私達は何らかの形で日常生活で感動を味わうことがある。それは日常的に些細な場面に於いてもだ。しかし感動の中でも演劇や映画、映像、戯曲(つまりドラマ全般)を読んだりする時の感動は、又一際変わっている。勿論その特殊な感動を我々は日々求めてやまない。
今回はそれを取り上げて考えてみよう。
感動とは何処か我々自身がいつか死滅することを我々自身が知っていて、その儚さ自体への諦観とか、虚しさと関係があるかも知れない。
だから感動は自分自身の行状に対してであるが、より直接的に感動している自分を発見し得るのは他者全般への感動だろう。その中でも先ほどのドラマ全般からの感動は、より自分自身で感動していることが理解しやすい感動である。
それを少し分析してみよう。
とりわけ悲劇的結末のドラマに関して考えてみよう。
私達は悲劇を好む。それは悲劇的現実が実際にある事を知っているからであり、その現実の冷酷さそのものを必死に生きる我々自身にそこはかとない感銘を受ける。生きているということを感銘する自分をまざまざと見つめつつ、しみじみと感じるのだ。
悲劇には最終的には救いのなさがあり、その救いのなさに自分自身が巻き込まれる可能性は常にあるが、その可能性が現実になる迄は他者がそれに巻き込まれていく姿を見て気の毒だと思う。憐憫が生じていることが、悲劇をより感銘に咽ぶものとする。
だが肝心なことは、可能性としては何時何時自分も同じ運命を辿るかも知れないけれど、今現時点では未だそうではないという状況が外部で自分自身へと語りかけるドラマに感動することを許すのだ。その意味では感動とは残酷さと裏腹であるとも言えるし、それを皆どこかでは知っている。
それは自分自身は安全地帯にいて、その安全地帯にいない気の毒なヒーローやヒロイン達を鑑賞することを通して、ああ自分自身はそういう状況に巻き込まれていずによかったと溜飲を下げる仕組みでもある。
悲劇には古代よりギリシャ悲劇とか色々な伝統的な文化がある。ウィリアム・シェークスピアも同じ様に過去の文化遺産から咀嚼している。ギリシャ神話「ピュラモスとティスベ」をベースに書いたとも言われているし、ヴェローナというイタリアの都市に15世紀(間違いかも知れない)にあった教皇派と法王派との市民同士の争いで実際にあったことをベースにしているとも言われている。
しかしシェークスピア自身が着目していたのは、当然のことながら、人々が悲劇に感動するという体質を先験的に持っているということそのことである。
悲劇的結末を迎えるドラマに対してある種の感動を我々が得るのは、余りにも巧く行き過ぎること自体に懐疑的であるからだ。それは自分自身の人生を振り返ってみても分かることだし、他人の人生を見ていても分かる。
余りにも幸運な人というのは殆どいないということを我々は知っていて、それどころか大半の人達が恵まれず、不遇であることを知っている。
だからラッキーな主人公のドラマも時には息抜きにはいい(特にアクション映画などではそうかも知れない)が、いつもであっては飽きてくる。
悲劇には自分自身さえ最悪の状況でなければ、適度に自分自身の人生の中にあった挫折に対する記憶と、そこから得た教訓を思い出すことも出来るし、自分自身の人生がドラマ化され得ぬある種の余りにもドラマにならなさ自体を承知で、ドラマになる悲劇自体へ価値的に我々の心は称揚する。ドラマとは全ての人達からの憧れ、美しき人生に於いて、その心の純粋さ故に滅ぶという運命の過酷さに、やがて来る私達自身の死という運命自体への予感と、その予感を常にどこかでは忘れ去ろうとしている楽観主義に於いて、自分自身の代わりにドラマの中で美的に生き抜き、美的に滅んで欲しいという欲求なのである。それを見たいという欲求なのだ。
それは端的に私達自身が自らの死に対し怯え、只管美しく生きることを通して様々な軋轢の中で押し潰されることを未然に阻止し、出来る限り巧く衝突を避けて生きている自分自身を美しいと感じないということをも知っているからである。
もっと簡単に言えば人は皆、自分自身は美しくあることより、衝突を避け、巧く余り辛くはない人生を送りたいが、純粋に生き、様々な衝突と軋轢の中で打ち滅ぼされていく美しき者の姿に対して一定の敬意と尊崇の気持ちだけは持っていて、理解出来るからである。
だからそういった偶像を歴史上の悲劇的人物や、それらをベースに作られた戯曲や小説、映画のヒーローやヒロインの存在によって充足させているのである。
