Saturday, July 30, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十三章 情報端末利用とマスコミ情報摂取と生の永続への幻想と死事実に対する忘却

 死者は必ず生者にとっての存在理由しか与えられない。それは当然である。何故なら死者の側から生者を語ることが出来ない(我々は生きている限りそうである)し、又死者の語りを我々は聴くことが出来ない(想像するだけである)からだ。よって死者は死した瞬間全てのプライヴァシーを価値的には事実上剥奪され、生者の生きる為の素材となる。

 現代では知性と感性が曰く統合され難いという実感を全ての生活者に与えている。そもそも知性は行動や決心に於ける思惟に総動員される運命にあって、それが確固としたものであると保証させたい我々の感情は理性を維持させていきたいという極自然な願望に由来する。
 しかし知性はあくまで過去に認知的に獲得した様々なデータに基づいていて、それをある時に引き出すということだが、知性が確立される過程では様々な貪欲な情報摂取が我々によって執り行われている。その一つが明らかに我々によるPC端末、PDA端末、携帯端末からの情報摂取、つまりメールアプリにせよ、純粋な情報アプリにせよ、場所確認のGPSアプリにせよ、我々にとってはその時々での情報摂取の必要性に応じたこちらからのアプローチである。

 しかし問題はそういった日常的な端末へのアプローチの場面が24時間中で支配的になっていくことは、逆にその時間以外ではテレビでニュース、ワイドショー、情報特番で情報を摂取しつつ、マスコミ、マスメディア自体のバイアスを知る為にもう一度ガラケーによって確認してみるとかの往復を実現しているとしたら、リア充的な日常的場面が遥か彼方に追い遣られ、リア充的対人的場面は却ってそういった情報摂取的場面の間に挿入される特別の機会になっていってしまう。
 まさにこの様相こそが現代人の真実の姿である。

 Google Map アプリを利用する為に旅行し、カーナビを利用する為に遠出のドライヴに出掛ける(尤も今の若者は概して車には興味がなく、専ら情報端末へと意識が向かっているが)という逆転現象は最早現代社会の一つの典型的な例である。愛があるからセックスをするのではなく、あくまでセックスをすることによって愛情が生まれるということは非理性中心主義的現代社会の一つの固定化された価値観である。
 それは人間にシニフィエよりシニフィアンを、意味より統語構造や伝達形式を、情報内容より情報摂取形式やツール有用性を、欲望の内容より欲望の在り方の形式に対する事実の認知をより求める様に現代社会が機能している以上、我々は既に素朴な物事に対する受け取り方、それを素朴実在主義と呼ぶなら、それを片隅に追い遣る様にしか現実に接することが出来ない。
 つまりリアルなこと、世界の事実を網羅するリアリティは既に内容より形式の方に存在するのである。

 ポルノ的内容の映像をネット配信で受信する行為は、そうすることで他者へと直接「性の在り方」を質問するという対人的羞恥を我々が携えている以上、密やかに個人的に執り行われるものだという社会全体の不文律によって支えられており、誰しもが幼児ポルノなどの行き過ぎを生む温床となっているポルノ映像配信に対する批判的眼差しを持っていても、それが終ぞ完全廃絶され得ないことも一方で認めている。他者の前ではその事実を憂えても自宅に戻ってPC端末を開くと別人格になる。そのダブルスタンダードを社会成員は暗黙に相互に認め合っている。
 故にそれらを時々息抜きで視ることは、別段悪いことではなく必要悪的行為であり、そういった密かな覗き趣味が満喫されることによって自らのリビドー的生のエロス的能力が失われていないことを確認してほっとしているのだ。

 それはエロスだけでなくタナトス的な興味にも言える。つまりエーリッヒ・フロムが言うネクロフィリアとしての興味として悲惨な事故現場、自然災害の被災地の映像、惨い殺人事件現場の検視官や鑑識だけしか見ることの許されない現場さえ見てみたいという怖いもの見たさ的好奇心を一定程度充足させる為にこそマスメディアも悲惨なイヴェントを報道するのだ。それを報道し、そうかこういう無残な状況に晒され、死すべき運命にある他者達も大勢いるのだ、と確認することで、逆に、しかし自分はそうでなくてよかった、と溜飲を下げることを我々はかなり意図的に日常的に試みている。そして何時しかそういった試みを無意識に受容しつつ、その一々の無残に驚愕しない様に訓練されてしまっている。
 つまり現実の悲惨さとか惨たらしさ自体に恒常的に晒され続けることを通して衝撃を一々獲得することのないある鈍感さを身につけていくこと自体が生きていく意志である様な時代を我々は否定することは出来ないのである。

