Wednesday, February 23, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十五章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて 第二部

 前章では私達一個一個の社会成員の能力や資質は集団毎に変質していくし、ロールプレイ上でもその都度交代したり、変化したりするのだから、私自身の資質や人格を「河口君は~である」と捉えることは、人によって異なる。私自身を分析的であると捉える人から、総合的だと捉える人、実務的だと捉える人からアーティスティックでポエティックであると捉える人までいて、それはそれぞれ間違っているわけではない。私自身が私を「~である」と捉えている像だけは正しいわけではない。従ってそういった意味では固定化された「~である」資質、人格、能力で肩書きをつけて国家レヴェルで著名人となっていくことだけが社会に貢献することではない、ということを述べた。その考えは変わりない。寧ろグループ毎に異なった役割を我々は担うが故に、どのグループに帰属する時にも変わりないロールとか肩書きなどない方がよく、そういった意味では全ての個人が多重的性格を帯びた肩書きで、資質で、能力で、人格であっていいし、又そうであることが可笑しなことではない社会自体の到来は待たれると私は考えているのだ。
 これはNHKの特番などで出演して意見する批評家の宇野常寛氏の主張内容を概ね認めるということである。しかし宇野の考える多義的で多層的な社会の在り方を遂行して行く為にはどうしてもクリアしていかなければいけない課題がある。それは特に年配世代の人達(それはかつて戦争を経験した世代という意味だけでなく、現代で言えば団塊の世代などが老人の世代に突入しているが、これから老人になっていく全ての世代のことである。しかも日本は益々高齢化社会になっていきつつある)にとってこの国の居心地のよさとは、端的に家族主義的な雰囲気を会社とかそういった組織や集団が持っているということであるが、同じことはアメリカでは決して当て嵌まらない。アメリカでは能力自体を社会に奉仕させるということに純粋に抽象化されていて、人間性自体を社会に売って生活しているわけではない。しかしその様な社会であるなら、宇野の主張する様な、会社の勤務時間が引けた後は、何時迄も会社内の対人関係を引き摺ることなく、後は各人が持つ趣味とかの集いに感ける時間で生活体系は構成されていってもいい、という理想は体現されよう。
 しかし日本の多くの安定化した経営の大企業などは未だに決してそういったドライに勤務時間とオフの時間を全く別個の次元の生活時間として割り切る仕方にはなっていない。
 つまりこの点で極めてドライな成果主義的な、ある意味では小泉竹中路線的な考えが会社員とか、従業員と経営者の間で完全同意されていなければ、多重性、多層性の社会は到来しない。
 この点の難しさに関して宇野は決して触れていない。この点は強調し過ぎてもし過ぎることはない。要するに宇野によるテレビでの発言はアメリカ型職業倫理を前提にしている。従って職場以外の趣味の集いの方に生き甲斐を見出すことを通常化させる為には、仕事に人間性レヴェルでの相互干渉主義を介入させないアメリカ式の完全能力主義にしなければならない。しかし日本の役所関係の仕事などでは、そういったことはかなり困難を極めるくらいに家族主義的なことが幅を利かせている(勿論上司と部下の関係ではいい上司がいい部下を育てるということに於いて各部署毎に人員の顔ぶれも違うので、勿論場所毎に差はあろうが、そういう考え自体は死滅していないし、寧ろそれこそが理想の職場であるという観念は日本人は根強い)。
 ハル・ヤマダの著作「喋るアメリカ人 聴く日本人」(須藤昌子訳、2003年成甲書房刊)はこの点では教えられるところの多いテクストであった。特に<上役は母役>(204ページ~207ページ)の記述はそれを端的に物語っている。少し長いが、全文を掲載しておこう。
 
