Sunday, November 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十五章 意味の理由・イコンとしての記憶Part3 友情の起源

 ある意味に対して語彙に当てられている音に対してどうにもしようのないしっくりこなさを感じることは誰しもある。しかしそれはさして重要なことではないとしっくりこなさを感じる当人が判断して言わないでいることが大半である。それを言い出すと笑われてしまうのではないかという懸念がそうさせているとも言える。第一語感というものは意味ほど重要ではなく、それは意味として伝わればいいという形で従属的に考えられているからである。
 しかしそれは理性主義的見解であり、感性的なこととは、ある意味では聞き心地、語り心地の問題だから精神衛生的なことである。それは個人的に皆趣味などをすることによって、社会上での規約との間でのずれの感じを補正している。つまり身体習慣的にもそうであるが、心の居心地感に関してもそうである。
 このプライヴェートなしっくりこなさとは別の語彙に於いては、何て巧くフィットしているのだろうという感激とも組みになっている。そういった言葉の感性を巡る自己内での納得と非納得は、ある部分では親しくなっていく人間関係でのみ告白し得ることである。親しくなると公の席では言うことを憚られることさえ告白したくなる。それを押しとどめているものこそ社会通念だったり、良識であったりするが、意外とこれが学問を狭くしてきている元凶でもあるのだ。
 しかし或いはこうも言えるのではないか。親しくなってきたから公では言えないことでも言いたくなるというのは、実はそもそも親しくなっていく間柄とは、そういった公では言い難いことを言い合えるのではないかという直観的目測に於いてこそ成立し得るのだ、と。
 あるどうしても社会生活上必要な語彙というものはある。それは意味的に必要なのだ。しかしその語彙の語感自体へのしっくりくる感じは人それぞれ違う。だからある語彙の意味に対する音のしっくりこなさに対する共感こそが、我々がAというしっくりこなさに対しては「A」という友人を、Bというしっくりこなさに対しては「B」という友人を我々は必要としているのだ、とも言い得るのではないか。
 従って我々の個人的友人関係とはこの様に前回のA、B、Cとの間の統一基準以前のAにとってのB、Cとの間での異なった接し、異なった基準への潜在的な追慕こそが、知人(それは社会生活上で必要不可欠な意味での公的なこととしてのである)以外の個人的友人関係にも反映していると言える。会社の同僚で妙に気が合う相手とそうではない相手というものはあって、それはそこ迄親しくする必要を相互に感じていないから音感とか語感に就いて迄語り合うことなく遣り過ごされて来ている。しかし会社の同僚とかとは全く無縁の趣味の集いで出来た友人との間で一緒に旅などをすると日頃から感じ取ってきている自らの社会規約との齟齬感、それは語彙の音感、語感によっても今迄本論に於いて象徴されてきたが、それを語り合うことを容易にするし、そういった旅と友情の重なった経験が、会社で今迄一度も一緒に飲みに行ったことがなかったが一度くらいなら一緒に仕事を引けてから飲みに行ってもいいと思わせる。そして行くとしよう。すると意外なことに普段から感じている社会規約との間のしっくりこなさ感に於いて共感し合えるということは言える。
 従って最初は社会成員A、B、Cとは相互にAの前なら言いやすいこと、聞きやすいことというのはある。それは社会的ロールとか立場に沿った個々人間での差異を我々が皆認識しているからだ。勿論ロールだけでなく相手の性格もある。その言いやすさ、聞きやすさ、語り合いやすさ自体が既にある部分ではある語彙の音感とか語感に対する感性の一致への可能性を何処かで信じて語り合っているとも言える。勿論全てが一致する他者など居はしない。しかし何処か一点ある他者と一致しているということだけが交友関係とか社会関係を維持していく理由となっている。だからそれは公的人脈であれ、余暇での趣味の集いでの私的な人脈であれ、何処かで人類が言語を共有していったプロセスでA、B、Cに対して個々異なったこととして抱いた一致点と不一致点という原初的な共感と反感、違和感とが追慕となって我々の全ての個人的人脈構成を成立させている、と考えることは自然である。
 つまり友情の起源とは人類による原初的なA、B、Cという間で共有され得る規約としての統一基準が齎されていく段で、全成員がそれぞれ我慢していた部分での潜在的な不平が一致することによって齎されている、それは要するに公的なこととに対して私的なことを皆内心では持っているということに対する相互に確認し合えるというところから発していると言えるのだ。
 自分の中でしっくりこなさとは公的な場では公言し難いことである。そしてそれは誰にとってもそうである。それを知って居ればこそ我々は個人的交流に於いては非公的なることをクローズアップさせるのだ。それはある部分皆誰しもが完全なる社会的逸脱者、アウトローにはなれないが、本来自己欲求や本能的な社会との間のずれの感覚を野放図に押し広げれば必ずそうなっていくに違いない像自体への回帰的無意識の願望であるとも言える。友情とはその願望を相互に内心では秘めているということ自体への、つまり社会への完全同化し得なさに対するコンプレックスであり、社会規約から解放されたいという無意識の願望、或いは時には親しくなった相手には直に、つまり意識的に告げられるアウトロー願望(それを小出しにしているのが趣味であり、旅行である)の確認が出来るということを前提としている様に思われる。
 従って友情とは社会規約的、公的なスタンダードからすれば必ず何処か一点では(どんなに生真面目な交流であってさえ)社会規約、社会スタンダード遵守性への負の(ネガティヴな)側面での共感が支えていると言うことが出来る。

Friday, October 28, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十四章 意味の理由・イコンとしての記憶Part2

 前回は主に意味的なものとして設定されているデファクトスタンダードであるところの音的な連なりに対して個人内部で抱かれるしっくりこなさに就いて触れた。それは人それぞれ違う。しかし全てに対して我々は齟齬だけを抱いているわけではない。当然これはいける、これはかなりしっくりくるということがあるからこそ、社会成員として我々はまがりなりにも生活を維持出来ているわけである。もし全てに対してしっくりこないのであれば、それは全く言語的に母国語を理解出来ていないか、或いは完全に自閉的性格であり、それは先天的な脳障害であるか、後天的にそういったタイプの何らかの障害を持つに至ったと考える方が自然である。勿論そういう状態になったからと言って何か人間理性の最低限の何かに抵触するかということは全く関係ないと言える。理性とかヒューマニティといったことはそういった社会生活に支障を来たす意思疎通的部分とは別の位相の問題である。
 しっくりくると感じることのまず基本的なこととは共感出来るということである。それは個人から発せられる言葉やその音でもそうだし、集団レヴェルで今よく青年世代の人達が使う語彙に対してとか、世間一般、国家的規模で使用され定着しつつある語彙に対してとかでもそうである。勿論個々にはかつてタモリがテレビ番組で「等身大という言葉とは一体何ですか?」とかなり批判的に捉えていたし、私もある部分では同意出来るが、そういった感覚的にどうしても共鳴出来ないという語彙、言葉の使用され方というものはあるだろう。しかしそういった齟齬感を持っている誰しもが、同時に「それなら分かる」と思える多数の語彙、意味や音を共有している筈なのである。そうでなければ、つまり全てが齟齬しか齎さないのであれば、そもそも何かに対してしっくりこないという感覚は生じようもないからである。
 我々の生活にとってかなり幼少の頃から一種の社会に於ける最大の前提として叩き込まれ、そのこと自体にかなり早い時期から「それは何故だろう?」と疑問を持つこと自体を封じされるものこそ、貨幣経済の日常的な習慣、何かものを買う時必ずお金を払うということである。恐らく日常的社会生活上での慣習であり習慣であることのお金を払ってものを買うという以上のミーム化が徹底されたものはない。
 確かに言葉も極めて重要である。しかしもし只生存していくということだけを考えるなら、ものを買う時にお金を払って物品を自分の所有物にするということだけ覚えておけば、それ以外の語彙を一切知らなくても何とか生活だけはしていける。これは日本人が外国旅行をした時に感じてきていることである筈である。
 寧ろ個々の言葉とか音とかの全ては現代社会では既にこの貨幣経済的社会運営というものを前提して、その秩序内で社会的であったり反社会的であったりしながら、言葉の体系から言葉の体系や社会秩序自体への抵抗とか修正主義的見解とかが発せられる様にシステム化されている、と言っても過言ではない。
 音も意味もミームであるが、それらの意味や音感性を育むものとは社会生活上での基本的なインフラであり、社会秩序が前提して、それを疑問に思うことを封じる慣習がほぼ既に身体的な条件反射にまで還元される様な何らかのものであるとするなら、それは所有という概念、それは住んでいる住居から何から何迄全て個々人が個人としてのアイデンティティを社会生活の上で保証される個人による所有そのものである。あらゆる愛とか正義とか倫理とかいって抽象的概念でさえ、それらは所詮そういった所有ということ、或いは家族関係に於ける親族とか親等とかいった血族関係から血族と他人との関係といったヒューマンリレーションの取り決めとか通念を支える個人という概念そのものが所有という形へと還元される。身体的に朝起きて銀行のATMに直行するとか、夕方には買い物に行くとかいった全てがこの社会秩序に起因している。そういった生活の上で初めて愛とか正義とか倫理といった概念が考える余裕(語の側から言えば考えられる余裕)を与えられている。

 さてここで思考実験をしてみよう。
 我々は一体お金というものを一切使わないで生活出来るのか、ということである。例えばまずお金を使わずに生活する方法を考えてみよう。食料ということを考えると当然自給自足生活をしなければいけないから都市部ではなく農村部で生活する必要がある。只その土地を所有するまでは確かにお金を払ってそこに住まなければいけないから最初にはお金が要る。しかし国民の義務は納税であるから、それを逃れるには一切人跡未踏の地にその活路を見出さなければいけない。衣類や食器を洗うのは全て自然の湧き水とか川によってである。食料は農村開拓することは許されない(未踏地でさえ<静岡県の樹海とか長野県の山岳地帯等>国家か地方自治体所有だから)から採集生活、それ以外は猪の狩猟生活ということが考えられよう。
 勿論電気を使用することも出来ないから夜は明かりを自分で点す必要があり、薪、蝋などを巧く自然から調達しなければいけない。衛生管理的にも家屋をしかも遠くから双眼鏡で国家や地方自治体職員から発見されない様な穴居生活か、掘っ立て小屋を建てるにせよ、森で木々に囲まれた場所の選択も必要となるが故に、北海道などでも都合のいい場所はあるだろうが、こういった生活では癌にはなり難いだろうが北海道では凍傷にならない様に気遣う必要があるし、伝染病などにも気を遣う必要がある。衣類調達も狩猟によって鹿や猪から、そしてそれを縫う為の針等も石器などで作る必要がある。
 これは既に縄文以前的生活である。ここでは同じ様に完全自給生活者たる他者との邂逅なしにはかなり困難である。勿論不可能ではないが、そういった他者を必要とする様に知恵が働く。そしてバーターをして相互の利害を調整していく必要も出て来る。そこでそういった対人関係が形成されるに従って次第に貨幣に類するものを自分達で工夫して作ることとなっていくのだ。勿論現在の日本では一人でならそういったことは可能だし、同じスタイルを脱社会、脱国家的に実践している者同士で結束することが出来ないということを前提したならば、である。もし本当にそういった自給自足者が各地に点在していて、何処かで接点を持ったとして(勿論ウェブサイトなどは利用出来ないから全て徒歩で相互に出くわすしかない)そういった工夫をして全国各地でネット化されていく間には文明社会の人達と邂逅することもあろうし、そこで衝突も生じる。それなしにネット化することは不可能である。全く死ぬ迄文明的進化も持たずに反復生活を一人で行い場合のみかなり可能である、と言える。当然結婚をすることも困難であろう。しかし同じ生活スタイルをものともしない配偶者が居れば不可能ではない。しかしそうやって非文明生活を維持する成員が増えれば増えるほど文明生活者との邂逅機会も増加する。そして衝突も避け得ない。
 人間は脳内思考によって先程述べた様に、文明的な進化を目指す様になっている。従って完全自然バーターはそうする相手が少人数、せめて三人迄であり、しかし三人という数は順列組み合わせでA:B、A:C、B:Cという風に三つの関係を生じさせる。そこで統一基準を必要とする意欲が各成員に生じさせる。何故ならAがBに対してとCに対して同じものを調達するのに異なった量で相手と交渉するなら贔屓ということが生じてしまうが故だ。それはBとCとの邂逅が果たされることによって発覚する。従って最初から三人が同時に知遇を得るのではければ統一基準は最初からは作られ得ない。しかし同時にこの三人の間での関係で二他者の間に対他的な振る舞い、態度、待遇に差異を設けることに、実は資本主義の全ての仕組みが発生する根拠があるのだ。当然BとCのAに齎す物品の質は等量でも異なるし、付随する相手から得るサーヴィス、心づけ的なことも違おう。そこで当然Aは両者の間に差別化された対応をする。それは当然B:C、B:Aでも言えるし、C:A、A:Bでも言える。しかしそこでこの三者が全て相見えることによって、相互利害調整は可能であるし、それに気づく成員は三人の内に一人は居よう。BはCとも知り合いであるが、BのAからの待遇が、Cより劣化したものであることの不平をBがCとAとで同席した時に訴えることによって三者による智恵の出し合いから統一規準案が齎される。そこから当然貨幣的意味合いの経済規準勘案が齎される可能性は極めて大き。人間はまず思考する存在者なのである。

 恐らく言葉の意味や音といったこと、それらの対応などもこの三者の関係に帰するとも言える。AがBとCとで対話する時に使用する語彙が違うことはあり得る。しかしBとCも相互にそうであれば、いずれ三者は全員相互に認知された関係となり、そこで初めて統一基準が設けられることとなる。その必要性はいずれ誰からは齎され、それが言語の発生根拠ではないかとも推察される。
 AはBとCと対話する時一々異なった語彙を相互に使う。しかしそれは三人の内は容易い。それが人員数が増加すれば、せめて三人単位で固まった時の統一基準を必要とする。それが幾つか発生すると、異なった統一基準帰属成員間で一人くらい重複帰属者も登場しよう。するとそこで必ず異なった統一基準の間を取り持つ翻訳者を登場させる。その翻訳者がより進化した統一基準を考案し、この二つの言語統一基準が一個の新しい言語を産出することとなる。こういった連鎖によって国家統一的なことがなされていくというプロセスを我々は容易に想像し得る。
 たまたま文明社会から離反して生活する完全自給自足者による生活への思考実験が、その実現に伴う生活的利便性への追求と進化的プロセスが国家起源的謎の解明に役立ち得る可能性を私は今回示したのだ。
 次回はでは統一基準に対してしっくりこなさ感がある場合どうなるか、ということに焦点化して考えてみたい。

Monday, October 10, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十三章 意味の理由・イコンとしての記憶

 意味の習得は追憶の彼方に後退しているが、誰しもそれを何とか記憶させた経緯がある。しかし全ての意味を我々はすんなりと受け入れたわけではなく、すんなりと理解出来たものからそうではないものまで幅があり、それは個人毎に違おう。それは自転車に乗れる様になった習得期間が短いか長いかの差と共に必ず個人内部ではある。しかしそれは通常公には晒されぬ様にしている。
 だから逆に本当は~と言うのに、何故か自分ではしっくりこないと感じる言葉はあるだろう。

 例えば英語でarrogantを意味する「傲慢な」という語に対して何故か自分ではしっくり来ないでいる者Aがいるとしよう。その者は「ごうまん」という響きがその意味とそぐわない様に思えるのだ。だからある日彼は友人に「ずうでん」と言いたいと言い出すとしよう。「頭殿」とでも振っておこう。彼はその後そのことを告げた友人の前では「ずうでん」とずっと言い続ける。
 しかしそれはあくまで彼にとってのみで、Aから「ずうでん」と言うことを告げられたDにとってやはり友人であるBは「俺ならいっそ、そんな言い方せずに、「らろべえ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。「裸露兵衛」とでもしておこう。そしてAとBの言ったことを更にDはCにも告げるとCは「俺なら「ばるぼ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。取り敢えず「馬留簿」とでもしておこう。
 要するにDは彼の友人A、B、C全てからそれぞれ違う言葉を「傲慢」に当てて、それを一々記憶していなければいけない。

 しかしよく考えてみよう。
 この「傲慢<ごうまん>」という語の意味に固有の音とは、それを習得した後に「そういう感じがする」という感慨を持つのであり、それ以前的なものではない。勿論「傲慢」という語を習得する以前に上から目線で生意気で不遜な態度の者へ何らかの傲慢として意味される感情をある者に抱くということは我々にはあり得る。しかしその時我々はいきなり、そういう態度を「すうでん」と呼ぼうとは思わない。他の何か既に知っている言葉を使って、「でかい態度だからあの人は嫌い」とか言う。
 もし誰しもが勝手にその感情を「ごうまん」と呼ぶことを覚えずに、何か自分勝手に今述べてきた様に「すうでん」「らろべえ」「ばるぼ」などと言い始めたなら、寧ろそれらが纏まって一つの意味であるという了解さえ持てなくなるだろう。つまり実は「ごうまん」という音を通した「傲慢」が存在し得るからこそ、そこから「俺なら「ずうでん」と言いたい」という固有の「ごうまん」という音に対するしっくりこなさが感じられるのであり、その逆ではないということだ。
 第一全ての人が自分勝手に「ずうでん」とか「らろべえ」とか「ばるぼ」などと言い出していたとしたなら、たまたま私達にとって「ごうまん」が生意気でエゴイスティックで不遜な態度であるという意味であるという規約の下で、しかし自分にとってはその音は何故かしっくりこないという固有のずれの感覚、固有のその語を覚えた時の追憶そのものを成立させないままでいることだろう。
 皆が勝手にそれこそ聖書中最大級に説得力を持つ「バベルの塔」建造を巡る神の怒りによって言葉が通じなくなる人々の様に、「ずうでん」「らろべえ」「ばるぼ」etcを言い始めたら、そもそもその元の「傲慢」を意味する意味も定まらず、それらを一々全部友人毎に違う語彙を当てていることさえ認知されずに、全てを各成員毎に違うこととして記憶せねばならず、次第にある語彙の音と意味がしっくりこないという感じ、或いは最初に「傲慢」という語を音と共に記憶した時にあった固有の追憶も成立しないままでいることだろう。つまり記憶する事項が多くなればなるほどある語彙を巡る固有の感情は成立し難くなるからだ。
 
 ある意味ではある感情に対する意味づけが、ある意味につきある音一つにだけ対応するという規約そのものが、それを習得する我々にある語とその音との間に介在してくる固有の感性を育んでいるのだ。この固有の感性は例えば自転車の例で言えば、ある個人にとって乗りやすい様に改良されることはあり得るとしても概ね自転車とはどういうタイプのものでも、やはり同じ自転車である必要があるのと同じである。例えば一人一人の能力や適性に応じてそれぞれ違う乗り物を用意しなければいけないのなら、そもそも自転車が乗れる様になった時、習得に時間がかかったとか然程時間がかからなかったなどの固有の思い出は成立し得ないだろう。
 これは各自使用しているパソコンが違う機種であっても、それらは同じパソコンである限り概ね同じ機能の仕方によって起動しているということと全く同じである。

 或いはこの問題を語彙とか利用されるツールという位相から、もっと記憶の問題そのものへと即応させて、イコンから考えてみることにしよう。
 日本人にとって神社仏閣が存在するのは日常的に見慣れたことであるが、神社仏閣にある賽銭箱、神社の鳥居、狛犬(シーサー)などは概ね同じ形でなければいけない。鳥居がそれぞれ違う形であったなら、そこが神社であるということを了解することが困難になる。或いはそもそもそこが神社であるという意識でそれらを我々が作っていないということを意味してしまおう。
 勿論人それぞれその形が好きであるとか然程ではないということはあり得よう。しかし単純で誰からも記憶されやすい形であるなら、それらは概ね誰にとっても然程違いはない感情を喚起しよう。要は一人一人顔が違う様に、仮に神社の鳥居の形が極めて細かい部分まで規定されていたなら、その形状に対する固有の感情が各自異なった形で立ち現れよう。
 これは語彙の意味と音の対応というデファクトスタンダードの下にその習得を巡る固有の出来事が記憶されることと似ている。神社が誰にとっても即座に「どの神社」でも同じ様な鳥居があることによって、神社に初めて行った時などの思い出が形成されるのだ。もし鳥居というものの基本形状が四つの直線、人がその間を潜り抜けられる様に縦に長い間の開いた二つの直線に、上方に二本の横の直線を交差させ、上の直線を縦の二本の直線を飛び出させないという規約があればこそ何処の神社でもそれは鳥居となるが、もしそれがまちまちであり、一切そういうことの規約が与えられていなければ、我々はそれを只の神社の入り口を示す門の代わりとしか認識し得なくなろう。或いはそもそもそれを神社であるという認識さえ与えられなくなるだろう。建物のデザインだけは全国で統一されているなら未だしも、それさえ統一されていなければ(第一鳥居の形状が統一されていなければ、そこが神社であると認識されずに終わろうから、中に建てられた建物が神社固有のものであるという規約さえ成立し難くなる可能性が大である)神社であるという認識は決して生じない。
 ある場所が神社である為には、その鳥居の形から本殿とかそういう建物の機能が全国的規模で統一されていなければいけないのだ。このことは実に興味深い。何故なら神社とは宗教心によって人々が集う場所であり、それは心の問題だから、人それぞれ心の在り方は違おう。しかしその心の在り方がそれぞれ違うという事実に於いて我々誰しもが容易に集うことを可能とする為に我々はその心を鎮める為の場所が誰からも了解される様にヴィジュアル的に統一された基準、つまりヴィジュアルスタンダードを誂える必要があるからなのである。

 従ってそれはある意味では心というヴィジュアルに在り方を示すことの出来ない代物を敢えて形状的に相互に他者の心を理解することを断念すること、つまりそういった理解を干渉と見做し、不干渉的態度を決め込むこと自体を容認した在り方としてヴィジュアルスタンダードが存在している、ということなのである。つまり神社であるという場所規定を我々に示すデファクトスタンダードは誰から見ても、それが鳥居であるという分かりやすさに於いてのみ成立している。それは説明する時に描きやすいということも言えるし、同時に実際に建造しやすいということも言える。

 これは文字というイコンにしてもそうである。誰からも読みやすく、書きやすいものでなければいけない。すると「傲慢」=「ごうまん」もやはり誰からも、その「ごうまん」という音自体の持つ意味への対応に対して「俺は好きになれない」とか「俺はまさにぴったりだと思う」という固有の感情をその語彙を使用するどの成員にも与えるとしても尚、何処かでは誰からも容易に記憶される音の響きであり、誰もが心に抱く感情であるということがまず前提として必要なのだ。だから仮に私にのみ固有の他の人にはほぼ絶対的に心に浮かばない感情があるとしたら、それは語彙化されずに終わるだろうし、音を我々はその感情に載せようとしないだろう。にも関わらず私はそれを語彙化させたいかも知れないし、それに音をつけたいかも知れない。
 ハイデガーは固有の語彙を沢山自著で作って載せている。これは新たに自分で語彙を作成する必要性を感じていたからである。だが「ごうまん」さえもが極めてある個人のある状況に応じた固有のものであならもっと複雑で長い、例えば「ある者Aが他人と話していて、その他人がAに取る態度の中で偉そうでAはその者にむかつく時に感じる態度」などとなってしまおう。しかし我々はそんなことを一々それぞれの者に応じてすることは出来ない。

 しかしである。或いはそもそも根源的には、そういうものとして「ずうでん」という音、或いは「らろべえ」「ばるぼ」という音が成立しているのだとすれば、或いは「ごうまん」さえ最初はそうであったかも知れないのだ。そうである。「傲慢」という他に対する感情の意味、或いは対自的認識は、誰かが最初「俺はあいつの態度に憤りを持っているんだ。ああいう態度を俺は「ごうまん」と呼ぶ」と誰かが誰かに告げた可能性があるのだ。そして意味とはそういう様に偶発的に誰かがあることやものに対して抱く感情を思い切って誰かに告げたということが発祥である可能性は大いにあり得るのだ。それは最初に鳥居を建てた者がきっと居たであろうということと全く同じ様になのである。

 次回は初発的に何かを提言することと、それに対して多くの人達が賛意を示すことでミーム化されていくことに就いて考えてみたい。

Sunday, October 9, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十二章 慣習化されることの中から時代が読み取れる(様にしている)

 ある習慣は根付くことは、ある部分ではその習慣以外に何かもっといい習慣がさしあたり見つからない時である。それは案外長期に渡って、もっと素晴らしい何か別の在り方が発見される迄そうである。

 徳川幕府は日本史に於いて極めて安定していたればこそ三百年続いたのだ。それはそういった政治、国内統治の在り方自体が、それ以前的な混沌の記憶の中から見出されないということからであった。それ以前では室町幕府もそうであったし、源氏と北条家による統治もそうであった。
 しかしある時期必ずそれらさえ打ち破られる。しかしそれが何時であるかを予測することは難しいし、それは実際にある一部の扇動者によってそうなるとも言えるが、その扇動者を現出させるのはもっと大勢の人達である。勿論日本史の場合、多くは百姓などによる民の生活それ自体を何処かでもっと安定したものにしたいと願っていた公家そして武士による采配によってであったが、それらは公家の社会であれ武家社会であれ、日本全国の時代状況がそう仕向けてきたとも言える。

 では時代とはどの様に性格づけられていくのだろうか?時代とは現代はマスメディアが表層的イメージを提供している様に見える。しかしやはりそれはマスメディア以前的にマスメディアを操作する人達自身に何らかの時代的精神を植えつけられているものがあるということだ。それは一つには経済社会であり、一つには国内の国民の移動、他地域との交流、海外へ旅行したり、海外から来日したりする人達全体の動向によって決定づけられている。そして哲学命題などでは一切時代的な意識を排除して考える傾向が強いが、しかしそういった哲学命題的なスタンスさえ、ある時代に生まれて育った人達によって考えられてきている以上、時代を無視して語ることは出来ない。時代精神は確かに大衆小説の様な形で直接示されることは哲学ではないが、やはり潜在的には濃厚に反映されている。

 例えばかつて隆盛を極めてドイツ観念論哲学などもそうであるが、考え方のモード自体も人類史的には常に大きく旋廻してきたし、徐々にシフトしていっている。今でもそれは全く変わりないし、アメリカ国内でもスティーヴ・ジョブズの死は「エジソンであり、ディズニーでありダヴィンチであった」とアナウンサーによって語られるほどの影響力を持ち得たが、しかしそういった存在はこれからもどんどん出現して止むことはないだろう。そしてどんなに偉大なるカリスマでも百年その命脈が維持されることはないだろう。
 だからと言って一人のカリスマが刹那的存在であるわけではない。そういった意味ではダーウィンもマルクスも現代的視座から見て古典であり得ても、尚何時迄も新たな命題を我々に提出している様な意味でジョブズもそういう風に語られるであろうことは想像される。

 時代を形成するものの正体とは一体何なのだろう、と問うと、それは一つには習慣が定着していくに連れて、慣習化されて、それがいいことであるか悪いことであるかを問うことが不毛であるとされ、慣習化されることによって立ち上がる一つの不動的な期間を時代と呼ぶことは出来よう。しかしどんな時代でも少しずつ生活スタイルも日々の習慣も変化していっている。そして人員も少しずつ新陳代謝して交代していっている。だからある日突然自分が途方もなく老いさらばえていることを自覚した時三十年前と今とでは全く変わってしまっていると気づくことによって時代は自覚されるかも知れない。しかし恐らく一人の人間の中ではたとえ五十年前のことでも鮮烈に記憶されている。そういった意味では記憶の深層に於いて時代は捉えられる。それは即ち時代が公共的なものだということ自体も一つの幻想ではないか、という視点である。

