Saturday, April 5, 2014

第八十四章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑤ 仕事、職業という仮面が言語の仮面性を作る

 もし我々が我々の行為全部を自覚的で意識的であり、その意義を問う事を止める事に潔しとしないなら、我々はどんな行為もそうおいそれとは為し得ずに終わるだろう。生涯何もせず何をすべきかだけを考え続ける人生というものを想定しなければいけなくなる。
 しかし我々はそうしない。必ずと言っていい程何かする。仕事もそういったものの中の一つだし、余暇にする趣味も旅行もそうである。
 我々は端的に反省的存在者ではない。だからこそ時に反省を自省的に必要だと悟る。しかし全ての社会成員が好き勝手に振舞い一切の法も存在しないとしたら、恐らくするべき事を常に真剣に考えざるを得なくなるだろう。何故ならそういった社会とは法秩序もないが故に生存自体を自己に確保する事が困難となるからだ。しかし実際は社会とは法秩序に拠って運営されている。あらゆる商売に対して商法というものが規定的な尺度として存在し得るからこそ自由に誰しもが建前上では商売をする事が可能なのだ。そして何故その様に法秩序を我々が施行させてきたかと言うと、全てを自己決裁する困難さを全ての社会成員が同意しているからである。それは暗黙の同意であるし、それを誰しも当然だと思っている。それが文明社会というものだからだ。
 だからこそ我々はそういう社会総意としての法秩序と経済社会で気楽に自己行為を為せるとしたら、それは全行為の全次元での自己決裁ということを途方もなく困難で、辛い事であると知っているからだ、とも言える。そればかりか全行為自己決裁である社会ではそもそも義務も権利もない。それは少なくとも文明社会ではなく野生に近い。しかしそこ迄自己行為の利害や自己生命の生存を自己決裁で維持しなくてもいい様に社会が我々に権利と義務を与えているなら、その中で我々に拠って行われる行為は全て建前的に保証されることとなる。それが仕事であり、職務である。
 我々が他者にある部分では全面依存している事を自己に認められ得るのは自己も又誰か自分以外の他人が自分に依存している事を保証する事に同意しているからであり、その相互依存自体が分業という形で我々の自己存在を社会的に認知し得、認知させ得るのだ。
 従って社会内存在的な意味での仕事人、職業人である自己とはそれ自体相互容認的な仮面仮装だと言える。我々は他者から自己に対して必要以上の問い詰めをさせない代わりに自己からも他者に必要以上の詮索や干渉を行わない事が暗に全成員の総意である事に同意しているのである。それこそが社会人として生きるという事、生活するという事なのだ。
 しかし何故そう同意しているかと言うと、人生の全時間を我々自身が反省的自己として過ごすということが誰しもにとって耐えられないからである。
 我々が四六時中反省的自己であることを人生を全うするとしたなら、我々は先にも述べた様に何もおいそれとは行為し得ない。しかし我々はそうではない。義務と権利との引き換えに同意していればこそ気楽に電車にも乗るし、自販機でジュースを買いもする。 我々は絶えず何故我々が生きているのかとか、何故自分自身が生きているのかという問いだけに時間を割く事が耐え難いのだ。何故そうであるかと言えばそう自己へ問う事自体が、自己へ本音を吐き続けなければ問えない性質の事であると薄々知っているからである。
 本音だけを常に他者、他人に吐き続ける事程苦痛な事はない。それはそれを聴かされる他者にとって苦痛である以前にまず自分自身で耐え難いのである。それは反省的自己だけで人生の時間を費やす事を予告してしまう事を誰しも知っているからである。そしてそういった無為な結論の出ない自己内論争の果ての他者とのコミュニケーションが所詮そうする事で相互に詮索と干渉をし合う事を我々は熟知しているので、必然的に我々は相互に本音を言い合う事を回避させ合う為に仕事とか職業という分業社会的秩序の仮面を被るのである。
 仕事の履行とは端的に相互不干渉の同意の下に行われる仮面仮装の意味合いがあるのである。
 我々は実は自分自身を全人生の時間を反省的自己へと費やす事を困難と感じさせる事実として、自分自身の本音というものが一体どういうものであるかを意外とよくは知らないのである。
 何故なら一般的に本音とは概して自己自身の他者とは無縁のそれであるよりはずっと、他者との関わりに於ける他者から自分への、或いは自分から他者への希望である事が大半であるからである。純粋に他者との関わりを介在しない自己の本音という事が仮にあるとしても尚、その正体を突き止める事自体が又途方もない自省的時間を確保しなければいけないと我々は知ってもいるのだ。
 かくして我々はよくは分からない自己の本音を相互に示し合わない様に暗に画策しつつ、常に自覚的ではない自己本音というものを常に不問に付す形で仕事や職務という公務の履行へと意識を移行させつつ、その仕事や職務を邁進する事を相互に価値化する事で、本音の所在追求を回避しつつ、自己本質究明を相互に執行猶予し合っているのである。
 本章の結論的に言えば、我々は人生での全行為に対して非哲学者であればこそ、逆に時として反省的自己も必要だという形で哲学を一つの学的なツールとして価値化し得るのであり、全人生の時間を哲学的自己として過ごす者が仮に居たとしたら、その者は正真正銘の狂人である。
 我々は自己を他者に対して相互に狂人ではない旨を示す為に自己に対して仕事、職業という形での仮面を装着するのである。その事にどんなに天才的な哲学者や思想家でも例外ではない。