Saturday, December 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十二章 人生も世界もア・プリオリに規定されているのか、それとも?

 当たり前のことだが、我々は生まれてくる前に何か人生とはこういうものだということを知らされて生まれてくるわけではない。予め筋書きが与えられた役者の様な人生は一つもない。何も知らされずある日突然生まれてきて、ある日突然他者とも出会い、ある日突然異性に惹かれ、ある日突然就職し、大人社会の現実に晒され、ある日突然何の前触れもなく(つまり何も知らされず)死ぬ。
 であるならある意味では全てが皆目分からないというブラックボックスに包まれた未来に対して、暗闇の中を彷徨っている様なものである。しかしやがて向こう側に光が見えてきたりする時は確かにある。従って予め世界とはこういうものだ、という全貌が規定されていて、只我々は絨毯の上に偶然迷い込んだ蟻の如く室内をうろうろと歩き回っていて(尤も蟻はいつまで経っても室内全体の在り方を知ることはないのだけれど)、いつかは世界の全貌が仄見えてくるという経験を持つことだけを期待して生きている様なものかも知れない。
 最近ある学会のシンポジウムに出席した。私が属する哲学の学会の会員の一人(論理学者)が企画に携わった論理学者から言語学者を誘った共同シンポジウムであった。
 私は一応基礎的には哲学も学んだが、そもそも純粋に哲学を系譜学的に哲学史的に学んできたわけではなく、かなり後からそれを追っかけて曲がりなりにもプロ級の人と専門的な対話が出来るくらいに習得してきたに過ぎない。寧ろ最初私はポストモダンが持て囃されていた時節柄、ソシュールその他の言語学、記号学に対する関心からたまたま隣接する言語哲学へも踏み込み、やがて分析哲学全般へも触り程度であるが垣間見ることとなったに過ぎない。それ以前は哲学と言えば実存主義とかメルロ・ポンティなどの現象学との出会いが大半であった。
 当のシンポジウムでは、賞味二十五分から三十分くらいの間で講演を纏める発表者の内容をその時初めて一切のレジュメを見ることなしに聞かされるわけであるが、曲がりなりにも何を研究しようとしているのかをその場だけで理解出来る内容とはある程度限定されてくる。全ての発表内容を隅から隅まで理解出来る参加者など恐らく一人もいない。その時私は当然言語学者の話の方が粗方何をしようとしているかということを理解出来た。一方私が所属する学会の会員の専門の論理学は極めて専門色が強く、既に現代論理学が細分化されているので、コンピューター言語などとのリンケージに於いて考えられてきているので、当然その発表時間内だけで全ての流れを把握することは正直困難だった。しかしかなり興味を惹かれる方向へと学問全体が動いているということだけは感じられたので、帰宅してから早速幾つかの聴きなれなかったテクニカルタームをウィキペディア検索などをして考えてみようとはしてみた。
 その時分かった事は現代論理学は私の様な素人から見れば、一つの重層性と、階層性によって各専門領域が区分されているということである。例えば一つの構文に対して、その構文自体はア・プリオリに我々の眼前に提示されているのだが、構文の構造解析をする時に彼等は恐らく属性毎に異なったアプローチの仕方を取っているのだろうと思う。つまり私自身が発表後幾つかの質問を専門家に対してした返答から察するに、構文を構造解析する時にシンタックス(統語)とか意味とか別箇の属性毎に異なったアプローチの仕方を採用することで避けられるある種の誤謬とか推論の誤り自体が発生する可能性を最初から見越して、論理的に解析処方を構築していくという仕方は、既に一つの科学であり、固有のエンジニアリングテクノロジーである。
 一方言語学では言語自体の規則は寧ろ最初から我々が自然言語として援用されている当の現実自体に示されていて、その規則性の解析を如何に有効な構文モデルを構築するかによって理解しようとする姿勢である。これは寧ろ哲学の言語を使えば素朴実在論であり、反実在論とか様相論理などを駆使する分析哲学のア・プリオリな真理論とは対極のものである。
 そして当然私は以前ソシュールやイェスペルセンなども読んでいたので、各発表者の短い時間内での発表を聴いてその場である程度全貌を曲がりなりにも理解出来たのはこちらの方である。
 そしてこの二つの全く異なった分野の共同シンポジウムに於いて顕著に示されたこととは、ア・プリオリに規定されていると捉える真理論である論理学とは我々の言語的思考全体に渡って、それを根底から支える想像力や認識力を構築していく為の世界把握的な真理の雛形を予め前提しているが、言語学の方はその様な前提そのものは持たず、あくまである部分では現象学的メソッドで現実に我々によって日常生活に於いて既に援用されている規則を、例えば日本語と英語の比較検討の上で考察するという態度である故、論理学の様なア・プリオリな真理論としての重層性はない。ではだからと言って言語学が欠陥を持っているとは必ずしも言い切れない。何故なら言語学とはその素朴なアプローチであるが故に規則の解析に於いてナンセンスとか言語表現上での意味と無意味、意味伝達可能性と不可能性を具に発見することが出来る。それはある意味では論理学の側からすれば新鮮な発見でもあった筈である。つまり論理学者の方から誘いをかけたシンポジウムであることの理由はそこら辺にある。
 とかく論理学者は単純な真理を敢えて難しく捉えてしまう癖がある。つまりカテゴライズされたメソッドを伝統的に踏襲しようとしたり、重層性に於いて理解したりしようとすると、却って現実に於ける単純な真理や彼等にとって専門である筈の論理さえすり抜けていってしまう可能性がある。従って論理学者のアキレス腱とは端的に曖昧性の解消などを論理的構造分析からアプローチする場合に、その当の曖昧性を発生させる要因を掴み損ねるという性質がある。もっと簡単に言えば真理論的に解析する余り、論理的構造分析ではない仕方からのアプローチである方がずっと有効である様な場合さえ、何とか論理、もっと言えば理屈的な脳内思考で解決しようとしてしまうというところがあるのである。それは「私とは何か」などの様な分析哲学的解析でも言えることである。尤もこの問題はそれはそれでかなり厄介な問題を含むので、別の機会に詳述しようと思う。
 言語学の場合は逆に最初から規則という現実をア・プリオリな真理から解析しようという姿勢そのものがないので、却ってある規則の例外などを示す場合に、その例外の発生要因を真理論的に予め脳内で設定された前提からロジカルに証明する必要がないので、言語学外的な例外発生要因の解明可能性を却って容易に示しやすいとさえ言える。この素朴な態度は固有の科学であり固有のエンジニアリングテクノロジーであるよりは、寧ろ最も現実的な経験論であると言える(論理学で前提される真理論はあくまで合理論的な色彩は強い)。
 すると最初に触れた生の不確実性と未来への予測出来なさと、何事かの人生上での出来事に対する告げ知らされなさの問題に戻ると、論理学とはあくまでその告げ知らされなさを克服して、「いや、しかし本当はある筋書きは存在するのだ」という前提の下に思考を進行させていく学問であるとは言えるのではないか?逆に言語学の場合はそもそもその様な前提など設定する様な野心自体を持たないので、人生全体の設計図に対してはブラックボックスのままにしておいて一向に差し支えないという態度である様に私には思われた。最も自然言語研究の分野は意思疎通上での予測不能性や不確実性を蓋然性から解析していこうとするので、同じ言語学でも統語構造モデルを現実に即して考えていくというアプローチとも全く異なっている。そして会に於いて休憩時間内にある研究者から小耳に挟んだことには、同じ言語学でもこの二つのアプローチは反目し合っているということであった。もしそれが本当のことなら(恐らく本当であろうが)、かなり当の問題は錯綜している。
 既に言語学と論理学の接点的領域ではparser(パーサ、或いはパーザ)などの自然言語構造解析プログラムなども使用されているし、理論計算機科学、数理論理学のラムダ計算なども使用されていて、そのメソッドの選択に従って恐らく同じ言語学でも論理学でも全く今後の展開可能性は異なってくるのだろう。そういった意味では仮に異分野の専門家が「そのメソッドを応用するメリットは何ですか」とか「そのメソッドから引き出される推論や解にはどういう意味があるのですか?」と質問しても、講演者本人自身が恐らく哲学者に「世界の真理とは何ですか」とか脳科学者に「意識とクオリアの関係とは何ですか」とダイレクトに質問する様なもので、絶対に客観的に説明を加えて返答すること自体が不可能であるだろう。
 つまり何も筋書きも一切告げ知らされずにある日突然生まれてきて、幾多の出来事と幾多の出会いを持ちながらある日突然死ぬ人間の生涯の様なもので、そもそも自分が疑問に思ったことにアプローチするその仕方、疑問の持ち方から疑問の解消の仕方自体が各自異なり分野、或いは専門領域毎に異なっているが故に、研究メソッドのメリットも立てられる推論や導出される解自体の意味も客観的に他者に説明すること自体が不可能なのである。
 これは世界を世界の外側から俯瞰して、人生全体の時間を予定調和的に筋書きの様に検討すること自体の不可能性と全く同じことである。

