Friday, January 21, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十一章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part2

 肯定的に何かを、誰かの意見を否定する場合には、それを肯定しようとする立場を必要とする。つまり強い否定とは、肯定に対する抵抗である。まさにそれが強い肯定であればあるほど強い否定へと通じる。例えば特に外圧に屈して否定しなければ本来ならいけないものを誰かが肯定している様な場合、そこに心にもないことをしている、つまり外圧に対して卑屈に媚びている(それが仮にかなり誇らしげに媚びていても、真実ではない仕方のあることに対する肯定は、その行為存在自体が卑屈である。従って権威や権力への屈服した態度とは、それがどんなに傲慢不遜でも卑屈としてしか定義され得ないし、感知、認知され得ない)行為自体への批判がある。これが強い否定の感情的、情動的ニュアンスである。
 それに対し弱い否定の場合、仮に自分ではさして大したことでも大したものでもないと思っていることやものに対し、ある他者が過大評価している様な場合、それを窘める態度の場合に示されることは多いだろう。つまり下らないものやことを素晴らしいと評価している者の浅はかさを指摘する為に施される否定とは端的に上記の外圧的屈服への盲従に対する痛烈なる批判よりは、その者の判断が主体的であることだけは認めているが故に、その主体性にではなく、あくまで判断力に対して批判しているのだから、上記よりは幾分弱い否定である。つまり肯定的否定の中でも否定的否定に少しだけ近づく。
 しかし本当の否定的否定とは、本来ならば肯定したいのに、ある程度の外圧的屈服があって、それを否定しなければいけない様な状況では起き得る。例えば文学賞の審査員達の間である優秀な文学作品が登場したとしよう。しかしその作品は作品の質の上では最上のものであると思われても、それ以外の候補作で素晴らしさが同じくらいの作品は後二つあったとしよう。そしてそれら三つの作品は同程度に評価し得る。しかし一時に三人を受賞させるわけにはいかない事情がその文学賞である(大概はそうである)場合、後二つの作品の作者が今回で共に三回目に候補に挙がっていたとしよう。すると必然的にある審査員にとってその作品が主観的には一番推したいものであるから、その意見を一応他の審査員に告げたとしても、最終審査に於ける申告で、他の審査員全員が後二作の方を推した場合、それを通すことを頑なに拒否しても、叶わないと知った場合には、ある程度致し方なく最初に推した新人の作品を推すことを撤回することは大いにあり得ることだ。こういう場合には弱い否定だから、否定的な否定ということになる。従って否定的な否定が一番多く未練を残すこともある。尤も今の次回作に於いてその作者がいい作品を書いた場合にはその審査員はよかった、やはり彼(女)は実力があった、とそう思えるから、一回は見送ったことはよかったと思うだろう。またその作品の素晴らしさだけでその後作家が終えてしまった場合にも自分自身の前の作品への思いは只単なるその時の贔屓であったとも思い直せる。しかし素晴らしい次回作を書いたその新人が二度目の候補作が受賞が決定したその日の午前中に不慮の事故に見舞われ他界したとしよう。すると審査員はあの時こんなに早世するのであれば、せめて何とかごり押ししてまでも受賞させてあげればよかった、とそう思うかも知れない。こういう場合にはかなり未練が最後まで残る、つまり忸怩たる思いを発生しやすい選択肢として否定的否定というものを位置づけることが出来る。
 外圧的屈服によって肯定を否定に、否定を肯定に転じさせる場合、否定を肯定に転じさせた場合、例えばある総理候補になった人がいたとして、その者が本来余り個人的感情の上での好きでないし、且つ政策的なことに於いても必ずしも賛同し得ない場合でも、自分自身が世話になってきたある有力議員からの熱烈な推薦に迎合して仕方なくその総理候補に一票を投じるということはあり得る。しかしその議員が本当に素晴らしい実績を上げた総理としての仕事をした場合には、尚且つその仕方なく一票を投じた政治家にとって、その時の否定的肯定は結果論的には「正しい判断だった」とそう思える。しかしその総理となった人が余りにも目を覆わしむる行為で酷い総理となっていったなら、「あの時の私の判断<外圧的屈服>は間違っていた」という感情を誘い、当然かなり忸怩たる思い、要するに後悔と未練を残すことになろう。とりわけ自分が推奨していた別の総理候補がいて一票を投じた時点でいて、その者が実際に総理になって為政者となった人よりも優れていると誰の眼にも明らかである様な現状である様な場合には、尚更であろう。
 この二つの場合、つまり否定的否定と否定的肯定の場合、どちらがより後悔を誘うかということは俄かには断定出来ない。只今挙げた例示に於いて、文学賞候補者が次回作で受賞するその直前で死去する様なこと(先程の事例で後発的に付加した仮定)を除いて、一般には否定的否定が適度の愛の鞭的なことである限り、否定的肯定よりは後悔は少ないとは言えないだろうか?つまり心底相手を容認してもいないのに、その者を肯定しなければいけない外圧的屈服ほど、その容認していない相手が自分自身の見誤りで実際には優れた者であった場合を除いて、特に相手がやはり自分の思う通り肯定すべき何物も持ち合わせていないことが発覚した場合の後悔と未練は否定的否定より強いのではないだろうか?
 つまりそれはプロフェッショナリティ(それは見方に於いてもそうだし、職責的にもそうなのであるが)として自己自身喪失に直結する。或いはその意志決定的薄弱さへの自信喪失、或いは自己存在自体への卑屈を生じさせずにはおかない。従ってnegative negationである仕方なく肯定しているものを否定する方が未だしも救いがあると私は考える。それだってかなり忸怩たる思いが、先程私が挙げた例の様に文学賞審査員が一度受賞を見送らせた当該の候補作作者が本当の受賞の寸前に急逝するという様なケースはあり得よう。しかしその罪悪感も最低限プロフェッショナリティ自体の威信を自己へ傷つけない。つまり多少の罪悪感とは死刑執行人が死刑になって当然の死刑囚に対してさえ抱くことに近い。それはプロとしての悩みであり、プロであること自体への懐疑は齎さない。
 しかしnegative affirmation は完全なる権威への屈服以外ではなく、それは職業倫理的にも敗北である。そういう決断を下すと我々はジャン・バルジャンを逃がしてしまったジェベール警部の様にプロとしての自己存在理由自体を懐疑の底に沈めてしまう(あの小説では、しかしそれでも尚職業倫理以上に大事なものがあり得るかという問掛けがあったのであるが)。私達はどんなに生活死守の為の社会的妥協をしても、これだけは避けたいと心底では願っているのではないだろうか?もしそれを誘引させてしまうとすれば、それは一重に生活信条上での怠惰以外ではない。そしてこの種の態度に慣れてしまうことこそ我々は精神的老いと捉えてもいいのではないだろうか?

Wednesday, January 19, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十章 他者の中の理性を信じることの必要性と冷めた見方の同居

