Thursday, May 7, 2015

第九十章 現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて11 ツールにディヴァイスで何でもアップしやすさと監視されることに慣れていくことに就いて

 我々は既にウェブサイトで容易に何でも自分の意見を私的な事と知っていてSNSが公共掲示板であることを知っていてしかし一切の検閲がないことをいいことに、臆することなく何でもアップしている。勿論そのことで公職を追われる人も居るが、この検閲されなさ自体は永続的なものとして維持されていくだろう。
 要するに我々は既にツールを通した意見の自由にアップ出来ること自体を、たとえそれがかなり変態的なオナニーの自撮りであっても、それを除去されない自由を謳歌してしまっている。リヴェンジポルノに就いて何度か触れたが、それ等も幾分自分の極め付けのプライヴァシーである性行為さえアップしても咎められないマゾ的な自己顕示欲ともタイアップされて行為へ踏み切らせている。つまり変態的な自己露出狂趣味さえ咎められない公的場とかアウェーさえホームであっていいという現代人の開き直りがアップしやすさを無くさない様に現代人が取り計らうことを促進している。そしてそれは自由を疎外する権力を批判する装置として全人類的にウェブサイトのアップしやすさが容認されているということ以外でない。
 つまり変に検閲することの方が作為的な権力の側のテロリズムであるという認識が我々に共通しているのである。だからSNSでのアップし易さ自体が権力の酷く歪な乱用を批判する為に有効な価値としてアップし易さを認めている訳だ。だからドローンさえ官邸に侵入する事件があったとしても取り締まるより、歪な権力の乱用(濫用)を防止する装置として取り締まり自体も緩やかにという世論の方が世界的には強い。
 それと引き換えにと言っては言い過ぎの誹りを免れないかも知れぬが、実はビッグデータシステムでスパコンに拠り集計される個人情報を我々はある程度なら監視されていることにも慣れていこうと決意しているとも言える。セックスさえ人に見せたい欲求さえあるのだから今や人類は多少のプライヴァシーを侵害されても変に犯罪的匂いを立ち込めさせることなどあるまいと自信のある市民は、ビッグデータ収集に拠って犯罪が未然に防止され得るなら、多少の監視されている状況を受け入れようとマゾ的な欲求回路を開いているとも言える。
 それは在る部分知人同士では羞恥感情を相互に尊重し合うし、プライヴァシーは重要だが、知らない人に何を覗かれようとそんなことを気にしていなど居たら、現代社会は生き抜けない、だから余りにも猟奇的でない限り自分がする多少の悪等誰も気にしないと高を括っている証拠である。事実立小便をするくらい余りにも同じ場所で頻度も高く何度も繰り返ししない限り一度何処かでテキトーにそれをしたからと言ってそれで逮捕されることはないだろうし、それ程警察とは暇ではない。
 結局現代人は小さな悪には眼を瞑り巨悪だけは発動させない様にしようと、小悪実践者全員が同意して、アップしやすさを相互に与えておいて、それで小さなストレスは軽減させ時折フラストレーション解消の為に多少過激なツイートをさせておいて溜飲を下げさせる様に全他者の悪を容認しておいて(それが国家形式になると国防的措置と、そのデタント的な相互の協定になるのだが)、それでも尚眼に余るもののみを極悪と相互に容認し合うという暗黙の協定がウェブサイト有効利用の下に暗々裏に決定されている様なものなのだ。
 それは相互にかなり幼稚でもあり、大人的態度を捨てて迄、ある程度のナルシス的過激さは相互に認め合いつつ、それ等小悪でそれ以上の悪を発動させまいとしている不文律を破壊する危険行動のみ監視されるべき対象として全成員が溜飲を下げることに全人類的に同意しているのである。それはそうすることで電子機器を通した余りにも忙し過ぎる情報摂取を撲滅させることが不可能だという自覚の下に、巧く小悪を方便として利用して全世界的なインフラの利便性、コンヴィニエンスを維持しつつ、インフラに一定程度なら支配されることをマゾ快楽的に受容していこうと決意し、それを完全に捨てて前時代の不便さから得てしまうに違いないフラストレーションを全成員が感じずに済む様に暗黙の内に取り計らっているのである。
 我々はだからプライヴァシーの本質的意味を徐々に変えてきているという風にも言えるのだ。(つづく)