 時代は一個人の中で現象的に捉えられる記憶や習慣と共に、自分なりに各自が読み解くことであると言える。つまり一人一人の人生の在り方から全く異なった時代の在り方が存在し得て、それら全ては否定されるべきものではない、ということだ。だから時代という語彙を我々が使用する時明らかに、恣意的に公共的に一纏まりに大勢の人達が~であったと語るに相応しい素材を探して、あれがそうであると発見したことを論ってそれを時代にしているのである。しかし一群の人達にとってそれは決してメインな関心事ではあり得ないし、そうであった。今多くの人達にとって関心事であることも又別の人達、それは達と括ることさえ意味がないくらいに皆思い思いに違うことに関心を抱いている。ある人達にとって七十年代の日本が転換期であったかも知れないし、ある人達にとっては八十年代、九十年代、ゼロ年代がそうであったかも知れない。
 達と言おうとする時時代は立ち上がっているが、それ自体言語的伝達による恣意的な操作でしかない。

 社会はそれ自体大いなる幻想である。ある日ある人は社会から姿を消す。死ぬことによって。しかし社会全体には殆ど何の影響もない。それはジョブズくらいに偉大な仕事を成し遂げた人であってさえ。
 だから時代とは集団とか組織とか複数の人達による熱狂的気分が作り上げる恣意的なものでしかない。しかしそれに意外と大きく我々は日常的に影響を受ける。それは他者存在が自己に対して圧倒的に数の上でメジャーであるということを誰しも知っているからであるし、そうであるからに過ぎない。だからこそ認識の上では哲学と社会学はずっと対立し続けてきた。しかしそれは案外同じことの中の別々の展開でしかなかったとも言い得るのである。

 確かにマクロ的に言えばPC端末と携帯端末とが併合している時代に於いてPDA端末とタブレット端末の持つ比重が加速度を増して大きくなっていき、次第にPC、携帯両端末の並存から、PDA、タブレット両端末の間に存在する無限のグラデーションの方がメジャー化して、何処かにその理想的不動点を見出していくことだろう。PC、携帯端末共にやがて時代の遺物になっていくことは容易に想像される。
 しかし用途自体はさして変わりなく存在し続けるだろう。その用途の余り大きく変わりなさと、機器の利便性の推移、変化という両義性に恐らく何かがある。それは利便性がある機器だけでなく人員でもそうだし、社会制度でもそうである。
 変わりないニーズがあって、それに対処する為に益々便利なものが作られる。そして便利なものそれ自体によって新たなニーズが産出される。そこで大きく一つの時代の旋廻がなされる、と我々に自覚されるわけだ。

 これは既にリチャード・ドーキンスによって一段階淘汰と累進淘汰という形で示されていたし、それ以前にはスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジによって断続平衡説という形でも示されていた。進化論の問題でもあるし、人類学的なヴィジョンの問題でもある。しかし哲学的には時間というものは何か空間上に配置されたこととは違って、いっぺんに全てを見渡すことが出来ない。全ては記憶に依存している。ここが問題なのである。そして記憶は同じ時間を生きていた人一人一人でも微妙に違う。違う部分の方が本当は大きいのに、あたかも同じ部分の方が大きいものとして互いに語り合ってきただけのことである。

 映画がVシネマによって鑑賞され、DVDによって鑑賞される様になるに連れてかつてあった映画館の存在理由は変質してきたが、社会という一纏まりではそうであっても個人史では違う。変わらずに存在し続けたものもあるだろうし、変わらないと社会ではされてきたことでも個人内部では日毎に変わってきたものもあるだろう。その点で全ての人員に於いて時代とされるものと、自分で時代であると思うものとがずれている。そのすれだけが全成員に於いて共通したことである。何時迄も前時代のある部分に固執する部分を誰しも持っている。そして常に時代の求めるものに只管合わそうとしてきている部分もある。そしてその二つは常に全成員に於いて個々異なるが、異なるとか似ていると比較しようのないこととして密かに感受されてきている。恐らく、あくまで恐らくであるが、それだけが真実であろう。

 どんなに時代を先取りしてきた人でも必ず何処かでは浦島太郎的感慨を抱く部分を発見する。つまりそれこそが時間というものをあたかも、実在するかの様に(たとえ実在しなくても)思わせる何かである。ジョブズさえそれを携えていた筈である。でなければStay foolishと彼が言った筈がない。何かに関心を寄せることは、何かに対して無関心を決め込むことである。それは何かを推進していきつつ、何か推進してこなかったものから逆襲されることである。それはその人にとってどんなに社会的には小さなことでも本人からすれば大きなことなのである。偉大な仕事をした人につき物の後悔や贖罪心理は恐らくあるだろう。勿論それは社会全体からすれば些細なことかも知れない。しかし一個人内部では記憶というものは時代のメインストリームにマッチした形で存在するわけではないので、必然的に時代や社会全体のことなど個的で現象的なこととは全く接合しない形で、ずれはずれとしてだけ個内部では認識され、記憶され続けるのだ。人より遅くやっと自転車に乗れたということは大人になれば確かにさして大きなことではないだろう。しかし追憶に於いては案外何時迄も大きく心の中心に立ちはだかっているものでもあるのだ。

 次回は追憶ということに就いてより掘り下げて考えてみよう。

Thursday, October 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十一章 原点に人類は絶対に回帰しないPart2

 前回触れた市川中車の歌舞伎デビューで一躍脚光を浴びている出雲阿国以来の芸能的原点への我々の注視、原田芳雄の遺作となった「大鹿村騒動記」で紹介された大鹿歌舞伎、小鹿野町歌舞伎などの地域共同体芸能が再評価されていること全ては、実はそれだけ共同体的発想の熱狂が今日行われた小沢一郎元民主党代表初公判に見られる傍聴席での膨張など以外では大半が失われていることの証拠なのである。
 ある意味では貨幣経済が発生した段階から人類は着々とグローバリティへと向けて出立していたのだ。まず言語行為が定着したこと、そして貨幣経済が原始資本主義から中世、近代資本主義を経て現在の世界経済へと発展しているが、その途中でマルキシズムと共産主義が勃興したとしても尚、ずっと世界経済は貨幣経済を基本として営まれてきた。
 貨幣経済の基本は物品の売買であるし、直接売買ではない間接売買という形では株取引がある。
 株取引に於いて我々は株価という間接的なデータを常に参照する。株価が下がった段階で株を買いたいということ、そして株価が最大値になった時に株を売りたいということが、株のバイヤーと株主との間で駆け引きされるわけだ。
 要するに株主は株を最大値の時に換金したいが、その最大値であることを株のバイヤーは見越せば当然買い渋る。従って株の売買は、売る側からすれば一番高値で売りたいが、買い手は出来る限り高値になる以前に買いたいのだ。と言うことはそれ以上に株価が吊り上る可能性に賭けてバイヤーは株を買おうとするが、売る側は一番高値の時に売ることが理想であるということは、売る側も買う側も双方が最大の満足を得ることはないことになる。いずれかが最大の利益を上げればいずれかが損をしている。従って双方が同じくらいだけ満足するには同じくらい双方がやや最大利益より少ない利益で満足し手打ちするしかないということになる。
 それは直接売買でも言えることだ。一番安い時にどんな商品でも購入した方が購買者にとっては得であるが、何時もそうはいかない。日曜必需品はそうもいかない。
 貨幣経済によってどんな地域から来た人に対しても等しく売ることが許され、どんな地域へ旅をしてもそこで商品を買うことが出来るという意味で、共同体閉鎖社会は既に成立し得ようはなく、貨幣経済自体がグローバリズムを志向するのだ。
 
 陶芸制作はかつて納入先が限定されていたので、地方では窯元は職人が国から出ることを許さず、脱走したら罰せられた。隣接する別の共同体に陶芸手法を盗まれることを恐れたからである。
 そこでは当然共同体閉鎖社会が実現していた。しかしそれは基本的に明治期以降完全撤廃される。廃藩置県である。しかし再び道州制への効用も語られ、共同体的発想も地域、地方の時代ということで持て囃されている。しかしそれは完全にかつての共同体に移行することを目指しているわけではない。

 日本国内を円で統一すること、アメリカをドルで統一することなども国内の地域、地方格差からではなく、国内統一貨幣によるグローバリズムの発想である。それは言語的統一と共に進化してきたものであることも了解される。
 共同体回帰はノモスの側からピュシスの側への見直し、統一基準という形でのグローバリティによるアポロン的発想から、かつて在った地域的熱狂という形、つまりディオニュソス的発想の見直し以外ではない。
 それは端的に行過ぎたノモスとアポロンへの地下水脈的なピュシスとディオニュソスからの提言である。
 しかしやはりそれは言語を獲得した段階である意味ではピュシスを喪失した人類による修正主義的な考えであるに過ぎず、完全原点回帰ということ自体が語義矛盾である。貨幣が紙幣やコインではなく貝殻にしたってそれは同じことである。そうなのである。我々が言語を獲得した段階で既にグローバリティへの志向だけが中心化してきたのである。そのグローバリティの中心化こそがあるシステムを固定化することを我々が望んだということである。

 QWERTY配列それ自体の理想的在り方を巡る修正とは、QWERTY配列が完成されることによってのみ 問われ得る。QWERTY配列が決定される以前に色々試行錯誤してそう決定されたのだろう。しかしそれはタイプライターの発案者によることである。タイプライターはある時点で発表され発売された。
 そしてQWERTY配列が規格化された。デファクトスタンダードがそれ以降、だからこそそれ以外の配列の可能性に於いて考えられる様になる。もっといい配列はないものか、と。
 しかし今のところflick入力がPDA端末で採用されるに至って、同一データへ到達する為に唯QWERTY配列ではない形でのバリエーションが出現し、それがアプリ化される。新しいアプローチ方法が出現した時益々最初のQWERTY配列は固定化、安定化、不動的地位性を獲得するに至る。それはピアノやギターの音色以外の音を出せる楽器が開発され発明された時点で、ピアノやギターの音を出す位置の配列は固定化、安定化が齎され、不動的地位性を獲得するのと同じである。

 貨幣経済の場合は固定相場制から変動相場制へと移行し、固定化と安定化自体が不可能化した。しかしその段階で却って円が日本の通貨であり、ドルがアメリカの通過であること以外の規格出現可能性は消滅した、と言える。それは言語で言えばある語彙の定着と言っていいだろう。ある時点から東日本大震災と命名された様にである(それ以前は東北地方並びに太平洋沖大地震などとも言っていた)。
 何物かがデファクトスタンダードへと固定化されることは、何か新しいアプローチが進化した段階であると言えるのだ。
 しかしそれは習慣が慣習化されるという規格化の運命、制度的な決定という事態を必要とするのだ。そのことに就いて次回考えていこう。それこそまさに今回言述しなかったが、カダフィ大佐が国家元首から犯罪者へと世界的に統一されて見做される時点と全く構造的には同じなのである。

Tuesday, October 4, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十章 原点に人類は絶対に回帰しない

 よく今の老人は「貴方も私くらいの年齢になったら、今の私の気持ちも分かる」という言い方をする。日本人は温泉が好きで、それは年齢を経る毎に皆好きになっていくとも言われる。
 私はさして温泉には関心ないし(嫌いではないが)、何が何でも高齢者になったら温泉に行こうという気持ちにはならないだろう。適度に好きで適度に無関心だろうと思う。

 老人になったら皆が皆巣鴨の刺抜き地蔵に行くものだとは限らない。
 例えば私くらいの年齢の人達(私は現在五十二歳だが)から今三十五歳くらいの年齢の人達にとって三十年後、或いは四十年後には案外渋谷の109辺りが同窓会をするのに相応しい場所になっていて、今渋谷は確かに若者の町であるが、ここ十数年の間に渋谷、原宿以外の例えば下北沢とか恵比寿とか大崎が若者の町化していき、逆に渋谷や原宿はかつて若者だった人達の集う街になっていき、三十年から四十年後の日本では巣鴨の刺抜き地蔵はかつて老人に親しまれたということで再評価され、若者のデートスポットになっているかも知れない。
 そういった意味では日本人の心の故郷は~であるという謂い自体は決して不変なことではない。十分年月と共に変化していく可能性はあるのだ。

 歌舞伎界の重鎮である市川猿之助の長男であるが、猿之助がかつての妻(浜木綿子)と離別したことで父子の間柄が疎遠になっていき一般演劇、テレビ、映画で活躍してきた香川照之が歌舞伎界にデビューすることを宣言して話題となっている。芸名は市川中車だそうだ。
 しかしそういう風に歌舞伎のことが話題となるのは、歌舞伎という演劇形態が既に一般的に庶民のものではないからだ。例えばどんなに歌舞伎自体が話題になっても、テレビの午後八時、九時、十時に今ドラマを放映している時間帯に歌舞伎が放映されることはないだろう。
 そういった意味ではかつて新派と呼ばれた現代演劇が一回は日本を制覇したわけで、その常識が覆るには何か途轍もなく大きな演劇娯楽上での革命的出来事がなければならない。

 今現在のPC端末のキーボードはQWERTY配列となっている。これはかつてタイプライターがそうであった配列のままである。この点でもっと左利きの人達にとって利用しやすい配列はないものかという思考実験は多くなされてきた。しかし極めて重要なことは今の配列のままずっと変わらずにきてしまっているので、それを変更することが今更億劫になっているというのが多くの利用者の本音である。つまり一旦慣れてしまうとそこからなかなか離脱し難いのである。しかし勿論それだけではない。何故なら既にPDA端末やタブレット端末が出回っていて、それら全てに付帯しているQWERTY配列をもっと理想的な何か別の配列に移行させるとしたら莫大なコストがかかるというのがメーカーサイドの変更しなさの根拠でもある。でも本当にそうだろうか?

 これは例えば楽器でも同じことが言える。ピアノの鍵盤が今後全く違ったシステムへと変更されていくことはないだろう。それはギターでも同じである。
 例えば今現在の鍵盤の音以外にもドとレとの間にももっと中間的な音が存在し得る筈だと唱えている人達は居る。しかしそれを楽器で表現しようとするなら、既にシステムが確立されているピアノ以外の別の楽器を開発していくなら可能性があるが、ピアノ自体に改変を加えるということはありそうもない。何故ならピアノのシステム自体が既に今迄の仕方で大半のプレイヤー達が慣れてしまっているからである。

 だから逆に何処ら辺迄なら改変が可能で、何処からもう改変させることを不可能にしていくのだろうか?それはまるで支持率を失った内閣が後は退陣を全ての市民が待っている様な状態と、一旦高支持率を確定的に維持した内閣はずっと任期一杯勤まるだろうということとに間の差異の問題でもあるし、カダフィ大佐もかつて外国では国賓クラスの扱いを受けていたにも関わらず、ある段階からは彼自身が南米のある国に亡命しようとして相手国の首脳に打診すると、全く無視されたということに見られる様な外部からの見放しということが顕在化していってしまうその臨界点とは一体何なのだろうかという問いでも言えることである。

 例えば日本人にとって伊勢神宮などは心の故郷と言われても、巣鴨の刺抜き地蔵はそこ迄は一般化し得るとは限らないと言えることの差とそれらは同じなのだろうか?

 再び芸能の話に戻ると、確かに全ての大衆演劇は原点としては歌舞伎があるのだろう。それに対して能や狂言はややそれよりはハイソサエティ的立場にあるとも言える。しかし全ての大衆演劇が必ずしも歌舞伎という原点に回帰するとは限らない。或いは演劇の全てが能や狂言に回帰するとは限らない。否却って益々原点から遠ざかっていく可能性さえある。
 例えば哲学ではギリシャ哲学が元祖であるとされるから、皆が皆原点回帰してソクラテス以前に戻るということはないに違いない。寧ろ原点とは既に皆がそうであると知っているが故に最早回帰する必要性さえないと認識しているものでもある。

 音楽で言えばアフリカの楽器が原点である故、打楽器であれ弦楽器であれ全てアフリカの民族楽器に現在音楽が回帰する様にはとても思えない。
 すると何故時々全ての分野で原点回帰ということが唄われるのだろうか?その根拠を問うてみる必要があるかも知れない。よく原点回帰すると言われるのは、ある世界であらゆるムーヴメントが錯綜して、次第に一体何処に本流があるのか見え難い状況になった時かも知れない。
 しかしギリシャ発のヨーロッパ金融危機、信用危機問題では、ではだからと言ってマルキシズムを復活させようという形にはならないだろう。勿論部分的には金融資本主義への見直しは盛んになるだろう。しかしグローバルエコノミーの構造全体に波及する改変では余程のものでない限り採用されないだろう。資本主義自体が既に初期発生期のものとはかけ離れてきているし、全ての経済をバーター交易に戻すことも出来ない。
 ならばいっそ全ての国際法を放棄するという方が未だしも可能性がある。勿論それは完全なる世界的規模のアナーキズム的発想である。もしそうしても恐らく世界の交易秩序はさして今の姿を変わらないだろうと私は予想するのだが。この問題はそれだけで一度徹底的に思考実験して見る価値がある。
 
 纏めよう。巣鴨の刺抜き地蔵に老人が常に集まるという習慣は恐らく日本人の精神的なイコンとして伊勢神宮があり続けるということよりは安定性、不動的地位性という意味では浮動的であろう。それは渋谷109が若者のスポットであるということもそうである。今皇居がある場所が五百年後も同じ機能であるということも浮動的ではある。又京都御所が五百年後にやはり天皇陛下と皇室一族の住まいであることの方が東京の皇居が皇居であり続けるよりは不動的地位性では確固としている様に私には思える。
 ピアノやギターは音を出すシステムが今後変わることよりは、ずっと新しいピアノやギターを改善した楽器が編み出されることの方が可能性としては高いし、しかしその楽器が今ピアノやギターが得ている地位に就くという可能性は半々だと言える。
 今ニューヨークを発火点に全国的規模でウォール街批判が火を噴いている。この様なムーヴメントはこれからも多くなるだろうが、アメリカが共産主義国家になる可能性は極めて低いだろうが、世界的規模で資本主義システムに改変が加えられる可能性は高い。
 そして資本主義も原点に戻ることはないだろうし、演劇や芸術も原点回帰をしないだろう。そうである。人類はそう安易には原点回帰しないのである。回帰というスローガンを持っていても、それは歴史的に遡行することでは決してないのである。それは何らかのムーヴメントを構築する為の一種の戦略なのである。歌舞伎が完全に日本の茶の間にテレビで放映されることはこれからもないだろう。だからこそかつて鈴木清順監督がフィルム歌舞伎という形で浪漫三部作を創造し、一つの話題となり、世間に印象付けられたのだ。

 不動的地位性、安定性ということはどの様に決まるかということを次回は考えていこう。それはある部分では改変させることを諦める意思決定の合理化が多くの人達によって合意されることによってである。それはあるシステムに人々が安心感を得ることによってである。しかしそれでも長い年月で徳川幕府も発足後三百年後には大政奉還した様に、完全不変であるわけではない。そのかなり長期に渡って変わらずにいることと、ある時点からそうでなくなることを決めるファクターに就いて、そして未来永劫変わることなくあり続けることで別段困らないことと、そうではなくそうであるが故に滅ぶ可能性のあることをそれぞれ考えてみよう。
 

Sunday, September 11, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十九章 表現のリアリティと日常的態度と構えの変質に就いてPart1

 若い頃から詩人としても活躍してきたという映画監督の園子温氏はテレビインタビューで絶望を描こうとしていた映画のテーマを急遽最後に希望を持たせる内容へと変更させたと最新作に対するコメントを述べていた。希望を持たざるを得ず、生半可な絶望が一切リアリティを失ってしまったという弁は「絶望が希望に負けた」という氏の表現によく言い表されていた。
 現実世界での圧倒的リアリティが表現者に表現する際のモティヴェーションに於いて決定的な強制力を持ってしまうという現実をまざまざと見せ付けられた思いを感じずにここ半年を過ごした日本国内在住の日本人、或いはそれ以外の民族の表現者達などいはしないだろうし、又そう感じずに過ごした人達が居るなら、そういった人達が表現者であると言えるのかと私が言うとしたら、それは余りに教条的物言いであると言えるだろうか?
 確かに哲学者であれ科学者であれ、今回の震災が精神的に齎した影響は決して小さくはない筈だし、それはそれ自体が自立したものとして職業的使命とは別個のことである、と理性では割り切っていても、生活者としての感情からはそうは行かないという面も否定出来ない。
 
 確かに時代性という意味では映画監督も脚本家も、小説家も詩人も、劇作家も役者も等し並にあるモティヴェーション上での規制を受けてしまうということは否定出来はしない。
 東浩紀による文学評論世界での展開がゲーム的世界でのリアリティに侵食されてきているという主張が「動物化するポストモダン」や「ゲーム的リアリティの誕生」でなされてきた時代背景には確かに時代的な閉塞感が在った。しかしそれは今年あった未曾有の自然災害による有無を言わせぬ生活者に押し寄せる力とも少し違った。従って引き篭りという精神的疾病的現実が問題化された背景には対人関係という軸が中心に位置していた。
 しかし自然災害はそういった精神的サヴァイヴァル以前的な意味で物理的にサヴァイヴァルしていかざるを得ない真の意味での緊迫感と絶対的臨場感、現実的強制力がある。
 未だ都市機能が回復していない箇所は数多く在るし、商店経営者達が一時帰宅してみると、商品が略奪されている現実も当然あるし、テレビでも連日報道されている。被害に遭われた家族の方には誠にお気の毒としか言い様がないし、生活上の救援がなされて然るべきである。
 しかしある日突然全ての家屋や財産を奪われて辛うじて生命だけは助かった放浪者にとって見出された商店での食料や飲料を生命をその時点で維持する為に必要であるということは倫理命題以前的な問題ではないだろうか?事実家族全員を津波で目の前で失って茫然自失でいたとしても尚居住家屋が抽選とかで当たって生活していられる人達は只生活しているだけであっても、記憶迄失われるということはないかも知れないが、全く財布も貯金も底を尽きて徘徊している人達の中にはきっと記憶喪失になっている人達も居るに違いない。

 さてそういった圧倒的現実の猛威に於ける表現者のリアリティとは平時のそれとは比較しようもない程変質を迫られるということはよく了解出来る。そして詩人はそういったカタストロフィに直面した人間の精神に肉薄しようとし、心理学者や哲学者もそういった非常時での人間精神の在り方を問おうとする。映画監督や劇作家や写真家はまさに現実に起こってしまって、今も尚起きつつある決定的な無秩序地帯と化している東北地方を中心とする都市や村落の現実に対して、一切目を瞑り耳を塞ぐことを潔しとしないという心の在り方は理解出来るし、当然であろう。
 その意味では引き篭り的精神疾患的な対現実的精神の持ちようというリアリティはかなり大きな打撃を蒙り、対他的に説得力を失っている様にも思えるし、それは事実であろう。

 しかし一方こういった悲惨なる自然災害的な現実を前にしても当然心の持ち様自体は各人各様であるということも間違いないだろう。
 例えば非常時に於いて仮住まいで夜一人寝る時にラジオを耳にDJの語りに癒される人から、クラシック音楽、或いはポップスの歌に癒される人達、或いはクロスワードパズルをすることで心が沈静化する人達、数学の数式を解くことで癒される人達、絵画作品を鑑賞することで心を平静へ保つことの出来る人達といった様に各人各様であることは、こういった状況でも変わらないのではないだろうか?

 平常時に感動したもの全てが白けて一切の感動を呼び起こさないという虚無感、今の今迄震災という現実がなかった時にはよかったと思えた全てが白々しく、説得力を失ってしまっているという現実の絶対的リアリティによるフラッシュバック状態から脱却出来ずにいる状態自体も決して否定出来はしない。しかし同時にこんな物理的状況であり、時代的状況であり、世相であればこそ、平常時に感動した心の在り様をもう一度取り戻して、ああいうことが一切起きなかった以前の状態で感じた感動を取り戻すということも必要は作業ではないだろうか?

 何時聴いてもバッハやベートーヴェンやブラームスの音楽は心を癒すし、思索や思念を深めるとも言い得る。偉大な文学や哲学、演劇、絵画等美術、或いは建築の美に心酔する心の在り方を希望の光として認識することは決して悪いことではない。
 リアリティを失ってしまったことへの意志的な復権作用も必要ではないだろうか?
 精神分析や哲学という心への透徹した眼差しを要する学問に於ける一つの時代現象として引き篭もりやオタクといった社会事実は認められるだろう。勿論幾分それ等が席捲した時代の効力はそれ等からは失われることは致し方ないと言えるだろうが、その問いかけの全てが無効化するわけではない。そういった問い掛けは実は引き篭もりとかオタクといった語彙のなかった1970年代迄にも寺山修司などによって問い掛けられていたとも言えるし、映像世界でも寺山は活躍したが、同じく映像では鈴木清順や大島渚、篠田正浩、深作欣二、岡本喜八、五社英雄、神代辰巳、藤田敏也、黒木和雄、若松孝ニ、和泉聖治、工藤栄一、村川透といった人達によって営々と描かれてきた。又現在でも前記の何人かやその他その時代の人達によっても、或いは河瀬直美の様な後続世代の表現者達によっても受け継がれてきている。そしてそれ等の文化遺産や問い掛けられてきた問題意識は消滅しているわけではない。
 それは金子みすずの詩が今もって尚、我々に対して変わらぬ命への賛歌を訴えかけてくれると我々が知っていて、そしてその自由で瑞々しい、そして平明な韻律とフレーズ自体に寧ろこういった悲惨なるカタストロフィに直面しているが故に我々の精神は呼び覚まされることを渇望している、とは言えないだろうか?

 相田みつをの詩と絵でもそうであるし、棟方志功の板画もそうである。私達の心は常に彼等の持ち得た精神の妙を理解することを欲しているのだ。

 ある部分ではかつて安部公房が描出した記憶喪失者的徘徊は現実に起きつつあるし、それ等は既に表現世界の観念的リアリティから直前に散見され得る現実の絶対的リアリティへと変質してしまっている。「燃えつきた地図」や「砂の女」のリアリティは恐らく我々が東日本大震災を経験する以前に持っていた質とは決定的に異なってしまっていることだろう。それはそれでいいのだ。
 問題なのは、その変質という事実に我々自身がどう向き合うべきか、ということである。寺山の「田園に死す」或いはそれ以前の「書を捨てよう、街に出よう」がある時代に持っていた時代的リアリティと精神の構図を、では今現在3.11以降に我々自身に降りかかる全ての現実の中でどう捉えなおし、そこにこれ迄と全く変わらずに我々の心の中に巣食い続けてきているものと、今迄は全くなかったが3.11以降に決定的に居座り続けてきてしまっているものとがどう折り合いをつけて我々の心に共存しているかを見定めることを通して、我々は表現者としてでもいいし、思索者としてでもいいし、科学的分析者としてでもいいのだが、その日々織り成される行為の意味づけをしていくか、ということが精神の上でも現実世界への投企という意味でも求められているのではないだろうか?
 
 私自身は然程若い世代には属さない人間であるので、もう少し時間が経ってから一度真剣に被災地にも訪れ、現地で復旧作業に勤しむ方々にとって迷惑のかからない形で、足手まといにならない限りで私なりに出来る作業を現地で行いたい、と今は考えている(然程遠くない将来に挙行しようとは考えているが、正確な日時は決めていない)。その被災地行きに到る迄私は私自身の精神の構図をこの五十年とちょっとの人生の中でどれくらい今現時点での私自身の生きている者としてのミッションで位置づけられるか、ということが実際に被災地に訪問する時に役立ってくれるのではないか、と考えている。

Wednesday, August 17, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十八章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却Part2

 前回のことを踏まえて纏めてみると、我々は死者に対して絶対的他者として生者と区別し、端的に死者を差別することによって逆に生の事実を辛うじて実感している。つまりそれだけ生は生き生きとしたものでは既になくなっている。死者を出した悲惨な事故や災害を報道することによって、それを視聴する側の全ての生者が未だ自分達は死んでいないという事実を改めて自覚することを促す装置としてマスコミ、マスメディアは存在する。

 しかしその事は一方では死事実に向き合わず、生を「死ではない」という形でしか単純に理解出来ないという我々の惰性的思考傾向に対する無反省性を際立たす。要するに我々は死者に対して気の毒と思い、死者の死事実を報道し、弔う。しかしそうしながら、ではそれに比べ我々の生がどれだけ有意義で、又存在理由からして死ではないということの感謝や生存の価値を見出しているかというと心もとない。つまり我々はある部分では用意周到に死事実に意識の上で向き合わず、真摯に問うことを拒否しているが故に、却って死者に対する憐憫を持つ様に馴らされているのだ。我々は生が死より一層価値と光を放っているということを確証出来ないが故に、却って死者に対する挽歌と憐憫を積極的に行い、死を遠い事実として思考の上から出来る限り葬り去ろうとしているのだ。

 我々は死者を我々とは遠い別の絶対的他者であると見做すことによってのみ、生を輝かしいものとして自覚出来るのであり、それは即ち生に対する絶対的肯定とか絶対的死に対する優位を確証しているのとは違うのである。つまり生の意味と理由、根拠を我々は誰も実は理解していないし、それを他者に説明することも出来はしないのである。
 だからこそ絶対的他者は自己の中に巣食ってもいるのである。つまり自己の中の絶対的他者こそが、生を闇雲に輝かしい、生まれてきてよかったと思い込み、死を忌避すべき事実として葬り去っているだけなのである。
 ではその絶対的他者とは一体なのだろうか?