 前回迄のシリーズは次回から日本人の像とアメリカ人との関係を基軸に展開するが、少々データ参照に時間を要するので、別の内容から暫く(数回)考え、少し時間を経た後に再び取り掛かりたい。そして今回の様な内容が極めて今迄書いてきた全ての章と繋がりがあるのである。又以前取り組んでいた章のテーマとも次第に全てを密接に関係化しようとも思っている(例えば二十七章でPart1を更新した「否定という態度をどう捉えるべきか」などに関してである)。
 ある仕事を辛いだとか、退屈だとかを決めることの第一はある組織や集団での対人関係から、仕事自体の自分自身の社会的責務とか使命感との齟齬とか、自分自身の努力に見合った評価を下されていないということへの不満と鬱積からの場合が多い。それは何処か必ず自分自身の側にも問題がある。つまり意思疎通と、自己信念の他者全般への示し方に問題がある場合が殆どだ。
 しかし同時にこちらは誠心誠意示しているのに、全くその意志も意欲も心意気も全ての他者に通じないということもあり得る。そういう場合には組織や集団の在り方自体を変えていく必要がある。しかしそれは今迄の仕方(変え方自体)を何か変えなくてはならないだろう。或いは戦略も必要だ。
 人間は自分ではよく知っている、或いは理解しているつもりのものを本当はよく知らない、理解していなかったり、逆に本当はよく知っていて理解しているものを、変に遠ざけて知らない振りをしたり、よく理解していない振りをすることがある。その意味では自分自身に正直になることは案外難しい。
 何故そうなのか?それは我々が社会的動物だからである。他者と接し、そこで色々な問題と関わる。その際に我々は自分自身を見つめているのとは少し違う局面を体験する。それは端的に自分自身の何処か上の場所にあって、それは自分以外の全ての人達からしても同じである、或いはそうである筈だという前提で何かの問題に関わっている。その際に巧くことが運ばなかったり、自分が示した考えとか姿勢を誤解されたりすることはしばしばある。しかしそのことである会合とか組織とか集団と関わることが億劫になっていく場合に、その会合や集団、組織で自分にそういう気持ちを起こさせた人を変に過大評価し過ぎて、要するに自己にとっての天敵であるとか、苦手な相手だとか決め付けていく。勿論何かどうしても仕方がない理由で離れていこうとしている集まりに対して我々は、そういう決心を揺るぎ無いものにする為に決め付け的に判断しようとするだろう。それはそれで仕方ない場合もあるが、そういうケースが多くなると危険信号であるとは言えよう。
 日本の国会とか政治の世界を見ていると、何処か既に決め付け以前的に、本音で語り合うという姿勢を失っている様に見える。つまり全てが国民と、政治と国民の間に立ちはだかっているマスコミ向けのパフォーマンスに終始していると私からは見える。形式的にだけ民主主義の原理、公平な原理、正義を持ち込んで、実際にはそういった真摯な遣り取りをしている様には見えない。
 しかし政治では駆け引きということ、そこに図られる権謀術数ということが極めて政治力誇示に於いて重要であるが故に、モティヴェーション論とか正義論を真摯さのレヴェルから推し量ること自体が不毛である、と言われればそれまでであるが、マスコミを軸とする「見てくれ」的部分に多く意識をしなければいけない政治家の状況は健康的なことではないし、そういった対マスコミ的対策だけを期待させる様に仕向けるマスコミの在り方(菅総理への組閣後の質疑応答でのマスコミの人達のあの無策的質問内容を見よ)には辟易とせざるを得ない。
 政治の場合自分自身が直に参加する各種シンポジウムとは少し違う様相がある。それは政治の舞台に参加していない全ての人達の生活に次の日から大きく影響を与えてしまうというところである。従って政治に関わる人を、その性格とか人柄で評価してはいけない。それは一人一人少しずつ違う理性の在り方が、仮にある会合の流れとか場の雰囲気を決定している、つまり全ての差異が集合化して、その場の性格を決定している様な意味では、完全にその集合された立案され様としている法案の背後に存在し得る利害全体を把握しきれなさに起因する。つまり一人の代議士の発言から懸案全てが極めて多くの人々の利害に直接関わるが故に、ちょっとした一言が極めて重要な意味を持ってしまう。だからこそ失言とか軽はずみな行為が慎まれるわけだ。勿論だからと言って形式的なだけは粗相のない様にしておけばよいというものではない。しかしにも関わらず内的な誠実さよりは、外的に示される効果を考慮に入れた発言内容、発言機会の把握、政治的動き(人脈などの)も必要とされている、とは言える。それは心の奥底の真意とか誠意よりは、より見てくれ的に示される態度とか風格、貫禄といったことの方が重要だということだ。
 それは言語行為とか集団内、組織内での対人関係とか対人的な好悪感情自体が、既に言語行為上での対外的に示される自己行動とか意志発現から齎されていることに我々は往々にして忘れがちだからだ。つまりある余り好ましくない外部からの態度を得た場合、大概は自分自身の態度の取り方に問題もあったのである。勿論常に自分の側に問題があるわけではないだろう。しかし少なくとも自分自身もその場には居合わせたのである。幾分かの責任はどんな場合にでも自分にもある。と言うことは集団とか組織とはそれ自体その様に個的な信念とかプライヴァシーと常に別箇のものとして自分自身に於いても認識されているし、集団や組織自体もそうである。そして個々の異なった生活状況やプライヴァシーや、集団や組織自体への関わり方自体が少しずつ齟齬を来たしているという事実に於いて、その集団や組織は運営されているという現実の前で初めて、何故皆が皆の上の何処かにあるものを軸に集団、組織と関わっているかということの理由が明確化する。つまり全ての個人が少しずつ当該の集団、組織の為に真意を控え、我慢し、不満に耐え、真実の自分自身というものが仮にあったとしたら、何らかの偽装的態度で、演技し、ある程度偽の自分を装っているということである。そしてそれが極度に集積されたものこそが、例えば政界である。彼等代議士も参議院議員も、ある意味では全く自分自身の素ではない部分だけの集積から自己行動を好むと好まざるとに関わらす選択せざるを得ない。彼等の一挙手一投足に彼等自身の素のキャラクターは寸分も入り込む隙はない。
 つまりその事実こそが形骸化した対マスコミ的態度、真摯さよりは外部に示される姿が公化されることで得られる効果の方を最優先させてしまう根拠となっているのだ。
 かつて吉本隆明が言った様な意味での共同幻想が確かにあるのである。我々は一人の時と、二人の時と、それ以上の時という様に、人数が加算されるに従って少しずつ異なってくる態度の示し方、自分自身の真意や誠意の他者への示し方があるし、その際のメソッドも少しずつ変更されていく。すると問題化されることとは、端的に人、とりわけ自分が関わる当該の集団、組織での他者の真意での理性とは、個人的に親しくし得るか否かという自然人的友情関係外的なものであらざるを得ないし、そうでなければいけないということなのである。
 従って本章のタイトルにある信じるべき他者理性とは、端的に公的に示され得るべきものなのである。だからこそ、その公的な他者の態度とか行為、発言などは、全て自分自身の態度、行為、発言なども他者からそう受け取られるということだ。このことは極めて重要である。そしてそうであるからには、自分自身から出される全ての態度、行為、発言は自己責任である。それは皆そうなのである。又そうであるから、ある人の態度、行為、発言はそういった公的な規準での査定が求められ、それは好悪感情的なこととは一切関係ないものであるべきである。そしてそうである為には(往々にして我々はそうであるべきなのに、案外それを無視して好悪感情で全てを判断しようとする。それは政界でもよく見られることではないか!?)常に「待てよ、本当はどうなんだろう?本当は向こうはどう思っているのだろう」という一歩判断停止して、即座に判断していってしまう逸る気持ちを抑制し得る冷めた見方が必要なのである。
 そしてその冷めた見方とは端的に極めて他者内の理性を心底では疑わずに、信じようという決意からしか得られないものなのである。この点が最大限に重要である。人は案外疑うという心的作用を過大に知性主義的に持ち上げ過ぎだからである。哲学的懐疑論でさえそうであってはいけない(と私は思う)。信じること、取り敢えずは信じてみるという心的決定こそが他者内理性を引き出すし、それでも巧く行かない時には確かにその当該の対象を、それが特定の人であれ特定の集団、組織であれ去っていけばいい。
 要するに他者を信じることからしか他者内の理性をこちら側に引き出すことは不可能であるということは、平和も民主主義も只静観しているだけでは獲得出来ないということからも当然の理ではないだろうか?
 そして他者内理性を信じることを可能化する心的傾向性とは、端的にいずれの立場へも極度にも加担せず、いずれの態度をも好悪感情で即座に推し量らない冷めた見方、即座の判断を差し控える判断停止の習慣から齎される。

Sunday, January 16, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十九章 日本人とnation、日本人の性格・これからの世界・日米関係はどうなる?Part2

 アメリカ人の発想には彼等が日常生活で引き算が出来ない様に、マイナスの発想はない。例えば薬剤の副作用を減らす為に薬剤服用を差し控える(これは日本人的発想である。が実はこれもきちんとして科学的根拠は全くない)という発想へ至らず、只副作用を解毒させる又別の薬剤を服用するという発想にしかならず、又拳銃所持によって突発的な乱射事件(最近も下院議員も銃撃され、多くの死傷者を出した事件があった)も間を置いて反復されるが、その解決法として更に拳銃を所持しやすくすることで自己防衛をしようという発想へ至る。
 日本人にとっての「水に流す」潔さは端的に分析的な究明の忌避感情に起因する。日本人が遺伝子組み換え食品を忌避するのは土俗宗教的感性からであって、決して科学的合理性によってではない。只単に遺伝子組み換えという語彙が齎すイメージが日本人的迷信的感性にそぐわないだけである。従って無農薬野菜に拘るのも一重に土俗的信仰的感性からである。
 日本人は原因究明求心性の曖昧な断念、要するに滅びの美学、もののあわれ的な情感主義者なのである。だからこそ薬の副作用があれば、薬の服用を断念しようという方向へと動く。これと無農薬野菜への信仰は同一理由によるものである。

 今後世界はウェブサイトの益々の充実、拡充から一方では益々世界市民としての個人性とオタク性と、それに抗う様なアンシャンレジウム(懐かしい言葉だ)残滓としての国家主義(nationalism)が併存していくことだろう。が同時にその二つの精神の分裂が益々世界を新たな様相へと突き落としていくことだろう。
 私の親友のK氏(社会教育学者)は知的エリート層より中間層の拡充を至上命題としているが、私自身は彼より二十歳若いのであるが、今の社会がかつての様に全ての世代が調和を図り国家全体が全国民を統轄し得るのは幻想で、K氏はその実現の為に憲法改正をし、徴兵制を施行すべきだとまで考えておられるが、私はそれは実質上不可能である、と考えている。
 そのことは意図論でも書いた。しかしもっと詳しく述べると、徴兵制とは一律に兵士へと青年を徴用することであるが、それは個々人の資質や特技を抹殺するからである。募兵制であるならいいと思う。日本もいずれは軍事的独立も果たさねばならぬだろうからである(そのことは後で詳述する)。
 要するに青年世代が変に観念的な知性を身につけ、実用性から遠ざかっている姿はここ数年多く見てきた。多くは文科系的センスの人に顕著であるが、実労をバカにしている。これは極めて危険である。実際のところ文科系的執筆業は需要から言って然程多くない。従って多くの実務経験のない青年達は遠からずニート化していく運命にあるだろう。従ってある程度強制的に観念上ではない実在世界に社会奉仕し得る実労経験を積ませるということは大事ではないだろうか?(私自身は比較的多く仕事が見つかった時代に青春時代を過ごせたので、そういった経験も多く積んで社会勉強にもなったと思う。)
 実在経験の蓄積からしか真に社会に有用な哲学は齎されない、ともし私が言えば反論したくなる青年は大勢いるだろうが、それは哲学専門性からではなく社会全体から言えば正論である。何故なら社会全体から言えば専門哲学や文学は然程大きな位置を占めていないからである(従ってそのことに自覚的なプロだけがある程度それで食っていく権利があると言えるだろう)。
 今の青年は特に肉体労働を知らない人は多い。だが身体障害を持って生まれた青年も大勢いるのだから、徴兵制などは不可能であるが、募兵制的にすれば、能力資質別役割分担も可能となるかも知れない。(K氏の考えは多分に去年のNHK新年座談会での西部邁の考えに近く、私はそれよりは宇野常寛に近いものがある。)社会指導者層は能力資質別役割分担という調整能力を問われるだろう。
 さて日本は恐らく益々オタク的に全専門分野が細分化され、総合的視野は極一部の政治指導者、一部の経営者、一部のエリート層のジェネラリティにのみ委ねられているという状況へと転化しよう。するとそこでは最早大半の市民が総合的視野を欠如させ、天才的超魅力保持者である扇動者が独裁政治をしていく危険性(或いはかなりいい政治をしていく可能性もだが)はある。K氏や西部邁氏の考えは懐古趣味的センシビリティで、四十年遅れでミシマイズムを再評価する様なものである。
 
