我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Wednesday, February 12, 2014
第八十三章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて④ 言語とは仮面なのだろうか?
重要なことは、我々は本当に自分自身の気持ちというものを完全に把握しているのだろうか、ということである。自分の気持ちとは必ず自分自身をもう一人の自分の中の他人的な見方をする自分に拠って俯瞰されている。と言うより自分自身を観ようとするもう一人の(否自分に拠って観られる自分こそもう一人の自分かも知れないけれど)目とは必ず自分的ではないと自分で知っている自分の中に巣食わせているある種の他人である。ヘーゲルとかサルトル流に言えば対自ということなのだろうが、もっとそれより他者全般への虚栄心とかも含んだものも観方を我々は決して完全には捨てられないのだ。
まず意志決定というものの中に完全に自分自身へ欺くことのないと言い切れるある種の誠実性があるのだろうか?
態々決心しなければいけないことというのは、必ず何処か自然に余り深く考えずに実行して、しかもそのことで後々悔やむということのないこととは違う側面がある。
つまり決心するとは自然なことではないのである。
と言うことは意志決定というものの中に必ず自己欺瞞的部分があると考えることの方がそうでないより自然だということとなる。
何かに関して話題にしていて、云々Aと云々Bとではどちらが好きですか?と聞かれてそのAとBとの分類の仕方自体に余りしっくりと行かないという気持ちがある場合、その質問に対して返答する場合は、明らかに強いて答えるのなら、という条件が付帯する。その場合その条件を敢えて言わずに返答する場合相手、つまり自分への質問者に対して余りその質問の正当性に関してきちんと相互承認を経ずに適当に(ネガティヴな意味のテキトー)返答するということを選択していることになる。
その場合その返答は明らかに相手の質問の適切性を敢えて不問にして為されているので、必然的に相手の態度への無思慮的な迎合がある。要するに問いと返答の在り方への問いかけを省略していい加減にコミュニケーションをしている。と言うより全てのコミュニケーションを哲学的に精査してその適切性を抽出して会話することなど我々は出来はしないし、しはしない。
と言うことはコミュニケーション自体にそういった全ての適切性を不問に付すという厳密にはその意義を問わないという性質がある、と考えることは自然である。
コミュニケーション自体がそうであるなら、必然的に言語自体にもそういった余り深く一々為されている語彙選択とか文脈選択とかの正当性を問い詰めないという曖昧さを一定程度許容しようとする性質が備わっているのだ、と考えても強ち間違いと迄は言えないということにもなる。
例えば「もし貴方が誰か一人だけしか助けられないとしたなら、貴方にとって一番愛する人ですよね、そうでしょう?」等と言う場合畳み掛けるその最後の付加疑問文は明らかに同意を得たいというある種の要請である。しかしそれを拒むことも返答者としては自由であるし、事実その自由を付与されていればこその質問の筈である。
しかし我々の会話ではしばしばそういう風に完全に自由を相互に承認し合う形ではなく、物事の進行を会話上でも滞りなくさせたい気持ちから付加疑問文への返答を半強制的に補足することはある。
勿論それを拒む自由も選択も常にあり得る。しかしどんな場合でも必ず完全自由を承認し合うことは出来ないと言っていい。それどころか我々は積極的に真実に濃密な対話を実現させる為に日頃から濃密にする必要のない多くの会話を滞りなく済ませる為に相互完全自由承認自体を回避しているのだ。
これはある意味では言語行為の中に日常惰性的な意味での仮面装着を相互に認可し合っている証拠ではないだろうか?
もし我々が全く仮面を必要としないのであれば、そもそも言語等を使用するということはあり得るだろうか?つまり相互完全自由承認の回避を促す選択肢を敢えて問う以前の習慣とするということの内に、我々は仮面を外す時、或いは外すべき時もあるが、それ以外では完全に仮面を脱ぎ捨てていてはいけない、或いはそうであることは適切ではないと考えている、或いはそういうものでいいと感じている、ということが言えるのではないか?
つまり言語行為とはそもそも完全な誠実性だけを履行する為のツールなのではなく、幾分の欺瞞を差し挟みながら、欺瞞ではない仮面を全て脱ぎ捨てる時間をより特別の時間として認識しつつ、その時の為に、それ程ここぞという時ではない時間ではエネルギーを節約している、と言えるのである。
しかし、となると言語自体は欺瞞である場合とそうでない場合もあり得るのだから、論理的には仮面をつけたり外したりという反復だということになる。そしてそれは言語自体が仮面であるとは言えないもっとメタレヴェルの行為だということとなる。
しかし我々はどういう時にしっかりと仮面を被り、どういう時はそうではないかということを何か定式的に理解してそうしている訳ではない。となると我々は必ずしも理性的にある時は仮面を被り、別のある時には仮面を外すということをしているとは限らない(勿論そういう時もある)ということとなる。
つまり仮面を理性的に装着する時と、そうでなく感覚的に察知して咄嗟にそういう風に身構える時と、感性的に装着しなければいけない場合さえ、それを外したくなる時もあるし、理性的に仮面を外すこともあるということとなる。それは意志決定とか決心に於いて自然にそうするのではないということと関係があるものと思われる。そしてそれは事実その様に行われている、と私は考えるのである。次回はそのことから考えてみる。(つづき)
Subscribe to:
Posts (Atom)