自分自身は小狡く、円滑に仕事や地域社会での安定した生活を守る様に、周囲に美しさを引き受けてくれる他者に、あらゆる正義や倫理的信念を責任転嫁することを通して、自分自身は過大な責任を負わされるストレスを極力回避すること自体が一般的な人生の生き方である。
つまり我々はその範囲内で楽しみとか、息抜きとか、人生を豊かにする仕事の遣り甲斐とか幸福感を獲得しているのであり、主義や信条、理念だけに殉じるという生き方自体は、仮にそういう態度で生きている人があったとしても、大半はお門違いか勘違いで、依怙地でそういうスタンスを貫いているに過ぎない。
人間は何より自分が信じて疑わないドグマの信者である。ドグマとは仮にどんなに崇高なことを言っても宗教心と何ら変わりないものである。だからこそ逆にドラマの中では理想系としての美しさを表現されることを望み、それも又一つの創作上のドグマであることを知りながら、潜在的には自分自身の人生も又どこかではドグマに支配されているという直観を必ず介在させて生活しているので、「そうではない美しさ」をイデアの様にドラマの中に封じ込められていることを期待し、その者が美しく死ぬとまるで自分自身にも僅かながらもそういう美しさを履行し得る可能性が残されているのではないか、という気持ちを起こさせるのだ。
人間にとって歴史とは一つのフィクションの様なものでもある。何故なら既に過去は現在には存在しないからである。現在に存在しないものは如何にリアリティのあることとして過去に自分自身で体験されたことでさえ、どこか空ろな感じを我々は抱く。
ということは我々は常に記憶と知識と経験の上で膨大なフィクションを心に保有して現在を生きていることとなる。生きることは記憶を頼りに現在を現在として認識し、未来へ向かってその不確実性の中から何かを掴み取ろうとする躍起な心との共存である。
感動はそういった小説世界、戯曲世界、映画世界といった虚構自体が、実際にあった出来事自体すら虚構化されつつある時間の中で一瞬出来事とか人間の心の動きの有り様に対する価値として受け止めておきたい気持ちが誘引する「閉じ込め」作用である。
どんどん虚構化していってしまう実際にあったこと、経験したこと、記憶の中だけにある自分自身の過去のことを、やがて死んでいくことを知っている主体が「自分自身の人生、それは感動的な事実であった」と思いたい気持ちが、同じ様な気持ちを持って存在していたとされる歴史上、創作上の人物の美しい行為に対する共感することこそ感動の正体であり、「自分自身も本質はそうであるのに、実際には様々な社会的軋轢によってそれを実現し得ぬままでいるのだ」という事の自己弁解と、それでも尚悲劇的主人公の姿に感動出来る自分の理解能力自体への確認によって安堵を得ることこそが、感動という心の作用の本質的構造であると言えないだろうか?
我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Monday, August 2, 2010
Sunday, July 18, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 志向すること、構えることの意識出来なさ
我々は通常自分の意識を外在的に覚知することは出来ない。何故なら意識それ自体は意識内容だからだ。これは現象学者達ならとっくに考えてきたことである。
それは言語にも言える。言語それ自体、或いは論理それ自体は何事かを言語として語る時、何事かを論理的に説明する時には語れない。これはウィトゲンシュタインや、彼に影響を受けた大勢の分析哲学者達ならとっくに考えてきたことである。
要するに我々は生活上で何らかの行為をする時、行為へと赴く時、具体的行動をしている時その事自体から外在的地点で自分を考えることは出来ない。
勿論反省意識をその都度持つことは出来るから、その反省内容自体を外在的だと呼ぶことは不可能ではない。しかし反省や記憶された事柄の想起も又極めて主観的な様相を帯びている。それは自分自身という枠からはみ出ることはやはり出来ない。
つまりその事は志向するという事、意図するという事、構える事自体が意識的にせよ無意識的にせよ外在的には語れないし、外在的に感知する事も認知する事も出来ないという事を意味する。
フランシス・クリックの様な生物学者、脳科学者でも脳内の脳作用それ自体を我々は今現在の脳に於いて理解する事は出来ないと言っている。それはfMRIを通して観察しても同じことである。