 しかし強ち兵役制度の復活は無意味ではない。勿論それは全面戦争へと向けられたものではなく対テロリズムとしてである。しかもそれは全世界的にどの国もが世界平和の為に分担していくべきなのだ。そしてもし兵役が復活すれば青年達だけでなく全ての市民が参加すべきである。例えばそれは中年もそうだし、老人が肉体的に無理であるなら応分の経済負担をすべきである。
 何故ある程度兵役復活に意味があるのかを述べよう。
 それは当然戦争をしかけるものではないし、平和憲法の骨子は永続させてもいい。しかし実際に我々の身近に多くのテロは差し迫っていて、それはいつ何時日本にも押し寄せるかは分からない。従って世界的規模でテロ撲滅の為に防衛システムを構築していく意味はあるのではないだろうか?
 ある者は無線技術で貢献し、身体障害者はそれなりの仕事を分担するという様にである。従って軍隊と言っても昔の日本陸軍の様なタイプのものでは決してない(日本では自衛隊と呼んでいるが、あれは事実上完全なる軍隊である。それは誰しも知っているのに、それをうやむうやにして存在理由に就いての問いを封殺してきただけである)。
 何故我々日本人にも正当な理由で兵役を復活させるべきかと言うと、それは一重に戦後軍事プレゼンスを世界のリーダー且つ警察官であるアメリカ一国に過大に肩代わりさせ過ぎてきたと私は考えるからである。
 つまり私は、そういった経済大国で世界政治経済のリーダーであり且つ警察官としてもリーダーであることをアメリカ一国に負担させ過ぎたことこそが、実はリーマンショック等の金融システム破綻劇を招聘したと考えているのである。
 アメリカは一方で戦後常に世界経済金融大国であり続けてきたが、他方常に世界の軍事的プレゼンスの頂点としても君臨し、戦争の最前線に常に立たされてきた。そのアメリカが戦後日本の社会秩序を方向付けたことは事実であり、その際にはマーシャルプランを受け入れる形で平和憲法も作られた。しかし日本では田嶋陽子の様な極端で歪な民主主義平等倫理的女性論客に象徴される様なジャーナリズムが国民全体に蔓延していった。それは一重に平和幻想である。
 平和は只で手に入っていたのではなく、日本の場合あくまで米軍に多額の報酬を付与することで得ていたのだ。しかしジャーナリズムは常に平和=善という図式にだけ当て嵌めて全ての報道をしてきた。オバマ大統領が当選して大統領に就任した時も、そういった日本とアメリカの戦後世界的現実を一切反故にする様な報道も目立った。しかしこれは言わば現実逃避的スタンス以外ではない。
 軍事負担はアメリカ国民の国威発揚でもあるが、同時に多くの遺恨も生んできた。つまり世界の平和安定という形での建前でベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争という各戦争に於いて、最前線の兵士の間に多くの精神的ストレスを与え、シンドロームを招聘してもきたのである。
 その様な国家の経済運営がデッドロックにぶち当たらぬ訳がない。マネタリズムに代表されるゲーム理論等を応用した金融理論全部を否定することは恐らく出来ない(私はそれほどの知識もないし、そう断言出来ない)が、この様な理論に奔走したアメリカ人知識人層の間に固有の現実逃避があったと考えても強ち見当違いとも言えない部分はある。
 今後の世界平和秩序に於いて脅威となるのは、やはり宗教原理主義的なテロリズムであることは間違いない。それ等の抑止の為に世界各国が経済力、各民族国家毎の能力差に応じた責任分担をしていく必要性は大いにある。負担と貢献の世界的規模の役割分担を真剣に模索すべきフェイズに世界は入ったと私は思う。それは一重にアメリカ社会と国家の過大な精神的負担を軽減することを主な理由としている。そしてそれが結局世界経済も政治的安定へも寄与し得る、と私は考えるからである。
 しかしその為には旧態依然的な軍隊システムではない新しい合理的な防衛軍事システム、しかもかなり多くのタイプの能力資質に応じた役割分担を可能化する新秩序を要する。だからこそ最初にアメリカ人のマイナス欠如型思考傾向と、日本人の土俗的感性に就いても触れたのだ。つまり民族性とはそう一朝一夕で変更が利くものではないが故に、そういった民族性(世界の民族に各自備わった)に応じた役割分担を世界で模索してく必要がある、と私は考えているのである。
 これは絵空事ではない。世界秩序構築の必要性を蔑ろにしていれば、いつか人類は本当の意味で悪辣な世界的規模の扇動者の出現によって生存自体を危機に晒す危険性がある。それがゼロではない限り、そういった時の為の思考実験をしておくことには、只単に哲学者の思考実験としての意味合い以上のものがある、と私は考えているのである。

Saturday, January 15, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十八章 日本人とnation、日本人の性格・これからの世界・日米関係はどうなる?Part1

 私見では日米同盟とか日米関係とは常に誤解によって育まれてきた。何故なら日本の常識はアメリカでは通用せず、その逆も真なりだからだ。しかし本来理解とか相手に対する把握などというものはそういうものである。それは昔から大勢の哲学者も論じてきたことである。しかし本質的に何が違うのか、を私なりに(私は日本人であるから一日本人から見た日本とアメリカの関係を)考えてみたい。

