Thursday, March 9, 2017

第九十一章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて12 仮面を素顔とする様なコミュニケーションがリア充を異様なものにした

 凄く重要なことは森友学園の籠池理事長の様な極度に右傾化した教育理念を自然なものに感じている経営者を輩出する背景には、ネットコミュニケーションがあらゆる意味で日常生活に浸透して、最早書き言葉で文字を綴り手紙を郵送するという習慣がなくなってきているだけでなく、銀行に預金をする様に自分にとって重要な情報、文書や写真やあらゆるデータをネット空間上に保存する様な社会通信システムがある。つまり加速度的に10年前の社会情勢自体を遥か大昔の出来事であるかの様に思わせるウェブサイト通信システムの世界的定着と、それに伴う生活スタイルや習慣やコミュニケーションの在り方の激変が、ネット空間上でアメリカ合衆国のNSCに全てを監視・盗聴・傍受されていることを承知で、仮想的な本音だけを、そしてそういった直に人と会って考えを伝える機会よりずっとネット上で仮想会話や仮想情報送受信に慣れきってしまった現代人は、既にリア充という事態を奇異なものとして認識することさえ定着させてしまった。自らをSNSのアバター所有者とかブログ管理者として、そして送受信発信者としての本音が仮面を被った人格であることの方を自然と受け取ってしまっている以上、情報的財産の維持さえ、直に物質として自分の家屋に保存することより、サーヴィスを享受する権利を維持することの方に比重をかけてしまっている以上、我々は本物とかリアルな物質に実質的な現代社会の内実に即した価値とは見做していないということを意味する。
 我々はだからかつて活字を組む前に原稿用紙やメモ帳に筆跡として文字を綴る習慣さえ殆ど無くしてしまっているので、手先の文字執筆さえ入力という仮面性を纏って生活していると言っていいのである。
 現代人の意志決定とは実は既にそういった本音と言うもの、リア充的な共同体対人関係がメインではない、つまり仮面をつけて都市空間を歩行することの方を却って自然で、前提された生活環境条件としている。だからその反動で同一組織、法人、つまり集団内では閉鎖的な前近代的な軍隊組織に近い感性さえ或る種の懐かしさとして介在させてしまいがちなのである。だから森友学園の今回のスキャンダルはブラック企業が増殖しているブラック経営者に固有の諦念的な現代社会への対処的仕方のニヒリズムを教育者や教育理念家さえ抱え込んでしまわないと、この現代社会の激変スピードについていけない、感性的にアナクロニスティックな社会での存在理由的な自己定立からしかそれへ対処しきれないからこそ、明治期の教育勅語を新しい精神財産として彼等は称賛するのである。
 コミュニケーションのメソッドや習慣による仮面的リアルを自然な常識にして、リア充の方を寧ろ異常な事態とすることで肯定せざるを得ない現代社会生活に於ける現代人のメンタリティがアメリカのトランプ政権による保護主義的政策や北朝鮮のミサイル発射やキム・ジョンナム氏暗殺を助長させ、世界的規模でナショナリズムや極右のヘイトスピーチを盛んな現象にさせているのである。それらは全て仮面的リアル自体の潜在的な我々誰しもが持つ恐怖心が、しかし今のネット社会や送受信システムの整備された世界現状を変えることができない諦念が無意識に生じさせている潜在意識の意義申し立てであると言ってもよいのだ。
 ではこの全コミュニケーションの偽装性と仮面性に対して、どういう個の信念を維持していけばよいかということを考えてみよう。また乖離しつつある心のシェルター願望と、常習化を益々強めるコミュニケーションの偽装性と仮面性との折り合いに就いても考えてみよう。

Thursday, May 7, 2015

第九十章 現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて11 ツールにディヴァイスで何でもアップしやすさと監視されることに慣れていくことに就いて

 我々は既にウェブサイトで容易に何でも自分の意見を私的な事と知っていてSNSが公共掲示板であることを知っていてしかし一切の検閲がないことをいいことに、臆することなく何でもアップしている。勿論そのことで公職を追われる人も居るが、この検閲されなさ自体は永続的なものとして維持されていくだろう。
 要するに我々は既にツールを通した意見の自由にアップ出来ること自体を、たとえそれがかなり変態的なオナニーの自撮りであっても、それを除去されない自由を謳歌してしまっている。リヴェンジポルノに就いて何度か触れたが、それ等も幾分自分の極め付けのプライヴァシーである性行為さえアップしても咎められないマゾ的な自己顕示欲ともタイアップされて行為へ踏み切らせている。つまり変態的な自己露出狂趣味さえ咎められない公的場とかアウェーさえホームであっていいという現代人の開き直りがアップしやすさを無くさない様に現代人が取り計らうことを促進している。そしてそれは自由を疎外する権力を批判する装置として全人類的にウェブサイトのアップしやすさが容認されているということ以外でない。
 つまり変に検閲することの方が作為的な権力の側のテロリズムであるという認識が我々に共通しているのである。だからSNSでのアップし易さ自体が権力の酷く歪な乱用を批判する為に有効な価値としてアップし易さを認めている訳だ。だからドローンさえ官邸に侵入する事件があったとしても取り締まるより、歪な権力の乱用(濫用)を防止する装置として取り締まり自体も緩やかにという世論の方が世界的には強い。
 それと引き換えにと言っては言い過ぎの誹りを免れないかも知れぬが、実はビッグデータシステムでスパコンに拠り集計される個人情報を我々はある程度なら監視されていることにも慣れていこうと決意しているとも言える。セックスさえ人に見せたい欲求さえあるのだから今や人類は多少のプライヴァシーを侵害されても変に犯罪的匂いを立ち込めさせることなどあるまいと自信のある市民は、ビッグデータ収集に拠って犯罪が未然に防止され得るなら、多少の監視されている状況を受け入れようとマゾ的な欲求回路を開いているとも言える。
 それは在る部分知人同士では羞恥感情を相互に尊重し合うし、プライヴァシーは重要だが、知らない人に何を覗かれようとそんなことを気にしていなど居たら、現代社会は生き抜けない、だから余りにも猟奇的でない限り自分がする多少の悪等誰も気にしないと高を括っている証拠である。事実立小便をするくらい余りにも同じ場所で頻度も高く何度も繰り返ししない限り一度何処かでテキトーにそれをしたからと言ってそれで逮捕されることはないだろうし、それ程警察とは暇ではない。
 結局現代人は小さな悪には眼を瞑り巨悪だけは発動させない様にしようと、小悪実践者全員が同意して、アップしやすさを相互に与えておいて、それで小さなストレスは軽減させ時折フラストレーション解消の為に多少過激なツイートをさせておいて溜飲を下げさせる様に全他者の悪を容認しておいて(それが国家形式になると国防的措置と、そのデタント的な相互の協定になるのだが)、それでも尚眼に余るもののみを極悪と相互に容認し合うという暗黙の協定がウェブサイト有効利用の下に暗々裏に決定されている様なものなのだ。
 それは相互にかなり幼稚でもあり、大人的態度を捨てて迄、ある程度のナルシス的過激さは相互に認め合いつつ、それ等小悪でそれ以上の悪を発動させまいとしている不文律を破壊する危険行動のみ監視されるべき対象として全成員が溜飲を下げることに全人類的に同意しているのである。それはそうすることで電子機器を通した余りにも忙し過ぎる情報摂取を撲滅させることが不可能だという自覚の下に、巧く小悪を方便として利用して全世界的なインフラの利便性、コンヴィニエンスを維持しつつ、インフラに一定程度なら支配されることをマゾ快楽的に受容していこうと決意し、それを完全に捨てて前時代の不便さから得てしまうに違いないフラストレーションを全成員が感じずに済む様に暗黙の内に取り計らっているのである。
 我々はだからプライヴァシーの本質的意味を徐々に変えてきているという風にも言えるのだ。(つづく)

Saturday, May 2, 2015

第八十九章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑩ ドローン侵入愉快犯とエゴサーチとリヴェンジポルノとハニートラップPart1

 首相官邸にドローンを侵入させる愉快犯が現れ数日官邸対テロ機能に就いて取り沙汰され、マスメディアは大童だった。だがこの種の犯罪は充分予想されたことである。却ってメディアが大事として報じさえしなければ政府や現政権の体面は保てた。だが表現の自由が憲法で保証されているから、メディアは大きく掻き立てた。しかし誰かが死んだ訳ではないし、もし個人情報がドローンに拠って他者から盗まれ、その事で人が死んだらそちらの方がずっと深刻且つ重大な事件である筈(又べき)であるが、国家全体の国防機能不備の方に論われるべき重大案件はすり替えられてしまう。これが一種の国家第一主義的な右傾化した現象でなくて何であろう。 ドローンを飛ばした容疑者は結局そうすることで、却って国家とか政府とか現政権といったものがどういう反応をするかを見計らう目的が暗に在ったに違いない。その意味では犯人の目論見にまんまと国家全体が引っ掛かったのである。
 そういう案件の積み重ねが結局国民の側が国家の国防機能を信用しないということを明るみに出し、又どれくらいの対愉快犯対策を平素から講じているかを犯人側はほくそ笑みながら試してきているという憂うべきだ、と言うべきか、あたかも想定した通りだった、と言うべきか、そういう事態となっている。
 現代人は自己能力がどれ位公的な幻想をぶち破れるかを試す愉快犯的資質を誰しも持たざるを得ない状況と言うか、既に時代の必然を引き受けている。その一つが明らかにエゴサーチである。自分のウェブサイトを通したメッセージ発信能力がどれくらいのものかを確かめる為にそれをする訳だが、結局それはアップロードしやすさ、そしてそれがかなり現代社会の情報通信では必須の事態として歓迎されてもいる訳だが、そのアップしやすさを国家や政府がコントロールしようとすると、途端に治安維持法に拠ってかつて軍国主義国家へ驀進していった日本国家、大日本帝国の誤りを日本では彷彿させてしまい、当然その事に現代のマスメディアは黙ってはいない。
 だが個人レヴェルではエゴサーチする事で実現してしまっているナルシス的欲望の実現が、増長していってしまうと、リヴェンジポルノをネット上で公開して、そうしてまで追い詰めようとする別れた相手への復讐を実現化させてしまえる現代は、言ってみれば露出狂的変態性欲的な願望に拠ってウェブサイトのアップローダー達のメンタリティがアドレナリンを放出することを快楽として受け取っている証拠である。
 このジャン・ジャック・ルソーが露出狂であり、性的変質者でもあった様な肥大化した情報化社会での情報量的知の在り方と、性的マゾッホ的な見られる快楽は癒着しており、その事とドローン操縦愉快犯の自己能力の顕示欲とはかなり一体化した現代人に固有の性格であるとさえ言える。自分のマスターベーションをする姿態を動画で投稿する様な変態的欲望は、そうすることで、つまりマゾ的に他者にその姿態を見られることで興奮するという現代社会固有のアップしやすさが生んでいるとも言えるが、寧ろ実態的には、変態的な迄の自己プライヴァシー暴露趣味的欲望自体がアップしやすさを現代人の総意として要請していると捉えた方がいいかも知れない。
 つまり歪んだ形でしか自己欲求実現を満喫出来ないある種の対自的なサディズムでもある処のマゾッホ的な自己プライヴァシー暴露趣味は、自己顕示欲が歪んだ形で誰しもが変質的にならざるを得ないアップし易さ自体を却って同時代的共時性の共有事実として開き直って、真っ当な正常とかつて言われた自己節制性や自己変態的欲望の巧いコントローラー達をこそ寧ろ守旧主義者とか保守主義者として批判することを通してサティライアシスやニンフォメイニアックな性的快楽主義者達が一穴主義的婚姻論者達を爪弾きにしていく様なセンシビリティこそ正常だと言いかねない逆差別社会の深層が到来している。
 だからハニートラップとはそういった普通の正常のと言われてきた人達が陥りやすい誘惑の罠として国家的陰謀で策謀に拠って敵対勢力を殲滅しようとする人達に愛用されてしまっているとも言える。
 結局凄くウィルス対策に優れたPC機器が愛用されていく様な意味で、国家自体もあらゆる愉快犯を退けさせるだけの国防的インフラの整備に治安への安堵を確保し得ると言い切れるだけの愛国心を果たしてどれ位の市民が持っているだろうか?其処迄国家全体から管理されたいなどと誰しも思って等居ないだろう。
 と言って愉快犯とか変態暴露趣味的なリヴェンジポルノアップローダー達の行動を何処かで冷やかにしかし、密かな覗き趣味で上から目線で見物しようと決め込んでいる大勢のネットユーザーの一人ではないと断固言い切れるだけの日常的な禁欲主義を維持している市民は一体どれ位の数存在し得るのだろうか?テレビ番組のウェブ上の閲覧も既に制御し切れなくなっている現代社会では、テレビ局の方がウェブサイト全体のムーヴメントに追随的に存在し続けていくしかない時代である今日では、他人のマゾヒスティックな露出狂的快楽を自分も又秘めているということを何とか隠蔽しつつ、対自的には、その欺瞞性を自覚せぬ訳にはいかない日常の中で社会の治安とかも考えなければいけない時代に我々は生きていると言えないだろうか?

Saturday, January 31, 2015

第八十八章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑨ マスメディアと政府が翻弄される

 イスラム国の暴挙に拠って後藤健二氏の尊い生命が奪われるという形での寝覚めとなってしまった今日は現代世界でこの種の狂信的宗教カルト的テロリスト集団にどう世界が対処したらよいかということに就いて誰しもが頭を抱え込んでしまう事態となっている。一つには既に方法論的には彼等は愉快犯的なメソッドを対世界へ示しているのだ。そして世界中のマスメディアがそれを大事として報道すればする程彼等にとってはしめしめということとなるということだ。
 既に彼等の中には大義的なこととか宗派イデオロギー的なこととかさえそれ程重要ではないのかも知れない。
 だがこの種のテロ行為を防ぐ手立て自体もなかなか見出し難いが、同時に今回の様に起きてしまった場合、それを解決に導く手立てもなかなかない。一切の報道が差し控えられていさえすれば隠密に何等かの特殊部隊を潜入させるということも可能かも知れないが、マスコミ全部の口を塞ぐこと自体が全く無意味である。ウェブサイトで蛮行自体を晒すことを彼等がしてしまっているからだ。
 イスラム国(ISIL)はある意味では極めて現代ツールを巧く利用した集団だと言える。その意味では既にアメリカ等を彼等の最大の敵としている彼等はその時点でアメリカ型資本主義の一端無しには一切の蛮行を成立させない様にしていることを自ら認めてしまっているとも言える。
 彼等は世界中のマスメディアが自分達のしていることを非難し大きな事件として報道すること自体を利用している。世界中が騒げば騒ぐ程多くの狂信的なシンパを獲得することも可能である。勿論有識者達の言う様に現在の彼等は既に内部分裂を来しているかも知れない。と言うより最初からきちんとした統制の取れた集団ではなかったのかも知れない。しかしそれは現在迄のキューバの国家体制を敷いてきている党の革命評議会自体も元々はそうであっただろうし、全ての集団の基礎とは悪い言葉で言えば烏合の衆的要素に満ちたものである。全ては結果論なのだ。
 ISILの目論見は世界中が掻き回されてきているということ自体だけ取ったなら完全に成功している。彼等に先駆けて世界中を震撼させたオウム真理教がISILにも大きなヒントを与えていることは言えることだし、無差別テロ的な色彩に今度はよりイデオロギー的な妄想、つまり世界経済の資本アメリカ一極集中的事実への批判として日本も加担国として巻き込まれた形だが、報道自体が後藤氏が殺害されるとそちらにだけ意識を集中させつい先だって殺害された湯川遥菜氏のことへは殆ど言及しなくなるというある種その場凌ぎ的な態度自体への批判体として彼等が君臨することに愉悦を感じ入っているかも知れないとも推察される。
 今日民主主義と表現の自由の一般市民の獲得に拠り国家自体が絶大な権威と権力を持つことを政治家に困難にしているし、それを国民が望んでもいない。それは世界中で徐々に浸透している(北朝鮮の様な国家も未だに存在するので、全てとは言えないものの)と言える。其処で隠密に救出作戦を立てることも困難なのだ。
 政治家はあらゆる角度から批判に晒される。其処で通り一遍のことしかカメラの前では語れない。そしてそれは国会や集中審議等でも同様である。各プレスが控えているので秘密を保持し難くなっている。結局もし全てを隠密に救出作戦等を立てるなら、敢えて国民からの批判を覚悟で一切の決裁を待たずに履行するしかない。時にはそういうことも必要だろうが、今回の様な事件では其処迄する覚悟を政治家が持てなかったということなのだろう。
 この種の事件が連発すると、国内に滞在する全ての中東系市民が疑惑の目で見られるし、事実中にはISILから送られたスパイも居ないとは限らないので、結局中東アラブ系市民全体への差別的眼差しが作られることも極めて厄介なことである。シリア、イラク、ヨルダンといった国民はそういったことを憂慮しているだろう。
 現代型のテロリズムとテロリスト集団はマスコミと政府を嘲笑出来る愉悦が第一目的であるし、かなりそれが実現されてしまっている。宗教的イデオロギー自体も正義論であるから正統のものであるなどとも勿論どんな種類のものでも言えないが、それにも増してそれを利用する悪辣なテロリスト集団の統制的原理も全く正当性を欠いている。だがこの種の集団の行動にはその様な訓戒自体が既に効力を発揮しない。
 脅迫の仕方から動画自体の発信の仕方に到る迄かなり支離滅裂であることからも、内部統制もだし、外部からのISIL自体の利用価値を巡るヒズボラやアルカイダ等の考え方もまちまちであり、又ISIL構成要員自体がばらばらである可能性も高い。となると益々集団全体の狂信的行動はエスカレートする可能性は高い。
 現代社会は体裁的には皆が平和に暮らす為に演技しているが、その演技自体が表層的なポーズであり思想ではないので、この様な悲惨な事件が起きても、我関せずとしている市民の方がずっと多いし、マスコミ自体それを利用して報道を活性化させているに過ぎない。政治自体も運用は各種利権団体の代弁機能を担っているに過ぎず、その事実を逃れようとする議員に対しては(例えば山本太郎の様な)熾烈な批判を集中させる。それは天皇陛下に手紙を渡す等の行為を稚拙なメッセージとして葬り去りながら、自分だけはそういう批判を浴びせかけられぬ様に用意周到に黙っているという選択肢を最もましなものだと全市民に心得させてしまう。
 マスメディアはウェブサイトが暗々裏に世界中で勝手に利用され秘密の会合その他全ての遣り取りをしていることを承知しながら、その全てを暴き立てること自体不可能であることも承知で、しかし時折余りにも見過ごせない事件のみ集中的に扱おうという態度を決め込んでいる。今回の事件に関しても責任問題等も大いに問われることだろう。しかし仮にそういったことを契機に政局が不安定化したとしても、それこそがISILの思う壺であり、彼等はしたり顔でそれを静観することだろう。 この問題に関してはことの成り行きを見守り再度取り扱うこともあるだろう。

