でのスピーチでの内容の一部は不適切且つ思慮を欠いてはいた。しかしそれを必要以上に問責決議への持ち込む野党と、その野党の要請に容易につき従ってしまう与党内での予定調和的集団内見せしめ的態度の同調からは、実際形骸的秩序だけを維持していく姑息な政治家の保身本能だけが透けて見える。
 今こそ人の悪口を所詮相互に言い合える仲間を求めて我々は集団内を彷徨い歩き、色々な場所へと移動し、社会行動という形で動いているのだ、という物事の本質に、社会全体も所詮抗い難いのだという真理を見据え、下手に体裁だけを取り繕うことを控え目にするという心がけを持っていくべきではないだろうか?そうすれば政権担当者も姑息に国民へ情報を隠蔽するという様な見え透いた策を弄することなく虚心坦懐に政権運営を図っていくことだろう。
 下手な猿芝居にだけ執心しているが故に、子供達は一切大人を信頼も、尊敬もしなくなり、子供の社会の内部でじくじくと陰湿ないじめが進行していくのだとも言える。
 次回はその子供のいじめに就いて考えてみたい。

Monday, November 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十三章 先行きの見えない気分転換

 かつてジョン・ケネス・ガルブレイスによって「不確実性の時代」と呼ばれた頃我々は未だ何処かで未来に対して確固とした像をぼんやりとではあるが、思い描くことが可能なのではないかという期待と不安の入り混じった気持ちでいた。それはある程度経済的困窮が解決されれば、何とかなるのではないかという能天気な楽観主義が完全には棄て去られてはいなかったということを意味する。
 しかし現実にはそういった楽観的憶測とは裏腹に我々の社会は益々先行きが不透明な時代へと突入したと言える。その典型的象徴的事件こそ大阪地検特捜部証拠隠滅事件であり、尖閣諸島中国漁船衝突事故映像流出事件だったと言える。
 しかしそもそも先行きとは常に不安定であり、我々の心の奥底に不安を生じさせるものでしかあり得なかったのだ。しかし十数年前までなら我々は経済社会での、とりわけ商業資本主義と金融システムの良好な運営によって何とか少なくとこの先十年というスパンでの展望は立てられると思っていた。
 しかしその能天気な予想は無残にも打ち砕かれる。それがリーマンショックでありサブプライムローン問題であったと言える。
 それに加え現在では既に我々の社会を取り巻く環境に於いて極めて重要且つ必須のものであるところの情報に関する摂取の仕方と、情報流通の仕組みそのものが大幅に変わった。それは激変という形ではなく、寧ろ根本的情報の存在理由の変化である。
 例えばかつて我々は人類には基本的に全ての階層や全ての職業、全ての年齢の人達によって共有され得る価値や理念があるのだ、ということを疑うことはなかった。寧ろ全ての専門分野がその前提の下に推進されてきたと言ってよい。
 しかし今日それらの大前提自体が既にがたがたと音と立てて崩れ落ちようとしている。
 このことは寧ろスタートする時点から全ての命題を考え直さなければいけないということを意味している。
 情報は全ての人類にとって共有されるべきでもなく、そうなっていくことも寧ろ積極的に「不可能」であると言っていいほどの性質のもとなっている。つまり情報自体が最初から全ての個から見て異なった像であるしかないということを通し、自然科学などでは既にハイゼンベルグの不確定性原理などで物質の存在に対して突きつけられた命題を少し遅れて社会科学に於いてやっと到達した様な感がある。
 尖閣諸島中国漁船衝突事故があった時既に世界各国の首脳はその情報を得ていただろう。従ってその後のロシア大統領メドベージェフによる国後島訪問は、その期に乗じた行為であったことは明白だ。
 要するに鳩山前首相が普天間問題で困窮したが為に麻生元首相までの間に自民党との間で締結されていた案件が全て一旦棚上げにされたことによって、米政府との間に不必要な不協和音を奏でさせたことを各国の首脳は熟知していた。その流れで尖閣諸島の中国漁船衝突事故以降の全ての事件が起きるべくして起きたと言うべきである。