Sunday, December 19, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十一章 シニフィアンの肥大化と無責任主義の横行

 「原爆仕方ない」「暴力装置」「拙劣」「法務大臣とは二つのことだけ言えばいい」「仮免許から本免許」といった失言の数々が我々にとって意味することとは、端的にある言説がある人から吐かれることに於ける不適切性の判定基準が実に皮相なレヴェルで、それが大衆レヴェルで印象づけられることである。
 要するに啓蒙的立場にある政界の人達による発言は気をつけよということだ。しかしその倫理にはある種の言葉的実感は伴われていない。要するに形だけでも粗相をしない様に振舞えという要請である。
 失言はその失言をある人に吐かせた原因や理由よりも、その失言が「失言である」と受け取られることによって齎されるネガティヴな波及効果の方がより重視される。そこでは言葉を紡ぎ出すモティヴェーションは一切問われていない。要するに言葉に粗相さえなければ凡庸であっても、言葉尻を他者から捕らえられる様な頓馬な者よりもずっと有能であるという不文律によって政界は既に支配されている。
 そこには言葉に対する責任感よりも、言葉が最初に吐かれた状況や前提となる背景よりも、それが波及した時の効果のみを重視する極度の結果主義が鮮明化している。
 しかしこれは現代政界にのみ顕著な事実ではなかった。寧ろ人類が言葉を、言語行為を有した段階で既に予兆されてきたことだ。だからこそ我々はプラトン本人とプラトニズムが、デカルト本人とデカルト主義が、ダーウィン本人とダーウィニズムが、マルクス本人とマルキシズムが何処かでずれ込んでいるということを自覚せずに青年期から過ごしてきたことなど一度もなかった。要するにイズムは必ずそれを波及させた本人のモティヴェーションから発想から、真意からずれる。これこそが真理なのである。そしてそれを考慮に入れずに言葉を外部に出す者は恐らく一人もいない。何故なら言葉を出す時内的に心に立ち現れていることと、それが相手に何らかの形で伝わることの間にずれがあると知っていればこそ、我々は敢えて言葉を出そうとするわけだからである。
 言葉にはその言葉を出そうとする意志の中に「あった」ことを鮮明に伝えようとする段で既に必ず変形、歪曲が施されているし、それを知らずに言葉を外部に出力する存在者はいない。つまり一回一回の発言は只それだけでなく、その者の行為として実績となってしまうというアカウンタビリティやコンプライアンスの俎上では端的に、どんなに些細なことであれ、真意や心の中で言葉を出そうとする時とは違う付加価値が加わる。それが誇張であったり、強調であったりといった要するに作為である。
 考えが我々の心に立ち上がる時、その考えを伝える(述べる、書き留める)時、その考えを抱いたプロセスに就いて述べたり、考えを巧く読み取られる様に計らったりする故、そこに必ず心に「立ち上がったこと」自体からすれば、変形とずれを来たす。そしてこれが意味として他者から了解され、それが相手の心に留めて於かれること、或いはそれが言い伝えられることの間には、述べたことや書き留められたことから又ぞろずれて変形される。これが波及することによるずれであり変形である。
 つまりそこに言葉が責任として問われる筋合いも出て来るのだ。
 しかしその言葉自体の意味的波及効果ばかりを重視すると、次第に言葉の力が只単に宣伝効果の様なものに成り下がる可能性もある。否必ずそうなっていく。責任は言葉自体ではなくその言葉の波及効果にあるからである。
 しかしある言葉が快く受け取られるか、そうではないかとは端的に、その言葉を受け取る側の気分の問題もある。従ってどんなに適切な意味を兼ね備えた言葉であれ、よくよく考えられた言葉であれ、それが伝わる際には誤解だけに彩られ、不快なものになる(否その言葉が適切であればあるほど)という可能性も常にセロではない。その様な不条理、理不尽、運命にその都度委ねられている受け取られ方の恣意性こそが残酷な事実であり、それはシニフィエよりもシニフィアンの方が社会では肥大化してしまうという条理である、摂理である、真理である。
 従って政治家などは、完全にその波及効果を巧く調整し、その都度結果責任、つまり言葉の意味の波及効果を適切にリードしていける者のみを政治的勝者にしていく。これは帝国主義時代の政治家に求められていたことと全く性質を異にしている。つまり営業的体裁主義であるとも言える。そこには言葉が伝えたいことなど寧ろどうでもよく、如何に伝わるか、伝えられるかという効果の問題、つまりずれと変形を如何に逆用していくかという智恵の問題となる。従ってある部分では形だけでも粗相のない様に言葉を「援用」させていかれる冷めた目が必要だということになる。それが責任倫理の発生起源であり根拠であるとさえ言える。
 終わりよければ全て良しというこの理念に於いては、内的動機や良心や内心の誠実性より、既に結果と波及効果を念頭に入れた戦略だけが価値であるという考えがある。だが、それが言葉の持つ当初からの運命的性質であり、言葉の歴史的事実である。従って歴史自体も必ず言葉の伝えられ方の中に歴史的事実内容も込められていて、それは必ず起きた事、起こった事とずれている。変形されている。その変形自体を適切に鑑みることがもし歴史家に必要とされているなら、それはそれでカール・ポパーの言う様に歴史は(解釈に於いては)科学的であらねばならない。しかし同時にそのずれ方とか変形され方も又一律ではないとすれば、歴史として「伝えられたこと」そのものを科学的に分析しても仕方ないという意味ではユルゲン・ハバーマスの言う歴史は科学ではないという考えも正しいが故に、この二人の論争は共に真実を突いていることとなる。
 その意味では常々中島義道が言う様に全ての成功には偶然性が必ず付き纏っている。要するにたまたま最初に大きく認められてしまった何らかの仕事をした者が、そのことによって次第に新たな仕事に於いて、その評定に見合う様な仕事を積み重ねる機会を与えられその機会を逃さないことによって益々成功者となっていくのである。
 仕事がその都度のピアプレッシャーに対応した構えの表明であるとしたら、その際に齎される言葉による思考もそうである。つまり言葉とはその都度の内的な心に立ち現れたことに対する表明の決意であり、表明し、それを表明すると決意することによって意志を明確化したものとして外部から評定されることを期待することによって、自らの意志を不動のものにしていこうという作為である。
 しかし当の問題は既に現代社会ではある言葉が意味として受け取られる仕方自体が余りにも予測がつかない。従って責任倫理は益々内的な決意よりも、外部に出力されたことから齎される波及効果自体に委ねられている。それを私は責任を持とうという内的決意からではなく、外部に言葉的メッセージとして発信してしまってから後に得られる波及効果を鑑みてその都度発信仕方を調整していくというある種の内的には完全責任を取れない、つまり無責任主義に積極的に加担していく様な決意こそが現代人の意思疎通には内在していると考えている。それはまさに抽象表現主義アーティストであったジャクスン・ポロックがドゥリッピングという手法によって平面キャンバスを床に置いて、その上に跨って絵の具や塗料を滴らせた刷毛からそれを跳ね落としていったその結果から絵画の描きの進行をその都度決定していった様な、偶然性に身を委ねる(それはダダイスムやシュールレリスムによって既に実験的には実行されてきたことの進化的試みであったのだが)仕方に似ている。無責任に発してその効果から責任を考えるというシュールレアリスム的手法であるオートマティズムを彷彿させる。
 その意味では我々の住む現代社会とは既にジェットコースター的に人生の成功と挫折が運命づけられている責任と無責任の境界の明確化していない極めて偶然性の強い「際の曖昧さ」を際立たせている時代なのである。しかしそれは本当に現代社会に於いてのみ切実であり始めたことだったのだろうか?
 それ自体が一つの大いなる幻影である可能性の方が強い。つまり今こそ一番切実に思える永井均の言葉を援用すれば唯今論的見方がここで採用されているだけかも知れない。
 つまり全ての存在者に於ける運命とは常にジェットコースター的に先行きどうなっていくか分からなさだけが支配している、或いはしていたのかも知れないのである。