Monday, November 3, 2014

第八十七章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑧ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

前回はIS(イスラム国)が現代文明の利器を最大限に利用して文明圏全体から恩恵を被りつつ、詰まり自由主義と資本主義の矛盾を叫びテロ行為をする事自体の矛盾が彼等の行為の正当性を疑わしいものにしているという結論だった。
尤も絶対王政時代でさえ王政が唯一正しいものであったかどうかに関して否であると考えていた人達は大勢居ただろう。だが彼等の全てが王政を倒そうと思っていた訳ではない。現代でもイスラム国的な挙に出る事を想念上では脳裏に介在させた事がある人は多いだろう。だが実際彼等のしてきている事はやはり国際的犯罪と言っていい。キリスト教自体はパリサイ人やユダヤ教律法学者達にとっては危険思想であったものの、犯罪とは違った。イエスのしている事は説諭であり、友に語り掛ける形式だったからだ。その点ではイスラム国のしている事はやはりテロ行為に拠ってプロパガンダ的に犯罪暴挙を正当化しようとするある種の逃げである。
しかし民主主義に全く欠点がないとは勿論言い切れない。それは何度か述べたが、大勢の意見だけが常に正しいという事になる、でも実際は少数派の意見の方が正しかったと後から振り返って言える事も多々ある。それだけでない。恐らく民主主義とは最も平均的で毒にも薬にもならない施策が最も法案として通過しやすいという事も言える。つまり秀逸な思想や発想が踏み躙られていくという事はあり得る。と言ってテロリズムに拠ってその否定的意図を示す事が正しいとは絶対に言えない。
しかし如何に民主主義であれ自由主義経済であれ、その弱点や欠点に対してどうすべきかの議論は絶えず自由にして、積極的に今の侭でいいのかという論議をする事を推し進める必要がある。そしてそれを余りしていない国家群では当然今回のイスラム国の様な事態がシリアやイラク等で起きたという事実を成程と思わせるものはある。それはアメリカ合衆国や日本の様な国でも民主主義自体の問題点をも(資本主義自体の問題点はそれなりに常に為されているという事は言えるが)検討するという機会をもっと増やすべきではないだろうか。
これはしかしかなり成果主義や数値主義と個性主義との間でも言える事だ。個性主義とか人格評定主義は人間性という基準が人それぞれ異なっていて、曖昧だという事に関しては数値評定主義の方がずっと公平だと言える。だが当然の事ながら試験の数値だけだとそれも又得意不得意の試験運の様なものも言える。それを無くす為に何度も試験をする事もやはり出来ない。此処で色々なディレンマは確かに浮上する。
つまり今現行のものとはそれ以外に取り敢えずいい方策が見出されていないからという消極的理由に拠るのだ。民主主義も自由主義もその標榜自体が一人歩きして何かそれ以外の事を考える事を全て封殺する様な不可侵対象化してしまえば、当然それも一つの認識論的、思想的テロリズムである。思想弾圧とは何を容認してそれ以外のものを否定しようが性質は同じである。民主主義は常に独裁主義(ファシズム)等に拠る社会全体の暴挙となっていったプロセスの後でそれを是正する意味合いでのみ正当とされる。
それは国家体制でも言える。共和制であれ立憲君主制であれ、それ等はそれ以前の形態での何等かの歴史的否定的結末自体に拠って反省的に齎されているに過ぎない。従ってそれを自由に論議する事だけは侵されてはならない。そういう風に自由に論議する事と、それでも尚実際には今の形態が正当とされているという事実に対し、それなりに(仮に批判精神を持とうが)遵守しようという判断とは当然両立し得る。
本シリーズの曖昧な同一化とは民主主義で自由主義体制で、資本主義経済を最も順当なものとするという欧米先進国モデルを正当としているという事自体への問題提起的意味合いがある。つまりそれ等が一体化されている事へ何の疑問も抱かないとしたなら、それはそれで意識の欠如である。つまり絶対君主制や王制自体の問題点からそれらが成立し、今も天皇制も残存していても、それは民族の統合の象徴という形で日本国憲法(現行憲法)では規定されている様に、民主主義や表現の自由が侵されるものではない。しかし同時に表現の自由とは何処迄適用されるべきなのか、とか実際に個人情報を侵害する様なタイプのヘイトスピーチや他者の表現の自由を阻止する様な表現は当然自由ではない様な意味で、常に自由とはどういう事であるかの論議も絶やすべきではないと言い得る。
尤もリアルスピーチとフィクション上での表現はそれなりに分ける必要があるし、リアルスピーチでもフィクションとは違う形で表現に自由は保証されるべきである。ケースバイケースの検証が常に要求される。今欧米先進国では確かに立憲君主制を採用している国々があるが、その事実が絶対王政へ逆戻りする事はそうないとも思われるが、それさえ国民全体の総意として正に逆説的に民主主義で決定されれば、それは実施されて然るべきだとも言えるのだ。その点ではブータンの様な君主制自体へ一切の疑問を国民が持たない(とされているが、実質的にそうであるかを私は確認し得ないので、一応それを正しいとして)という様なケースも当然あり得るので、一律的に正当なる国家形態を論う事は不可能である。
それは結局市民、住民が住んできた歴史、生活状況全てに関する固有の事情で常に判断されるべきだとだけ言える。(つづき)

Monday, October 13, 2014

第八十六章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑦ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

 現代社会は先進国と呼ばれる国家群が何等かの形で特権的地位を得ている事で、それ以外を発展途上国と呼ぶ事を慣例化させ、先進国がかつて絶対王制であった事から、その瓦解、革命に拠り、王政的問題点への反省的地平で先進国が民主主義を自由平等友愛的観点から採用していて、それがスタンダードでそれ以外の国家形態を少なくとも世界全体の平和和平安定維持路線の為の代表にはなり得ないものと認識し、世界中に認識させる事を慣例化させている。
 しかもロシア革命が農奴解放の為に履行され、ソヴィエト連邦として再生した後の共産主義の国家運営的な失敗を通して資本主義・自由主義こそがスタンダードであるとしてそれ以外の共産主義的国家運営と、政治体制を少なくともスタンダードではないものとして認識し、世界中に認識させる事で世界の取り敢えずの安定が図られている。
 その際に重要なのは資本主義・自由主義経済がスタンダードで、それを維持する為の方策として民主主義が一番妥当であり、何かそれ以外の方策を思いつく事自体が反安定志向と読み取られる事を暗に我々へ強制する形で国連をはじめとする世界基準全体が運用されている(国連では共産党一党独裁体制である中国のみ例外的扱いとなっている。ソ連は崩壊今ロシアとして再生されたロシアは欧米常任理事国<アメリカ、イギリス、フランス>を指針としてやがて対等となる事が暗に期待されている)。
 此処で重要な事は資本主義・自由主義といった体制自体が最も妥当な安定地点であるする事でそれを維持する為のやはり最も妥当な、それ以外これといった方策が今の所(か、或いはもう永遠にと思っている人達も大勢居るだろうが)民主主義以外では見出されないという認識の下で、この二つの体制が抱き合わせとなっているのが世界秩序安定志向的妥当性と言える。
 重要な事は我々が歴史自体を実験する事が出来ず、一度ある体制に持ち込めば、それ以外の体制自体が試みられる事を含め実験的では居られない、取り敢えず今敷いている体制は一つの実験で、やがてそれ以外の体制へ移行する事もあり得る等という悠長な事を言う暇が一切与えられず、施行されている体制自体が善で、それ以外は悪として認識される事こそが政治の歴史的必然なのだ。従って実験的であり得る事を証明するには現体制を崩壊させ(つまり流血を伴う革命を履行し)、然る後に別の新たな体制へ持ち込む以外に方策がないという事だ。今年は民主主義、来年は絶対王政、その翌年は原始共産制(貨幣経済でなく物々交換<バーター>交易を中心とした)を施行させ、その内のいずれが一番効果的であるかを実験する事等全く不可能だという事自体が歴史とは実験し得ないし、され得ないという事である。
 従って鎌倉幕府が一つの実験であったと仮に歴史家が言ったとしても、それはあくまで鎌倉時代の後八百年以上の年月がかかって過去を歴史として振り返る時のみ有効な言葉の使い方だと言えるのだ。
 従って現体制がその様に世界平和和平維持安定秩序が挿げ替えられぬ以上、誰しも運命論的には(実現可能性としてではなく、あくまで観念夢想的には)本当に資本主義・自由主義経済と民主主義が抱き合わせである事だけが正義で、それだけが最も全ての市民の幸福に繋がるとは言い切れないし、そうであると完全善として現在体制を肯定する事も出来ないのだが、では何かそれ以外の方策等可能であろうかという思考実験を経た後誰しもが、それ以外に取り敢えず(何か人類全体を生存の危機へ落とし込む様な事態にでも直面せぬ限り)誰しもが思いつく事等なかろう、どんな天才でもそれは不可能であろうという目測で(そういうものがあり得るのだと言い出せば、それは只観念的夢想と言うより妄想に過ぎまいと誰しもが思ってしまう)事態がずっと継続していると言えるのだ。
 現代社会がこの資本主義・自由主義経済社会と民主主義体制を曖昧に同一化させ一致させる事をスタンダードとする視点とは、明らかに理論物理学等の不確定性原理や、それ以降のファジー理論等の実用的な社会インフラ維持のテクノロジーがそれだけが取り敢えず自然なものと思わせてきていると言える。
 現代という時節とは、確定的な叙述、完全論理無矛盾的な真理の述定自体へリアリティを感じる事が困難な複雑な真理構造を直観的に全人類が把促している時代なのである。だからこそ共産主義経済の失敗に拠り、歴史的にその期間自体を後世の歴史家が実験だったとしようという事で、修正資本主義を導入する事で極端な資本主義経済での矛盾を表出させぬ方策を加味して取り敢えず資本主義は運営されてきている。しかし格差は依然として大きな問題であり、マネタリズム以降の金融資本主義がリーマンブラザース倒産に拠りリーマンショックを人類が経験すると、再び金融帝国主義化していかざるを得ない現代資本主義へ疑念を抱く観念は多くの世界市民に共有されている。しかしその共有は常に漠然とした不安にとどまっており、自分自身の生活が取り敢えずの安定を確保する事さえ出来れば、やはり現体制以外に理想的な形態等あり得ないのだと納得せざるを得ないシステムへ心自体を持っていく。
 不安的直観を増大させる事は鬱的心理であるか妄想以外にはないと割り切る事自体が現代人のある種の現体制への同意納得となっている。
 従ってイスラム国をはじめとするある種のテロリズムへ訴える政治行動自体は、そういった同意納得の欺瞞的ではあれ、それ以外に方策が無い事を納得する度に封印させていこうとする理性という立場の前では、確かに完全理性破綻と見做される。
 哲学者なら、その欺瞞性自体を論う事に意味を感じるが、哲学者のそういった誠実性は危険極まりないと一般社会自体が暗に規定している限り、専門哲学者はよりロジカルな精緻で微細な弁証法へと明け暮れ、専門哲学は益々唯論理実証性のゲームへと邁進し、しかし過去の哲学の持っていた哲学命題設定に付帯するモティヴェーション自体が形骸化させる形で残存している歪な数論理学に移行してしまった。
 しかしそうしなければ実際に哲学が行動思想への足掛かりになる危険性は既に第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦時に田辺元が経験していた事である。つまり哲学はやはり国家主義や国家覇権主義、帝国主義的他国の侵略に利用されやすいのである。それを承知している専門哲学は、そうならぬ為の予防措置を論理自体に内包させているから難解なのである。
 それを振り切って反社会的な破壊へ直結するものこそヘイトスピーチであるが、ヘイトスピーチとはそれに共感し得る観衆や聴衆が幻惑的に自己理性を消失するある種の陶酔へと自己欺瞞的に没入する、つまり歪に情感主義的な感性へ赴く以外には同調し得ない性質のものである。
 つまりだからこそある種の反国家主義的なイスラム国的テロ世界活動が、異様に理想超越主義的に輝いてある種のアウトロー的青年達の心を鷲掴みにするのだろうと思われる。それはヘイトスピーチの持つ民族アイデンティティ的な溜飲を下げさせ効果と違って、より強力にアナーキズム路線なのである。
 そのアナーキズムは資本主義・自由主義と民主主義の曖昧な同一化に同意納得している現代人、人類全体への極度の懐疑は被さっているのである。しかしそれはやはりもう一つの現代社会的人類同意納得的なリアルに対するヘイトスピーチでもあるのだ。それは残虐な一般市民への殺害とその映像公開とに拠って性格的に決定づけられているからだ。これは完全に現代のウェブサイトコミュニケーション時代のインフラやツールやディヴァイスを前提してしまっている。その点が徹底していない、つまり時代が産み落としてしまっている負の側面という生活を拭い去らす事自体が困難な程現代社会、現代人類的同意納得に加担し、依存してしまっているのだ。そんな事をするくらいならいっそアーミッシュの様に電気さえ使わないという生活を死守すべきである。しかし彼等はそういった時代を無視する勇気さえもない。寧ろグーグルやアップルやマイクロソフトを利用する事でしか成り立ちえない一種のゲームとなってしまっているのだ。
 この珍妙さ自体が彼等の行動を正当化させる事を困難とする第一理由である。
 次回は現代社会のインフラを全く消滅させて我々が生活していけるだろうかと言う思考実験を軸に考えていってみたい。

Friday, October 10, 2014

第八十五章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑥ 民主主義だけが絶対的正統とも正当とも言えないけれど