 従ってこの期に乗じて韓国までが竹島問題に言及してこなかったこと(今のところそうであるが)に、日本は韓国経済がかなり上向きであることに感謝しなければいけない。それは韓国国民の心意気に対してではなく、あくまで国際経済社会的偶然に対してである。
 しかし中国のバブルもいつかは(それがいつかは定かではないが、そんなに遠い話ではないと私は思う)必ず弾ける。その段階でインドか韓国かシンガポールかインドネシアかヴェトナムかが世界の経済動向のキー的存在になっていたとしても、その事実はそれらの国々もやがて昨今のアメリカや日本、そしてやがて中国すらも経験するであろう末路を辿るであろうという事実の前では極めて無力で非力な事実でしかない。
 一番現代社会で問題化されざるを得ない事実とは、全ての情報が次第に中央統括システムによって管理したり操作したりすること自体が不可能となっているということである。この事実はある意味では世界中の全ての国家、政府の存在理由を根底から揺るがす。何故ならそもそも情報とは国家や政府といった存在が何処かでは統括し得るという前提で全ての国家共同体は運営されてきたからだ。
 しかし恐らく今後あらゆる商取引に関するデータでも推測でも瞬時に世界を駆け巡る時代に於いて、そもそも商業行為上での秘密とか公平性というもの自体を死守する事自体が、インターネット、グーグル、YouTube、WikiLeaksなどが完全定着していなかった時代に於いてのみ成立し得る資本主義社会の規準であるとして全く無力且つ弊害とすらなってきている。
 しかしかつての様に全ての情報を何らかの形で制御し、管理していく為には世界的規模で今迄に行き渡ったインターネットインフラ、ウェブサイト全てを破壊するしか既に手はない。
 しかしそれは不可能である。何故ならそれは法的にも人類の自由への志向を侵害するし、商行為的にもそうである。つまり世界の隅々にまで浸透してしまっている毛細管現象的ネットワークは、その時点で世界のどの区域もどの機関も中央統括的立場に立つことは所詮不可能であるということを意味している。
 それはアメリカ政府であれ国連であれ実際上只の一つの中継点でしかないという地位へと脱落させる。
 かつて「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが反響を呼んだが、まさにパソコンを所有している各個人が全て世界の中心になり得るということを象徴していたタイトルだったとも言える。そしてその事実を今回の流出映像事件は物語っていた。
 そうすると、今後世界は商取引レヴェルでも何らかの案件に対する処理でも、例えば商取引に関わる企業や法人、或いは案件に直接関わる当該者達自身のその時々での利害という安易な発想では一切それらを推進することが不可能となっていく。何故ならそれらの行為の末にAであれBであれ想定され得る結果次第で世界はどうなっていくかということを瞬時に世界市民全体が予想し得るからである。
 従ってこれからの全ての経営者、政治家達はかなり慎重でかなり情報的戦略を駆使した決断をその都度出していかなければならないという熾烈な課題を突きつけられたことを意味する。
 ある意味では全ての秘密、全ての秘匿的行為を無効化させていくだけの力がネットインフラにはある。
 そしてそれはかつての様な大企業や大財閥的な存在、或いは長期持続的政権運営や維持自体を不可能とする、つまり安定的な政治経済状況を決して許さない、常に不安定でどちらへと転ぶか不透明であるという事態だけが恒常的に持続していく、そういう時代、否既に時代ではくずっとそうである様な状態に我々人類がシフトしたということを意味する。
 そういった状態へと完全以降してしまった人類の心には既にかなり大きな気分転換を余儀なくされているということが出来る。恐らく精神分析的に言えば、その気分転換はその先にその気分が打開されれば、あれこれこういうことが出来るとか、こういう気分になると予想することが不可能な、ある意味では常に気分転換を求めていくしかない、それでいてその気分転換は一切その先にどうなっていくという保証のないものとして我々人類が絶滅するまで持続していくのではないだろうか?