 アメリカ企業では人事のトップに女性が就くことが多い。識者によれば、幼い頃から他人の世話を焼くようにしつけられる女性は人を管理する能力に長けているというのだとか。そんな見方がおかしな循環論法_男は人事でのポストを求めない、なぜならそうした情緒的な仕事は女性にうってつけだから_を生んでいる。感情的な響きを嫌う傾向は部署名にも反映され、「人事(personnel)」より「人的資源(Human resources)」のほうが人気が高い。なかにはhumanまで割愛して「資源配置(Resources Allocation)」とする企業まである。
 ビジネスの基本を人間関係に置く日本では、そのへんの事情はまったく違う。男性にとってはむろん、多くの女性にとって人事は魅力的な部門だし、部下の育成は男女に関わらず管理職に求められる能力と考えられている。第四章で述べたように、日本では面倒見の悪い上司は職業人として失格なのだ_仕事に私情を持ち込むのがプロ失格とされるアメリカと違って。
 日米の「プロ意識」の持ち方がいかに対照的か、身をもって感じた出来事をご紹介しよう。アメリカのある大学で日本語科の教員を束ねた立場にいたときのこと。講師は私を含めて女性三名、ティーチング・アシスタント(TA)が男性三、女性三の計六名。全員が日本人のチームだ。
 TAの男性のひとりが、私が別なTA(男性)をえこひいきしていると言っている_人づてにそう聞いて驚いた。さてどうしたものかと思い、部内の同僚たちにアドバイスを求めてみた。あるアメリカ人教授(女性)いわく、そのTAには余計なことを考えずに仕事に専念しろと言ってやりなさい、これだから男の人は….とのことだった。「上司が女だってことにうまく対処できないのよ」
 しかし日本人の同僚(女性)たちは、彼は態度を改めるべきだとは言いつつも別な提案を示した_彼が疎外感を感じぬように私がもっと彼に時間を割くべきだと。たとえば彼が用意した講義用資料をチェックしてあげるとか、答案の採点に目を通してあげるとか。あなたにかまってもらいたくて「だだをこねている」だけなのよ。仕事に専念しろなんて言っても逆効果、それより、君もチームの一員なのよとわからせてあげるほうが建設的ってものよ_だそうだ。これらの忠告には、過度に彼を甘えさせてやらない私にも責任の一端はある、とのほのめかしが透けて見える。
 だがアメリカ人の同僚に言わせれば、そうした試みはさまざまな意味でプロフェッショナリズムの侵害につながりかねないという。ひとつには、TA自らの判断で職務を遂行する権利を否定することになる。また、絶えず私に仕事ぶりを監視されているような不信感を生む。最後に、そうした日本人的行動はあまりに情緒的すぎてプロの仕事ではないという。件のTAは大人なのだし、彼の情緒の安定を保つことについての責任は私にはない、と。
 ところが日本人の同僚たちからは第二の忠告があった。彼に指導・助言をしたら、そのあと科内のミーティングで、それとなくばつの悪い思いをさせることによって彼に自分の態度が不適切だったことを知らしめるべきだというのだ。たとえば「今週は、特別にあなたの作った資料をチェックしてあげたけど….」とかなんとか。そうすれば彼も自分のやり方が間違っていたことに気づくだろう、と。
 この忠告をアメリカ人の同僚に教えたら、みな一様にぞっとした顔でこう言った_「そんなのあなたの仕事じゃないわ!何?あなた、その子の母親?」
 アメリカ人からすると、母親役を押しつけられるのはまっぴらごめんなのだろう。そんなか弱い役に甘んじていないで、TAには女でも男と同じ、ボスはボスだとはっきりわからせるべきよ、と。
 役割意識の強い日本でも、むろん上司には上司たる地位が認められるが、それはあくまでも<甘え>関係の中で成り立つ地位なのだ。このエピソードなども、ビジネスマンを理想とし、「独立」主義の明確な忠告を述べるアメリカ人と、慈しみ深い母親を理想とし、「相互依存」に基づく曖昧な忠告をする日本人、という両者の特徴を如実に物語っている。
 結局、折衷案をとることにした私は研究室に件のTAを呼んで言った_不公平な扱いを受けていると感じているそうだが、私にはまったくそんなつもりはない。あなたの態度にはチームのみんなも困惑している。講義の準備や採点の仕方について質問があればいつでも喜んで応じるから、もっと節度をもった行動をしてほしい。すると彼は破顔一笑して言った。