Wednesday, December 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十章 日本人の精神構造と戦後社会の精神

 現代社会であるパワーを持った政治家、官僚、知識人など全てのエリート層と、それを支持する母体、或いはそれを支持する大衆という図式から考えると、ある極めて矛盾した歪な構造を日本社会が携えていることは誰しも感じ続けてきたことだろう。
 社会には我々個々人が携える信条とか良心とか良識とは又一種別箇の独特な暗黙の良識が蔓延っている。これはそう容易に全ての個々人に越権させることを許さぬものがある。その一つが学閥であり、その一つが資本主義社会のルールであり、その一つが世論形成システムである。
 勿論他にも沢山あるのだが、その三つの内今回は後者二つに就いて扱おう。
 戦後日本社会はGHQの占領下様々な敗戦処理の中で政策が取られた。その一つが財閥解体であり、その一つが農地改革である。
 とりわけ日本では財閥解体がなされたのにも関わらず、一切手付かずだった組織が幾つかある。それが外務省であり、あらゆるマスコミ報道機関であり、NHKである。この事実が意味するところは極めて重大である。
 現代日本の資本主義ルールは実は極めて固有の情感に彩られている。それは一言で言えばまさに「出る杭は打たれる」であり、それに真っ向から抵抗した政権こそ小泉政権であり、竹中金融路線であり、ホリエモンであり、哲学界では中島義道による対話論である。それ等全てを私は肯定してはいない。しかしそういうトライアルとしてそれらの活動が位置づけられることから日本社会を読み解くことには意味がある。
 現今の世論形成に於いて極めて大きなバロメータになっているものに国会中継がある。これはNHKが取り仕切ってきた。そしてこの番組枠で放映される発言や個々の政治家(与野党問わず)のイメージは決定的な国民自身への記憶の印象となって、世論形成の際の国民自身の意志決定に影響を与えている。
 従って政治家は如何に発言から立ち居振る舞いに至るまで、否ファッションまで気を遣い(恐らくファッションコーディネーターからメイクアップアーティストまで雇っているだろう<少なくとも経済力のある大臣、与野党有力政治家達なら>)如何に巧く国民に自己政治信条から政策的主張を「イメージづけるか」に苦慮する。
 しかしNHKの放送枠で示されるイメージに対して常にそれを批判したり、解釈したりする存在こそ民放である。民放の指針とは常に前後左右に揺れていて、絶対に一貫性はない。それを言うならNHKも然程ない。しかし少なくともNHKは民放ではないので、民間の企業や法人組織に対する利害関係からは一見解放されている様に見える。しかし実際は各自治労、官公労、連合、それ以外の全ての組合組織とは密接に繋がっている。そのことを知らずにNHKを見ている視聴者は恐らくいまい。
 従って日本式資本主義ルールはそういった見えない良識というバリアを張り巡らせていて、個々人間のフェアな競争原理とは一線を分かっている。これこそ竹中平蔵が改革に乗り出そうとしていたことであるが、小泉元総理はその改革にストップをかけた。さしもの竹中如きにその種の改革は優勢民営化の様には絶対に行かないと踏んでいたからである。このことも又誰しもが周知の事実である。
 一方で民放が激烈な与党批判に終始していて、しかしその民放による批判的見解の激烈さに対する融和剤、調整作用をNHKが常に買って出ている、否そういう役割であることを暗黙に我々国民自身が認可してしまっている。
 しかし一時期放送受信料の未払いが多発して、それに対する対処として新会長による政策転換により、民放アナウンサーやタレントを多く起用する様になった(鳥越俊太郎やタモリ、姜尚中など)ことから、一見NHKは改革されたかの如き様相を呈しているが、一般社会の良識を維持し続けるという機能に於いてNHKは厳然と戦後の体質をそのまま引き摺っている。事実NHKはスタッフ職員などに関しては東大、京大、早稲田、慶応四大学からしか中途採用を取らない。それにも増して日本のビジネスパーソンから主婦に至るまで、日頃の情報摂取に於いて、極めて多くの局のニュースを受信することが出来るにも関わらず、大半の情報は日本記者クラブなどによって検閲されていることも又知らぬ者はいまい。そして例えばテレビ朝日は日本テレビよりは左寄りであり、「相棒」などのドラマでは必ず警察組織とか検察組織が組織毎隠蔽体質であることを告発する内容のドラマに仕立て上げていて、その正義的ものの見方の定型自体に視聴者は殆ど疑問を抱かない。それは要するにドラマの世界だからということで、大して気にも留めないままでいるのだ。
 しかし実際に選挙などで蓋を開けてみると、去年の政権交代の時もそうだったし、昨今の地方選挙でも補欠選挙でもそうだったが、極めて民法各局での世論誘導型の方針に影響を受けている。最近では唯一異なっていたのは2005年の優勢解散総選挙の時くらいであった。あの時は郵政民営化に対する反対陣営の意見が喧しく民放で論争されたが、蓋を開ければ自民党の圧勝であった。
 しかしそれ以外では大半が民放の世論誘導に有権者達は踊らされてきた。しかし実際我々有権者達は幾つかの政府へのクーデターを経験してきた。それらの挙の正当性や結果的な善悪を取り敢えず保留にしても、その一つが今述べた郵政解散総選挙に纏わる小泉元総理による参議院法制定否決後決断された衆議院解散という挙であり(これは総理大臣による特例的な解散権乱用である)、もう一つは小渕元総理が倒れた際に密室で次期総理を森氏に決めたこと(青木幹夫、村上正邦、野中広務、亀井静香と森喜朗元総理の五人組による暴挙。2000年)である。これも皆知らぬ者はいない。
 にも拘らず我々日本人は民主主義の正当なる手続きよりも、その時々で狡猾に一切のルールを無視してことなかれでことを穏便に済ますという手法に慣れきっている。その証拠にこれらの挙に対する法的、手続き的無視への批判は終ぞなされ得ない(あるいはうやむやにされてしまっている)。
 つまりそういった手続き無視の、ある意味では結果させよければどんな手法を使っても許されるという不文律を形成させてきたものこそ、日本人固有の良識である。そしてそれを形成させてきた元凶としてNHKと民法による暗黙の世論形成とその融和、或いは調整という共犯関係である。そしてそれに加えて日本社会では出版企業界や論壇、学閥などが何処かでそれらと歩調を合わせるかの様に(実際の名を挙げれば日本学術会議を頂点とする学会組織全部、それに大学組織、大手出版社各社である)右へ倣えをしてきた。
 それら全体が右に倣えをすると、必然的に電通や博報堂などの大手宣伝媒体はあたかもそこで形成された暗黙の合意を世論であるとして各民放に流すCMを制作し、それを放映して世論として煽る。彼等はアウトソーシングのプロであるので民間下請け機関全ては大手宣伝媒体の命令に付き従う。
 視聴者は次第にかつて自分達自身がクーデターを起こしておきながら、小泉フィーヴァーによる政権運営自体に「劇場型政治である」と批判した野中広務による批判的提言のままに、ビジネスパーソンも主婦も学生も劇場化された社会世相に対し、それが恣意的にNHKと民放とその支持母体である各種組合組織、そして新聞社や日本記者クラブ、それを陰で助長している学閥、大学経営者、大手出版社、宣伝媒体の思惑であることを知ってか知らずが、世論とは「そういうものだ」という諦念によって「相棒」などによるドラマ制作のモティヴェーションや小説、映画、演劇の世界での現実描写と、実際の社会の様相との間の境界を明確に持つことなく、虚構と現実の境目を曖昧化させつつ、一旦失言をしたとされると、その本人の思惑とかモティヴェーションなどは全く顧みられず竹中平蔵の言葉を借りれば「魔女狩り」の如き様相で訴追する様になるのだ。その事実に日本国民は一切抵抗する心の余裕はない。
 この日本社会の固有の世論形成に纏わる連動性が、ソフトバンクであれやフーであれ民間企業の経営戦略にもかなり制約を課してきたことだけは確かである。要するに日本式資本主義社会とは、世論形成に伴う固有の全体的ムードが支配的になり、その受信者である国民の間で実相と虚的な事実との間での見分けがつかなくなり、その「見分けのつかなさ」自体を受け入れる形でしか民間企業も政界も官僚組織も職務を遂行出来なくなってしまう形でしか運営されていない。これは一切の正当なる権力遂行を事実上不可能と化している(そのことを直観的に訴えているのが中島義道の「善人ほど悪い奴はいない_ニーチェの人間学」(角川新書)である)。
 小泉元総理に郵政解散総選挙の暴挙を遂行せしめたのは他ならぬこの「見分けのつかなさ」とそのことへの国民、全ての有権者による諦念である。「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは見分けがつかぬものなのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 政治も国会中継によるショーであり、官房長官の発言も首相のぶら下がり会見も全て「やらせ」性に彩られている。つまりそういった現実と虚構との間の「見分けのつかなさ」への諦念こそ、中島義道をして当の本で批判せしめている 2ちゃんねる の匿名の書き込みを、ストレス解消として助長しているのである。
 確かに現代でも東浩紀、茂木健一郎、宇野常寛といった時代の寵児達はいる。しかし彼等の活動全般を彩っているのは只単に反映であり、勿論反映行為が悪いことであるわけではないのだが、端的に彼等の活動全般は決して社会を変革はしない。その変革出来なさの実態を時にアイロニカルに、時にアレゴリカルに<動物化するポストモダン>とか<大きな物語の喪失と小さな物語の乱立>とか<クオリア>とかの語彙によって時代を象徴しているだけである。
 それはある意味ではダニエル・デネットが「ダーウィンの危険な思想」でスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジといった古生物学者(paleontologists)達が提唱した化石発見から引き出される進化論的考え、つまり断続平衡説への物語性への批判(それはあくまで実際に発見されたものだけに依拠して判断されるが故に、発見されていないもの全般への完全無視に直結するという懸念からなされた哲学的批判だった)に見られた真理論と相同のベクトルを持っている。
 要するに我々は理解しやすい物語(このことに関しても批判論的に中島は例の本でヒトラーの戦略を引用している)に惹き付けられ易い。しかしその陰には必ず恣意的な策謀、つまり作為があるのだ。そして魔女狩り的なenthusiasmが必ず存在するのだ。そのenthusiasmを助長しているものこそ、「そういうものだ」という諦念であり、「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは<見分けがつかぬもの>なのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 今回の菅総理による法人税の引き下げは民主党与党延命策としてはまあまあだったが、またぞろ我々の眼前にマスコミ全般と各支持母体による思惑からどんな世論形成的良識が発動されるか、我々は少なくも自己防衛的に注視していく必要だけはあろう。

