通常我々は余り親しくはない相手に対しては、自分の正体を余り率直には示しはしない。或いは会合等で冊子が配られてそれに目を通している時も、その冊子でも説明が今一説明不十分であったりして、難解な説明であるが故に理解し辛いということがあったとしても、尚それを他者に悟られまいとして、あたかもふむふむよく理解出来るかの如き表情と振舞いで隣に座る社会人の人に内心を悟られまいとするだろう。
ところがあるものの弾みで、隣に座る老紳士が仮に会合で説明する司会者に対して、その説明の途切れたところで質問をする。
「この冊子の概要が今一つよく理解出来ないのですが。」
そう言ってもう一度概要を説明願えないかと老紳士が聞くと、一斉に周囲の社会人全員がそれに頷き、笑みが毀れ、それまで一切隣に座る人に何か聞くということもなかったその場が一気に和み、相互に教え合ったり質問し合ったりする光景などということは日常的にはよく見られる。
それは自治会でもそうだし、社会人向けの啓発セミナーなどでもそうである。
これは意外と重要である。自分が相手に対して予防線を張って、一切自分の弱点、欠点、無知な部分を曝け出さないように配慮している内は、その相手に対して対人関係的には自己防衛心でガードしているわけだから、相手も又心を開かない。が、一旦自分がこれこれこういうことがよく呑み込めないのだ、とか、よく理解出来ないからもう一度説明してはくれないか、と質問すると、途端に相手は真剣に接してくれるようになる。
ある種の他者に対して相手が信用出来るか否か未だ判然としないが為に張っている予防線を解除することを通して人は相互に信用したり、信頼したり出来るようになるのだ。
端的に人間関係において他者と親しくなる条件というか、親しくなれるきっかけとは、自己の他者に対する優位を示すことではない。これは最も忌避すべき態度である。これは特に若い世代の人の年配者に対する態度に見られるが、これをしていると、年配者は若い人たちに対して自己経験上でのノウハウを伝授する気持ちにはなれないだろう。
また相手を競争相手であると認識しているような態度では、真実の情報交換が望めるということはない。勿論例えば学会に出席するような場合我々は学会員全員が学者という意味ではライヴァルかも知れない。同一政党内での同僚議員などもそうかも知れない。がそれでも尚相互の信頼関係というものは、相手に対して挑発的態度で形成され得るだろうか?それは例えば政治の世界などで仲良しクラブ的な雰囲気では政策的な信条を貫くことが出来ないから、それは官政談合的な意味での「淀んだこと、腐敗」ということへと直結するから忌避すべきである、ということとは別箇に必要な態度である筈だ。
例えば論議議題的には敵対する立場の者同士でも卑近であるが故に意外と必要な情報交換などにおいて、例えば営業マン同士が地理的、実際の営業区域の情報を相互に教え合ったりするということは、端的にライヴァル同士であるが故に必要な行為だろう。
そこで相手に対して自己の弱みを一切示さずに対峙姿勢を崩さないままであれば、相手も又態度を硬化させ続けることだろう。従って必要な情報を欲しいということを真摯に打ち明け、よく新人で理解出来ないことであれば、上司、先輩、あるいはある事項に関して部下の方がよく心得ているのであれば、そういう他者に積極的に自己内の欠落した状況を説明して、相手から有効な情報を引き出すことも求められている。
その為には積極的に自分の不得手なこと、不得意なこと、苦手なこと、理解しきっていない点などを真摯に相手に告げるという態度こそが、悧巧な他者との接しにおける他者の活用の仕方であり、情報化社会を生き抜く智恵と言えるのではないだろうか?
そのようなビジネスシーンでなくても自然人的な触れ合い、つまり趣味のサークルなどでも積極的に自己のコンプレックスを告白し合うということこそが、親しくなるきっかけとして最もよく見られるパターンであることは誰しも心の奥底では知っていることではないだろうか?
新入生諸君、新社会人諸君、転職者諸氏、リタイアされた方々諸氏、全ての人に言いたい。格好つけている内は誰も貴方に心を許して真摯に教えてはくれない、ということを。
そしてそんな事貴方だってとっくに知っている筈のことなのである。従って最近対人関係に苦慮しているということがあるなら、もう一度素直に誰でもいいから、自分の情報的不足、理解しきっていないことを頭を下げてもいいから(何かものを聞くということがそれほど苦痛なくらい頭を下げることではないことくらい貴方が一番よく知っている筈である)質問し、問い質して相手の情報的優位を認めて、指導、教授を仰ぐということをしてみてはいかがであろうか?
我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Saturday, April 10, 2010
Thursday, April 1, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 実用と応用③人間に対するメタ認知について
再び少し実社会的な俗なことについて考えてみたい。
率直に言って私は哲学者、論理学者などをはじめとする学者一般に対して最大の不満と、彼等に対する欠如部分を認識している。それは純粋の学問を学ぶ姿勢と、彼等自身が教育者としての立場があるということから、世間知らずであることである。
その最たるものは、彼等が極若い時期からずっと先生とか教授とか呼ばれてきているので、自分が担当する学生とか、カルチャーセンターなどでの一般社会人に対する応答に対しても若い学生たちとそうではない年配者に対しても同じように対応する。勿論学問自体に相手を社会的立場で区別して接することは許されないという不文律によって彼等はそうしているのだが、実際上人間は若い人には未だかなり多く時間が残されているし、年配者はそうではない。従って相手を見てアドヴァイスの仕方を教授や先生、講師と呼ばれ、そう世間から認識されている人は慮って対応すべきなのであるが、それがなかなか出来ないのが哲学者、論理学者(故に恐らく数学者とか理論物理学者たちもそうであろう)一般の最大の欠陥である。
さて私の考える対人対応術とは、相手も見て対応せよ、ということである。相手が物分りのよさそうなタイプの人間かどうかを鑑みて我々は例えば道に迷ったりした時に質問する相手を選別している。それは殆ど直観的な判断である。それと同じことが全ての対人対応術に適用出来る。
例えばカルチャーセンターなどで各講義を受講する聴講生として参加する社会人は、端的に大学院で学位を取ろうとしている学生と同じではない。院生などは本当にその者が将来学者としてものになるか、あるいは一般社会で通用する人間になるかどうか全くの未知数であるのに対して、聴講生はきちんと社会で働いたりして、それ相応の時間を人生で過ごしてきているのだから、全く異なった心得でよいし、またそういう区別をして接して来ない講師などを人間的に相手にするべきではない。
学者とは一般に世間知らずの最たるものなのである。狭い世界でだけ生きている者なのである。故にそのことに対して自覚的で自省的なタイプの講師だけが信頼出来ると言える。
また相手の本などを読んで、予めそういう講義を聴講する場合には、質問内容を考えておくということも大切である。相手は営業で知り合う一般社会人ではない。従って自己の専門的学問分野に対する自負だけに凝り固まった人達なのである。従って通常の市民のような大人性が欠如している人達なのだから、それ相応の適度に相手を持ち上げて相手の知の領域の内容を予めメタ認知して、相手からこちら側にとって有効な情報を聞き出すくらいの智恵が求められる。
カントが言っている根本悪とか善意志といったことは、人生を抽象化した哲学純粋定理的な意味合いを帯びているのであり、それは実践したら危険である。それはニーチェにしてもウィトゲンシュタインにしてもハイデガーにしても、偉大な哲学はソクラテス以来全てそういう実用、応用的な危険性を伴うということをよく認識して学問に接するべきである。つまりそれこそがメタ認知なのである。
従ってメタ認知とは、そういう風に相手(実際の人間であれ、書物上だけでの接しであれ)を対象化して認識し、その者の存在傾向をよく鑑みて接しよということである。
その為には、本を読んで理解するということでなく実際に会って話しを聞いたり、質問したりする場合にはあまり最初から本音を言ってはいけない。本音とは相手の正体をよく認知してから然る後に少しずつ自己の内奥から引き出すべきものである。
従ってあまり誠実過ぎる接し方を最初から他者には取るな、つまり相手をあまり信用し過ぎるなと私は言いたいのである。それは特に新人社員とか社会人一年生的な若い人には言いたいことである。
それは例えば院生で担当して貰う教授に媚びよという事ではない。勿論それが必要なこともあろう。だが寧ろこちらが学費を支払って接しているのだから、必要以上の持ち上げをすることはない。だがそれでも尚、相手の立場、相手の学問的専門性と、思想傾向をメタ認知することによって、余り自己内の真意を全て明らかにするべきではない。
人間は相手に対して一定の敬意を持つということは、最初からその者に対する感情を相手に正直に伝えることではない。つまりそういったクッションを置いて、寧ろ質問をした当の担当講師などが質問者に対して適切な応対をし、よいアドヴァイスや意見を引き出すようにする為には、寧ろこちら側の真意は積極的に抑えて、相手自身が本音や真意を言いたくなる雰囲気を作ることこそが求められているのである。
つまりカントやニーチェといった哲学者が訴えてきている誠実性とは、心の中の本音を全て語れと言っているのではない、ということである。つまりカントが嘘をつくなと言っていることとは、端的に「全てを語れ」と言っているのではない、ということだ。「語るべき内容」よりも、「どういう風に語るべきか」と真摯に熟慮して語れ、ということなのだ。