「ありがとうございます。叱られてかえってすっきりしました」
 これで八方まるくおさまった。TAは念願の注意を振り向けられ、カリキュラムは滞りなく進み、私も完璧にとは言いがたいがなんとか養育係の役目を果たした。(9、役割モデル_「職業人」と「慈母」)
 
 この著者はアメリカで市民権も取っておられる方であるが、最終的には日本的な相互依存的な甘え容認主義に組した決断で困難をすり抜けている。
 しかし宇野的ドライな従業員の側からの 仕事=お金を貰う手段 という合理的行為実践論からは、この様な慈母的な接し方を従業員自身が求めていないということは、逆にかなりのスキルを仕事能力で持っていなければならない。つまり日本型の就職する迄は却って余りスキルを持っていずに、集団とか組織の一員として馴染んでいくに従って徐々にスキルもアップしていけばよい、という経営者の側の目算には、宇野的考えが社会で貫徹されることは程遠いと言わねばならない。スキルを身につけていて責任さえ果たせば後は何も言われずに済む式の職業人の在り方に全面移行するには余りにも日本は未だ年功序列的な対人関係と、組織内、集団内の相互依存、甘え体質が隅々にまで行き渡っているのである。
 例えば宇野常寛氏自身は「思想地図β」で<郊外文学論_東京から遠く離れて>といった長論文を書くだけのスキルを備えた論客であるが故に、自身が主張されるある種の ドライな職場=スキルと責任遂行のドライな非家族主義導入的な割り切り という考えは極自然に抱きやすいと言える。しかし私の知人も主張していることだが、新しい社会世相、例えばウェブサイト上でのコミュニケーションというものは、今迄になかった現象であるが故に目立ちやすいが、日本社会には未だ未だ(恐らくそれは米国であれ、何処であれそうなのだろうが)伝統的な考え方とか、因習的な考え方が隅々にまで残存している。つまり古いままに残された慣習性とはそう容易に一朝一夕に変更が利くものではないとも言い得る。つまりだからこそ、アメリカと日本を三年おきに行き来する社会言語学者のハル・ヤマダ氏をして斯様な論文を書かせるに至らしめているのである。
 その意味では私自身は理想的には宇野常寛氏の考えに組するものであるが、現実的には尚更なる超えるべきハードルが社会の隅々に立ちはだかっていると考えることは極めて自然であろう。しかも日本国内には、未だ未だ関東地方で当たり前のこととか、近畿地方で当たり前のことに於ける差異も多数残存している、と私は考えている。とりわけ東京や横浜、或いは大阪や京都、奈良などでは全く異なったタイプの礼儀とか、社会慣習が存在する。その点では郊外型に生活実感としての拠点が移行しつつあることを文学作品の主題性から論じている宇野氏からは批判されるかも知れないが、年配者になっていくにつれて、非郊外型の想念が支配していき、結局都市部と地方との二元化へと移行せざるを得ないという考えも私は持っている。つまりその二つを容易に越境させるモータリゼーション(「悪人」<吉田修一>に描かれていた様な)を保持することで郊外こそが<いま、ここ>という都市からの逃走線という想念を超えた在り方を現代的視座としての恒常性として規定する宇野の論拠に逆らうかの如くではあるが、年配化していく、即ち老化していく身体に於いて年配者にとって真に居心地のいい空間とは、奈良の様な自然から切り離されて建造物の人工性が囲い込まれていない古の都、或いは京都の様な枠に収められた視界から覗き見る庭園や情景の観光的な囲い込みを往復する様な空間的ユビキタス性こそが日本人の精神的寛ぎというものであるという想念は、仮に宇野の考える郊外型合理主義によって地方色を脱臭されても尚残存するというのが私の考えなのである。これは保守主義的なことからではなく、人間の拭い難き惰性的性向に起因するものである。
 次章ではその人間の拭い難い惰性的性向とはどういうもので、どういう実質的根拠があるかということを考えてみたい。