 それは端的に私が一人で生きているのではない、という外部から押し着せられる一つの事実への認知である。
 社会は確かに一人で生きているわけではない。途方もなく大勢の数え切れない人達が犇き合って生活している。その中の一個の個人であるという意識を介在させずに社会と関わり生活している者はいない。つまりその事実、そして誰しもがそうである中のたった一人の自分という意識こそが自己内に巣食っている絶対的他者なのであり、それが自己を監視しもするのである。
 モラルも反モラルも、常識も伝統も通念も世間知も全て言語習得以降の慣習的、習慣的な事実であり、それは言語的思惟や言語共同体成員として同化せざるを得ない形で我々は自己行為を考える。その考え自体を支えるものとして私は絶対的他者を自己内に設定したのである。

 これは見えない形で自己行動を縛り、他者への眼差しを注がせる。だから或いはこの絶対的他者こそが我々に「取り敢えず」生は死より尊く価値があり、死んだ方がいいという想念を生の価値の前では邪念にしているのである。
 人類以外で弔いの習慣を持つ者は哺乳類ではゾウであると言われる。或いはイルカ辺りもその様な習慣があるかも知れない。そしてネアンデルタレンシスはそういった習慣があったればこそ我々と同じ人類の一部として理解されてきたし、最近では彼等と我々とは異なった種であると完全には言い切れないことも報告されている。DNA解析レヴェルでもそうであると言われてきている。
 デネットが「解明される意識」でも「解明される宗教」でも葬儀と埋葬の習慣を我々が持つことを、他者に対する慈しみ自体が、自己の身体が死して後邪険に扱われたくはないというある部分では自己本位の感情がそうさせている、という見解はロバート・トリヴァースによる戦略的互恵的利他主義の理念からも大いに啓発されているところはある。しかしやはり哲学者としてのデネットはそれだけでなく、イコンとしての身体、我々の生きた肉体という発想を持っているのだろうと思う。
 デネットに葬儀と埋葬の習慣を持たせるものとして絶対的他者を考えることは出来る。それは死者が絶対的他者であることが、実は死して生きているのではない魂となっている状態に対する無条件の尊崇の念が逆に自己内の自己に対して取らせる他者や社会全般への態度や行為を規定する価値的、モラル論的正義論的水準の尺度こそ絶対的他者であるとすれば、それは集団的和合、集団的同意という事実への無視出来なさ、というもの以外ではないだろう。
 それはだから却って完全なるアウトロー的生活を余儀なくされている成員にこそ切実に自覚されることでもあるのだ。例えば日本人は世界の民族の中では明かにそういった要素がある。

 或いはそうなっていかざるを得なさから、そうなっていきたくはないという願望の全てがこの自己内第三者的視点の不可避的導入とも言える絶対的他者の巣食わせに由来していると言える。
 だからこの絶対的他者的意識水準を維持しているという自覚がある限り、我々は何処かでは自分の死後も弔って貰いたいし、貰えるだろうという目算に於いてのみ、社会成員として他者を死を無碍にすることは出来ないと心に留め置いているのだ。
 死者が絶対的他者であるのは、如何なる成員であっても、死して生者全体から離脱することで、生前如何にエゴイスティックであった様な成員さえ生者を特権化された存在に押し上げることで、しかしそれは儚い夢の様な時間でもあることを承知で、年配者が若輩者を激励し、生の共同体の奉仕することを尊いとすることで成り立つ社会成員全体の有様を何処かでは死者が見守っていると思いたい我々の想念傾向に由来すると言える。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十七章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却

 第六十三章で述べた死事実に対する忘却は他者の死の悲惨、突発的な予測不可能性によって逆に支えられている。
 
 今日もニュースで静岡県浜松市天竜川下りの船が転覆して七十代女性と六十代女性二人が死亡、そして八十代男性、船頭の人、そして二歳の少年が行方不明であることが報じられた。しかし我々はこういった突発的事故(事故とは常に突発的である)の前でそれが台風の時であるとか激流の時ではないにも関わらずほんの偶然的な事態の到来によって突然命を奪われる方もいると感慨に耽る。

 しかし実はそういった突発的な他者の死を確認することが出来るという事実への自覚、認識、認知自体が我々自身がこちら側で生きて生活していけている、と実感させ、そのことによって死事実が自分にも遠からず必ず到来すると知っていて、それを忘れようとしている。
 つまりそうやって死を受け入れる準備をせずに、自分自身が生きているという事実の方を寧ろ大きく意識に介在させることで、却って自分自身の死さえ突発的である様な最期を招聘することとなっているのだ。死んでみて生きてきた間の出来事全部が実は夢であったという胡蝶の夢の様な説話を生み出す背景はその死事実の忘却に安穏と乗っかって、そこに出来るだけ疑問を抱かない様に心がけているという我々の日常的行為事実があるのである。

 夢を見ると必ず知人も登場する。しかし印象に残ったテレビの画面を通して観た人物も登場するし、かつてお世話になった人、そして最近知り合った人とかが同じ状況で登場する。彼等には個々は全く何の関係もないにも関わらず「私」の記憶と私の認知によって彼等が私の脳裏では同一地平上の存在なのである。
 だから覚醒していて日常的に仕事をしたり食事をしたりする場面での生の時間だけが「本当の時間」であり、睡眠していて見る夢の時間が虚の時間であるとも言い切れないのだ。つまり実はそちらの方こそが「本当」の「私」の時間であり、そういった眠っている間に見た夢のことなど露ほども他者には気づかれぬ様に済ました顔をしている時間こそが虚であるとも言える。
 すると哲学的独我論、独在論にも俄然説得力が出て来る。つまり夢は必ずしも突発的ではないのだ。只死のみ突発的なのだ。そして生の中で挿入された死は意識を失っている睡眠の時間である。夢も見ていないノンレム睡眠時間である。
 夢は何処かで前に観た夢の記憶も脳に残存しているから、関連性があるし、繋がりも必ずあるのだ。しかし覚醒時の日常の方が必ずしもそうではない。寧ろ仕事とか会う顔それぞれに違う対応をしている時間の我々は却って全て虚的な心理で通している。そこには純粋に我である必要すらない。だから案外死事実への忘却を作っているものは覚醒時の会社や通勤電車の中での私達の方ではなく、各自睡眠時に見る夢の中の私達なのかも知れないのである。
 つまり意識を失っていても尚何らかの内容が夢の中で展開されることをもって、我々は却って死から遠いと自らに言い聞かせられるのだ。しかし通勤電車や会社で見せる公の態度を取る時間の方の私達は却って死に慣れてしまっている。本音を只管隠蔽することだけを心がけている(それが全く出来なくなった時かなり深刻な精神状態であるとは言える)。

 だから生とは死に慣れることをもって、公の職務や顔を維持することを社会が我々に強制し、しかし睡眠時にのみ我々は我々を我々自身の公の姿を作っている意識から解放させるのだ。又そうすることによって実は生がある日突発的に消滅する死の突発性自体の避けられなさに対して、その恐怖を紛らわさせ、要するに死事実を忘却出来なさを実感しているのだ(その証拠に夢を見ている時の半意識の方がずっと死への恐怖を強く私は感じる)。つまり夢とは生への未練が見させているとも言えるのである。

 私達が生きている間に経験する実際の死は全て他者の死である。人事なのである。否そうであるしかあり得ないのだ。自分の死はある日当然向こうからやってくるが故に、避けられない事態であるし、又その時期が何時であるかを我々は予測出来ないのである。
 だからこそ他者の死を沢山認知することでその恐怖から逃れているのだ。

 確かに東日本大震災に於ける死者の数はトータルなものではなく、一個一個の死自体は数えられないものであるという謂いは既に言い古されている。誰しもが悲惨な大事故や大災害の時に使う。しかしそれはそう言いながら実感からはやはり遠い。何故なら全て他者の死に就いてだからである。
 実は自己の死とは恐らく生きている間に感じる、生きているが故に恐怖する死への感じとは違うものだろう。全ての生きているのに必要な力が失われることなのだから。それは恐怖とか未練とかそのものを一切必要としない何かもっと全く別の事態なのである。

 だから寧ろ他者の死はそれがとりわけ自分の生活に密着している他者の死であるなら、それ迄ずっとその者と共に過ごしてきた生の中の時間が失われていってしまい、その時間の追憶を出来るのがその者との間でのことに限って完全に自分以外誰もいない、ということから、やはりそれはある自分自身にとってかけがえのない「ある自分」つまりその他者にだけ示していた自分の死以外ではないのだ。このことは別ブログ(このBlogger)「死者/記憶/責任」で既に述べたことである。
 しかしこれは常に別の形で述べ続ける必要を感じることなのである。つまり他者の死とはそれ自体その他者が生きていた時間を自分が知っていて、共有していたという事実に対する認知なのであり、その時間の共有者の死とはある意味でその時間を共有してきた自分の名実共に消滅する事実への覚知なのだ。それは只単に自分も何時か同じ様に去っていかねばならない、ということだけではない。
 寧ろ死ぬ瞬間迄ずっとその共有した事実を忘れずに生きていくことに対する予想から生まれる途方もない憔悴感を含んだ行く末の不安以外ではないのだ。それは親しかった者との間で特にそうなのである。

 だから逆に全く見ず知らずの人の死とはそれ自体どんなに美辞麗句で「一個の死は数ではない」と言っても、その言説吐露事実自体が既に欺瞞的な彩りを隠せないのだ。何故ならそれはやはり歴然と知らない人の死であるからである。だから本当に切実な自分が愛する者の死を経験した者は死者の数を数えるという行為自体の批判的言説として「一個の死とは数ではない」などとは言わないに違いない(勿論人によるということは言えるのだが、一々他者の言説へ批判を加えることはある程度切実な死別へ遠いということを意味する場合は多い筈だ)。

 つまり親しい者、愛する者との死別は全く違う次元の問題であればこそ、逆に他者の死はやはり見ず知らずであれば数えられてしまうのだし、これは残酷であるが我々の生きているという事実に於ける真実である。

 又死んだことで救われる生もあり得るということを我々は驚くほど問わない。勿論突発的な事故によって命を奪われる場合はそうではない場合も多いだろう。しかし生きていれば全て幸福であるという観念自体は全く無反省的な認識でしかない。
 他者の死という事実に対する安穏とした一々憔悴しなさこそが、逆にいざという時自分にとって切実な他者や愛する家族の死に対して毅然としていられる様にするのだ。そしてこれは死事実に対する慣れを何処かで受け入れていくという無意識の決意である。
 それは死を異様に悪と決めつけることで喪失する生への未練の過剰自体から解放されるという認識に対する見直しに他ならない。
 死は歓迎的な事実ではない。しかしでは生が必ず歓迎すべき事実でしかあり得ない、と誰が明言出来るのだろうか?
 我々はその意外と重要な問いには常に眼を塞ぎ耳を塞いできたのである。

Tuesday, August 9, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十六章 資本主義社会の矛盾点としての金融システムの崩壊

 世界同時株安は実は既にリーマンショックの時点である程度予想し得た。つまり金融システムは日本ではバブル期に大勢の芸能人、スポーツ選手、ビルオーナーなどに対して行った信用取引等の勧誘によって、バブル崩壊後多額の負債を抱えた株主達を沢山作った。しかしそういった時でも実際に株取引等を一切行わない日本人は大概が、そういった取引きを迂闊に行う者が悪いのだ、とそう捉えたし、今回の金融危機でもそうだろう。それはとりわけ国家公務員や地方公務員などの職種の人達(とりわけ官僚などの高学歴者)、或いは地方都市に於いて小売商等を経営する人達に於いて顕著に見られる傾向である。
 しかし実際金融システムはそういった大手企業等の株主達だけでなく、大勢の小口投資家達(そちらの方が頭数はずっと多い)によって支えられている。
 しかしにも関わらず実際に世界的規模の金融システムが崩壊の危機に晒されると、途端に政府もそういった小口投資家達の被害は切って捨て、要するに大企業の救済にだけ乗り出す。民主党政権によるJAL救済などもそうであった。
 つまり資本主義システムに於いてとりわけ金融システムはそういった本来なら頭数的に最もそのシステムを支えている人達をいざとなったら切って捨てるという冷酷な合理主義によって支えられているのだ。

 例えば今回イギリスロンドン暴動で、北部エンフィールドのソニー倉庫が暴徒達によって炎上させられても、多くの日本人は仮にそうなったところで、イギリス政府なり、イギリスのソニー関係者達によって賠償責任がなされる、とそう安易に考えるかも知れない。しかしそういった時イギリスのソニーにこそ投資している個人の投資家も必ず日本人も含んでいて、そういった被害に対しては眼を瞑るのである。
 これは昔GNPと言っていたところをGDPへと移行させたところで、国家主義的発想という意味では何ら変わりない。
 本来資本主義は国家レヴェルではなく個人レヴェルで幸福を追求するものであった筈だ。しかし実際に蓋を開けてみると、アメリカでもリーマンショックの時もサブプライムローンとかで結局大勢の低賃金労働者達が辛酸を舐めさせられた。
 つまり自由主義の御旗である個人の幸福追求が何時の間にか、政府直轄的管理ビジネスに於いて四捨五入させられ、弱者切捨て的発想になっているのだ。この点でも官僚や公務員は然程憤慨しない。彼等は国民の税金によって生活が生涯保証されているからである。

 日本のソニー倉庫炎上のニュースと同じことが韓国企業で行われ、それが韓国国内で報道されたとしよう。すると恐らく多くの韓国人は反イギリスデモをして騒ぐであろう。日本では既にウルルン島に入国拒否された自民党議員が三人いて、しかも独島と韓国側から呼ばれる竹島が占領されていても、然程怒り心頭に発しないまでに、そういった意味でのナショナリズムはすっかり白けきっている。しかしにも関わらず個人投資家達の金融危機に於ける悲惨には眼を瞑り、あくまで大企業を救うことだけを考える。
 これは資本主義、自由主義の理念である公平の原理に於いては甚だ矛盾した態度である。

 ライブドアショックの時も、辛酸を舐めさせられたのはあくまで個人の投資家達であった。しかし日本のマスコミはほとぼりが冷めたら、堀江元社長を又テレビに出演させたりした。
 世界同時株安の憂き目に一番大きく遭遇しているのは個人の投資家達である。これだけは間違いない。そして実際理念上では資本主義とはそういった数多くの個人投資家達の苦労と、犠牲の下に例えば政府も、国家も守られているのである。もし彼等が(恐らくバブル期でさえ)信用取引などをして、多額の借財を背負わずに済んだなら、今日の様に数多くの大企業が生延びられなかったであろう。勿論幾つかの大手金融機関は失われた十年の間に倒産もした。
 しかし一部では韓国には未だに残存している個人の内部に燻るナショナリズムは、少なくとも今の日本では希薄である。それはある部分では韓国より日本の方がソフィスティケートされた国民性であるということは言える(韓国では結婚に関しても家柄とか縦の系譜を異様に重視するが故に決して自由ではない)が、同時に個人の幸福より国家全体、政府による大企業優先主義的な救済措置のみを望む体質に関しては韓国や中国の人民による極度のエゴイズムに見習うべき部分はある。

 恐らく領土問題でも尖閣列島にせよ(ここも中国の脅威に晒されている)明確に日本の領土であると主張し中国の覇権を阻止することも出来なければ、北方領土にせよ、今後余程のカリスマティックな政治家が出現しなければ決して戻ってくるということはないだろう。
 日本とアメリカに共通する資本主義社会に対する個人の対処の仕方の弱点は、メジャーな存在を救い、個人が犠牲になることを致し方ないとソフィスティケートされた民主主義的ナショナリズムで変に大人な態度で我慢してしまうところなのである。しかし実態としては大企業内部で多くの責任を取るべき罪悪のある人達を逆に個人を犠牲にすることによって救ってしまっているのだ(韓国だったなら死刑判決が出ても可笑しくない人達である)。この点ではアメリカの十年前の方がずっと進んでいた。かなり大勢の金融家達を刑務所でと送り込んだからだ。今後のアメリカ国内での責任問題に私は注目していきたいが、かなり国内世論も二分していくのではないだろうか?
 又何か報道されたり、分かり次第このことを取り上げていきたい。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十五章 老いることを許さない社会Part2

 今日本では(外国は一体どうなのだろうかとも思うが)、毎日電車への飛び込み自殺が行われている。毎年三万人以上の自殺者を出し、その数はずっと交通事故死者より上回っている。
 これ等の遠因として私は日本国内にある全ての電子機器メーカーとそれを後押しする政府の施政方針にあるのではないかという考えを抱いている。

 前章では震災時等でも活躍してきたツールの利便性から万人にとって一部のエリートやインテリ達だけが社会の推進役となったり、オピニオンリーダーになったりする時代の終焉からポジティヴな面から現代社会を捉えた。
 しかし今回は逆のアプローチを試みてみよう。

 まず一日の内八時間余りをデスクの前にあるPC端末の経理処理や外部からの情報摂取に追われている業務の人達にとって、より反射神経とPC画面への集中力を求められ、それは次から次へと若くて頭脳明晰な社員を入社させる方針の一般企業にとって恐らく青年世代でもそれ等機器を充分使いこなせる人達は一部であるだろうが、そういったエリートを入社させ、あらゆる業務スピードが劣化してきた年配者員をリタイアさせる方がずっと企業利潤と収益アップの観点からは合理的であろう。
 それは青年世代にはより一部のエリート以外の大半の人達をおちこぼれにして、又年配者にとってはリストラへの恐怖に怯えさせる。
 四十五十となると、肩や腰も疲労がたまりやすくなるし、日々戦々恐々としている人達は大勢いるだろう。そしてそういった人達で友人もいなければ家族もいない人達、或いは家族が居ても家庭内離婚している様な人達が挙って毎日自殺しているのではないか、という想像は尽く。

 Googleのポータルサイトでは画面遷移の時間節約の為に、文字を全部入力しない内にその文字に一番近い有名企業や、多くの人達が検索したい事項へと画面が遷移しやすい様なシステムにもう大分前から移行している。例えば私がある研究者ソニー・クライトン(私のこの文章の為に勝手にでっち上げた名である)という名前をググろうとすると、ソニー(あの有名な企業の)が筆頭の画面に遷移する様になっている。
 これは時間節約の為だけではなく、やはり大企業へと収益が行く様にGoogle自体が取り計らっている証拠である。これは要するに多額の費用を支払っている大企業への配慮からであろう。
 この部分ではGoogleも一企業である以上の存在ではないので、当然個人ユーザーの利便性を無視して、四捨五入的発想で、より大勢の大企業の情報を求めている人達向けの利便性を優先している証拠である。
 そればかりではない。Twitterであれ何であれ多くのツール自体が益々携帯端末、PDA端末、タブレット端末その他のデバイスを併用するユーザーにとってのみ便利な様にどんどんリニューワルされていっている。要するに全ての機器を製造するメーカーの商品への購買意欲をそそる様にのみ改変されていっているという面は否めない。

 今世界をアメリカ国債の暴落によってドル安の波が覆っている。これは中国や日本という巨大な国家全体を揺るがす大事だし、その波は全世界に波及する。やがて中国もバブルは弾けるだろうし、世界はその時経済危機、金融危機に見舞われるだろう。既にその予兆は出始めている。
 大震災によって日本に関係するあらゆる株価が大暴落してきているが、ここに一つの資本主義経済全体が抱える問題点がある。危機対応することに向いている様にシステム全体が作用しない様になっているのだ。
 勿論現代社会は既に完全共産主義へ移行することは不可能である。しかし少なくとも全世界の経済学者達は真剣に危機対応型のシステム改変ということを真剣に考えるべき時期に差し掛かっている。

 自然災害の場合、全ての被害は不可抗力的側面はある(勿論政府対応とかでの人災的側面は否めないものの)が、こと金融システム自体は人工的な社会インフラであり、人間の頭脳による産物である筈である。従ってそれさえもが、自然災害等に対してさえ脆弱であるということは、やはりシステム自体に何処か不備があるとしか思えない。

 先ほどのGoogleのポータルサイト上での改変とは恐らくほんの些細な一現象でしかないだろう。しかしそういった一つ一つの現象が集積され、世界中のシステムの旧態依然が各個人の利便性を損なっているとしたら、この部分での矛盾を解消させる一切の努力なしに、資本主義世界経済の金融システムの改変も不可能なのではないだろうか?
 つまり利便性に於いてはより全てのユーザーに対して平等である様な在り方をまず基本としてニューツールやリニューワルを行っていくべきではないだろうか?

Sunday, August 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十四章 後戻り出来ない「いい意味で自閉的な」ナルシシズムの時代

 先日の日曜日のとある民放の情報番組に都知事の石原慎太郎氏と数学者の藤原正彦氏がゲスト対談で出演して色々な現状の日本に対する憂いを表明した。
 そこで石原氏が例によって「日本人が我欲に支配された」発言を繰り返した。
 その点では私にも同意し得る部分はあって、例えば竹島などの領土問題(最近では日本人自民党議員がウルルン島入島拒否されたことが記憶の新しい)では韓国サイドにすっかり領土を占領され、気象観測台、警察迄建造されてしまっている。これは一重に戦後の全総理大臣の責任である。このままだと尖閣列島から北方領土に至る迄全て未解決のまま永久に我々日本人は領土を失ったままでいることだろう。これは戦後日本人による平和教条主義のつけである。日教組的倫理観が外交や国防的観念をなし崩し的に駄目にしてしまったのである。

 しかし石原氏が日頃からよく発言している「日本人を駄目にしたもの、テレビ、パソコン、携帯」という三種の神器はテレビに関しては、それなくして石原氏が四回も都知事に当選することなどなかったろうに、と矛盾を禁じ得ないということと、後者二つも決して日本人から無くなるということなどないだろう、ということを感じざるを得ない。
 パナソニック、ソニー、東芝全社とも今年に入ってからずっとテレビの売れ行きは不調である。恐らく今後テレビが購買数を企業が回復されることはそうないだろう。つまり石原氏の日頃述べている第一の日本人を駄目にしてしまったテレビという代物は既に過去の遺物と化しているのである。
 第一にテレビに登場する人達(アナウンサーからコメンテーター、批評家、文化人全般)が既に世間一般で認定されている信用すべき存在というレッテル自体が鍍金を剥がされつつある。つまり現代人は「権威ある誰か」によって信用すべき存在を知りたいという欲求自体が希薄化している。つまりそれは自分で選びたいという欲求へと既に大分前から以降しているのだ。
 それを可能化させるものとして既にPC端末と携帯端末が利用されているのだ。

 テレビに登場する人達は既にそういった自分の考えで検索して認知したい世界の全ての中から自分の判断で選びたい欲求を殺ぐ、余分なものとなってしまっているのだ。テレビによる権威を象徴するものの一つは明らかに今迄は民放のCFであった。しかし現在各企業はテレビによる宣伝よりよりウェブサイト上にそれを求めている。しかも映像という瞬時に情報が消えてなくなるものと違ってウェブでは何時でも自由に検索出来る。その点でもスポンサーが民放につくということ自体が極めて現在では各放送局に於いて熾烈になってきているのだ。
 このままいけば遠からずテレビ局は倒産するだろう。つまりそうならない為に必死に生き残りを賭けて戦略を練っているのがテレビ局の現状である。しかしそれも時間の問題であると思われる。テレビが生き残る為には外部からの送受信を実際の番組内でもっと自由化するしかない。そしてそれを可能化する為には中央放送局の息のかかっていない地方独自のケーブルテレビ的システムに全面移行せざるを得ない。

 それから石原氏の負の三種の神器であるPCは絶対になくならない。既に日本人全員といっていい程の人達が自ら所有するPCから情報を発信している。その様に主体的に社会と関係を持とうという欲求を押し留めることは出来ない。つまりその部分では自己主張を文字入力によるメッセージによって執り行うという行為自体に内在するナルシシズムに一度開眼した人類は、それを元に戻すことは出来ないのである。
 これは世界的規模で見ても、エジプトやチュニジアの政変を実現した人民のパワーに於いてあらゆるウェブサイトツールの果たした役割を考えても極自然な流れである。
 日本のみならず世界的規模での政治家への尊敬心の後退という現象を促進しているものがウェブサイトであることだけは間違いない。今後益々政治家達はよりウェブサイト上で好感をもって存在自体が迎えられる為によりウェブサイト上の意見を重視する様になっていかざるを得ない。

 ウェブサイト上でのメッセージに対する反応は何と言っても速い。これだけはもう押し留める事が絶対不可能である。勿論デマも速く伝わるという弱点もウェブサイトは持っている。しかしそれでも尚その弱点を大きく利点が上回っている。又災害時での情報メッセージに関してもテレビよりウェブサイトが勝っている。
 従ってテレビに頻繁に登場する人達は、既にウェブサイト上での世界市民的オピニオンを反映せざるを得ない狂言回し的ロールに後退しているし、当の石原氏自身がご自分に対してよくそう自覚しておられるだろう。
 世の中には人前で何かを話すことを不得意とする成員は大勢いる。それはあらゆるタイプの引き篭もりに於いてそうである。しかし恐らく太古から知性ある成員は皆そうであった筈だ。つまりあらゆる偉大な思想・哲学・文学等はそういった人前で語れない人達(まさにローマ時代のキケロの様な存在を最後に)によって育まれてきたのだ。
 しかしニーチェが僅かな自分の収入の全てを自費出版に注ぎ込んだ時代と違って現代ではPC端末さえ所有しておれば、誰しも瞬時に情報メッセージを送信することが可能となっている。従って石原氏的「正々堂々と自らの意見を言え」的メッセージが時代の趨勢になることは最早ないのだ。

 現代に固有の発信者(メッセンジャー)としてのナルシシズムはよりいい意味で自閉的である。
 例えばある人(存在者)が生きて生活していた空間はその者の死去に伴って徐々に生きていた時間が空間に与えていた影響力を退化させていく。それは長年使い慣れたある人の眼鏡が持ち主の死去に伴って生きて生活している人間の身体的律動からの影響を剥奪されて只の物となっていく過程自体を顧みれば必然である。私が死ぬ日迄使っているPCは私の死後徐々に私によって使われていたという痕跡を消し去っていくだろう。その冷厳な事実は実は、全ての存在者の平均寿命を全うすることを前提に言えば七十年以上の日々、全存在者が幼児期の思い出をも携えて、しかしある日忽然とそれ等全記憶を死をもって失う。しかしその瞬間迄全存在者の現象的な世界は只の一人、その身体の所有者以外からは推し量れない。つまりその事実に於いて全哲学の中で独在論ほど説得力あるものはない。独我論的世界から我々は全メッセージを発信しているのだ、という事実に覚醒せぬ存在者を成立させない時代に我々は生きている。それはいい意味で既に自閉的な意味でしか我々全個が自己に固有の価値観を見出せない、ということを意味する。