つまり相手があまり言いたくないことを引き出そうとしてはいけない、という事なのだ。相手が快く質問に返答してくれるような質問の仕方、つまり雰囲気作りが必要だということである。従って余り挑発的な質問をする、つまりそういう部分で変に誠実性を示してはいけないし、そういう風にバカ正直になれ、と哲学者は私達に語りかけているわけではない、ということだけを我々は心得ておくべきである。
それは新入社員達にとって上司や先輩に対する接し方においても全く言えることである。
だから逆に一般社会人を相手にする日頃は大学などで教授、講師などをしている人に求められていることとは、相手を見て区別して応対せよ、ということである。まかり間違っても相手が自分の聴講生だからと言って、青年も中年も老人も同じように応対すべきではない。それは哲学の講師であるなら、哲学命題的な意味で言っているのではない。それは全く差別するべきではない。勿論大人には大人の、青年には青年の哲学的心得はあるにはある。しかしそれは哲学命題的な意味では然程大きなことではない。私が言っているのはそうではない。相手の人生経験に応じて質問者であり得る聴講生に対する態度を区別せよ、と言っているのである。
つまり質問をして相手から情報を引き出す立場であれ、相手から質問されて情報を供給する立場であれ、バカ正直に誠実であってはいけないということである。この世界において適度の嘘や欺瞞を一切なし得ないで誠実性だけで接する人がいたとしたら、只の狂人であると私は言いたいだけである。
哲学命題における誠実性とはそういう社会的処世術と決して矛盾するものではない。実はもっと深いところにあるのである。その深いところをよく直観することを通して、寧ろそれほど深くはない世間的な礼節的部分では適度な処世術的智恵を働かせ、巧くやれということである。つまりそれこそが自分にとって有効でよき利益を得られるように他者と接するということである。その為にこそ冷徹に接するべき他者に対する像をメタ認知(勿論自分なりの主観によってでよい)をせよ、ということである。
率直に言って私は哲学者、論理学者などをはじめとする学者一般に対して最大の不満と、彼等に対する欠如部分を認識している。それは純粋の学問を学ぶ姿勢と、彼等自身が教育者としての立場があるということから、世間知らずであることである。
その最たるものは、彼等が極若い時期からずっと先生とか教授とか呼ばれてきているので、自分が担当する学生とか、カルチャーセンターなどでの一般社会人に対する応答に対しても若い学生たちとそうではない年配者に対しても同じように対応する。勿論学問自体に相手を社会的立場で区別して接することは許されないという不文律によって彼等はそうしているのだが、実際上人間は若い人には未だかなり多く時間が残されているし、年配者はそうではない。従って相手を見てアドヴァイスの仕方を教授や先生、講師と呼ばれ、そう世間から認識されている人は慮って対応すべきなのであるが、それがなかなか出来ないのが哲学者、論理学者(故に恐らく数学者とか理論物理学者たちもそうであろう)一般の最大の欠陥である。
さて私の考える対人対応術とは、相手も見て対応せよ、ということである。相手が物分りのよさそうなタイプの人間かどうかを鑑みて我々は例えば道に迷ったりした時に質問する相手を選別している。それは殆ど直観的な判断である。それと同じことが全ての対人対応術に適用出来る。
例えばカルチャーセンターなどで各講義を受講する聴講生として参加する社会人は、端的に大学院で学位を取ろうとしている学生と同じではない。院生などは本当にその者が将来学者としてものになるか、あるいは一般社会で通用する人間になるかどうか全くの未知数であるのに対して、聴講生はきちんと社会で働いたりして、それ相応の時間を人生で過ごしてきているのだから、全く異なった心得でよいし、またそういう区別をして接して来ない講師などを人間的に相手にするべきではない。
学者とは一般に世間知らずの最たるものなのである。狭い世界でだけ生きている者なのである。故にそのことに対して自覚的で自省的なタイプの講師だけが信頼出来ると言える。
また相手の本などを読んで、予めそういう講義を聴講する場合には、質問内容を考えておくということも大切である。相手は営業で知り合う一般社会人ではない。従って自己の専門的学問分野に対する自負だけに凝り固まった人達なのである。従って通常の市民のような大人性が欠如している人達なのだから、それ相応の適度に相手を持ち上げて相手の知の領域の内容を予めメタ認知して、相手からこちら側にとって有効な情報を聞き出すくらいの智恵が求められる。
カントが言っている根本悪とか善意志といったことは、人生を抽象化した哲学純粋定理的な意味合いを帯びているのであり、それは実践したら危険である。それはニーチェにしてもウィトゲンシュタインにしてもハイデガーにしても、偉大な哲学はソクラテス以来全てそういう実用、応用的な危険性を伴うということをよく認識して学問に接するべきである。つまりそれこそがメタ認知なのである。
従ってメタ認知とは、そういう風に相手(実際の人間であれ、書物上だけでの接しであれ)を対象化して認識し、その者の存在傾向をよく鑑みて接しよということである。
その為には、本を読んで理解するということでなく実際に会って話しを聞いたり、質問したりする場合にはあまり最初から本音を言ってはいけない。本音とは相手の正体をよく認知してから然る後に少しずつ自己の内奥から引き出すべきものである。
従ってあまり誠実過ぎる接し方を最初から他者には取るな、つまり相手をあまり信用し過ぎるなと私は言いたいのである。それは特に新人社員とか社会人一年生的な若い人には言いたいことである。
それは例えば院生で担当して貰う教授に媚びよという事ではない。勿論それが必要なこともあろう。だが寧ろこちらが学費を支払って接しているのだから、必要以上の持ち上げをすることはない。だがそれでも尚、相手の立場、相手の学問的専門性と、思想傾向をメタ認知することによって、余り自己内の真意を全て明らかにするべきではない。
人間は相手に対して一定の敬意を持つということは、最初からその者に対する感情を相手に正直に伝えることではない。つまりそういったクッションを置いて、寧ろ質問をした当の担当講師などが質問者に対して適切な応対をし、よいアドヴァイスや意見を引き出すようにする為には、寧ろこちら側の真意は積極的に抑えて、相手自身が本音や真意を言いたくなる雰囲気を作ることこそが求められているのである。
つまりカントやニーチェといった哲学者が訴えてきている誠実性とは、心の中の本音を全て語れと言っているのではない、ということである。つまりカントが嘘をつくなと言っていることとは、端的に「全てを語れ」と言っているのではない、ということだ。「語るべき内容」よりも、「どういう風に語るべきか」と真摯に熟慮して語れ、ということなのだ。
つまり相手があまり言いたくないことを引き出そうとしてはいけない、という事なのだ。相手が快く質問に返答してくれるような質問の仕方、つまり雰囲気作りが必要だということである。従って余り挑発的な質問をする、つまりそういう部分で変に誠実性を示してはいけないし、そういう風にバカ正直になれ、と哲学者は私達に語りかけているわけではない、ということだけを我々は心得ておくべきである。
それは新入社員達にとって上司や先輩に対する接し方においても全く言えることである。
だから逆に一般社会人を相手にする日頃は大学などで教授、講師などをしている人に求められていることとは、相手を見て区別して応対せよ、ということである。まかり間違っても相手が自分の聴講生だからと言って、青年も中年も老人も同じように応対すべきではない。それは哲学の講師であるなら、哲学命題的な意味で言っているのではない。それは全く差別するべきではない。勿論大人には大人の、青年には青年の哲学的心得はあるにはある。しかしそれは哲学命題的な意味では然程大きなことではない。私が言っているのはそうではない。相手の人生経験に応じて質問者であり得る聴講生に対する態度を区別せよ、と言っているのである。
つまり質問をして相手から情報を引き出す立場であれ、相手から質問されて情報を供給する立場であれ、バカ正直に誠実であってはいけないということである。この世界において適度の嘘や欺瞞を一切なし得ないで誠実性だけで接する人がいたとしたら、只の狂人であると私は言いたいだけである。
哲学命題における誠実性とはそういう社会的処世術と決して矛盾するものではない。実はもっと深いところにあるのである。その深いところをよく直観することを通して、寧ろそれほど深くはない世間的な礼節的部分では適度な処世術的智恵を働かせ、巧くやれということである。つまりそれこそが自分にとって有効でよき利益を得られるように他者と接するということである。その為にこそ冷徹に接するべき他者に対する像をメタ認知(勿論自分なりの主観によってでよい)をせよ、ということである。
Tuesday, March 30, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十二章 言語行為のプロセス
前章では相手を殲滅や壊滅を目的として言語行為が文明を構築進化させていく上で成立し得るのかということを最後に考えた。それはチンパンジーにおいてもミラーニューロンが働き、ある個体が同一種の個体に対する関心の方が他の、例えば人間に対する関心より強いということが証明されたばかりであるが、要するに同一種に対する関心とはどのような種においても成立し得るのではないかという可能性への示唆になっていた実験結果であるが、それが正しいとすれば、他種に対してなら他種を欺く擬態といった進化が必然化されても、同一種内で他個体を殲滅する為にある他者壊滅目的の言語行為が進化していくということはほぼ確定的に進化論的に、自然選択的に誤りであるとは言ってよいであろう。
多大なストレスを同一種に与えるようなタイプの言語行為が高度な文明を構築していくために障害となって作用するという可能性の方が大きいと容易に想像されるからだ。