 付記 現代の就職状況は多くの青年世代の人達にとって熾烈を極めるが故に、最初から特殊技能を求められると言う事はあり得る。しかしそれは全世代に行き渡っているわけではない。既に就業している会社員などは、組織全体の、集団全体のロールを担わされていて、それはスキルだけで成員としての責務を果たしているわけではない、ということを本論では考慮して頂きたい。今の就活組は、二百社から三百社くらい受けるということ、そしてそこでは差別化されたことを求められる、と就活アドヴァイスでは言う。しかし実質的に採用する側が必ずそういう規準でしているとは限らないとは考えておくべきだろう。(Michael Kawaguchi)

Sunday, February 13, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十四章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて

 NHKで数回に渡って無縁社会という語彙の下に孤独死老人を生み出す背景を、エア老人問題を発端にしてスタジオ内座談会形式の生放送で放映されたことから、マスメディアで無縁社会と孤独死という語彙がすっかり定着した。
 つい先日その最終回が放映されたが、又新年度から新たなシリーズで同じテーマを扱うのだそうだ。しかしある重要な点で私は違和感を覚えた。
 まず孤独死という語彙を定着させる動機にある時代錯誤を感じざるを得なかったからである。何故なら孤独であることに対する定義が、一向に論じられていないという点に痛烈な違和感を抱かざるを得ないのである。孤独であるということを厳密に定義するなら、全ての個人は孤独である。ある不治の病に罹る人にとってその病の辛さを人からは理解して貰えないという意味では、全ての個はその持って生まれた条件、身長から体重、顔つき、得意なことに至るまで全て他者と交換不能であるという意味では孤独以外ではない。蕎麦粉にアレルギーがあって、それが為に死ぬ個体もあれば、日中に太陽の光を浴びることが出来ない個体もある。
 しかしそういった苦渋を背負うこととは別箇に社会環境的に家族がいて、何かあったら助け合う状況にあるということだけを特定化して、それを得ていない社会成員を孤独死成立可能成員として位置づける余地とは一体どういう前提が設けられているのだろうか?
 一つは地域社会の崩壊を嘆くというNHKの意図がある様に思われる。つまりNHKは左寄りの官公労とか自治労といった組織の倫理に対して一定の敬意を抱いている。従って地域社会を政治レヴェルで統轄するという題目に於いて彼等は、年長者とか年配者と若年者迄の全ての世代が社会秩序を形成すべく協力し合うという通念に支配されている。
 勿論何の世界にもそういった社会構成的ヒエラルキーはある。だが重要なことは全てのヒエラルキーが強制的なものであってはならないということが少なくともNHKには希薄である。少なくとも視聴者に対してそういったヒエラルキーは個々の選択に於いて、或いは個々の営為努力によって自ら立ち上げ可能であるという意識を前提にしてはいない。
 その点では宇野常寛の意見こそ最も順当且つ妥当なものであった。要するに必ず我々は既に職場を中心とした対人関係の構成秩序にだけ準じていればいいという旧態依然的社会秩序論から容易に脱却し得る時代に生活しているのである。その一つが論客、宇野氏によって示されていた趣味の集いである。職場が引けてから集う集団とか組織、或いはそういった形式的なものでなくても自然発生的なヒューマンネットワークに身を委ねていったり、或いはネット上だけで構成される広場で意見を寄せたりすることから人と人の繋がりを模索することがあったっていいし、それこそ全て選択肢は自由なのである。
 もう一人の論客である奥谷禮子という方だったが、私は彼女の論理的背景を全く知らないが、少なくともネット上で形成されたヒューマンネットワークがリア充的ネットワークと違って刹那的なものだけであるという見解には頷けなかった。まさに管理社会的発想だと思ったのだ。要するに年配者を筆頭に、年功序列的な地域社会とか会社とか集団組織形態があって、それを基調に全ての社会秩序がバランスが取れていればいいという発想に思えたのだ。