Saturday, May 2, 2015

第八十九章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑩ ドローン侵入愉快犯とエゴサーチとリヴェンジポルノとハニートラップPart1

 首相官邸にドローンを侵入させる愉快犯が現れ数日官邸対テロ機能に就いて取り沙汰され、マスメディアは大童だった。だがこの種の犯罪は充分予想されたことである。却ってメディアが大事として報じさえしなければ政府や現政権の体面は保てた。だが表現の自由が憲法で保証されているから、メディアは大きく掻き立てた。しかし誰かが死んだ訳ではないし、もし個人情報がドローンに拠って他者から盗まれ、その事で人が死んだらそちらの方がずっと深刻且つ重大な事件である筈(又べき)であるが、国家全体の国防機能不備の方に論われるべき重大案件はすり替えられてしまう。これが一種の国家第一主義的な右傾化した現象でなくて何であろう。 ドローンを飛ばした容疑者は結局そうすることで、却って国家とか政府とか現政権といったものがどういう反応をするかを見計らう目的が暗に在ったに違いない。その意味では犯人の目論見にまんまと国家全体が引っ掛かったのである。
 そういう案件の積み重ねが結局国民の側が国家の国防機能を信用しないということを明るみに出し、又どれくらいの対愉快犯対策を平素から講じているかを犯人側はほくそ笑みながら試してきているという憂うべきだ、と言うべきか、あたかも想定した通りだった、と言うべきか、そういう事態となっている。
 現代人は自己能力がどれ位公的な幻想をぶち破れるかを試す愉快犯的資質を誰しも持たざるを得ない状況と言うか、既に時代の必然を引き受けている。その一つが明らかにエゴサーチである。自分のウェブサイトを通したメッセージ発信能力がどれくらいのものかを確かめる為にそれをする訳だが、結局それはアップロードしやすさ、そしてそれがかなり現代社会の情報通信では必須の事態として歓迎されてもいる訳だが、そのアップしやすさを国家や政府がコントロールしようとすると、途端に治安維持法に拠ってかつて軍国主義国家へ驀進していった日本国家、大日本帝国の誤りを日本では彷彿させてしまい、当然その事に現代のマスメディアは黙ってはいない。
 だが個人レヴェルではエゴサーチする事で実現してしまっているナルシス的欲望の実現が、増長していってしまうと、リヴェンジポルノをネット上で公開して、そうしてまで追い詰めようとする別れた相手への復讐を実現化させてしまえる現代は、言ってみれば露出狂的変態性欲的な願望に拠ってウェブサイトのアップローダー達のメンタリティがアドレナリンを放出することを快楽として受け取っている証拠である。
 このジャン・ジャック・ルソーが露出狂であり、性的変質者でもあった様な肥大化した情報化社会での情報量的知の在り方と、性的マゾッホ的な見られる快楽は癒着しており、その事とドローン操縦愉快犯の自己能力の顕示欲とはかなり一体化した現代人に固有の性格であるとさえ言える。自分のマスターベーションをする姿態を動画で投稿する様な変態的欲望は、そうすることで、つまりマゾ的に他者にその姿態を見られることで興奮するという現代社会固有のアップしやすさが生んでいるとも言えるが、寧ろ実態的には、変態的な迄の自己プライヴァシー暴露趣味的欲望自体がアップしやすさを現代人の総意として要請していると捉えた方がいいかも知れない。
 つまり歪んだ形でしか自己欲求実現を満喫出来ないある種の対自的なサディズムでもある処のマゾッホ的な自己プライヴァシー暴露趣味は、自己顕示欲が歪んだ形で誰しもが変質的にならざるを得ないアップし易さ自体を却って同時代的共時性の共有事実として開き直って、真っ当な正常とかつて言われた自己節制性や自己変態的欲望の巧いコントローラー達をこそ寧ろ守旧主義者とか保守主義者として批判することを通してサティライアシスやニンフォメイニアックな性的快楽主義者達が一穴主義的婚姻論者達を爪弾きにしていく様なセンシビリティこそ正常だと言いかねない逆差別社会の深層が到来している。
 だからハニートラップとはそういった普通の正常のと言われてきた人達が陥りやすい誘惑の罠として国家的陰謀で策謀に拠って敵対勢力を殲滅しようとする人達に愛用されてしまっているとも言える。
 結局凄くウィルス対策に優れたPC機器が愛用されていく様な意味で、国家自体もあらゆる愉快犯を退けさせるだけの国防的インフラの整備に治安への安堵を確保し得ると言い切れるだけの愛国心を果たしてどれ位の市民が持っているだろうか?其処迄国家全体から管理されたいなどと誰しも思って等居ないだろう。
 と言って愉快犯とか変態暴露趣味的なリヴェンジポルノアップローダー達の行動を何処かで冷やかにしかし、密かな覗き趣味で上から目線で見物しようと決め込んでいる大勢のネットユーザーの一人ではないと断固言い切れるだけの日常的な禁欲主義を維持している市民は一体どれ位の数存在し得るのだろうか?テレビ番組のウェブ上の閲覧も既に制御し切れなくなっている現代社会では、テレビ局の方がウェブサイト全体のムーヴメントに追随的に存在し続けていくしかない時代である今日では、他人のマゾヒスティックな露出狂的快楽を自分も又秘めているということを何とか隠蔽しつつ、対自的には、その欺瞞性を自覚せぬ訳にはいかない日常の中で社会の治安とかも考えなければいけない時代に我々は生きていると言えないだろうか?