 我々は全て自閉的価値への注視者であらざるを得ないのだ。その自閉性に裏打ちされた固有のナルシシズムは全てのextrovertな対外的戦略や、外交的手腕、或いは社交辞令といった全てを益々形骸的な社会内に残存する尾骶骨的存在へと我々に認識させざるを得ない。

 先日の民放番組のもう一人のゲスト論客である藤原氏による「日本人は自らの歴史の素晴らしい側面だけを伝えないでネガティヴな要素ばかり見る」という意見も当たらない。何故なら我々一人一人の市民全員が日本語で発信する意欲と意志にとりつかれている限り、日本語自体も、より特権化された一部のエリートやインテリによって言葉が運用されるという現実を完全に打ち崩しているではないか!既にエリート階級やらインテリ階級自身が全員ウェブサイト上での匿名記述者をも含めた全メッセンジャーの意見の動向の方を手本としている(あらゆるジャーゴンからタームに至る迄)のである。
 我々は既に言葉や言葉によって語られる歴史自体が一部特権的カリスマによってのみ全市民へと浸透していくという社会運営、国家運営の幻想からすっかり離脱してしまっている。歴史は私達一人一人の市民のある部分ではマスコミ(それは最早一部の声でしかないのだが)を規準にすれば、まさに無言の声によってのみ作られていくという事、つまりお上から有り難く頂戴するものでは決してない、ということに覚醒していないメッセンジャーは一人もいない、そういう時代の住人なのである。

Saturday, July 30, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十三章 情報端末利用とマスコミ情報摂取と生の永続への幻想と死事実に対する忘却

 死者は必ず生者にとっての存在理由しか与えられない。それは当然である。何故なら死者の側から生者を語ることが出来ない(我々は生きている限りそうである)し、又死者の語りを我々は聴くことが出来ない(想像するだけである)からだ。よって死者は死した瞬間全てのプライヴァシーを価値的には事実上剥奪され、生者の生きる為の素材となる。

 現代では知性と感性が曰く統合され難いという実感を全ての生活者に与えている。そもそも知性は行動や決心に於ける思惟に総動員される運命にあって、それが確固としたものであると保証させたい我々の感情は理性を維持させていきたいという極自然な願望に由来する。
 しかし知性はあくまで過去に認知的に獲得した様々なデータに基づいていて、それをある時に引き出すということだが、知性が確立される過程では様々な貪欲な情報摂取が我々によって執り行われている。その一つが明らかに我々によるPC端末、PDA端末、携帯端末からの情報摂取、つまりメールアプリにせよ、純粋な情報アプリにせよ、場所確認のGPSアプリにせよ、我々にとってはその時々での情報摂取の必要性に応じたこちらからのアプローチである。

 しかし問題はそういった日常的な端末へのアプローチの場面が24時間中で支配的になっていくことは、逆にその時間以外ではテレビでニュース、ワイドショー、情報特番で情報を摂取しつつ、マスコミ、マスメディア自体のバイアスを知る為にもう一度ガラケーによって確認してみるとかの往復を実現しているとしたら、リア充的な日常的場面が遥か彼方に追い遣られ、リア充的対人的場面は却ってそういった情報摂取的場面の間に挿入される特別の機会になっていってしまう。
 まさにこの様相こそが現代人の真実の姿である。

 Google Map アプリを利用する為に旅行し、カーナビを利用する為に遠出のドライヴに出掛ける(尤も今の若者は概して車には興味がなく、専ら情報端末へと意識が向かっているが)という逆転現象は最早現代社会の一つの典型的な例である。愛があるからセックスをするのではなく、あくまでセックスをすることによって愛情が生まれるということは非理性中心主義的現代社会の一つの固定化された価値観である。
 それは人間にシニフィエよりシニフィアンを、意味より統語構造や伝達形式を、情報内容より情報摂取形式やツール有用性を、欲望の内容より欲望の在り方の形式に対する事実の認知をより求める様に現代社会が機能している以上、我々は既に素朴な物事に対する受け取り方、それを素朴実在主義と呼ぶなら、それを片隅に追い遣る様にしか現実に接することが出来ない。
 つまりリアルなこと、世界の事実を網羅するリアリティは既に内容より形式の方に存在するのである。

 ポルノ的内容の映像をネット配信で受信する行為は、そうすることで他者へと直接「性の在り方」を質問するという対人的羞恥を我々が携えている以上、密やかに個人的に執り行われるものだという社会全体の不文律によって支えられており、誰しもが幼児ポルノなどの行き過ぎを生む温床となっているポルノ映像配信に対する批判的眼差しを持っていても、それが終ぞ完全廃絶され得ないことも一方で認めている。他者の前ではその事実を憂えても自宅に戻ってPC端末を開くと別人格になる。そのダブルスタンダードを社会成員は暗黙に相互に認め合っている。
 故にそれらを時々息抜きで視ることは、別段悪いことではなく必要悪的行為であり、そういった密かな覗き趣味が満喫されることによって自らのリビドー的生のエロス的能力が失われていないことを確認してほっとしているのだ。

 それはエロスだけでなくタナトス的な興味にも言える。つまりエーリッヒ・フロムが言うネクロフィリアとしての興味として悲惨な事故現場、自然災害の被災地の映像、惨い殺人事件現場の検視官や鑑識だけしか見ることの許されない現場さえ見てみたいという怖いもの見たさ的好奇心を一定程度充足させる為にこそマスメディアも悲惨なイヴェントを報道するのだ。それを報道し、そうかこういう無残な状況に晒され、死すべき運命にある他者達も大勢いるのだ、と確認することで、逆に、しかし自分はそうでなくてよかった、と溜飲を下げることを我々はかなり意図的に日常的に試みている。そして何時しかそういった試みを無意識に受容しつつ、その一々の無残に驚愕しない様に訓練されてしまっている。
 つまり現実の悲惨さとか惨たらしさ自体に恒常的に晒され続けることを通して衝撃を一々獲得することのないある鈍感さを身につけていくこと自体が生きていく意志である様な時代を我々は否定することは出来ないのである。

 マスコミ、マスメディアによる情報摂取はそのイヴェントが悲惨であればあるほど、自らの安全地帯に居る事実への感謝の念を催す様に仕組まれている。しかし何時なんどき我々一人一人さえ世界で最も悲惨な事故現場に居合わせる当事者にならないとは限らない。
 しかし本章で最初に述べた様に死者の側に立って死を報道することが我々に出来ない様に、我々はマスコミやマスメディアが被害者、当事者の立場からは報道出来ない様になっていることを知っている。だからこそ各自端末を利用して被害者、当事者から直接メッセージを送信することを可能化された社会へと我々は移行してきたとも言えるのだ。
 しかし我々はそういう移行過程自体を重々承知していながら、その実日頃は常に端末利用をしつつ、その間だけは自らにも必ずやがて到来する死の事実を忘れようと積極的に意識を向かわせている。つまりマスコミやマスメディアに対しては一時悲惨なイヴェント(英語ではincident)事実を認知したいが為に安全地帯から非安全地帯の事実を摂取することを選択しつつ、如何にえげつないマスコミ、マスメディアのジャーナリズム的性格に対する批判的眼差しを携えつつ、何処かではそういうもの全体を必要悪として容認しつつ、自分自身は独自に情報端末利用を通してよりプライヴェートな情報内容を求めているのだが、その情報端末利用の時間自体も実は、本来なら個のレヴェルでくらい到来する死という事実に向かい合うべきであるかも知れない、と知りつつ、益々決してそういう死事実への直視を持続することが我々には出来ず、我々は24時間中死から意識を逃避させ続けている。つまり死すことを知っていながら、それを常に自己内でも他者との間でも忘れる様にのみ全ての意識を努力させること自体を、生きると呼ぶことが出来るのだ。
 だから別の章で既に述べた様に老いることを意識の上では許さない社会に住むことを我々自身が積極的に選択している様に、要するに我々は絶えず死事実から目を逸らせることだけを眼目とした行為に明け暮れることを生と呼ぶのだ。

 だから実際に子孫を儲ける性行為だけが唯一死事実から目を背けさせずにはおかない生な行為なのであり、それ以外の一切の意思疎通、メッセージ伝達行為は生者のナルシシズム以外ではあり得ないということなのだ。

 もし老いることが思考すること、思惟に明け暮れることを拒絶するものなら、死の瞬間迄それは忌避すべきことである様に、死自体が死してみずに理解不能であることを我々が何処かでは元(はじめ)から知っているという事実が、我々を情報摂取行為に駆り立て、他者という生者として自己以外のもう一つの明確に自己も又生存している事実を明証させ得る存在を意思疎通のパートナーとして選択することを厭わないのも全て、実は死事実からの逃避意識の成せる技であるとしか言い様がないのだ。

 だからこそリニューワルされた端末の利用に於いてupgradedなアプリやオタク的サブルーチンの習得がより上級ユーザーと下級ユーザーのディヴァイドを拡張させていってしまうのだ。
 つまり上級ユーザーの方がより実は無意識の内に上級死逃避メソッド既拾得者、メソッド恒常的保持者になっていっている(端末利用への耽溺によって)のであり、生の永続的幻想の保持者なのである。
 それは自分だけは死なないという全能感と自らだけは何時迄も老いることはないというナルシシズムによって逆に一部オタク的ユーザーのみによって習得され得るupgraded deviceとオタク的サブルーチン習得のナルシシズムによって益々foolproof的ならざる進化を各種端末に齎すという、ユーザーに対する選ばなさという倫理命題的地点からすれば悪循環を社会に齎している。
 しかしこの習熟に伴うanti foolproof的上級習得者間のオタク的結びつき、或いは初心者ユーザーにとっての使いやすさ自体の二極分離性に就いては本章の主題だけでは手に負えない部分が確かにあって、今後別の形で(本ブログに於いてであるとは限らない)展開させていく必要が大いにある、とだけは言い得る様に思われる。

Tuesday, June 28, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十二章 マスコミ・ジャーナリズムの無意識の暴挙 

 今回私が問題にしたいことは、菅総理並びに菅政権それ自体が無策であり、その手の施し様のなさではない。そういう側面は確かに現民主与党にはあるし、日本政治自体にもある。
 しかしそれを問題にする以前に、まず我々があらゆるメディアを通じて政治的な動向を伝えられる時あくまで極めて少数の極限られた人達によってのみ政治動向自体が判断されている、ということだ。
 日本のマスコミにはある決定的な一つの傾向がある。それは彼等は総理をはじめ責任ある地位にある政治家であれ、経営者の様な立場の人であれ、政界とか会社とか所謂集団の長である限り、その集団の成員全員の総意を獲得し、その総意の下で行動すべきである、という不文律である。
 だからもし現政権に対する批判を喧しくしていくべきであるなら、小泉政権時代にももっと批判を多くすべきであった。尤もあの時は郵政解散総選挙前にはそれなりに岡田代表による民主野党の意見も多く取り上げていた(それはそれでえげつない仕方での身贔屓がマスコミにはあったのだけれど。つまりだからこそ小泉総理が躍起になっていってしまったとも言えた)が、一旦自民党が大勝利に湧くと、途端に批判を緩めてしまった。
 要するに日本のマスコミは烏合の衆的に、マスコミ言説に国民(即ち視聴者や購読者達)が右往左往してくれた方が都合がいいという暗黙の彼等の内々の論理を隠そうともしないのだ。
 しかしよく考えてみよう。実際に本当に菅直人総理が無策であり、戦略的に欠落をきたしていたとしても、そうであると判断するのは国民一人一人だし、仮に総理が一旦「一定の目処がついたら若い人に引き継いでいって貰いたい」と宣言したとおりに、今年中に退陣するとしたなら、まさに小泉総理退陣後五人目の一年足らずの短期政権担当者になってしまうわけであるが、その短期政権で終えてしまうことそれ自体の是非や、その事実によって一番大きな影響を被るのは国民一人一人ではないか。
 だが実際マスコミ報道自体が現政権批判を喧しくすることによって、そのマスコミ動向自体に乗せられて発言してしまう(街頭インタビューなどで)国民も多い、と感じているのは私だけだろうか?否そうではないだろう。
 つまり日本のマスコミはその内部で働く人達の利害を最優先するあまり、政界自体へも、最高責任者である総理は与党内で人望があり、政治家というプロフェッショナルな成員からお墨付きを得ていなければいけない、という不文律を確固として携えているのである。
 しかしよく考えてみると、総理の発言や行動は政治家というプロフェッショナルや、特に与党の政治家達が満足する様なものであるべき理由は寸分もないのだ。まさにその矛先は常に国民一人一人の利害の方に向けられているべきなのである。
 しかし日本のマスコミはそれを我々に忘れさせようと常に無意識に全ての言動を発している。それに対し自覚的であるジャーナリストや批評家、或いはアナウンサーとはいるのだろうか?居るのかも知れないが、少なくともそういった意見は報道番組や新聞紙上では表面化させられない様に全てのマスコミ帰属成員達には徹底して配慮させている。
 日本のマスコミの言動は終戦後から余り大きくは変わっていない。それは戦後民主主義的教条主義の徹底化であり、特に七十年代以降その傾向は強まってきた。最高責任者とはその責任に矛先が国民一人一人である以前に、まず組織内で人望があることを望んできたのだ。
 これは一重に戦後の日教組や労組、連合的な体質なのである。それはマスコミの仕掛け人達にそういった思想があったのだから致し方ないとも言える。日本原発の父でもあった正力松太郎から渡邉恒雄氏に至るマスコミ・ジャーナリズムの系譜自体にそういった世論という幻想のベースに反権力という意識構造があったのだから仕方ない。これは日本野球界から相撲界に迄全般的に日本社会の横の連帯に寄与してきた。
 だから日本では基本的に個人的意見は全て封殺されていく。しかしこれは幕末の勤皇の志士、坂本龍馬の理念からは著しく遠い。かつて竹中平蔵によって批判された日本の護送船団方式は一回もこの日本社会から突き崩されたことはなかったのだ。
 だからAKB48の様な芸能関係のアイドル達の存在への反感とか価値に対する懐疑それ自体も延々この国では封殺されてきた。何故なら彼等の存在は日本型資本主義に於いて勤労奉仕する会社員や公務員達の癒しと精神的潤いを与えるという図式で公認されてきたからだ。
 だからかつて大勢居た芸能界出身の議員達の存在に対する「ああいった全く畑違いの世界のプロ達によって実際本格的政治が執り行えるものだろうか?」という懐疑心自体が日本社会全体の護送船団方式的な横の連帯による暗黙の相互容認によって封殺されてきたのだ。
 果たして日本は真実に知的カルチャーが大手を振って闊歩し得る社会なのだろうか?或いは文化的教養とか見識、世界観自体がより有効に国家運営に活かされている、と言い得るだろうか?
 その点では甚だ疑問符をつきつける識者も大勢居ると、私は思うが、文化人や識者それ自体の存在理由が曖昧なままずっと社会動向全体のコメンテーター化してきたこの国では、彼等の意見それ自体もAKB48的日本型資本主義戦略の中の一場面へと格下げされてしまう。
 つまり社会批判それ自体が一つの巨大な護送船団方式的運営システム内部のエンタメ化していってしまい、その批判の切実さそれ自体も、それがマスコミ的言説化されると同時に営利目的の記号になっていってしまうのである。
 だからマスコミが国民の意識(それは各個人で異なるのだから一般化はし得ぬのにも関わらず)を敢えて、世論という形で一般化せずにはおかないものだから、勢い余ってより返答しやすい、しかもかなり誘導的な世論が各種アンケート調査によってでっち上げられてきたし、今もそうである。そしてそのマスコミ・ジャーナリズムの無意識の暴挙とは、あたかも「これこれこういった風に今、国民の世論が盛り上がっている」という形で幻想である確固たる世論をその都度でっち上げ、現政権は早く退陣して貰うべきだという論調を延々繰り返してきたのだ。
 そういったマスコミの負い目もなく勝手に世論をでっち上げる「社会奉仕精神」の無反省性とは、その無意識のまるでパチンコ店でAKB48の歌曲を有線で垂れ流す日本型資本主義促進的体制戦略(軍艦マーチに代表される)にマスコミ・ジャーナリズムさえ同化していってしまう護送船団方式からの非脱却性に起因している。

Monday, May 16, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十一章 為政者達にとっての現代ウェブサイト社会と世界

 今回は為政者の立場に立って思考実験してみよう。私自身その様な立場に立てる可能性はほぼゼロであるが、却ってそのことが思考実験を容易にしているとも言えよう。
 今年のムバラク政権崩壊のニュースも記憶に新しいが、私達の社会では既にウェブサイト世界によって世界は急速に距離が縮められている。それは少なくとも形而上的にはそうであった。当然のことながら東日本大震災が形而下的には世界は分断されているということを私達に突きつけたからだ。
 私達は一方では既に全く遠僻地に住む人々と容易に交信し合える。にも関わらずある部分では地震などがあった場合、その窮状を助け合えるのは地元、近所の人達だけであるとも言える。
 しかし政治という局面では少なくとも現代社会は為政者による巨大な権力が行使され、そのエフェクトが即座に実感されることで、その反応は凄まじい勢いでウェブサイト上を駆け巡る。その速さと権力に対する批判の凄さは恐らく全ての世界中の為政者達の精神に既に昔の様に容易には人心を統治し得ないという諦念を与えているだろう。
 つまり彼等はある部分では極めて神経症的に自分達による権力の行使に対する反応を間近に知ることが容易であり、その容易さに於いて常に針の莚に座っている様な気分を与える。
 これは新聞記者達にだけパフォーマンスをしていればよかった前時代には考えられなかったことである。つまり今現在の為政者達にとって一瞬で駆け巡るウェブサイト上での情報の遣り取り、交信行為の過密自体が最大の恐怖なのである。
 これは精神分析的にも心理学的にも恐らく現代に固有の政治家の内心でのプレッシャーを与えているに違いない。
 だから勢い彼等はある部分では計画通りには一切行かなさも実感させ、博打的なパフォーマンスで一回当てると二匹目の泥鰌を狙う心理へと容易に自己を追い込んでしまう。
 従って現代の為政者にとって最大の課題は恐らく有能なブレーンを保持しているかということである。結局いい決断が効果を生むということの背景には常にそのブレーンの駆使能力と判定されざるを得ない。
 ブレーンに信頼されない為政者達は失政へと転落する。これだけは間違いない。
 現代では既にマスコミの力は煽動的な機能でしかないと多くの市民が覚醒している。この事実も極めて大きい。例えば今回の大震災ではカタストロフィの映像を多く放映したりすることによって不必要に不安感を煽ったということでマスメディアは多く批判を浴びている。しかしこのことは裏を返せば為政者達にとっては好都合でもあるのだ。何故ならマスメディアより自分達自身の為政に対して信頼を勝ち得る余地をそこに見出し得るからである。
 今現在ツイッターなどでは為政者、つまり首脳に対する評定に於ける辛辣な批判とマスコミ批判とが混在している。しかし重要なことはウェブサイト利用者の中には既にかなり多数新聞やテレビ報道を中心に信頼性を置いていないということであり、そういった意味ではニコニコ動画やYoutube、WikiLeaksなどの画像を通して情報摂取をしているユーザーも多数に上る。これが一面ではマスコミ攻勢に対する巧い回避方法にしていけるかどうかこそが為政者の政権維持と、施政センスなのである。つまり一方では権力者の無策は即座にウェブサイト上で批判の集中砲火を浴びる。しかし批判は常に政府にだけ向けられているわけではないので、新聞やテレビに対する批判をしているユーザーも多いので、その隙間に為政者は可能性を見出し得る筈なのである。
 権力者にとって魅力的に映る、市民からの信頼、政府に対する信用といった二文字は、現代では極めて色褪せて見えている。そうしているのは当然ウェブサイト上での自由な書き込みである。
 しかし昔の権力者達の様な独裁的な行為、或いは政界内根回しだけで全てが滞りなく遂行されるお膳立て的政治からの脱却は小泉政権時代の元総理の功績であるが、権力者が固有の権力自体への耽溺、陶酔を不可能化しているのがウェブサイト上での交信の過密であり、それは既に新聞やテレビにまで影響を与えている。
 つまり現代為政者達は既にウェブサイト上での交信の過密という消滅させ得ぬ威力によって長期安定政権をかなり困難にしているのだが、その常に緊張が持続され得なければならないというストレス自体へ魅力を保持し得る者のみ為政者としての立場に立ち得るという実質を作り上げている。これは旧態依然的権力の構造を全く変えてしまってきているし、本質的に権力が大らかさではなく、緊張の糸を緩められなさにあるということを意味する。
 しかしそれは逆に緊張してことに当たっていると同時に、そう「見せ掛けられ」且つ権力自体を楽しむ心の余裕を為政者達にはより求められている、ということも言える。要するにパフォーマンスと内心が乖離していてもよかった過去の権力と違って、それはパフォーマンスの仕方自体に既に完全に行動論的責任倫理が問われてしまう現代では、本心と真摯さと実権を振るう心のゆとりの全てが一体化された「嘘のない見せ掛け」を求められている、ということが出来る。
 それを後戻り出来ない様にしてきたのが映像であり、映像が個々のパソコンによって閲覧可能化されたウェブサイト世界であることだけは間違いない。
 現代の為政者達は交信過密な強大なる被監視状態を楽しむ異常性さえ求められているのである。

Saturday, May 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十章 老いることを許さない社会

 震災によって首都機能の東京一元化経済推進政策自体への見直しが徐々にテレビ討論などでも叫ばれてきていることはいいことだし、浜岡原発停止指令を菅総理が出したことは決して悪いことではない。
 しかし生存を賭けた国家戦略に於いて重要なことは、社会機能維持と産業活動と経済循環が同時的に推進されていくことに他ならない。日本社会は依然老人が最も経済循環に於ける消費者として期待されている筈だ。何故なら子育てに忙しい三十代から五十代迄の世代は最も仕事的には大きな推進力であるが消費レヴェルでは抑え込むという傾向は否めない。
 一方情報化社会の担い手は多くが若者である。
 しかしよく考えてみよう。旅行などをする時間的余裕のある世代とは六十代であろう。七十代は元気な人はいいが、移動の忙しい旅はしない。尤もだからこそ観光的な魅力ある旅行を望むということはあり得る。
 高速バスは受けているのは専ら若者世代を中心とする移動を多くする仕事、旅行に於いてである。つまり経済政策、要するにGDPレヴェルでの推進に対する問いは、ある部分では老いていく人間の実像を踏まえて考えていくべきなのである。
 社会機能維持的観点から言えば確かに首都機能東京一元化は危ういと言える。しかしそれと文化的レヴェルでの全国各地での相互交流は又別の問題である。
 経済循環合理主義と社会機能維持の合理主義は一方ではより利便性の強い多機能モバイルなどをメーカーに製造推進している。しかしそれは極めて上級ユーザー向けにのみ創られている。つまり一番旅行などをする精神的、物理的余裕のある老年世代に対して使い勝手のいい様に作られてはいない。この点が問題である。
 つまり青年世代にとっての上級ユーザー向けの開発が一方で経済社会経済循環に於ける回転率的忙しさを作っていくことが加速化されると、老人に対して「のんびり生活していく」ということを許さない社会の到来となってしまう。新幹線の運賃が異様に高いなどの理由で勢い、遠出の旅は老年世代では差し控えられる様になる。
 高速バスが安くリラックスして旅出来る様にせざるを得ないのは新幹線の運賃が高過ぎることに由来している。
 だから社会機能全体を老年世代にとって心地よく過ごすことの出来る精神的余裕を与えていくべきである。つまり「老いることを許す社会」にしていくという方向性が行政レヴェルでも経済推進レヴェルでも求められている。
 その為にも老年世代にとって使い勝手のいい多機能モバイル、或いは少機能のものでもいいから、要するに一番子育てにかからない消費を老年世代に促進していく様な情報摂取機器の開発が求められている。そうすれば老年世代の観光消費によってより地方と都市部との連結機能も強化され、交通の利便性も促進されるし、文化的交流も相互に地方同士で盛んになっていくことだろう。
 又そうすることで多機能モバイルその他の機器の価格も安価なものとなり、サービス産業的競争力も推進されていくことだろう。
 社会は未来に期待される子供や青年だけでなく、働き盛りの中年や老後のゆとりを享受している老年世代といった多元的な世代の共存によって成立している、ということを忘れるべきではない。

Friday, April 29, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十九章 思想や学問には何が出来るか?序章

 今から丁度十年前の2001年という年は、下半期の9月11日に起きたアメリカ国内での同時多発テロによって世界を震撼させた。それは人類にとって国家間、民族間の怨恨というものが私達世界市民に齎す人災的な不可避的側面を浮き彫りにしたものだった。
 それから丁度十年後の今年は、とりわけ日本人にとって今年は未曾有の大災害を齎した自然災害である東日本大震災によって記された年となってしまった。

 同時多発テロが人類に齎したことは、文明を発展させてきたその影に存在し続けたアメリカという国の覇権を巡る、そのパワーから零れ落ちていくサイドからの逆襲という側面が強かったので、必然的に人類が結束しなければというモティヴェーションに掻き立てられるということとは少し様相が違った。何故ならそれはある意味では文明圏の利権とエゴイズムとが絡んだ遠因によって引き起こされていたと誰しも知っていたからである。
 しかし今回の大震災は少なくとも文明社会での都市構造が自然災害によって直撃されるということに於いては文明の脆弱さを露呈したが、地震が起きて津波が押し寄せればどの国でも似た様な状況が招聘されるだろうという目測から世界に与えた心理的効果は9.11とは本質的に違う。
 3.11とは恐らく未来から世界が自然災害に文明社会がどう拮抗していくべきかというテーゼに於いて反省的材料を提供していくこととなった年だったということになるだろう。

 だから却って日本社会内部にあった様々な亀裂が一方では運命共同体という形で結束させる心理へと日本人を向かわせたとも言えるこの震災による悲劇は、しかし例えば経済社会という現実の維持に於いては何ら自然災害によって齎される犠牲とは無頓着の非関係性を露呈したとも言える。
 何故なら経済学者や金融専門家達によるパネルディスカッションなどでは彼等は特に金利や需要と供給、金融システムの維持に腐心し続け、それが結局日本人の性善説的信仰である自粛などものともしない様な形で、経済流通によって初めて復興も可能になるという青写真を提供してはいたものの、経済専門家達は端的に全員起業家でも経営者でもないということである。彼等は日本銀行を中心とする政府筋の金融管理に就いては熟知していても、決して市場自体に精通しているわけではないということだ。彼等が理解しているのはあくまで経済市場原理なのであって、市場自体の動向は常に不透明であり、予測のつかなさに於いてのみ維持されてきているからである。
 この点で世界中のありとあらゆる専門家、つまり学者とか研究者達は予測のつかなさに於いて、予測がつく原理的な部分だけの理解とシステム管理的鉄則に拘り続けてきている人達である、ということを露呈してきたここ数年の世界情勢だったとさえ言える。
 人々の需要とは常にその都度の心理によって動かされており、それは移ろいやすさによって支えられていると言っても過言ではない。その意味では人類の記憶に鮮烈に印象付けられてきたその都度のイヴェントが仮に十年前には9.11であり、その十年後の今年は東日本大震災3.11であるとしたら、今現在の私達はあくまでアルカイダ、ヒズボラ、ハマスその他によるイスラム原理主義組織が与えていた時代的気分、つまり思想的潮流は、案外脆弱にも自然災害の前には崩れ去り、今既に我々の眼中には自然災害から誘引される都市型災害からのサヴァイヴァルという一点に集約されている様に思える。これは現時点でのカタストロフィにしか我々は動じられ得ないということを意味している。

 だから金融管理システム構築に腐心する経済学者達のテーゼは実はそういった自然災害による恐怖が取り敢えず、余震なども収まって余り頻繁には起きなくなってきた段階から初めて浮上する市民共通の関心事なのである。