Monday, December 13, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十九章 一般化、波及効果と普及

 波及するものは創造者にも予測し得ないということを前章で述べた。しかし波及するものそれ自体にはそういった性質が備わっていたと考えることが出来る。誰しも自分にとって自信ある創造物を普及させたいと願う。しかし予想外に「~すれば~なる」式の予想は当たらない。それが完全には理解され得ないから我々はチャレンジする。完全に普及しきってしまうに違いないと思えることと、そうであると知っていることの間には天と地ほどの距離がある。何故なら普及すると分かっているものは普及させる価値すらないとさえ言えるからだ。それは自明なことである筈だ。
 白鵬があと少しで双葉山が打ち立てた連勝記録を凌駕するというところで負けた一件は記憶に新しいが、実際双葉山の天才性には様々な要因が絡み合っていて、それはある種の偶然性の集積という奇蹟でもある。例えば彼の記録がどんなに偉大でも、それが人間の範囲を超えていないということが重要なのだ。
 ウサイン・ボルトもチーターと走って短距離で敵った走者ではなし、そういう走者はいない。同様に双葉山でもゴジラやキングコングと戦っていたわけではない。
 恐らくそれが双葉山と同じ様な記録を出し得たかも知れない、能力の保持者は世界中には何人もいただろう。否日本国内にさえいたかも知れない。しかし前者に於いてはたまたまその国には相撲という競技自体がなかったのだし、後者に於いてはその人もそうだし、その人の家庭環境が相撲に全く関心がなかったのだし、仮に関心があったとしても相撲取りになることを両親が許さなかったら、実現しないこともあり得る。
 しかし双葉山は違った。あらゆる条件が揃っていたし、且つ彼自身も非情な努力をした。
 そういう様な意味でデカルトのコギトも、フォードの自動車も存在しているのかも知れない。
 しかし恐らくデカルトのコギトと同じ様なことを考えていた人はいた筈だ。だからこそデカルトがそれをそれまで考えてきたことはあっても終ぞ明確化せずに終えた無数の人達を代表して、明確化し得たからこそ、後代の人々の多くが(全てでは勿論ない)なるほど、そうだと思えたのだ。
 それはデカルトがコギトを通して示したことが皆一度は考えたことがあるのに、それを大したことであると思わずに遣り過ごしてきたか、明確化せずに見過ごしてきたものの中で、デカルト本人だけは価値ありとして、書き留めておき、次第に理論化していったのだ。そしてそれはその時点で彼自身でもある程度の波及力を持つであろうという自信があっただろう。しかし彼の死後数百年と経っても色褪せることなく受け継がれていくなどとは彼自身さえ予想出来なかったのだ。それが真実に偉大なる波及力と言える。波及しだして普及しきってしまえば、それは一般化される。それはデカルトの特許では最早ない。それはフォードの発明した自動車を運転する際に一々彼に特許料を支払っているのではないことと同じである。
 しかし波及効果を持ち、普及しきるという事実の前では一度は誰しも考えたことがあるということが極めて重要なのだ。我々はどこかでそれらに対する記憶を痕跡として残している。その痕跡を擽るということが重要なのである。だからこそ「そうだ、その通りだ。この考えは素晴らしい」と普及していく様な波及効果を持つのである。
 それはある部分では善的な存在ばかりではなかっただろう。近著「善人ほど悪い奴はいない」で中島義道が示しているヒトラーもそうであった。しかし彼の考えや戦略は後世に於いて悪しき例外として位置づけられるに至っている。それが何時までそうであるかは私にも予想出来ない。又いつかはヒトラーの愚行自体が英雄視される時代が到来しないという保証は私にも確約しきれない。
 しかし存在の仕方として善的である偉大なることとは、何処かで郷愁を誘う要素があるのではないだろうか?それはデカルトのコギトにもあったし、自動車の様な利便性の極致であっても、あるのではないだろうか?
 体格にしても技能習得にしても、双葉山と互角に戦える条件の持ち主は他にもいた。しかしその条件を双葉山がなした偉業へと費やす決断と、それをさせる環境が他にはなかった。であるからには双葉山自身も、或いは全く別の方向へ自ら持って生まれた条件を利用して、例の連勝記録を打ち立てることはなかったにせよ、別の偉業をなし遂げた可能性があるものとして、例の偉業を成し遂げたのである。
 それは本人の中では「~をしなければ~をしていたであろう」という終ぞ実現し得なかったことへの郷愁となって時々立ち現れているということはあり得る。私くらいの才能の者にでもそれはある。
 偉業や偉大なる発明は時間が経てば一般化される。普及しきってしまえば波及力さえ過去のこととなる。波及効果は、その発明や発見や偉業が、それをなした人と付帯して切っても切り離せない状況下であることを示している。しかし普及しきってしまえば、或いはその事実に疑念を誰しも抱かなくなった時、それは一般化が果たされた、と言える(それはデカルトのコギトが哲学者内にある程度留まっているのに対し、ガリレオ・ガリレイによる「それでも地球は回る」ではないが、太陽の周りに回っていることを本気で疑う者はいない。そしてフォードの名を一々記憶せずに車を運転している人が大半である)。

Sunday, December 12, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十八章 何物も世界を変えることは出来ない/エリートも時代の寵児も神にはなれない、否なったとしても