 社会秩序とか社会構成とかは、私の考えでは個々人で選択肢も多くあっていいし、多層的であってもいい。つまり私自身は哲学学会にも属していても、必ずしも哲学者という専門家としてだけ社会に帰属しているのではなく、ある時には進化論系の学会にも属し、アーティストとしても活動するという様に、一つの職業に括るということ自体さえ破棄していっていいと考えている。ある一人の人間の能力は相対的である。Aという人にとってBは自分よりある分野に就いては秀でていて、情報にも通じているが、別の分野に於いてはそうではなく、自分の方が上である、という様なことが、全ての個人に於いて存在し得る。すると一つの職業という意識だけでなく、そもそも社会的地位的表示さえ、絶対的固定化されたものである必要さえない。ある集団ではアーティストと名乗り、別の組織ではビジネスパーソンと名乗り、別の法人では学者と名乗ったっていい。つまりそういったフレクシビリティこそが社会に求められている(私はある一人の人間が何処かに住民登録する必要さえないと考えている。つまりそこまで社会全体が住民登録したいという人はそうして、そうではない人は方々で住居を持って、しかし国家に税金を纏めて払うと言う様な個々人の選択さえあっていいと考えている)。
 ある人間の能力は社会国家全体のレヴェルで決定されることではない。そういった考え方自体が既に権威主義以外ではない。社会国家の中にたまたま存在するある集団、組織に於いてのみ機能し、実力が発揮し得る。つまりそれが認知された段階でたまたま全国的規模である人がたまたま科学者であるとか作家であるとか認知され得るだけである。仮に芥川賞や直木賞が受賞者を毎年出しても、小説ファンとか文学愛好家が彼等の作品を巻頭に特集した月刊誌とか単行本で読まなければいけないという法律がない様に、全ての職業的認知に関しても、全国的規模の認知度が絶対とは限らない。ある集団や組織に於いて固有の地位を獲得して発揮される実力や業績の方を重視するなら、ある人が帰属先を変えると、そこでは又別の役割を求められ、それまでの業績内容が必ずしも問われないという様なアメリカ式の採用基準の方が余程現実的である。
 人間の能力は多くの可能性を秘めている。従って前歴だけで未来の業務が決定されるという考え自体が既に無策化しているとしか言えない。
 又宇野氏の主張する様にネット上で知り合ったヒューマンネットでも人々は他者同士で協力し合えるのではないか?奥谷氏はそれを否定されていたが、私は宇野氏の言う様に仮に隣人であってさえ特に私が住むマンションなどでは既によくどういう職業であるかさえ知らない(又知らない間柄同士であってさえ全く差し支えない)ということの方が多く、必ずしも隣人同士だけが何かあった時に協力し合えるとは限らない。勿論急病とかの場合には隣人こそが真に助け合えるということはある。従って隣人的地域住民同士の交流とか協力体制は重要である。しかしそれでも親しい間柄の人が必ず隣の人である必要はない。勿論隣人であるのにいがみ合う必要はない。只それらさえ選択肢があるのだし、同様に今は佐川急便とか様々な物流システムが発展しているのだから、そういった利便性をネット上での友人同士で情報交換し合って何か急な時に援助し合うという事態もあり、そのいずれが重要であるとか、そうではないとかは言い切れない、と私は言いたいのである。
 要するに協力的愛自体を地域社会で得られる個人であるなら、それはそれでよいのだし、そういう人はネット上での対人関係が二次的なものであってもいいが、地域社会では余りそういったヒューマンネットを得られない事情の人にとってネット上での協力的愛が成就し得る可能性があるのなら、そちらに救いを求めることは自然であるし、それを副次的なこととして、刹那的な価値しかないと言い切ることは暴挙である。
 つまり社会的生活形態の多様化に伴って、個々人の生活に於ける理想とか幸福形態自体が多様化していっていい。必ずしも結婚して子供を儲けることだけが幸福ではない。世の中には親子も夫婦も別々に生活している人達も大勢いて、そういった人達が必ず毎日夕食を家族団欒で過ごす人達より不幸であると言い切れるだろうか?