さて本章ではではそれを前提として、同一種内で我々人間が言語行為をするに当たって、どのような心的なプロセスが顕現されているのかということについて考えよう。
情報の格差認識と共有意志、或いはその都度の意志表示能力と欲求とそれら三つに対する認知、それを踏まえた意志伝達が他者との間で利益となる事自体への認知は、即ち他者も又自己と同一の利益を得ることを認知していて、こちらの意志と相手への要請を理解出来るであろうという目算が意思疎通の基礎としてある、ということは意思疎通を成立させる条件であったが、今度はそれを自己において行為へと変換させていく際の心的プロセスについて考えてみよう。
それを私は次のように考えてみた。
① 言語使用者である他者の認識
② 言語行為実践の意志発動(自己と同一言語使用者であることの認知を得た後の意志発動)
③ 言語行為における発語、つまり情報格差の説明(何かを聞き教えて貰いたい時は、こちらが相手は知っているだろうが、自分は知らないことを伝える)
④ 他者(発語相手)からの応答の授受の開始・相手の応答に対する認知と情動(情動とは、相手の応答の仕方、親切度を推し量って相手とそれ以降も意思疎通を続行していくべきか否かを決定する)
この四つのプロセスは必須であると思われる。
言語使用者である他者の認識とは奇異に思われるかも知れないが、あるいは精神的に安定を欠き、精神疾患であるかも知れないという可能性を認知し得る時、我々は相手から何か危害を加えられるかも知れないという畏怖の感情から相手から距離を置こうと画策するであろうし、相手が何かテロリストであるかどうかということも同じように警戒心を発動させる十分条件だ。だが勿論それは相手が言語使用者であることは間違いないが、この場合自分にとって意思疎通するのに適切であるかという意思疎通相手選択の条件としては、自己の安全か確保出来て、しかも一定時間内に相手と意思疎通する事自体が成立し得るか否かの判定における言語使用者という適切性に関する心的プロセスであるとご承知頂きたい。①
それがクリアされた段階において我々は次に初めて相手に対して何らかの意思疎通の意志表示をする為のアプローチの手段を講じる。その為に観光地で道に迷った時などは、地元で生活している人であると思われる人に目星をつけて我々はそういった当の人に対して会釈したり、頭を少し下げたりして質問をしたいという態度を示すように身体を構えていくわけだ。②
そして十分そういった意思表示を状況説明的に相手に納得させて然る後、仮に京都で観光旅行しているという事が自分の立場ならそれを簡単に説明して、尤も金閣寺に行くにはどのバスに乗ればいいのですかとか、ここから歩いて行くにはどういう風に行けばいいのですかというような質問をいきなりするだけで、京都とはそもそも観光地であるということは地元の人たちも知っているので、一々説明をする必要はない場合も多いであろう。
要するに「金閣寺に行きたいのですが」ということを相手に言述する③ことによって、金閣寺へのルートという情報を欠如している自己をアピールする。ここで情報格差に対する相手への説明が終了して、相手がもしその情報欠如を穴埋めしてくれる事が出来る、つまりその地理的情報を知っている者であるなら、教えてくれる筈だ。そして③の後にその教えてくれ方、応答の仕方で、いい印象を持った場合、つまりこちらの情報格差の説明と窮状の説明に対する応答の誠実さを判定する事を通して、我々は更に金閣寺の次にはどこそこに行きたいとか、近くで食事をしたいという意志を示すことによって、更に適切なアドヴァイスを得るという事が可能か否かをその段で判定することとなるのだ。④
これが極基本的な日常的な「何かを他人に聞く」ということを通した意思疎通の言語行為プロセスにおける心的順序であると言ってよい。
実は我々はこの心的プロセスを日常的に何の気なしに反復する事を通して、それが可能である他者を無意識の内にリストアップしていき、円滑に情報を交換し得る者をその情報交換の情報内容に応じて優先順位をつけ、親友とか最良の同僚であるとか、地元の顔見知りとか、同じマンション内の隣人とかの中で親しい人とそれほどではない人との間での格差を通した階層的な面識者のネットを形成しているのである。そして親しさを得ることの最大の誘引材料とは、上記の心的プロセスにおける④での相手に対する好感度と、そこで得た情報内容の適切さと密度といった獲得情報の重要性に対する判定に依存しているということは言うまでもないだろう。
多大なストレスを同一種に与えるようなタイプの言語行為が高度な文明を構築していくために障害となって作用するという可能性の方が大きいと容易に想像されるからだ。
さて本章ではではそれを前提として、同一種内で我々人間が言語行為をするに当たって、どのような心的なプロセスが顕現されているのかということについて考えよう。
情報の格差認識と共有意志、或いはその都度の意志表示能力と欲求とそれら三つに対する認知、それを踏まえた意志伝達が他者との間で利益となる事自体への認知は、即ち他者も又自己と同一の利益を得ることを認知していて、こちらの意志と相手への要請を理解出来るであろうという目算が意思疎通の基礎としてある、ということは意思疎通を成立させる条件であったが、今度はそれを自己において行為へと変換させていく際の心的プロセスについて考えてみよう。
それを私は次のように考えてみた。
① 言語使用者である他者の認識
② 言語行為実践の意志発動(自己と同一言語使用者であることの認知を得た後の意志発動)
③ 言語行為における発語、つまり情報格差の説明(何かを聞き教えて貰いたい時は、こちらが相手は知っているだろうが、自分は知らないことを伝える)
④ 他者(発語相手)からの応答の授受の開始・相手の応答に対する認知と情動(情動とは、相手の応答の仕方、親切度を推し量って相手とそれ以降も意思疎通を続行していくべきか否かを決定する)
この四つのプロセスは必須であると思われる。
言語使用者である他者の認識とは奇異に思われるかも知れないが、あるいは精神的に安定を欠き、精神疾患であるかも知れないという可能性を認知し得る時、我々は相手から何か危害を加えられるかも知れないという畏怖の感情から相手から距離を置こうと画策するであろうし、相手が何かテロリストであるかどうかということも同じように警戒心を発動させる十分条件だ。だが勿論それは相手が言語使用者であることは間違いないが、この場合自分にとって意思疎通するのに適切であるかという意思疎通相手選択の条件としては、自己の安全か確保出来て、しかも一定時間内に相手と意思疎通する事自体が成立し得るか否かの判定における言語使用者という適切性に関する心的プロセスであるとご承知頂きたい。①
それがクリアされた段階において我々は次に初めて相手に対して何らかの意思疎通の意志表示をする為のアプローチの手段を講じる。その為に観光地で道に迷った時などは、地元で生活している人であると思われる人に目星をつけて我々はそういった当の人に対して会釈したり、頭を少し下げたりして質問をしたいという態度を示すように身体を構えていくわけだ。②
そして十分そういった意思表示を状況説明的に相手に納得させて然る後、仮に京都で観光旅行しているという事が自分の立場ならそれを簡単に説明して、尤も金閣寺に行くにはどのバスに乗ればいいのですかとか、ここから歩いて行くにはどういう風に行けばいいのですかというような質問をいきなりするだけで、京都とはそもそも観光地であるということは地元の人たちも知っているので、一々説明をする必要はない場合も多いであろう。
要するに「金閣寺に行きたいのですが」ということを相手に言述する③ことによって、金閣寺へのルートという情報を欠如している自己をアピールする。ここで情報格差に対する相手への説明が終了して、相手がもしその情報欠如を穴埋めしてくれる事が出来る、つまりその地理的情報を知っている者であるなら、教えてくれる筈だ。そして③の後にその教えてくれ方、応答の仕方で、いい印象を持った場合、つまりこちらの情報格差の説明と窮状の説明に対する応答の誠実さを判定する事を通して、我々は更に金閣寺の次にはどこそこに行きたいとか、近くで食事をしたいという意志を示すことによって、更に適切なアドヴァイスを得るという事が可能か否かをその段で判定することとなるのだ。④
これが極基本的な日常的な「何かを他人に聞く」ということを通した意思疎通の言語行為プロセスにおける心的順序であると言ってよい。
実は我々はこの心的プロセスを日常的に何の気なしに反復する事を通して、それが可能である他者を無意識の内にリストアップしていき、円滑に情報を交換し得る者をその情報交換の情報内容に応じて優先順位をつけ、親友とか最良の同僚であるとか、地元の顔見知りとか、同じマンション内の隣人とかの中で親しい人とそれほどではない人との間での格差を通した階層的な面識者のネットを形成しているのである。そして親しさを得ることの最大の誘引材料とは、上記の心的プロセスにおける④での相手に対する好感度と、そこで得た情報内容の適切さと密度といった獲得情報の重要性に対する判定に依存しているということは言うまでもないだろう。
Friday, March 26, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 異星人との意思疎通が可能である条件、と言うより私たちと彼らが同じ言語所有者である条件
私たち生命は皆外部の情報を摂取して生活している。只それはサンゴやナマコも同じようにそうしている。しかし彼らに脳はなく、それを「情報」であるという認識は持てない。勿論極論すればそれを「情報」と名指せるのは当然人間だけであるが、少なくとも名辞的理解ということのもっと原初的な形でなら多くの哺乳類でもあり得る。
例えばその極プリミティヴな条件(情報を情報として認知し得ること)とは何であろうか?