 まず基本的に日本人は少なくとも欧米流で言うところのnationという理念に対して齟齬を心に抱いている。率直に言って日本人に漲る個人的資質、つまり個人として生活していく心の中での考えとか構えからして、nationの様な合理主義はそぐわない。或いは平均的にはそういうものとして受け取っている様には思えない。これは重要なことだ。
 その顕著な例を古都京都に私は見る。
 京都はご存知の様に古来から様々な為政者達が入れ替わり立ち代り支配してきた。しかしそのいずれの時代の精神をもそれぞれ残されている。例えばこれが中国であるなら一部資料という形以外ではある為政者が失墜した時次代の為政者は前の文化を全て滅ぼそうとするだろう。尤もこれは中国が古来から多民族国家であったから致し方ないのだけれど、日本ではその様なことはなかった。勿論前の為政者が殺されたりということはあったが、基本的には前の時代にあったいいものは残そうという意識はあり続けた。
 しかし同時にそうであるが故にある種の統合され得なさ、つまり曖昧さも常にこの国にはある。
 例えば京都では名刹同士が隣接する名刹に対して隣人であるという意識は希薄だ。例えば禅宗名刹に隣接する名刹が日蓮宗である場合大半の名刹は「内とは無関係です」とそう答えるだろう。これはある意味では京都が相互不干渉主義的な他者共存を不文律としてきたことを表している。
 京都は言ってみれば多文化共存<異文化共存>性のnationならぬ、various culutured, various circles societyと言ってよい。つまり異なった時代に咲いた異なった文化がほどよく共存しつつ、それぞれは自主独立していると考えてよい。
 そしてその精神は日本人全体をも性格づけてきたとも言える。つまり京都にシンボライズされた性格は基本的なところでは、京都ほどの名刹や名庭園のない東京であれ、それ以外の何処であれ日本の都市の一つの性格となっている。要するに改正とか改革とか、構築に対する考え方自体が欧米とは違うという部分は見逃すことが出来ない。それはある部分では生来的資質として日本人の特徴とか性格に帰するし、ある部分では一つの歴史的展開の中から形成された伝統というコードとして捉えることが出来る(従って今後は改変することは可能である)。
 率直に何故日本人が生来的に欧米型nationを受け入れられないのだろうか?
 それは恐らく統率とか統合という原理自体への欧米人との考え方の違いということに帰そう。と言うことはある部分では中国や朝鮮半島とも共有し合える性格としても位置づけられるということだ。
 アジア的考え方としては日本人も又あらゆるものを類縁的に関係づけるという意味では、純粋分析的であったり、純粋個別主義的であったりする様な発想はし難いということは言える。
 そのことを顕著に示す例としては最近NHKで放映された爆笑問題司会の学者を訪ねる番組で、ある古文書研究家の意見では、日本人は情報管理に関して集団とか組織、国家レヴェルでは遅れているが、何時の時代でも個人的には優れていた、ということである。要するに個的な、つまり自分勝手に何かをすることに於いては卓抜な智恵と能力を発揮してきたということだ。
 これは日本人の生来のアウトロー的気質を示している様に私には思える。
 これは恐らく中国人や韓国人にはない資質ではないだろうか?
 もう一つ中国人や韓国人にはない資質がある。それは日本人男性が前章迄も述べてきたのだが、男性支配力、つまり男社会的支配の影に常に女性から評定される優れた男性という尺度が濃厚に反映してきた、ということである。これは卑弥呼とかお江の様なタイプの存在が時々日本史上に登場してきたことからも言えることではないだろうか?
 精神的母系社会と、勝手に私はそれを呼んでいる。実はこの事実が戦後日本から徴兵制を廃止させてきた原動力になっている(それはいい意味でも悪い意味でも)と考えているが、それは後で述べる。
 端的に日本男性は女性にもてない、受けたいという意識が根底では払底出来ないのではないか?
 これはかなり私の主観的な直観であるが故に反論もあるであろう。しかし確かに戦後女性の発言権が増したことがこの一因ではあるものの、それ以前から日本には女流文学的系譜、例えば紫式部とか清少納言の様な平安女流文学系譜は精神的にはその後の日本人に何処か根底で極めて深い溝の様なものとして刻印されてきたのではないだろうか?それは物事を余り白黒つけたくはない、分析的に捉えたくはないという心理となって反映している気が私はする。
 この平安時代には 妻問婚の様なタイプの夫婦形態があったが、その様なタイプの習俗があるのは日本だけだったのではないか?(正確には私にはデータがないから勘違いかも知れないが)
 例えばフランスの自然主義文学の傑作の一つである「女の一生」(モーパッサン)などは、ある意味では極めて男性支配社会が生んだ哀れな女性の姿、つまり女性の側が如何にイケメンであれ社会的地位の高い男性であれ、その心をゲットするかということに血眼になっている女性の姿を基本とした小説ではないだろうか?そこのところを考慮して読むと又違う読み方が出来ると私は思う。
 つまりhusband(ドイツ語起源のハウスバンドから派生した語彙)に象徴される様に我々の社会と違って、女性とはあくまで男性の支配をサポートするべきものであるというモラルは欧米では恐らく日本より圧倒的に強い。と言うことは欧米では日本と比べると圧倒的に女性の側が如何に男性の気を惹くかが問題なのだ。この差は重大である。要するに欧米は精神的父系社会なのである(勿論形式的にもそうである)。
 それに対し日本は全てに対して精神的に調停型文化である。従って管理職者とか管理者の様なタイプの職責に於いて求められている資質とは個性豊かなことではなく、完全に標準的な意味で公平であること、要するにある種決定的に凡庸なる貫禄が求められてきた。その意味では小泉純一郎という人物は例外的なカリスマ性があった。しかしだからこそそれは永続的なカリスマではあり得なかった。
 これは好き嫌いを別として日本史の歴然とした事実である。徳川幕府がかなり長期に渡って支配維持されたことと引き換えに織田信長は短期政権だったではないか!
 日本では大学組織であれ、役所関係の組織であれ、調停型の知性が求められ、重用されてきたことは事実である。勿論ある部分では特殊技能を、例えば現代の様なものづくり系の技術立国である日本ではあるが、それはある意味では全体の調和の中の一種の花であるに過ぎない。日本人全体のモラルとはそういった技術的天才性とは別箇のところにある、という考え方は極めて順当なものではないだろうか?
 ずばり、日本で出世するタイプの人格とは個性豊かなことではない(実は能力的にも人格的にも個性豊かということの判定自体が一番曖昧であり、その点ではアメリカの方がもっと合理主義的に冷徹であろうが、日本では出世しないタイプでもアメリカでは出世しているケースはあるだろうと私は思う。要するに日本ではある種の平凡さが積極的に求められているのである。これは特に公的機関ではそうであると言える)。端的に凡庸なる貫禄保持者である。それは何かに特別ずば抜けて優れていることではない。要するに常にバランスが取れていることである。この点こそ恐らく欧米とも中国、韓国とも違う部分であろう。何故なら日本が技術立国であることの理由の一つも一人の天才によるリードであるよりは、大勢の人達同士の協力体制、そしてそれを引率してきた凡庸なる貫禄によるところが大きいと思えるからである。
 つまりそのことと、競争社会的なfairnessが基本的に精神的に定着し難いというところとは密接に関係があるのではないか?つまり日本人は純粋に人の上の立つことも、人の下に仕えることも極めて苦手な民族なのである。だからこそ戦後も軍事力自体は凄いのに、国家正式の軍隊を自衛隊という呼称で通してきたのである。これは我々日本人の深層に刻みつけられたモラル論的な信念である様に思われる。
 そしてこのことがnationという理念と形式に自己を即応させることを余り潔しとしない日本人の曖昧志向的性格を形作ってきた、とは言えないだろうか?
 欧米の、特にアメリカの個人主義とは端的にnation管轄的な競争原理に基づいている。それは全体主義的なものなのだ。その系譜学的意味合いでは、アメリカには王政はないが、ヨーロッパでは城砦都市的傾向が濃厚な欧州専制君主制に根差すものである。
 しかし日本人が個人主義的である様に思えるのは、端的に全体主義志向からでは決してない。それはある部分では極めて自分勝手なアウトロー性、一匹狼、素浪人的なものなのである。このことは言い過ぎても言い過ぎるということはない。この日本人の性格を素浪人型、或いは一匹狼型ということでアウトロー性と呼ぶことにしよう。
 次回は今後の日本の在り方自体を考慮に入れて、戦後社会から形成された日本社会の問題点を、アメリカ社会とアメリカ人の性格との対比で考えていってみたい。

Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十七章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part4結論、そして今後の研究を示唆する真理