 かつて「岸辺のアルバム」という名作ドラマがあったが、仮に毎日共に暮らしていても夫婦も親子も真に絆に於いて結び付けられているとは言い切れない。勿論そういったかつての理想を体現している人達もいていいし、これからもそれこそを理想と考える人達がいてもいいが、彼等の価値によって社会全体が統一的に一元化されていく必要など更々ない、と私は言いたいのである。
 つまり幸福的価値基準自体の多様化と個々人の自由選択をこそ保証されることが、社会や国家、或いはその中で帰属すべき集団、組織の存在理由であるべきだ、と言いたいのである。
 勿論宇野氏が例示していた様な趣味の集いに感けて本業が蔑ろになっていっていいとは言えない。それはそれできちんとこなせば後は何をしてもいい。しかしその本業自体も必ずしも長期持続出来ないのであれば絶対すべきではないとも言い切れない。
 確かに今現在では職替え自体がかなり困難化している。しかしそれがもし出来るのであれば、実践して悪い訳がない。それこそこういう困難な時代に生き抜く智恵を我々に提供してくれることとなるではないか。
 新しいとも必ずしも言い切れない自分が生きてきた高々数十年の間にはなかった生活幸福観の登場にうろたえることほど滑稽なことはない。例えば今現在八十歳の人と二十歳の人にとって三十年前の日本の状況の意味するところは確かに大きな意味の違いが横たわっていよう。しかし七百年前の日本はこの二人にとってほぼ等価であると言えないだろうか?それは七百年前に日本であった出来事の意味に於いてこの二人を分断することが出来ないということであり、それは当然歴史的事実とは古ければ古いほど既に個々人の観念とか感情とは切り離された一つの歴然とした不変項目である。それと恐らく今転換期を迎えている日本で起こりつつあることは同じである。たまたまここ十数年の間に起きたことは、今八十歳の人にとってはなかったことであるに過ぎず、もっとロングスパンに於いて俯瞰するなら、必ず似た変化はかつて日本でもあった筈なのである。
 それは現代を代表する哲学者の基本的考えが既にプラトン以前からプラトン以後アリストテレスの時代迄に大方全部と言っていいくらいに出尽くしているということと同じである。
 我々は常に脳内思考を一つの思考傾向に絡め取られ習慣化された考えから一歩も後退することをしないでいるということ自体に危機感を感じていくべきではないだろうか?

 付記 少し前の日本では病院で死ぬということの方がずっと少なかった。必ずしも一人で自宅内で息を引き取る人にとってその死に方が不幸であるとは言えない。自分が死ぬ姿を人に見られたくはないという自由をNHKは一切顧みていないことにも私には違和感を覚える。それは死に逝く人を看取る側の一種の安易な満足感でしかない。<死ぬ時に子供や配偶者、その他に看取られたいと願うのも勿論個人の自由である。要するに死に方自体をNHK如きが一般化するな、と言いたいのだ。>(Michael Kawaguchi)

Monday, February 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十三章 理性的判断と生活実利的判断

 我々が政治に於いて選挙で誰かに投票する時明らかに色々な個々人間での投票動機が異なるだろう。しかし少なくとも我々は政策的な提言が個人の政治家によってなされたりすることとか、政治状況に於いて我々有権者自身の生活実態に深く関わる政治決断を期待して、投票することだろう。これは以前2004年に於ける郵政解散総選挙に関して「決心の構造」でも詳しく書いた。
 しかし自分自身で我々が政治的選択、つまり投票をしているかどうかというと、かなり疑問である。その時々での判断は、政局全体への変革とか、いい意味での政治の活気が作られること自体を期待して投票する。つまり端的にそれは地味で内実的な政策や政治家の人格よりは、より派手で目立つ、そして華やかな雰囲気の政治家に、人格面からよりは、よりマスコミ、マスメディアイメージ信頼的にそれらに依拠してなされる。
 それは前宮崎県知事であった東国原氏への圧倒的人気による当選に於いても感じられたし、最近では名古屋市長出直し市長選でも言えた。この日は愛知県知事選、市議会解散是非を問う投票が同日選挙だった。このことに関しては民主与党をはじめ、自民党も含めて全ての政党が敗れたこともあって、総務大臣の片山氏が選挙の話題作りで党派的に仲間である知事と市長が当選したことを批判していた。
 政治は綺麗事だけでは済まない、とはよく言われることである。つまり政治とは政治的行動力であり、理念とか思想とは実践されなければ何の役にも立たないのだ、と。しかし本当にそうだろうか?
