Sunday, November 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十五章 意味の理由・イコンとしての記憶Part3 友情の起源

 ある意味に対して語彙に当てられている音に対してどうにもしようのないしっくりこなさを感じることは誰しもある。しかしそれはさして重要なことではないとしっくりこなさを感じる当人が判断して言わないでいることが大半である。それを言い出すと笑われてしまうのではないかという懸念がそうさせているとも言える。第一語感というものは意味ほど重要ではなく、それは意味として伝わればいいという形で従属的に考えられているからである。
 しかしそれは理性主義的見解であり、感性的なこととは、ある意味では聞き心地、語り心地の問題だから精神衛生的なことである。それは個人的に皆趣味などをすることによって、社会上での規約との間でのずれの感じを補正している。つまり身体習慣的にもそうであるが、心の居心地感に関してもそうである。
 このプライヴェートなしっくりこなさとは別の語彙に於いては、何て巧くフィットしているのだろうという感激とも組みになっている。そういった言葉の感性を巡る自己内での納得と非納得は、ある部分では親しくなっていく人間関係でのみ告白し得ることである。親しくなると公の席では言うことを憚られることさえ告白したくなる。それを押しとどめているものこそ社会通念だったり、良識であったりするが、意外とこれが学問を狭くしてきている元凶でもあるのだ。
 しかし或いはこうも言えるのではないか。親しくなってきたから公では言えないことでも言いたくなるというのは、実はそもそも親しくなっていく間柄とは、そういった公では言い難いことを言い合えるのではないかという直観的目測に於いてこそ成立し得るのだ、と。
 あるどうしても社会生活上必要な語彙というものはある。それは意味的に必要なのだ。しかしその語彙の語感自体へのしっくりくる感じは人それぞれ違う。だからある語彙の意味に対する音のしっくりこなさに対する共感こそが、我々がAというしっくりこなさに対しては「A」という友人を、Bというしっくりこなさに対しては「B」という友人を我々は必要としているのだ、とも言い得るのではないか。
 従って我々の個人的友人関係とはこの様に前回のA、B、Cとの間の統一基準以前のAにとってのB、Cとの間での異なった接し、異なった基準への潜在的な追慕こそが、知人(それは社会生活上で必要不可欠な意味での公的なこととしてのである)以外の個人的友人関係にも反映していると言える。会社の同僚で妙に気が合う相手とそうではない相手というものはあって、それはそこ迄親しくする必要を相互に感じていないから音感とか語感に就いて迄語り合うことなく遣り過ごされて来ている。しかし会社の同僚とかとは全く無縁の趣味の集いで出来た友人との間で一緒に旅などをすると日頃から感じ取ってきている自らの社会規約との齟齬感、それは語彙の音感、語感によっても今迄本論に於いて象徴されてきたが、それを語り合うことを容易にするし、そういった旅と友情の重なった経験が、会社で今迄一度も一緒に飲みに行ったことがなかったが一度くらいなら一緒に仕事を引けてから飲みに行ってもいいと思わせる。そして行くとしよう。すると意外なことに普段から感じている社会規約との間のしっくりこなさ感に於いて共感し合えるということは言える。
 従って最初は社会成員A、B、Cとは相互にAの前なら言いやすいこと、聞きやすいことというのはある。それは社会的ロールとか立場に沿った個々人間での差異を我々が皆認識しているからだ。勿論ロールだけでなく相手の性格もある。その言いやすさ、聞きやすさ、語り合いやすさ自体が既にある部分ではある語彙の音感とか語感に対する感性の一致への可能性を何処かで信じて語り合っているとも言える。勿論全てが一致する他者など居はしない。しかし何処か一点ある他者と一致しているということだけが交友関係とか社会関係を維持していく理由となっている。だからそれは公的人脈であれ、余暇での趣味の集いでの私的な人脈であれ、何処かで人類が言語を共有していったプロセスでA、B、Cに対して個々異なったこととして抱いた一致点と不一致点という原初的な共感と反感、違和感とが追慕となって我々の全ての個人的人脈構成を成立させている、と考えることは自然である。
 つまり友情の起源とは人類による原初的なA、B、Cという間で共有され得る規約としての統一基準が齎されていく段で、全成員がそれぞれ我慢していた部分での潜在的な不平が一致することによって齎されている、それは要するに公的なこととに対して私的なことを皆内心では持っているということに対する相互に確認し合えるというところから発していると言えるのだ。
 自分の中でしっくりこなさとは公的な場では公言し難いことである。そしてそれは誰にとってもそうである。それを知って居ればこそ我々は個人的交流に於いては非公的なることをクローズアップさせるのだ。それはある部分皆誰しもが完全なる社会的逸脱者、アウトローにはなれないが、本来自己欲求や本能的な社会との間のずれの感覚を野放図に押し広げれば必ずそうなっていくに違いない像自体への回帰的無意識の願望であるとも言える。友情とはその願望を相互に内心では秘めているということ自体への、つまり社会への完全同化し得なさに対するコンプレックスであり、社会規約から解放されたいという無意識の願望、或いは時には親しくなった相手には直に、つまり意識的に告げられるアウトロー願望(それを小出しにしているのが趣味であり、旅行である)の確認が出来るということを前提としている様に思われる。
 従って友情とは社会規約的、公的なスタンダードからすれば必ず何処か一点では(どんなに生真面目な交流であってさえ)社会規約、社会スタンダード遵守性への負の(ネガティヴな)側面での共感が支えていると言うことが出来る。