Tuesday, June 28, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十二章 マスコミ・ジャーナリズムの無意識の暴挙 

 今回私が問題にしたいことは、菅総理並びに菅政権それ自体が無策であり、その手の施し様のなさではない。そういう側面は確かに現民主与党にはあるし、日本政治自体にもある。
 しかしそれを問題にする以前に、まず我々があらゆるメディアを通じて政治的な動向を伝えられる時あくまで極めて少数の極限られた人達によってのみ政治動向自体が判断されている、ということだ。
 日本のマスコミにはある決定的な一つの傾向がある。それは彼等は総理をはじめ責任ある地位にある政治家であれ、経営者の様な立場の人であれ、政界とか会社とか所謂集団の長である限り、その集団の成員全員の総意を獲得し、その総意の下で行動すべきである、という不文律である。
 だからもし現政権に対する批判を喧しくしていくべきであるなら、小泉政権時代にももっと批判を多くすべきであった。尤もあの時は郵政解散総選挙前にはそれなりに岡田代表による民主野党の意見も多く取り上げていた(それはそれでえげつない仕方での身贔屓がマスコミにはあったのだけれど。つまりだからこそ小泉総理が躍起になっていってしまったとも言えた)が、一旦自民党が大勝利に湧くと、途端に批判を緩めてしまった。
 要するに日本のマスコミは烏合の衆的に、マスコミ言説に国民(即ち視聴者や購読者達)が右往左往してくれた方が都合がいいという暗黙の彼等の内々の論理を隠そうともしないのだ。
 しかしよく考えてみよう。実際に本当に菅直人総理が無策であり、戦略的に欠落をきたしていたとしても、そうであると判断するのは国民一人一人だし、仮に総理が一旦「一定の目処がついたら若い人に引き継いでいって貰いたい」と宣言したとおりに、今年中に退陣するとしたなら、まさに小泉総理退陣後五人目の一年足らずの短期政権担当者になってしまうわけであるが、その短期政権で終えてしまうことそれ自体の是非や、その事実によって一番大きな影響を被るのは国民一人一人ではないか。
 だが実際マスコミ報道自体が現政権批判を喧しくすることによって、そのマスコミ動向自体に乗せられて発言してしまう(街頭インタビューなどで)国民も多い、と感じているのは私だけだろうか?否そうではないだろう。
 つまり日本のマスコミはその内部で働く人達の利害を最優先するあまり、政界自体へも、最高責任者である総理は与党内で人望があり、政治家というプロフェッショナルな成員からお墨付きを得ていなければいけない、という不文律を確固として携えているのである。
 しかしよく考えてみると、総理の発言や行動は政治家というプロフェッショナルや、特に与党の政治家達が満足する様なものであるべき理由は寸分もないのだ。まさにその矛先は常に国民一人一人の利害の方に向けられているべきなのである。
 しかし日本のマスコミはそれを我々に忘れさせようと常に無意識に全ての言動を発している。それに対し自覚的であるジャーナリストや批評家、或いはアナウンサーとはいるのだろうか?居るのかも知れないが、少なくともそういった意見は報道番組や新聞紙上では表面化させられない様に全てのマスコミ帰属成員達には徹底して配慮させている。
 日本のマスコミの言動は終戦後から余り大きくは変わっていない。それは戦後民主主義的教条主義の徹底化であり、特に七十年代以降その傾向は強まってきた。最高責任者とはその責任に矛先が国民一人一人である以前に、まず組織内で人望があることを望んできたのだ。
 これは一重に戦後の日教組や労組、連合的な体質なのである。それはマスコミの仕掛け人達にそういった思想があったのだから致し方ないとも言える。日本原発の父でもあった正力松太郎から渡邉恒雄氏に至るマスコミ・ジャーナリズムの系譜自体にそういった世論という幻想のベースに反権力という意識構造があったのだから仕方ない。これは日本野球界から相撲界に迄全般的に日本社会の横の連帯に寄与してきた。
 だから日本では基本的に個人的意見は全て封殺されていく。しかしこれは幕末の勤皇の志士、坂本龍馬の理念からは著しく遠い。かつて竹中平蔵によって批判された日本の護送船団方式は一回もこの日本社会から突き崩されたことはなかったのだ。
 だからAKB48の様な芸能関係のアイドル達の存在への反感とか価値に対する懐疑それ自体も延々この国では封殺されてきた。何故なら彼等の存在は日本型資本主義に於いて勤労奉仕する会社員や公務員達の癒しと精神的潤いを与えるという図式で公認されてきたからだ。
 だからかつて大勢居た芸能界出身の議員達の存在に対する「ああいった全く畑違いの世界のプロ達によって実際本格的政治が執り行えるものだろうか?」という懐疑心自体が日本社会全体の護送船団方式的な横の連帯による暗黙の相互容認によって封殺されてきたのだ。
 果たして日本は真実に知的カルチャーが大手を振って闊歩し得る社会なのだろうか?或いは文化的教養とか見識、世界観自体がより有効に国家運営に活かされている、と言い得るだろうか?
 その点では甚だ疑問符をつきつける識者も大勢居ると、私は思うが、文化人や識者それ自体の存在理由が曖昧なままずっと社会動向全体のコメンテーター化してきたこの国では、彼等の意見それ自体もAKB48的日本型資本主義戦略の中の一場面へと格下げされてしまう。
 つまり社会批判それ自体が一つの巨大な護送船団方式的運営システム内部のエンタメ化していってしまい、その批判の切実さそれ自体も、それがマスコミ的言説化されると同時に営利目的の記号になっていってしまうのである。
 だからマスコミが国民の意識(それは各個人で異なるのだから一般化はし得ぬのにも関わらず)を敢えて、世論という形で一般化せずにはおかないものだから、勢い余ってより返答しやすい、しかもかなり誘導的な世論が各種アンケート調査によってでっち上げられてきたし、今もそうである。そしてそのマスコミ・ジャーナリズムの無意識の暴挙とは、あたかも「これこれこういった風に今、国民の世論が盛り上がっている」という形で幻想である確固たる世論をその都度でっち上げ、現政権は早く退陣して貰うべきだという論調を延々繰り返してきたのだ。
 そういったマスコミの負い目もなく勝手に世論をでっち上げる「社会奉仕精神」の無反省性とは、その無意識のまるでパチンコ店でAKB48の歌曲を有線で垂れ流す日本型資本主義促進的体制戦略(軍艦マーチに代表される)にマスコミ・ジャーナリズムさえ同化していってしまう護送船団方式からの非脱却性に起因している。