 そもそも我々が政治に期待することとは、政策とその実行である。だから当初は単純にある政治家が立候補するにしても、当選するにしても決してパーソナリティだけから選んでいるわけではない。勿論その人固有の経歴も参考にするだろう。しかしそれらと政策的期待とが総合されて判断される段階では、既に幾多の政治経歴のない人の場合には、我々は総合的評定で決する。
 政策、理念、選挙運動的行動全体を総合的に評定するのだ。
 そしてそこである候補が当選して実際に公約とおりに法案を通せば我々は一応の評価を下す。「あの人なら大丈夫だ」と。これは一種の合格点であり、一旦これを取得した政治家は信頼を得るから、途端にその政治家と敵対する勢力全体が悪に見え出す。すると悪に対してなされるどんなにあざとく狡い戦略でも我々はどうしても贔屓の目で見る様になる。つい狡さに対してさえ応援してしまうのである。
 しかしこれはやはり陥穽である。敵対勢力を撃墜させるメソッドも、そのことによって相手が撃墜されればそれでいいのだろうか?そうではないだろう。
 そういう意味では私は今回名古屋市の河村氏を応援したが、ここまで圧勝してしまうと、それも又一つの危険性を招聘したとも感じざるを得ない。つまりこういった話題性と超絶的な人気が独裁を生む場合もあるからである。
 我々には一旦認可してしまったものに対する評定は甘いという性格がある。つまり自分自身で批評対象にお墨付きを与えてしまうのだ。しかしこれはやはり陥穽である。我々は小泉政権に対して極めて甘い評価を下し、それによって多く今の生活を自分達自身で苦しめてきたことも忘れてはなるまい。勿論小泉政権が残した遺産もある。それとは別箇にシビヤに他者評定すべき観点も決して忘れてはなるまい。
 好きな者に対しては評価を甘くし、嫌いな者に対しては特別に評価を厳しくするということは我々の心的作用としてはありがちなことなのである。しかしよく考えてみよう。好きになった者を好きな者にしたのには、最初はその好きになった者の我々に対して好きにさせる行動があったのである。しかしそれを裏切る様な行動をしたなら、我々は好きな者にしたということ自体に反省を加え、好きな者への評価を覆すべきなのである。批判すべきなのである。このことは極めて大切なことである。
 勿論私は直接は私の生活に関係はないが、大村愛知県知事に対しても河村名古屋市長にも、それなりに期待している。活動自体を見守っていきたい。そろそろ東京都知事選も行われる。そちらの方が私の生活には関係ある(隣接県に住んでいるからである)。
 要するに評価を流動化させつつ、同時にその評価対象への支持・不支持もその都度再考すべきなのであり、固定化された評定や、一旦好きになった者への変わらぬ贔屓という感情は、こと理性的判断で臨むべき政治では禁物である。それはどんなに偉大な過去の経歴を持っている者に対してもそうである。否そうであればこそ厳しく評定すべきなのだ。それは全ての職業の人に対して注がれるべき視点である。それこそが安易な贔屓感情が不必要な権威主義に直結していってしまう陥穽を防ぐ唯一の手立てである。そして政治の場合そういう風に不必要な感情を導入させなさこそが、実は最大の政治の効用、つまり生活実利的判断へと直結するのである。

 付記 一旦評定に於いて是としたものを覆すのは心的にはやはりしんどいからこそ、我々は被評定者を是認していく傾向があるのだろう。これが全ての権威、前例的踏襲の温床となっている。やはり我々はその内的な惰性的虚妄製を剥ぎ取っていく努力をすべきなのである。(Michael Kawaguchi)

Tuesday, February 1, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十二章 マスコミの無責任さ極まれり

 私は既に大分長いこと新聞を取っていないし、読んでいない。読むべき価値ある新聞は日経新聞だけだが、あの新聞は購読料が高く取っていない。
 新聞のことは従って語れないが、テレビの深夜の政治経済のヴァラエティは色々な局のものを聴き比べている。しかし率直に言ってテレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」以外は殆ど偏った報道姿勢である。
 昨日はNHKでもテレビ東京でもない民放のものを聴いていたが、その時キャスターが与謝野経済財政大臣が設立した会議に自民党の柳沢伯夫氏を起用したことを報じる際に「民主与党が益々自民党に似てきた」と揶揄していたが、こういう発言は余計である。