 勿論都市空間と、住宅空間の復興自体は経済的流通が出来る限り非常時突発以前の状態へと正常化することだけが迅速になし得るとも言える。しかしその為に経済金融討議をしても、その主旨が広く国民に説得力を持つかというと甚だ疑問であるとは言えよう。それは漫才などのお笑いが今被災地に直ぐに必要かと言われれば、それは違う、未だ時期早尚であると我々が判断してしまうこととも関係があろう。
 自然災害による不可避的な文明破壊とは、ある意味では心理的には国民とか市民を結束させる。それが運命共同体的な心理へと我々を常に突発的な自然災害が誘引させていくという例外的な事態の持つ一つの可能性ではあるとも言える。

 政治の世界では震災による復興支援に於ける国家の責任の所在を巡って与野党が論争しているが、実際我々一般市民の目から言えば、彼等は自己勢力拡大と利権死守の為に奔走していると映ってしまう。だからこそこんな時には我々にとって思想とはどうあるべきか、果たして我々を救うことが可能なのだろうかという問いも齎される。
 学問は復興プランに於いて建築とか地政学、地理学的見地から急務だし、精神医療をも含む医療全般、交通機関などによるインフラ整備の諸技術、東電を元として多くの問題を露呈した電力供給の問題など諸科学が急務的に必要とされている。しかし一方社会科学一般はこの緊急事態に於いて、それこそ漫才の様に即座には役立たないものもかなり多く、それ等の専門家達が今後どの様に取り組んでいくべきかということは彼等なりに苦悩を持って脳裏を駆け巡っていることであろう。それは文学とか芸術などにも言えることである。そして風評被害などを生む土壌である情報化社会のマスコミからウェブサイトまで含めた情報インフラに対する在り方自体の模索も今後益々急務とされていこう。

 つまりだからこそ思想が学問とか芸術、文化全般に対して指針的ロールを担う必要があるのである。生きているということは死者に対する鎮魂という作業を使命としてもいるが、同時に生きている者だからこそ享受すべき心の内面での幸福感情というものに対して必要な様々なアプローチに対して考えていくべきでもあるのだ。
 つまり何時かは誰しも死ぬということに於いて、何時死んでもある部分ではし残してしまったという後悔を出来るだけない様な状態へと心を持っていくということ自体が宗教的命題としても常に残されていて、しかしそういった死の命題はエンジニアリング的な技術革新と、経済学などをも含んだ文明維持合理性の名の下では必ず隠蔽されていく。これは私だけでなく多くの論者が以前から度々指摘してきたところのことである。
 つまり一見役に立たない様な心の学問的な学究的態度とか、関心こそが、経済学者とか金融システム管理的専門家にも即座に理解出来ない市場動向とか、経済市民の需要と経営者達の供給の動向、つまり予測つかなさに対する処方の目処を立たせるとも言い得るのである。

 ずばりシステム管理上でのエンジニアリングにとって最大の盲点とは、人間は合理主義的にだけで全てを判断しているそういう生き物ではない、ということに尽きる。この点で私は分析哲学的専門性とか論理学的専門性だけではない形での生の哲学的命題の復権と、思想の果たす役割をもう一度真剣に熟考する価値がある、と考えるのだ。恐らくそれは文学や芸術や批評をも変質させていくことだろうし、科学技術革新に対する方向性もある程度決定させていく様に思えるのである。

 次回からは人類サヴァイヴァルと、人類生存にとって認識的にどういった思想や学問が必要とされていくかということの予想と、今現在に於いて重要な論点に就いて考えていってみたい。

Wednesday, March 23, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十八章 自らのクオリアに目覚めることは悪に目覚めることである/人類を生存に導いてきたのは倫理でなく悪の発動である  

 ツイッターをし始めてそろそろ一年半くらい経ったが、私は私の独断的、独善的ツイートに刃向かってきた大半の人をブロックしてきたが為にフォロワー数は意外と少ない。そして今現在フォロワーでいてくれる人達は私に基本的に異議申し立てすることを差し控えている私にとって無害な人達である。その分で彼等は賢明である。何故なら不必要な争いを避けてきているからである。それは人類にとって弱き者が採用してきた最善の生存術であるかも知れない。
 しかしそれは私にとってである。他の人にとってはそうではないかも知れない。そして今の青年の多くはか細いセンシビリティで、繊細さだけで生きている。それは時代的な状況をそのまま映し込んでいる。何故なら競争を回避し全ての同時代の青年達と共に共存するという意識にあるからだ。まるで本能的に生存を脅かされているとでも言いたいかの様である。そういった繊細で他人の不幸を作ることの極度の恐怖だけが自らの正義である様な生き方のスタンスは一つの目的に社会が収斂されていた時代の終焉と共に決定づけられていた態度であるとも言えよう。
 刹那的な自らの生のクオリアに対して感謝の念を捧げることに吝かではない青年達の主張は、そのクオリア的感受の現象性が自分自身にしか分からず、他者と分かち合うことが出来ないと言う分析哲学命題を地で行っている。そしてその他者一切には了解され得なさだけで今の青年達は同時代性に於いて結束しているという心理が一般的ではないだろうか?
 しかしそれは決して行為責任のレヴェルでは命題的にマクロ化し得ない、一般化することもないだろう。何故なら行為責任とはある行為が外在的に価値を帯びることであって、それは他者一般、他者全般にとってどう読まれ得るかということだけが問題だからである。自分自身の拘りなどそこでは一切通用しない。
 その意味では自分自身が生まれてきたことの奇蹟に感謝する表明ともなっている各分析哲学や論理学的学問の全ては(そう言い切っていいと思う)、刹那的な生の輝きに対する称揚に明け暮れ、恐らく外在的には何も価値をも産出し得ないだろう。勿論中には後代に於いてオイラーとかラマヌジャンの様に天才であったと称されていく人もいることだろう。しかしそれは現代青年の無数の試みの中の数億人の中の一人か二人に限られよう。従って私が何百人の青年達と出会っても、その大半は些細なクオリア的感受に対する感謝の念を捧げる様な、要するにそれが絵画であれ論理学の数式であれ、難解な経済理論であれ所詮大半は人類全般にとっては取るに足らないミクロ的叫びでしかないだろう。否それに生涯を賭けるのだという意思表明自体は貴重であり、倫理的には称揚され得るべき要素もなくはない。しかし残念ながら人類はそういった潔癖なまでに清さとモティヴェーション的純粋さを追求してきたから生存し得て来たのではない。寧ろ積極的に個の内部で現象性としてのみ理解され得る知覚やロジック、色彩的差異に目を留めてきたのではない形での、要するにもっと大雑把にミクロ的拘りを捨ててきた者達だけが何か意味世界に於ける偉大なる発見を後世へと齎してきたのだ。それは端的に倫理的問いが今必要だと思わせるくらいにインモラルでアンモラルなだけの非情さ、他人のことなど一切顧みない生存への執着だけである。
 それは今私自身によってのみ覚知され得るが故に価値ありと私が判断するものの現象性の価値を全て根こそぎ無視して何かをマクロ的に把握しようとした試みだけが後世に何かを残し得る(その大半が徒労に終わっているのだが)と言えよう。
 そして極めて矛盾することであるが、それは自らの生のクオリア的感受を、一般性とか自然科学的法則的普遍性から切り離して、要するにマクロ的価値外の些細な自分自身にだけ感受され得る瞬間的なこと、そして私が見る赤という色は貴方にとっても赤であり得るかということ自体に異様に拘ること自体に価値を見出し得る者が、その拘りを潔く諦め棄て去ることによってのみ、得られる偉大なる発見であると言えるのだ(大半の者が些細な生への感謝によって生のクオリアへの感謝という感傷に浸って他者を説得する術を得られずに死ぬ)。
 要するに機能論者であり、唯物論的な自然淘汰論者であるダニエル・デネットがクオリアという語彙が乱用されている状況に批判を加えた「スウィート・ドリームス」に於いて、クオリアが今まさに見えていることへの覚知なのか、それとも見たことに対する印象(記憶の上での反省的な)なのか判然としないということからクオリアという概念の乱用に懐疑的メッセージを突きつけたこと自体が象徴的に我々に納得させる、それでも尚そこにあたかもかけがえのなさ、つまり生の実感としてあたかも価値があるかの様に思える脳科学、分析哲学的概念が現代社会でシンボル化している事実自体(に対する認識)から我々は幾分かの真理を読み取ることがを可能だ。
 つまりそれは一種の現代人の宗教なのである。それは反事実的条件法も、二重の条件依存性などという分析哲学テクニカルターム自体が、同じ条件という語彙を動物行動学者や心理学者が使用する時と全く異なった意味合いをそこに連想する様な意味での固有のサークルであり、宗教なのである。
 それはある行動が自分自身の信念に基づいて行われているのだから絶対正しいと思って全ての人々が行動していても、例えばもしこの様な大震災が起こることを予め知っていたなら、かの十六人の民主与党衆議院議員達は現政権に謀反的行動を起こさなかったであろうことでも、かつての小泉チルドレン達も、小沢ガールズ全てに言える。
 つまり行為責任と意味の世界では、個に内在する生のクオリアとか現象性としてのみ語られる、例えば永井均の<私>などというもの等全てを含んだ「語り得なさ」の価値とは、全て外在的客観性の下で精査されることを通して個内部の生への感謝とか、一個の生命が地震によって一瞬にして奪われる理不尽で不条理な自然の摂理の非情性への感傷的嘆きを一切無効化する様な四捨五入的な全てに対する拘りを捨て去ることによってのみ意味化されているし、それが些細で取るに足らない個人の感傷であるとマス(集団)に於いては無視されることを通して個内部の生への感謝の拘りとして価値化されているが故に、無視と非情、一切の感傷を打ち捨てる、言ってみれば悪の発動だけが我々を生存に導いてきたとも言えるのである。つまり極めてセンシティヴな青年のツイートを私は決してブロックしない理由が、私に直に刃向かってこなさにある様な意味で、その余りにも繊細で壊れやすいメンタリティを価値化しているのは、端的に非情さであり、冷淡さであり、悪そのものである。そしてその事実を決定的にし得るのは、あらゆる地球物理学者や環境自然科学者の実力や人類にとっての有効性を打ち砕いた今回の様な大震災によるカタストロフィックな突発性そのものである。まさにそこから又ぞろ分析哲学者に運命論を乱立させる余地を残している。
 だからこそ政治の局面ではマクロ化され得るものだけが価値化され、社会及び国家命題化されるし、そういった個内部の求心的な拘り一切を捨てた遠心的で大胆なリーダーシップだけが意味化され、一般化され命脈を保つのだ。そして彼等そういった大胆なリーダーシップの実践者とか為政者達にとって個内部では現象性としての生のかけがえのなさからの極度の乖離から極めて精神的負担が大きくトグロ巻いているということを我々は容易に想像し得る。にもかかわらずその個内部での矛盾を殺して自己犠牲にしてまでもリーダーシップをとれる態度だけを我々は政治哲学上での価値と見做し得るのだ。
 それは他者存在自体が既に極めて外在主義的に唯心理的存在でしかなく、一切のクオリア的感受の生への感謝など、一切の現象性をどうでもいいことにする行為責任にのみ価値の照準が設定されているからである。
 繰り返し言おう。悪の発動だけが意味を命脈化し、一般的価値にしてきたということ、そしてその悪の発動とは行為責任に於いて価値化され得る為に個内部のあらゆる拘りを棄て去った時のみ遂行し得る、それはあらゆる倫理的問いを、倫理的問いを生んできたのが非情さ自体であると認識することによって繊細さの一切を剥奪する大雑把さだけが他者存在の外在主義的実在論では価値であるとする認識によってである。そして特に行為心情倫理主義的日本人(全てを慎ましやかに静観すべしとする不謹慎称揚主義者としての)にとっては天皇制があらゆる性善説的モラルの起源となっているが、実際にはそれ自体が建前であり、第二次世界大戦によって焼け野原と化した状況自体を生き残った全ての国民が国土復興へと差し向けられた又とない絶好のチャンスであるとその焼け野原を見て思った様に、東北関東地方の被災地の悲惨な現状をまさにこれから心機一転、金儲けの手段としたり景気復活の気運としたりすることは、決して悪いことではないのである。何故ならそうやってのみ人類は今迄生存してきたのだから。そしてその度に貴重な犠牲者に哀悼の意を捧げつつ、我々の祖先もそこから不死鳥の様に蘇って来たのである。
 恐らく私達アラフィフ世代の持つ非情さに対する価値化に於いて現代の青年達は私達が後数十年以内に死ぬ迄凌駕することはないであろう。しかし私達は必ず先に死に、今犠牲者に対して繊細な感傷主義に耽って不謹慎であると嘆いている青年達は私達が命果てる時には立派な中高年になっているのである。それこそが人類による行為責任による連綿とした継続なのである。

Friday, March 18, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十七章 長い眼で見たら本はいずれ消滅する/ウェブサイトのリアルタイム性には敵わない

 今回の東日本大震災(東北地方及び太平洋沖大地震)によって我々に認識されたことは、一時的にせよ、かなり新聞紙が配送される物流コスト、或いは印刷にかかる光熱費、電気量等によって極めて非常時には不向きな(日本ほど大勢の購買者層を獲得しているビジネスとしては)メディアであること、そしてそのリアルタイム性における遅延ということから、私は長い眼で見た時明らかに紙による印刷メディアはやはり人類史上では消滅していくことは必定である、と思った。
 つまり今回の被災地に於いても活躍したのはウェブサイトを通した連絡であり、ツイッターやフェイスブック、或いはYouTubeなどによる映像配信であった筈だ。
 要するに現代のメッセージ送受信は、端的に無線技術からウェブサイトに至るまでそのリアルタイム性に於いてこそ価値があるのであり、例えば一冊の単行本を世に送り出すのに編集から製本、印刷に至るまで半年をかけなければならない出版物メディアは徐々に社会的存在理由から言えば盲腸の様に、かつての大日本国憲法下での国会で言えば貴族院議員、或いは今日の参議院議員と同じ様なものになっている、と言っても過言ではない。
 勿論教養を高めるレヴェルで、或いは研究者にとって必要な文献資料としての価値としては本というものは存続していこう。しかしそれは少なくともこれからの学者とか専門家、研究者にとってもやはり部分的なものに後退していかざるを得ないのではないだろうか?
 学問自体の専門性に就いては次章で考えるが、そもそも専門分野とか学問の専門性自体の存在理由も、広く社会全体の、或いは一般市民も参加することが可能である様なものとしての説明責任が広く全ての専門家に求められている現況では、本という形式での出版物メディアは、やはり図書館施設などの箱物的な過度の国費、地方公共団体の財源の出費から言っても、極めて不合理以外の何物でもない。要するに電子書籍が中心化していき、そのメッセージ配信もよりリアルタイム性を求められている現代では、書籍刊行物は、少なくとも紙による出版物である形態が極めて不合理なものとなってきているのである。
 そういう意味では前章で討論至上主義として批判した自由論議的な各市民に割り当てられた権利は、過剰なロジカルゲーム性から乖離させる意味では討論至上主義を批判すべきであっても、尚より一般の出来る限り大勢の人達の意見を自由に吸収することの可能なメディアはウェブサイト上でのものである事だけは間違いない。要するにこれからは全てのプロフェッショナルの権威主義的なレゾン・デ・トルを剥ぎ取って、より公平な全ての市民の能力や才能を引き出しやすい社会環境にしていくべきである。芥川賞や直木賞を中央権威とする文壇が存続していくこと自体は一つの文化の在り方としては悪いことではないが、そういった一部の作家達だけがオピニオンリーダーとして世相全体を担うとか、貴族階級として君臨するという様なプロフェッショナルとアマチュアの二元構造はもうじき全て崩壊する気が私にはするのである。
 しかしだからこそこれからはかなり熾烈な真の実力社会、つまり苛烈な競争社会が到来する気もするのだ。つまり権威者とその考え方の継承という従来型のプロフェッショナリティからは乖離した、より公平性と、リアルタイム性の強い、かなり有用性の高いメッセージ発信者の取捨選択だけが行われていくという予感がする。そのメディアとしてもツイッター、フェイスブック、YouTube、WikiLeaks、ニコニコ動画などがより有効なロールを演じていくという気がする。
 纏めると、近未来的には既に印刷メディアによる出版物がトータライズされたオピニオンリーディングロールから次第に遠ざかっていくということ、そしてそれ等をも部分としては残しつつも、全体的に牽引していくのは、やはりウェブサイトであり、それは大震災に於いて実質的な救援措置を図る為に活躍したのがこちらであったことからも明白であり、且つプロフェッショナルの存在理由が、文献学的な評論家ではなく(それは今回の震災でもワイドショー的なドキュメンタリー番組で現場の状況とは無縁の一般論を語っていた人々の果たしたロールの微々たることに比べ、実働部隊の人達<自衛隊、警察官、機動隊、その他海外からの支援部隊>の方がより、実際には現場では活躍してきたということでも明らかである。)、より実際社会活動に寄与するもの、つまり実用性、直接実用的ではないものでも、その存在理由に対する説明責任の明示が必要とされる、という時代に移行していくものと思われる。
 つまり権威主義的なプロフェッショナルな存在理由がより狭いものとして駆逐されていく運命にある、とは誰の目にも明らかではないだろうか?

Saturday, March 12, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十六章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて 第三部 緊急更新版No.1

 一昨日の11日(2011年)に東北地方と太平洋岸一帯で大きな地震があった。このマグニチュードレヴェルは江戸時代以降最大のものであると言う。そして日々死者数も増加しつつあり、恐らくここ百年以内でも最大の犠牲者数をアウトプットする自然災害となるだろう。
 我々非専門家は統計的数値に関しては公的機関の発表を待つしかない。
 しかし公的機関がエア老人などの問題に対しても厳密な把握をすることが出来なかったことなども併せ考えると、やはり我々は公式発表の数字以上の災害と犠牲者がある、と考えることもまた自然なことではないだろうか?
 そして今の社会が恐らく百年くらい前の仕組みのまま維持されてきている、それは専門家のポジションに対するロール分担的な不文律が固定化してしまっているということ、それに対して一定の批判とか意見を容易に全ての機関が汲み取れないという事態こそが、マスコミに無責任な報道と言動を多く発してこさせたという側面も否定出来ない。マスコミは非常時でさえ、閣僚などの不祥事を暴き立てることに血道を上げている。これはある部分では資本主義社会の矛盾点、つまり利潤追求自体が既にある種の綻びを来たしている証拠ではないだろうか?
 確かに一方では社会では理想を追求するスタンスとか発言の自由は保証されて然るべきである。しかしその自由への要請が過度になり、内的にその自由を謳歌する権利問題だけが拡張されると、次第にモラルとか社会倫理的な配慮と適切性を欠いた討論至上主義とか、論理的反駁能力ばかりが追求されていってしまうという悪しき状況こそが、今NHKからアマチュアの全ての組織を通じて時代的な趨勢になりつつある。
 昔の社会にあったほのぼのした良さを取り戻せと言っているのではない。そんなものは全て年配者が抱きがちな幻想である。要するにおかしいと思われることがあるなら、誰しも積極的に社会的に容認された社会的地位に関わらず発言する自由を持つことは当然であるとしても、尚相当の批判能力や正当性を持った意見以外の大半を聴く価値などないと切り捨てていく勇気も必要である。又死などを論じることは青少年にも権利はあるが、大半の青少年による死の哲学はロマンティックな夢想に終始している、ともし年配者達が感じたのなら、若い世代に遠慮なく幾らでも批判すべきであり、それはマスコミ的言説に対して不可思議で理解出来ない要素を発見したら、相手がどんな権威であっても率直に意見を言うべきである様な意味で、全ての奥歯にものの挟まった言い方は消去させるべきである。そしてそのことと自由討論至上主義は全く両立しない。自由とは須らく抑制された配慮と、理性的な慎重さによる妥当な在り方が常に求められている。
 又ある意味では特異で多くの人々を率先してリードする能力全体への見直しも我々は検討すべきである。無責任な発言で大衆をミスリードしたマスコミ自体への訴追と同時に、相手がどんな権威者であれ、その失政的責任は充分取らすだけの理性も我々には求められている。
 それに今人類は既にかなり危機的状況でもあって、国家間の政争や紛争をしている暇はない。既に中国、ニュージーランド、日本と激震自体が恒常化しつつあり、これは無能力であるしかない現代の地球物理学者達の予想を遥かに超えた地球環境自体の、人類の側からの努力だけでもどうにもならない過渡期にあるとも言える。そしてそれはかつて地球上ではずっとある間隔を置いて起きてきたことでもあるのである。だから全ての国家首脳はナショナリスティックな意味でエゴイスティックな見解を放棄していく必要性を求められている。
 中東や北アフリカの独裁者達を何時迄も野放しにしておく余裕は今の世界にはない様に、領土的な紛争に終始している暇も我々にはない。それよりももっと早く人類自体が生存していけないかも知れないのだ。これは大きな地震が起きたからだけでなく、かなり以前から既にそうである。地球温暖化は我々によって加速させない方策は取れるかも知れぬが、恐らくそれだけでもそれを阻止することは不可能である可能性も高い。
 極論すれば、車などレスキュー的使命を帯びたもの以外の一切を各種交通機関以外の個人所有を放棄さえするべきかも知れないのだ。それは自由競争的な起業に関してもそうだし、マスコミ的機関も、マスメディア自体の自由さえそうかも知れないのだ。そして常に有益な情報は利潤追求によってではない形での方がより自然に我々にとって獲得し得るのだ、という理念をも念頭に入れておくべきである。
 つまりこれからの人類は既に仕組み自体は貨幣経済社会的な水準での習慣を残しつつも、資本主義自由競争的視座を大幅に見直す、しかも個人の自由の在り方さえも、努力して稼いだ者なら自由にお金を使ってもいいという不文律さえ見直していく必要性があると私は考えているのだ。そしてエリートとかインテリの従来どおりの在り方自体も大幅に見直すべきである。既に一部の大学組織での研究者にだけ大幅な研究予算を割り振ること自体も考え直すべき時期である。
 極度の成果主義も危険であるが、同時にアカデミズム自体の自由な空気自体も、多くの市民による検証と批判に晒されていくべきである。そしてその事における自由な提案に対し、一切のタブーや高尚なスノビズムを排していくべきである。相手がどういう社会的地位であるとか、どういう立場であるかということに対する権威主義的チェックさえ無効化すべきである。必要とあれば中学生の意見を大幅に取り入れてもいいし、逆にどんな権威者の意見でも下らないものであるなら、どんな立場の者でも自由に批判することが出来て、即座に撤回することも容易なシステムを社会全体に行き渡らせるべきである。しかし同時に責任追及自体の過度な報復をも常に抑制する配慮もシステムに組み込むべきであり、容易に社会復帰しやすい機能を全ての市民が持てる様にすべきである。
 又新たな情報が入り次第、考え方を纏めてみようと思う。

Wednesday, February 23, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十五章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて 第二部

 前章では私達一個一個の社会成員の能力や資質は集団毎に変質していくし、ロールプレイ上でもその都度交代したり、変化したりするのだから、私自身の資質や人格を「河口君は~である」と捉えることは、人によって異なる。私自身を分析的であると捉える人から、総合的だと捉える人、実務的だと捉える人からアーティスティックでポエティックであると捉える人までいて、それはそれぞれ間違っているわけではない。私自身が私を「~である」と捉えている像だけは正しいわけではない。従ってそういった意味では固定化された「~である」資質、人格、能力で肩書きをつけて国家レヴェルで著名人となっていくことだけが社会に貢献することではない、ということを述べた。その考えは変わりない。寧ろグループ毎に異なった役割を我々は担うが故に、どのグループに帰属する時にも変わりないロールとか肩書きなどない方がよく、そういった意味では全ての個人が多重的性格を帯びた肩書きで、資質で、能力で、人格であっていいし、又そうであることが可笑しなことではない社会自体の到来は待たれると私は考えているのだ。
 これはNHKの特番などで出演して意見する批評家の宇野常寛氏の主張内容を概ね認めるということである。しかし宇野の考える多義的で多層的な社会の在り方を遂行して行く為にはどうしてもクリアしていかなければいけない課題がある。それは特に年配世代の人達(それはかつて戦争を経験した世代という意味だけでなく、現代で言えば団塊の世代などが老人の世代に突入しているが、これから老人になっていく全ての世代のことである。しかも日本は益々高齢化社会になっていきつつある)にとってこの国の居心地のよさとは、端的に家族主義的な雰囲気を会社とかそういった組織や集団が持っているということであるが、同じことはアメリカでは決して当て嵌まらない。アメリカでは能力自体を社会に奉仕させるということに純粋に抽象化されていて、人間性自体を社会に売って生活しているわけではない。しかしその様な社会であるなら、宇野の主張する様な、会社の勤務時間が引けた後は、何時迄も会社内の対人関係を引き摺ることなく、後は各人が持つ趣味とかの集いに感ける時間で生活体系は構成されていってもいい、という理想は体現されよう。
 しかし日本の多くの安定化した経営の大企業などは未だに決してそういったドライに勤務時間とオフの時間を全く別個の次元の生活時間として割り切る仕方にはなっていない。
 つまりこの点で極めてドライな成果主義的な、ある意味では小泉竹中路線的な考えが会社員とか、従業員と経営者の間で完全同意されていなければ、多重性、多層性の社会は到来しない。
 この点の難しさに関して宇野は決して触れていない。この点は強調し過ぎてもし過ぎることはない。要するに宇野によるテレビでの発言はアメリカ型職業倫理を前提にしている。従って職場以外の趣味の集いの方に生き甲斐を見出すことを通常化させる為には、仕事に人間性レヴェルでの相互干渉主義を介入させないアメリカ式の完全能力主義にしなければならない。しかし日本の役所関係の仕事などでは、そういったことはかなり困難を極めるくらいに家族主義的なことが幅を利かせている(勿論上司と部下の関係ではいい上司がいい部下を育てるということに於いて各部署毎に人員の顔ぶれも違うので、勿論場所毎に差はあろうが、そういう考え自体は死滅していないし、寧ろそれこそが理想の職場であるという観念は日本人は根強い)。
 ハル・ヤマダの著作「喋るアメリカ人 聴く日本人」(須藤昌子訳、2003年成甲書房刊)はこの点では教えられるところの多いテクストであった。特に<上役は母役>(204ページ~207ページ)の記述はそれを端的に物語っている。少し長いが、全文を掲載しておこう。
 