 我々は実は真に社会として理想形であるのはどんな形態であるかを判断する事が出来ない。何故なら日本であるなら明治期以降の天皇制と今の天皇制は全く性質が異なっている(とは言え精神的には今日本人は先祖返りしている部分はあるのだが)し、欧州諸国も絶対王政から離脱している(韓国もそうだし、中国もそうだ)し、要するに民主主義国家であるという体裁以外の体裁を経験していない我々がひょっとしたら絶対君主制的社会が悪とは決めつけられないし、それは全ての民族や国家で言える事なのだ。
 又民主主義が王政国家やそれ以外の君主制より誤りがない、間違いないとも言い切れない。要するに仮に民主主義国家で生活していても、それが一応他の体裁より適切であり妥当であると我々がしているに過ぎず、今ある形こそが理想であるとも必ずしも言い切れないのだ。例えば確かに民主主義国家では選挙等で全ての最終決裁が行われる。議員は全て選挙で選ばれる。しかし当然の事ながら選挙では民衆、つまり有権者全員がある間違った選択、誤った傾向へ政治全体を選挙結果に於いて当選した議員を国会や地方議会に送り出す事で赴かせてしまう事も稀ではないし、要するに衆愚的な誤りを犯してしまう危険性と常に隣り合わせである。
 民主主義では要するに昨今の裁判員制度と同じ様にあくまで素人の数の方が多いのだが、一部専門家だけに全てを任せておくのが危険であるという前提で設定されているので、何時も何時もだとは勿論言い切れない(意見としてのマジョリティが正しい場合の方が勿論多い事は多い)のだけれど、要するに衆愚的に誤った判断を有権者の大半がして、誤った政治とその政局的傾向を作り出してしまう事も大いにあり得るのだ。
 上記の事実では当然世界の趨勢であるところの民主主義自体への懐疑的眼差しが生じる事も必然となる。この事の昨今の顕著な傾向こそイスラム国であるとも言える。と言うのもそもそも民主主義とはあくまで欧米先進国を中心に発展してきているし、世界が世界標準だと信じて疑わない事の大半が絶対王政崩壊後の民主主義である事は間違いのない事実だからである。
 その点ではイスラム国の行動自体に否定的批判的な多くのイスラム教文化圏でも存在する事も当然であるが、そもそもイスラム教文化圏は、日本や韓国や中国が東南アジアとも欧米先進国とも又違う文化習慣を持っているが故に、異なった精神性を形式としての民主主義(中国は昨今動向が注視されるべき香港と、台湾では民主主義が実現しているけれど、中華人民共和国はそうではないけれど)に加味して考究していく必要性はあるのと同じ様に、全く仮に体裁として民主主義を採用していても、欧米スタンダードとは精神的文化基盤の異なる思考回路と理性主義を持っていると言っていい。となればそういった世界標準自体を多く欧米キリスト教文化圏で援用されてきている交易、貿易システム等も含めた世界的な正義決裁性自体への懐疑としてイスラム国の様なタイプの行動が誘発されても、その事自体は(仮にどんなにイスラム国行動が理不尽で否定すべきものであってさえ)必然的な展開だと考えてよい。
 勿論彼等の行動に拠って民主主義が崩壊し、世界中がイスラム国的思想で行動する様になるなどとは考え難い。だが同時にこういったイスラム国的行動自体は、仮にイスラム国が国際世論に拠って制圧され弱体化していってさえ、恐らく何等かの形で、それを制圧させようとする国際世論を嘲笑う如く、もぐら叩き的様相で維持されていくのではないかとは容易に予想され得る。 つまりどんなに世界的にスタンダード化された標準類型で世界が一定の安定を得てさえ、必ず其処から零れ落ちる類例も常に産出され得るからだ。
 その意味での香港ムーヴメント自体注視されていくべきだし、欧米民主主義国家群が中国に拠って統制される事を望む全人代面子の思想と、中国の経済力に依存せざるを得ない香港中小大企業の動向全体が、ある程度イスラム国的な思想を彼等以外に出現させるか否かを決定していくという風にも考えられる。
 イスラム国の首謀者達が一定程度の知性を持っているのなら、恐らくロシアとウクライナとの動乱以降の思想的展開、世論、或いは香港内部での中国拠りの思想と反体制的自由思想との成り行き自体を静観しているだろう。
 それらの事を勘案して我々がある程度結論してよいと思われる事とは、要するに我々は全ての妥当なる、と言うより妥協的安定維持の為には取り敢えず民主主義以外にいい方法を知らないからこそ、それを採用しているに過ぎない、勿論民主主義自体も発展進化可能性は充分秘めている、にも関わらずこのかなりの程度真っ当な決裁を可能とする制度さえ、必ず落ち度も齎していくだろうという目測自体が絶えず何等かの形で日本国内で、そして世界中に派生させていった赤軍派の様なタイプの反国家主義、反民主主義的集団(其処ではリンチの様な行動も正当化される。しかし例えばキューバ自体も現在でも革命分子に拠る革命成功の後衛として機能しているし、それは決定的に欧米先進諸国とは異なる政治的リアルがある)は何等かの形で勃興しつつ、やがて鎮圧され消滅するが、大勢の世界市民から忘れられた頃に再度勃興していくという経路を世界史が辿るであろう事も又容易に想像され予想され得る事である事も間違いない。
 取り敢えず現代時点ではイスラム国へ参加希望をしている(既に参加しているメンバーは日本からも居るだろうが)人達が何故そういう行動へ走るのかという部分での動機分析と共に、これからそういう考えへ赴きそうなタイプの市民へどういう啓蒙をするかという事以前的に、そういう感性や思想を封じ込めるのではなく、民主主義体制自体の問題点に関しては真摯に問い詰めていく理性と自由な論争を許す空気だけは封じ込めてはいけないとだけは言い得る処の事ではないだろうか?
付記 次回は民主主義と自由主義経済、資本主義経済との曖昧な融合、共同戦略に対する再検討と考究を主旨とする。

Saturday, April 5, 2014

第八十四章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑤ 仕事、職業という仮面が言語の仮面性を作る

 もし我々が我々の行為全部を自覚的で意識的であり、その意義を問う事を止める事に潔しとしないなら、我々はどんな行為もそうおいそれとは為し得ずに終わるだろう。生涯何もせず何をすべきかだけを考え続ける人生というものを想定しなければいけなくなる。
 しかし我々はそうしない。必ずと言っていい程何かする。仕事もそういったものの中の一つだし、余暇にする趣味も旅行もそうである。
 我々は端的に反省的存在者ではない。だからこそ時に反省を自省的に必要だと悟る。しかし全ての社会成員が好き勝手に振舞い一切の法も存在しないとしたら、恐らくするべき事を常に真剣に考えざるを得なくなるだろう。何故ならそういった社会とは法秩序もないが故に生存自体を自己に確保する事が困難となるからだ。しかし実際は社会とは法秩序に拠って運営されている。あらゆる商売に対して商法というものが規定的な尺度として存在し得るからこそ自由に誰しもが建前上では商売をする事が可能なのだ。そして何故その様に法秩序を我々が施行させてきたかと言うと、全てを自己決裁する困難さを全ての社会成員が同意しているからである。それは暗黙の同意であるし、それを誰しも当然だと思っている。それが文明社会というものだからだ。
 だからこそ我々はそういう社会総意としての法秩序と経済社会で気楽に自己行為を為せるとしたら、それは全行為の全次元での自己決裁ということを途方もなく困難で、辛い事であると知っているからだ、とも言える。そればかりか全行為自己決裁である社会ではそもそも義務も権利もない。それは少なくとも文明社会ではなく野生に近い。しかしそこ迄自己行為の利害や自己生命の生存を自己決裁で維持しなくてもいい様に社会が我々に権利と義務を与えているなら、その中で我々に拠って行われる行為は全て建前的に保証されることとなる。それが仕事であり、職務である。
 我々が他者にある部分では全面依存している事を自己に認められ得るのは自己も又誰か自分以外の他人が自分に依存している事を保証する事に同意しているからであり、その相互依存自体が分業という形で我々の自己存在を社会的に認知し得、認知させ得るのだ。
 従って社会内存在的な意味での仕事人、職業人である自己とはそれ自体相互容認的な仮面仮装だと言える。我々は他者から自己に対して必要以上の問い詰めをさせない代わりに自己からも他者に必要以上の詮索や干渉を行わない事が暗に全成員の総意である事に同意しているのである。それこそが社会人として生きるという事、生活するという事なのだ。
 しかし何故そう同意しているかと言うと、人生の全時間を我々自身が反省的自己として過ごすということが誰しもにとって耐えられないからである。
 我々が四六時中反省的自己であることを人生を全うするとしたなら、我々は先にも述べた様に何もおいそれとは行為し得ない。しかし我々はそうではない。義務と権利との引き換えに同意していればこそ気楽に電車にも乗るし、自販機でジュースを買いもする。 我々は絶えず何故我々が生きているのかとか、何故自分自身が生きているのかという問いだけに時間を割く事が耐え難いのだ。何故そうであるかと言えばそう自己へ問う事自体が、自己へ本音を吐き続けなければ問えない性質の事であると薄々知っているからである。
 本音だけを常に他者、他人に吐き続ける事程苦痛な事はない。それはそれを聴かされる他者にとって苦痛である以前にまず自分自身で耐え難いのである。それは反省的自己だけで人生の時間を費やす事を予告してしまう事を誰しも知っているからである。そしてそういった無為な結論の出ない自己内論争の果ての他者とのコミュニケーションが所詮そうする事で相互に詮索と干渉をし合う事を我々は熟知しているので、必然的に我々は相互に本音を言い合う事を回避させ合う為に仕事とか職業という分業社会的秩序の仮面を被るのである。
 仕事の履行とは端的に相互不干渉の同意の下に行われる仮面仮装の意味合いがあるのである。
 我々は実は自分自身を全人生の時間を反省的自己へと費やす事を困難と感じさせる事実として、自分自身の本音というものが一体どういうものであるかを意外とよくは知らないのである。
 何故なら一般的に本音とは概して自己自身の他者とは無縁のそれであるよりはずっと、他者との関わりに於ける他者から自分への、或いは自分から他者への希望である事が大半であるからである。純粋に他者との関わりを介在しない自己の本音という事が仮にあるとしても尚、その正体を突き止める事自体が又途方もない自省的時間を確保しなければいけないと我々は知ってもいるのだ。
 かくして我々はよくは分からない自己の本音を相互に示し合わない様に暗に画策しつつ、常に自覚的ではない自己本音というものを常に不問に付す形で仕事や職務という公務の履行へと意識を移行させつつ、その仕事や職務を邁進する事を相互に価値化する事で、本音の所在追求を回避しつつ、自己本質究明を相互に執行猶予し合っているのである。
 本章の結論的に言えば、我々は人生での全行為に対して非哲学者であればこそ、逆に時として反省的自己も必要だという形で哲学を一つの学的なツールとして価値化し得るのであり、全人生の時間を哲学的自己として過ごす者が仮に居たとしたら、その者は正真正銘の狂人である。
 我々は自己を他者に対して相互に狂人ではない旨を示す為に自己に対して仕事、職業という形での仮面を装着するのである。その事にどんなに天才的な哲学者や思想家でも例外ではない。

Wednesday, February 12, 2014

第八十三章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて④ 言語とは仮面なのだろうか?

 重要なことは、我々は本当に自分自身の気持ちというものを完全に把握しているのだろうか、ということである。自分の気持ちとは必ず自分自身をもう一人の自分の中の他人的な見方をする自分に拠って俯瞰されている。と言うより自分自身を観ようとするもう一人の(否自分に拠って観られる自分こそもう一人の自分かも知れないけれど)目とは必ず自分的ではないと自分で知っている自分の中に巣食わせているある種の他人である。ヘーゲルとかサルトル流に言えば対自ということなのだろうが、もっとそれより他者全般への虚栄心とかも含んだものも観方を我々は決して完全には捨てられないのだ。
 まず意志決定というものの中に完全に自分自身へ欺くことのないと言い切れるある種の誠実性があるのだろうか?
 態々決心しなければいけないことというのは、必ず何処か自然に余り深く考えずに実行して、しかもそのことで後々悔やむということのないこととは違う側面がある。
 つまり決心するとは自然なことではないのである。
 と言うことは意志決定というものの中に必ず自己欺瞞的部分があると考えることの方がそうでないより自然だということとなる。
 何かに関して話題にしていて、云々Aと云々Bとではどちらが好きですか?と聞かれてそのAとBとの分類の仕方自体に余りしっくりと行かないという気持ちがある場合、その質問に対して返答する場合は、明らかに強いて答えるのなら、という条件が付帯する。その場合その条件を敢えて言わずに返答する場合相手、つまり自分への質問者に対して余りその質問の正当性に関してきちんと相互承認を経ずに適当に(ネガティヴな意味のテキトー)返答するということを選択していることになる。
 その場合その返答は明らかに相手の質問の適切性を敢えて不問にして為されているので、必然的に相手の態度への無思慮的な迎合がある。要するに問いと返答の在り方への問いかけを省略していい加減にコミュニケーションをしている。と言うより全てのコミュニケーションを哲学的に精査してその適切性を抽出して会話することなど我々は出来はしないし、しはしない。
 と言うことはコミュニケーション自体にそういった全ての適切性を不問に付すという厳密にはその意義を問わないという性質がある、と考えることは自然である。
 コミュニケーション自体がそうであるなら、必然的に言語自体にもそういった余り深く一々為されている語彙選択とか文脈選択とかの正当性を問い詰めないという曖昧さを一定程度許容しようとする性質が備わっているのだ、と考えても強ち間違いと迄は言えないということにもなる。
 例えば「もし貴方が誰か一人だけしか助けられないとしたなら、貴方にとって一番愛する人ですよね、そうでしょう?」等と言う場合畳み掛けるその最後の付加疑問文は明らかに同意を得たいというある種の要請である。しかしそれを拒むことも返答者としては自由であるし、事実その自由を付与されていればこその質問の筈である。
 しかし我々の会話ではしばしばそういう風に完全に自由を相互に承認し合う形ではなく、物事の進行を会話上でも滞りなくさせたい気持ちから付加疑問文への返答を半強制的に補足することはある。
 勿論それを拒む自由も選択も常にあり得る。しかしどんな場合でも必ず完全自由を承認し合うことは出来ないと言っていい。それどころか我々は積極的に真実に濃密な対話を実現させる為に日頃から濃密にする必要のない多くの会話を滞りなく済ませる為に相互完全自由承認自体を回避しているのだ。
 これはある意味では言語行為の中に日常惰性的な意味での仮面装着を相互に認可し合っている証拠ではないだろうか?
 もし我々が全く仮面を必要としないのであれば、そもそも言語等を使用するということはあり得るだろうか?つまり相互完全自由承認の回避を促す選択肢を敢えて問う以前の習慣とするということの内に、我々は仮面を外す時、或いは外すべき時もあるが、それ以外では完全に仮面を脱ぎ捨てていてはいけない、或いはそうであることは適切ではないと考えている、或いはそういうものでいいと感じている、ということが言えるのではないか?
 つまり言語行為とはそもそも完全な誠実性だけを履行する為のツールなのではなく、幾分の欺瞞を差し挟みながら、欺瞞ではない仮面を全て脱ぎ捨てる時間をより特別の時間として認識しつつ、その時の為に、それ程ここぞという時ではない時間ではエネルギーを節約している、と言えるのである。
 しかし、となると言語自体は欺瞞である場合とそうでない場合もあり得るのだから、論理的には仮面をつけたり外したりという反復だということになる。そしてそれは言語自体が仮面であるとは言えないもっとメタレヴェルの行為だということとなる。
 しかし我々はどういう時にしっかりと仮面を被り、どういう時はそうではないかということを何か定式的に理解してそうしている訳ではない。となると我々は必ずしも理性的にある時は仮面を被り、別のある時には仮面を外すということをしているとは限らない(勿論そういう時もある)ということとなる。
 つまり仮面を理性的に装着する時と、そうでなく感覚的に察知して咄嗟にそういう風に身構える時と、感性的に装着しなければいけない場合さえ、それを外したくなる時もあるし、理性的に仮面を外すこともあるということとなる。それは意志決定とか決心に於いて自然にそうするのではないということと関係があるものと思われる。そしてそれは事実その様に行われている、と私は考えるのである。次回はそのことから考えてみる。(つづき)