 第一我々国民は民主党に政権交代したからと言って社会主義国家になったわけではない。従って長く自民党が政権与党であった理由は、自由競争社会を前提としては我々自身が望んできたということである。しかしそれを蔑ろにして自民党時代にあったいい部分を現政権が学ぼうとしている姿勢まで批判することはない。
 こういう偏った報道姿勢を無頓着に続行させているところが日本のマスコミの無策ぶりである。
 今日もテレビをつけっぱなしにしていると、隣室から聞こえてくる国会中継で、公明党の議員が「民主党は弱者の味方ではなかったのか」という質疑応答をしていた。これなどは言語道断な意見である。
 何故なら私は何時の時代でも弱者、弱者と叫ぶ者を絶対に信用しないからである。端的に弱者に優しいということは大事なことであるが、それは国民一人一人が内的に肝に銘じておかねばならぬことであり、政治家が大上段に振りかざして言うべきことではない。大体に於いて弱者、弱者と叫ぶ者には、その背後に弱者救済を名目として利権を死守する意図が仄見える。いやはっきり見えると言ってさえよい。
 この発言は寧ろ共産党に近い。共産党は企業経営とか経済社会のシステムを全く理解していない。人員整理に就いて今も語っているが、企業全体が立ち行かなくなったら、日航でさえ倒産してしまうという現実を理解していないのだろうか?否理解していても尚自らの社会イデオロギーの方を優先してしまうという党なのだ。
 マスコミはある部分ではこういった無責任な野党政治家の発言を助長しているし、又穿った見方をすれば、マスコミ報道、つまりテレビ局の存亡自体が何らかの利権に裏付けられているとしか考えられない。
 この種の偏向報道が齎す実害は青年世代の未だよく政治経済の仕組みを知らない人達へ与える悪影響は著しい。
 日本のマスコミはある一つのイヴェントに対してその見解が色々あるという形で報道を持っていかない。寧ろ常に何らかの体制批判に終始している。これはかなりやばい状態である。マスコミは様々な意見の代弁者であるべきであり、野党だけを常に持ち上げる姿勢は慎まねばならない。私がこんなことを言ってもその点でまともなスタンス(どちらにも偏向しない)のはテレビ東京だけである。尤もそれは「ワールド・ビジネス・サテライト」自体、日経新聞がスポンサーであるからということも手伝っているのだが。
  政治経済ニュースヴァラエティとは案外難しい番組作りを要する。つまりパネラーの選択やキャスターの発言内容自体をよく吟味する必要がある。報道に纏わる公正さとか公平性ということを一切考えずその時々での気分だけものを言うタレントの様な人達(作家と称する人も多いが、碌なものではない)の無責任な発言だけを重視する。それは一重にテレビ局に顔が利くタレントであるという以外の出演理由はないのだ。
 これはマスコミ自体が私達一人一人の国民の知性を侮っている証拠である。どうせ専門的なことなど国民は分かりはしないのだから、こうやってお茶を濁しておけばよいという選択をしているとしか思えない。つまりマスコミ、マスメディア自体がそれを享受する側が余り知性的ではないということが好都合なのである。これが日本の言論界にまで波及している傾向であるとさえ言える。
   確かにブログやツイッターで未だ会ったことのない人達との間で横の連携も我々一般人も出来る様になった。しかし未だ未だ言論を自由に大勢の人達に知らしることの可能な人達とは極々限られている。この現実自体を「それでいいのだ」としているのがマスコミ、マスメディアなのである。彼等にとっては下手に一般大衆が智恵をつけてしまうことは憂えるべきことなのだ。
  しかしそれは間違っている。全ての市民、有権者達は発言権を持っている。
 今でもツイッターでは自分自身の意見ではなく、著名な批評家や論客の意見を鵜呑みにしてツイートしている人も多い。もっと自分自身で考え、どんなに偉い人が発言したことでも、それは可笑しいと批判するマナーを身につけるべきであろう。私の考えでは大半の論客、批評家、コメンテーターは、その意見を拝聴する価値などないのだ。
 今回は突発的な記事となってしまったが、こういう現実世界への横槍もまた、社会と世界と我々の生の実存を考える上では欠くべからざることなのである。

  付記 政治のイロハも知らないタレントに政治経済の意見を言わせる愚は、一重に局側のディレクターやプロデューサー自身が仕事をしやすいという理由からであり、視聴者の側のニーズに拠っているのではないのだ。こういう番組を視聴しない様に心掛けたいものである。(Michael kawaguchi)