 アメリカ企業では人事のトップに女性が就くことが多い。識者によれば、幼い頃から他人の世話を焼くようにしつけられる女性は人を管理する能力に長けているというのだとか。そんな見方がおかしな循環論法_男は人事でのポストを求めない、なぜならそうした情緒的な仕事は女性にうってつけだから_を生んでいる。感情的な響きを嫌う傾向は部署名にも反映され、「人事(personnel)」より「人的資源(Human resources)」のほうが人気が高い。なかにはhumanまで割愛して「資源配置(Resources Allocation)」とする企業まである。
 ビジネスの基本を人間関係に置く日本では、そのへんの事情はまったく違う。男性にとってはむろん、多くの女性にとって人事は魅力的な部門だし、部下の育成は男女に関わらず管理職に求められる能力と考えられている。第四章で述べたように、日本では面倒見の悪い上司は職業人として失格なのだ_仕事に私情を持ち込むのがプロ失格とされるアメリカと違って。
 日米の「プロ意識」の持ち方がいかに対照的か、身をもって感じた出来事をご紹介しよう。アメリカのある大学で日本語科の教員を束ねた立場にいたときのこと。講師は私を含めて女性三名、ティーチング・アシスタント(TA)が男性三、女性三の計六名。全員が日本人のチームだ。
 TAの男性のひとりが、私が別なTA(男性)をえこひいきしていると言っている_人づてにそう聞いて驚いた。さてどうしたものかと思い、部内の同僚たちにアドバイスを求めてみた。あるアメリカ人教授(女性)いわく、そのTAには余計なことを考えずに仕事に専念しろと言ってやりなさい、これだから男の人は….とのことだった。「上司が女だってことにうまく対処できないのよ」
 しかし日本人の同僚(女性)たちは、彼は態度を改めるべきだとは言いつつも別な提案を示した_彼が疎外感を感じぬように私がもっと彼に時間を割くべきだと。たとえば彼が用意した講義用資料をチェックしてあげるとか、答案の採点に目を通してあげるとか。あなたにかまってもらいたくて「だだをこねている」だけなのよ。仕事に専念しろなんて言っても逆効果、それより、君もチームの一員なのよとわからせてあげるほうが建設的ってものよ_だそうだ。これらの忠告には、過度に彼を甘えさせてやらない私にも責任の一端はある、とのほのめかしが透けて見える。
 だがアメリカ人の同僚に言わせれば、そうした試みはさまざまな意味でプロフェッショナリズムの侵害につながりかねないという。ひとつには、TA自らの判断で職務を遂行する権利を否定することになる。また、絶えず私に仕事ぶりを監視されているような不信感を生む。最後に、そうした日本人的行動はあまりに情緒的すぎてプロの仕事ではないという。件のTAは大人なのだし、彼の情緒の安定を保つことについての責任は私にはない、と。
 ところが日本人の同僚たちからは第二の忠告があった。彼に指導・助言をしたら、そのあと科内のミーティングで、それとなくばつの悪い思いをさせることによって彼に自分の態度が不適切だったことを知らしめるべきだというのだ。たとえば「今週は、特別にあなたの作った資料をチェックしてあげたけど….」とかなんとか。そうすれば彼も自分のやり方が間違っていたことに気づくだろう、と。
 この忠告をアメリカ人の同僚に教えたら、みな一様にぞっとした顔でこう言った_「そんなのあなたの仕事じゃないわ!何?あなた、その子の母親?」
 アメリカ人からすると、母親役を押しつけられるのはまっぴらごめんなのだろう。そんなか弱い役に甘んじていないで、TAには女でも男と同じ、ボスはボスだとはっきりわからせるべきよ、と。
 役割意識の強い日本でも、むろん上司には上司たる地位が認められるが、それはあくまでも<甘え>関係の中で成り立つ地位なのだ。このエピソードなども、ビジネスマンを理想とし、「独立」主義の明確な忠告を述べるアメリカ人と、慈しみ深い母親を理想とし、「相互依存」に基づく曖昧な忠告をする日本人、という両者の特徴を如実に物語っている。
 結局、折衷案をとることにした私は研究室に件のTAを呼んで言った_不公平な扱いを受けていると感じているそうだが、私にはまったくそんなつもりはない。あなたの態度にはチームのみんなも困惑している。講義の準備や採点の仕方について質問があればいつでも喜んで応じるから、もっと節度をもった行動をしてほしい。すると彼は破顔一笑して言った。
「ありがとうございます。叱られてかえってすっきりしました」
 これで八方まるくおさまった。TAは念願の注意を振り向けられ、カリキュラムは滞りなく進み、私も完璧にとは言いがたいがなんとか養育係の役目を果たした。(9、役割モデル_「職業人」と「慈母」)
 
 この著者はアメリカで市民権も取っておられる方であるが、最終的には日本的な相互依存的な甘え容認主義に組した決断で困難をすり抜けている。
 しかし宇野的ドライな従業員の側からの 仕事=お金を貰う手段 という合理的行為実践論からは、この様な慈母的な接し方を従業員自身が求めていないということは、逆にかなりのスキルを仕事能力で持っていなければならない。つまり日本型の就職する迄は却って余りスキルを持っていずに、集団とか組織の一員として馴染んでいくに従って徐々にスキルもアップしていけばよい、という経営者の側の目算には、宇野的考えが社会で貫徹されることは程遠いと言わねばならない。スキルを身につけていて責任さえ果たせば後は何も言われずに済む式の職業人の在り方に全面移行するには余りにも日本は未だ年功序列的な対人関係と、組織内、集団内の相互依存、甘え体質が隅々にまで行き渡っているのである。
 例えば宇野常寛氏自身は「思想地図β」で<郊外文学論_東京から遠く離れて>といった長論文を書くだけのスキルを備えた論客であるが故に、自身が主張されるある種の ドライな職場=スキルと責任遂行のドライな非家族主義導入的な割り切り という考えは極自然に抱きやすいと言える。しかし私の知人も主張していることだが、新しい社会世相、例えばウェブサイト上でのコミュニケーションというものは、今迄になかった現象であるが故に目立ちやすいが、日本社会には未だ未だ(恐らくそれは米国であれ、何処であれそうなのだろうが)伝統的な考え方とか、因習的な考え方が隅々にまで残存している。つまり古いままに残された慣習性とはそう容易に一朝一夕に変更が利くものではないとも言い得る。つまりだからこそ、アメリカと日本を三年おきに行き来する社会言語学者のハル・ヤマダ氏をして斯様な論文を書かせるに至らしめているのである。
 その意味では私自身は理想的には宇野常寛氏の考えに組するものであるが、現実的には尚更なる超えるべきハードルが社会の隅々に立ちはだかっていると考えることは極めて自然であろう。しかも日本国内には、未だ未だ関東地方で当たり前のこととか、近畿地方で当たり前のことに於ける差異も多数残存している、と私は考えている。とりわけ東京や横浜、或いは大阪や京都、奈良などでは全く異なったタイプの礼儀とか、社会慣習が存在する。その点では郊外型に生活実感としての拠点が移行しつつあることを文学作品の主題性から論じている宇野氏からは批判されるかも知れないが、年配者になっていくにつれて、非郊外型の想念が支配していき、結局都市部と地方との二元化へと移行せざるを得ないという考えも私は持っている。つまりその二つを容易に越境させるモータリゼーション(「悪人」<吉田修一>に描かれていた様な)を保持することで郊外こそが<いま、ここ>という都市からの逃走線という想念を超えた在り方を現代的視座としての恒常性として規定する宇野の論拠に逆らうかの如くではあるが、年配化していく、即ち老化していく身体に於いて年配者にとって真に居心地のいい空間とは、奈良の様な自然から切り離されて建造物の人工性が囲い込まれていない古の都、或いは京都の様な枠に収められた視界から覗き見る庭園や情景の観光的な囲い込みを往復する様な空間的ユビキタス性こそが日本人の精神的寛ぎというものであるという想念は、仮に宇野の考える郊外型合理主義によって地方色を脱臭されても尚残存するというのが私の考えなのである。これは保守主義的なことからではなく、人間の拭い難き惰性的性向に起因するものである。
 次章ではその人間の拭い難い惰性的性向とはどういうもので、どういう実質的根拠があるかということを考えてみたい。

 付記 現代の就職状況は多くの青年世代の人達にとって熾烈を極めるが故に、最初から特殊技能を求められると言う事はあり得る。しかしそれは全世代に行き渡っているわけではない。既に就業している会社員などは、組織全体の、集団全体のロールを担わされていて、それはスキルだけで成員としての責務を果たしているわけではない、ということを本論では考慮して頂きたい。今の就活組は、二百社から三百社くらい受けるということ、そしてそこでは差別化されたことを求められる、と就活アドヴァイスでは言う。しかし実質的に採用する側が必ずそういう規準でしているとは限らないとは考えておくべきだろう。(Michael Kawaguchi)

Sunday, February 13, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十四章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて

 NHKで数回に渡って無縁社会という語彙の下に孤独死老人を生み出す背景を、エア老人問題を発端にしてスタジオ内座談会形式の生放送で放映されたことから、マスメディアで無縁社会と孤独死という語彙がすっかり定着した。
 つい先日その最終回が放映されたが、又新年度から新たなシリーズで同じテーマを扱うのだそうだ。しかしある重要な点で私は違和感を覚えた。
 まず孤独死という語彙を定着させる動機にある時代錯誤を感じざるを得なかったからである。何故なら孤独であることに対する定義が、一向に論じられていないという点に痛烈な違和感を抱かざるを得ないのである。孤独であるということを厳密に定義するなら、全ての個人は孤独である。ある不治の病に罹る人にとってその病の辛さを人からは理解して貰えないという意味では、全ての個はその持って生まれた条件、身長から体重、顔つき、得意なことに至るまで全て他者と交換不能であるという意味では孤独以外ではない。蕎麦粉にアレルギーがあって、それが為に死ぬ個体もあれば、日中に太陽の光を浴びることが出来ない個体もある。
 しかしそういった苦渋を背負うこととは別箇に社会環境的に家族がいて、何かあったら助け合う状況にあるということだけを特定化して、それを得ていない社会成員を孤独死成立可能成員として位置づける余地とは一体どういう前提が設けられているのだろうか?
 一つは地域社会の崩壊を嘆くというNHKの意図がある様に思われる。つまりNHKは左寄りの官公労とか自治労といった組織の倫理に対して一定の敬意を抱いている。従って地域社会を政治レヴェルで統轄するという題目に於いて彼等は、年長者とか年配者と若年者迄の全ての世代が社会秩序を形成すべく協力し合うという通念に支配されている。
 勿論何の世界にもそういった社会構成的ヒエラルキーはある。だが重要なことは全てのヒエラルキーが強制的なものであってはならないということが少なくともNHKには希薄である。少なくとも視聴者に対してそういったヒエラルキーは個々の選択に於いて、或いは個々の営為努力によって自ら立ち上げ可能であるという意識を前提にしてはいない。
 その点では宇野常寛の意見こそ最も順当且つ妥当なものであった。要するに必ず我々は既に職場を中心とした対人関係の構成秩序にだけ準じていればいいという旧態依然的社会秩序論から容易に脱却し得る時代に生活しているのである。その一つが論客、宇野氏によって示されていた趣味の集いである。職場が引けてから集う集団とか組織、或いはそういった形式的なものでなくても自然発生的なヒューマンネットワークに身を委ねていったり、或いはネット上だけで構成される広場で意見を寄せたりすることから人と人の繋がりを模索することがあったっていいし、それこそ全て選択肢は自由なのである。
 もう一人の論客である奥谷禮子という方だったが、私は彼女の論理的背景を全く知らないが、少なくともネット上で形成されたヒューマンネットワークがリア充的ネットワークと違って刹那的なものだけであるという見解には頷けなかった。まさに管理社会的発想だと思ったのだ。要するに年配者を筆頭に、年功序列的な地域社会とか会社とか集団組織形態があって、それを基調に全ての社会秩序がバランスが取れていればいいという発想に思えたのだ。
 社会秩序とか社会構成とかは、私の考えでは個々人で選択肢も多くあっていいし、多層的であってもいい。つまり私自身は哲学学会にも属していても、必ずしも哲学者という専門家としてだけ社会に帰属しているのではなく、ある時には進化論系の学会にも属し、アーティストとしても活動するという様に、一つの職業に括るということ自体さえ破棄していっていいと考えている。ある一人の人間の能力は相対的である。Aという人にとってBは自分よりある分野に就いては秀でていて、情報にも通じているが、別の分野に於いてはそうではなく、自分の方が上である、という様なことが、全ての個人に於いて存在し得る。すると一つの職業という意識だけでなく、そもそも社会的地位的表示さえ、絶対的固定化されたものである必要さえない。ある集団ではアーティストと名乗り、別の組織ではビジネスパーソンと名乗り、別の法人では学者と名乗ったっていい。つまりそういったフレクシビリティこそが社会に求められている(私はある一人の人間が何処かに住民登録する必要さえないと考えている。つまりそこまで社会全体が住民登録したいという人はそうして、そうではない人は方々で住居を持って、しかし国家に税金を纏めて払うと言う様な個々人の選択さえあっていいと考えている)。
 ある人間の能力は社会国家全体のレヴェルで決定されることではない。そういった考え方自体が既に権威主義以外ではない。社会国家の中にたまたま存在するある集団、組織に於いてのみ機能し、実力が発揮し得る。つまりそれが認知された段階でたまたま全国的規模である人がたまたま科学者であるとか作家であるとか認知され得るだけである。仮に芥川賞や直木賞が受賞者を毎年出しても、小説ファンとか文学愛好家が彼等の作品を巻頭に特集した月刊誌とか単行本で読まなければいけないという法律がない様に、全ての職業的認知に関しても、全国的規模の認知度が絶対とは限らない。ある集団や組織に於いて固有の地位を獲得して発揮される実力や業績の方を重視するなら、ある人が帰属先を変えると、そこでは又別の役割を求められ、それまでの業績内容が必ずしも問われないという様なアメリカ式の採用基準の方が余程現実的である。
 人間の能力は多くの可能性を秘めている。従って前歴だけで未来の業務が決定されるという考え自体が既に無策化しているとしか言えない。
 又宇野氏の主張する様にネット上で知り合ったヒューマンネットでも人々は他者同士で協力し合えるのではないか?奥谷氏はそれを否定されていたが、私は宇野氏の言う様に仮に隣人であってさえ特に私が住むマンションなどでは既によくどういう職業であるかさえ知らない(又知らない間柄同士であってさえ全く差し支えない)ということの方が多く、必ずしも隣人同士だけが何かあった時に協力し合えるとは限らない。勿論急病とかの場合には隣人こそが真に助け合えるということはある。従って隣人的地域住民同士の交流とか協力体制は重要である。しかしそれでも親しい間柄の人が必ず隣の人である必要はない。勿論隣人であるのにいがみ合う必要はない。只それらさえ選択肢があるのだし、同様に今は佐川急便とか様々な物流システムが発展しているのだから、そういった利便性をネット上での友人同士で情報交換し合って何か急な時に援助し合うという事態もあり、そのいずれが重要であるとか、そうではないとかは言い切れない、と私は言いたいのである。
 要するに協力的愛自体を地域社会で得られる個人であるなら、それはそれでよいのだし、そういう人はネット上での対人関係が二次的なものであってもいいが、地域社会では余りそういったヒューマンネットを得られない事情の人にとってネット上での協力的愛が成就し得る可能性があるのなら、そちらに救いを求めることは自然であるし、それを副次的なこととして、刹那的な価値しかないと言い切ることは暴挙である。
 つまり社会的生活形態の多様化に伴って、個々人の生活に於ける理想とか幸福形態自体が多様化していっていい。必ずしも結婚して子供を儲けることだけが幸福ではない。世の中には親子も夫婦も別々に生活している人達も大勢いて、そういった人達が必ず毎日夕食を家族団欒で過ごす人達より不幸であると言い切れるだろうか?
 かつて「岸辺のアルバム」という名作ドラマがあったが、仮に毎日共に暮らしていても夫婦も親子も真に絆に於いて結び付けられているとは言い切れない。勿論そういったかつての理想を体現している人達もいていいし、これからもそれこそを理想と考える人達がいてもいいが、彼等の価値によって社会全体が統一的に一元化されていく必要など更々ない、と私は言いたいのである。
 つまり幸福的価値基準自体の多様化と個々人の自由選択をこそ保証されることが、社会や国家、或いはその中で帰属すべき集団、組織の存在理由であるべきだ、と言いたいのである。
 勿論宇野氏が例示していた様な趣味の集いに感けて本業が蔑ろになっていっていいとは言えない。それはそれできちんとこなせば後は何をしてもいい。しかしその本業自体も必ずしも長期持続出来ないのであれば絶対すべきではないとも言い切れない。
 確かに今現在では職替え自体がかなり困難化している。しかしそれがもし出来るのであれば、実践して悪い訳がない。それこそこういう困難な時代に生き抜く智恵を我々に提供してくれることとなるではないか。
 新しいとも必ずしも言い切れない自分が生きてきた高々数十年の間にはなかった生活幸福観の登場にうろたえることほど滑稽なことはない。例えば今現在八十歳の人と二十歳の人にとって三十年前の日本の状況の意味するところは確かに大きな意味の違いが横たわっていよう。しかし七百年前の日本はこの二人にとってほぼ等価であると言えないだろうか?それは七百年前に日本であった出来事の意味に於いてこの二人を分断することが出来ないということであり、それは当然歴史的事実とは古ければ古いほど既に個々人の観念とか感情とは切り離された一つの歴然とした不変項目である。それと恐らく今転換期を迎えている日本で起こりつつあることは同じである。たまたまここ十数年の間に起きたことは、今八十歳の人にとってはなかったことであるに過ぎず、もっとロングスパンに於いて俯瞰するなら、必ず似た変化はかつて日本でもあった筈なのである。
 それは現代を代表する哲学者の基本的考えが既にプラトン以前からプラトン以後アリストテレスの時代迄に大方全部と言っていいくらいに出尽くしているということと同じである。
 我々は常に脳内思考を一つの思考傾向に絡め取られ習慣化された考えから一歩も後退することをしないでいるということ自体に危機感を感じていくべきではないだろうか?

 付記 少し前の日本では病院で死ぬということの方がずっと少なかった。必ずしも一人で自宅内で息を引き取る人にとってその死に方が不幸であるとは言えない。自分が死ぬ姿を人に見られたくはないという自由をNHKは一切顧みていないことにも私には違和感を覚える。それは死に逝く人を看取る側の一種の安易な満足感でしかない。<死ぬ時に子供や配偶者、その他に看取られたいと願うのも勿論個人の自由である。要するに死に方自体をNHK如きが一般化するな、と言いたいのだ。>(Michael Kawaguchi)

Monday, February 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十三章 理性的判断と生活実利的判断

 我々が政治に於いて選挙で誰かに投票する時明らかに色々な個々人間での投票動機が異なるだろう。しかし少なくとも我々は政策的な提言が個人の政治家によってなされたりすることとか、政治状況に於いて我々有権者自身の生活実態に深く関わる政治決断を期待して、投票することだろう。これは以前2004年に於ける郵政解散総選挙に関して「決心の構造」でも詳しく書いた。
 しかし自分自身で我々が政治的選択、つまり投票をしているかどうかというと、かなり疑問である。その時々での判断は、政局全体への変革とか、いい意味での政治の活気が作られること自体を期待して投票する。つまり端的にそれは地味で内実的な政策や政治家の人格よりは、より派手で目立つ、そして華やかな雰囲気の政治家に、人格面からよりは、よりマスコミ、マスメディアイメージ信頼的にそれらに依拠してなされる。
 それは前宮崎県知事であった東国原氏への圧倒的人気による当選に於いても感じられたし、最近では名古屋市長出直し市長選でも言えた。この日は愛知県知事選、市議会解散是非を問う投票が同日選挙だった。このことに関しては民主与党をはじめ、自民党も含めて全ての政党が敗れたこともあって、総務大臣の片山氏が選挙の話題作りで党派的に仲間である知事と市長が当選したことを批判していた。
 政治は綺麗事だけでは済まない、とはよく言われることである。つまり政治とは政治的行動力であり、理念とか思想とは実践されなければ何の役にも立たないのだ、と。しかし本当にそうだろうか?
 そもそも我々が政治に期待することとは、政策とその実行である。だから当初は単純にある政治家が立候補するにしても、当選するにしても決してパーソナリティだけから選んでいるわけではない。勿論その人固有の経歴も参考にするだろう。しかしそれらと政策的期待とが総合されて判断される段階では、既に幾多の政治経歴のない人の場合には、我々は総合的評定で決する。
 政策、理念、選挙運動的行動全体を総合的に評定するのだ。
 そしてそこである候補が当選して実際に公約とおりに法案を通せば我々は一応の評価を下す。「あの人なら大丈夫だ」と。これは一種の合格点であり、一旦これを取得した政治家は信頼を得るから、途端にその政治家と敵対する勢力全体が悪に見え出す。すると悪に対してなされるどんなにあざとく狡い戦略でも我々はどうしても贔屓の目で見る様になる。つい狡さに対してさえ応援してしまうのである。
 しかしこれはやはり陥穽である。敵対勢力を撃墜させるメソッドも、そのことによって相手が撃墜されればそれでいいのだろうか?そうではないだろう。
 そういう意味では私は今回名古屋市の河村氏を応援したが、ここまで圧勝してしまうと、それも又一つの危険性を招聘したとも感じざるを得ない。つまりこういった話題性と超絶的な人気が独裁を生む場合もあるからである。
 我々には一旦認可してしまったものに対する評定は甘いという性格がある。つまり自分自身で批評対象にお墨付きを与えてしまうのだ。しかしこれはやはり陥穽である。我々は小泉政権に対して極めて甘い評価を下し、それによって多く今の生活を自分達自身で苦しめてきたことも忘れてはなるまい。勿論小泉政権が残した遺産もある。それとは別箇にシビヤに他者評定すべき観点も決して忘れてはなるまい。
 好きな者に対しては評価を甘くし、嫌いな者に対しては特別に評価を厳しくするということは我々の心的作用としてはありがちなことなのである。しかしよく考えてみよう。好きになった者を好きな者にしたのには、最初はその好きになった者の我々に対して好きにさせる行動があったのである。しかしそれを裏切る様な行動をしたなら、我々は好きな者にしたということ自体に反省を加え、好きな者への評価を覆すべきなのである。批判すべきなのである。このことは極めて大切なことである。
 勿論私は直接は私の生活に関係はないが、大村愛知県知事に対しても河村名古屋市長にも、それなりに期待している。活動自体を見守っていきたい。そろそろ東京都知事選も行われる。そちらの方が私の生活には関係ある(隣接県に住んでいるからである)。
 要するに評価を流動化させつつ、同時にその評価対象への支持・不支持もその都度再考すべきなのであり、固定化された評定や、一旦好きになった者への変わらぬ贔屓という感情は、こと理性的判断で臨むべき政治では禁物である。それはどんなに偉大な過去の経歴を持っている者に対してもそうである。否そうであればこそ厳しく評定すべきなのだ。それは全ての職業の人に対して注がれるべき視点である。それこそが安易な贔屓感情が不必要な権威主義に直結していってしまう陥穽を防ぐ唯一の手立てである。そして政治の場合そういう風に不必要な感情を導入させなさこそが、実は最大の政治の効用、つまり生活実利的判断へと直結するのである。

 付記 一旦評定に於いて是としたものを覆すのは心的にはやはりしんどいからこそ、我々は被評定者を是認していく傾向があるのだろう。これが全ての権威、前例的踏襲の温床となっている。やはり我々はその内的な惰性的虚妄製を剥ぎ取っていく努力をすべきなのである。(Michael Kawaguchi)

Tuesday, February 1, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十二章 マスコミの無責任さ極まれり

 私は既に大分長いこと新聞を取っていないし、読んでいない。読むべき価値ある新聞は日経新聞だけだが、あの新聞は購読料が高く取っていない。
 新聞のことは従って語れないが、テレビの深夜の政治経済のヴァラエティは色々な局のものを聴き比べている。しかし率直に言ってテレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」以外は殆ど偏った報道姿勢である。
 昨日はNHKでもテレビ東京でもない民放のものを聴いていたが、その時キャスターが与謝野経済財政大臣が設立した会議に自民党の柳沢伯夫氏を起用したことを報じる際に「民主与党が益々自民党に似てきた」と揶揄していたが、こういう発言は余計である。
 第一我々国民は民主党に政権交代したからと言って社会主義国家になったわけではない。従って長く自民党が政権与党であった理由は、自由競争社会を前提としては我々自身が望んできたということである。しかしそれを蔑ろにして自民党時代にあったいい部分を現政権が学ぼうとしている姿勢まで批判することはない。
 こういう偏った報道姿勢を無頓着に続行させているところが日本のマスコミの無策ぶりである。
 今日もテレビをつけっぱなしにしていると、隣室から聞こえてくる国会中継で、公明党の議員が「民主党は弱者の味方ではなかったのか」という質疑応答をしていた。これなどは言語道断な意見である。
 何故なら私は何時の時代でも弱者、弱者と叫ぶ者を絶対に信用しないからである。端的に弱者に優しいということは大事なことであるが、それは国民一人一人が内的に肝に銘じておかねばならぬことであり、政治家が大上段に振りかざして言うべきことではない。大体に於いて弱者、弱者と叫ぶ者には、その背後に弱者救済を名目として利権を死守する意図が仄見える。いやはっきり見えると言ってさえよい。
 この発言は寧ろ共産党に近い。共産党は企業経営とか経済社会のシステムを全く理解していない。人員整理に就いて今も語っているが、企業全体が立ち行かなくなったら、日航でさえ倒産してしまうという現実を理解していないのだろうか?否理解していても尚自らの社会イデオロギーの方を優先してしまうという党なのだ。
 マスコミはある部分ではこういった無責任な野党政治家の発言を助長しているし、又穿った見方をすれば、マスコミ報道、つまりテレビ局の存亡自体が何らかの利権に裏付けられているとしか考えられない。
 この種の偏向報道が齎す実害は青年世代の未だよく政治経済の仕組みを知らない人達へ与える悪影響は著しい。
 日本のマスコミはある一つのイヴェントに対してその見解が色々あるという形で報道を持っていかない。寧ろ常に何らかの体制批判に終始している。これはかなりやばい状態である。マスコミは様々な意見の代弁者であるべきであり、野党だけを常に持ち上げる姿勢は慎まねばならない。私がこんなことを言ってもその点でまともなスタンス(どちらにも偏向しない)のはテレビ東京だけである。尤もそれは「ワールド・ビジネス・サテライト」自体、日経新聞がスポンサーであるからということも手伝っているのだが。
  政治経済ニュースヴァラエティとは案外難しい番組作りを要する。つまりパネラーの選択やキャスターの発言内容自体をよく吟味する必要がある。報道に纏わる公正さとか公平性ということを一切考えずその時々での気分だけものを言うタレントの様な人達(作家と称する人も多いが、碌なものではない)の無責任な発言だけを重視する。それは一重にテレビ局に顔が利くタレントであるという以外の出演理由はないのだ。
 これはマスコミ自体が私達一人一人の国民の知性を侮っている証拠である。どうせ専門的なことなど国民は分かりはしないのだから、こうやってお茶を濁しておけばよいという選択をしているとしか思えない。つまりマスコミ、マスメディア自体がそれを享受する側が余り知性的ではないということが好都合なのである。これが日本の言論界にまで波及している傾向であるとさえ言える。
   確かにブログやツイッターで未だ会ったことのない人達との間で横の連携も我々一般人も出来る様になった。しかし未だ未だ言論を自由に大勢の人達に知らしることの可能な人達とは極々限られている。この現実自体を「それでいいのだ」としているのがマスコミ、マスメディアなのである。彼等にとっては下手に一般大衆が智恵をつけてしまうことは憂えるべきことなのだ。
  しかしそれは間違っている。全ての市民、有権者達は発言権を持っている。
 今でもツイッターでは自分自身の意見ではなく、著名な批評家や論客の意見を鵜呑みにしてツイートしている人も多い。もっと自分自身で考え、どんなに偉い人が発言したことでも、それは可笑しいと批判するマナーを身につけるべきであろう。私の考えでは大半の論客、批評家、コメンテーターは、その意見を拝聴する価値などないのだ。
 今回は突発的な記事となってしまったが、こういう現実世界への横槍もまた、社会と世界と我々の生の実存を考える上では欠くべからざることなのである。

  付記 政治のイロハも知らないタレントに政治経済の意見を言わせる愚は、一重に局側のディレクターやプロデューサー自身が仕事をしやすいという理由からであり、視聴者の側のニーズに拠っているのではないのだ。こういう番組を視聴しない様に心掛けたいものである。(Michael kawaguchi)

Friday, January 21, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十一章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part2