我々は自分の脳をまるで機械を操作する様に、機械のメカニズムを理解して脳を利用しているのではない。その様に意図しても、その意図自体を産出する意志自体を操作する事は出来ない。
それは私達が自分で自分の欲求自体をどうする事も出来ないという事、自分の感情をどうする事も出来ないという事を示している。
自分の外側に自分自身が立つことが出来ないということは、ドッペルゲンガー的状況でも全く変わりない。自分を外側から見る自分自身の外側には立てないという様に、自分と自分を見る自分は無限後退を来たすのだ。
認知心理学、脳生理学の世界で幾つかの前提がある。医学的、神経学的な考えでは局在論はワイルダー・ペンフィールドによる脳地図というものがある。ある身体部位の神経を脳のある部位が司るということを実験で発見し、書いた地図がある。
この局部的見方を今取り敢えずペンフィールド型視野と呼ぶことにしよう。
それに対し、局部論と対抗する形で得られたノーマン・ゲシュヴィンドによる局部と局部とを連結する経路自体に問題があるからこそ脳疾患が生じることを発見したネットワーク理論を、ここで今取り敢えずゲシュヴィンド型視野と呼ぶことにしよう。
私達は確かにある脳部位がペンフィールド型視野で発火する時点でその部位を動かしたり、皮膚感覚を研ぎ澄ましたりするだろう。そしてそれ自体を認知したり、感知したりする時は局在論的ではなくネットワーク理論的、つまりゲシュヴィンド型視野で考えれば、確かに局部同士の連結作用自体がそれを司っていると言うことが出来る。
しかし重要なことはクリックが言う様な意味でその作用自体をそういう意志を脳で持つ時に、我々は知る事が出来ないだけでなく、我々はそもそも腕を上げたり、眉毛が痒いので掻いたりする事自体を脳作用で理解することは永遠に出来ない。何故なら我々は脳作用それ自体を外在的に視覚的に確認出来たとしても尚、実はその作用自体を「私に」誘引する心的な作用自体をも先ほどの無限後退の例と同じ様に終ぞ外在的視点に立つ事が出来ないからである。
それは私達がここ数週間の自分の心理構造とか心理的傾向を理解する事が反省意識の上で可能であったとしても尚、その反省意識へと私自身を転じさせる事そのものをその時点で理解する事が出来ないし、その作用そのものをfMRIで視覚的に確認出来たとしても尚、その脳内思考の現時点での根拠を知る事が出来ないという事でも理解され得るだろう。
それは科学では我々自身が決して意志そのものを理解する事が出来ないという事を意味している。科学とは端的にその意志そのものの在り方を何らかのメソッドでその都度示す事が出来るだけであり、意志そのものの正体から発生根拠に至るまで一切の理解を得る事が出来ないということをも意味している。
繰り返すが反省意識に於いてそれらの根拠に就いて考えることなら出来る。しかしその事は我々が直ちにそれら意志そのものをどうする事が出来るという事へは決して直結しない。
例えばある行為をしたいと思うこと、或いは数ヶ月先の自分の「したい事」を未然に知る事が出来ないという意味で我々は一切意志そのものを計画立てたり、操作したりする事が出来ないという事だ。それは計画を立てても、その通りにすると意志する事や、その通りにしてきて退屈したり飽きたりする事自体をどうする事も出来ないという事に於いてそうである。
それは何故そういう意志が生じるのかという反省意識に於ける判断全部を無効化する。何故なら反省意識を生じるという事自体が常に外在的に解明されるべき根拠として残されるからである。
その事実をもって我々が脳そのものの奴隷だと考える事も不可能ではない。いや脳作用自体が仮に解明されても意識そのもの、意志作用そのもの、或いは感情や欲求そのものの奴隷であるという認識は常に残される。
それはある部分では存在そのものの奴隷であるとも言える。存在と言うと、只単に木々も森も海も存在する。しかしそれらに存在という「形」で規定を与えているのは私達だ。その意味では存在の奴隷である事が出来るのは、只私達のみ、つまり自分自身が世界に存在する事、或いは存在しつつ世界を作っている事を知る事の出来る我々のみである。存在の奴隷であると覚知し得るのは只存在と存在する事自体を理解出来る存在者のみだからである。
