Friday, July 20, 2012

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十九章 相互協力精神と信頼感の欠如が齎す国民の間に蔓延している戦略的懐疑主義と上から目線的態度Ⅰ それが結局いじめを黙殺していってしまう

 ここ数ヶ月マスコミはいじめの問題にかかりきりだったと言える。昨年10月飛び降り自殺をした13才の中学生の自殺が、いじめによるものであるという形で当初は刑事事件としては扱われなかったが、警察が介入して捜査することとなり、俄かに全国的規模で語られる様になった。
 警察はかなり前から目をつけていたのだろうが、本格的に捜査に入ったのは最近のことである。
 しかしことの本質は警察がこういうケースで介入することの是非ではない。何故いじめが勃発するのか、ということである。
 ある意味ではいじめはどの時代でも起こり得る事態である。しかし現代社会でのいじめは大人社会でさえ陰湿なものなっていて、なかなかそれを表立って防止することを困難にしている。つまりいじめの本質は大人社会の側にあり、その大人による大人へのいじめの構造が雛形として青少年の社会に迄蔓延している、と考えることが自然である。
 その様な大人社会のいじめの本質とは端的に誰しもが認める様な実力とか人格によって何らかのコミュニティの代表者となる人物への敬意を大半の成員が認めていた時代では既に現代社会はないということに帰着する。
 勿論過去の時代でも誰しもが認めるという形を取っていても、内心では反発心を抱く者も大勢居たであろう。しかし少なくともその憤懣やるかたなさそれ自体を表面化させる手段がかつての社会ではなかった。それが却って表面的であるだけでも(それさえ現代社会にはない)社会に統一感を齎していた。つまりどんなタイプの成功者もエリートもそれなりに誰しもが敬意を抱ける存在であり、そのこと自体に異を唱えるということを大半の市民は節制していたのである。
 しかし現代社会はそうではない。まずどんな些細な鬱憤とか不満でもツイッターとか2ちゃんねる等で即座に記すことが可能である。従ってじっと堪えるという心を余り持つ必要性を現代人は感じられなくなっているのである。何でそんなことを耐えるの?とそう考えてしまうことが現代人に固有の心理なのである。
 かつて生まれもって盲目として生まれてきた人達は男であるなら按摩の仕事、女であれば音楽(地方を巡る門付けの様な仕事)しかなかった。だから篠田正浩監督の名作「はなれ瞽女おりん」でも門付けの仕事にさせてあげようと考えていた盲目の少女とその祖母が、それを断られ悲観して二人して投身自殺するシーンが描かれているが、現代社会ではかなりの障害と危険性とは隣り合わせであっても盲人自身が自殺する理由はない。能力さえあれば(これがかなり問題だけれど)健常者同様高いレヴェルの教育を受けることも出来る。そういった意味では点字だけでなくユニヴァーサルデザインによって着々と作り変えられてきつつある都市空間一つとっても身体障害者が自殺する理由は少なくなっている(全くなくなっているわけではないが)。
 だから却って現代社会では個々が他者へ慈悲心とか思い遣りを持つことが特別な感情ということになりやすいのだ。つまりそれは極めて当事者の身近に居てそういった運命的な過酷さを充分理解している人達だけが持ち得る気持ちということになりやすいのだ。
 だからいじめの本質とは端的に「自分に関係のないことには関わりたくはない」という心理が基本にあるのである。つまり現代社会では大半の市民がどのコミュニティも個別的オタク的な寄り合い所帯と化していて、そこに集まる誰しもが端的に誰しもが上へ立つことを回避したい願望、つまり上から目線的態度を取らないという気持ちで寄り集まっているのである。
 しかしそこにそういった黙約を即座に理解出来ない、少し態度的に「とろい」奴が紛れ込む。すると即座にそのコミュニティに不協和音が奏でられた気分を与えてしまうのだ。