Wednesday, January 22, 2014

第八十三章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて③ ハニートラップとリベンジポルノ、或いはマスコミの精神分析

 ウェブサイト上で個人的な恨みをはらす為に嫌がらせ(harassment)をする最も現代で問題となっているのがリベンジポルノと呼ばれる行為である。しかしこれはある部分ではウェブサイト上で広まれば社会問題となる、つまり不適切な行為であると見做されることを承知で広めようとするので、その本質はマスコミの似非的な大衆の好奇心に漬け込むストラテジーと相同のものである、と言うよりマスコミのえげつない仕方を個人で応用して行なうのはこのリベンジポルノだ、と言える。
 対しもっと国家機密、組織の機密の漏洩、あらゆる集団秩序を乱す機密事項の漏洩を旨とするスパイによるなりすましで最も昨今世界的に問題となってきたものがハニートラップである。要するに色仕掛けに拠る機密事項の入手とその漏洩である。
 ハニートラップはあくまで公的な社会秩序、集団内モラルの破壊を目的としているという意味で敵対する組織・集団・国家等の陣営に拠って巧みに送り込まれた色仕掛けのスリーパーに拠る行為であるのに対し、リベンジポルノは私的な怨恨を公的場であるところのウェブサイト上に流布させる悪辣な行為である。
 しかしハニートラップがなされたと見做され報道されるや、その罠に引っ掛かった政治家であれ経営者であれ、その無防備さを一斉に揶揄され批判され、リーダーとしての器を疑われ辞任に迄追い込まれることも多々あることを考慮すれば、それも又マスコミが漬け込む特権的権力者の汚点追求という観点から、やはりこれも仕掛ける側からすればマスコミのえげつなさを応用していると言い得る。
 性行為はあらゆる行為の中で最も無防備な態勢(体勢)を行為者へ強いる。それは睡眠に次ぐ防備を不可能とされる行為だ。其の点ではそういった人間の動物的側面を利用しようとすることは、利用される側の羞恥や、そういった羞恥的場面を知られたくはないという社会的顔(体面)の保持という虚栄心の軛を弄り回そうとする悪意に彩られている。そして利用しようとする者が利用される者が決して知られたくはない側面を暴露しようとするということ自体に、利用者が逆にそうされたら、最も体面に傷をつけられると知っている、という意味に於いて、最も卑劣且つ用意周到である。
 その罠に引っ掛かった者は既に利用しようとした者の悪意を責めるということをする余裕を持てないからである。本来なら名誉毀損で訴えることも可能であるにも関わらず、知られたくはないことを知られてしまったことの穴埋めに何とか体面をそれ以前の状態へ戻そうとする必要性から、犯罪者の側への非難と責任追求と罪状を証明する心の余裕を一挙に奪うからだ。
 其の点ではマスコミ自体が既に一世紀以上もの長きに渡って決して報道して騒動としてしまったこと自体へ責任を問われない特権的パワーとなっている事実を差し置いて、この二つの性的な罠を論じることは出来ない。確かに非力な市民の個人のプライヴァシーを侵害した場合マスコミは陳謝し、場合に拠ってはきちんと賠償をする。しかしそれは権力者、政治家や大企業の経営者へは当て嵌らない。その区別こそが社会全体、国家全体がマスコミへ暗黙に容認している特権である。
 ある国家、組織、法人全体へ不利益となる<知られてはまずい情報>をリークする為に色仕掛けするハニートラップも、個人情報として知られては人間的人格から派生する羞恥を隠しきれない苦悩を催す映像をリークするリベンジポルノも、マスコミの特権の乱用、一切責任を問われないことで高を括っている惰性的無反省的態度を、充分応用し戦略的に活用しているという意味でマスコミ戦略の敵対陣営、個人に拠る模倣性が高い。
 となるとハニートラップとリベンジポルノを精神分析することはマスコミをリークされた情報であれば何でも報じてしまうという野放図を放置した侭である我々自身のマスコミへの接し方を精神分析することでもあり、そうすることがマスコミに帰属する成員達の精神分析をすることと同じだ、と言える。
 マスコミは社会全体が自分達を報道する機関として必要だと認識しているということへの認知を前提にして取材報道を行なう。それはニュースその他の諸々の情報公開を我々自身が求めるからだ。我々はどんな些細なことでも公的なことで隠されていると知りたくなるという好奇心がある。当然機密事項として保全されるべき事項もあると弁えていても、いざその実態を知らせるぞとマスコミに唆されれば耳を塞ごうとはしない。これがマスコミの成員達に固有の特権意識を持たせている。
 そのマスコミの成員たるジャーナリストの<求められるから報じる>という意識を国家全体の利益、組織全体の利益として政治経済上の政策政局スパイ、産業スパイとして色仕掛けでオフレコ事項をスパイする成員も、個人の怨恨を晴らす為に仕掛けるウェブサイト上のリークをする個人も応用活用している。マスコミという存在、ジャーナリズムという存在が地球上に人類に存在しなかったならハニートラップもリベンジポルノも存在し得ないだろう。
 と言うことは組織や集団自体がマスコミと直接関係のない業務を執行する場合でも、個人が必ずしもマスコミ、ジャーナリズム活動自体に精通していず関心も然程ない場合でも、その応用活用をしやすい、ということ自体が、組織・集団・個人とはその数的なメジャーマイナーに関わらず既存の好奇心を満たす機能を模倣する快楽をその自己利益の保持と維持の為に必然的に持っている、と捉えてよいこととなる。
 これは集団も個人も所詮その利益追求の為には悪をも履行するものだ、という性悪的な人間の性質を示している様に思われる。
 ある知られたくはないことは隠す側からすれば自己防衛的に隠す必要性があるが、暴こうとする側からすればその者が隠そうとすればする程知りたくなるというえげつない好奇心を持つ、ということだ。
 それは既にウェブサイトでは止めることの出来ないポルノサイト、アダルトネット配信が存在することと、それを見たくなることは誰しもあり、それを止めることが出来ないということとが対となって既にウェブサイト上で消去することが不可能となっていることとも大いに関係する。個人が検閲すること自体を違法ダウンロードの様に違法化する必要性は確かにあるかも知れないが、事実上その好奇心に拠ってダウンロードすることを歯止めすることは不可能である。アップロード自体も、それをすることに拠って罪に問われても、することを阻止することも不可能である。罪に問われても尚ハッキングを止めない犯罪者が次から次へと登場することと、それは本質的には同じである。
 となるとハニートラップもリベンジポルノも既にそれを完全に排除し、消滅させることは不可能である、という前提で対処していくしかない、ということとなる。
 これらのえげつないリークを閲覧することを押し留めさせるものとは、唯一そういったえげつない好奇心よりもっと有益な情報摂取や学習というものがあるのだ、という至極真っ当なモラルだけである。そしてそれはえげつなく閲覧する全ネットユーザーも勿論承知していることである。
 恐らくウェブサイトが完全に世界へ張り巡らされた時点で既に殺人が地球上、人類史上で完全に撲滅されることがない様な意味で、これらのリークも消滅することはないということだけは決定されていたのだ。そしてそれを未然に防止するには、無防備な状況へと追い込まれる性行為自体を、安易に誘いに乗らない様に個人的に心掛ける以外の注意事項等ありはしないのだ、ということである。
 そしてマスコミのえげつなさを応用活用させることを阻止することは、結局個人の油断と隙をつかれぬ注意とモラル的な抑制力だけなのである。
 しかしドーピングがどんどん進化している様に拳銃がどんどん進化している様に、恐らく今後ハニートラップもリベンジポルノもどんどん進化していって、人を信用するということは善であるという観念さえ罠を仕掛けられた個人に疑いを抱かせる様な性悪説的心的作用を助長する様な社会状況も、きっと時と場合に拠っては必ず未来でも到来することだろう。その時我々は性行為という最も個人にとって無防備な行為をも利用する悪は滅びない、しかしそれを自分自身が如何に敵対する陣営の個人に対しても、離別して恨みを持つかつてのパートナーに対しても行なうことだけは自制するという決意だけがその都度そのえげつない行為を反復させることを辛うじて阻止することくらいなら出来るであろう。

Saturday, November 23, 2013

第八十二章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて② 権力保持と一般市民の無意識の生贄見物願望に応えること

 権力という仮面は全てを建前だけで行動するその風情自体への第三者的評定の結集された場であり、建前性自体が本音を集約していると全ての権力の周囲のチェック機関(権力者の取り巻きからマスコミ報道機関に拠って形成されているそれはそれで特権的コミュニティ)に拠って前提され、暗黙の内に権力者の本音を読み取ってやろうと虎視眈々と構えている。従って巧みな為政者とは即ち本音をそう容易に読み取られないということに尽きる。又仮に本音を読み取られても、その本音の様相に怨念的に強烈な意志を読み取られない性格であることがその本音を許容する条件である。
 従って邪心的、毀誉褒貶的に浅ましい戦略を読み取られると、その為政者は突き上げられる。その突き上げは当初は周囲のチェック機関に拠って公表され、次第にマスコミの報道に拠って一般市民に迄周知の事実とされていく。その段になると、一般市民全体が生贄見物をする心理状態を選択する。建前的態度の中に読み取れる本音が邪心とか迎合的な心理が含有されていればいる程、一般市民はそれを看過出来ないという使命感に駆られ、それを代弁する議会に拠って大勢の為政者達は失脚していった。
 本音的感情は誰しも持っているということは誰しもにとっても周知なものとされ、その巧妙なる隠蔽自体が白々しくなく、その仮面ゲーム性の巧みな遂行者こそが歓迎される為政者であり、従ってその者はそれ程変革的な何も履行し得ない。
 にも関わらず人気のある為政者こそが長期政権を保持し得、建前的態度が良好であることの大勢の市民の同意こそが政治を動かす。それは企業の経営者でも事情は同じである。尤も経営者は政治で言えば各政党の指導者なのであり、国家全体の代弁的代表者とは様相が違うとは言い得る。しかし最高権力者(日本で言えば総理大臣、アメリカで言えば大統領)は生贄的に為難い事情がどの国にもあり、不満は政治的混乱へと直結する。そういった混乱さえ生じない場合は社会全体が経済活動的にも政策的理念に関しても停滞するという様相だけが支配する(日本で言えば民主党政権時代に言えることだ)。
 仮面自体が余りにも白々しくその裏では全く異なった本音を保持しているのではないかという直観を抱かしめるある種の不器用な取り繕いこそが為政者へ自らの墓穴を掘らせる。仮面であることは重々承知で、しかしその仮面を脱ぎ捨てたいという欲求を巧く示すもう一つのもっと薄い、しかしそれこそが絶対的に最低限容認し得る仮面という評定を一般市民へ勝ち取る本音ゲームで、それくらいのことなら許せるという人畜無害性を示し得る為政者(例えば小泉純一郎)こそが、その本音と仮面の白々しさのなさに安心を得るという処が一般市民にはあって、そうでない仮面の白々しさと本音の仮面とのギャップを読み取られると忽ち、その為政者は為政責任を問われその糾弾姿勢自体を加速化させるマスコミは、実は暗に一般市民は野次馬的に公開処刑見物を望む心理を擽る様に無意識に機能している。そしてその機能の保持の信念こそが社会正義というやはりもう一つの仮面でもある欺瞞である。
 要するに仮面ゲームと建前表示ゲームとは、ある意味では人畜無害の本音を読み取る為の本音ゲームでもあるのだ。それに不器用な為政者は仮にどんなに内心では純粋な滅私奉公の感情があっても、一切無視され責任というベースでの行動評定だけに量られる、というかなり熾烈な運命が全ての為政者へ突き付けられているが、その運命をノンシャランに笑い飛ばすある部分では鈍感で、ある部分ではウェットな滅私奉公的な純粋さに内心で拘らないクールな認識だけが長期政権と為政者資格として取り敢えず合格ラインだと見倣す一般市民の無意識の生贄見物願望を代弁する機能としてのマスコミはチェック機関の中でも最も一般市民の無意識の残酷さをやはり無意識に熟知していると言ってよい。
 つまり建前表示ゲームでは本音とのギャップを読み取られる語りと所作の不自然さを告発する生贄ゲームを一般市民が個人性とは離れて集団ゲームへ勤しむ自己欺瞞的な本音隠蔽習慣の中で、巧みに泳ぎ切れる権力者、為政者とはギャップを読み取られ難い所作と語りの自然さであり、そのギャップの内容を読取られ難さにこそ、我々が賞賛迄はしないが、取り敢えずこの為政者には信任しておいてよい、という判断を持たせるのだ。
 その意味では本音読み取りゲームでもある建前表示ゲームであるところの政治とは、権力保持というものが、その名目的な厳粛さを信任される者が負担を持たないという嘘でもいいから態度を得たいという信任する側の一般市民の責任転嫁なのであり、それはそうすることで仮に負担を感じる本音的素振りを示す(カメラの前では特に)為政者には不適任という烙印を容易に押させる生贄見物的な野次馬心理こそが一般市民の集団ゲーム的自己欺瞞であるという性悪性を熟知するプレイヤーのみが全うし得る仮面ゲームだ、と言えるだろう。
 権力への信任とは所作と語りの自然さの中で臆病ではない、つまり誠実に自己の弱点を晒さぬ巧みな自己欺瞞(為政者としての厳粛な責任に相応しい)の表示履行者へのみ生贄見物へと移行することはないだろう、という安心を得る一般市民の無責任な責任転嫁のシステムに拠って命脈を維持されている、と言えるのである。

Thursday, October 24, 2013

第八十一章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて①

 現代人は少なくとも仕事ではプライヴァシーも素の自分も持てない。要するに個人主義とか個人の自由とか権利とは、あくまでそれを犠牲にしている人達にのみ特権的に付与されるものであり、それは仕事の形態に関わらずそうである。
 ここにものの売り買いに直接関わる人が居る。商社とかギャラリーとかでディーラーとして仕事をする人達は皆あらゆる思想信条の人達と直に接するので、その都度向こうに合わせて会話をして、それぞれの異なった立場を理解しなければならず、その際には自分自身がどういう思想信条であるかは常に二の次にしておかなければいけない。
 又ここで一日中株式とか情報をキャッチすることをして、ネット上だけで全てのコミュニケーションを行うとしよう。すると本当に直に人と会って示す様なメッセージとは24時間無縁で過ごす。この場合でも一切の本音をリア充的な他人に示すことは出来ない。
 共に共通することは、人生の大半の時間を仮面をつけて過ごすということだ。
 そういう社会に生きていて、そういう時代が当たり前であることをまず認めて生活する前段階では、そこに自己という、自分自身という(それ自体も何か固有の幻想に拠って価値的に観念上与えられているだけかも知れない)固有の輝きを失うという形でのみリアルな自分自身の生活を認識していくと、次第に脱力感が充満してきて、一体こういう生活で自分は生涯の大半の時間を過ごすことはいいことなのか、という風に疑問符を抱く様になる。
 しかしそういう風に絶えず真実は今の生活実態とは全く離れた何処か別の場所にあるのだ、と認識すること、そういう風に自分自身の生活習慣を反省的に捉える事自体が、そういう固有の鬱的な不満を生むと薄々誰しも気づいているので、現代人はそういう風に反省的視点で全てを認識することを積極的に避けている、とも言える。
 自分自身の人生自体に一切疑問を抱かぬ様にすることで、却って鬱的でも能天気でもない至極普通の理性を保てるのだ、と信じている人の方が現代社会では多い。第一我々は既に古代にも中世にも近世にも近代にも生活することなど出来ないのだから。
 だから要するに本当の自分とか、真実の人生とかそういう観念自体を、そちらの方こそ幻想として風雪の流布化されていることなのだ、と自己納得しているのが我々の生き方である。
 それは仮面を仮面としてではなく、どの他者にもその固有の他者へ合わせて異なった仮面を着け替えること自体を罪悪視しないという決意だけが至極真っ当な正統な信条であると認識し、決め込まずには現代社会を生き抜くことは出来ない。
 都市空間を移動する際の歩行マナーから公共機関でお金を支払ったり、よく分からないことを部署毎に他人へ質問したりすることに至る迄都市空間全体の秩序を乱さぬマナーの在り方を心得ていくことは、ある部分では地方共同体の人的ネットでさえ、そういった都市空間に固有の機械的な連動を避けて新鮮な空気を胸一杯に吸い込むことを相互に暗黙に確約し合っているという認識に於いてのみ理解出来る、ということだ。
 つまり全ての人生の時間で一人で過ごす時間でもネット上で送受信しているのなら、擬似的に世界全体へ演技して自分を作っている様に、都市空間で無数の他者と直にすれ違っても、2ちゃんねるのスレッドを横目で観てネットサーフィンすることと本質的には変わらず、要するに擬似自分を示す事自体が本当の自分だと認めなくてはならない。
 他者毎に違う仮面を付け替えて態度を替えることだけが特別の権力を持っているわけではない普通の市民の採れる態度であり、それこそが本当の素の自分なのだ。つまり凄く普遍的な仮面も、凄く信じられる素の自分というものも共に幻想でしかないと心得ることだけが現代社会で理性を保つことの出来る指針である、と言ってもよい。
 しかし権力も特権も実はその様相の違いでしかなく、それ自体が権力という仮面であり、その仮面をつけた演技的時間を過ごしているだけなのが権力者である、と言い得るのだが、それは真に権力を保持するとはどういうことか、という問いかけも必要だろう。
 次回は現代社会で権力保持とはどう行われるのか、という視点から考えよう。  
 付記 統一された自己の人格とか揺るぎない信条思想というものの方を寧ろ価値認識論が付与する幻想である、と現代人に気づかせた意味でウェブサイト利用が現代人に齎した精神的インパクトは測り知れない。(Michael Kawaguchi)