それを私は自己と他者を存在論的にも認識論的にも把握し、その両者が情報を摂取してその二つの間に質的、量的な差異がある、ということを認識し得るということに他ならないと思う。
だがそれはあくまで情報を情報であるという基本条件であり、その情報を伝え合うという行為へは未だ直結しない。その情報を伝達し合うということ、あるいは自分に携えている情報を他者に伝える、ということはとりもなおさず相手から相手しか知らない情報を伝えて貰うということと期を一にしているが、それがなされ得る条件を私は次のように設定してみた。
① 情報格差が自分(自己)と他者間、あるいは他者と他者間において存在する。
② 情報共有の意志・欲求が存在する。
③ 自己と他者間相互に要請・依頼・命令・禁止その他の意志表示能力と欲求が存在する。
④ ①から③の意味を認知し得る(説明がよく出来なくてもそれ自体を把握している)。
⑤ ①から③をすることによって利益を得るということを認知し得て、実際にそれをしてみようという意志・欲求がある。
これらは他者と自己の関係を理解するという事に他ならない。それを全部満たした時に言語行為を意思疎通として機能させ得る条件が揃ったと言ってよい。勿論我々地球人にとっての言語行為初期設定条件である。
さてもし地球上にある我々の星から遠く隔たった惑星から到来した異星人が宇宙船のタラップから降りて来て、彼らと意思疎通しようと地球防衛軍の長官なりアメリカ大統領が異星人の対話手の一人と言葉を交わす時、少なくとも彼らが個体毎に移動するようなタイプの生活者であったなら、個体毎に考えがあり、自己と他者があるに違いないとそう思いまず声を発するだろう。だが勿論彼らに口のようなものがあれば、我々はそうするだろうが、顔の形状も、顔の位置もまるでよく分からないというようなことであれば、声を発しても、もしかしたら彼らには聴覚というものが存在するかどうかさえ分からないから、あるいは恐る恐る肌に接触しようと試みる地球人の代表も現れよう。尤もかなりぬめぬめとしたり気色の悪い風体だったりするなら、それをも躊躇するだろうけれど。
だが少なくとも個体がその個体の身体から声を発するという形式で意思疎通がなされているのなら、我々はそれを言語行為と見做すに違いない。
只重要なのは、個体と個体が声を発して言語行為をするにしても、記した①から⑤の条件を満たしているかどうかはやはり依然定かではない。
例えばこの①から⑤の中の①が欠落しているとすると、彼らにとって地球人のAとBが語ることがそれぞれ別箇の個体から発せられていると了解されても尚、ひょっとしたらそれぞれが「異なった」考えを抱くという事、即ち異なった情報を異なった状況で摂取するということが理解出来ているとは限らない故(例えば一個体の発する発言が全ての成員による合意でなされている可能性もある)我々はかなり注意して発言することが求められる。
例えばひょっとしたらこの異星人は全ての個体へと何らかの方法で全ての情報を瞬時に送信しているという可能性もある。だから個々が異なった発言をすることが当然である我々の流儀で意思疎通していいものであるかとめいめいが勝手に発言することが憚られる。
しかしまず地球人は、この地球へと異星人が彼等にとって異星であるにもかかわらず訪れたという事実に於いて、それだけで意思疎通の意欲、つまり他者への好奇心があることを知っている。
好奇心とは何か?他者に対する最初期の認知を契機に、認知量が積み重なるに従って相手への好奇心が倍増し、その好奇心が更なる「知りたい欲求」を生み出し、認知量を倍増させるという認知と好奇心との相互補完関係が我々には認識可能だ。
こうして恐らく異星人は地球を何らかの契機によって発見し、こうして訪れたというわけである。
そして遠い星から私たち地球人と直接交信する為に宇宙船に乗ってやって来ているわけだから、当然それ相応の文明、つまり科学技術を持っている筈だ。そしてそれは我々の文明をも凌ぐものであるに違いない。
そして逆に我々はそれ程の科学技術を発展させるだけの知性が①から⑤の条件を満たさない形で進化し得るか、恐らく地球上の全ての哲学者、認知神経学者、脳生理学者たちが挙って彼等異星人の知性を推し量ることだろう。
情報量や質の個体毎の差異を認識し①、それを相互に交換し合う、例えばAのみ知り得るBの知らぬ事をAがBに、逆にBのみ知り得る事Aの知らぬことをBがAに伝えるという行為が成立する②。
つまり②はAはBから、BはAから情報を摂取する事に利益があると理解している、ということは、それ以前にAはBを、BはAを自分と同じように理解しているだろう、と目算を持つことを意味する。私たちは実はこの①から②のプロセスにおいて、情報格差と情報交換への進展に於いて、相手もこちらと同じ認識と理解を持つという目算=直観を殆ど本能的に持つものと思われる。
脳科学的にミラーニューロンでも証明されているが、このミラーニューロン・ファンクションが、あるいは好奇心を発動させ、その好奇心の発動が情報交換による利益を、偏利ではなく相互のものとして認識させる時、それを習慣化させる決意の下に、我々は「友情」とか「同志愛」とか「同僚同士の結束」とそれを命名し(心の中で記述する)ようとするだろう。つまりそうやって格差→交換のシステムそのものをその様に意味づけ只単なる生活を超えた人生の価値として位置づけようとするわけだ。
その人生の価値を持続していきたいと願う心理が科学を生活上で定着させることを我々が歴史上でしてきたことを鑑みると、彼等異星人もまたそうであるに違いないと結論するのではないだろうか?
こうして最初抱いていた異星人に対する懐疑的な意思疎通を巡る違和感を解除して、今度は彼等が発する音声を意味として理解しようと翻訳に努めるようになるだろう。通訳が登場して活躍する以前にまず翻訳家が彼等の音声を録音とか録画をして再生しつつ解析していく必要がある。
言語行為である為には発語者にとってそれを発することによって、何らかのメリットが齎されるという目算が発語者にあり、そのメリットは、発語される側が発語され、それに応じて自分が返答すること、そしてその返答を聴く相手である最初の発語者がその返答自体をメリットのあるものとして認識することを相手が示すことによって得る快を認識しているということに他ならず、その双方における同意が暗黙の内であれ、言葉的説明であれなされていないのであれば、意思疎通としての言語行為は成立し得ない。
発語する以前に、発語することで相互にメリットを確認し得るか否かという判断が介在しているのだ。それは相手が少なくともこちらが攻撃を仕掛けない限り向こうからは攻撃してはこないだろうという目算によって成立しているのだ。
すると相手が個体毎にもし発語することが可能であると地球人が認識し得たのなら、基本的にそれは私的言語ではあり得ない。そこで文法解析、語彙の意味の解読が徐々に要請されていき、我々は異星人を地球人と同じ言語行為システムの保持者と認識していくことになるだろう。
尤も発語行為をすることによって発語内行為にしろ、発語媒介行為にしろ、より相手を制覇したり、存在を壊滅させたりするような目的でだけで成立する、本当の意味での武器としての言語行為も全くあり得ないということもないかも知れない、という可能性に対して、それを打ち消すことは、そういった攻撃と壊滅だけを目的として言語行為によって進化を遂げる事、少なくとも異星にまで宇宙船を飛ばしてミッションをこなす事自体が文明化されたレヴェルで可能か、つまり文明自体がそのような相手に対する制覇と壊滅を目的としたサディズムにおいて進化し得るかという思考実験によって我々はその可能性の有無について判断し得るだろう。相手と対話する事で、仮に齟齬を来たしていくことがあったとしても尚、対話する以前よりは何かを得る事が出来ると認識し得るか否かによって言語行為の成立与件が証明され得るだろう。
だがやはり我々には齟齬や対立さえ、一定の相互のメリットにおいて認識されていない限り、そのような本当の武器としての言語行為が成立し得るということ、あるいはそういった言語行為において文明が進化していくのだろうかということになると、いささか懐疑的にならざるを得ないというところが本当のところではないだろうか?そしてその理由を徐々に我々は解明していく必要があるだろう。それは直接その命題を考えることからよりは、寧ろその周囲の命題を一つ一つ片付けていくことによってのみ解明され得るだろうとは言える気が今は私にするのである。
例えばその極プリミティヴな条件(情報を情報として認知し得ること)とは何であろうか?
