Thursday, October 24, 2013

第八十一章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて①

 現代人は少なくとも仕事ではプライヴァシーも素の自分も持てない。要するに個人主義とか個人の自由とか権利とは、あくまでそれを犠牲にしている人達にのみ特権的に付与されるものであり、それは仕事の形態に関わらずそうである。
 ここにものの売り買いに直接関わる人が居る。商社とかギャラリーとかでディーラーとして仕事をする人達は皆あらゆる思想信条の人達と直に接するので、その都度向こうに合わせて会話をして、それぞれの異なった立場を理解しなければならず、その際には自分自身がどういう思想信条であるかは常に二の次にしておかなければいけない。
 又ここで一日中株式とか情報をキャッチすることをして、ネット上だけで全てのコミュニケーションを行うとしよう。すると本当に直に人と会って示す様なメッセージとは24時間無縁で過ごす。この場合でも一切の本音をリア充的な他人に示すことは出来ない。
 共に共通することは、人生の大半の時間を仮面をつけて過ごすということだ。
 そういう社会に生きていて、そういう時代が当たり前であることをまず認めて生活する前段階では、そこに自己という、自分自身という(それ自体も何か固有の幻想に拠って価値的に観念上与えられているだけかも知れない)固有の輝きを失うという形でのみリアルな自分自身の生活を認識していくと、次第に脱力感が充満してきて、一体こういう生活で自分は生涯の大半の時間を過ごすことはいいことなのか、という風に疑問符を抱く様になる。
 しかしそういう風に絶えず真実は今の生活実態とは全く離れた何処か別の場所にあるのだ、と認識すること、そういう風に自分自身の生活習慣を反省的に捉える事自体が、そういう固有の鬱的な不満を生むと薄々誰しも気づいているので、現代人はそういう風に反省的視点で全てを認識することを積極的に避けている、とも言える。
 自分自身の人生自体に一切疑問を抱かぬ様にすることで、却って鬱的でも能天気でもない至極普通の理性を保てるのだ、と信じている人の方が現代社会では多い。第一我々は既に古代にも中世にも近世にも近代にも生活することなど出来ないのだから。
 だから要するに本当の自分とか、真実の人生とかそういう観念自体を、そちらの方こそ幻想として風雪の流布化されていることなのだ、と自己納得しているのが我々の生き方である。
 それは仮面を仮面としてではなく、どの他者にもその固有の他者へ合わせて異なった仮面を着け替えること自体を罪悪視しないという決意だけが至極真っ当な正統な信条であると認識し、決め込まずには現代社会を生き抜くことは出来ない。
 都市空間を移動する際の歩行マナーから公共機関でお金を支払ったり、よく分からないことを部署毎に他人へ質問したりすることに至る迄都市空間全体の秩序を乱さぬマナーの在り方を心得ていくことは、ある部分では地方共同体の人的ネットでさえ、そういった都市空間に固有の機械的な連動を避けて新鮮な空気を胸一杯に吸い込むことを相互に暗黙に確約し合っているという認識に於いてのみ理解出来る、ということだ。
 つまり全ての人生の時間で一人で過ごす時間でもネット上で送受信しているのなら、擬似的に世界全体へ演技して自分を作っている様に、都市空間で無数の他者と直にすれ違っても、2ちゃんねるのスレッドを横目で観てネットサーフィンすることと本質的には変わらず、要するに擬似自分を示す事自体が本当の自分だと認めなくてはならない。
 他者毎に違う仮面を付け替えて態度を替えることだけが特別の権力を持っているわけではない普通の市民の採れる態度であり、それこそが本当の素の自分なのだ。つまり凄く普遍的な仮面も、凄く信じられる素の自分というものも共に幻想でしかないと心得ることだけが現代社会で理性を保つことの出来る指針である、と言ってもよい。
 しかし権力も特権も実はその様相の違いでしかなく、それ自体が権力という仮面であり、その仮面をつけた演技的時間を過ごしているだけなのが権力者である、と言い得るのだが、それは真に権力を保持するとはどういうことか、という問いかけも必要だろう。
 次回は現代社会で権力保持とはどう行われるのか、という視点から考えよう。  
 付記 統一された自己の人格とか揺るぎない信条思想というものの方を寧ろ価値認識論が付与する幻想である、と現代人に気づかせた意味でウェブサイト利用が現代人に齎した精神的インパクトは測り知れない。(Michael Kawaguchi)