Tuesday, April 16, 2013

第八十章 国家主義、領土、面子と自然的隣人関係の乖離/後者を成立させぬものこそ<政治的行動とマスコミの野心=行為のプロパガンダ的性格>その一/記述と構えを超えて①

 国家主義はGNPをGDPにしたところで、或いは更にそれをCDIにしてみたところで一切その性格を変えることはない。要するにそれは国家が一纏まりでなければいけないという一種の面子を各国民が持つ様に強いる幻想以外ではないからだ。
 中央集権的国家主義的理念とは、要するに実利的な各市民の幸福よりも国家全体の面子を重んじる。それはそうだからこそ理念なのである。理念とは管理された秩序のことである。
 だから所詮GDPをGDIと言い換えてみたところで、管理された秩序にだけ執心していればそれでよいという理念が最優先される限りで、それは政治的行動を良しとする管理者側にとって都合のよい論理でしかない。
 愛国心とか郷土愛とはそういった国家主義的管理的側面とは本来別個のものの筈である。しかしマスコミはそうは報じない。事実連日デモが拡大していっても、日中間の連携的なビジネスパートナーシップへと邁進しているビジネスパーソンの方が暴動化しつつあるデモ参加者よりも人員数は多い筈だ。しかし一旦デモが拡大化されるとそちらだけを報道し、日夜日中の貿易に奔走する日本人と中国人の協力的行動は一切報道しないのだ。だから却って火に油を注ぐ結果となっていってしまう。
 国家主義的な管理的理念とは個人の幸福の実感とはかけ離れている。それらは常に論じられるものではない(国民性とか国民感情とか国民の意識は当然の事として論議から常に外される)から却って残される課題として個人につきつけられる。マスコミはマスコミで幸福感に就いて個人にとってそれが最大の価値であろうとも、それを報道することが出来ない。しかし悪辣なのは視聴率で稼ごうとするマスコミに拠るテレビ報道ではその報道されるものとしてチョイスされた事実自体が巨大な幻想を生むという悪質なプロパガンダ性をマスコミ自体がメタ認知し、自省しないという所にある。
 そればかりではない。報道される管理者自身がマスコミのこの無策を利用している(無意識の内に)という事なのだ。日本の管理職層がマスコミ批判をするという事を聴いた事がない。マスコミ批判をするのは主要役職からリタイアした年配者くらいである。この野放図なマスコミの報道の垂れ流しに対する管理者層の無批判性がマスコミ自身を鈍感な垂れ流し報道機関化させている。マスコミ管理職と一般企業管理職が同窓性に於いて無意識に結託して自由な意見を汲み上げる事を澱ませているというのが日本社会の実態ではないだろうか?
 管理者とは常に不穏な空気を呼び覚ますことだけを回避させたいのだ。だからこそある高校の校長が自殺した高校生の両親に対して、不慮の事故死に公ではしてくれないかと打診したりする(兵庫県川西市)のだ。この様な死者の側の感情を敢えて伏そうとする請願をすること自体をさして悪いことではないと思わせてしまうことこそ、管理者固有のエゴイズム以外ではない。
 この高校管理職のエゴイズムと国家指導者層の管理責任に於ける国家帰属意識を最優先させる(かの如く振舞わねば右翼から睨まれることを察知してポーズとして示す)こととは同一構造をしている。
 国家主義とは言ってみれば、全体主義の代弁によって助長されるのである。それが個人の主張であれマスコミの集団的触れ込みであれ、個人の幸福感情より優先されることでヒステリー化する。かつて一時期日本国内を騒がした中国人による日本企業や店舗の襲撃はそのいい例であり、国家自体も国家の側へ不満分子の心理を発火させることを恐れて、日本と関わりある全施設襲撃に関する厳正たる処罰を回避して黙認していた。言わばそれによってガス抜きをして、対国家的不満をこれ以上醸成されない様に祈っているのだ。
 その点では習近平国家主席の今後の手腕に期待したいところであるが、中国は本質的に近代国家としての法整備もなされていないという部分で我々は常に大国の相応しい社会秩序という最大の精神的インフラ拡充に期する所がある(近代刑法的な秩序として執行猶予制度自体が無い事が死刑を迅速に執行する事で法廷被告の人権を無視する結果となっている)。
 確かに現況ではアベノミクスも巧く行っている。しかし安倍晋三総理の真意が仮に国家主義的な再興にあるのだとしたら、ある部分では憲法九十六条改正は急務だとしても、憲法九条の改正は一定の慎重さを要するとは言える。勿論九条は改正すべきであるが、その文言をより注意して書き換える必要性がある。一旦これを文言化してしまうと再度改正する事が極めて困難となる。息の長い国民全体の議論を要する。これは景気対策としての金融緩和とは訳が違うのである。
 経済政策も中央管理主義的国家観とは容易に切り離せない要素同士の施策問題である。東国原氏の国会答弁での中央集権にしなくても地域主権にする事だけで国民意識は維持出来るという考えは正しい。未だに中央管理主義的発想の閣僚も居る様だが、徐々に日本維新の会、みんなの党等に拠る国会論戦と政策立案とに拠って中央管理主義的発想から市民自身の自主管理的社会へと移行していく事が待ち望まれている。
 その為にも次回はより抽象的でもある自由に就いてもう一度考えていく必要があるだろう。
 付記 この文章を書き始めた頃よりもいじめ自殺問題が大きく報じられなくなった。これはアベノミクス効果であろう。しかし事の色々な本質が景気回復と共に見えなくなっていってしまうのは危険である。マスコミ報道もそれを反省する暇を無くす程の北朝鮮の動向ではあるが、こういう時節故に寧ろ冷静に社会インフラとして肥大化しているマスコミと一般企業管理者層の無意識的精神的談合体質を分析すべきではないだろうか?

Friday, July 20, 2012

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十九章 相互協力精神と信頼感の欠如が齎す国民の間に蔓延している戦略的懐疑主義と上から目線的態度Ⅰ それが結局いじめを黙殺していってしまう

 ここ数ヶ月マスコミはいじめの問題にかかりきりだったと言える。昨年10月飛び降り自殺をした13才の中学生の自殺が、いじめによるものであるという形で当初は刑事事件としては扱われなかったが、警察が介入して捜査することとなり、俄かに全国的規模で語られる様になった。
 警察はかなり前から目をつけていたのだろうが、本格的に捜査に入ったのは最近のことである。
 しかしことの本質は警察がこういうケースで介入することの是非ではない。何故いじめが勃発するのか、ということである。
 ある意味ではいじめはどの時代でも起こり得る事態である。しかし現代社会でのいじめは大人社会でさえ陰湿なものなっていて、なかなかそれを表立って防止することを困難にしている。つまりいじめの本質は大人社会の側にあり、その大人による大人へのいじめの構造が雛形として青少年の社会に迄蔓延している、と考えることが自然である。
 その様な大人社会のいじめの本質とは端的に誰しもが認める様な実力とか人格によって何らかのコミュニティの代表者となる人物への敬意を大半の成員が認めていた時代では既に現代社会はないということに帰着する。
 勿論過去の時代でも誰しもが認めるという形を取っていても、内心では反発心を抱く者も大勢居たであろう。しかし少なくともその憤懣やるかたなさそれ自体を表面化させる手段がかつての社会ではなかった。それが却って表面的であるだけでも(それさえ現代社会にはない)社会に統一感を齎していた。つまりどんなタイプの成功者もエリートもそれなりに誰しもが敬意を抱ける存在であり、そのこと自体に異を唱えるということを大半の市民は節制していたのである。
 しかし現代社会はそうではない。まずどんな些細な鬱憤とか不満でもツイッターとか2ちゃんねる等で即座に記すことが可能である。従ってじっと堪えるという心を余り持つ必要性を現代人は感じられなくなっているのである。何でそんなことを耐えるの?とそう考えてしまうことが現代人に固有の心理なのである。
 かつて生まれもって盲目として生まれてきた人達は男であるなら按摩の仕事、女であれば音楽(地方を巡る門付けの様な仕事)しかなかった。だから篠田正浩監督の名作「はなれ瞽女おりん」でも門付けの仕事にさせてあげようと考えていた盲目の少女とその祖母が、それを断られ悲観して二人して投身自殺するシーンが描かれているが、現代社会ではかなりの障害と危険性とは隣り合わせであっても盲人自身が自殺する理由はない。能力さえあれば(これがかなり問題だけれど)健常者同様高いレヴェルの教育を受けることも出来る。そういった意味では点字だけでなくユニヴァーサルデザインによって着々と作り変えられてきつつある都市空間一つとっても身体障害者が自殺する理由は少なくなっている(全くなくなっているわけではないが)。
 だから却って現代社会では個々が他者へ慈悲心とか思い遣りを持つことが特別な感情ということになりやすいのだ。つまりそれは極めて当事者の身近に居てそういった運命的な過酷さを充分理解している人達だけが持ち得る気持ちということになりやすいのだ。
 だからいじめの本質とは端的に「自分に関係のないことには関わりたくはない」という心理が基本にあるのである。つまり現代社会では大半の市民がどのコミュニティも個別的オタク的な寄り合い所帯と化していて、そこに集まる誰しもが端的に誰しもが上へ立つことを回避したい願望、つまり上から目線的態度を取らないという気持ちで寄り集まっているのである。
 しかしそこにそういった黙約を即座に理解出来ない、少し態度的に「とろい」奴が紛れ込む。すると即座にそのコミュニティに不協和音が奏でられた気分を与えてしまうのだ。
 そういった鈍重な者は上から目線を取ろうとしているのではない。しかしそういう風に誤解を受けやすいのだ。何故なら彼等は鈍重であればこそどのコミュニティにも存在する自ら上に立っているのではないが、皆から自然と共感を得、人望を獲得している者が居て、自然と統率的立場にあるとすれば、彼等から庇護の下で特別待遇される可能性を他の上から目線を取らない黙約を即座に理解している(彼等は上から目線を取らない態度であるが故に統率者達に敬意を抱いている)全ての「とろくない」成員達が、「とろい」奴に固有の無神経な越権を嗅ぎ取ってしまうからである。
 現代社会では従ってかつての大企業の社内のデスクが部長以下大部屋で階級毎に全て見渡されるタイプの部屋の間取りにはなっておらず、端的に専門的業務をそれぞれがしやすい仕方に間仕切られているのである。
 この全体的統率の社内的システムの変化を齎したものこそ、紛れもなくウェブサイト上のコミュニケーションである。そしてこれを前時代に戻すことは出来ない。これは益々社会全体が個別分業化され、オタク化された専門業務に勤しむ形で機能している以上、青年期に総合的な視野を獲得させることを困難にしている。その証拠に現代青年達はウェブサイト自体が存在しなかった時代の青年達が持っていた総合能力には欠如する成員が多いことだけは確かである(ここで言う総合能力は自分とは異なったタイプや資質の者を理解する能力と言い換えてもいい)。
 現代青年達は最初から極めて専門特化されたミニサイズのコミュニティに順応する様に予めオタク化された戦略を取らざるを得ないのだ。従って彼等は大半が分析力は優れているが、総合力には乏しいケースも多々見受けられる。これも一重に大人社会で既に相互協力精神を欠如させているということと、教育自体が最初から専門特化された戦略に対応する様に機能していて、情操教育が完全に疎かになってしまっている、ということにも原因がある。偏差値教育万能主義が行き着いた先が現代日本社会である。
 勿論かつての社会でもいじめも四面楚歌もあった。しかしそういったことへの辛さそれ自体を訴える手段はウェブサイト自体がなかったのであれ、あり得なかった。すると必然的にいじめにも各自自主規制が執り行われていた(その代わり真に絶望する人達も少ないながら存在した)。しかし現代では既に周囲から鈍重には見られたくはないという自己防衛心を誰しもが黙約的に持ち得るが故に、いじめに逢いたくはないという心理がそれほど大きな突外れた態度ではない他者の些細な逸脱を見逃さずにいて、それを告発することも容易であり、だからこそwikpediaでも誹謗中傷された人物への書き込みを禁止する措置が頻繁になされる。又誹謗中傷の仕方も極めて巧妙化してきており、中にはかなりえげつない差別的発言であるにも関わらず極めて魅力的且つ扇動的効力を持つ書き込みも存在するのだ。
 従ってそれら全ての書き込みを放逐することは既に出来ないとも言えるが、自主規制的にモラル論的にも最初にデマを流した者が罰せられる様に、安易な書き込みをして甚大な影響力を持ってしまった場合にはそれなりの責任を取る様な各自の態度(責任を取らせる様な強制的ではない形での)が現代人全般に求められていると言える。
 今回は本シリーズ初回ということで、青少年世代のいじめの原因に何があるかを箇条書きにして纏めておこう。
★青少年の社会は大人社会の雛形化してしまっている。従って大人社会でいじめられるタイプの成員を同世代や多少の年齢の差を越えて容易に見出していってしまう。そしてその集団心理の特徴は「自分だけはいじめられる立場になりたくはない」という自己防衛的心理に基づいている。
★上の心理の顕著な例がいじめ映像をウェブサイト上で投稿して大勢の閲覧者を獲得することで溜飲を下げるという行為に求めることも可能である。
★多くのいじめる立場にある者の心理は上から目線を取る者をのみ誰しもが容易に上から目線で摘発することを権利として授与されているという意識を黙約的に保持していて、それを即座に理解出来ない成員に対してその者から上から目線をされることを未然に防止する目論見によって皆でその者を爪弾きにしていくことを決意させる。
★(これは次回大人社会に見られるいじめを問題化する時にもっと掘り下げるが)いじめの本質とは上から目線に対する極度の恐怖にあり、それをされるかも知れないと思う他者へ未然に自己防衛、集団防衛的に発揮される過剰防衛である。

Monday, March 12, 2012

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十八章 日本人を精神分析する/与野党攻防に見られる失言揚げ足取りゲームと政治の芸能性