それを私は自己と他者を存在論的にも認識論的にも把握し、その両者が情報を摂取してその二つの間に質的、量的な差異がある、ということを認識し得るということに他ならないと思う。
だがそれはあくまで情報を情報であるという基本条件であり、その情報を伝え合うという行為へは未だ直結しない。その情報を伝達し合うということ、あるいは自分に携えている情報を他者に伝える、ということはとりもなおさず相手から相手しか知らない情報を伝えて貰うということと期を一にしているが、それがなされ得る条件を私は次のように設定してみた。
① 情報格差が自分(自己)と他者間、あるいは他者と他者間において存在する。
② 情報共有の意志・欲求が存在する。
③ 自己と他者間相互に要請・依頼・命令・禁止その他の意志表示能力と欲求が存在する。
④ ①から③の意味を認知し得る(説明がよく出来なくてもそれ自体を把握している)。
⑤ ①から③をすることによって利益を得るということを認知し得て、実際にそれをしてみようという意志・欲求がある。
これらは他者と自己の関係を理解するという事に他ならない。それを全部満たした時に言語行為を意思疎通として機能させ得る条件が揃ったと言ってよい。勿論我々地球人にとっての言語行為初期設定条件である。
さてもし地球上にある我々の星から遠く隔たった惑星から到来した異星人が宇宙船のタラップから降りて来て、彼らと意思疎通しようと地球防衛軍の長官なりアメリカ大統領が異星人の対話手の一人と言葉を交わす時、少なくとも彼らが個体毎に移動するようなタイプの生活者であったなら、個体毎に考えがあり、自己と他者があるに違いないとそう思いまず声を発するだろう。だが勿論彼らに口のようなものがあれば、我々はそうするだろうが、顔の形状も、顔の位置もまるでよく分からないというようなことであれば、声を発しても、もしかしたら彼らには聴覚というものが存在するかどうかさえ分からないから、あるいは恐る恐る肌に接触しようと試みる地球人の代表も現れよう。尤もかなりぬめぬめとしたり気色の悪い風体だったりするなら、それをも躊躇するだろうけれど。
だが少なくとも個体がその個体の身体から声を発するという形式で意思疎通がなされているのなら、我々はそれを言語行為と見做すに違いない。
只重要なのは、個体と個体が声を発して言語行為をするにしても、記した①から⑤の条件を満たしているかどうかはやはり依然定かではない。
例えばこの①から⑤の中の①が欠落しているとすると、彼らにとって地球人のAとBが語ることがそれぞれ別箇の個体から発せられていると了解されても尚、ひょっとしたらそれぞれが「異なった」考えを抱くという事、即ち異なった情報を異なった状況で摂取するということが理解出来ているとは限らない故(例えば一個体の発する発言が全ての成員による合意でなされている可能性もある)我々はかなり注意して発言することが求められる。
例えばひょっとしたらこの異星人は全ての個体へと何らかの方法で全ての情報を瞬時に送信しているという可能性もある。だから個々が異なった発言をすることが当然である我々の流儀で意思疎通していいものであるかとめいめいが勝手に発言することが憚られる。
しかしまず地球人は、この地球へと異星人が彼等にとって異星であるにもかかわらず訪れたという事実に於いて、それだけで意思疎通の意欲、つまり他者への好奇心があることを知っている。
好奇心とは何か?他者に対する最初期の認知を契機に、認知量が積み重なるに従って相手への好奇心が倍増し、その好奇心が更なる「知りたい欲求」を生み出し、認知量を倍増させるという認知と好奇心との相互補完関係が我々には認識可能だ。
こうして恐らく異星人は地球を何らかの契機によって発見し、こうして訪れたというわけである。
そして遠い星から私たち地球人と直接交信する為に宇宙船に乗ってやって来ているわけだから、当然それ相応の文明、つまり科学技術を持っている筈だ。そしてそれは我々の文明をも凌ぐものであるに違いない。
そして逆に我々はそれ程の科学技術を発展させるだけの知性が①から⑤の条件を満たさない形で進化し得るか、恐らく地球上の全ての哲学者、認知神経学者、脳生理学者たちが挙って彼等異星人の知性を推し量ることだろう。
情報量や質の個体毎の差異を認識し①、それを相互に交換し合う、例えばAのみ知り得るBの知らぬ事をAがBに、逆にBのみ知り得る事Aの知らぬことをBがAに伝えるという行為が成立する②。
つまり②はAはBから、BはAから情報を摂取する事に利益があると理解している、ということは、それ以前にAはBを、BはAを自分と同じように理解しているだろう、と目算を持つことを意味する。私たちは実はこの①から②のプロセスにおいて、情報格差と情報交換への進展に於いて、相手もこちらと同じ認識と理解を持つという目算=直観を殆ど本能的に持つものと思われる。
脳科学的にミラーニューロンでも証明されているが、このミラーニューロン・ファンクションが、あるいは好奇心を発動させ、その好奇心の発動が情報交換による利益を、偏利ではなく相互のものとして認識させる時、それを習慣化させる決意の下に、我々は「友情」とか「同志愛」とか「同僚同士の結束」とそれを命名し(心の中で記述する)ようとするだろう。つまりそうやって格差→交換のシステムそのものをその様に意味づけ只単なる生活を超えた人生の価値として位置づけようとするわけだ。
その人生の価値を持続していきたいと願う心理が科学を生活上で定着させることを我々が歴史上でしてきたことを鑑みると、彼等異星人もまたそうであるに違いないと結論するのではないだろうか?