 誰しも野心家であるなら、如何にして自分が想念し得る理想の世界へと、現世界をシフトさせられるだろうかと考えるだろう。これは別に狂人の発想ではない。意外と普通の考えなのである。
 そういう風に世界を変えてみせるとか、見せたいとか思うこと自体にはある自然さがある。つまりそういう風に世界と関わる意志と欲求があるということだからだ。
 しかしそれは容易ではないし、又今迄それを実現させてきた者がある意味では一人もいなかったとも言える。アレクサンダー大王も、チンギスハーンも、ヒトラーも世の中を変えることが出来ただろうか?
 ではそもそも世の中を変えるということは一体何を意味するだろうか?
 それは恐らく私の考えではカリスマでも支配者でも独裁者でもない。それはあくまで人間生活の一部を変えるということを意味し、それは人間の習慣と技術である。
 この二つはある部分では確実に世界を変える。或いは変えてきた。
 如何なる時代の寵児も、少なくとも現代では出版界、マスコミ全般を総動員しても、その手法と、既成概念の踏襲から世の中を変えているのではなく、世の中の動向(精神史的にも生活技術論的にも)反映しているのであり、一時的な大衆啓蒙への幻想の中でカンフル剤として作用しているに過ぎない。
 何故ならそういった革命的行為の様に映る著述内容や講演内容、或いは時代の旗手としてのイメージ自体が旧態依然的保守主義の向こうを張る形で既に保守勢力と手を結んでいるからだ。
 しかしそういった動向を支えるのが仮に大衆と呼ばれる層であるとしたら、そしてその時代の寵児を持ち上げつつ、その著作を購入することを通して出版界やマスコミが新刊本を刊行し、テレビに出演させることを通して、その寵児の持つイデアを普及させようと世間一般が動く時、それを動かしているのは彼を寵児として認可する消費者の行動であり、彼の本を読むことを習慣とする諸決意なのである。
 その意味では永井均が朝日カルチャーセンター講義で述べていたデカルトのコギトが世界的に哲学界に普及していって、その後の哲学動向の幾ばくかを大きくシフトさせたとすれば、デカルト自身のアイデアもさることながら、それを運んできた文字であり言葉である、という問題提起は大きな意味を持つ。
 寧ろデカルトがコギト・エルゴ・スムと言った時、それを意味化してきたのは、或いは哲学命題的に価値化してきたのは、それを文字化した制度であり、その言葉自体である。その意味では仮にコギトの神がデカルトであったとしても尚、デカルトという神自身は、自らがその言葉によってなした行状が後世にどういう波及力を持っていくかということまでは予想し得なかった。つまりその事実こそが神とは万能ではなく、有限の力しかないという永井均の「私、今そして神」の主張を裏付けることとなる。
 従って仮に時代の寵児となっていったとしても尚、その寵児が自分の考え出したアイデアが波及していくその全過程を予想することは出来ない。車が現代社会の必須アイテムになっていく過程の全てをフォードが立ち会うことが出来なかった様に。つまりフォードは確かに自動車を発明した。しかし彼の発明がどの様に世界を変えるかということまでは想定出来ず、世界を変えたのはフォード自身ではなく、全ての自動車ユーザーであるドライヴァー達であり、そのドライヴァーの存在によって恩恵を被った乗車した人達であり、その利便性を享受することを習慣化した全ての人達自身と、彼等による利用習慣自体である。
 その意味では学者や専門技術者達は一番そのことをよく知っている。何故なら彼等は自分達のしていることが後世にどういう波及力を持ち得るかを想定することは出来ないし、又出来るのであればそれをすることを躊躇せざるを得ないとも言えるからだ。
 かつてノーベル賞受賞者全員にパネルディスカッションさせた所、一切話しがちんぷんかんぷんだったという話を聞いたことがある。当然であろう。彼等は全て別箇の分野のスペシャリストであり、であるが故に相互に共通した経験を持たない。共通した経験を持たぬ者同士が学際的な意見交換をすることが出来る筈がない。そしてそれを一番学者達本人が知っている。或いは技術者、エンジニア達本人が。
 経験が共有されないということは分析哲学でよくある、ある人達が共に同じ雲を見ていても、それが同じ様に見えているとは限らないということとは違う。そういうレヴェルで言っているのではなく、共同注意的にその場に居合わせればある程度の共通了解を得ることが可能だという意味で、である。つまりそれすら違う専門家同士では物理的に実現不可能である。その様に経験が共有されぬ限り、本質的に学際性自体は成立不能である。
 従ってそれ等専門的技術、ノウハウ全体を統合することも不可能である。又それでよいと知っている者のみが専門的フィールドで成功を収めることが可能である。
 ロボット工学者達が仮に会社のフロント嬢のロボットを如何に精巧に作り上げたとしても、終日そのロボットと共にいて尚且つ絶対にそれがロボットだと気づかないままでいられるということ自体が決して実現不可能であると知っていればこそ、そういったロボットを開発し得るのかも知れない。
 何故なら、もしそれが可能だと思った瞬間、それ以上精巧なロボットを開発していくこと自体を、その実現による波及力によって不気味な社会が到来するのではないかという恐怖と共に躊躇するかも知れないからである。安穏ともっと精巧なロボットを開発することに勤しめるのが、それが一時のマジックでありフェイクの範囲を超えないことを彼等が一番自覚しているからである。

 もしこの世の中に本当にエリートと大衆というものの差があるとしたら、エリート達とは端的に、自分達がどんなに努力しても世界を本質的に変えることなど不可能で、絶対に微々たる改革しか遂行し得ないということを知っている者のことをのみ言うと言っても過言ではない。
 アーティストだって文学者だって、自分が作る作品が世界を変えられないことを重々知っている。ほんの些細な共鳴しか創出し得ないことを知っている。そしてそれは諦観とかニヒリズムではない。そう思っていられないのなら、寧ろ精神病理的状態である、と言える。
 逆に大衆というものが本当にこの世の中に存在し得るとしたら、何時まで経っても真剣に人間とロボットの境界を無くせ、何時かロボットと結婚して幸福になり得る社会の到来を夢想することが出来るということかも知れない。しかしそれはそれである種の精神病理的状態であると言える。
 ここで示したエリートの本当に世の中が変えられるという幻想と、何時かエリートによって世の中が完全にユートピア(それがその者が夢想するユートピアであり、決してそのユートピア自体は他の人達との間で共有されていないということが問題なのである。それは極めて独我論的な夢想なのであり、公共性も普遍性もないのである)が到来するということを期待し、夢想するということがもし何らかの形で接合し得たのなら、まさに共同幻想的なリンケージが発生し、かつてのナチズムの様な状況の到来を意味することになろう。
 従ってそういった精神病理的な夢想や夢物語を語る者をエリートとは通常見做さない。もし実在的に、現実的にエリートが必要とされているとしたら、それは現実の些細な局面での意識改革のみ可能であるということを熟知していて、それを啓蒙しようとしつつ、全ての人にそれを伝えられないことをも熟知しているということになる。勿論中には完全に世の中が変えられると夢想している人もいるだろう。しかし実際上彼等は絶対に世の中に一定のパワーを獲得することは出来ない。つまり出来ないからこそ、彼等は夢想者なのである。
 フォードは自動車を発明したという意味では、コギトの発明者でもあるデカルト同様神である。しかし神にも永井均が言う様に限界があるのである。そしてその限界を何かを発明しようがしまいが、最初から知っている者のみをエリートと呼ぶべきなのであり、それが出来るのだと大衆に思わせる者、又自分自身も大衆からそういった要望を付託されその気になり、実現可能性を信じる者をエリートとは呼ばない。又呼ぶべきではない。それは扇動者と呼ぶべきである。
 従ってゲームソフトの開発者達は恐らくゲームによってもし世の中を変えられるとしても、それが極一部であることを知っている。ゲームソフトを日常生活で活かすことの出来る人も一握りだし、ゲームソフトの世界を現実であると受け取る精神病理的状態の青年達は世界の何も変えない。変えないが故にネトゲ廃人となっても、それはゲームソフト開発者の目論見の範疇である。勿論全ての人達がネトゲ廃人になる様な事態になっていった時に初めてデカルトのコギトやフォードの自動車の様に、本人(神)さえその波及力を予想し得ないということになるのだが、実際上ゲームソフトはそこまで普及しないだろう。事実それをしない中年や老人だけでなく、青年も大勢いるからである。
 もし世の中全体がネトゲ廃人になったら、まさに世の中の人全員が喫煙により寿命を短くしていく様なものであり、ゲームソフトは一切収益を上げられなくなるだろう。つまり一部の人達がネトゲ廃人となり、一部の人達が有効利用出来るということを彼等開発者達は知っていればこそ、それを何時までも開発し得るのだ。それはアーティスト達が自分達の創造する作品世界が極めて一部の人達だけに愉悦を与えると知っていればこそ、アートに全く関心のない人達へ啓蒙する使命を持ち得、自分達がそれなりにエリートとして君臨出来ると知っているからこそ、ギャラリーや美術館と協力し合えるのと同じである。
 その意味ではアートのモードも自動車のエンジンも哲学命題であるコギトとかそれ以外の多くの概念も、全て、それを発案した人を神としつつも、それ自体自立して、それを利便性として享受する人達と共に、そのものの力によって習慣の一部を若干変えていくことで充足されている。
 だから波及力という観点からmemeとのたまったリチャード・ドーキンスのもう一つの謂いを借りれば、ヴィークルvehicleであるデカルトやフォード(という神)を借りて、コギトといった概念や自動車の利便性自体が神から自立してユーザーの利便性享受と合致して、その事実が世の中を変えていくのである。勿論一部かなり変えるが、別の一部は一切変えないという形で、である。
 ところでこのドーキンスのmemeもvehicleもかなり大きく波及した概念である。しかしそれすら未だにアインシュタインの相対性理論(特殊、一般共に)が完全普及しているとは言い難いのと同じ様な意味でやはり一部である。そのこと自体のアレゴリーとしてもアイロニーとしてもこれらの概念が君臨しているということも実に興味深い。
 そして恐らくアインシュタインもドーキンスも彼等の提出した概念が全ての市民によって完全理解された段階で完全に過去のものとなり、まさにガリレオ・ガリレイが狂人ではないと現代人が知っている(狂人以外)様な意味で一般化されるのである。その段階では彼等は既にエリートではなくなる。そしてそこには大衆もいない。
 従ってエリートとは大衆がいる、という幻想だけは完全捨象仕切れていない人ということにもなり得る。そして自分をエリートと考える人がもしそうであるなら、いっそ自分自身がどんなに高い社会的地位にありながらも、一部ではそれを恥じていて、或いはその微力であることを熟知しているということになろうか?すると再び翻ってエリートとは自分自身ではエリートとも思っていないし、大衆が向こう側にいるとも思っていないが、周囲が彼(女)自身をエリートであると見做したくなる、そういう存在であるということになる。
 しかし前章でも書いたが、実際上政府指導者層もジュリアン・アサンジ氏もそれなりにエリートであったとしても尚、彼等自身双方共に情報摂取という人類の不可避的現実自体に乗っ取られているということこそが極めて問題であり、苛烈な事実なのであり、それは現代人自身がパソコンを使っているのではなく、既にパソコンに使われているのだという苛烈な事実と同様、問題にすべき論点とはそこにあるのである。
 次回はその点に就いて考察してみよう。

