Monday, November 3, 2014

第八十七章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑧ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

前回はIS(イスラム国)が現代文明の利器を最大限に利用して文明圏全体から恩恵を被りつつ、詰まり自由主義と資本主義の矛盾を叫びテロ行為をする事自体の矛盾が彼等の行為の正当性を疑わしいものにしているという結論だった。
尤も絶対王政時代でさえ王政が唯一正しいものであったかどうかに関して否であると考えていた人達は大勢居ただろう。だが彼等の全てが王政を倒そうと思っていた訳ではない。現代でもイスラム国的な挙に出る事を想念上では脳裏に介在させた事がある人は多いだろう。だが実際彼等のしてきている事はやはり国際的犯罪と言っていい。キリスト教自体はパリサイ人やユダヤ教律法学者達にとっては危険思想であったものの、犯罪とは違った。イエスのしている事は説諭であり、友に語り掛ける形式だったからだ。その点ではイスラム国のしている事はやはりテロ行為に拠ってプロパガンダ的に犯罪暴挙を正当化しようとするある種の逃げである。
しかし民主主義に全く欠点がないとは勿論言い切れない。それは何度か述べたが、大勢の意見だけが常に正しいという事になる、でも実際は少数派の意見の方が正しかったと後から振り返って言える事も多々ある。それだけでない。恐らく民主主義とは最も平均的で毒にも薬にもならない施策が最も法案として通過しやすいという事も言える。つまり秀逸な思想や発想が踏み躙られていくという事はあり得る。と言ってテロリズムに拠ってその否定的意図を示す事が正しいとは絶対に言えない。
しかし如何に民主主義であれ自由主義経済であれ、その弱点や欠点に対してどうすべきかの議論は絶えず自由にして、積極的に今の侭でいいのかという論議をする事を推し進める必要がある。そしてそれを余りしていない国家群では当然今回のイスラム国の様な事態がシリアやイラク等で起きたという事実を成程と思わせるものはある。それはアメリカ合衆国や日本の様な国でも民主主義自体の問題点をも(資本主義自体の問題点はそれなりに常に為されているという事は言えるが)検討するという機会をもっと増やすべきではないだろうか。
これはしかしかなり成果主義や数値主義と個性主義との間でも言える事だ。個性主義とか人格評定主義は人間性という基準が人それぞれ異なっていて、曖昧だという事に関しては数値評定主義の方がずっと公平だと言える。だが当然の事ながら試験の数値だけだとそれも又得意不得意の試験運の様なものも言える。それを無くす為に何度も試験をする事もやはり出来ない。此処で色々なディレンマは確かに浮上する。
つまり今現行のものとはそれ以外に取り敢えずいい方策が見出されていないからという消極的理由に拠るのだ。民主主義も自由主義もその標榜自体が一人歩きして何かそれ以外の事を考える事を全て封殺する様な不可侵対象化してしまえば、当然それも一つの認識論的、思想的テロリズムである。思想弾圧とは何を容認してそれ以外のものを否定しようが性質は同じである。民主主義は常に独裁主義(ファシズム)等に拠る社会全体の暴挙となっていったプロセスの後でそれを是正する意味合いでのみ正当とされる。
それは国家体制でも言える。共和制であれ立憲君主制であれ、それ等はそれ以前の形態での何等かの歴史的否定的結末自体に拠って反省的に齎されているに過ぎない。従ってそれを自由に論議する事だけは侵されてはならない。そういう風に自由に論議する事と、それでも尚実際には今の形態が正当とされているという事実に対し、それなりに(仮に批判精神を持とうが)遵守しようという判断とは当然両立し得る。
本シリーズの曖昧な同一化とは民主主義で自由主義体制で、資本主義経済を最も順当なものとするという欧米先進国モデルを正当としているという事自体への問題提起的意味合いがある。つまりそれ等が一体化されている事へ何の疑問も抱かないとしたなら、それはそれで意識の欠如である。つまり絶対君主制や王制自体の問題点からそれらが成立し、今も天皇制も残存していても、それは民族の統合の象徴という形で日本国憲法(現行憲法)では規定されている様に、民主主義や表現の自由が侵されるものではない。しかし同時に表現の自由とは何処迄適用されるべきなのか、とか実際に個人情報を侵害する様なタイプのヘイトスピーチや他者の表現の自由を阻止する様な表現は当然自由ではない様な意味で、常に自由とはどういう事であるかの論議も絶やすべきではないと言い得る。
尤もリアルスピーチとフィクション上での表現はそれなりに分ける必要があるし、リアルスピーチでもフィクションとは違う形で表現に自由は保証されるべきである。ケースバイケースの検証が常に要求される。今欧米先進国では確かに立憲君主制を採用している国々があるが、その事実が絶対王政へ逆戻りする事はそうないとも思われるが、それさえ国民全体の総意として正に逆説的に民主主義で決定されれば、それは実施されて然るべきだとも言えるのだ。その点ではブータンの様な君主制自体へ一切の疑問を国民が持たない(とされているが、実質的にそうであるかを私は確認し得ないので、一応それを正しいとして)という様なケースも当然あり得るので、一律的に正当なる国家形態を論う事は不可能である。
それは結局市民、住民が住んできた歴史、生活状況全てに関する固有の事情で常に判断されるべきだとだけ言える。(つづき)