 私は前章を書いた後で直観的な真実を次の様にツイートした。

沈黙、黙認、水に流す、好感度、この四つが日本社会に蔓延する決定的不文律であり、それを操縦し、実質的に支配しているのは女性である

 沈黙と黙認が日本型差別であることは第四十五章最後に触れた。そしてそれが次章である第四十六章で女性上位性を精神的訓育面から捉え、日本は要するに精神的母系社会であることを述べた。
 これは玉虫色の判断を善しとする日本人の判断傾向を裏付けてもいる。そのことを少し考えてみよう。その前に暗黙の男社会が日本では農耕社会が弥生期から定着していったことから、基本的に非狩猟民族的な不文律として昨今の流行タームを借りれば草食系男社会に於いて、益々女性は影の支配者として君臨していて、その女性的感性が玉虫色の判断を理想とするという事態を招聘していると私は捉えているのである。
女性は基本的に日本史では仕事とか職務からは遠ざけられてきた。それは「男子厨房に入るべからず」という諺にも示されている。この謂いに示される男社会的な不文律は家庭労働が実労には入らないという日本男子的常識と一致してきた。勿論昨今現実にはこれは当て嵌まらなくなってきている。これは男女雇用機会均等法施行以来の転換点となっている。
 しかし幾ら一切の常識が戦後社会で日本が転換してきたからと言って、日本人固有の思考傾向までは一気には変えられない。それは生活の隅々にまで浸透しているが故にそう容易に変更が利くものではないと言える。その一つとして沈黙は美徳的なことを私はツイートしたのだ。
 そして日本女性は多発言男性、饒舌男性を嫌う傾向にあることは既に明白である。だからこそ沈黙は美徳、そして他人の悪口を一切言わない主義の実践者こそが日本ではもてる男性の代名詞なのであり、それを私は短いフレーズにして考えツイートしたのだ。
 水に流すとは何時迄もぐちぐちと後悔したり、他人への中傷をやめないでいたり、これも既に古い言い回しとなってしまっているのだが「女々しい」「女の腐ったの」といった謂いに象徴される男性への暗黙の非難が諺化したかの様に私には捉えられる。
 つまり日本では女性からもてる、受けるという選択肢から自然と男性は非多発言男性、非饒舌男性としての印象を異性から得たいという構えを構成していくこととなるのだ。
 ではそれと玉虫色判断とはどう繋がるのだろうか?
 それは案外単純である。女性は地図を読めないとか、余り立体的構造を理解するのに長けていないという性的傾向が各種自然科学的見地から立証されているが、それと恐らく何処かでは繋がる真実として正確なデータよりも概算的なデータを理想としたいという性格が男性よりは強いのではないだろうか?つまりその曖昧理想主義こそが情報的正確さ(それは男子に於いては殊に官僚的職務に代表される様に、各種専門分野では至上命題である)に対する怠惰を一方で美徳としていく様になる。それは最早国民性となっていると言ってさえ過言ではない。
 世間一般の個性的人材にはよくこう自分を称する人がいる。
「俺は生来の詩人なんだ」「俺は天性の芸術家なんだ」
 しかし当然のことながら、こう言う人に真の意味で詩人や芸術家はいない。かつて私はブログNameless-valueの考えてみたいこと の「今年ツイッターで示した考えについて/意図・責任・行為・価値・反省意識」でも述べたことであるが、日本では出世コースから外れたリタイア老人が異様に個性的であることが多いが、彼等は一般に現状認識も、正確な情報摂取からも極めて遠ざかっている。これは真実である。それは主婦の友的レヴェルで「心の故郷」化された存在として地域社会で自治会長などをしている老人に顕著である。試しに彼等に去年大きな反響を呼んだWikiLeaksやFacebookについて質問をしてみるといい。大半が返答することが出来ないだろう。
 要するに日本社会にとって最大の実害となっている兆候とは端的にこの種のリタイア老人が未だに地元社会では厳然と保守的力を保持していて、それに迎合する主婦層、そしてそれにつられて妻の意見を取り入れる一般サラリーパーソン達による(従って独身サラリーパーソンは少し違う)連携的な無知称揚主義、つまり非インテリ、非エリート階級的本願ぼこりが、情報摂取に於ける正確さ、精密さを蔑ろにしているのである。
 つまり日本社会ではエリート、インテリ階級の常識と、世間一般の常識との間に極度のずれがあるのはこの点に存すると言ってよい。そしてこの不幸なずれこそが「学者バカ」「絵描きバカ」「専門バカ」といった語彙を定着させているのである。そして端的に日本では正確なデータに拘る者は、それが極めて順当な論理であり説得力があってさえ、それを「学者バカ」「専門バカ」として非難し、玉虫色判断を是としてきたのである。そして感性の革命家である芸術家に対してなら「絵描きバカ」と言って蔑んできたのである。
 そしてこの世間一般とエリート、インテリ階級とのずれに対して、世間一般の不文律の方を常に優先してきたマスコミ的良識に対する批判と指摘に内在する理念的主張に関する限り中島義道の諸著作での意見は正しい(只彼は自身の生来の学者的資質がずっと戦後民主主義教育に於いて仲間外れされてきた幼少期の恨み節を未だに諸エッセイ著作で展開させ、自らの文化人性、学者的探求性を誇っているところに私は固有のスノビズムを感じて嫌いなだけである)。
 日本人は一神教民族ではないし、有神論者でもないし、無神論者であっても、欧米型のその種の人々とも決定的に違う。又日本に広く普及している仏教文化も欧米型の一神教とは本質的に違う。従って日本人には(これはいいとか悪いとかいうことではなく)ロゴスはない。
 それは言葉による説明と、説明に対する理解より、より体得ということを美徳として重んじてきた文化の国に相応しい現実的真理である。それは一種の文化的伝統である。
 その最もシンボライズされた語彙こそ日本固有の教育語である「躾け」である。
 勿論欧米社会でも体罰は大いにあり得る。しかし日本の 躾け には本質的な欧米社会との違いがある。それは日本では欧米と違って大人が子供を躾けるということに限らないということである。
 つまり実質的に男社会であった筈の男性が絶えず日本民族固有の性善説(まさにそれが向こう三軒両隣といった観念を長く日本が温存させてきたのであるが)的美徳に加担し同意してきたのは紛れもない事実である。
 つまり日本男性は女性から訓育される、つまり女性の感性に裏打ちされた固有の良心、或いは「良識(それがまさにマスコミを誘導してきた実体であることは既に何度となく述べてきた。それが所謂抽象的で曖昧そのものである)=正確なデータで立証するのではなく、概算的要求をすることを是とする集団論理、つまり玉虫色の判断」<それは全ての示談、分裂調停、集団内での確執に対する解決と処理、経営者による決裁に漲っている>を是としてきた。この様な固有の不文律を恐らくかつて井沢元彦をして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのだろう。日本は中国とは又一種異なったタイプの人治主義国家であり民族である。
 それを一言で言い表すと、分析を悪とする思想であり、感性的直観による判断を善とする思想である。そしてそれが極自然に出来る者こそ好感度があるということであり、その好感度を左右するのは常に女性であり、その好感度獲得をした者こそが第四十五章冒頭で示した様に文化人としてのレッテルで世間から見られ、その専門性を蔑ろにしていってさえ、彼等の意見は他の専門家よりもより重んじられるのである。この常識は恐らくアメリカではあり得ない(何も私は全てアメリカが正しいと言っているのではない)。
 かつて池田満寿夫(1034~1997・版画家・画家・作家・写真家・陶芸家)は「私自身のアメリカ」(1974)で日本では一回芥川賞でも何でも賞を受賞すればある程度一生生活が保証されるが、アメリカでは二三年しかその栄誉では生活は保証されず、それだけ生き馬の目を抜く社会であると述べていた。
 しかしそういったアメリカの不文律が全て正しいわけではないということは、昨今のアメリカの世界的規模での失態から言っても正しい。そして欧米流の分析至上主義だけが正しいのでもない。しかし同時に日本人の中に脈々と受け継がれて来た分析忌避傾向、正確なデータ引用、参照、それを基にした証明を極度に嫌悪する民族的資質があるということだけは確かではないだろうか?そしてその曖昧さを好む気分主義、情感主義は一方では三島文学や川端文学の様な優れた遺産を生み出しても来たが、同時に全く何時迄経っても明確な道筋の見えない政治的停滞をも招いてきた、そしてその政治的停滞全体への処方を未だに日本人が見出せずにいること、そしてマスコミ全体の論調に漲る全く根拠のない固有の市井的良識こそが今最大級に批判対象として我々の前に提示されている、と捉えることも強ち日本の未来、社会全体の行く末を見据える時に無意味ではないだろう。
 
 次回から京都を何度となく訪れ来て私が感じた日本文化のシンボル的意味合いと、奈良との比較などの文化論へと移行させていこうと考えている。その基本的考えとは日本が日本人自身による欧米型のnationをずっと回避し続けてきたという精神的現実から考えていきたいと考えている。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十六章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part3