実は世界そのもの、木々や森、海だけでなく自分自身を存在として規定する事自体も又一つの構えであり志向である。そしてそれを何故そうするのかという根拠を問う事が確かに出来る。それを哲学的問いとも認知科学的問いとも名指す事も可能だ。しかしその存在するものを存在するものとして、存在することを存在することとして把握し覚知(把捉)し存在規定する事自体を何故と問う事は出来ない。それは個々の判断自体の根拠が問える事とは別箇にそうである。
その問う事の出来なさとは、私達自身が存在規定をする生の意味が反省意識に於いて問えても尚、個々の判断作用自体の発生根拠から、その発生根拠の事後的認識が可能であっても、私達自身の、或いは私達という存在自体の外部に立って操作する事が出来ないという意味でそうである。
それは私達が私達自身の存在を外在的に認識する事が出来ても、その外在的認識をその時点で生きる私達自身を存在として問う事が出来ないという意味でそうである。それは要するに私達の問う事をも含めた脳内判断から行為に至る迄全ての私達の生の出来事を操作する事も、決められた通りにする事も出来ない(決められた通りにしていくか、途中で予定を変更するかという事全体を操作する事そのものが出来ない。何故なら決めても明日私は死んでいるかも知れないし、決めた事を忘れるかも知れないからである)という事自体が、志向も構えも全て脳内判断作用自体が既に我々による操作とか規格外的事実である以上、科学で幾らそれらを機能として解明し得たとしても尚、脳自体の存在理由、脳自体の存在根拠を我々の脳内判断や思考から別箇に脳で下す事自体が不可能であるという事の別の謂いでもある、という事である。
それは言語にも言える。言語それ自体、或いは論理それ自体は何事かを言語として語る時、何事かを論理的に説明する時には語れない。これはウィトゲンシュタインや、彼に影響を受けた大勢の分析哲学者達ならとっくに考えてきたことである。
要するに我々は生活上で何らかの行為をする時、行為へと赴く時、具体的行動をしている時その事自体から外在的地点で自分を考えることは出来ない。
勿論反省意識をその都度持つことは出来るから、その反省内容自体を外在的だと呼ぶことは不可能ではない。しかし反省や記憶された事柄の想起も又極めて主観的な様相を帯びている。それは自分自身という枠からはみ出ることはやはり出来ない。
つまりその事は志向するという事、意図するという事、構える事自体が意識的にせよ無意識的にせよ外在的には語れないし、外在的に感知する事も認知する事も出来ないという事を意味する。
フランシス・クリックの様な生物学者、脳科学者でも脳内の脳作用それ自体を我々は今現在の脳に於いて理解する事は出来ないと言っている。それはfMRIを通して観察しても同じことである。
我々は自分の脳をまるで機械を操作する様に、機械のメカニズムを理解して脳を利用しているのではない。その様に意図しても、その意図自体を産出する意志自体を操作する事は出来ない。
それは私達が自分で自分の欲求自体をどうする事も出来ないという事、自分の感情をどうする事も出来ないという事を示している。
自分の外側に自分自身が立つことが出来ないということは、ドッペルゲンガー的状況でも全く変わりない。自分を外側から見る自分自身の外側には立てないという様に、自分と自分を見る自分は無限後退を来たすのだ。
認知心理学、脳生理学の世界で幾つかの前提がある。医学的、神経学的な考えでは局在論はワイルダー・ペンフィールドによる脳地図というものがある。ある身体部位の神経を脳のある部位が司るということを実験で発見し、書いた地図がある。
この局部的見方を今取り敢えずペンフィールド型視野と呼ぶことにしよう。
それに対し、局部論と対抗する形で得られたノーマン・ゲシュヴィンドによる局部と局部とを連結する経路自体に問題があるからこそ脳疾患が生じることを発見したネットワーク理論を、ここで今取り敢えずゲシュヴィンド型視野と呼ぶことにしよう。
私達は確かにある脳部位がペンフィールド型視野で発火する時点でその部位を動かしたり、皮膚感覚を研ぎ澄ましたりするだろう。そしてそれ自体を認知したり、感知したりする時は局在論的ではなくネットワーク理論的、つまりゲシュヴィンド型視野で考えれば、確かに局部同士の連結作用自体がそれを司っていると言うことが出来る。