 そういった鈍重な者は上から目線を取ろうとしているのではない。しかしそういう風に誤解を受けやすいのだ。何故なら彼等は鈍重であればこそどのコミュニティにも存在する自ら上に立っているのではないが、皆から自然と共感を得、人望を獲得している者が居て、自然と統率的立場にあるとすれば、彼等から庇護の下で特別待遇される可能性を他の上から目線を取らない黙約を即座に理解している(彼等は上から目線を取らない態度であるが故に統率者達に敬意を抱いている)全ての「とろくない」成員達が、「とろい」奴に固有の無神経な越権を嗅ぎ取ってしまうからである。
 現代社会では従ってかつての大企業の社内のデスクが部長以下大部屋で階級毎に全て見渡されるタイプの部屋の間取りにはなっておらず、端的に専門的業務をそれぞれがしやすい仕方に間仕切られているのである。
 この全体的統率の社内的システムの変化を齎したものこそ、紛れもなくウェブサイト上のコミュニケーションである。そしてこれを前時代に戻すことは出来ない。これは益々社会全体が個別分業化され、オタク化された専門業務に勤しむ形で機能している以上、青年期に総合的な視野を獲得させることを困難にしている。その証拠に現代青年達はウェブサイト自体が存在しなかった時代の青年達が持っていた総合能力には欠如する成員が多いことだけは確かである(ここで言う総合能力は自分とは異なったタイプや資質の者を理解する能力と言い換えてもいい)。
 現代青年達は最初から極めて専門特化されたミニサイズのコミュニティに順応する様に予めオタク化された戦略を取らざるを得ないのだ。従って彼等は大半が分析力は優れているが、総合力には乏しいケースも多々見受けられる。これも一重に大人社会で既に相互協力精神を欠如させているということと、教育自体が最初から専門特化された戦略に対応する様に機能していて、情操教育が完全に疎かになってしまっている、ということにも原因がある。偏差値教育万能主義が行き着いた先が現代日本社会である。
 勿論かつての社会でもいじめも四面楚歌もあった。しかしそういったことへの辛さそれ自体を訴える手段はウェブサイト自体がなかったのであれ、あり得なかった。すると必然的にいじめにも各自自主規制が執り行われていた(その代わり真に絶望する人達も少ないながら存在した)。しかし現代では既に周囲から鈍重には見られたくはないという自己防衛心を誰しもが黙約的に持ち得るが故に、いじめに逢いたくはないという心理がそれほど大きな突外れた態度ではない他者の些細な逸脱を見逃さずにいて、それを告発することも容易であり、だからこそwikpediaでも誹謗中傷された人物への書き込みを禁止する措置が頻繁になされる。又誹謗中傷の仕方も極めて巧妙化してきており、中にはかなりえげつない差別的発言であるにも関わらず極めて魅力的且つ扇動的効力を持つ書き込みも存在するのだ。
 従ってそれら全ての書き込みを放逐することは既に出来ないとも言えるが、自主規制的にモラル論的にも最初にデマを流した者が罰せられる様に、安易な書き込みをして甚大な影響力を持ってしまった場合にはそれなりの責任を取る様な各自の態度(責任を取らせる様な強制的ではない形での)が現代人全般に求められていると言える。
 今回は本シリーズ初回ということで、青少年世代のいじめの原因に何があるかを箇条書きにして纏めておこう。
★青少年の社会は大人社会の雛形化してしまっている。従って大人社会でいじめられるタイプの成員を同世代や多少の年齢の差を越えて容易に見出していってしまう。そしてその集団心理の特徴は「自分だけはいじめられる立場になりたくはない」という自己防衛的心理に基づいている。
★上の心理の顕著な例がいじめ映像をウェブサイト上で投稿して大勢の閲覧者を獲得することで溜飲を下げるという行為に求めることも可能である。
★多くのいじめる立場にある者の心理は上から目線を取る者をのみ誰しもが容易に上から目線で摘発することを権利として授与されているという意識を黙約的に保持していて、それを即座に理解出来ない成員に対してその者から上から目線をされることを未然に防止する目論見によって皆でその者を爪弾きにしていくことを決意させる。
★(これは次回大人社会に見られるいじめを問題化する時にもっと掘り下げるが)いじめの本質とは上から目線に対する極度の恐怖にあり、それをされるかも知れないと思う他者へ未然に自己防衛、集団防衛的に発揮される過剰防衛である。