 第四十四章と前章で私はacademismという語彙を政治レヴェルでも使用したが、これは語彙自体のテクニカルターム的認識からすれば誤りである。しかしにも関わらずそう私がルール無視をしてこの語彙を使用しても通じてしまうというところに、ある意味では重要な命題が潜んでいる。そして学問、芸術、音楽、文学などと政治は常に古代では一体化されたものではなかったかという考えの上ではアカデミズムと反アカデミズムを政治経済的アスペクトで使用することは理に敵っている。
 今回は情報摂取の仕方を巡る日本人の個人間に横たわるメソッドの全く関係のない世界同士の愕くほどの類縁性と相互不干渉的現実に就いて考えてみたい。
 私事であるが私は相互には余り密な連絡のない異なった分野の学会に三つ加入している。それには理由がある。情報摂取に於ける情報内容の信憑性に就いての確認の為である。
 私が職業上では学者と自分を考えていないタイプの成員なので、逆に学界全体を外部的視点で観察することがプロ研究者よりは容易である。その際重要なこととは、学界という一つの大きな官僚組織自体の存在理由を知ることが、それ以外の世界からの要請や期待、或いは幻想と現実にはどう合致してどう齟齬を来たしているのかということは、ある意味では現実と理想の狭間で現場のプロがどう考えているかということと(それは理想との齟齬に於いてどう苦悩しているかということである)その一切に対して如何に一般市民は情報的に封殺されているかということを知ることであり、この両者の関係を取り結ぶものこそ斜めの関係である。
 つまり若い学者、研究者は概ね大学組織の一員として教員としての就職口を探すのに躍起であり、その意味では特定企業のラボなどで職を得る方法以外では学閥的人間関係を構築して、横の連携と情報摂取、そしてあわよくば就職口を見出せた者はその後、後輩育成は勿論のこと、自分に就職口を斡旋してくれた年配研究者、学者との師弟的関係の維持に於ける、要するに縦横の関係の渦中にあるとすれば、それ以外の学閥外的人間との接触に於いては自らの専門的研究分野自体の一般社会への説明責任に於いて、啓蒙的スタンスを抱かざるを得ず、その点でそれを縦横外的対人関係という意味で斜めの関係と私は呼ぶのである。
 従って私が余り隣接していない(つまり重複して加入している会員が余り多くない)三つの学会に加入することで私自身へ得られるメリットとは、端的に学者、研究者外的立場の人全体が現代社会生活自体を成立させる為の一つの重要な指針である専門的情報摂取という意味で意義ある情報、しかもかなり信憑性のある情報を得る(専門家ではない立場の人でも確かさに於いて自負し得るところの情報を得る)為なのであるが、出来る限り離れた研究分野の学会に同時並行的に参加することで、そこで使用されるテクニカルターム、或いは問題とされている命題、今現場で問われている研究手法や関心志向性が、仮に一点でも二点でも全ての学会で共有されているとしたら、その情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)から類推される意味はかなり信憑性があるとは言えないだろうか?
 勿論学界全部とそれ以外という形でも我々は共有し合える情報内容はある。しかしそれは余りにも範囲が広大過ぎて却って一般的真理であり過ぎる。その点では余り隣接していない異なった学会全部で共有される情報はかなり学界外的一般民間人へも情報伝達価値があるものと見做していいのではないだろうか?
 要するに情報価値への容認に於いて、ある業界とかある専門分野に於ける関係者間で共有し合えるレヴェルと、その共有現実自体が業界、専門分野外的一般市民との間で価値的に認識し得るかという部分に、仮に一つのテクニカルタームがロングスパン的に未来へと受け渡していく価値があるものであるという結論を見出す余地がある。
 これはかなり下世話な下ねたから芸能界ねたに至るまで全く関係のない世界での関係のない人々によって共有されているのであれば、情報内容の信憑性はあるということで別ブログ「Nameless-valueの考えてみたいこと」で既に一度述べたことである。
 しかしこの種の民間心理学的、民間情報摂取的智恵はある意味では専門家の取るべきメソッドではない。そういう意味では例えば私が日頃何気なく若者が多く集う居酒屋で隣に座る若い女性の会話が聞こえてくるその情報内容とそう大差ない。しかしこの事実、つまり学界的現実、それはある意味では社会の頭脳として日本国家の官僚として確固たる地位を獲得している世界の現実なのであるが、それと居酒屋での若い女性達の会話との間に大差がないという部分にこそ、何か大きな真理が潜んでいるとは言える。そしてその部分にこそ民族性固有のシャーマニズムが介在していると考えることには理がある様に思われる。
 中島義道は近著「女の好きな10の言葉」で哲学者としての立場からシニカルに、寧ろ専門哲学的見識から離れて現代女性心理を分析している。その際に女性が男性を見る時、男性が女性を見る時以上に相手を「上、中、下、下の下」という差別的眼差しであると述べている。そして上とはあくまで将来自分の恋人なり配偶者なりになり得る可能性のある異性であり、中とは話を聴いたり話を聴いて貰ったりする価値のある異性なのであり、それより下は人間として存在価値さえ認められないというシニカルな視点を提示している。
 これは極めて言い得て妙である。何故なら私が昨日飲みに出かけた居酒屋でもその種の会話がまさに二十代前半から中盤、或いは後半世代の若い女性三人の間で交わされていたからである。
 内容はある男性(その会話の中の誰かの特定の親友と交際している男性であることだけは分かった。そしてその親友は他の二人ともかなり頻繁に接している関係にあるということも分かった)がその親友の前で接している態度と、それ以外の同性の人と接している時とでは全く別人格であるということであった。つまり彼女らはその共有して知遇のある友人の彼氏が友人の前では媚び諂うが、それ以外の友人関係では極めて傲慢な態度の人間であり、その調子のよさ自体に信用がおけないという主旨のものであった。
 この種の会話は多くの居酒屋での女性の会話を見ていると極めてよく見られるものである。そしてここで重要なことは、社会人としての女性は異性の理想条件として同性から信頼が厚く、異性には媚びないという姿を第一に挙げているということである。しかもその理想条件とは端的にそれを伴っている異性の方が出世もするであろうという目算に裏付けられているということだ。
 これは日本社会が極めて閉鎖的な対人関係で出世、非出世が左右されるということを示してもいる。
 もしこれが欧米社会であるなら、恐らく異性の前で一番いい所を示す男性がより頼もしく、それ以外の同性との間では闘争的なタイプの男性の方が出世していくと捉えるだろうからである。つまり日本社会が殊に男性の同性間の同調性、協調性に於いてその紳士協定性と異分野、異業界、異研究分野間に於ける相互不干渉主義とによって構築されている現実を一も二もなく容認し、その不文律に異性をより放り込もうとしているのが当の女性であるということが極めて重要である。これは日本が心理的な母系社会であるよい証拠である。
 つまり心理的にも精神的にも女性が社会的同調に対して異性である男性を訓育していくという側面が日本社会では多い。そしてこれがある種の従順な男性に於いては立身出世に貢献しているが、多くの男性にとっては息苦しく、それ故に多くの離婚劇を生んでいるのではないかと私は思ったのである(これ自体只単なる民間心理学的見解であることは重々承知しているが)。
 恐らくこの点では集団協調性とか同調とは無縁の欧米社会では女性が男性を精神的に訓育する、まさに妻の(或いは仕事上のパートナーに於いても恋人関係に於いてもである)母親化という現象は日本よりは少ないのではないか、と思う。日本の女性は端的に男性に対して母親の様な口ぶりをする。それはある種の日本人固有の社会モラル的なシャーマニズムである。
 そしてこのシャーマニズムは男性社会での専門家、研究者、学者、否恐らく政治家であれ官僚であれ全ての世界で通用する。異性としての女性が男性を精神的に訓育するという社会内暗黙のシステムが、仕事の現場で男性が「内のかあちゃんの為に粗相のない様にしよう」という決意を自覚せしめている。そしてだからこそ「内のかあちゃんの為に余計な口出しを他所様にするのを控えよう」という決意をも彼等はするのである。
 もう一度簡単に復習しておこう。
 日本では同一業界内でのみ通用する不文律があり、それは異業界では通用しない。であるが故にその相互不干渉が社会モラルとして暗黙のルールとして定着している。これこそが母系社会的シャーマニズムであるということだ。しかもそれは私が三つの余り隣接してない学会(とは言え全く無縁ではない学会同士ではあるのだが、そのことはいずれ又触れることとしよう)を同時加入している(こういう研究者や学者、専門家はかなり多数に上る)ことから摂取し得るどの学会でも通用する情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)が民間心理学的に余り関係のない分野間で通用すればするほど信憑性は高いという個の判断が、まさに居酒屋の二十代女性の会話上の判断とさして大差ないということと、そのことの暗黙の相互了解こそが日本社会の本質ではないか、ということなのである。そしてこの部分では欧米では日本と重複し得る部分もあるのだろうが、かなり異なっている部分もあるのではないかという私の直観こそが、今後私が考えていき、研究していく価値のある部分ではないかと考えているのである。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十五章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part2

 我が国のマスメディアやマスコミは国民自身が育てたものである。何故なら我が国にはアメリカと一番違うこととして、一度成功した人がずっとテレビ番組の顔馴染みになって視聴率さえ獲得出来れば、その成功した専門の仕事がかなり等閑になっていても一向に差し支えなく、タレント的に扱われ、それは人気がある程度に応じて文化人的な地位が与えられる。彼等は多くワイドショーに出演する。日本政治はここ数年完全にワイドショーねた的なレヴェルで政権交代から何から何まで行われたとしか言い様がない。
 マスコミの下世話なねたとは去年暮れにバカの一つ覚えの如く流された市川海老蔵障害事件の顛末と同じレヴェルである。
 日本人はアメリカ人とはまた一風違った形でこの種の露骨なテレビマスコミの視聴率だけを取らんかな主義を余り不愉快に感じていないのだ。つまりそうであるからこそ何時迄経ってもマスコミの論調に解散総選挙時期まで左右される様な現実に慣れてきているのである。
 これは日本人がエリートとかインテリとか特殊な優秀な人と一般人とが別種の人達であり、自分自身は生涯そういった専門的世界には関われないという諦念が支配していることとも関係がある。つまりそうであるからこそ、自分自身の眼で何かを確めることなく、その確める作業自体を怠っているが故に、その穴埋めに文化人とマスコミ全体が機能しているのである。ぬくぬくとその中間媒体的存在が肥え太っていくのである。
 これは日本人が言語行為的にも何もかも白黒つけずに玉虫色に収めたいという感性を持っているからである。つまりそこに日本人固有のシャーマニズムがあるのである。これは日本が精神的には完全に父系社会ではなく母系社会であることも手伝っている。
 日本はそれ以外にもかなり多くの種類の官僚達がのさばっている。その一つが公官庁の官僚達であり、その一つがNHKなどの報道局の官僚達、そして頭脳の官僚である学者、研究者である。そして実に奇妙なことには、彼等は全員一体感が同一セクト内、同一部署内では異様に強く、それはかの大阪地検特捜部の証拠隠滅書類改竄事件がたまたまかの部署で起きたが、似た様なことが他の部署で起きても一向に可笑しくはないという想像を一般には齎す。
 要するに日本社会は専門外的、同一業界外的事項に対して一切そちらの部署に委任しておけばよく、そうすることで逆に自己領分には一切干渉させないという不文律が徹底的に社会の隅々にまで行き渡っているのである。だから当然相手の面子を立てるという紳士協定は全ての世界に漲っている。それに反意を持つ者は自然と四面楚歌になっていき、自然と爪弾きにされていくという運命を辿ることとなる。
 そしてもっと重要なことにはそういった現実自体に一切の疑問を抱かず、外部に対して不干渉を貫くことを潔しとしている。つまりその徹底化された心的なスタンスこそがマスメディアを言いたい放題の世論煽動型機関へと肥大化させているのである。
 この問題は実は二章前の アカデミズムと反アカデミズムによる精神的反転現象について で扱った極めてシニカルではあるが的を得ていると思われる真理とも深い関係にある。
 つまり本来なら反アカデミズムこそがアメリカの様にどんどんと進出していくべきなのである。しかしそれを阻む空気はこの国には確かにあるのである。それはあからさまな差別ではなく、あくまで密やかなる、もっと陰湿な差別なのである。
 勿論一部青年に見られるニート的な歪な自己主張は批判されるべきではある。しかし同時に中島義道が「善人ほど悪い奴はいない」で徹底して批判している2ちゃんねる利用の匿名利用者達は(実際は彼等が中島の本を非難しているから彼はそれを敢えて取り上げているのであるが)かなり辛辣に自己立場に無力感を感じており、私も中島に同調し得る部分はあくまで記名コメントをするべきであるとは思うが、記名しても尚決して中島の様に沢山の本を出版するまでに漕ぎ付けることは至難の業である。だからある部分では中島の彼等ニート達への批判は当たらない。何故なら彼等にとってこういった書き込みだけが唯一発言が与えられる場であるからだ。
 つまりそういう風に一般の意見とか考えは徹底して2ちゃんねるの様な場でしか披露することが出来ない。であるが故に我々は2チャンネルの様なタイプの新規事業がどんどん社会に進出していく姿を目撃し得るのである。それは出版社自体が既に一定の収入を得ている中産階級達だけの常識に依拠して経営方針を立てているからである。不思議なことにこの国では全ての宣伝媒体、或いは全ての新聞社も一定の社会的地位を獲得している市民しか相手にしていない。にも拘らず例えば今日あった新内閣組閣の総理質問では一般大衆向けの下世話なねたで質疑応答をしようと仕掛ける。国民自身が彼等に侮られているのだ。
 しかしその事実に対して日本人は批判の矛先を向けようとはしない。否寧ろ積極的にマスコミの論調に乗ろうとさえするのである。
 つまりそうする最大の理由とは端的に他の人から爪弾きにされまいと身構えるからである。そしてそう身構えさせるくらいに日本社会は隅々にまで同調出来ないアウトロー、並びに逸脱的感性を集団で憎むという資質があるのである。これはかつて総会屋がしゃんしゃんと手拍子をしていた頃とちっとも変わっていない。人々の群れから外れていくことを恐怖する自己保身だけがこの国の民族に固有のシャーマニズムなのである。それは巫女的立場にマスコミを伸し上げているからである。
 しかし内心心ある人はそのことを知っている。そして内心では批判さえしているのである。しかしそれを表立ってしてしまうと途端に多くの視線から注視の的となり、過大な負担を背負い込むし、社会変革自体は途方もない時間とお金がかかる。そこでやむなくそういった心意気を持っていながら、全てを断念し、社会の隅々に漲っている差別を黙認することとなるのである。
 日本型差別とは端的に黙認である。沈黙によって全てを水に流し、沈黙することによって一切の罪を免れるという意識があるのである。このことに就いて次回はもっと深く掘り下げて考えていってみよう。