こうして最初抱いていた異星人に対する懐疑的な意思疎通を巡る違和感を解除して、今度は彼等が発する音声を意味として理解しようと翻訳に努めるようになるだろう。通訳が登場して活躍する以前にまず翻訳家が彼等の音声を録音とか録画をして再生しつつ解析していく必要がある。
言語行為である為には発語者にとってそれを発することによって、何らかのメリットが齎されるという目算が発語者にあり、そのメリットは、発語される側が発語され、それに応じて自分が返答すること、そしてその返答を聴く相手である最初の発語者がその返答自体をメリットのあるものとして認識することを相手が示すことによって得る快を認識しているということに他ならず、その双方における同意が暗黙の内であれ、言葉的説明であれなされていないのであれば、意思疎通としての言語行為は成立し得ない。
発語する以前に、発語することで相互にメリットを確認し得るか否かという判断が介在しているのだ。それは相手が少なくともこちらが攻撃を仕掛けない限り向こうからは攻撃してはこないだろうという目算によって成立しているのだ。
すると相手が個体毎にもし発語することが可能であると地球人が認識し得たのなら、基本的にそれは私的言語ではあり得ない。そこで文法解析、語彙の意味の解読が徐々に要請されていき、我々は異星人を地球人と同じ言語行為システムの保持者と認識していくことになるだろう。
尤も発語行為をすることによって発語内行為にしろ、発語媒介行為にしろ、より相手を制覇したり、存在を壊滅させたりするような目的でだけで成立する、本当の意味での武器としての言語行為も全くあり得ないということもないかも知れない、という可能性に対して、それを打ち消すことは、そういった攻撃と壊滅だけを目的として言語行為によって進化を遂げる事、少なくとも異星にまで宇宙船を飛ばしてミッションをこなす事自体が文明化されたレヴェルで可能か、つまり文明自体がそのような相手に対する制覇と壊滅を目的としたサディズムにおいて進化し得るかという思考実験によって我々はその可能性の有無について判断し得るだろう。相手と対話する事で、仮に齟齬を来たしていくことがあったとしても尚、対話する以前よりは何かを得る事が出来ると認識し得るか否かによって言語行為の成立与件が証明され得るだろう。
だがやはり我々には齟齬や対立さえ、一定の相互のメリットにおいて認識されていない限り、そのような本当の武器としての言語行為が成立し得るということ、あるいはそういった言語行為において文明が進化していくのだろうかということになると、いささか懐疑的にならざるを得ないというところが本当のところではないだろうか?そしてその理由を徐々に我々は解明していく必要があるだろう。それは直接その命題を考えることからよりは、寧ろその周囲の命題を一つ一つ片付けていくことによってのみ解明され得るだろうとは言える気が今は私にするのである。
Tuesday, March 23, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 対話する上で亀裂がなかなか埋まらないこと
哲学命題上での論争において私が実感してきたこととは、端的にある命題、例えば意識、自由意志、ゾンビといったことを考える際に、一番要となることとは、そのことを考える人間がそれらの命題を通して実際はどういう信念で述べているかということである。
全ての言語行為は、結果的には示された記述や、発話内容の、意味に帰する。にもかかわらず、ある部分でどうしても理解が相互に得られないこともかなり多い。
その場合実は多分にタブー視している、アンタッチャブルは信念、端的にその大半が有神論であるか無神論であるかということなのだが、それを相互に口を噤んでいるが故に、最終的にかなりの度合いで理解が得られているにもかかわらず、ある一線では決して相互に踏み越えられないという齟齬の感触を掴むこととなる。
意識が神から与えられていると考えるタイプの論客でも興味深いことには、彼らは生自体への執着心を棄てきれないということである。もし来世があり、それがあるから死がその来世への旅立ちであるとするなら、本来死に対して恐怖を抱く必要がない筈だというのが私の意見であるが、彼らは端的に死を忌み嫌う。にもかかわらず彼らにとって生とは神からの思し召しであり、且つ来世は保証されているのである。
これは私の実感からすれば矛盾しているように思われる。つまり来世などないというのなら、死自体への恐怖というのはよく理解出来る。しかし彼らは違う。
クオリアを論じるということの不毛を私は以前から感じ取っていたが、そのことを表立って主張しているのは、ダニエル・デネットら極少数である。
何故クオリアが論点として不毛であるかと言うと、あるクオリアを感受する人の感受の仕方(それは機能論的なメカニズムではなく、もっと現象的なこととしてのものである)自体が客観的には確認出来ないということだけではない。あるクオリアが発生するということが、赤いクオリアの意味が、例えばそれまでそんな鮮やかな赤い色を見たことがないという印象の問題であるのか、それともその赤い色を見た時に得た色彩的な感受それ自体なのか、それともそのようにその赤いクオリアを感じる一連の意識の流れ自体を指しているのかということそれぞれに対する「~がクオリアの感受である」という定義がデネットが「スウィート・ドリームズ」で述べているように、曖昧だからである。
従って私見ではクオリアとは極めて知覚的印象に依存していると考えるのが自然であり、それはその印象を極めて特化するものとして記憶ということが考えられる。
それはまさにデヴィッド・チャルマースの主張するような意味で「ハード・プロブレム」であることの理由自体が他の全てのように数値化し得ないということではなく、総体的な知覚体験の中でクオリア感受という事態をどのような水準で規定していったらよいかということに全てが収斂される気がするのである。
それは痛いという感覚においても同様ではないだろうか?つまりある痛みを肌とか内臓に感じたということの持つ意味が、それまでにない痛みだったということ一つとっても、ある人生の時期において初めて得た痛み自体も、それが若い頃であるなら、身体的にも若いし、抵抗力もあるから、我慢することが出来たというようなことも考慮に入れるなら、痛み自体の感受とその痛みの性質自体も極めて過去から現在までに至る記憶的なことと大きな相関を持っていると言えるだろうからである。
それはかなり身体論的なことであるし、痛みの感受自体への記憶の問題である。だが言語体験、言説上での体験、端的に幼児期における宗教体験性に根差した信念において、我々は死後の世界をそれこそカントのように概念設定上での条件として提示しているような時代と同様に信じている人と、そうではなくそれ自体に疑念を持って哲学に臨む人との間にはある種超え難い亀裂が命題論争中にも生じてこよう。
日本人が進化とか自然と言う時そこには多くアニミスティックな感慨があるように経験上私は感じ取っている。それは幽霊とか霊魂、心霊写真などに端的に散見することが可能である。つまり科学的な信念として「それは非科学的だ」ということと、それが何となくあるように感じるということは確かに共存し得ると言えば言える。しかしそれを払拭し得るのが進化という概念への理解であるし、自然という科学的認識の理解ということであるなら、多くの日本人は死んだら無になるという発想自体を受け入れられない人の方が圧倒的に多いというのが私の印象だ。つまりそういう考えを持っていると老いた人に対して冷たいという意識を巣食わせることが多いようなのだ。
欧米の形而上学とはそれを批判する上でも形而上学が拠って立つ神という認識を一旦は受け入れざるを得ない。にもかかわらずその命題論的な論争においても、真に神を信仰する者と、そうではない者との間の亀裂はなかなか埋まらないであろう。
つまり死後にも意識が残存するということを含めて自由意志一つ論じていくに際しても、死後は無と化すということとでは全く論争は嚙み合わないし、意識も同様だ。それは従ってゾンビであるという状態の認識一つとっても(実は未だに私はゾンビであるということの意味がよく理解出来ない)、あるいはクオリア自体の感受をどういう状態のことを言うのかということに関しても多大な精神的ロスを来たしていくというのが私の意見である。
それは前章で述べた最初の信者と二番目の信者という宗教教団的な意味合いでの結束ということで言えば、確かに最初の信者の信心に感動するということがあるかも知れないが、こと宗教というものは論じるものではない(避けるといった方が適切かも知れない)為に我々は友愛的な協調性を発見するが、最初の信者と第二の信者が論じ合う中で必ず齟齬が顕在化していくのではないか、ということが私の考えなのである。
全ての言語行為は、結果的には示された記述や、発話内容の、意味に帰する。にもかかわらず、ある部分でどうしても理解が相互に得られないこともかなり多い。
その場合実は多分にタブー視している、アンタッチャブルは信念、端的にその大半が有神論であるか無神論であるかということなのだが、それを相互に口を噤んでいるが故に、最終的にかなりの度合いで理解が得られているにもかかわらず、ある一線では決して相互に踏み越えられないという齟齬の感触を掴むこととなる。
意識が神から与えられていると考えるタイプの論客でも興味深いことには、彼らは生自体への執着心を棄てきれないということである。もし来世があり、それがあるから死がその来世への旅立ちであるとするなら、本来死に対して恐怖を抱く必要がない筈だというのが私の意見であるが、彼らは端的に死を忌み嫌う。にもかかわらず彼らにとって生とは神からの思し召しであり、且つ来世は保証されているのである。
これは私の実感からすれば矛盾しているように思われる。つまり来世などないというのなら、死自体への恐怖というのはよく理解出来る。しかし彼らは違う。
クオリアを論じるということの不毛を私は以前から感じ取っていたが、そのことを表立って主張しているのは、ダニエル・デネットら極少数である。
何故クオリアが論点として不毛であるかと言うと、あるクオリアを感受する人の感受の仕方(それは機能論的なメカニズムではなく、もっと現象的なこととしてのものである)自体が客観的には確認出来ないということだけではない。あるクオリアが発生するということが、赤いクオリアの意味が、例えばそれまでそんな鮮やかな赤い色を見たことがないという印象の問題であるのか、それともその赤い色を見た時に得た色彩的な感受それ自体なのか、それともそのようにその赤いクオリアを感じる一連の意識の流れ自体を指しているのかということそれぞれに対する「~がクオリアの感受である」という定義がデネットが「スウィート・ドリームズ」で述べているように、曖昧だからである。