 このこと自体は既に我々人類にとって否定的ニュアンスとして溜息をついている暇を我々に与えていない。寧ろこの不安定を人類自身が愉しんいくしかない。つまり先行き不透明なのにもかかわらず、常にその不安定から脱出することだけを志向し、それでいてその先にどうなるということを絶対に予想し得ない様な気分転換の恒常的状態をゲーム感覚で愉しんでいくしか手はないのである。
 世の中には数多の文学賞や文藝賞が存在するが、毎年の様に多くの受賞者を輩出しているが、その中の何人が長期的に活躍する作家となっていくかは審査員となった作家も出版社も予想することは出来ない。それと同じ様に世界経済から一国の政治さえ、恐らく数年先までも見通すことなど出来はしない。
 従って今回のAPECによって日本が現政権時代に北方領土問題を解決し得るなどと誰も期待していない様に、常に一つの政権がなし得ることはほんの一つだけ、それは経済社会に於いて金融問題から税金対策まで全てを一挙に解決することが不可能な様な意味で、或いは情報機器的メーカーの戦略が何もかも全ての分野でトップに立つことも、新奇商品戦略を打ち立てることも不可能である様な意味で、極めて常に限定的で短期的目標しか立てられないということを意味する。
 つまり永遠に我々の社会も国家も政府も、理想的経済良好状態も到来することはないし、全てが解決し安定化することがないという不安定状態だけが恒常的に持続するということを意味する。
 しかしそれは実は人類が誕生した瞬間から決定されていたことなのだ。しかし戦争により、とりわけ人類発の核兵器使用というおぞましい出来事を経験した世界市民が第二次世界大戦終結時に、その安定を希求したのだった。しかしそれが一時の苛烈な戦争から解放された時代の人々によって思い描かれる幻想であったということだけが自明化していった数十年だった気さえする。
 そういう意味ではまさに東浩紀の言った様に「大きな物語の崩壊と小さな物語の林立」という「動物化するポストモダン」的状態こそが平素であるこの時代で我々はよくかつて言われた集団生活とか社会生活への同化、協調を促進する為の人生論が全く効力を失い、寧ろ各自に備わったパーソナリティ障害的要素、かつて恥部とされた部分こそ着目して、昨今もあった小学生自殺事件に見られる様ないじめに対する抵抗力を備えさせていく必要がある。
 それは強ければいいということではない。大半のいじめや嫌がらせに慣れていく必要があるということである。渡辺淳一や小泉純一郎の言った様な鈍感力の価値の再考をすべきだということだ。
 従ってこれからはかつて理想とされた孔子等による老境的理想を絶対に許さない、癌患者でさえ死ぬその日までは社会から疎外されたり同化出来ずにいる事自体への対処に追われたりして、絶対に老化や安寧を許さない厳しい時代に突入したと言える。と言うことは「そういうことは若い奴に任せておけ」、或いは「そういうことは上の者に任せておけ」という様な言説を一切許さない、あらゆる前例や社会通念踏襲的安定を許さない、まさに各自世界市民が個で自己防衛し、自己主張し、自己管理することだけがあらゆる個を救うという時代に突入したことを意味する。
 実質的に世界は無政府状態こそが普通であるという時代へと今後益々突入していく。そういった中で我々一個の個は、まさにそうであるが故に中央統括的権力や決定的指導力や唯一価値を信仰し得ぬからこそ青年世代に哲学や精神分析が大きな啓示を与えている様に、既にカストロとゲバラによる革命的行為も、長期安定的政治家による政権も、バブルも、恐らく二大政党制も一切実現し得ぬままに今世紀を過ごしていくことだろう。
 それはまさに先行きの見えない気分転換を常に四苦八苦している様な恒常的落ち着きのなさを体験していく(それはまさに常に性行為の相手がいないことにもどかしさを味わっているか、まさに常に性的絶頂だけを長期持続していくことに慣れるかしかないということに近い)ことである。そういう時代に生きていく為には自己内のパーソナリティ障害的要素を価値的に見直し、自己内の今迄短所であると理解していたあらゆるネガティヴ要因を、逆に肯定的に活かしていく回路を探っていく必要がある。
 この問いは極めて重要なので、再び取り上げることとしたい。

Tuesday, November 9, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十二章 尖閣列島中国漁船衝突事故映像流出を巡る情報の在り方に就いて 

 今日神戸のインターネットカフェで例の映像が投稿されたことが発覚した。ニュースではそれ以上の情報を開示していなかったが、実際には警察はもっと先まで突き止めているのかも知れない。
 重要なことは常に我々に到達する情報は、それより前に幾多のプロセスを通して検閲されて伝えられているということだ。その点では中国漁船映像は極めて時節を得て公開された感があった。尤もそれは不法投稿によるものだったのだが。
 と言うことは菅政権が菅総理の衆議院予算委員会による発言の様に「もっと後の時代になったら適切な判断だったとされるだろう」という思惑が示す様に、要するに情報統制を政府がしようとしていた(それは千石官房長官による「犯罪者を英雄視することを私は承服しない」発言にも現れていた)ことを意味する。
 流出映像で示された一部始終を政府は一般公開することは憚られると判断したことだけは間違いない。ではそれ程まで一般公開すべきではない性質のものだったのだろうか?