 付記 アメリカの反アカデミズムといったことは、あくまでマイクロソフトやグーグルやWikiLeaksなどの新しい事業展開に言えることであり、学閥は恐らくかなり日本以上にあり得る。しかし今そのことを特に問題にしていないので、そのことには触れなかったが、いずれ問題にしていくべきことではあると心得ている。(河口ミカル)

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十四章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part1

 民族には必ず何らかの形でアニミスティックな感性やシャーマニズムが内在する。只それが政治経済の様な日常的自然言語世界を我々が営む一方、その自然言語の持つ様々な矛盾を統合した国家や民族としての秩序を持たせる為に一定の方向性を強制的に示す仕事に於いても現れてしまうか否かは、ある程度その国家、民族の持つ今後の命運を左右する。前者であるなら先行きはかなりやばいし、後者であるなら未だある程度どんなに酷い状況でも持ち直す可能性はある。
 私は日本人として生活してきた51年間何処かでそのことをずっと考えてきた。要するに人間は一体何処まで合理的に考えを推し進めて行って、何処からは個人の内面の信仰に委ねてもいいという部分での判断は極めて難しいと言えるし、個人毎に多少の違いが許されていいとも言える。しかしやはり何処かではこれ以上個人的経験主義、つまり哲学的経験主義ではなく、個人の中での固有の経験から引き出された自分自身にだけ通用する様な経験則を、公的場面で、或いは私的ではあれ個人的交友関係にまで適用することはまずいという指針は存在し得るのではないか?
 それがなければ徹底的に無秩序な情感主義に陥ってしまう。そして私は実は本ブログでもその他の幾つかのブログでも日本はマスコミやマスメディア自体の社会的ロールが極めて肥大化してしまっていることに危惧を抱き、それを告発してきた。一方でマスコミやマスメディアは無責任だしよくないと思っていても、それが改変されずにいて、それどころか益々政治経済全体の潮流まで影響力を行使してしまっているという事態は、ある意味ではそれを薄々は我々一般市民が潜在意識では望んでいるからではないだろうか?
 それはことに最近の日本史では二年前の政権交代でも顕在化した。実はアメリカも今の国家状況はかなり酷い。従ってアメリカではこれこれこれだけ進んでいるのに、日本はどうしたことか、という論調は成立しない。アメリカはアメリカで日本にはないいい意味での合理主義や責任倫理もあるだろうが、やはりアメリカなりの個人内部に巣食う迷信的発想が濃厚にある。
 問題はやはり非科学的信仰の持つ一定のプラシーボ効果的精神的効用を越権した迷信信仰的意志決定の合理化、つまり個人的独善的経験則が支配している分量によってその国家や民族の行く末に翳る諸問題の深刻さが示されると言ってよい。

 話をもっと分かりやすい例から考えよう。
 ある極めて魅力的な著述家がいたとして、日頃からその著者の本を沢山読んでいるファンが、その著述家が行う講演を聴きに行くとか、その著者が指導する結社とか研究会とか私塾に行こうという気持ちになったとしよう。しかし実際に接してみると、余り人間的には自分とは相性もよくないということはあり得る。それはその著者の本自体への理解とは別の問題として持ち上がる。その著者の本を一冊も読んでいない人の中にもその著者と極めて相性のいい人というのはあり、著者自身も熱烈な自分の著作物のファンよりも、そちらの方の人を大切に思うということはあり得る。しかしもしこれだけファンでいるのに、その著者が個人的に接してみると、自分にとって相性がよくないからと言って、一切その著者の本を今後読むのを止めたということこそ、実は極めて理性的判断や認識的正当性を等閑にして個人的対人感情へと委ねてしまっているか、混同してしまっているということが言えよう。
 人間的には自分にとっていけ好かない人であっても、その仕事の質とか、その質に対する自己内での評価は全く別である。従って実際に知遇を得てどんなに邪険にされても、その著者の著す本の質や主張、内容がよいものである限り、個人的交流とは別個に本を買い続け、読み続けることは不自然ではなく極めて自然であるばかりか、そうしないで自分自身への対人感情的な齟齬からその著者の本や、その行動全般に批判を加えたり、憎しみを抱くとしたら、その著者のファンの方が負けである。そしてそれは理性的人間のとる態度ではない。
 この種の単純な話から考えると、今の日本の政治シーンも経済シーンも、どこかそういった幼稚な怨恨から抜け切っていないのではないかと思えて仕方がないのである。
 例えば私の住むマンションの近所にコンビニや薬局があって、そこでレジで買い物をする時いい店員の条件は美人であるとかセクシーであるとかいうことではなく、端的にレジ袋を前に別の店で買い物したので持っていると、「ここに入れて下さい」と言った時、そのレジ袋の中に入った買ったものの配置から巧く入れてくれる店員である。言わなければ何もしない店員がいるから私は「ここでいいです」とその店のレジ袋を差し出そうとする前に言う。その時に対応一つで大体店員の商売の意気込みは分かる。
 何もしてくれない店員から、余り中に既に入っているものとのバランスを考えもせずに入れる店員、きちんとそこまで配慮する店員という段階がここにある。
 それは職務という形での責任倫理に対する受け答えとして存在者を私が私の生活にとって有益な存在であるか否かの査定が、好感度とかそういうことではないということを意味する。
 勿論自然人的な交友関係はあり得るし、そこでは好感度も重要なバロメータである。しかし先ほどのファンである著作家自身の人間性が自分自身にとって余り芳しくないものであっても尚、その著述家の本は面白いし、読みたいのであるなら、その場合著述家の人間性という自分自身の感情も混入するバロメータを一切無視して著述的業績からだけ判定すべきであるということをここで持ち出すなら、レジの店員こそ、サーヴィス業的職務遂行能力からだけ判定すべきである。
 しかし実際の人物的好感度とか交友関係は絶対に違う、と我々はでは断言出来るだろうか?

 今の政治がある部分では本質的には政治力学的な対人関係的な感情が誘引しているのに、あたかも政治的イデオロギーや政策理念に擦りかえられているのではないかという危惧を抱く国民は多いだろう。つまり国家とか民族の将来ということよりも政治家の利権や利害の調整という側面が強くなれば、我々は曖昧な好感度といういささか差別的感情がネガティヴに混入しやすい他者判断に、政治家や経済人までもが混入してしまっているのではないかという気分を全く得ずにここ数年日本で過ごした国民はいないのではないだろうか?
 例えば柳田元法務大臣の失言問題でもまた、我々はいつもとおりだと思った。つまり政治家は普通の職責ではないのだから、それくらいの配慮と注意力の欠如は許されないということだ。それはまあ正論だろう。
 しかしそれが余りにも過剰に力点を置かれ過ぎるとある意味ではぞくっと恐怖感を感じてしまうのは私だけだろうか?それはあたかも国民がそういう言葉尻だけで政治家の力量を判断するという風に、格下の存在として政治家達から見縊られているということを意味しないだろうか?「国民というのはバカなんだから、発言には気をつけなければいけないぞ」という政治家同士の発信の様に私には見えてしまうのだ。
 政治とはどんなにいい政策や理念を持っていても行動力であり実行力なのだから、六割善で四割悪、それが多過ぎると言うなら七善三悪である。特に小泉元総理人気に悪の部分を見まいとしていた多くの国民が、現況の政治に善を求めるよりも、それに伴う悪を虱潰しに撲滅しようと欲する心理が肥大化してしまっているのだ。インテリやエリートは心底冷たいと勝手に判断して、嫌いな政治家の意見は一切聞かないという考えで生活している人なら、態度自体が嫌いだとか、素振り、表情が嫌いだということから、その行動責任に於いてたとえ優れていても、一切認めないという風になっていく判断ではやはりかなりレッドカードゾーンにあると言ってよい。そういうファナティックな老人が多いし、そういうファナティックなインテリでもエリートでもない中年も多い。これはかなり真実である。そしてもし日本にそういう庶民だと自分では決して思っていないのに、エリート階級やインテリ階級からすれば、何処か庶民っていうのはそういうもんだと踏む考えがあるのなら、それは日本人が無意識の内に抱え込む固有のシャーマニズムだとは言えないだろうか?
 それを私はかつて別のブログ「Nameless-valueの考えてみたいこと」で数回考えて書いてみた。そのことに就いて次回は考究していくこととしよう。