Saturday, January 31, 2015

第八十八章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑨ マスメディアと政府が翻弄される

 イスラム国の暴挙に拠って後藤健二氏の尊い生命が奪われるという形での寝覚めとなってしまった今日は現代世界でこの種の狂信的宗教カルト的テロリスト集団にどう世界が対処したらよいかということに就いて誰しもが頭を抱え込んでしまう事態となっている。一つには既に方法論的には彼等は愉快犯的なメソッドを対世界へ示しているのだ。そして世界中のマスメディアがそれを大事として報道すればする程彼等にとってはしめしめということとなるということだ。
 既に彼等の中には大義的なこととか宗派イデオロギー的なこととかさえそれ程重要ではないのかも知れない。
 だがこの種のテロ行為を防ぐ手立て自体もなかなか見出し難いが、同時に今回の様に起きてしまった場合、それを解決に導く手立てもなかなかない。一切の報道が差し控えられていさえすれば隠密に何等かの特殊部隊を潜入させるということも可能かも知れないが、マスコミ全部の口を塞ぐこと自体が全く無意味である。ウェブサイトで蛮行自体を晒すことを彼等がしてしまっているからだ。
 イスラム国(ISIL)はある意味では極めて現代ツールを巧く利用した集団だと言える。その意味では既にアメリカ等を彼等の最大の敵としている彼等はその時点でアメリカ型資本主義の一端無しには一切の蛮行を成立させない様にしていることを自ら認めてしまっているとも言える。
 彼等は世界中のマスメディアが自分達のしていることを非難し大きな事件として報道すること自体を利用している。世界中が騒げば騒ぐ程多くの狂信的なシンパを獲得することも可能である。勿論有識者達の言う様に現在の彼等は既に内部分裂を来しているかも知れない。と言うより最初からきちんとした統制の取れた集団ではなかったのかも知れない。しかしそれは現在迄のキューバの国家体制を敷いてきている党の革命評議会自体も元々はそうであっただろうし、全ての集団の基礎とは悪い言葉で言えば烏合の衆的要素に満ちたものである。全ては結果論なのだ。
 ISILの目論見は世界中が掻き回されてきているということ自体だけ取ったなら完全に成功している。彼等に先駆けて世界中を震撼させたオウム真理教がISILにも大きなヒントを与えていることは言えることだし、無差別テロ的な色彩に今度はよりイデオロギー的な妄想、つまり世界経済の資本アメリカ一極集中的事実への批判として日本も加担国として巻き込まれた形だが、報道自体が後藤氏が殺害されるとそちらにだけ意識を集中させつい先だって殺害された湯川遥菜氏のことへは殆ど言及しなくなるというある種その場凌ぎ的な態度自体への批判体として彼等が君臨することに愉悦を感じ入っているかも知れないとも推察される。
 今日民主主義と表現の自由の一般市民の獲得に拠り国家自体が絶大な権威と権力を持つことを政治家に困難にしているし、それを国民が望んでもいない。それは世界中で徐々に浸透している(北朝鮮の様な国家も未だに存在するので、全てとは言えないものの)と言える。其処で隠密に救出作戦を立てることも困難なのだ。
