Tuesday, April 16, 2013

第八十章 国家主義、領土、面子と自然的隣人関係の乖離/後者を成立させぬものこそ<政治的行動とマスコミの野心=行為のプロパガンダ的性格>その一/記述と構えを超えて①

 国家主義はGNPをGDPにしたところで、或いは更にそれをCDIにしてみたところで一切その性格を変えることはない。要するにそれは国家が一纏まりでなければいけないという一種の面子を各国民が持つ様に強いる幻想以外ではないからだ。
 中央集権的国家主義的理念とは、要するに実利的な各市民の幸福よりも国家全体の面子を重んじる。それはそうだからこそ理念なのである。理念とは管理された秩序のことである。
 だから所詮GDPをGDIと言い換えてみたところで、管理された秩序にだけ執心していればそれでよいという理念が最優先される限りで、それは政治的行動を良しとする管理者側にとって都合のよい論理でしかない。
 愛国心とか郷土愛とはそういった国家主義的管理的側面とは本来別個のものの筈である。しかしマスコミはそうは報じない。事実連日デモが拡大していっても、日中間の連携的なビジネスパートナーシップへと邁進しているビジネスパーソンの方が暴動化しつつあるデモ参加者よりも人員数は多い筈だ。しかし一旦デモが拡大化されるとそちらだけを報道し、日夜日中の貿易に奔走する日本人と中国人の協力的行動は一切報道しないのだ。だから却って火に油を注ぐ結果となっていってしまう。
 国家主義的な管理的理念とは個人の幸福の実感とはかけ離れている。それらは常に論じられるものではない(国民性とか国民感情とか国民の意識は当然の事として論議から常に外される)から却って残される課題として個人につきつけられる。マスコミはマスコミで幸福感に就いて個人にとってそれが最大の価値であろうとも、それを報道することが出来ない。しかし悪辣なのは視聴率で稼ごうとするマスコミに拠るテレビ報道ではその報道されるものとしてチョイスされた事実自体が巨大な幻想を生むという悪質なプロパガンダ性をマスコミ自体がメタ認知し、自省しないという所にある。
 そればかりではない。報道される管理者自身がマスコミのこの無策を利用している(無意識の内に)という事なのだ。日本の管理職層がマスコミ批判をするという事を聴いた事がない。マスコミ批判をするのは主要役職からリタイアした年配者くらいである。この野放図なマスコミの報道の垂れ流しに対する管理者層の無批判性がマスコミ自身を鈍感な垂れ流し報道機関化させている。マスコミ管理職と一般企業管理職が同窓性に於いて無意識に結託して自由な意見を汲み上げる事を澱ませているというのが日本社会の実態ではないだろうか?
 管理者とは常に不穏な空気を呼び覚ますことだけを回避させたいのだ。だからこそある高校の校長が自殺した高校生の両親に対して、不慮の事故死に公ではしてくれないかと打診したりする(兵庫県川西市)のだ。この様な死者の側の感情を敢えて伏そうとする請願をすること自体をさして悪いことではないと思わせてしまうことこそ、管理者固有のエゴイズム以外ではない。
 この高校管理職のエゴイズムと国家指導者層の管理責任に於ける国家帰属意識を最優先させる(かの如く振舞わねば右翼から睨まれることを察知してポーズとして示す)こととは同一構造をしている。
 国家主義とは言ってみれば、全体主義の代弁によって助長されるのである。それが個人の主張であれマスコミの集団的触れ込みであれ、個人の幸福感情より優先されることでヒステリー化する。かつて一時期日本国内を騒がした中国人による日本企業や店舗の襲撃はそのいい例であり、国家自体も国家の側へ不満分子の心理を発火させることを恐れて、日本と関わりある全施設襲撃に関する厳正たる処罰を回避して黙認していた。言わばそれによってガス抜きをして、対国家的不満をこれ以上醸成されない様に祈っているのだ。
 その点では習近平国家主席の今後の手腕に期待したいところであるが、中国は本質的に近代国家としての法整備もなされていないという部分で我々は常に大国の相応しい社会秩序という最大の精神的インフラ拡充に期する所がある(近代刑法的な秩序として執行猶予制度自体が無い事が死刑を迅速に執行する事で法廷被告の人権を無視する結果となっている)。
 確かに現況ではアベノミクスも巧く行っている。しかし安倍晋三総理の真意が仮に国家主義的な再興にあるのだとしたら、ある部分では憲法九十六条改正は急務だとしても、憲法九条の改正は一定の慎重さを要するとは言える。勿論九条は改正すべきであるが、その文言をより注意して書き換える必要性がある。一旦これを文言化してしまうと再度改正する事が極めて困難となる。息の長い国民全体の議論を要する。これは景気対策としての金融緩和とは訳が違うのである。
 経済政策も中央管理主義的国家観とは容易に切り離せない要素同士の施策問題である。東国原氏の国会答弁での中央集権にしなくても地域主権にする事だけで国民意識は維持出来るという考えは正しい。未だに中央管理主義的発想の閣僚も居る様だが、徐々に日本維新の会、みんなの党等に拠る国会論戦と政策立案とに拠って中央管理主義的発想から市民自身の自主管理的社会へと移行していく事が待ち望まれている。
 その為にも次回はより抽象的でもある自由に就いてもう一度考えていく必要があるだろう。
 付記 この文章を書き始めた頃よりもいじめ自殺問題が大きく報じられなくなった。これはアベノミクス効果であろう。しかし事の色々な本質が景気回復と共に見えなくなっていってしまうのは危険である。マスコミ報道もそれを反省する暇を無くす程の北朝鮮の動向ではあるが、こういう時節故に寧ろ冷静に社会インフラとして肥大化しているマスコミと一般企業管理者層の無意識的精神的談合体質を分析すべきではないだろうか?