しかし重要なことはクリックが言う様な意味でその作用自体をそういう意志を脳で持つ時に、我々は知る事が出来ないだけでなく、我々はそもそも腕を上げたり、眉毛が痒いので掻いたりする事自体を脳作用で理解することは永遠に出来ない。何故なら我々は脳作用それ自体を外在的に視覚的に確認出来たとしても尚、実はその作用自体を「私に」誘引する心的な作用自体をも先ほどの無限後退の例と同じ様に終ぞ外在的視点に立つ事が出来ないからである。
それは私達がここ数週間の自分の心理構造とか心理的傾向を理解する事が反省意識の上で可能であったとしても尚、その反省意識へと私自身を転じさせる事そのものをその時点で理解する事が出来ないし、その作用そのものをfMRIで視覚的に確認出来たとしても尚、その脳内思考の現時点での根拠を知る事が出来ないという事でも理解され得るだろう。
それは科学では我々自身が決して意志そのものを理解する事が出来ないという事を意味している。科学とは端的にその意志そのものの在り方を何らかのメソッドでその都度示す事が出来るだけであり、意志そのものの正体から発生根拠に至るまで一切の理解を得る事が出来ないということをも意味している。
繰り返すが反省意識に於いてそれらの根拠に就いて考えることなら出来る。しかしその事は我々が直ちにそれら意志そのものをどうする事が出来るという事へは決して直結しない。
例えばある行為をしたいと思うこと、或いは数ヶ月先の自分の「したい事」を未然に知る事が出来ないという意味で我々は一切意志そのものを計画立てたり、操作したりする事が出来ないという事だ。それは計画を立てても、その通りにすると意志する事や、その通りにしてきて退屈したり飽きたりする事自体をどうする事も出来ないという事に於いてそうである。
それは何故そういう意志が生じるのかという反省意識に於ける判断全部を無効化する。何故なら反省意識を生じるという事自体が常に外在的に解明されるべき根拠として残されるからである。
その事実をもって我々が脳そのものの奴隷だと考える事も不可能ではない。いや脳作用自体が仮に解明されても意識そのもの、意志作用そのもの、或いは感情や欲求そのものの奴隷であるという認識は常に残される。
それはある部分では存在そのものの奴隷であるとも言える。存在と言うと、只単に木々も森も海も存在する。しかしそれらに存在という「形」で規定を与えているのは私達だ。その意味では存在の奴隷である事が出来るのは、只私達のみ、つまり自分自身が世界に存在する事、或いは存在しつつ世界を作っている事を知る事の出来る我々のみである。存在の奴隷であると覚知し得るのは只存在と存在する事自体を理解出来る存在者のみだからである。
実は世界そのもの、木々や森、海だけでなく自分自身を存在として規定する事自体も又一つの構えであり志向である。そしてそれを何故そうするのかという根拠を問う事が確かに出来る。それを哲学的問いとも認知科学的問いとも名指す事も可能だ。しかしその存在するものを存在するものとして、存在することを存在することとして把握し覚知(把捉)し存在規定する事自体を何故と問う事は出来ない。それは個々の判断自体の根拠が問える事とは別箇にそうである。
その問う事の出来なさとは、私達自身が存在規定をする生の意味が反省意識に於いて問えても尚、個々の判断作用自体の発生根拠から、その発生根拠の事後的認識が可能であっても、私達自身の、或いは私達という存在自体の外部に立って操作する事が出来ないという意味でそうである。
それは私達が私達自身の存在を外在的に認識する事が出来ても、その外在的認識をその時点で生きる私達自身を存在として問う事が出来ないという意味でそうである。それは要するに私達の問う事をも含めた脳内判断から行為に至る迄全ての私達の生の出来事を操作する事も、決められた通りにする事も出来ない(決められた通りにしていくか、途中で予定を変更するかという事全体を操作する事そのものが出来ない。何故なら決めても明日私は死んでいるかも知れないし、決めた事を忘れるかも知れないからである)という事自体が、志向も構えも全て脳内判断作用自体が既に我々による操作とか規格外的事実である以上、科学で幾らそれらを機能として解明し得たとしても尚、脳自体の存在理由、脳自体の存在根拠を我々の脳内判断や思考から別箇に脳で下す事自体が不可能であるという事の別の謂いでもある、という事である。
Sunday, July 11, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 我々が政治とスポーツに求めるもの‐真に優れたパフォーマンスとは何か?