 今から僅か数年前の小泉内閣政権時代(2001~2007)にわれわれ日本人はある意味では高らかにゼロサムゲーム化されていく社会を歓迎していた。それはある意味では葉境期に差し掛かった日本人にとっての一時の幻想だっただろう。しかし僅かその二年後にはリーマンショックに見舞われたのだった。にも関らず個人内部では個人の私利私欲に付き従う市民の像も浮かび上がってくる。不用意に愛国心を持てなどと言っているのではない。だから最低限の冷静なる政治経済の動きへの分析だけは必要ではないだろうか?寧ろ自分が生活を成立させる土地と国家への愛は戦中に持たれた愛国心などという安物のそれとは比べ様もないくらいにもっと切実な何かであるべきではないだろうか?
 資本主義マネーゲームは何も小泉竹中路線が最初に打ち出したことではなく、小泉時代より13年遡るリクルート事件に象徴される時代、つまりバブルに大いに発揮されていたことだった。
 日本は日本史的に考えると、平城京制定以前からその制定と崩壊迄と、平安時代、そして鎌倉時代、そして戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代、そして明治維新、そして日清日露戦争の勝利から敗戦迄、そして戦後民主主義時代と大きく現代から顧みて七つに分けられるものと思われる(取り敢えずそうしておこう)。
 すると日本人は欧米列強へと肩を並べることだけに執心してきた時代が明治維新以降だとすると、あたかも日本人の近代的意識とか精神的レヴェルは明治以降確立されて来た様に思われるが、実際はそうではない。寧ろ精神的には江戸時代に確立されてきたことに一番拠っている。
 去年の東日本大震災で多くの市民が感じ取ったことは、地元(津波被災地から福島第一原発に迄)に救援に来るレスキュー隊とか瓦礫処理に関わる人員、或いはヴォランティアで活躍する芸能人達個人の力に比べて如何に政治自体が政局的シーソーゲームだけに打ち興じているという政治自体の持つ虚栄性であった。
 だから逆に国政からは離れ都知事に納まった石原都知事が「天罰だ」と言ったかと思えば、次は「今東京のレストランなどで都民の話すのを聴いていると、一つも東北のことを話題になどしていない。それだけ今の日本人は我欲に侵されているのだ」と言い出す始末であるが、それを比較的微笑ましく聴いてしまっている国民の像も仄浮かぶ。
 天罰発言では今の日本人に対して、それ見たことかという文脈で述べた者が、次の発言機会ではその被災地への復興に手を貸さぬ地方自治体の長、首長への批判、その首長をして首を縦に降らせない各地方自治体の市区町村民全体への批判となっている。支離滅裂な論点はそれが国政ではなくより市区町村民にとって身近な地方自治であるからこそ許されると国民が踏んでいるのだ。だから河村名古屋市長が南京大虐殺の殺戮した中国人の数が現実味がないという発言も撤回する気などないと市長が言っても許される範疇のこととなる。
 しかし同じことを大臣などが国政に於いて述べたなら、即日辞任の憂き目に遭うことだろう。
 日本人は異様に失言を許さないという形で美学的に政治を虚構空間的なものにしておきたいのである。特に国政に対してはそうである。しかしそれはかなりマスコミ、ジャーナリズムがその決済に関して発動してきた歴史も浮かび上がってくる。
 失言は古くは「馬鹿野郎」と言って解散した吉田茂元総理の時代から宇野宗佑元総理による「三本指」を経て森元総理による「神の国発言」などを経過して数限りなく登場しては消えて行った。
 比較的最近の事例から言えば鉢呂吉雄経産大臣(野田内閣)による「死の町」発言である。しかしよく考えてみると、それは事実ではなかっただろうか?或いはそれより少し前の松本龍復興大臣(菅内閣)による宮城県知事に対する暴言などが挙げられる。
 実はそれもこれも全て日本の場合失言は、その失言を何時するかしないかと心待ちにしているVIPに四六時中付き纏っているジャーナリズムの回し者によってその都度都合いい様にでっちあげられてきたのだ、と言える。しかし極めて問題なこととは、その失言をした人の技量、実績その他、要するに「それを言っても許せる者かどうかを」見極めて批判している、ということである。当然のことながら鉢呂氏も松本氏もその器ではないとマスコミも国民も判断した。
 しかし石原都知事の失言に対しては「あの人はああいうことは何時ものことだから、まあ気にしない様にしておこう」という形で遣り過されてきたのだ。それはある部分では今人気絶頂にある橋下大阪市長に対してもそうである。小泉元総理にしてもそうであった。「そんなこと迄私にわかる筈ないじゃないですか」とか「何かもっと大きな総理という職責の上では、それくらいの公約が守られなかったとしても大したことではない」とか「格差とはそんなに悪いことじゃない」など全ての発言は異様なる小泉フィーヴァによって全てまあ気にするほどのことではない、という形で遣り過ごされていたのである。
 要するに日本人による同じ失言でも人を見て、あの人なら許されるけど、別のあの人に対してなら許せないというその場その時での丼勘定はまさに江戸期庶民に形作られてきた精神構造の反復である。
 江戸期とは日本全国的規模に桜(染井吉野)が江戸から普及される過程であったと同時に、江戸前の東言葉、関東地方方言が、重要な上方言葉や京言葉を残存させつつも次第に文法の根幹にまでグローバルスタンダードとして定着させてきた時代であった。そしてそれは同時に芸能的な政治の在り方とか文化を全国的規模で、つまり地方毎の差異以上に全国的スタンダードで染め上げていく過程でもあったのだ。
 言語学者にして日本言語史研究家でとりわけ近代日本語確立の研究で知られる杉本つとむの「東京語の歴史」で著者は「常に文化は芸能を発展の先払いとしておくりだすものなのである。言葉の芸術よりも行動、振舞いのそれが時代を先取りするのは、古今東西の通則である。」という言葉は言い得て妙である。
 何故なら日本では明らかに歌舞伎役者に対して「よおっ、~!」と掛け声をかけるに値する花形役者とそうではない役者をきちんと差別する様に失言に対してもそういう風にきちんと差別してきたのだから。
 柳田稔元法務大臣(菅内閣)の地元での演説内容は許し難いものだった。それは柳沢氏が小泉氏や石原氏ほどの逸材ではなかったからである。同じことは久間章生初代防衛大臣の「あの時は原爆は仕方なかった」発言でも適用された。鴻池祥肇特命担当大臣(小泉内閣)の長崎男子誘拐殺人事件の両親に対する「市中引き回し」発言でも言えたし、柳澤伯夫厚生労働大臣の女性への「子供を産む機械」発言でも言えた。
 私が問題にしたいのは、相手がかなり遣り手である存在に対しては、それが如何に非常識且つ許し難い発言であってさえ、それを見逃すという日本人の丼勘定的な迎合的体質と思考回路なのである。
 これは少なくとも近代社会以降の自由平等の原理には著しく背く。
 ある意味では日本人は歌舞伎の舞台を観る様な具合で、ある花柄役者に対しては大いなる失言でさえ愛嬌ある癖として済ませ、そこ迄認可されていない存在に対してはほんの些細なミスをも許さないのだ。これを前近代的シャーマニズムの思考回路と言って何処が間違っているだろうか?
 昨今の橋下氏による学者その他の人達への発言は著しく主観的であるし、震災直後の天罰発言は少なくとも昨今の田中直樹防衛大臣の失態よりも見過ごせないものであった。性質的にはそうであるのに相手が花形役者、石原慎太郎であるという理由だけで見過ごしてきたのである。
 それどころか松本龍氏や久間章生氏の発言や態度は決して褒められたものではないが、その性質上分析しても石原都知事の失言ほどの大きさもなかったと言える。柳澤氏の発言でさえ、勿論決して巧い表現ではないし、極めて不注意ではあるけれど許される範囲内ではなかっただろうか(尤も結局安倍内閣が短期で終了したので、このことで氏が久間氏や松本氏の様に断罪されることはなく済んだのだが)。増してや中山成彬国土交通大臣(麻生内閣、何と四日だけの執務であった。この短さは鉢呂大臣の九日を上回る)による成田空港の拡張問題、観光振興に関する単一民族そして日教組が教育のガンという3つの失言を行なったことなどは取るに足らないどころか、寧ろ正論ではなかっただろうか?
 要するに日本人は江戸期に確立された様々な大衆文化芸能としての歌舞伎、文楽、落語の乗りで政治自体を一つの高みの見物を出来る芸能として取り扱ってきたのである。だからこそそれが鑑賞者として見応えがあれば、それを例えば小泉劇場などと命名してきたのである。
 それは実は深層構造では延々繰り返されてきているのだ。だから失言に対する批判に日本では公正さというものが微塵もない。要するに大衆という実は訳が分からず実は正体不明なものをあたかも確固として存在し得るものとしてその大衆を操作する図式を戦略として持ってきたマスコミ、ジャーナリズムの論調をあたかもそれをお笑い番組「笑点」を鑑賞するかの如くよいしょよいしょと神輿を担ぐことを躊躇うことなくしてきたのだから。
 日本人は何処かで政治や経済を高みの見物で静観しているという風情がある。それはしかし既得権益受領者による態度である。それを打破する勢いを仮に橋下大阪市長に感じ取ることで他方では更なる権益者に対して批判の矛先を向けられるということで溜飲を下げているのだ。
 この高みの見物、外野席から野次だけ飛ばすかの如く世論全体を静観して、些細な失言に対してだけ目くじらを立てて、それを批判するマスコミやジャーナリズム自体への批判をすることなく、その浅はかな戦略に乗せられて喜んで後押しして政権交代もする様に促したのが今の日本人である。それはある部分では何時迄経っても親方日の丸の迎合意識から脱皮出来ない幼稚な心理に裏付けられていると言っても過言ではないのだ。
 確かに東日本大震災では大きな傷を国民にも残した。それはしかしこれ迄我々が政権選択などでしてきた無責任なマスコミ、ジャーナリズム自体がでっち上げてきた幻覚的な似非世論にその都度振り回されてきたつけでもあるのだ。
 確かに政治はある程度メタ言語的営みでなければ公的機能としてはその力量を発揮し得ない。しかしそれはメタ言語的であるはあるものの、そのメタ言語の性質を精緻に一般国民や市民が分析していく必要があるのである。江戸期に花咲いた歌舞伎や文楽や落語の様に後腐れのない娯楽では政治経済はあり得ないのだから。そしてだからこそ「あの人は心底悪い人ではないからああいった失言は許してあげよう」とか「あの人は大した業績も知名度もないのに、あんなことを言って許せない」という安易な丼勘定的査定に対する自己批判をすることを忘れないということでもある。
 今一度真剣に真に国政、地方自治に求められているものとは何かということを考える時、かつてケネディが言った様に国民、市民一人一人が自分自身の非力ではあるものの何らかの発動し得るパワーとは何なのかという問いかけから国政から地方自治迄分析していくことが求められているのではないか?それは安易な失言に対する政局的利用という形でのマスコミやジャーナリズムが正義とでっち上げる作為をさえ冷静に分析していく心の余裕が国民市民一人一人に求められている、ということではないだろうか?
 次回は情報収集の不備が実は政府自体にあるのではなく、国民の意識にあるのではないかという論点で論じるつもりである。

Sunday, November 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十五章 意味の理由・イコンとしての記憶Part3 友情の起源

 ある意味に対して語彙に当てられている音に対してどうにもしようのないしっくりこなさを感じることは誰しもある。しかしそれはさして重要なことではないとしっくりこなさを感じる当人が判断して言わないでいることが大半である。それを言い出すと笑われてしまうのではないかという懸念がそうさせているとも言える。第一語感というものは意味ほど重要ではなく、それは意味として伝わればいいという形で従属的に考えられているからである。
 しかしそれは理性主義的見解であり、感性的なこととは、ある意味では聞き心地、語り心地の問題だから精神衛生的なことである。それは個人的に皆趣味などをすることによって、社会上での規約との間でのずれの感じを補正している。つまり身体習慣的にもそうであるが、心の居心地感に関してもそうである。
 このプライヴェートなしっくりこなさとは別の語彙に於いては、何て巧くフィットしているのだろうという感激とも組みになっている。そういった言葉の感性を巡る自己内での納得と非納得は、ある部分では親しくなっていく人間関係でのみ告白し得ることである。親しくなると公の席では言うことを憚られることさえ告白したくなる。それを押しとどめているものこそ社会通念だったり、良識であったりするが、意外とこれが学問を狭くしてきている元凶でもあるのだ。
 しかし或いはこうも言えるのではないか。親しくなってきたから公では言えないことでも言いたくなるというのは、実はそもそも親しくなっていく間柄とは、そういった公では言い難いことを言い合えるのではないかという直観的目測に於いてこそ成立し得るのだ、と。
 あるどうしても社会生活上必要な語彙というものはある。それは意味的に必要なのだ。しかしその語彙の語感自体へのしっくりくる感じは人それぞれ違う。だからある語彙の意味に対する音のしっくりこなさに対する共感こそが、我々がAというしっくりこなさに対しては「A」という友人を、Bというしっくりこなさに対しては「B」という友人を我々は必要としているのだ、とも言い得るのではないか。
 従って我々の個人的友人関係とはこの様に前回のA、B、Cとの間の統一基準以前のAにとってのB、Cとの間での異なった接し、異なった基準への潜在的な追慕こそが、知人(それは社会生活上で必要不可欠な意味での公的なこととしてのである)以外の個人的友人関係にも反映していると言える。会社の同僚で妙に気が合う相手とそうではない相手というものはあって、それはそこ迄親しくする必要を相互に感じていないから音感とか語感に就いて迄語り合うことなく遣り過ごされて来ている。しかし会社の同僚とかとは全く無縁の趣味の集いで出来た友人との間で一緒に旅などをすると日頃から感じ取ってきている自らの社会規約との齟齬感、それは語彙の音感、語感によっても今迄本論に於いて象徴されてきたが、それを語り合うことを容易にするし、そういった旅と友情の重なった経験が、会社で今迄一度も一緒に飲みに行ったことがなかったが一度くらいなら一緒に仕事を引けてから飲みに行ってもいいと思わせる。そして行くとしよう。すると意外なことに普段から感じている社会規約との間のしっくりこなさ感に於いて共感し合えるということは言える。
 従って最初は社会成員A、B、Cとは相互にAの前なら言いやすいこと、聞きやすいことというのはある。それは社会的ロールとか立場に沿った個々人間での差異を我々が皆認識しているからだ。勿論ロールだけでなく相手の性格もある。その言いやすさ、聞きやすさ、語り合いやすさ自体が既にある部分ではある語彙の音感とか語感に対する感性の一致への可能性を何処かで信じて語り合っているとも言える。勿論全てが一致する他者など居はしない。しかし何処か一点ある他者と一致しているということだけが交友関係とか社会関係を維持していく理由となっている。だからそれは公的人脈であれ、余暇での趣味の集いでの私的な人脈であれ、何処かで人類が言語を共有していったプロセスでA、B、Cに対して個々異なったこととして抱いた一致点と不一致点という原初的な共感と反感、違和感とが追慕となって我々の全ての個人的人脈構成を成立させている、と考えることは自然である。
 つまり友情の起源とは人類による原初的なA、B、Cという間で共有され得る規約としての統一基準が齎されていく段で、全成員がそれぞれ我慢していた部分での潜在的な不平が一致することによって齎されている、それは要するに公的なこととに対して私的なことを皆内心では持っているということに対する相互に確認し合えるというところから発していると言えるのだ。
 自分の中でしっくりこなさとは公的な場では公言し難いことである。そしてそれは誰にとってもそうである。それを知って居ればこそ我々は個人的交流に於いては非公的なることをクローズアップさせるのだ。それはある部分皆誰しもが完全なる社会的逸脱者、アウトローにはなれないが、本来自己欲求や本能的な社会との間のずれの感覚を野放図に押し広げれば必ずそうなっていくに違いない像自体への回帰的無意識の願望であるとも言える。友情とはその願望を相互に内心では秘めているということ自体への、つまり社会への完全同化し得なさに対するコンプレックスであり、社会規約から解放されたいという無意識の願望、或いは時には親しくなった相手には直に、つまり意識的に告げられるアウトロー願望(それを小出しにしているのが趣味であり、旅行である)の確認が出来るということを前提としている様に思われる。
 従って友情とは社会規約的、公的なスタンダードからすれば必ず何処か一点では(どんなに生真面目な交流であってさえ)社会規約、社会スタンダード遵守性への負の(ネガティヴな)側面での共感が支えていると言うことが出来る。

Friday, October 28, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十四章 意味の理由・イコンとしての記憶Part2