Saturday, December 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十七章 世界の中に巣食う短絡した思考と未来予想

 中国人反体制作家、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式が本人不在、そして賞金受け渡しなしという異例の事態によって執り行われた。本質的なことは、中国という巨大なナショナリズムとその中での個という意識の間に大きなずれを顕在化させるのに充分なテクノロジーと情報化社会が既に世界中に到来しているということである。従って北朝鮮も今のままの体制で何時までも続くということはかなり難しいのでは、と容易に未来予想を立てることが出来る。
 未来予想はある意味では形而上的に歴史を解釈していく必要がある場合もある(いつもではない)。とりわけかなり不測の事態が延々と反復させていく様な現代社会では計算的数値にばかり頼っていたらリーマンショックの様な痛烈な竹箆返しを食らうということが大いにあり得る。
 しかし重要なことは世相とか時代の空気が資本主義社会の経済的動向を決定し、各個人の行動を規定しているということはほんの一部であるとだけは言いたい。
 例えばアートは実質的にはビジネス的には画商や美術商(アートディーラー)や批評家(クリティック)、そして学芸員(キュレイター)によって運営されているかに見える。しかしそれは大いなる資本主義社会の幻影であり、実質的には個以外の芸術創造行為以外によって培われてきた試しはない。それは出版ビジネスにしても同じである。出版社という極めて実体のない媒介がさも出版界を動かしている様に見えるのは、あくまで表層的な現象に過ぎず、文学であれ批評であれ専門学問や技術であれ、全てそれぞれの分野に取り組む個の営々たる努力と地道な行為によってのみ営まれてきたのだ。
 政治に目を転じてみると、鹿児島県阿久根市での竹原信一市長リコール成立失職に就いて言えることとは、阿久根市の駅にかつて停車していたJRの特急が新幹線開通により、廃止され、しかも阿久根市には新幹線が停まらないという、あくまで交通機関の経営上での経済効率主義だけが、延々と繰り返されてきた市議会と、市議会への市長による出席拒否、専決処分などの抵抗主義的サボタージュとの不毛な対立の持続を招聘しているとさえ言える。
 否違うのだ、ああいう対立自体が名古屋市議会と河村市長との対立と同じ様に日本政治を地方から変革していく道筋になっていくのだ、という肯定的な見解もあり得よう。つまりその為に阿久根市に特急が停車しなくなったこと自体は逆に禍転じて福となす的事態であったのだ、という考えである。
 しかしそれにしても、それでは余りにもマスメディア自体の報道活性化だけを狙った世界の構図、つまりマスメディアが他人のあれこれ、自分自身の生活実体とは殆ど何の関係もない多くの余分な情報を摂取させることだけでアドレナリンやテストステロンを我々に放出させていく様な、要するに生理的システムとしてマスメディアによって我々の知的好奇心を作り上げているのだ、という妙な現代社会の機能維持論が提出されかねない。
 その一つの顕著な例こそ市川海老蔵が被害を受けたとされる事件の連日の報道である。梨園という特殊社会が抱える苦悩と矛盾は例の大相撲の野球賭博問題とも共通した日本国民の情感を誘うものがあるというマスコミの目論見が露呈している。
 つまりマスコミであれネットインフラであれ情報化社会の情報送受信システムの前で我々はいつしか短絡した未来予想という思考に絡め取られてしまっているとも言えるのだ。
 それはまさに大学機構全体が学問を運営してきたという幻想を大学関係者に植え付けてきたことと同じである。或いは学会自体が学者の思想を構築してきたのだ、という考えである。それは断じて違う。大学は教育機関であり、後進の育成という機能はあるが、学問自体はあくまで大学にも所属する学者や研究者という個人である。又学会はそれらの専門家が利用すべき組織にしか過ぎない。それは極めて便利であるが、それ以上ではない。またそうであるべきである。
 しかし実体は違う。対人関係的、組織主義的ヒエラルキーは厳然と聳えている。それはまさに新幹線事業の経営成功の為に阿久根市市民の利便性を四捨五入していった経済効率主義とも全く構造は同じである。個の為の利便性がまさに個を締め付け、寧ろ利便性自体が個を呪縛する様になってしまっている。だからこそ中国国家は共産党一党支配によるヒエラルキーによってあれだけの経済発展を遂げているのにも関わらず国際秩序から、市民の自由と権利までも搾取してしまっているのだ。それは国家という利便性自体がそれを享受する個々の主体を無視し、利便性自体の維持がその享受者全体を呑み込み優先してしまっているのである。
 ある意味ではジュリアン・アサンジ氏別件逮捕問題も極めて重要な問いを孕んでいるが、情報という利便性自体が我々を個による主体的決意以前的に優先してしまっているということ自体に、アサンジ氏も、彼を付け狙う大勢の国家指導者も同様ではないだろうか?
 解剖学者で思想家である養老孟司による言葉を借りれば「ああすればこうなる」式の単純な未来論理予想が色々な事物の間にある現象や微細な機能を無視して無効化させてしまっているという実態が、中国にも阿久根市にもネットインフラにもマスコミにも浸透しきってしまっていると言える(まさにNHKでさえ市川海老蔵関連のニュースをトップニュースに持っていったこと自体にそれが兆候している。あの酒井法子報道の時と全く同じである<今は全く彼女の事など世間もマスコミもどうでもいい態度である>)。ほとぼりが冷めたらこの梨園スターのニュースも次第に影を掠めていくに違いない。その時には又別のニュースが踊るだけである。
 勿論劉氏ノーベル賞受賞やアサンジ氏逮捕ニュースは、その類ではない。或いは阿久根市や名古屋市の市長と議会との対立もその類ではない。一つのニュース報道の中にはその種の世界的規模、国内規模の重要性と、話題性として一時息抜きをする為のゴシップとが入り混じっている。それはそれでよい。問題はそれらの現象全体を短絡的未来予想の下で報じられたことを一々真に受けたり、気分をその都度換えていったりする我々個の生活のリズムが、我々自身の思考力をもっと長期的スパンで物事を推し量ったり、もっと大局的視点から想定して思惟することを妨げてしまう巨大な誘引材料となっているということである。
 否年に何度も有名な祭のある京都、奈良、鎌倉、川越、成田といった古都や城下町の観光と同じ様な祭気分だと思えばよいという意見もあるかも知れない。<地方毎の文化芸能、伝統行事は違うものとも思えるが?なら梨園スターだって伝統芸能だから重要なニュースじゃん、とも言えてしまうのだが>勿論ニュースで毎日学術的な内容、文芸的な内容だけを流せ、などと言っているわけではない。
 しかし大局的視点を全ての個だけでなく政府や国家全体の動向に於いても持たせなくなっている様な状況自体はやはり経済効率主義一辺倒と同じ様に批判されて然るべきではないだろうか?
 一番重要なことは我々自身が未来を作っていくということである。従って「~になれば~になる」式の短絡的未来予想を余り頻繁に日常的に慣れきってしまうことは危機以外ではない。従って我々はやはりかなり意図的に思考自体の利便性に我々自身が絡め取られてしまわぬ様に常に神経を研ぎ澄ましていく必要は現代社会にはある、と言えないだろうか?
 その意味では劉暁波氏ノーベル平和賞受賞関連のことや、ジュリアン・アサンジ氏逮捕関連のことは余り単純に考えるべきではない。勿論梨園スターのスキャンダルもあっていいし、スタータレントの文学賞受賞と、賞金辞退と寄付のニュースがあってもいい。しかし思考の利便性自体が主張し始めて我々自身によって主体的に未来を創出していくという気概を機械的にマスメディアの動向が乗っ取ってしまう事態だけは忌避しなければならない。
 まさに短絡的思考に慣れきって「考えない習慣」をつけることは案外快楽的なことなので、我々による未来創出という想念の前では危機なのである。
 未来は予想すべきものではない。創出するべきものなのである。