FIFAワールドカップも終了し、全く予想外なことにスペインが13回目の出場で初優勝、準優勝も初めてのオランダだった。そして日本は前日に参議院選挙が執り行われた。歴史的与党の敗北を喫した日本では、それまでベスト16まで 岡田ジャパンが快進撃を繰り広げたこととは対照的な展開に国民も去年の政権交代から一転して奈落に落ち込んだ状態の内閣に対して今後の展開に不安材料を見出すことにもなった。
政治とスポーツとは特にその予想外の展開に受け手である一般市民は注目せざるを得ない意識的構えを日々構成してしまう。電車の週刊誌の中吊り広告や、いつも利用するポータルサイトのニュースや会社の昼食中などでする同僚との会話でも政治とスポーツは一番頻繁の話題にしやすいものである。
しかもウガンダではワールドカップ観戦中のレストランで爆破テロ事件があり、アメリカ人なども含む大勢が死去したニュースも同じ日に報じられた。
現代社会で行き抜く為には些細なことで心を動じさせないようにするということが暗黙の内に、特に都市社会で生活する文明人には求められていることである。2001年9月11日に一体自分は何をしていたかと即座に私なら思い出せるが、あれだけ悲惨なニュースを映像で目にしても尚我々はどこかで一々そういう悲惨に対して意気消沈せずに日頃と同じ様に過ごしていかねばならないという心がけをどこかで行っている。
つまり本当に悲しいこととは自分の周辺で起こることに限定すべきであるという生活上の智恵がいつの間にか定着している。それは都市社会で生活するマスメディア、マスコミによって四六時中報道されるニュースをその都度受け流していくことを心がけている市民全体の暗黙の約定の様なものである。
それはかなり幼い頃から私達が身につけてきた習慣である。
しかしその習慣は他方、楽しいイヴェントがあると必ず心浮き立たせ、それまでに鬱積していたストレスを巧く吐き出す作用をさせる為に、一時ルティンから解放されるというもう一つの構え、固有のストレス解消的構えを構成することと抱き合わせになってきている。
その一つがスポーツである。だから相撲などで不祥事が続き、その存続さえ危ぶまれることを含めて、そういった全体を注視し、監視していこうという注目の仕方から、我々市民の個々の生活を規定していく政治全体への注視と監視も同じ、余り悲惨なニュースには一々動じないという決意的な構えと、だからそこお祭的なイヴェント、例えばオリンピックもそうだし、ゴルフの全米ツアーでもそうだし、テニスのウィンブルドンでもそうであるが、その開催中にはどういう試合の展開になっていっているのかということへの好奇心と関心をその都度イヴェント全体の動向へと焦点化する構えとは抱き合わせであり、いつも容易に後者の方にシフトさせる様に構える癖がついている。
つまりそうすることで、会社内で昼休みなどで同僚と会話する材料にすることも出来るし、そういった関心を同化させることを通して社会成員としての暗黙の同調的態度を取ることで、仲間外れに自己立場を立たせることを防止しているのである。
相撲でいい一番を取った力士に拍手喝采を送るような意味で選挙で当選した政治家に対して期待しながらそのテレビ特番でのインタビューを観たり、ワールドカップなどの勝者のインタビューや、そのことに触れた記事を読んだりすることを通して「巧い仕方」で決めるシュートや選挙遊説中の街頭演説とか、市民と握手をしたりする姿全般へ我々はグッド・パフォーマンスであるという評定をいつの間にか下している。
我々にとって印象に残るシュートや技、立ち居振る舞いといった全てはいいパフォーマンスなのであり、そのいいパフォーマンスの持つ語り草になり得る要素こそ、我々が知らず知らずの内にヒーローへと期待するものであり、そういう行為を容易に見せてくれる者を我々はヒーローと呼ぶ様にしているのである。
しかしそのグッド・パフォーマンスとは他方では今日あった爆破テロ的事件の悲惨を常にどこかでは目を瞑って遣り過ごす我々の習慣をどこかで浄化させてくれるものとして我々が密かに悲惨なニュースに巻き込まれて死んでいく犠牲者達全般への鎮魂を、余り深刻ではない形で示してくれる代理的行為なのであり、政治という直接的に市民生活に影響を与える政策行動、法案成立努力全般にある我々によって注視される行為も、実は代理的に生活全般を規定する共同体、社会、国家の約定であるにも関わらず、グッド・パフォーマンスを期待する心理にも答えているのである。