従って私見ではクオリアとは極めて知覚的印象に依存していると考えるのが自然であり、それはその印象を極めて特化するものとして記憶ということが考えられる。
それはまさにデヴィッド・チャルマースの主張するような意味で「ハード・プロブレム」であることの理由自体が他の全てのように数値化し得ないということではなく、総体的な知覚体験の中でクオリア感受という事態をどのような水準で規定していったらよいかということに全てが収斂される気がするのである。
それは痛いという感覚においても同様ではないだろうか?つまりある痛みを肌とか内臓に感じたということの持つ意味が、それまでにない痛みだったということ一つとっても、ある人生の時期において初めて得た痛み自体も、それが若い頃であるなら、身体的にも若いし、抵抗力もあるから、我慢することが出来たというようなことも考慮に入れるなら、痛み自体の感受とその痛みの性質自体も極めて過去から現在までに至る記憶的なことと大きな相関を持っていると言えるだろうからである。
それはかなり身体論的なことであるし、痛みの感受自体への記憶の問題である。だが言語体験、言説上での体験、端的に幼児期における宗教体験性に根差した信念において、我々は死後の世界をそれこそカントのように概念設定上での条件として提示しているような時代と同様に信じている人と、そうではなくそれ自体に疑念を持って哲学に臨む人との間にはある種超え難い亀裂が命題論争中にも生じてこよう。
日本人が進化とか自然と言う時そこには多くアニミスティックな感慨があるように経験上私は感じ取っている。それは幽霊とか霊魂、心霊写真などに端的に散見することが可能である。つまり科学的な信念として「それは非科学的だ」ということと、それが何となくあるように感じるということは確かに共存し得ると言えば言える。しかしそれを払拭し得るのが進化という概念への理解であるし、自然という科学的認識の理解ということであるなら、多くの日本人は死んだら無になるという発想自体を受け入れられない人の方が圧倒的に多いというのが私の印象だ。つまりそういう考えを持っていると老いた人に対して冷たいという意識を巣食わせることが多いようなのだ。
欧米の形而上学とはそれを批判する上でも形而上学が拠って立つ神という認識を一旦は受け入れざるを得ない。にもかかわらずその命題論的な論争においても、真に神を信仰する者と、そうではない者との間の亀裂はなかなか埋まらないであろう。
つまり死後にも意識が残存するということを含めて自由意志一つ論じていくに際しても、死後は無と化すということとでは全く論争は嚙み合わないし、意識も同様だ。それは従ってゾンビであるという状態の認識一つとっても(実は未だに私はゾンビであるということの意味がよく理解出来ない)、あるいはクオリア自体の感受をどういう状態のことを言うのかということに関しても多大な精神的ロスを来たしていくというのが私の意見である。
それは前章で述べた最初の信者と二番目の信者という宗教教団的な意味合いでの結束ということで言えば、確かに最初の信者の信心に感動するということがあるかも知れないが、こと宗教というものは論じるものではない(避けるといった方が適切かも知れない)為に我々は友愛的な協調性を発見するが、最初の信者と第二の信者が論じ合う中で必ず齟齬が顕在化していくのではないか、ということが私の考えなのである。
Monday, March 8, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 信じることとは何か?感銘を受けたりした人や好きな人の考えに合わせることと科学的事実
私たちは何かを信じる時、ある考えの場合、それをじっくりと考えそれが正しいと判断してあることを正しいと信じている。その場合理性が感情を統制している。
だが一方ではあることを発見したりして何かを信じるということ(考えにおいて正しいと判断しているのではなく実例を経験して正しいと判断する)、ある人が、とりわけ自分が好きな人とか尊敬出来る人がしていることとか考えを正しいと思いたいので(仮に自分のそれまでの考え方と違っていたとしても尚)その考えを採用し、次第にそれを正しいと信じていくようになるということもある。
そしてこの二つは必ずしも常に分離しているわけではなく(勿論分離して別箇の仕方でも存在し得るけれども)同時的である場合も多い。
前者の判断は理性論的(合理論的)考えであり、後者は経験論的考えであると言える。
例えば私たちはこの後者の例をあるキリスト教への改宗者の改心に喩える事が出来る。
聖書は最初誰かによって書かれた。その時点で書いた人(あるいは人たち)はそこに記述されている事柄を事実として書いたか、それともそれを事実として人々を信じ込ませるために「作り事」として書いたわけだ。だが聖書が一旦万民へと行き渡ると、その聖書を読んで一字一句正しい、つまり本当にあった事として信じる者が出現し、その者が信者となる。その者を「最初の信者」と呼ぼう。
その信者は布教活動をするようになる。やがてその布教活動をしている最初の信者の行動を観察して、次第にその姿に感銘を受けるようになる者がいたとしよう。その者を「第二の信者」と呼ぼう。
その者もまた一度は聖書を読んでいた。だがその時点では決してそこに書かれていることを真実であるとは受け取らなかったとしよう。しかしその布教者である最初の信者の布教する姿と、聖書に書かれた事への信仰(本当の事であると信じている事)自体に感銘を受ける事によって、それまで「そこに書かれてある事は「作り事」である」という考え自体を修正し、「それは違う」と思おうと決意するに至る。そして最初の信者の信じるように「それは本当にあった事だ」と信じるようになっていく。要するに最初の信者の信念へと自己の信念を同化させていくようになる、というわけである。そして第二の信者になる。
この信念の形成は理性が感情を統制していた最初の信者への懐疑が、最初の信者の布教行動を粒さに見るに連れてその信念に感銘を受ける事によって改心するわけであるから、感情が理性を統制する一つの典型と見ることも出来る。
しかし同時にこの感情が理性を統制する事というのは、宗教的改心(この場合あくまで最初の信者に対する感情という事で考えているわけであり、それ以外の最初の信者のようなタイプのものも仮に彼が最初に聖書を読むまではそこに記述されている事を知らなかったが、それを読んでそれを信じるという改心のようなものもあり得るだろう)だけでなく、例えば理論上では正しいと思っていたこと、つまり理性論的に正当性を主張していた事が、ある科学実験過程を通して「違う」と実験結果から判断されるような経験論的判断においても成立し得る。つまり宗教的感情というものにあると取り敢えず私によって仮想された最初の信者に対する第二の信者による人格的、行動論的な感動という事実から、理性的判断、そういう素晴らしい人が信じる事は正しいに違いないという判断及びそれを信じ続ける信念は、実はそれを自然界の実験結果という経験的事実に対する「実験でこれだけのことが証明されたのだから、それまで頭で考えていた事とは違うということは正しいに違いない」という判断及びそれを信じ続ける信念と構造的には何ら変わりないという事が言える。
そこで哲学的には自然科学的事実への信念も又一つの宗教的信仰の決意、つまり「それは正しいに違いないから信じることとしよう」という言わば感情が理性を統制しようとする信念形成のプロセスと捉える事が可能となる。
信念が形成される時必ず何らかの根拠が必要とされるとすると、ある行動を意志し、それを決行する時には必ず意志決定の合理化がなされる。そしてある命題的態度を行為へと移行させる過程において、なされる「それは正しいに違いないから行為しても間違いではあるまい」という決意が介在することとなる。
その意志決定の合理化において正しいと信じられることに対する信念を確固とするものとは、端的に「そうであると考えれば正しいと納得出来る」とか「そうであると考えればそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という理性論的判断であるケースと、「ある信じられる人が信じているから正しいと納得出来る」とか「ある信じられる観察事実によってそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という経験論的判断であるケースとに概念規定上は認識し得る。だがそれはそのように全く相反するケースであるように認識され得ることもあれば、そうではなくその二つが密接に絡み合って一個の判断と信念形成となっているということもあり得よう。またどちらか一方である判断と信念形成だけでは心もとないということから、他方の判断と信念形成を適用して、そちらも充足し得た時のみ「それは正しい」と結論し、それ以降それを信じていくということ、つまり決意することもあり得るということになる。
付記 次のブログにおいて本章と関連あることを述べているので参照されたし。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-05a6.html
だが一方ではあることを発見したりして何かを信じるということ(考えにおいて正しいと判断しているのではなく実例を経験して正しいと判断する)、ある人が、とりわけ自分が好きな人とか尊敬出来る人がしていることとか考えを正しいと思いたいので(仮に自分のそれまでの考え方と違っていたとしても尚)その考えを採用し、次第にそれを正しいと信じていくようになるということもある。
そしてこの二つは必ずしも常に分離しているわけではなく(勿論分離して別箇の仕方でも存在し得るけれども)同時的である場合も多い。
前者の判断は理性論的(合理論的)考えであり、後者は経験論的考えであると言える。
例えば私たちはこの後者の例をあるキリスト教への改宗者の改心に喩える事が出来る。
聖書は最初誰かによって書かれた。その時点で書いた人(あるいは人たち)はそこに記述されている事柄を事実として書いたか、それともそれを事実として人々を信じ込ませるために「作り事」として書いたわけだ。だが聖書が一旦万民へと行き渡ると、その聖書を読んで一字一句正しい、つまり本当にあった事として信じる者が出現し、その者が信者となる。その者を「最初の信者」と呼ぼう。
その信者は布教活動をするようになる。やがてその布教活動をしている最初の信者の行動を観察して、次第にその姿に感銘を受けるようになる者がいたとしよう。その者を「第二の信者」と呼ぼう。
その者もまた一度は聖書を読んでいた。だがその時点では決してそこに書かれていることを真実であるとは受け取らなかったとしよう。しかしその布教者である最初の信者の布教する姿と、聖書に書かれた事への信仰(本当の事であると信じている事)自体に感銘を受ける事によって、それまで「そこに書かれてある事は「作り事」である」という考え自体を修正し、「それは違う」と思おうと決意するに至る。そして最初の信者の信じるように「それは本当にあった事だ」と信じるようになっていく。要するに最初の信者の信念へと自己の信念を同化させていくようになる、というわけである。そして第二の信者になる。