Thursday, January 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十三章 アカデミズムと反アカデミズムによる精神的反転現象に就いて 

 世の中には数多くのアカデミズムがあるとされる。その一つが政治の世界であり、与党があり野党がある。与党がアカデミズムとなって野党にとっては立ちはだかっている。同じ様に経済社会でもそういった関係はある。古くから一流企業とされる会社と、それを追いかけてきた新興企業の会社群がある。
 学問の世界では学界があり、その中に諸学会があり、学会に対抗して有志の研究会が沢山ある。
 何の世界でも最初に名声を獲得して業績、実績を積み一流とされたものがアカデミズムと見做される。そこまで行っていない存在は自らを反逆児と名乗ったり、アウトロー性を主張したりしてアカデミズムの向こうを張る。これは定石である。我こそはと名乗りを上げること自体が既にアカデミズムの中にはいられないぞという表明であり、アカデミズムとされる当の存在では各成員は我こそはと名乗りを上げずに済んでいる。何故なら自分達がしてきていることに疑いはないし、今迄通りしていけばよいと、これからのことに就いて不安を持たずにいるからだ。
 一方反アカデミズムはそうはいかない。そもそも「あそこなら大丈夫」というお墨付きを得ていないものだから、一回一回の会合で実績を上げていきたいという野望が常にトグロを巻いている。
 気負いは反アカデミズムを自称する成員に特に見られることはこの点では仕方がない。実績を上げることで、これ迄一流とされてきた群に対して対抗し、我こそが一流であると見做されたいからだ。
 しかしその気負いがやがて反アカデミズムの砦を守ってきた者に独裁的地位を与え、そこに最初は小さな、しかし次第に巨大化していくヒエラルキーを生じさせる。
 一方最初にアカデミズムと見做された群では然程気負いがないが為に特別な進化もない代わりに、意外と心の余裕だけはある。そして他と自分達を比較するというピアプレッシャーからは常に解放されている。
 これは先進国と発展途上国、資本主義と共産主義の関係でも言えたことだし、あらゆる壇、閥、学界にも見られた現象である。
 アカデミズムと最初に見做された群の人達はあらゆる世界からの注視を得て、あらゆる批判と評定を下されてきている。一方反アカデミズムはアカデミズムに対する批判の急先鋒ではあるし、一番良質のアカデミズム批判者足り得るも、では自分達の活動全般を外部から批判に晒されるという経験を持たずに来ている。その為に先ほど言った様な砦を守ってきた番人による独裁制と、ヒエラルキーが固定化された状態を作りやすく、急進的ではあるが、気負いに満ちて、結局心静かに何かに取り組むということがなく、何時迄経っても、忙しない心の状態で綱渡り的に活動していくことになる。
 従って賢い生き方とは何の世界でも、外部に常に批判者とか評定者を大勢作る様に自分自身を持っていき、自分自身は批判とか批評とか評定の蚊帳の外にいられる様に仕向けることだ。そして本当に外部に対しても内部に対しても言いたいことがある時のみ、適切に発言してその発言の質的な純度から、更なる尊敬を外部からも内部からも得る様にすることである。
 だからこそ最初に静かにアカデミズムと見做される様に自身を持っていき、誰からも勝者であると納得させられれば、敢えて勝ち名乗りをせずとも全ては順調にことは運ぶ。そしてそのメソッドを反アカデミズムの人達もまた本当は採用したい。しかしそれをすれば二番煎じになってしまう。従って何かを変えなければいけない。しかし最初に敢えて勝ち名乗りをせずに世間から認可されてしまった人達の様に自然に自身の能力を自負することが出来ない。ここに反アカデミズムの人達の群にとっての厳しさがある。
 だから敢えて余り気負い込まず、寧ろ反という意識、アンチ意識を持たずに好きなことだけをしていこうという生き方(本当はこれが一番難しい)さえ出来れば最初にアカデミズムと認可された群とは又別箇の価値として認められていくことだろう。それは結局別のアカデミズムになれれば、それが一番いいということなのだ。しかし多くの反アカデミズムは最初はアカデミズムと見做された人達の群並びにその組織とか集団にある種の敬意を抱き、憧れることによって結成されているのだ。それが一つ大きなネックになってしまっているのである。最初から全く別の生き方をしようという決意は、既に最初に敢えて勝ち名乗りを上げずに周囲から認可されてしまった人達に対する意識以外ではない。従って最初にアカデミズムであるとされた人達の群を全く知らずに好きな様に何事かを運営されていけば、それが理想である。
 しかし必ず情報は知らないままで始めた人達にも伝わる。そして自分達の好きな様にしてきた状態に不穏な空気が流れる。そして外部から影響を受けてしまう。それはまさにキューバには既にインディオの子孫が殆どいないということが、外部から遮断されてきた孤島であった為に白人入植者達から疫病を感染してしまい、死に絶えたことに近いことがここでも起きる。結局キューバでは白人入植者達とアフリカ系黒人の奴隷の子孫達による混成国家となっていったのだが、どんな集団でも外部からの情報に対して免疫のない状態からは、必ず情報による感染をしてしまい、混乱していってしまう。しかし最初に外部へと情報を発信する立場にある人達は彼等に届く情報全体が、まず自分達の群の存在を認可した人達ばかりであるから、それは良心的な批評であり評定であり、如何に残酷な通達であってさえ、それは自分達の生存に寄与するものである。
 しかし反アカデミズムの人達にとってはそうではない。彼等は絶えず自分達のしてきたことを自己反省せざるを得ず、その評定自体を外部から得ることは至難の業である。何故なら彼等自身が常に痛烈なるアカデミズムへの批判者であるが為に、批判者に対する批判とは多くの人達にとって、それがアカデミズムの人達であれ、その外部にいる傍観者達であれ、かなり億劫なことなのである。あくまで批判とか評定とか批評といった事は、まず存在が認められた人達にしか容易には与えられないのである。ここに反アカデミズムの人達の活動の質を維持する為に払われる非情なる辛さがある。
 結局反アカデミズムは一番アカデミズムであった存在の悪い部分に習い何時迄経ってもアカデミズム色から抜けきれず、逆に最初にアカデミズムと見做された人達の群は常に新陳代謝して、外部からは批判、批評、評定を多く得て、一番適切な意見を取捨選択出来て、何時迄も安泰でいられる、という寸法である。
 これはあらゆる集団、組織の伝統的な地位維持に於ける真理である。つまり常に反アカデミズムは際立って天才性が、そのレゾン・デ・トル獲得の為には必要なのである。そしてその天才性とは自己批判し得る力量と能力、自己裁定の厳しさ、そして何よりも柔軟性、固定化されたヒエラルキーを構築していってしまわぬ様に常に心がけていくことである。しかしそれは経済力も資金力も乏しい彼等には極めて困難なことなのである。そして彼等は当初は確かに若い集団であるが、小さな集団であればこそ勢いもあったが、やがて老いていく。従って完全なる革命行為に成功して、自らが前アカデミズムを崩壊させることに成功しない限り、それはやがては別の反アカデミズムの波に呑み込まれ自沈し瓦解していく運命にあるのである。
 そして最初に敢えて勝ち名乗りを上げずに済んできた人達の群は何時迄経っても安泰であり、巧く程よく新陳代謝していくことになるのである。そして彼等自身が天動説論者でない限りは、それは反アカデミズムよりは常に得な地位にあるのだ。つまり損を敢えて背負い込まぬという知恵者こそがまず敢えて勝ち名乗りをせずに周囲から自然と勝利を承認される、ということ自体が一つの集団や組織が維持されていく最大の条件なのである。
 そしてその様な存在になる為の心得とは、そういった心得など一切関心を持たないことであり、そもそもアカデミズムに対する疑問を抱かずに好きな様にやるということ以外ではないのである。何かに対して意識するということ自体が既にある他者をアカデミズムにして、自己を反アカデミズムにすることに直結する。傍観者であり続けるのなら未だよい。彼等にはそもそもアカデミズムも反アカデミズムもないからだ。しかしまずある存在をアカデミズムと容認してしまう立場に立つ人達こそ、最初に反アカデミズムに自己を追い込みやすい、とは言える。自然形成されていくアカデミズムがあるとすれば、その自然形成に不満を抱く存在こそ最初の反アカデミズム主義者になっていってしまうのである。
 従って自分自身で自分の存在を規定するというスタンスを最初に採る者こそ最初の反アカデミズム主義者なのである。だから先ほどの真理に結局立ち戻る。自分で自分を評定しないで、絶えず外部から自分を評定して貰う様に持っていける者こそが最初にアカデミズム的存在になり得るというわけだ。そしてそう見做されると、それは巧く周囲に溶け込み次第にアメーバの様ではあるが、かなり長期に渡って組織とか集団というレヴェルでは維持されていく、ということなのである。それは得を自然に受け入れるという心持によってのみ実現されていくことなのかも知れない。
 或いはこうも言えるかも知れない。相手に対する思い込みが相手への思い込み自体に自己を追い込み、そう思い込まれる立場を益々有利にしていく(相手とはそう思い込まれるほどの気負いも悪智恵もないのが内実である)、ということが思い込み者としての反アカデミズムと思い込まれ者としてのアカデミズムの間にはある、ということが一つの真理であるとは言えるかも知れない。