 前回は主に意味的なものとして設定されているデファクトスタンダードであるところの音的な連なりに対して個人内部で抱かれるしっくりこなさに就いて触れた。それは人それぞれ違う。しかし全てに対して我々は齟齬だけを抱いているわけではない。当然これはいける、これはかなりしっくりくるということがあるからこそ、社会成員として我々はまがりなりにも生活を維持出来ているわけである。もし全てに対してしっくりこないのであれば、それは全く言語的に母国語を理解出来ていないか、或いは完全に自閉的性格であり、それは先天的な脳障害であるか、後天的にそういったタイプの何らかの障害を持つに至ったと考える方が自然である。勿論そういう状態になったからと言って何か人間理性の最低限の何かに抵触するかということは全く関係ないと言える。理性とかヒューマニティといったことはそういった社会生活に支障を来たす意思疎通的部分とは別の位相の問題である。
 しっくりくると感じることのまず基本的なこととは共感出来るということである。それは個人から発せられる言葉やその音でもそうだし、集団レヴェルで今よく青年世代の人達が使う語彙に対してとか、世間一般、国家的規模で使用され定着しつつある語彙に対してとかでもそうである。勿論個々にはかつてタモリがテレビ番組で「等身大という言葉とは一体何ですか?」とかなり批判的に捉えていたし、私もある部分では同意出来るが、そういった感覚的にどうしても共鳴出来ないという語彙、言葉の使用され方というものはあるだろう。しかしそういった齟齬感を持っている誰しもが、同時に「それなら分かる」と思える多数の語彙、意味や音を共有している筈なのである。そうでなければ、つまり全てが齟齬しか齎さないのであれば、そもそも何かに対してしっくりこないという感覚は生じようもないからである。
 我々の生活にとってかなり幼少の頃から一種の社会に於ける最大の前提として叩き込まれ、そのこと自体にかなり早い時期から「それは何故だろう?」と疑問を持つこと自体を封じされるものこそ、貨幣経済の日常的な習慣、何かものを買う時必ずお金を払うということである。恐らく日常的社会生活上での慣習であり習慣であることのお金を払ってものを買うという以上のミーム化が徹底されたものはない。
 確かに言葉も極めて重要である。しかしもし只生存していくということだけを考えるなら、ものを買う時にお金を払って物品を自分の所有物にするということだけ覚えておけば、それ以外の語彙を一切知らなくても何とか生活だけはしていける。これは日本人が外国旅行をした時に感じてきていることである筈である。
 寧ろ個々の言葉とか音とかの全ては現代社会では既にこの貨幣経済的社会運営というものを前提して、その秩序内で社会的であったり反社会的であったりしながら、言葉の体系から言葉の体系や社会秩序自体への抵抗とか修正主義的見解とかが発せられる様にシステム化されている、と言っても過言ではない。
 音も意味もミームであるが、それらの意味や音感性を育むものとは社会生活上での基本的なインフラであり、社会秩序が前提して、それを疑問に思うことを封じる慣習がほぼ既に身体的な条件反射にまで還元される様な何らかのものであるとするなら、それは所有という概念、それは住んでいる住居から何から何迄全て個々人が個人としてのアイデンティティを社会生活の上で保証される個人による所有そのものである。あらゆる愛とか正義とか倫理とかいって抽象的概念でさえ、それらは所詮そういった所有ということ、或いは家族関係に於ける親族とか親等とかいった血族関係から血族と他人との関係といったヒューマンリレーションの取り決めとか通念を支える個人という概念そのものが所有という形へと還元される。身体的に朝起きて銀行のATMに直行するとか、夕方には買い物に行くとかいった全てがこの社会秩序に起因している。そういった生活の上で初めて愛とか正義とか倫理といった概念が考える余裕(語の側から言えば考えられる余裕)を与えられている。

 さてここで思考実験をしてみよう。
 我々は一体お金というものを一切使わないで生活出来るのか、ということである。例えばまずお金を使わずに生活する方法を考えてみよう。食料ということを考えると当然自給自足生活をしなければいけないから都市部ではなく農村部で生活する必要がある。只その土地を所有するまでは確かにお金を払ってそこに住まなければいけないから最初にはお金が要る。しかし国民の義務は納税であるから、それを逃れるには一切人跡未踏の地にその活路を見出さなければいけない。衣類や食器を洗うのは全て自然の湧き水とか川によってである。食料は農村開拓することは許されない(未踏地でさえ<静岡県の樹海とか長野県の山岳地帯等>国家か地方自治体所有だから)から採集生活、それ以外は猪の狩猟生活ということが考えられよう。
 勿論電気を使用することも出来ないから夜は明かりを自分で点す必要があり、薪、蝋などを巧く自然から調達しなければいけない。衛生管理的にも家屋をしかも遠くから双眼鏡で国家や地方自治体職員から発見されない様な穴居生活か、掘っ立て小屋を建てるにせよ、森で木々に囲まれた場所の選択も必要となるが故に、北海道などでも都合のいい場所はあるだろうが、こういった生活では癌にはなり難いだろうが北海道では凍傷にならない様に気遣う必要があるし、伝染病などにも気を遣う必要がある。衣類調達も狩猟によって鹿や猪から、そしてそれを縫う為の針等も石器などで作る必要がある。
 これは既に縄文以前的生活である。ここでは同じ様に完全自給生活者たる他者との邂逅なしにはかなり困難である。勿論不可能ではないが、そういった他者を必要とする様に知恵が働く。そしてバーターをして相互の利害を調整していく必要も出て来る。そこでそういった対人関係が形成されるに従って次第に貨幣に類するものを自分達で工夫して作ることとなっていくのだ。勿論現在の日本では一人でならそういったことは可能だし、同じスタイルを脱社会、脱国家的に実践している者同士で結束することが出来ないということを前提したならば、である。もし本当にそういった自給自足者が各地に点在していて、何処かで接点を持ったとして(勿論ウェブサイトなどは利用出来ないから全て徒歩で相互に出くわすしかない)そういった工夫をして全国各地でネット化されていく間には文明社会の人達と邂逅することもあろうし、そこで衝突も生じる。それなしにネット化することは不可能である。全く死ぬ迄文明的進化も持たずに反復生活を一人で行い場合のみかなり可能である、と言える。当然結婚をすることも困難であろう。しかし同じ生活スタイルをものともしない配偶者が居れば不可能ではない。しかしそうやって非文明生活を維持する成員が増えれば増えるほど文明生活者との邂逅機会も増加する。そして衝突も避け得ない。
 人間は脳内思考によって先程述べた様に、文明的な進化を目指す様になっている。従って完全自然バーターはそうする相手が少人数、せめて三人迄であり、しかし三人という数は順列組み合わせでA:B、A:C、B:Cという風に三つの関係を生じさせる。そこで統一基準を必要とする意欲が各成員に生じさせる。何故ならAがBに対してとCに対して同じものを調達するのに異なった量で相手と交渉するなら贔屓ということが生じてしまうが故だ。それはBとCとの邂逅が果たされることによって発覚する。従って最初から三人が同時に知遇を得るのではければ統一基準は最初からは作られ得ない。しかし同時にこの三人の間での関係で二他者の間に対他的な振る舞い、態度、待遇に差異を設けることに、実は資本主義の全ての仕組みが発生する根拠があるのだ。当然BとCのAに齎す物品の質は等量でも異なるし、付随する相手から得るサーヴィス、心づけ的なことも違おう。そこで当然Aは両者の間に差別化された対応をする。それは当然B:C、B:Aでも言えるし、C:A、A:Bでも言える。しかしそこでこの三者が全て相見えることによって、相互利害調整は可能であるし、それに気づく成員は三人の内に一人は居よう。BはCとも知り合いであるが、BのAからの待遇が、Cより劣化したものであることの不平をBがCとAとで同席した時に訴えることによって三者による智恵の出し合いから統一規準案が齎される。そこから当然貨幣的意味合いの経済規準勘案が齎される可能性は極めて大き。人間はまず思考する存在者なのである。

 恐らく言葉の意味や音といったこと、それらの対応などもこの三者の関係に帰するとも言える。AがBとCとで対話する時に使用する語彙が違うことはあり得る。しかしBとCも相互にそうであれば、いずれ三者は全員相互に認知された関係となり、そこで初めて統一基準が設けられることとなる。その必要性はいずれ誰からは齎され、それが言語の発生根拠ではないかとも推察される。
 AはBとCと対話する時一々異なった語彙を相互に使う。しかしそれは三人の内は容易い。それが人員数が増加すれば、せめて三人単位で固まった時の統一基準を必要とする。それが幾つか発生すると、異なった統一基準帰属成員間で一人くらい重複帰属者も登場しよう。するとそこで必ず異なった統一基準の間を取り持つ翻訳者を登場させる。その翻訳者がより進化した統一基準を考案し、この二つの言語統一基準が一個の新しい言語を産出することとなる。こういった連鎖によって国家統一的なことがなされていくというプロセスを我々は容易に想像し得る。
 たまたま文明社会から離反して生活する完全自給自足者による生活への思考実験が、その実現に伴う生活的利便性への追求と進化的プロセスが国家起源的謎の解明に役立ち得る可能性を私は今回示したのだ。
 次回はでは統一基準に対してしっくりこなさ感がある場合どうなるか、ということに焦点化して考えてみたい。

Monday, October 10, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十三章 意味の理由・イコンとしての記憶

 意味の習得は追憶の彼方に後退しているが、誰しもそれを何とか記憶させた経緯がある。しかし全ての意味を我々はすんなりと受け入れたわけではなく、すんなりと理解出来たものからそうではないものまで幅があり、それは個人毎に違おう。それは自転車に乗れる様になった習得期間が短いか長いかの差と共に必ず個人内部ではある。しかしそれは通常公には晒されぬ様にしている。
 だから逆に本当は~と言うのに、何故か自分ではしっくりこないと感じる言葉はあるだろう。

 例えば英語でarrogantを意味する「傲慢な」という語に対して何故か自分ではしっくり来ないでいる者Aがいるとしよう。その者は「ごうまん」という響きがその意味とそぐわない様に思えるのだ。だからある日彼は友人に「ずうでん」と言いたいと言い出すとしよう。「頭殿」とでも振っておこう。彼はその後そのことを告げた友人の前では「ずうでん」とずっと言い続ける。
 しかしそれはあくまで彼にとってのみで、Aから「ずうでん」と言うことを告げられたDにとってやはり友人であるBは「俺ならいっそ、そんな言い方せずに、「らろべえ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。「裸露兵衛」とでもしておこう。そしてAとBの言ったことを更にDはCにも告げるとCは「俺なら「ばるぼ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。取り敢えず「馬留簿」とでもしておこう。
 要するにDは彼の友人A、B、C全てからそれぞれ違う言葉を「傲慢」に当てて、それを一々記憶していなければいけない。

 しかしよく考えてみよう。
 この「傲慢<ごうまん>」という語の意味に固有の音とは、それを習得した後に「そういう感じがする」という感慨を持つのであり、それ以前的なものではない。勿論「傲慢」という語を習得する以前に上から目線で生意気で不遜な態度の者へ何らかの傲慢として意味される感情をある者に抱くということは我々にはあり得る。しかしその時我々はいきなり、そういう態度を「すうでん」と呼ぼうとは思わない。他の何か既に知っている言葉を使って、「でかい態度だからあの人は嫌い」とか言う。
 もし誰しもが勝手にその感情を「ごうまん」と呼ぶことを覚えずに、何か自分勝手に今述べてきた様に「すうでん」「らろべえ」「ばるぼ」などと言い始めたなら、寧ろそれらが纏まって一つの意味であるという了解さえ持てなくなるだろう。つまり実は「ごうまん」という音を通した「傲慢」が存在し得るからこそ、そこから「俺なら「ずうでん」と言いたい」という固有の「ごうまん」という音に対するしっくりこなさが感じられるのであり、その逆ではないということだ。
 第一全ての人が自分勝手に「ずうでん」とか「らろべえ」とか「ばるぼ」などと言い出していたとしたなら、たまたま私達にとって「ごうまん」が生意気でエゴイスティックで不遜な態度であるという意味であるという規約の下で、しかし自分にとってはその音は何故かしっくりこないという固有のずれの感覚、固有のその語を覚えた時の追憶そのものを成立させないままでいることだろう。
 皆が勝手にそれこそ聖書中最大級に説得力を持つ「バベルの塔」建造を巡る神の怒りによって言葉が通じなくなる人々の様に、「ずうでん」「らろべえ」「ばるぼ」etcを言い始めたら、そもそもその元の「傲慢」を意味する意味も定まらず、それらを一々全部友人毎に違う語彙を当てていることさえ認知されずに、全てを各成員毎に違うこととして記憶せねばならず、次第にある語彙の音と意味がしっくりこないという感じ、或いは最初に「傲慢」という語を音と共に記憶した時にあった固有の追憶も成立しないままでいることだろう。つまり記憶する事項が多くなればなるほどある語彙を巡る固有の感情は成立し難くなるからだ。
 
 ある意味ではある感情に対する意味づけが、ある意味につきある音一つにだけ対応するという規約そのものが、それを習得する我々にある語とその音との間に介在してくる固有の感性を育んでいるのだ。この固有の感性は例えば自転車の例で言えば、ある個人にとって乗りやすい様に改良されることはあり得るとしても概ね自転車とはどういうタイプのものでも、やはり同じ自転車である必要があるのと同じである。例えば一人一人の能力や適性に応じてそれぞれ違う乗り物を用意しなければいけないのなら、そもそも自転車が乗れる様になった時、習得に時間がかかったとか然程時間がかからなかったなどの固有の思い出は成立し得ないだろう。
 これは各自使用しているパソコンが違う機種であっても、それらは同じパソコンである限り概ね同じ機能の仕方によって起動しているということと全く同じである。

 或いはこの問題を語彙とか利用されるツールという位相から、もっと記憶の問題そのものへと即応させて、イコンから考えてみることにしよう。
 日本人にとって神社仏閣が存在するのは日常的に見慣れたことであるが、神社仏閣にある賽銭箱、神社の鳥居、狛犬(シーサー)などは概ね同じ形でなければいけない。鳥居がそれぞれ違う形であったなら、そこが神社であるということを了解することが困難になる。或いはそもそもそこが神社であるという意識でそれらを我々が作っていないということを意味してしまおう。
 勿論人それぞれその形が好きであるとか然程ではないということはあり得よう。しかし単純で誰からも記憶されやすい形であるなら、それらは概ね誰にとっても然程違いはない感情を喚起しよう。要は一人一人顔が違う様に、仮に神社の鳥居の形が極めて細かい部分まで規定されていたなら、その形状に対する固有の感情が各自異なった形で立ち現れよう。
 これは語彙の意味と音の対応というデファクトスタンダードの下にその習得を巡る固有の出来事が記憶されることと似ている。神社が誰にとっても即座に「どの神社」でも同じ様な鳥居があることによって、神社に初めて行った時などの思い出が形成されるのだ。もし鳥居というものの基本形状が四つの直線、人がその間を潜り抜けられる様に縦に長い間の開いた二つの直線に、上方に二本の横の直線を交差させ、上の直線を縦の二本の直線を飛び出させないという規約があればこそ何処の神社でもそれは鳥居となるが、もしそれがまちまちであり、一切そういうことの規約が与えられていなければ、我々はそれを只の神社の入り口を示す門の代わりとしか認識し得なくなろう。或いはそもそもそれを神社であるという認識さえ与えられなくなるだろう。建物のデザインだけは全国で統一されているなら未だしも、それさえ統一されていなければ(第一鳥居の形状が統一されていなければ、そこが神社であると認識されずに終わろうから、中に建てられた建物が神社固有のものであるという規約さえ成立し難くなる可能性が大である)神社であるという認識は決して生じない。
 ある場所が神社である為には、その鳥居の形から本殿とかそういう建物の機能が全国的規模で統一されていなければいけないのだ。このことは実に興味深い。何故なら神社とは宗教心によって人々が集う場所であり、それは心の問題だから、人それぞれ心の在り方は違おう。しかしその心の在り方がそれぞれ違うという事実に於いて我々誰しもが容易に集うことを可能とする為に我々はその心を鎮める為の場所が誰からも了解される様にヴィジュアル的に統一された基準、つまりヴィジュアルスタンダードを誂える必要があるからなのである。

 従ってそれはある意味では心というヴィジュアルに在り方を示すことの出来ない代物を敢えて形状的に相互に他者の心を理解することを断念すること、つまりそういった理解を干渉と見做し、不干渉的態度を決め込むこと自体を容認した在り方としてヴィジュアルスタンダードが存在している、ということなのである。つまり神社であるという場所規定を我々に示すデファクトスタンダードは誰から見ても、それが鳥居であるという分かりやすさに於いてのみ成立している。それは説明する時に描きやすいということも言えるし、同時に実際に建造しやすいということも言える。