 マスコミ、マスメディアによる情報摂取はそのイヴェントが悲惨であればあるほど、自らの安全地帯に居る事実への感謝の念を催す様に仕組まれている。しかし何時なんどき我々一人一人さえ世界で最も悲惨な事故現場に居合わせる当事者にならないとは限らない。
 しかし本章で最初に述べた様に死者の側に立って死を報道することが我々に出来ない様に、我々はマスコミやマスメディアが被害者、当事者の立場からは報道出来ない様になっていることを知っている。だからこそ各自端末を利用して被害者、当事者から直接メッセージを送信することを可能化された社会へと我々は移行してきたとも言えるのだ。
 しかし我々はそういう移行過程自体を重々承知していながら、その実日頃は常に端末利用をしつつ、その間だけは自らにも必ずやがて到来する死の事実を忘れようと積極的に意識を向かわせている。つまりマスコミやマスメディアに対しては一時悲惨なイヴェント(英語ではincident)事実を認知したいが為に安全地帯から非安全地帯の事実を摂取することを選択しつつ、如何にえげつないマスコミ、マスメディアのジャーナリズム的性格に対する批判的眼差しを携えつつ、何処かではそういうもの全体を必要悪として容認しつつ、自分自身は独自に情報端末利用を通してよりプライヴェートな情報内容を求めているのだが、その情報端末利用の時間自体も実は、本来なら個のレヴェルでくらい到来する死という事実に向かい合うべきであるかも知れない、と知りつつ、益々決してそういう死事実への直視を持続することが我々には出来ず、我々は24時間中死から意識を逃避させ続けている。つまり死すことを知っていながら、それを常に自己内でも他者との間でも忘れる様にのみ全ての意識を努力させること自体を、生きると呼ぶことが出来るのだ。
 だから別の章で既に述べた様に老いることを意識の上では許さない社会に住むことを我々自身が積極的に選択している様に、要するに我々は絶えず死事実から目を逸らせることだけを眼目とした行為に明け暮れることを生と呼ぶのだ。

 だから実際に子孫を儲ける性行為だけが唯一死事実から目を背けさせずにはおかない生な行為なのであり、それ以外の一切の意思疎通、メッセージ伝達行為は生者のナルシシズム以外ではあり得ないということなのだ。

 もし老いることが思考すること、思惟に明け暮れることを拒絶するものなら、死の瞬間迄それは忌避すべきことである様に、死自体が死してみずに理解不能であることを我々が何処かでは元(はじめ)から知っているという事実が、我々を情報摂取行為に駆り立て、他者という生者として自己以外のもう一つの明確に自己も又生存している事実を明証させ得る存在を意思疎通のパートナーとして選択することを厭わないのも全て、実は死事実からの逃避意識の成せる技であるとしか言い様がないのだ。

 だからこそリニューワルされた端末の利用に於いてupgradedなアプリやオタク的サブルーチンの習得がより上級ユーザーと下級ユーザーのディヴァイドを拡張させていってしまうのだ。
 つまり上級ユーザーの方がより実は無意識の内に上級死逃避メソッド既拾得者、メソッド恒常的保持者になっていっている(端末利用への耽溺によって)のであり、生の永続的幻想の保持者なのである。
 それは自分だけは死なないという全能感と自らだけは何時迄も老いることはないというナルシシズムによって逆に一部オタク的ユーザーのみによって習得され得るupgraded deviceとオタク的サブルーチン習得のナルシシズムによって益々foolproof的ならざる進化を各種端末に齎すという、ユーザーに対する選ばなさという倫理命題的地点からすれば悪循環を社会に齎している。
 しかしこの習熟に伴うanti foolproof的上級習得者間のオタク的結びつき、或いは初心者ユーザーにとっての使いやすさ自体の二極分離性に就いては本章の主題だけでは手に負えない部分が確かにあって、今後別の形で(本ブログに於いてであるとは限らない)展開させていく必要が大いにある、とだけは言い得る様に思われる。