 肯定的に何かを、誰かの意見を否定する場合には、それを肯定しようとする立場を必要とする。つまり強い否定とは、肯定に対する抵抗である。まさにそれが強い肯定であればあるほど強い否定へと通じる。例えば特に外圧に屈して否定しなければ本来ならいけないものを誰かが肯定している様な場合、そこに心にもないことをしている、つまり外圧に対して卑屈に媚びている(それが仮にかなり誇らしげに媚びていても、真実ではない仕方のあることに対する肯定は、その行為存在自体が卑屈である。従って権威や権力への屈服した態度とは、それがどんなに傲慢不遜でも卑屈としてしか定義され得ないし、感知、認知され得ない)行為自体への批判がある。これが強い否定の感情的、情動的ニュアンスである。
 それに対し弱い否定の場合、仮に自分ではさして大したことでも大したものでもないと思っていることやものに対し、ある他者が過大評価している様な場合、それを窘める態度の場合に示されることは多いだろう。つまり下らないものやことを素晴らしいと評価している者の浅はかさを指摘する為に施される否定とは端的に上記の外圧的屈服への盲従に対する痛烈なる批判よりは、その者の判断が主体的であることだけは認めているが故に、その主体性にではなく、あくまで判断力に対して批判しているのだから、上記よりは幾分弱い否定である。つまり肯定的否定の中でも否定的否定に少しだけ近づく。
 しかし本当の否定的否定とは、本来ならば肯定したいのに、ある程度の外圧的屈服があって、それを否定しなければいけない様な状況では起き得る。例えば文学賞の審査員達の間である優秀な文学作品が登場したとしよう。しかしその作品は作品の質の上では最上のものであると思われても、それ以外の候補作で素晴らしさが同じくらいの作品は後二つあったとしよう。そしてそれら三つの作品は同程度に評価し得る。しかし一時に三人を受賞させるわけにはいかない事情がその文学賞である(大概はそうである)場合、後二つの作品の作者が今回で共に三回目に候補に挙がっていたとしよう。すると必然的にある審査員にとってその作品が主観的には一番推したいものであるから、その意見を一応他の審査員に告げたとしても、最終審査に於ける申告で、他の審査員全員が後二作の方を推した場合、それを通すことを頑なに拒否しても、叶わないと知った場合には、ある程度致し方なく最初に推した新人の作品を推すことを撤回することは大いにあり得ることだ。こういう場合には弱い否定だから、否定的な否定ということになる。従って否定的な否定が一番多く未練を残すこともある。尤も今の次回作に於いてその作者がいい作品を書いた場合にはその審査員はよかった、やはり彼(女)は実力があった、とそう思えるから、一回は見送ったことはよかったと思うだろう。またその作品の素晴らしさだけでその後作家が終えてしまった場合にも自分自身の前の作品への思いは只単なるその時の贔屓であったとも思い直せる。しかし素晴らしい次回作を書いたその新人が二度目の候補作が受賞が決定したその日の午前中に不慮の事故に見舞われ他界したとしよう。すると審査員はあの時こんなに早世するのであれば、せめて何とかごり押ししてまでも受賞させてあげればよかった、とそう思うかも知れない。こういう場合にはかなり未練が最後まで残る、つまり忸怩たる思いを発生しやすい選択肢として否定的否定というものを位置づけることが出来る。
 外圧的屈服によって肯定を否定に、否定を肯定に転じさせる場合、否定を肯定に転じさせた場合、例えばある総理候補になった人がいたとして、その者が本来余り個人的感情の上での好きでないし、且つ政策的なことに於いても必ずしも賛同し得ない場合でも、自分自身が世話になってきたある有力議員からの熱烈な推薦に迎合して仕方なくその総理候補に一票を投じるということはあり得る。しかしその議員が本当に素晴らしい実績を上げた総理としての仕事をした場合には、尚且つその仕方なく一票を投じた政治家にとって、その時の否定的肯定は結果論的には「正しい判断だった」とそう思える。しかしその総理となった人が余りにも目を覆わしむる行為で酷い総理となっていったなら、「あの時の私の判断<外圧的屈服>は間違っていた」という感情を誘い、当然かなり忸怩たる思い、要するに後悔と未練を残すことになろう。とりわけ自分が推奨していた別の総理候補がいて一票を投じた時点でいて、その者が実際に総理になって為政者となった人よりも優れていると誰の眼にも明らかである様な現状である様な場合には、尚更であろう。
 この二つの場合、つまり否定的否定と否定的肯定の場合、どちらがより後悔を誘うかということは俄かには断定出来ない。只今挙げた例示に於いて、文学賞候補者が次回作で受賞するその直前で死去する様なこと(先程の事例で後発的に付加した仮定)を除いて、一般には否定的否定が適度の愛の鞭的なことである限り、否定的肯定よりは後悔は少ないとは言えないだろうか?つまり心底相手を容認してもいないのに、その者を肯定しなければいけない外圧的屈服ほど、その容認していない相手が自分自身の見誤りで実際には優れた者であった場合を除いて、特に相手がやはり自分の思う通り肯定すべき何物も持ち合わせていないことが発覚した場合の後悔と未練は否定的否定より強いのではないだろうか?
 つまりそれはプロフェッショナリティ(それは見方に於いてもそうだし、職責的にもそうなのであるが)として自己自身喪失に直結する。或いはその意志決定的薄弱さへの自信喪失、或いは自己存在自体への卑屈を生じさせずにはおかない。従ってnegative negationである仕方なく肯定しているものを否定する方が未だしも救いがあると私は考える。それだってかなり忸怩たる思いが、先程私が挙げた例の様に文学賞審査員が一度受賞を見送らせた当該の候補作作者が本当の受賞の寸前に急逝するという様なケースはあり得よう。しかしその罪悪感も最低限プロフェッショナリティ自体の威信を自己へ傷つけない。つまり多少の罪悪感とは死刑執行人が死刑になって当然の死刑囚に対してさえ抱くことに近い。それはプロとしての悩みであり、プロであること自体への懐疑は齎さない。
 しかしnegative affirmation は完全なる権威への屈服以外ではなく、それは職業倫理的にも敗北である。そういう決断を下すと我々はジャン・バルジャンを逃がしてしまったジェベール警部の様にプロとしての自己存在理由自体を懐疑の底に沈めてしまう(あの小説では、しかしそれでも尚職業倫理以上に大事なものがあり得るかという問掛けがあったのであるが)。私達はどんなに生活死守の為の社会的妥協をしても、これだけは避けたいと心底では願っているのではないだろうか?もしそれを誘引させてしまうとすれば、それは一重に生活信条上での怠惰以外ではない。そしてこの種の態度に慣れてしまうことこそ我々は精神的老いと捉えてもいいのではないだろうか?

Wednesday, January 19, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十章 他者の中の理性を信じることの必要性と冷めた見方の同居

 前回迄のシリーズは次回から日本人の像とアメリカ人との関係を基軸に展開するが、少々データ参照に時間を要するので、別の内容から暫く(数回)考え、少し時間を経た後に再び取り掛かりたい。そして今回の様な内容が極めて今迄書いてきた全ての章と繋がりがあるのである。又以前取り組んでいた章のテーマとも次第に全てを密接に関係化しようとも思っている(例えば二十七章でPart1を更新した「否定という態度をどう捉えるべきか」などに関してである)。
 ある仕事を辛いだとか、退屈だとかを決めることの第一はある組織や集団での対人関係から、仕事自体の自分自身の社会的責務とか使命感との齟齬とか、自分自身の努力に見合った評価を下されていないということへの不満と鬱積からの場合が多い。それは何処か必ず自分自身の側にも問題がある。つまり意思疎通と、自己信念の他者全般への示し方に問題がある場合が殆どだ。
 しかし同時にこちらは誠心誠意示しているのに、全くその意志も意欲も心意気も全ての他者に通じないということもあり得る。そういう場合には組織や集団の在り方自体を変えていく必要がある。しかしそれは今迄の仕方(変え方自体)を何か変えなくてはならないだろう。或いは戦略も必要だ。
 人間は自分ではよく知っている、或いは理解しているつもりのものを本当はよく知らない、理解していなかったり、逆に本当はよく知っていて理解しているものを、変に遠ざけて知らない振りをしたり、よく理解していない振りをすることがある。その意味では自分自身に正直になることは案外難しい。
 何故そうなのか?それは我々が社会的動物だからである。他者と接し、そこで色々な問題と関わる。その際に我々は自分自身を見つめているのとは少し違う局面を体験する。それは端的に自分自身の何処か上の場所にあって、それは自分以外の全ての人達からしても同じである、或いはそうである筈だという前提で何かの問題に関わっている。その際に巧くことが運ばなかったり、自分が示した考えとか姿勢を誤解されたりすることはしばしばある。しかしそのことである会合とか組織とか集団と関わることが億劫になっていく場合に、その会合や集団、組織で自分にそういう気持ちを起こさせた人を変に過大評価し過ぎて、要するに自己にとっての天敵であるとか、苦手な相手だとか決め付けていく。勿論何かどうしても仕方がない理由で離れていこうとしている集まりに対して我々は、そういう決心を揺るぎ無いものにする為に決め付け的に判断しようとするだろう。それはそれで仕方ない場合もあるが、そういうケースが多くなると危険信号であるとは言えよう。
 日本の国会とか政治の世界を見ていると、何処か既に決め付け以前的に、本音で語り合うという姿勢を失っている様に見える。つまり全てが国民と、政治と国民の間に立ちはだかっているマスコミ向けのパフォーマンスに終始していると私からは見える。形式的にだけ民主主義の原理、公平な原理、正義を持ち込んで、実際にはそういった真摯な遣り取りをしている様には見えない。
 しかし政治では駆け引きということ、そこに図られる権謀術数ということが極めて政治力誇示に於いて重要であるが故に、モティヴェーション論とか正義論を真摯さのレヴェルから推し量ること自体が不毛である、と言われればそれまでであるが、マスコミを軸とする「見てくれ」的部分に多く意識をしなければいけない政治家の状況は健康的なことではないし、そういった対マスコミ的対策だけを期待させる様に仕向けるマスコミの在り方(菅総理への組閣後の質疑応答でのマスコミの人達のあの無策的質問内容を見よ)には辟易とせざるを得ない。
 政治の場合自分自身が直に参加する各種シンポジウムとは少し違う様相がある。それは政治の舞台に参加していない全ての人達の生活に次の日から大きく影響を与えてしまうというところである。従って政治に関わる人を、その性格とか人柄で評価してはいけない。それは一人一人少しずつ違う理性の在り方が、仮にある会合の流れとか場の雰囲気を決定している、つまり全ての差異が集合化して、その場の性格を決定している様な意味では、完全にその集合された立案され様としている法案の背後に存在し得る利害全体を把握しきれなさに起因する。つまり一人の代議士の発言から懸案全てが極めて多くの人々の利害に直接関わるが故に、ちょっとした一言が極めて重要な意味を持ってしまう。だからこそ失言とか軽はずみな行為が慎まれるわけだ。勿論だからと言って形式的なだけは粗相のない様にしておけばよいというものではない。しかしにも関わらず内的な誠実さよりは、外的に示される効果を考慮に入れた発言内容、発言機会の把握、政治的動き(人脈などの)も必要とされている、とは言える。それは心の奥底の真意とか誠意よりは、より見てくれ的に示される態度とか風格、貫禄といったことの方が重要だということだ。
 それは言語行為とか集団内、組織内での対人関係とか対人的な好悪感情自体が、既に言語行為上での対外的に示される自己行動とか意志発現から齎されていることに我々は往々にして忘れがちだからだ。つまりある余り好ましくない外部からの態度を得た場合、大概は自分自身の態度の取り方に問題もあったのである。勿論常に自分の側に問題があるわけではないだろう。しかし少なくとも自分自身もその場には居合わせたのである。幾分かの責任はどんな場合にでも自分にもある。と言うことは集団とか組織とはそれ自体その様に個的な信念とかプライヴァシーと常に別箇のものとして自分自身に於いても認識されているし、集団や組織自体もそうである。そして個々の異なった生活状況やプライヴァシーや、集団や組織自体への関わり方自体が少しずつ齟齬を来たしているという事実に於いて、その集団や組織は運営されているという現実の前で初めて、何故皆が皆の上の何処かにあるものを軸に集団、組織と関わっているかということの理由が明確化する。つまり全ての個人が少しずつ当該の集団、組織の為に真意を控え、我慢し、不満に耐え、真実の自分自身というものが仮にあったとしたら、何らかの偽装的態度で、演技し、ある程度偽の自分を装っているということである。そしてそれが極度に集積されたものこそが、例えば政界である。彼等代議士も参議院議員も、ある意味では全く自分自身の素ではない部分だけの集積から自己行動を好むと好まざるとに関わらす選択せざるを得ない。彼等の一挙手一投足に彼等自身の素のキャラクターは寸分も入り込む隙はない。
 つまりその事実こそが形骸化した対マスコミ的態度、真摯さよりは外部に示される姿が公化されることで得られる効果の方を最優先させてしまう根拠となっているのだ。
 かつて吉本隆明が言った様な意味での共同幻想が確かにあるのである。我々は一人の時と、二人の時と、それ以上の時という様に、人数が加算されるに従って少しずつ異なってくる態度の示し方、自分自身の真意や誠意の他者への示し方があるし、その際のメソッドも少しずつ変更されていく。すると問題化されることとは、端的に人、とりわけ自分が関わる当該の集団、組織での他者の真意での理性とは、個人的に親しくし得るか否かという自然人的友情関係外的なものであらざるを得ないし、そうでなければいけないということなのである。
 従って本章のタイトルにある信じるべき他者理性とは、端的に公的に示され得るべきものなのである。だからこそ、その公的な他者の態度とか行為、発言などは、全て自分自身の態度、行為、発言なども他者からそう受け取られるということだ。このことは極めて重要である。そしてそうであるからには、自分自身から出される全ての態度、行為、発言は自己責任である。それは皆そうなのである。又そうであるから、ある人の態度、行為、発言はそういった公的な規準での査定が求められ、それは好悪感情的なこととは一切関係ないものであるべきである。そしてそうである為には(往々にして我々はそうであるべきなのに、案外それを無視して好悪感情で全てを判断しようとする。それは政界でもよく見られることではないか!?)常に「待てよ、本当はどうなんだろう?本当は向こうはどう思っているのだろう」という一歩判断停止して、即座に判断していってしまう逸る気持ちを抑制し得る冷めた見方が必要なのである。
 そしてその冷めた見方とは端的に極めて他者内の理性を心底では疑わずに、信じようという決意からしか得られないものなのである。この点が最大限に重要である。人は案外疑うという心的作用を過大に知性主義的に持ち上げ過ぎだからである。哲学的懐疑論でさえそうであってはいけない(と私は思う)。信じること、取り敢えずは信じてみるという心的決定こそが他者内理性を引き出すし、それでも巧く行かない時には確かにその当該の対象を、それが特定の人であれ特定の集団、組織であれ去っていけばいい。
 要するに他者を信じることからしか他者内の理性をこちら側に引き出すことは不可能であるということは、平和も民主主義も只静観しているだけでは獲得出来ないということからも当然の理ではないだろうか?
 そして他者内理性を信じることを可能化する心的傾向性とは、端的にいずれの立場へも極度にも加担せず、いずれの態度をも好悪感情で即座に推し量らない冷めた見方、即座の判断を差し控える判断停止の習慣から齎される。

Sunday, January 16, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十九章 日本人とnation、日本人の性格・これからの世界・日米関係はどうなる?Part2

 アメリカ人の発想には彼等が日常生活で引き算が出来ない様に、マイナスの発想はない。例えば薬剤の副作用を減らす為に薬剤服用を差し控える(これは日本人的発想である。が実はこれもきちんとして科学的根拠は全くない)という発想へ至らず、只副作用を解毒させる又別の薬剤を服用するという発想にしかならず、又拳銃所持によって突発的な乱射事件(最近も下院議員も銃撃され、多くの死傷者を出した事件があった)も間を置いて反復されるが、その解決法として更に拳銃を所持しやすくすることで自己防衛をしようという発想へ至る。
 日本人にとっての「水に流す」潔さは端的に分析的な究明の忌避感情に起因する。日本人が遺伝子組み換え食品を忌避するのは土俗宗教的感性からであって、決して科学的合理性によってではない。只単に遺伝子組み換えという語彙が齎すイメージが日本人的迷信的感性にそぐわないだけである。従って無農薬野菜に拘るのも一重に土俗的信仰的感性からである。
 日本人は原因究明求心性の曖昧な断念、要するに滅びの美学、もののあわれ的な情感主義者なのである。だからこそ薬の副作用があれば、薬の服用を断念しようという方向へと動く。これと無農薬野菜への信仰は同一理由によるものである。

 今後世界はウェブサイトの益々の充実、拡充から一方では益々世界市民としての個人性とオタク性と、それに抗う様なアンシャンレジウム(懐かしい言葉だ)残滓としての国家主義(nationalism)が併存していくことだろう。が同時にその二つの精神の分裂が益々世界を新たな様相へと突き落としていくことだろう。
 私の親友のK氏(社会教育学者)は知的エリート層より中間層の拡充を至上命題としているが、私自身は彼より二十歳若いのであるが、今の社会がかつての様に全ての世代が調和を図り国家全体が全国民を統轄し得るのは幻想で、K氏はその実現の為に憲法改正をし、徴兵制を施行すべきだとまで考えておられるが、私はそれは実質上不可能である、と考えている。
 そのことは意図論でも書いた。しかしもっと詳しく述べると、徴兵制とは一律に兵士へと青年を徴用することであるが、それは個々人の資質や特技を抹殺するからである。募兵制であるならいいと思う。日本もいずれは軍事的独立も果たさねばならぬだろうからである(そのことは後で詳述する)。
 要するに青年世代が変に観念的な知性を身につけ、実用性から遠ざかっている姿はここ数年多く見てきた。多くは文科系的センスの人に顕著であるが、実労をバカにしている。これは極めて危険である。実際のところ文科系的執筆業は需要から言って然程多くない。従って多くの実務経験のない青年達は遠からずニート化していく運命にあるだろう。従ってある程度強制的に観念上ではない実在世界に社会奉仕し得る実労経験を積ませるということは大事ではないだろうか?(私自身は比較的多く仕事が見つかった時代に青春時代を過ごせたので、そういった経験も多く積んで社会勉強にもなったと思う。)
 実在経験の蓄積からしか真に社会に有用な哲学は齎されない、ともし私が言えば反論したくなる青年は大勢いるだろうが、それは哲学専門性からではなく社会全体から言えば正論である。何故なら社会全体から言えば専門哲学や文学は然程大きな位置を占めていないからである(従ってそのことに自覚的なプロだけがある程度それで食っていく権利があると言えるだろう)。
 今の青年は特に肉体労働を知らない人は多い。だが身体障害を持って生まれた青年も大勢いるのだから、徴兵制などは不可能であるが、募兵制的にすれば、能力資質別役割分担も可能となるかも知れない。(K氏の考えは多分に去年のNHK新年座談会での西部邁の考えに近く、私はそれよりは宇野常寛に近いものがある。)社会指導者層は能力資質別役割分担という調整能力を問われるだろう。
 さて日本は恐らく益々オタク的に全専門分野が細分化され、総合的視野は極一部の政治指導者、一部の経営者、一部のエリート層のジェネラリティにのみ委ねられているという状況へと転化しよう。するとそこでは最早大半の市民が総合的視野を欠如させ、天才的超魅力保持者である扇動者が独裁政治をしていく危険性(或いはかなりいい政治をしていく可能性もだが)はある。K氏や西部邁氏の考えは懐古趣味的センシビリティで、四十年遅れでミシマイズムを再評価する様なものである。
 
 しかし強ち兵役制度の復活は無意味ではない。勿論それは全面戦争へと向けられたものではなく対テロリズムとしてである。しかもそれは全世界的にどの国もが世界平和の為に分担していくべきなのだ。そしてもし兵役が復活すれば青年達だけでなく全ての市民が参加すべきである。例えばそれは中年もそうだし、老人が肉体的に無理であるなら応分の経済負担をすべきである。
 何故ある程度兵役復活に意味があるのかを述べよう。
 それは当然戦争をしかけるものではないし、平和憲法の骨子は永続させてもいい。しかし実際に我々の身近に多くのテロは差し迫っていて、それはいつ何時日本にも押し寄せるかは分からない。従って世界的規模でテロ撲滅の為に防衛システムを構築していく意味はあるのではないだろうか?
 ある者は無線技術で貢献し、身体障害者はそれなりの仕事を分担するという様にである。従って軍隊と言っても昔の日本陸軍の様なタイプのものでは決してない(日本では自衛隊と呼んでいるが、あれは事実上完全なる軍隊である。それは誰しも知っているのに、それをうやむうやにして存在理由に就いての問いを封殺してきただけである)。
 何故我々日本人にも正当な理由で兵役を復活させるべきかと言うと、それは一重に戦後軍事プレゼンスを世界のリーダー且つ警察官であるアメリカ一国に過大に肩代わりさせ過ぎてきたと私は考えるからである。
 つまり私は、そういった経済大国で世界政治経済のリーダーであり且つ警察官としてもリーダーであることをアメリカ一国に負担させ過ぎたことこそが、実はリーマンショック等の金融システム破綻劇を招聘したと考えているのである。
 アメリカは一方で戦後常に世界経済金融大国であり続けてきたが、他方常に世界の軍事的プレゼンスの頂点としても君臨し、戦争の最前線に常に立たされてきた。そのアメリカが戦後日本の社会秩序を方向付けたことは事実であり、その際にはマーシャルプランを受け入れる形で平和憲法も作られた。しかし日本では田嶋陽子の様な極端で歪な民主主義平等倫理的女性論客に象徴される様なジャーナリズムが国民全体に蔓延していった。それは一重に平和幻想である。
 平和は只で手に入っていたのではなく、日本の場合あくまで米軍に多額の報酬を付与することで得ていたのだ。しかしジャーナリズムは常に平和=善という図式にだけ当て嵌めて全ての報道をしてきた。オバマ大統領が当選して大統領に就任した時も、そういった日本とアメリカの戦後世界的現実を一切反故にする様な報道も目立った。しかしこれは言わば現実逃避的スタンス以外ではない。
 軍事負担はアメリカ国民の国威発揚でもあるが、同時に多くの遺恨も生んできた。つまり世界の平和安定という形での建前でベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争という各戦争に於いて、最前線の兵士の間に多くの精神的ストレスを与え、シンドロームを招聘してもきたのである。
 その様な国家の経済運営がデッドロックにぶち当たらぬ訳がない。マネタリズムに代表されるゲーム理論等を応用した金融理論全部を否定することは恐らく出来ない(私はそれほどの知識もないし、そう断言出来ない)が、この様な理論に奔走したアメリカ人知識人層の間に固有の現実逃避があったと考えても強ち見当違いとも言えない部分はある。
 今後の世界平和秩序に於いて脅威となるのは、やはり宗教原理主義的なテロリズムであることは間違いない。それ等の抑止の為に世界各国が経済力、各民族国家毎の能力差に応じた責任分担をしていく必要性は大いにある。負担と貢献の世界的規模の役割分担を真剣に模索すべきフェイズに世界は入ったと私は思う。それは一重にアメリカ社会と国家の過大な精神的負担を軽減することを主な理由としている。そしてそれが結局世界経済も政治的安定へも寄与し得る、と私は考えるからである。
 しかしその為には旧態依然的な軍隊システムではない新しい合理的な防衛軍事システム、しかもかなり多くのタイプの能力資質に応じた役割分担を可能化する新秩序を要する。だからこそ最初にアメリカ人のマイナス欠如型思考傾向と、日本人の土俗的感性に就いても触れたのだ。つまり民族性とはそう一朝一夕で変更が利くものではないが故に、そういった民族性(世界の民族に各自備わった)に応じた役割分担を世界で模索してく必要がある、と私は考えているのである。
 これは絵空事ではない。世界秩序構築の必要性を蔑ろにしていれば、いつか人類は本当の意味で悪辣な世界的規模の扇動者の出現によって生存自体を危機に晒す危険性がある。それがゼロではない限り、そういった時の為の思考実験をしておくことには、只単に哲学者の思考実験としての意味合い以上のものがある、と私は考えているのである。

Saturday, January 15, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十八章 日本人とnation、日本人の性格・これからの世界・日米関係はどうなる?Part1

 私見では日米同盟とか日米関係とは常に誤解によって育まれてきた。何故なら日本の常識はアメリカでは通用せず、その逆も真なりだからだ。しかし本来理解とか相手に対する把握などというものはそういうものである。それは昔から大勢の哲学者も論じてきたことである。しかし本質的に何が違うのか、を私なりに(私は日本人であるから一日本人から見た日本とアメリカの関係を)考えてみたい。

 まず基本的に日本人は少なくとも欧米流で言うところのnationという理念に対して齟齬を心に抱いている。率直に言って日本人に漲る個人的資質、つまり個人として生活していく心の中での考えとか構えからして、nationの様な合理主義はそぐわない。或いは平均的にはそういうものとして受け取っている様には思えない。これは重要なことだ。
 その顕著な例を古都京都に私は見る。
 京都はご存知の様に古来から様々な為政者達が入れ替わり立ち代り支配してきた。しかしそのいずれの時代の精神をもそれぞれ残されている。例えばこれが中国であるなら一部資料という形以外ではある為政者が失墜した時次代の為政者は前の文化を全て滅ぼそうとするだろう。尤もこれは中国が古来から多民族国家であったから致し方ないのだけれど、日本ではその様なことはなかった。勿論前の為政者が殺されたりということはあったが、基本的には前の時代にあったいいものは残そうという意識はあり続けた。
 しかし同時にそうであるが故にある種の統合され得なさ、つまり曖昧さも常にこの国にはある。
 例えば京都では名刹同士が隣接する名刹に対して隣人であるという意識は希薄だ。例えば禅宗名刹に隣接する名刹が日蓮宗である場合大半の名刹は「内とは無関係です」とそう答えるだろう。これはある意味では京都が相互不干渉主義的な他者共存を不文律としてきたことを表している。
 京都は言ってみれば多文化共存<異文化共存>性のnationならぬ、various culutured, various circles societyと言ってよい。つまり異なった時代に咲いた異なった文化がほどよく共存しつつ、それぞれは自主独立していると考えてよい。
 そしてその精神は日本人全体をも性格づけてきたとも言える。つまり京都にシンボライズされた性格は基本的なところでは、京都ほどの名刹や名庭園のない東京であれ、それ以外の何処であれ日本の都市の一つの性格となっている。要するに改正とか改革とか、構築に対する考え方自体が欧米とは違うという部分は見逃すことが出来ない。それはある部分では生来的資質として日本人の特徴とか性格に帰するし、ある部分では一つの歴史的展開の中から形成された伝統というコードとして捉えることが出来る(従って今後は改変することは可能である)。
 率直に何故日本人が生来的に欧米型nationを受け入れられないのだろうか?
 それは恐らく統率とか統合という原理自体への欧米人との考え方の違いということに帰そう。と言うことはある部分では中国や朝鮮半島とも共有し合える性格としても位置づけられるということだ。
 アジア的考え方としては日本人も又あらゆるものを類縁的に関係づけるという意味では、純粋分析的であったり、純粋個別主義的であったりする様な発想はし難いということは言える。
 そのことを顕著に示す例としては最近NHKで放映された爆笑問題司会の学者を訪ねる番組で、ある古文書研究家の意見では、日本人は情報管理に関して集団とか組織、国家レヴェルでは遅れているが、何時の時代でも個人的には優れていた、ということである。要するに個的な、つまり自分勝手に何かをすることに於いては卓抜な智恵と能力を発揮してきたということだ。
 これは日本人の生来のアウトロー的気質を示している様に私には思える。
 これは恐らく中国人や韓国人にはない資質ではないだろうか?
 もう一つ中国人や韓国人にはない資質がある。それは日本人男性が前章迄も述べてきたのだが、男性支配力、つまり男社会的支配の影に常に女性から評定される優れた男性という尺度が濃厚に反映してきた、ということである。これは卑弥呼とかお江の様なタイプの存在が時々日本史上に登場してきたことからも言えることではないだろうか?
 精神的母系社会と、勝手に私はそれを呼んでいる。実はこの事実が戦後日本から徴兵制を廃止させてきた原動力になっている(それはいい意味でも悪い意味でも)と考えているが、それは後で述べる。
 端的に日本男性は女性にもてない、受けたいという意識が根底では払底出来ないのではないか?
 これはかなり私の主観的な直観であるが故に反論もあるであろう。しかし確かに戦後女性の発言権が増したことがこの一因ではあるものの、それ以前から日本には女流文学的系譜、例えば紫式部とか清少納言の様な平安女流文学系譜は精神的にはその後の日本人に何処か根底で極めて深い溝の様なものとして刻印されてきたのではないだろうか?それは物事を余り白黒つけたくはない、分析的に捉えたくはないという心理となって反映している気が私はする。
 この平安時代には 妻問婚の様なタイプの夫婦形態があったが、その様なタイプの習俗があるのは日本だけだったのではないか?(正確には私にはデータがないから勘違いかも知れないが)
 例えばフランスの自然主義文学の傑作の一つである「女の一生」(モーパッサン)などは、ある意味では極めて男性支配社会が生んだ哀れな女性の姿、つまり女性の側が如何にイケメンであれ社会的地位の高い男性であれ、その心をゲットするかということに血眼になっている女性の姿を基本とした小説ではないだろうか?そこのところを考慮して読むと又違う読み方が出来ると私は思う。
 つまりhusband(ドイツ語起源のハウスバンドから派生した語彙)に象徴される様に我々の社会と違って、女性とはあくまで男性の支配をサポートするべきものであるというモラルは欧米では恐らく日本より圧倒的に強い。と言うことは欧米では日本と比べると圧倒的に女性の側が如何に男性の気を惹くかが問題なのだ。この差は重大である。要するに欧米は精神的父系社会なのである(勿論形式的にもそうである)。
 それに対し日本は全てに対して精神的に調停型文化である。従って管理職者とか管理者の様なタイプの職責に於いて求められている資質とは個性豊かなことではなく、完全に標準的な意味で公平であること、要するにある種決定的に凡庸なる貫禄が求められてきた。その意味では小泉純一郎という人物は例外的なカリスマ性があった。しかしだからこそそれは永続的なカリスマではあり得なかった。
 これは好き嫌いを別として日本史の歴然とした事実である。徳川幕府がかなり長期に渡って支配維持されたことと引き換えに織田信長は短期政権だったではないか!
 日本では大学組織であれ、役所関係の組織であれ、調停型の知性が求められ、重用されてきたことは事実である。勿論ある部分では特殊技能を、例えば現代の様なものづくり系の技術立国である日本ではあるが、それはある意味では全体の調和の中の一種の花であるに過ぎない。日本人全体のモラルとはそういった技術的天才性とは別箇のところにある、という考え方は極めて順当なものではないだろうか?
 ずばり、日本で出世するタイプの人格とは個性豊かなことではない(実は能力的にも人格的にも個性豊かということの判定自体が一番曖昧であり、その点ではアメリカの方がもっと合理主義的に冷徹であろうが、日本では出世しないタイプでもアメリカでは出世しているケースはあるだろうと私は思う。要するに日本ではある種の平凡さが積極的に求められているのである。これは特に公的機関ではそうであると言える)。端的に凡庸なる貫禄保持者である。それは何かに特別ずば抜けて優れていることではない。要するに常にバランスが取れていることである。この点こそ恐らく欧米とも中国、韓国とも違う部分であろう。何故なら日本が技術立国であることの理由の一つも一人の天才によるリードであるよりは、大勢の人達同士の協力体制、そしてそれを引率してきた凡庸なる貫禄によるところが大きいと思えるからである。
 つまりそのことと、競争社会的なfairnessが基本的に精神的に定着し難いというところとは密接に関係があるのではないか?つまり日本人は純粋に人の上の立つことも、人の下に仕えることも極めて苦手な民族なのである。だからこそ戦後も軍事力自体は凄いのに、国家正式の軍隊を自衛隊という呼称で通してきたのである。これは我々日本人の深層に刻みつけられたモラル論的な信念である様に思われる。
 そしてこのことがnationという理念と形式に自己を即応させることを余り潔しとしない日本人の曖昧志向的性格を形作ってきた、とは言えないだろうか?
 欧米の、特にアメリカの個人主義とは端的にnation管轄的な競争原理に基づいている。それは全体主義的なものなのだ。その系譜学的意味合いでは、アメリカには王政はないが、ヨーロッパでは城砦都市的傾向が濃厚な欧州専制君主制に根差すものである。
 しかし日本人が個人主義的である様に思えるのは、端的に全体主義志向からでは決してない。それはある部分では極めて自分勝手なアウトロー性、一匹狼、素浪人的なものなのである。このことは言い過ぎても言い過ぎるということはない。この日本人の性格を素浪人型、或いは一匹狼型ということでアウトロー性と呼ぶことにしよう。
 次回は今後の日本の在り方自体を考慮に入れて、戦後社会から形成された日本社会の問題点を、アメリカ社会とアメリカ人の性格との対比で考えていってみたい。

Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十七章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part4結論、そして今後の研究を示唆する真理

 私は前章を書いた後で直観的な真実を次の様にツイートした。

沈黙、黙認、水に流す、好感度、この四つが日本社会に蔓延する決定的不文律であり、それを操縦し、実質的に支配しているのは女性である

 沈黙と黙認が日本型差別であることは第四十五章最後に触れた。そしてそれが次章である第四十六章で女性上位性を精神的訓育面から捉え、日本は要するに精神的母系社会であることを述べた。
 これは玉虫色の判断を善しとする日本人の判断傾向を裏付けてもいる。そのことを少し考えてみよう。その前に暗黙の男社会が日本では農耕社会が弥生期から定着していったことから、基本的に非狩猟民族的な不文律として昨今の流行タームを借りれば草食系男社会に於いて、益々女性は影の支配者として君臨していて、その女性的感性が玉虫色の判断を理想とするという事態を招聘していると私は捉えているのである。
女性は基本的に日本史では仕事とか職務からは遠ざけられてきた。それは「男子厨房に入るべからず」という諺にも示されている。この謂いに示される男社会的な不文律は家庭労働が実労には入らないという日本男子的常識と一致してきた。勿論昨今現実にはこれは当て嵌まらなくなってきている。これは男女雇用機会均等法施行以来の転換点となっている。
 しかし幾ら一切の常識が戦後社会で日本が転換してきたからと言って、日本人固有の思考傾向までは一気には変えられない。それは生活の隅々にまで浸透しているが故にそう容易に変更が利くものではないと言える。その一つとして沈黙は美徳的なことを私はツイートしたのだ。
 そして日本女性は多発言男性、饒舌男性を嫌う傾向にあることは既に明白である。だからこそ沈黙は美徳、そして他人の悪口を一切言わない主義の実践者こそが日本ではもてる男性の代名詞なのであり、それを私は短いフレーズにして考えツイートしたのだ。
 水に流すとは何時迄もぐちぐちと後悔したり、他人への中傷をやめないでいたり、これも既に古い言い回しとなってしまっているのだが「女々しい」「女の腐ったの」といった謂いに象徴される男性への暗黙の非難が諺化したかの様に私には捉えられる。
 つまり日本では女性からもてる、受けるという選択肢から自然と男性は非多発言男性、非饒舌男性としての印象を異性から得たいという構えを構成していくこととなるのだ。
 ではそれと玉虫色判断とはどう繋がるのだろうか?
 それは案外単純である。女性は地図を読めないとか、余り立体的構造を理解するのに長けていないという性的傾向が各種自然科学的見地から立証されているが、それと恐らく何処かでは繋がる真実として正確なデータよりも概算的なデータを理想としたいという性格が男性よりは強いのではないだろうか?つまりその曖昧理想主義こそが情報的正確さ(それは男子に於いては殊に官僚的職務に代表される様に、各種専門分野では至上命題である)に対する怠惰を一方で美徳としていく様になる。それは最早国民性となっていると言ってさえ過言ではない。
 世間一般の個性的人材にはよくこう自分を称する人がいる。
「俺は生来の詩人なんだ」「俺は天性の芸術家なんだ」
 しかし当然のことながら、こう言う人に真の意味で詩人や芸術家はいない。かつて私はブログNameless-valueの考えてみたいこと の「今年ツイッターで示した考えについて/意図・責任・行為・価値・反省意識」でも述べたことであるが、日本では出世コースから外れたリタイア老人が異様に個性的であることが多いが、彼等は一般に現状認識も、正確な情報摂取からも極めて遠ざかっている。これは真実である。それは主婦の友的レヴェルで「心の故郷」化された存在として地域社会で自治会長などをしている老人に顕著である。試しに彼等に去年大きな反響を呼んだWikiLeaksやFacebookについて質問をしてみるといい。大半が返答することが出来ないだろう。
 要するに日本社会にとって最大の実害となっている兆候とは端的にこの種のリタイア老人が未だに地元社会では厳然と保守的力を保持していて、それに迎合する主婦層、そしてそれにつられて妻の意見を取り入れる一般サラリーパーソン達による(従って独身サラリーパーソンは少し違う)連携的な無知称揚主義、つまり非インテリ、非エリート階級的本願ぼこりが、情報摂取に於ける正確さ、精密さを蔑ろにしているのである。
 つまり日本社会ではエリート、インテリ階級の常識と、世間一般の常識との間に極度のずれがあるのはこの点に存すると言ってよい。そしてこの不幸なずれこそが「学者バカ」「絵描きバカ」「専門バカ」といった語彙を定着させているのである。そして端的に日本では正確なデータに拘る者は、それが極めて順当な論理であり説得力があってさえ、それを「学者バカ」「専門バカ」として非難し、玉虫色判断を是としてきたのである。そして感性の革命家である芸術家に対してなら「絵描きバカ」と言って蔑んできたのである。
 そしてこの世間一般とエリート、インテリ階級とのずれに対して、世間一般の不文律の方を常に優先してきたマスコミ的良識に対する批判と指摘に内在する理念的主張に関する限り中島義道の諸著作での意見は正しい(只彼は自身の生来の学者的資質がずっと戦後民主主義教育に於いて仲間外れされてきた幼少期の恨み節を未だに諸エッセイ著作で展開させ、自らの文化人性、学者的探求性を誇っているところに私は固有のスノビズムを感じて嫌いなだけである)。
 日本人は一神教民族ではないし、有神論者でもないし、無神論者であっても、欧米型のその種の人々とも決定的に違う。又日本に広く普及している仏教文化も欧米型の一神教とは本質的に違う。従って日本人には(これはいいとか悪いとかいうことではなく)ロゴスはない。
 それは言葉による説明と、説明に対する理解より、より体得ということを美徳として重んじてきた文化の国に相応しい現実的真理である。それは一種の文化的伝統である。
 その最もシンボライズされた語彙こそ日本固有の教育語である「躾け」である。
 勿論欧米社会でも体罰は大いにあり得る。しかし日本の 躾け には本質的な欧米社会との違いがある。それは日本では欧米と違って大人が子供を躾けるということに限らないということである。
 つまり実質的に男社会であった筈の男性が絶えず日本民族固有の性善説(まさにそれが向こう三軒両隣といった観念を長く日本が温存させてきたのであるが)的美徳に加担し同意してきたのは紛れもない事実である。
 つまり日本男性は女性から訓育される、つまり女性の感性に裏打ちされた固有の良心、或いは「良識(それがまさにマスコミを誘導してきた実体であることは既に何度となく述べてきた。それが所謂抽象的で曖昧そのものである)=正確なデータで立証するのではなく、概算的要求をすることを是とする集団論理、つまり玉虫色の判断」<それは全ての示談、分裂調停、集団内での確執に対する解決と処理、経営者による決裁に漲っている>を是としてきた。この様な固有の不文律を恐らくかつて井沢元彦をして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのだろう。日本は中国とは又一種異なったタイプの人治主義国家であり民族である。
 それを一言で言い表すと、分析を悪とする思想であり、感性的直観による判断を善とする思想である。そしてそれが極自然に出来る者こそ好感度があるということであり、その好感度を左右するのは常に女性であり、その好感度獲得をした者こそが第四十五章冒頭で示した様に文化人としてのレッテルで世間から見られ、その専門性を蔑ろにしていってさえ、彼等の意見は他の専門家よりもより重んじられるのである。この常識は恐らくアメリカではあり得ない(何も私は全てアメリカが正しいと言っているのではない)。
 かつて池田満寿夫(1034~1997・版画家・画家・作家・写真家・陶芸家)は「私自身のアメリカ」(1974)で日本では一回芥川賞でも何でも賞を受賞すればある程度一生生活が保証されるが、アメリカでは二三年しかその栄誉では生活は保証されず、それだけ生き馬の目を抜く社会であると述べていた。
 しかしそういったアメリカの不文律が全て正しいわけではないということは、昨今のアメリカの世界的規模での失態から言っても正しい。そして欧米流の分析至上主義だけが正しいのでもない。しかし同時に日本人の中に脈々と受け継がれて来た分析忌避傾向、正確なデータ引用、参照、それを基にした証明を極度に嫌悪する民族的資質があるということだけは確かではないだろうか?そしてその曖昧さを好む気分主義、情感主義は一方では三島文学や川端文学の様な優れた遺産を生み出しても来たが、同時に全く何時迄経っても明確な道筋の見えない政治的停滞をも招いてきた、そしてその政治的停滞全体への処方を未だに日本人が見出せずにいること、そしてマスコミ全体の論調に漲る全く根拠のない固有の市井的良識こそが今最大級に批判対象として我々の前に提示されている、と捉えることも強ち日本の未来、社会全体の行く末を見据える時に無意味ではないだろう。
 
 次回から京都を何度となく訪れ来て私が感じた日本文化のシンボル的意味合いと、奈良との比較などの文化論へと移行させていこうと考えている。その基本的考えとは日本が日本人自身による欧米型のnationをずっと回避し続けてきたという精神的現実から考えていきたいと考えている。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十六章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part3

 第四十四章と前章で私はacademismという語彙を政治レヴェルでも使用したが、これは語彙自体のテクニカルターム的認識からすれば誤りである。しかしにも関わらずそう私がルール無視をしてこの語彙を使用しても通じてしまうというところに、ある意味では重要な命題が潜んでいる。そして学問、芸術、音楽、文学などと政治は常に古代では一体化されたものではなかったかという考えの上ではアカデミズムと反アカデミズムを政治経済的アスペクトで使用することは理に敵っている。
 今回は情報摂取の仕方を巡る日本人の個人間に横たわるメソッドの全く関係のない世界同士の愕くほどの類縁性と相互不干渉的現実に就いて考えてみたい。
 私事であるが私は相互には余り密な連絡のない異なった分野の学会に三つ加入している。それには理由がある。情報摂取に於ける情報内容の信憑性に就いての確認の為である。
 私が職業上では学者と自分を考えていないタイプの成員なので、逆に学界全体を外部的視点で観察することがプロ研究者よりは容易である。その際重要なこととは、学界という一つの大きな官僚組織自体の存在理由を知ることが、それ以外の世界からの要請や期待、或いは幻想と現実にはどう合致してどう齟齬を来たしているのかということは、ある意味では現実と理想の狭間で現場のプロがどう考えているかということと(それは理想との齟齬に於いてどう苦悩しているかということである)その一切に対して如何に一般市民は情報的に封殺されているかということを知ることであり、この両者の関係を取り結ぶものこそ斜めの関係である。
 つまり若い学者、研究者は概ね大学組織の一員として教員としての就職口を探すのに躍起であり、その意味では特定企業のラボなどで職を得る方法以外では学閥的人間関係を構築して、横の連携と情報摂取、そしてあわよくば就職口を見出せた者はその後、後輩育成は勿論のこと、自分に就職口を斡旋してくれた年配研究者、学者との師弟的関係の維持に於ける、要するに縦横の関係の渦中にあるとすれば、それ以外の学閥外的人間との接触に於いては自らの専門的研究分野自体の一般社会への説明責任に於いて、啓蒙的スタンスを抱かざるを得ず、その点でそれを縦横外的対人関係という意味で斜めの関係と私は呼ぶのである。
 従って私が余り隣接していない(つまり重複して加入している会員が余り多くない)三つの学会に加入することで私自身へ得られるメリットとは、端的に学者、研究者外的立場の人全体が現代社会生活自体を成立させる為の一つの重要な指針である専門的情報摂取という意味で意義ある情報、しかもかなり信憑性のある情報を得る(専門家ではない立場の人でも確かさに於いて自負し得るところの情報を得る)為なのであるが、出来る限り離れた研究分野の学会に同時並行的に参加することで、そこで使用されるテクニカルターム、或いは問題とされている命題、今現場で問われている研究手法や関心志向性が、仮に一点でも二点でも全ての学会で共有されているとしたら、その情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)から類推される意味はかなり信憑性があるとは言えないだろうか?
 勿論学界全部とそれ以外という形でも我々は共有し合える情報内容はある。しかしそれは余りにも範囲が広大過ぎて却って一般的真理であり過ぎる。その点では余り隣接していない異なった学会全部で共有される情報はかなり学界外的一般民間人へも情報伝達価値があるものと見做していいのではないだろうか?
 要するに情報価値への容認に於いて、ある業界とかある専門分野に於ける関係者間で共有し合えるレヴェルと、その共有現実自体が業界、専門分野外的一般市民との間で価値的に認識し得るかという部分に、仮に一つのテクニカルタームがロングスパン的に未来へと受け渡していく価値があるものであるという結論を見出す余地がある。
 これはかなり下世話な下ねたから芸能界ねたに至るまで全く関係のない世界での関係のない人々によって共有されているのであれば、情報内容の信憑性はあるということで別ブログ「Nameless-valueの考えてみたいこと」で既に一度述べたことである。
 しかしこの種の民間心理学的、民間情報摂取的智恵はある意味では専門家の取るべきメソッドではない。そういう意味では例えば私が日頃何気なく若者が多く集う居酒屋で隣に座る若い女性の会話が聞こえてくるその情報内容とそう大差ない。しかしこの事実、つまり学界的現実、それはある意味では社会の頭脳として日本国家の官僚として確固たる地位を獲得している世界の現実なのであるが、それと居酒屋での若い女性達の会話との間に大差がないという部分にこそ、何か大きな真理が潜んでいるとは言える。そしてその部分にこそ民族性固有のシャーマニズムが介在していると考えることには理がある様に思われる。
 中島義道は近著「女の好きな10の言葉」で哲学者としての立場からシニカルに、寧ろ専門哲学的見識から離れて現代女性心理を分析している。その際に女性が男性を見る時、男性が女性を見る時以上に相手を「上、中、下、下の下」という差別的眼差しであると述べている。そして上とはあくまで将来自分の恋人なり配偶者なりになり得る可能性のある異性であり、中とは話を聴いたり話を聴いて貰ったりする価値のある異性なのであり、それより下は人間として存在価値さえ認められないというシニカルな視点を提示している。
 これは極めて言い得て妙である。何故なら私が昨日飲みに出かけた居酒屋でもその種の会話がまさに二十代前半から中盤、或いは後半世代の若い女性三人の間で交わされていたからである。
 内容はある男性(その会話の中の誰かの特定の親友と交際している男性であることだけは分かった。そしてその親友は他の二人ともかなり頻繁に接している関係にあるということも分かった)がその親友の前で接している態度と、それ以外の同性の人と接している時とでは全く別人格であるということであった。つまり彼女らはその共有して知遇のある友人の彼氏が友人の前では媚び諂うが、それ以外の友人関係では極めて傲慢な態度の人間であり、その調子のよさ自体に信用がおけないという主旨のものであった。
 この種の会話は多くの居酒屋での女性の会話を見ていると極めてよく見られるものである。そしてここで重要なことは、社会人としての女性は異性の理想条件として同性から信頼が厚く、異性には媚びないという姿を第一に挙げているということである。しかもその理想条件とは端的にそれを伴っている異性の方が出世もするであろうという目算に裏付けられているということだ。
 これは日本社会が極めて閉鎖的な対人関係で出世、非出世が左右されるということを示してもいる。
 もしこれが欧米社会であるなら、恐らく異性の前で一番いい所を示す男性がより頼もしく、それ以外の同性との間では闘争的なタイプの男性の方が出世していくと捉えるだろうからである。つまり日本社会が殊に男性の同性間の同調性、協調性に於いてその紳士協定性と異分野、異業界、異研究分野間に於ける相互不干渉主義とによって構築されている現実を一も二もなく容認し、その不文律に異性をより放り込もうとしているのが当の女性であるということが極めて重要である。これは日本が心理的な母系社会であるよい証拠である。
 つまり心理的にも精神的にも女性が社会的同調に対して異性である男性を訓育していくという側面が日本社会では多い。そしてこれがある種の従順な男性に於いては立身出世に貢献しているが、多くの男性にとっては息苦しく、それ故に多くの離婚劇を生んでいるのではないかと私は思ったのである(これ自体只単なる民間心理学的見解であることは重々承知しているが)。
 恐らくこの点では集団協調性とか同調とは無縁の欧米社会では女性が男性を精神的に訓育する、まさに妻の(或いは仕事上のパートナーに於いても恋人関係に於いてもである)母親化という現象は日本よりは少ないのではないか、と思う。日本の女性は端的に男性に対して母親の様な口ぶりをする。それはある種の日本人固有の社会モラル的なシャーマニズムである。
 そしてこのシャーマニズムは男性社会での専門家、研究者、学者、否恐らく政治家であれ官僚であれ全ての世界で通用する。異性としての女性が男性を精神的に訓育するという社会内暗黙のシステムが、仕事の現場で男性が「内のかあちゃんの為に粗相のない様にしよう」という決意を自覚せしめている。そしてだからこそ「内のかあちゃんの為に余計な口出しを他所様にするのを控えよう」という決意をも彼等はするのである。
 もう一度簡単に復習しておこう。
 日本では同一業界内でのみ通用する不文律があり、それは異業界では通用しない。であるが故にその相互不干渉が社会モラルとして暗黙のルールとして定着している。これこそが母系社会的シャーマニズムであるということだ。しかもそれは私が三つの余り隣接してない学会(とは言え全く無縁ではない学会同士ではあるのだが、そのことはいずれ又触れることとしよう)を同時加入している(こういう研究者や学者、専門家はかなり多数に上る)ことから摂取し得るどの学会でも通用する情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)が民間心理学的に余り関係のない分野間で通用すればするほど信憑性は高いという個の判断が、まさに居酒屋の二十代女性の会話上の判断とさして大差ないということと、そのことの暗黙の相互了解こそが日本社会の本質ではないか、ということなのである。そしてこの部分では欧米では日本と重複し得る部分もあるのだろうが、かなり異なっている部分もあるのではないかという私の直観こそが、今後私が考えていき、研究していく価値のある部分ではないかと考えているのである。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十五章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part2

 我が国のマスメディアやマスコミは国民自身が育てたものである。何故なら我が国にはアメリカと一番違うこととして、一度成功した人がずっとテレビ番組の顔馴染みになって視聴率さえ獲得出来れば、その成功した専門の仕事がかなり等閑になっていても一向に差し支えなく、タレント的に扱われ、それは人気がある程度に応じて文化人的な地位が与えられる。彼等は多くワイドショーに出演する。日本政治はここ数年完全にワイドショーねた的なレヴェルで政権交代から何から何まで行われたとしか言い様がない。
 マスコミの下世話なねたとは去年暮れにバカの一つ覚えの如く流された市川海老蔵障害事件の顛末と同じレヴェルである。
 日本人はアメリカ人とはまた一風違った形でこの種の露骨なテレビマスコミの視聴率だけを取らんかな主義を余り不愉快に感じていないのだ。つまりそうであるからこそ何時迄経ってもマスコミの論調に解散総選挙時期まで左右される様な現実に慣れてきているのである。
 これは日本人がエリートとかインテリとか特殊な優秀な人と一般人とが別種の人達であり、自分自身は生涯そういった専門的世界には関われないという諦念が支配していることとも関係がある。つまりそうであるからこそ、自分自身の眼で何かを確めることなく、その確める作業自体を怠っているが故に、その穴埋めに文化人とマスコミ全体が機能しているのである。ぬくぬくとその中間媒体的存在が肥え太っていくのである。
 これは日本人が言語行為的にも何もかも白黒つけずに玉虫色に収めたいという感性を持っているからである。つまりそこに日本人固有のシャーマニズムがあるのである。これは日本が精神的には完全に父系社会ではなく母系社会であることも手伝っている。
 日本はそれ以外にもかなり多くの種類の官僚達がのさばっている。その一つが公官庁の官僚達であり、その一つがNHKなどの報道局の官僚達、そして頭脳の官僚である学者、研究者である。そして実に奇妙なことには、彼等は全員一体感が同一セクト内、同一部署内では異様に強く、それはかの大阪地検特捜部の証拠隠滅書類改竄事件がたまたまかの部署で起きたが、似た様なことが他の部署で起きても一向に可笑しくはないという想像を一般には齎す。
 要するに日本社会は専門外的、同一業界外的事項に対して一切そちらの部署に委任しておけばよく、そうすることで逆に自己領分には一切干渉させないという不文律が徹底的に社会の隅々にまで行き渡っているのである。だから当然相手の面子を立てるという紳士協定は全ての世界に漲っている。それに反意を持つ者は自然と四面楚歌になっていき、自然と爪弾きにされていくという運命を辿ることとなる。
 そしてもっと重要なことにはそういった現実自体に一切の疑問を抱かず、外部に対して不干渉を貫くことを潔しとしている。つまりその徹底化された心的なスタンスこそがマスメディアを言いたい放題の世論煽動型機関へと肥大化させているのである。
 この問題は実は二章前の アカデミズムと反アカデミズムによる精神的反転現象について で扱った極めてシニカルではあるが的を得ていると思われる真理とも深い関係にある。
 つまり本来なら反アカデミズムこそがアメリカの様にどんどんと進出していくべきなのである。しかしそれを阻む空気はこの国には確かにあるのである。それはあからさまな差別ではなく、あくまで密やかなる、もっと陰湿な差別なのである。
 勿論一部青年に見られるニート的な歪な自己主張は批判されるべきではある。しかし同時に中島義道が「善人ほど悪い奴はいない」で徹底して批判している2ちゃんねる利用の匿名利用者達は(実際は彼等が中島の本を非難しているから彼はそれを敢えて取り上げているのであるが)かなり辛辣に自己立場に無力感を感じており、私も中島に同調し得る部分はあくまで記名コメントをするべきであるとは思うが、記名しても尚決して中島の様に沢山の本を出版するまでに漕ぎ付けることは至難の業である。だからある部分では中島の彼等ニート達への批判は当たらない。何故なら彼等にとってこういった書き込みだけが唯一発言が与えられる場であるからだ。
 つまりそういう風に一般の意見とか考えは徹底して2ちゃんねるの様な場でしか披露することが出来ない。であるが故に我々は2チャンネルの様なタイプの新規事業がどんどん社会に進出していく姿を目撃し得るのである。それは出版社自体が既に一定の収入を得ている中産階級達だけの常識に依拠して経営方針を立てているからである。不思議なことにこの国では全ての宣伝媒体、或いは全ての新聞社も一定の社会的地位を獲得している市民しか相手にしていない。にも拘らず例えば今日あった新内閣組閣の総理質問では一般大衆向けの下世話なねたで質疑応答をしようと仕掛ける。国民自身が彼等に侮られているのだ。
 しかしその事実に対して日本人は批判の矛先を向けようとはしない。否寧ろ積極的にマスコミの論調に乗ろうとさえするのである。
 つまりそうする最大の理由とは端的に他の人から爪弾きにされまいと身構えるからである。そしてそう身構えさせるくらいに日本社会は隅々にまで同調出来ないアウトロー、並びに逸脱的感性を集団で憎むという資質があるのである。これはかつて総会屋がしゃんしゃんと手拍子をしていた頃とちっとも変わっていない。人々の群れから外れていくことを恐怖する自己保身だけがこの国の民族に固有のシャーマニズムなのである。それは巫女的立場にマスコミを伸し上げているからである。
 しかし内心心ある人はそのことを知っている。そして内心では批判さえしているのである。しかしそれを表立ってしてしまうと途端に多くの視線から注視の的となり、過大な負担を背負い込むし、社会変革自体は途方もない時間とお金がかかる。そこでやむなくそういった心意気を持っていながら、全てを断念し、社会の隅々に漲っている差別を黙認することとなるのである。
 日本型差別とは端的に黙認である。沈黙によって全てを水に流し、沈黙することによって一切の罪を免れるという意識があるのである。このことに就いて次回はもっと深く掘り下げて考えていってみよう。

 付記 アメリカの反アカデミズムといったことは、あくまでマイクロソフトやグーグルやWikiLeaksなどの新しい事業展開に言えることであり、学閥は恐らくかなり日本以上にあり得る。しかし今そのことを特に問題にしていないので、そのことには触れなかったが、いずれ問題にしていくべきことではあると心得ている。(河口ミカル)