 これは文字というイコンにしてもそうである。誰からも読みやすく、書きやすいものでなければいけない。すると「傲慢」=「ごうまん」もやはり誰からも、その「ごうまん」という音自体の持つ意味への対応に対して「俺は好きになれない」とか「俺はまさにぴったりだと思う」という固有の感情をその語彙を使用するどの成員にも与えるとしても尚、何処かでは誰からも容易に記憶される音の響きであり、誰もが心に抱く感情であるということがまず前提として必要なのだ。だから仮に私にのみ固有の他の人にはほぼ絶対的に心に浮かばない感情があるとしたら、それは語彙化されずに終わるだろうし、音を我々はその感情に載せようとしないだろう。にも関わらず私はそれを語彙化させたいかも知れないし、それに音をつけたいかも知れない。
 ハイデガーは固有の語彙を沢山自著で作って載せている。これは新たに自分で語彙を作成する必要性を感じていたからである。だが「ごうまん」さえもが極めてある個人のある状況に応じた固有のものであならもっと複雑で長い、例えば「ある者Aが他人と話していて、その他人がAに取る態度の中で偉そうでAはその者にむかつく時に感じる態度」などとなってしまおう。しかし我々はそんなことを一々それぞれの者に応じてすることは出来ない。

 しかしである。或いはそもそも根源的には、そういうものとして「ずうでん」という音、或いは「らろべえ」「ばるぼ」という音が成立しているのだとすれば、或いは「ごうまん」さえ最初はそうであったかも知れないのだ。そうである。「傲慢」という他に対する感情の意味、或いは対自的認識は、誰かが最初「俺はあいつの態度に憤りを持っているんだ。ああいう態度を俺は「ごうまん」と呼ぶ」と誰かが誰かに告げた可能性があるのだ。そして意味とはそういう様に偶発的に誰かがあることやものに対して抱く感情を思い切って誰かに告げたということが発祥である可能性は大いにあり得るのだ。それは最初に鳥居を建てた者がきっと居たであろうということと全く同じ様になのである。

 次回は初発的に何かを提言することと、それに対して多くの人達が賛意を示すことでミーム化されていくことに就いて考えてみたい。

Sunday, October 9, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十二章 慣習化されることの中から時代が読み取れる(様にしている)

 ある習慣は根付くことは、ある部分ではその習慣以外に何かもっといい習慣がさしあたり見つからない時である。それは案外長期に渡って、もっと素晴らしい何か別の在り方が発見される迄そうである。

 徳川幕府は日本史に於いて極めて安定していたればこそ三百年続いたのだ。それはそういった政治、国内統治の在り方自体が、それ以前的な混沌の記憶の中から見出されないということからであった。それ以前では室町幕府もそうであったし、源氏と北条家による統治もそうであった。
 しかしある時期必ずそれらさえ打ち破られる。しかしそれが何時であるかを予測することは難しいし、それは実際にある一部の扇動者によってそうなるとも言えるが、その扇動者を現出させるのはもっと大勢の人達である。勿論日本史の場合、多くは百姓などによる民の生活それ自体を何処かでもっと安定したものにしたいと願っていた公家そして武士による采配によってであったが、それらは公家の社会であれ武家社会であれ、日本全国の時代状況がそう仕向けてきたとも言える。

 では時代とはどの様に性格づけられていくのだろうか?時代とは現代はマスメディアが表層的イメージを提供している様に見える。しかしやはりそれはマスメディア以前的にマスメディアを操作する人達自身に何らかの時代的精神を植えつけられているものがあるということだ。それは一つには経済社会であり、一つには国内の国民の移動、他地域との交流、海外へ旅行したり、海外から来日したりする人達全体の動向によって決定づけられている。そして哲学命題などでは一切時代的な意識を排除して考える傾向が強いが、しかしそういった哲学命題的なスタンスさえ、ある時代に生まれて育った人達によって考えられてきている以上、時代を無視して語ることは出来ない。時代精神は確かに大衆小説の様な形で直接示されることは哲学ではないが、やはり潜在的には濃厚に反映されている。

 例えばかつて隆盛を極めてドイツ観念論哲学などもそうであるが、考え方のモード自体も人類史的には常に大きく旋廻してきたし、徐々にシフトしていっている。今でもそれは全く変わりないし、アメリカ国内でもスティーヴ・ジョブズの死は「エジソンであり、ディズニーでありダヴィンチであった」とアナウンサーによって語られるほどの影響力を持ち得たが、しかしそういった存在はこれからもどんどん出現して止むことはないだろう。そしてどんなに偉大なるカリスマでも百年その命脈が維持されることはないだろう。
 だからと言って一人のカリスマが刹那的存在であるわけではない。そういった意味ではダーウィンもマルクスも現代的視座から見て古典であり得ても、尚何時迄も新たな命題を我々に提出している様な意味でジョブズもそういう風に語られるであろうことは想像される。

 時代を形成するものの正体とは一体何なのだろう、と問うと、それは一つには習慣が定着していくに連れて、慣習化されて、それがいいことであるか悪いことであるかを問うことが不毛であるとされ、慣習化されることによって立ち上がる一つの不動的な期間を時代と呼ぶことは出来よう。しかしどんな時代でも少しずつ生活スタイルも日々の習慣も変化していっている。そして人員も少しずつ新陳代謝して交代していっている。だからある日突然自分が途方もなく老いさらばえていることを自覚した時三十年前と今とでは全く変わってしまっていると気づくことによって時代は自覚されるかも知れない。しかし恐らく一人の人間の中ではたとえ五十年前のことでも鮮烈に記憶されている。そういった意味では記憶の深層に於いて時代は捉えられる。それは即ち時代が公共的なものだということ自体も一つの幻想ではないか、という視点である。

 時代は一個人の中で現象的に捉えられる記憶や習慣と共に、自分なりに各自が読み解くことであると言える。つまり一人一人の人生の在り方から全く異なった時代の在り方が存在し得て、それら全ては否定されるべきものではない、ということだ。だから時代という語彙を我々が使用する時明らかに、恣意的に公共的に一纏まりに大勢の人達が~であったと語るに相応しい素材を探して、あれがそうであると発見したことを論ってそれを時代にしているのである。しかし一群の人達にとってそれは決してメインな関心事ではあり得ないし、そうであった。今多くの人達にとって関心事であることも又別の人達、それは達と括ることさえ意味がないくらいに皆思い思いに違うことに関心を抱いている。ある人達にとって七十年代の日本が転換期であったかも知れないし、ある人達にとっては八十年代、九十年代、ゼロ年代がそうであったかも知れない。
 達と言おうとする時時代は立ち上がっているが、それ自体言語的伝達による恣意的な操作でしかない。

 社会はそれ自体大いなる幻想である。ある日ある人は社会から姿を消す。死ぬことによって。しかし社会全体には殆ど何の影響もない。それはジョブズくらいに偉大な仕事を成し遂げた人であってさえ。
 だから時代とは集団とか組織とか複数の人達による熱狂的気分が作り上げる恣意的なものでしかない。しかしそれに意外と大きく我々は日常的に影響を受ける。それは他者存在が自己に対して圧倒的に数の上でメジャーであるということを誰しも知っているからであるし、そうであるからに過ぎない。だからこそ認識の上では哲学と社会学はずっと対立し続けてきた。しかしそれは案外同じことの中の別々の展開でしかなかったとも言い得るのである。

 確かにマクロ的に言えばPC端末と携帯端末とが併合している時代に於いてPDA端末とタブレット端末の持つ比重が加速度を増して大きくなっていき、次第にPC、携帯両端末の並存から、PDA、タブレット両端末の間に存在する無限のグラデーションの方がメジャー化して、何処かにその理想的不動点を見出していくことだろう。PC、携帯端末共にやがて時代の遺物になっていくことは容易に想像される。
 しかし用途自体はさして変わりなく存在し続けるだろう。その用途の余り大きく変わりなさと、機器の利便性の推移、変化という両義性に恐らく何かがある。それは利便性がある機器だけでなく人員でもそうだし、社会制度でもそうである。
 変わりないニーズがあって、それに対処する為に益々便利なものが作られる。そして便利なものそれ自体によって新たなニーズが産出される。そこで大きく一つの時代の旋廻がなされる、と我々に自覚されるわけだ。

 これは既にリチャード・ドーキンスによって一段階淘汰と累進淘汰という形で示されていたし、それ以前にはスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジによって断続平衡説という形でも示されていた。進化論の問題でもあるし、人類学的なヴィジョンの問題でもある。しかし哲学的には時間というものは何か空間上に配置されたこととは違って、いっぺんに全てを見渡すことが出来ない。全ては記憶に依存している。ここが問題なのである。そして記憶は同じ時間を生きていた人一人一人でも微妙に違う。違う部分の方が本当は大きいのに、あたかも同じ部分の方が大きいものとして互いに語り合ってきただけのことである。

 映画がVシネマによって鑑賞され、DVDによって鑑賞される様になるに連れてかつてあった映画館の存在理由は変質してきたが、社会という一纏まりではそうであっても個人史では違う。変わらずに存在し続けたものもあるだろうし、変わらないと社会ではされてきたことでも個人内部では日毎に変わってきたものもあるだろう。その点で全ての人員に於いて時代とされるものと、自分で時代であると思うものとがずれている。そのすれだけが全成員に於いて共通したことである。何時迄も前時代のある部分に固執する部分を誰しも持っている。そして常に時代の求めるものに只管合わそうとしてきている部分もある。そしてその二つは常に全成員に於いて個々異なるが、異なるとか似ていると比較しようのないこととして密かに感受されてきている。恐らく、あくまで恐らくであるが、それだけが真実であろう。

 どんなに時代を先取りしてきた人でも必ず何処かでは浦島太郎的感慨を抱く部分を発見する。つまりそれこそが時間というものをあたかも、実在するかの様に(たとえ実在しなくても)思わせる何かである。ジョブズさえそれを携えていた筈である。でなければStay foolishと彼が言った筈がない。何かに関心を寄せることは、何かに対して無関心を決め込むことである。それは何かを推進していきつつ、何か推進してこなかったものから逆襲されることである。それはその人にとってどんなに社会的には小さなことでも本人からすれば大きなことなのである。偉大な仕事をした人につき物の後悔や贖罪心理は恐らくあるだろう。勿論それは社会全体からすれば些細なことかも知れない。しかし一個人内部では記憶というものは時代のメインストリームにマッチした形で存在するわけではないので、必然的に時代や社会全体のことなど個的で現象的なこととは全く接合しない形で、ずれはずれとしてだけ個内部では認識され、記憶され続けるのだ。人より遅くやっと自転車に乗れたということは大人になれば確かにさして大きなことではないだろう。しかし追憶に於いては案外何時迄も大きく心の中心に立ちはだかっているものでもあるのだ。

 次回は追憶ということに就いてより掘り下げて考えてみよう。

Thursday, October 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十一章 原点に人類は絶対に回帰しないPart2

 前回触れた市川中車の歌舞伎デビューで一躍脚光を浴びている出雲阿国以来の芸能的原点への我々の注視、原田芳雄の遺作となった「大鹿村騒動記」で紹介された大鹿歌舞伎、小鹿野町歌舞伎などの地域共同体芸能が再評価されていること全ては、実はそれだけ共同体的発想の熱狂が今日行われた小沢一郎元民主党代表初公判に見られる傍聴席での膨張など以外では大半が失われていることの証拠なのである。
 ある意味では貨幣経済が発生した段階から人類は着々とグローバリティへと向けて出立していたのだ。まず言語行為が定着したこと、そして貨幣経済が原始資本主義から中世、近代資本主義を経て現在の世界経済へと発展しているが、その途中でマルキシズムと共産主義が勃興したとしても尚、ずっと世界経済は貨幣経済を基本として営まれてきた。
 貨幣経済の基本は物品の売買であるし、直接売買ではない間接売買という形では株取引がある。
 株取引に於いて我々は株価という間接的なデータを常に参照する。株価が下がった段階で株を買いたいということ、そして株価が最大値になった時に株を売りたいということが、株のバイヤーと株主との間で駆け引きされるわけだ。
 要するに株主は株を最大値の時に換金したいが、その最大値であることを株のバイヤーは見越せば当然買い渋る。従って株の売買は、売る側からすれば一番高値で売りたいが、買い手は出来る限り高値になる以前に買いたいのだ。と言うことはそれ以上に株価が吊り上る可能性に賭けてバイヤーは株を買おうとするが、売る側は一番高値の時に売ることが理想であるということは、売る側も買う側も双方が最大の満足を得ることはないことになる。いずれかが最大の利益を上げればいずれかが損をしている。従って双方が同じくらいだけ満足するには同じくらい双方がやや最大利益より少ない利益で満足し手打ちするしかないということになる。
 それは直接売買でも言えることだ。一番安い時にどんな商品でも購入した方が購買者にとっては得であるが、何時もそうはいかない。日曜必需品はそうもいかない。
 貨幣経済によってどんな地域から来た人に対しても等しく売ることが許され、どんな地域へ旅をしてもそこで商品を買うことが出来るという意味で、共同体閉鎖社会は既に成立し得ようはなく、貨幣経済自体がグローバリズムを志向するのだ。
 
 陶芸制作はかつて納入先が限定されていたので、地方では窯元は職人が国から出ることを許さず、脱走したら罰せられた。隣接する別の共同体に陶芸手法を盗まれることを恐れたからである。
 そこでは当然共同体閉鎖社会が実現していた。しかしそれは基本的に明治期以降完全撤廃される。廃藩置県である。しかし再び道州制への効用も語られ、共同体的発想も地域、地方の時代ということで持て囃されている。しかしそれは完全にかつての共同体に移行することを目指しているわけではない。

 日本国内を円で統一すること、アメリカをドルで統一することなども国内の地域、地方格差からではなく、国内統一貨幣によるグローバリズムの発想である。それは言語的統一と共に進化してきたものであることも了解される。
 共同体回帰はノモスの側からピュシスの側への見直し、統一基準という形でのグローバリティによるアポロン的発想から、かつて在った地域的熱狂という形、つまりディオニュソス的発想の見直し以外ではない。
 それは端的に行過ぎたノモスとアポロンへの地下水脈的なピュシスとディオニュソスからの提言である。
 しかしやはりそれは言語を獲得した段階である意味ではピュシスを喪失した人類による修正主義的な考えであるに過ぎず、完全原点回帰ということ自体が語義矛盾である。貨幣が紙幣やコインではなく貝殻にしたってそれは同じことである。そうなのである。我々が言語を獲得した段階で既にグローバリティへの志向だけが中心化してきたのである。そのグローバリティの中心化こそがあるシステムを固定化することを我々が望んだということである。

 QWERTY配列それ自体の理想的在り方を巡る修正とは、QWERTY配列が完成されることによってのみ 問われ得る。QWERTY配列が決定される以前に色々試行錯誤してそう決定されたのだろう。しかしそれはタイプライターの発案者によることである。タイプライターはある時点で発表され発売された。
 そしてQWERTY配列が規格化された。デファクトスタンダードがそれ以降、だからこそそれ以外の配列の可能性に於いて考えられる様になる。もっといい配列はないものか、と。
 しかし今のところflick入力がPDA端末で採用されるに至って、同一データへ到達する為に唯QWERTY配列ではない形でのバリエーションが出現し、それがアプリ化される。新しいアプローチ方法が出現した時益々最初のQWERTY配列は固定化、安定化、不動的地位性を獲得するに至る。それはピアノやギターの音色以外の音を出せる楽器が開発され発明された時点で、ピアノやギターの音を出す位置の配列は固定化、安定化が齎され、不動的地位性を獲得するのと同じである。

 貨幣経済の場合は固定相場制から変動相場制へと移行し、固定化と安定化自体が不可能化した。しかしその段階で却って円が日本の通貨であり、ドルがアメリカの通過であること以外の規格出現可能性は消滅した、と言える。それは言語で言えばある語彙の定着と言っていいだろう。ある時点から東日本大震災と命名された様にである(それ以前は東北地方並びに太平洋沖大地震などとも言っていた)。
 何物かがデファクトスタンダードへと固定化されることは、何か新しいアプローチが進化した段階であると言えるのだ。
 しかしそれは習慣が慣習化されるという規格化の運命、制度的な決定という事態を必要とするのだ。そのことに就いて次回考えていこう。それこそまさに今回言述しなかったが、カダフィ大佐が国家元首から犯罪者へと世界的に統一されて見做される時点と全く構造的には同じなのである。