 もし仮に「これくらいだったら、もっと早く一般公開していたってよかったのではないか」という意見が出されたなら、「にも関わらず隠そうとした」という考えが出されるし、逆に「やはりこれほどのことなら隠そうとしたって仕方なかったんじゃないか」という意見が出されたなら、一体誰が最初にこの映像をリークしたのかという、恐らく内部関係者に政府見解に対する謀反人がいたことになり、その意味では完全に政府統制が内部に於いて不徹底であるという批判も出されるが故に、二重の意味で菅政権は苦境に立たされることは必至である。
 又もし神戸の投稿者がそれ以前に誰かから映像の元となるものを渡されて、その最初に内部で裏切った者がもし突き止められれば、その者が英雄視される可能性は高い。世論とはそういうものである。つまり菅政権はこの様な展開になっていった段で実は既に敗北していたのだ。
 菅総理の言った様に、確かにあの時期に実際に一般公開していたのなら、日本国民の騒ぎは今この流出映像を見た時以上の騒ぎようだった可能性はある。しかしそれでもやはり実際に海上で何があったのかを一般国民に知らせるべきだったのではないだろうか?
 つまり重要なこととは、隠すということを決意したのなら、どんなことがあっても最後までそれを貫き通せなければいけないということなのである。結果的にはそれは出来なかった。つまり誰かが裏切ったからである。つまり誰か内部で裏切る者が出るという予想を政府が立てられなかったという事実一つでも一般国民へ情報を隠蔽しようとした思惑自体が既に誤りであったことが分かる。つまりこうなっていく事態を想定して、国民の恐らく一部であろうが、デモなどをして騒ぐことを承知で敢えて一般公開に踏み切っておれば、恐らく今の様な野党からの攻撃を得ることもなかっただろうし、機転の利いた判断であったと菅総理は流石と言われていたかも知れない。
 私自身は既に現代社会では政府ごときがどんなに画策しても尚この種の情報は必ず遠からずリークされていく運命にある、と考えている。文章などによる記録ではなく映像による記録であるなら尚更である。千石長官も言っていたが、文章では公式のものは丸秘ファイル化することは可能だが、この種の映像は撮影者から送られてきた原映像を編集する段で既に相当の数の人員が関わっていたということからも容易に外部に流出され得ることは予想された筈である。
 つまりリークされてはならない映像という発想を抱いたこと自体で既に菅総理は判断に誤りがあったと言うべきだろう。その判断を政府が通達した段階で既に反意を抱いた者は相当多数だったと想像される。「どうして?」という思いを抱いたのは千石長官クラスのトップにもいたのではないか?
 つまりその種の政府関係者筋内での不協和音の介在自体が既に多くの国民の間で政府に対する信頼を損ねている。これは一重に総理大臣の度量の問題ではなかっただろうか?
 歴史はある程度時間が経ってみなければ、一つの決断も正しかったのか否かを判断することは出来ない。そういう意味では今回の一件にしても、もう少し時間が経った後には「やはり菅総理があの時即座に一般公開しなかったことは正しかった」と判断される時期も来るかも知れない。
 しかしその時には必ず「しかしあの時政府見解に対して謀反を起こした者がいたればこそ、そう言えるのだ」と付け加わる可能性は高い。何故ならあの映像がずっと今もって封印され続けていたのなら、恐らく今後の中国との日本による外交の展開次第では、より深刻な政府筋の責任問題へと発展していった可能性も否定出来ないからである。
 要するに政府筋のトップに現代情報化社会に於ける基本的なインフラ、ツール、メディア全体への理解に乏しい者しか配備されていないという事実に方により重大な国民の側からの不安がある。尤もこれから情報管理的ノウハウを徹底的に踏襲した要員を政府が囲うことになったとしたなら、今よりももっと政府に対する疑心暗鬼が国民の間に蔓延していく(まさにソ連のKGBの様に)可能性もある。ある意味では政府情報統制とは緩やかなものであって丁度いいという国民の間での暗黙の合意が成立し得る可能性は皆の中にあるのではないか?
 例えばグーグル、ヤフークラスの情報ツールのプロが政府要因に参画していき、世界中の情報を一手に統制し、管理していく様な事態を想像してみよう。それこそ恐怖政府と言えないだろうか?そうなる一歩手前で今回の様な事態で踏みとどまっていたことを思えば、もし仮に最初にリークした犯人が発覚したとしても、政府な尚慎重に刑罰その他を考えないと、その時にはかなり現政権は危機的状況に陥る可能性は高い、とだけは今言える気がするのである。

 付記 今しがた(12:05現在)ニュースで海上保安庁職員が上司に自分が映像を流出させたと告白した旨が伝えられた。やはり内部の謀反者による犯行だった。今後の成り行きに眼は離せない。<国会の中継から、部下が上司に既に午前九時の段階で海上(巡視艇)で告白していたらしい。(14:40現在)四十三歳の神戸海上保安部保安官が名乗りを挙げ、自分自身でインターネットカフェで投稿したと言う。同僚達は戸惑いを隠せないと言う。制服組の連帯感も仄見えた。(17:04現在)>(Michael Kawaguchi)