それは余りにも手際よく勝利へと導くスポーツのグッド・プレイと、政治家の立法政策的、行政的手腕、それを権力者として一定の説得力を持って国民に示すことを期待する我々が求めている「いいアクション」つまりグッド・パフォーマンスとは、それを共同注意的に常に目撃者として注視している我々市民同士の心理的結束とその心理的結束を前提した集団行動、それはビジネス自体もそうだし、余暇の行動もそうだが、要するに社会に我々自身が関わることを理由づける、根拠づけることでもある。それを確認し合う為にこそお互い同じ場に居合わせるということだ。
それはワールドカップの決勝戦を観戦しているファン達だけでなく一会社のデスクに座っているどの市民でも同じである。
そしてそれは先ほども述べた様に悲惨な犠牲者を出すイヴェントも時々挿入されるこの現代社会の現実を常に一方では考慮に入れながら、その悲惨な犠牲に自分が巻き込まれずに済んでいること自体への感謝を相互に頷き合う様な場でもあるのだ。
グッド・パフォーマンスを相互に共同注意し合えることの機会の多さを求めて我々は同じ会社のデスクに隣の同僚と共に座っているのだし、家庭に戻れば家族団欒とか余暇でのプランに熱中するのだ。
実は経済的好況に見舞われることも、いい試合を観戦し合えることも、悲惨な事件の巻き添えを食らうことも全く同じ淡々とした日常のほんの少しの角度の違いでしかない。しかし常に何らかの余り大きなカタストロフィに見舞われない現場に居合わせるか、まさにそういう現場に居合わせるかという確率の問題に直面している我々は仮に最悪の状況に立ち会っているのだとしたら、尚その最悪の状況から何とか離脱させる為の努力を誰しもしている。そしてその際にも「手際よい行動」はあり得るのであり、そのグッド・パフォーマンスを我々歓迎するのであり、そういう行動を自分が取れるのなら、それに越したことはないと誰しも思うのであり、そしてそれを隣の同僚がなし得たのであるなら、素直に拍手喝采することに吝かではないのである。
居合わせること、立ち会うことの中で、その場にいなかった者には理解出来ないものとして、同時代を生きる我々にとって政治もスポーツもがある様に、我々個々の市民が立ち会う、居合わせる固有の場がその都度設定されているのだ。
そしてその時々に固有のグッド・パフォーマンスのエピソード記憶を我々は気が付かぬ内に求めて都会を歩き、自分が帰属する集団が行動する場へと足を運んでいるのである。
政治とスポーツとは特にその予想外の展開に受け手である一般市民は注目せざるを得ない意識的構えを日々構成してしまう。電車の週刊誌の中吊り広告や、いつも利用するポータルサイトのニュースや会社の昼食中などでする同僚との会話でも政治とスポーツは一番頻繁の話題にしやすいものである。
しかもウガンダではワールドカップ観戦中のレストランで爆破テロ事件があり、アメリカ人なども含む大勢が死去したニュースも同じ日に報じられた。
現代社会で行き抜く為には些細なことで心を動じさせないようにするということが暗黙の内に、特に都市社会で生活する文明人には求められていることである。2001年9月11日に一体自分は何をしていたかと即座に私なら思い出せるが、あれだけ悲惨なニュースを映像で目にしても尚我々はどこかで一々そういう悲惨に対して意気消沈せずに日頃と同じ様に過ごしていかねばならないという心がけをどこかで行っている。
つまり本当に悲しいこととは自分の周辺で起こることに限定すべきであるという生活上の智恵がいつの間にか定着している。それは都市社会で生活するマスメディア、マスコミによって四六時中報道されるニュースをその都度受け流していくことを心がけている市民全体の暗黙の約定の様なものである。
それはかなり幼い頃から私達が身につけてきた習慣である。
しかしその習慣は他方、楽しいイヴェントがあると必ず心浮き立たせ、それまでに鬱積していたストレスを巧く吐き出す作用をさせる為に、一時ルティンから解放されるというもう一つの構え、固有のストレス解消的構えを構成することと抱き合わせになってきている。
その一つがスポーツである。だから相撲などで不祥事が続き、その存続さえ危ぶまれることを含めて、そういった全体を注視し、監視していこうという注目の仕方から、我々市民の個々の生活を規定していく政治全体への注視と監視も同じ、余り悲惨なニュースには一々動じないという決意的な構えと、だからそこお祭的なイヴェント、例えばオリンピックもそうだし、ゴルフの全米ツアーでもそうだし、テニスのウィンブルドンでもそうであるが、その開催中にはどういう試合の展開になっていっているのかということへの好奇心と関心をその都度イヴェント全体の動向へと焦点化する構えとは抱き合わせであり、いつも容易に後者の方にシフトさせる様に構える癖がついている。