 付記 今回の問題提起は大衆とインテリ、エリートという区分けと棲み分けと社会的共存の問題へと移行させていく価値がある様に思われる。(河口ミカル)

Monday, December 6, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十六章 いじめの精神分析

 「いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない」と前章で述べた。それはあくまでいじめられる側がいじめられていると認識していることに就いての記述である。
 いじめとは端的にいじめられている者が、必要以上に「虐められているという被害者意識」を告白(或いは表明)することに於いて、それを表明された者が「虐めている加害者、或いは虐めを黙認している無責任者」としての烙印を押されることへの反発心から「そういう風に思うお前が意識過剰だ」という主張となって、その表明を快く受け入れず、封印しようとする、或いは無視しようとすることに起因する。これが最初のいじめの発生現場である。
 要するに「巧く立ち回れないお前が悪い」という<いじめられている被害者の肩を持つこと>を忌避しようとする普通者の態度がいじめられている側を意気消沈させることから いじめ は顕在化するのである。
 従って虐める側からすれば、虐められていると意識過剰となっている者を排斥したい、擁するに「うざったい」「うざい」気分になっているということ以外ではない。
 皆自分自身が虐められたくはないし、要するに仲間外れになっていく気分だけは味わいたくはないという気持ちから、次第に自ら虐められている(仲間外れにされている)という表明をする者を自分の近くに寄せ付けておきたくはない、遠ざけておきたいという気持ちから、その者に多少邪険な態度を取る。するとそのことを、そうされた者が意識過剰に「俺を置いていかないでくれ」と縋る反応し、そうされた者が益々その者を遠ざけて無関係なことと自己をしておきたいが故に相手に邪険な態度を取るという悪循環こそが いじめ の本質的構造である。
 だから意外といじめとは単純な心理なのである。つまり虐める側にしてみれば、自分自身を他者一般、周囲の人達から虐められる様な立場や状況に陥れたくはないが故に、少しでもそのことに対し とろい奴 を余り自分と親しい間柄だと周囲からは思われたくはないという単純な自己防衛心に根差す。そして虐められる側としてみれば、何故それまでは結構話に乗ってくれていたのに、ある段階から次第に邪険になっていくその様変わり自体の意味を疎いものであるから気がつかなくて、益々両者の距離が心理的には遠ざかっていくことなのだ。
 従って虐める側は虐めているという意識は極めて希薄であるにも関わらず、虐められる側は極めて深刻なのである。
 だからいじめられることを避ける唯一の方法とは、虐められているという気持ちにならなければいいのである。つまりいじめられることを避けたいが為にいじめられているという告白を聞きたくないという普通の人の心理を汲めば、いじめられているという告白など誰にもしなければいいのだ。又仮に相手を買い被ってそういう告白をも聴いてくれるだろうと踏んでそうしたとしても、その者が自分を避けていくようになったとしたら、それは向こうもいじめられている側であると周囲から認識されたくはない、つまり大勢を敵にしたくはないという保身を取る弱虫なのだ、と理解して余り必要以上にその者の行方を追わぬ様にする、ということ以外にはない。
 従っていじめとはいじめられる側が過剰にいじめる側に聖人君子的に期待し過ぎることから、逆にそれが裏切られた時の幻滅によって、相手を冷たい奴だと思う心理に由来する。世の中に神様の様な人など一人もいない。しかし苦悩している時その話を聴いてくれる人とは神様の様に思える。しかしそういった告白を余り重ねて相手にしていくと、相手も次第にうんざりし始める。自分だって悩みがあるのである。それを代わりに聴いてくれるということを常に自分へ悩みを告白する者に期待することはなかなか難しい。それが出来ないからこそ相手はいつも自分に悩みを告白してくるのだ。相手は自分を強い奴だと買い被っている。これがいじめられていることに於ける苦悩を告白される者の立場から見た心理である。
 要するに過剰に存在理由の大きさを勝手に他者から期待されることの鬱陶しさ、しんどさが、端的にその期待してくる者に対して邪険な態度を取らせるということは極めて自然なことである。
 つまり いじめ とはいじめられる側に最初の責任の発端がある場合がかなり多いのである。しかもそのことはなかなかそのいじめられていると意識過剰となっている者へは直接は言い難い。これが益々自分で自分の意識過剰、つまり他者依頼的に他者存在理由を自己にとって期待し過ぎること、そしてその期待に添えない旨を暗に示す相手の態度を邪険と受け取ることから、益々両者の間に溝が開き、その溝の深さが修復不能となった状態を、我々はいじめと呼ぶのである。
 端的に誰しも他者から過剰に期待されたくはないと同時に、他者から遠ざけられたくはない。であるが故に他者とは常に相手が誰であろうとも適度の距離を保とうとするし、又格別に誰かの味方にもなりたくはないし、格別に誰かの敵にもなりたくはないという心理が普通なのである。
 その普通さを必要以上に聖人的に解釈して期待し偶像視することから、次第にその期待する者を鬱陶しく疎ましく思う様になるというその態度への過剰反応こそが、いじめられている者の心理に発生することなのである。
 だから本来ならいじめられている者にその旨を巧く伝える者があれば一番いい。しかしこういうロールとは実に気が重いものであり、適当に全てを受け流して自分自身を自分で守ることの出来る成員達全員はそういうロールを自ら買って出るということは余りないのである。
 だからこそ時々悲劇的な結末を迎える。
 勿論いじめる側が正しいと私は言っているのではない。虐める側も度が過ぎれば立派な罪である。しかし恐らく一人一人の加害者は、自分自身が被害者にはなりたくはないという気持ちだけ一杯であり、そんなに意図的にいじめてやろうという気さえない。勿論中にはそういう悪辣な者もいよう。しかしそういった悪辣者に対しては必ず批判勢力も発生してくる筈だ。しかし当のいじめられてきた者にとっては(とりわけ子供は)そんな冷静に全ての事実を俯瞰することは出来ない。従って子供社会の場合は教師の立場である大人の監督責任であり、現場の指導責任である。
 つまり大人なら、相手が自分から次第に遠ざかっていくことの遠因に、自分が相手を過剰に期待し過ぎて、頼り過ぎて必要以上の告白などをしてしまったから、或いは相手は自分の方の悩みも自分から相手へ告白しなければいけなくなるのではないか、という億劫さと臆病さを持ち出すのだ、つまり相手は真摯に自分に接し過ぎることを嫌がっているのだ、もっとビジネスライクに接して欲しかったのだ、と相手の立場に立って理解することが出来るし、そういった心の余裕を人生経験上持てる。しかし子供にその心の余裕はない。子供は深刻化されてしまった問題に対し、それを別の形でストレス解消するだけの手段も力もないのである。
 従って周囲の大人があざとくそれを気がついてあげなければいけないのだ。
 又極めて重要な真理として次の点は指摘しておいた方がいいだろう。
 悩みとは人に告白して聞いて貰うことによって実は深刻化するのだ。つまり内的な苦悩とはパロール上でも何らかの形で言説化することによって明示されてしまうが故に決定的なものとなってしまう。これはほんのちょっとした思い込みさえ一旦口に出して人に伝えると「本当のこと」になってしまうこともある(デマなどはその最たるものである)ことからも理解されよう。
 従ってかなり深刻で自己の力によって修復可能ではないこと以外なら、余り安易に他者に悩みとは打ち明けるべきではない、と心得ておく必要は、特にビジネス的な意味で生き馬の目を抜く現代社会人にはある、と言うべきであろう。
 勿論子供に同じことを要求することは出来ない。しかし恐らく子供は普段から余り弱過ぎる大人を周囲に、或いは家庭で見ていると、自分自身も強くもなれないし、その必要も感じないし、大人を尊敬して悩みを打ち明けるということもしなくなる。つまり子供の側から大人に見切りをつけてしまうのである。従って自殺することだけが唯一の解決法となってしまうという悲劇も招聘されるのだ。
 大人が容易に配偶者の前で悩みを打ち明け過ぎるのなら、気をつけるべきである。子供のいない場でそうすべきである。子供は大人の態度の逐一を観察している。大人が大人らしく振舞えば、或いは少なくも子供にそう思わせていられれば、必然的に自分で修復不可能な悩みを大人に相談する様にもなろう。まず大人が強くなり、相手に対して過剰期待しない思い遣りを持てずに、誰が子供の苦悩を除去してあげることが出来よう。