 政治家はあらゆる角度から批判に晒される。其処で通り一遍のことしかカメラの前では語れない。そしてそれは国会や集中審議等でも同様である。各プレスが控えているので秘密を保持し難くなっている。結局もし全てを隠密に救出作戦等を立てるなら、敢えて国民からの批判を覚悟で一切の決裁を待たずに履行するしかない。時にはそういうことも必要だろうが、今回の様な事件では其処迄する覚悟を政治家が持てなかったということなのだろう。
 この種の事件が連発すると、国内に滞在する全ての中東系市民が疑惑の目で見られるし、事実中にはISILから送られたスパイも居ないとは限らないので、結局中東アラブ系市民全体への差別的眼差しが作られることも極めて厄介なことである。シリア、イラク、ヨルダンといった国民はそういったことを憂慮しているだろう。
 現代型のテロリズムとテロリスト集団はマスコミと政府を嘲笑出来る愉悦が第一目的であるし、かなりそれが実現されてしまっている。宗教的イデオロギー自体も正義論であるから正統のものであるなどとも勿論どんな種類のものでも言えないが、それにも増してそれを利用する悪辣なテロリスト集団の統制的原理も全く正当性を欠いている。だがこの種の集団の行動にはその様な訓戒自体が既に効力を発揮しない。
 脅迫の仕方から動画自体の発信の仕方に到る迄かなり支離滅裂であることからも、内部統制もだし、外部からのISIL自体の利用価値を巡るヒズボラやアルカイダ等の考え方もまちまちであり、又ISIL構成要員自体がばらばらである可能性も高い。となると益々集団全体の狂信的行動はエスカレートする可能性は高い。
 現代社会は体裁的には皆が平和に暮らす為に演技しているが、その演技自体が表層的なポーズであり思想ではないので、この様な悲惨な事件が起きても、我関せずとしている市民の方がずっと多いし、マスコミ自体それを利用して報道を活性化させているに過ぎない。政治自体も運用は各種利権団体の代弁機能を担っているに過ぎず、その事実を逃れようとする議員に対しては(例えば山本太郎の様な)熾烈な批判を集中させる。それは天皇陛下に手紙を渡す等の行為を稚拙なメッセージとして葬り去りながら、自分だけはそういう批判を浴びせかけられぬ様に用意周到に黙っているという選択肢を最もましなものだと全市民に心得させてしまう。
 マスメディアはウェブサイトが暗々裏に世界中で勝手に利用され秘密の会合その他全ての遣り取りをしていることを承知しながら、その全てを暴き立てること自体不可能であることも承知で、しかし時折余りにも見過ごせない事件のみ集中的に扱おうという態度を決め込んでいる。今回の事件に関しても責任問題等も大いに問われることだろう。しかし仮にそういったことを契機に政局が不安定化したとしても、それこそがISILの思う壺であり、彼等はしたり顔でそれを静観することだろう。 この問題に関してはことの成り行きを見守り再度取り扱うこともあるだろう。