この信念の形成は理性が感情を統制していた最初の信者への懐疑が、最初の信者の布教行動を粒さに見るに連れてその信念に感銘を受ける事によって改心するわけであるから、感情が理性を統制する一つの典型と見ることも出来る。
しかし同時にこの感情が理性を統制する事というのは、宗教的改心(この場合あくまで最初の信者に対する感情という事で考えているわけであり、それ以外の最初の信者のようなタイプのものも仮に彼が最初に聖書を読むまではそこに記述されている事を知らなかったが、それを読んでそれを信じるという改心のようなものもあり得るだろう)だけでなく、例えば理論上では正しいと思っていたこと、つまり理性論的に正当性を主張していた事が、ある科学実験過程を通して「違う」と実験結果から判断されるような経験論的判断においても成立し得る。つまり宗教的感情というものにあると取り敢えず私によって仮想された最初の信者に対する第二の信者による人格的、行動論的な感動という事実から、理性的判断、そういう素晴らしい人が信じる事は正しいに違いないという判断及びそれを信じ続ける信念は、実はそれを自然界の実験結果という経験的事実に対する「実験でこれだけのことが証明されたのだから、それまで頭で考えていた事とは違うということは正しいに違いない」という判断及びそれを信じ続ける信念と構造的には何ら変わりないという事が言える。
そこで哲学的には自然科学的事実への信念も又一つの宗教的信仰の決意、つまり「それは正しいに違いないから信じることとしよう」という言わば感情が理性を統制しようとする信念形成のプロセスと捉える事が可能となる。
信念が形成される時必ず何らかの根拠が必要とされるとすると、ある行動を意志し、それを決行する時には必ず意志決定の合理化がなされる。そしてある命題的態度を行為へと移行させる過程において、なされる「それは正しいに違いないから行為しても間違いではあるまい」という決意が介在することとなる。
その意志決定の合理化において正しいと信じられることに対する信念を確固とするものとは、端的に「そうであると考えれば正しいと納得出来る」とか「そうであると考えればそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という理性論的判断であるケースと、「ある信じられる人が信じているから正しいと納得出来る」とか「ある信じられる観察事実によってそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という経験論的判断であるケースとに概念規定上は認識し得る。だがそれはそのように全く相反するケースであるように認識され得ることもあれば、そうではなくその二つが密接に絡み合って一個の判断と信念形成となっているということもあり得よう。またどちらか一方である判断と信念形成だけでは心もとないということから、他方の判断と信念形成を適用して、そちらも充足し得た時のみ「それは正しい」と結論し、それ以降それを信じていくということ、つまり決意することもあり得るということになる。
付記 次のブログにおいて本章と関連あることを述べているので参照されたし。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-05a6.html
Wednesday, March 3, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十八章 応用と実用②他者にレスキューを求めることを恥と思うな
ホームレスへと転落した人の大半は、一人で全てを抱え込もうとするプライドが禍しているのだ。その事こそが現状を招いたと自覚せよ、これが本章で言いたいことである。
他者から恩を受けることに対する極端な恐怖、あるいは誰かから雇用されることに対する極端な恐怖が人に何かを要請したりすることを躊躇するようになり、自らレスキューを求めることすら閉ざしてしまい、そこから抜け出せずにホームレスへと転落してしまうということも多いものと私には思われるのである。
自分を救うことが出来るのは、本質的に自分だけであり、それは自己困窮の状況説明、自己能力、つまりレスキューして貰う代わりに社会復帰する際に少しでも被雇用へと直結し得る業務内容をハローワーク等で説明せよ、ということである。その為にも要請内容を明確化せよ、ということである。それよりも何よりそのようなレスキューをいよいよ必要となるようになる前に、例えば貴方が仕事で何か困窮した時には、即座に上司なり、その上司に説明したり相談したりしても埒が明かないときには友人や知人へと相談することを躊躇うなということである。そうしておけば、例えば営業成績が不審でリストラ対象になる以前に手を講じることも可能だからだ。つまり最悪な状況になる以前に、心ある他者に説明し、相談するという選択肢を経ていれば、何らかの対策を講じることも可能だという事である。往々にしてそのような対策を講じなかったが故にホームレスにまで転落していってしまうということがことの他多いのではないかと私は思っている。
またこちらから働きかけなければ、行政とは一切動かないのである。つまり自己救済を確立する為にこちら側から救済する正当性、つまり行政がある個人を救済することの正義を理解することが出来るように、仕向け、説明することをいつでも用意しておくべきなのである。
それは営業部員が上司に受け持ち区域のクライアントの分布状況を鑑みた営業戦略を事前に綿密にノルマ達成範囲の現実性と可能性の説明をする能力などにも適用出来るのである。つまり人間とは他者に対して、その他者が情報的に不足している部分を補うように常に情報交換をしておけば、より円滑にこちら側に課せられた業務内容やこちら側に適用される努力目標が明確化して、無駄な誤解を招くことを未然に回避し得るのである。つまりそれを日常的に怠っていると、青天の霹靂の如く、ある日突如、上司から怒鳴られ、こちらがちっとも相談していなかったが故に自分一人で悩みを抱え込み、果ては責任を取らされるという憂き目に遭うこととなるのである。つまり常に自己の立たされた状況把握をして、最悪のパターンだけは回避させるべく努力をすべきであり、それは自分一人では解決出来ない案件に関してなら積極的にその事に精通した他者に相談するなり、説明して自己の立たされた困窮に対して理解を得ることが求められているのである。そのことは残念ながらホームレスにまで転落してしまった場合にさえ当て嵌まる。つまりその最悪な困窮状況から一刻も早く離脱する為に、行政からレスキューを得ることを要請すべきであるからだ。常に我々はこう念じておかねばならない。それは「他者にレスキューを求めることを恥と思うな」ということなのである。
付記 最近あるホームレス救済をしている人のレポート番組で、何と大勢の仮施設で救済されるべく収容されているホームレスの人たちが生活保護申請用紙を渡されて生活保護受給を提案されていた時拒否していたことを知って驚いた。要するに彼らは依怙地なプライドが禍して却って生活上での困窮を招いているのである。(河口ミカル)
他者から恩を受けることに対する極端な恐怖、あるいは誰かから雇用されることに対する極端な恐怖が人に何かを要請したりすることを躊躇するようになり、自らレスキューを求めることすら閉ざしてしまい、そこから抜け出せずにホームレスへと転落してしまうということも多いものと私には思われるのである。
自分を救うことが出来るのは、本質的に自分だけであり、それは自己困窮の状況説明、自己能力、つまりレスキューして貰う代わりに社会復帰する際に少しでも被雇用へと直結し得る業務内容をハローワーク等で説明せよ、ということである。その為にも要請内容を明確化せよ、ということである。それよりも何よりそのようなレスキューをいよいよ必要となるようになる前に、例えば貴方が仕事で何か困窮した時には、即座に上司なり、その上司に説明したり相談したりしても埒が明かないときには友人や知人へと相談することを躊躇うなということである。そうしておけば、例えば営業成績が不審でリストラ対象になる以前に手を講じることも可能だからだ。つまり最悪な状況になる以前に、心ある他者に説明し、相談するという選択肢を経ていれば、何らかの対策を講じることも可能だという事である。往々にしてそのような対策を講じなかったが故にホームレスにまで転落していってしまうということがことの他多いのではないかと私は思っている。
またこちらから働きかけなければ、行政とは一切動かないのである。つまり自己救済を確立する為にこちら側から救済する正当性、つまり行政がある個人を救済することの正義を理解することが出来るように、仕向け、説明することをいつでも用意しておくべきなのである。
それは営業部員が上司に受け持ち区域のクライアントの分布状況を鑑みた営業戦略を事前に綿密にノルマ達成範囲の現実性と可能性の説明をする能力などにも適用出来るのである。つまり人間とは他者に対して、その他者が情報的に不足している部分を補うように常に情報交換をしておけば、より円滑にこちら側に課せられた業務内容やこちら側に適用される努力目標が明確化して、無駄な誤解を招くことを未然に回避し得るのである。つまりそれを日常的に怠っていると、青天の霹靂の如く、ある日突如、上司から怒鳴られ、こちらがちっとも相談していなかったが故に自分一人で悩みを抱え込み、果ては責任を取らされるという憂き目に遭うこととなるのである。つまり常に自己の立たされた状況把握をして、最悪のパターンだけは回避させるべく努力をすべきであり、それは自分一人では解決出来ない案件に関してなら積極的にその事に精通した他者に相談するなり、説明して自己の立たされた困窮に対して理解を得ることが求められているのである。そのことは残念ながらホームレスにまで転落してしまった場合にさえ当て嵌まる。つまりその最悪な困窮状況から一刻も早く離脱する為に、行政からレスキューを得ることを要請すべきであるからだ。常に我々はこう念じておかねばならない。それは「他者にレスキューを求めることを恥と思うな」ということなのである。
付記 最近あるホームレス救済をしている人のレポート番組で、何と大勢の仮施設で救済されるべく収容されているホームレスの人たちが生活保護申請用紙を渡されて生活保護受給を提案されていた時拒否していたことを知って驚いた。要するに彼らは依怙地なプライドが禍して却って生活上での困窮を招いているのである。(河口ミカル)
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