Sunday, December 5, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十五章 桐生市小六女子自殺事件その他の社会的背景と情報送受信クラスター=閉鎖集団の問題

 教育現場では既に生徒達子供の心理を現場の教師自身が把握し損ねている。それが桐生市小六女子自殺事件や新潟県神林村や福岡県筑前町中学生自殺事件などに顕著であるが、地方部に於いて自殺を多発させている。これは既に情報化社会が極めて狭い範囲で営まれていて、その遣り取りの時間的な過密さから心理的に生徒達の心を蝕んでいる。
 世界中で既に国家権威や指導者層の権威が失墜しているのは、只単に彼等の無策によるだけでなく、もっと本質的な情報ネットワークによる意図的な情報漏洩、流出映像等によって組織、集団へ各個人が謀反することを可能としているネット情報発信行為の無限の可能性への惑溺による。
 事実上情報には国境はなく、それは国家権威レヴェルで情報統制を不可能化しているのと、情報行為の送受信自体が機密情報を維持していくことを不可能としている。
 従って我々内部では情報が機密化され保護されることよりは、誰かによって漏洩されることの方を期待する心理を構成してしまっている。 
 WikiLeaksの世界的規模での展開がそれを象徴している。従って件の航海士による流出映像は彼によらなくても、誰か別の個によって行われていたと誰しも想定し得る。
 しかしその情報を享受する個に於いては、リア充的な対人関係で情報を摂取しているのでも、送信しているのでもない。勿論部分的にはリア充的対人関係構築も可能だ。しかしそれはあくまでネットインフラを通したヒューマンリレーションに於いては部分的なものへと後退している。
 故に必然的に情報行為はワイドに摂取するが、それをリア充的に伝え合うということに於いては極めて限定的なサークルへと帰属させてしまっている。その極めて閉鎖的なクラスターが世界中で一見世界を情報ネットで繋げている様でいて、その実小さなクラスターに身を寄せ合っているという現実を作り上げている。それが子供の社会にも雛形として反映している。
 子供社会とは大人社会の情報送受信閉鎖性の雛形以外ではない。
 つまり閉じてしまっているサークルというヒューマンネットクラスターから既に多くの市民が逃れられない様な意味では、それを横目で見られるのは自分自身ではさして多くのフォロウをツイッターで維持せず、しかし極めて多数のフォロワーを外部からは獲得し得る著名人に限定されていってしまう。彼等は全ての情報をリア充ではなしに、横目で見ているが、それをフォロウしているツイーター一般はあくまで違う。極めて限定的な双方向的送受信サークルというスモールクラスターメンバーでしかない。
 実はその小さなクラスターに身を寄せ合う図式をWkiLeaksなどの経営者達は知っている。つまりそういう閉鎖的な送受信という方式が世界中に浸透していることを前提に、そこから情報漏洩を吸い取ることを目論みているのである。閉鎖サークル(ツイッターの常連からミクシーにまで至っている)では基本的に内部のルールに従わざるを得ないが、その閉鎖的な小社会成員的気分とは時として、そこから逃れたいという欲望を産出する。
 それが時として匿名の情報漏洩的誘惑へとネットユーザーを誘う。情報クラスターは万民に等質の情報を受け渡すが、それは事実上一方通行であり、こちらからは特殊情報しか発信して外部全体に価値ある情報として認知され得ないという暗黙のピアプレッシャーが、時として組織、集団謀反的漏洩行為へと誘引する。
 子供社会での自殺は実はこういった閉鎖サークル、例えば小学校六年生の同級生の間だけで過密に送受信の遣り取りを行わざるを得ないという閉鎖送受信クラスター内で身を寄せ合うという日常的習慣化した情報行為によって、そこからの逃れられなさが加速化させている。
 等質情報が飛び交うということと、その情報の存在理由の特殊性という規準に於ける差異、つまり凡庸な情報と、価値ある情報との差異は歴然としており、内実的には自己内に閉鎖空間的にウェブ上で知覚的に対峙している個と、その個をちっぽけで無価値なものへと後退させる特殊情報(例えば尖閣列島中国漁船海上保安庁船への衝突映像とかの)の世界中の市民、ユーザーへの等質的受け渡しという二律背反が次第にユーザーを虚無的気分へと持っていく。
 どんな情報も摂取し得るが、こちらから発信する情報の価値は微々たるものであるという認識を持たずにウェブサイトを利用する者は、基本的に現代社会ではゼロである。この事実こそWikiLeaks等の経営者達の行為を再考する必要へと我々を導く。
 つまり万民に平等に受け渡されるリア充の無化こそが我々の社会を寧ろ自己閉鎖的気分へと持っていく。情報に支配されている気分を例えば全ての2ちゃんねるユーザー、ツイーター達に齎すのだ。ニコニコ動画やYouTubeといったメディアが増殖していけばいくほど、リア充的実感から遠ざかって行く。その情報支配からの虚無的逃れられなさこそが小児自殺やいじめの類発を招聘している。
 いじめは情報送受信クラスターの閉鎖的結社性に依存している。外部の人間、例えば小学校六年A組の生徒の間での送受信は基本的にB組の成員には無関係である。それは大人社会ではイントラネット的な送受信クラスターによっても実現化している。
 しかし事実上B組にも我がA組と等質の情報は受け渡されている。そこには違いがない。しかし自分はA組であるなら、B組の成員へと悩みを仮に告白しても、閉じたA組内での遣り取り自体から解放されるわけではない。それが全て携帯などを使った閉鎖送受信クラスターによって支配されていると、次第に子供社会内ではその逃れられなさを自己内で深刻化していってしまう。
 悩みを外部に打ち明ければ打ち明けるほど四面楚歌状態を招来するのである。
 43歳の航海士による流出映像事件は従って彼本人による孤独な決断であったればこそ実現したが、そのことにより彼は最早組織の成員たることを今後許されまい。つまり外部へと情報を流出する組織、集団謀反行為はその行為によって等質化された情報が外部全体に広まれば広まるほど閉鎖サークルの情報送受信クラスター内部では決定的に非成員としての烙印を押される。
 それは情報自体が一種のサリン的ロールを担ってしまっているということ以外ではない。この情報価値のサリン化の前では我々は既に一個人の情報が齎す結果を常に想定せずにネットを利用することは出来ない。それは閉鎖サークル内であってさえ同様である。そこがリア充的対人関係のクラブロー的性質との最大の違いである。
 子供は大人と違って外部に存在する別のクラスターに自らの意志で参入する機会を作ることが出来ない。その出来なさが自己帰属クラスター内での閉鎖性を人生に於ける全体化してしまう。いじめの本質とは実はこの情報送受信クラスター=閉鎖サークルの成員としての誇り、対外部的差別化の意識が作り出す。
 それは自分自身が公務員であるとか、官僚であるとか、公認会計士であるとか、弁護士であるとかそういう職業意識と等質のものである。人間に帰属意識がないのであれば、一切のいじめも発生しない。いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない。
 繰り返すが大人は仮に一つの情報送受信クラスター閉鎖サークルでいじめに遭っても、それ以外のサークルを掛け持ちすることが可能である。子供にはそれが出来ないということを現場の教師全員が疎いということは出来る。つまり子供は既に認知レヴェルでも思考レヴェルでも大人と等質の情報送受信者であり、クラスター内での閉鎖的ヒエラルキーのネットから自由ではいられないということをもっと切実な問題として現場教師並びに学校経営者達は心得ておくべきなのである。