つまりそうすることで、会社内で昼休みなどで同僚と会話する材料にすることも出来るし、そういった関心を同化させることを通して社会成員としての暗黙の同調的態度を取ることで、仲間外れに自己立場を立たせることを防止しているのである。
相撲でいい一番を取った力士に拍手喝采を送るような意味で選挙で当選した政治家に対して期待しながらそのテレビ特番でのインタビューを観たり、ワールドカップなどの勝者のインタビューや、そのことに触れた記事を読んだりすることを通して「巧い仕方」で決めるシュートや選挙遊説中の街頭演説とか、市民と握手をしたりする姿全般へ我々はグッド・パフォーマンスであるという評定をいつの間にか下している。
我々にとって印象に残るシュートや技、立ち居振る舞いといった全てはいいパフォーマンスなのであり、そのいいパフォーマンスの持つ語り草になり得る要素こそ、我々が知らず知らずの内にヒーローへと期待するものであり、そういう行為を容易に見せてくれる者を我々はヒーローと呼ぶ様にしているのである。
しかしそのグッド・パフォーマンスとは他方では今日あった爆破テロ的事件の悲惨を常にどこかでは目を瞑って遣り過ごす我々の習慣をどこかで浄化させてくれるものとして我々が密かに悲惨なニュースに巻き込まれて死んでいく犠牲者達全般への鎮魂を、余り深刻ではない形で示してくれる代理的行為なのであり、政治という直接的に市民生活に影響を与える政策行動、法案成立努力全般にある我々によって注視される行為も、実は代理的に生活全般を規定する共同体、社会、国家の約定であるにも関わらず、グッド・パフォーマンスを期待する心理にも答えているのである。
それは余りにも手際よく勝利へと導くスポーツのグッド・プレイと、政治家の立法政策的、行政的手腕、それを権力者として一定の説得力を持って国民に示すことを期待する我々が求めている「いいアクション」つまりグッド・パフォーマンスとは、それを共同注意的に常に目撃者として注視している我々市民同士の心理的結束とその心理的結束を前提した集団行動、それはビジネス自体もそうだし、余暇の行動もそうだが、要するに社会に我々自身が関わることを理由づける、根拠づけることでもある。それを確認し合う為にこそお互い同じ場に居合わせるということだ。
それはワールドカップの決勝戦を観戦しているファン達だけでなく一会社のデスクに座っているどの市民でも同じである。
そしてそれは先ほども述べた様に悲惨な犠牲者を出すイヴェントも時々挿入されるこの現代社会の現実を常に一方では考慮に入れながら、その悲惨な犠牲に自分が巻き込まれずに済んでいること自体への感謝を相互に頷き合う様な場でもあるのだ。
グッド・パフォーマンスを相互に共同注意し合えることの機会の多さを求めて我々は同じ会社のデスクに隣の同僚と共に座っているのだし、家庭に戻れば家族団欒とか余暇でのプランに熱中するのだ。
実は経済的好況に見舞われることも、いい試合を観戦し合えることも、悲惨な事件の巻き添えを食らうことも全く同じ淡々とした日常のほんの少しの角度の違いでしかない。しかし常に何らかの余り大きなカタストロフィに見舞われない現場に居合わせるか、まさにそういう現場に居合わせるかという確率の問題に直面している我々は仮に最悪の状況に立ち会っているのだとしたら、尚その最悪の状況から何とか離脱させる為の努力を誰しもしている。そしてその際にも「手際よい行動」はあり得るのであり、そのグッド・パフォーマンスを我々歓迎するのであり、そういう行動を自分が取れるのなら、それに越したことはないと誰しも思うのであり、そしてそれを隣の同僚がなし得たのであるなら、素直に拍手喝采することに吝かではないのである。
居合わせること、立ち会うことの中で、その場にいなかった者には理解出来ないものとして、同時代を生きる我々にとって政治もスポーツもがある様に、我々個々の市民が立ち会う、居合わせる固有の場がその都度設定されているのだ。
そしてその時々に固有のグッド・パフォーマンスのエピソード記憶を我々は気が付かぬ内に求めて都会を歩き、自分が帰属する集団が行動する場へと足を運んでいるのである。
Wednesday, June 30, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル②
前の記事を書いてから暫く経って再び広島で自動車を使った通り魔殺人的無差別犯罪事件が発生した。
何故この様な無責任な犯行(全ての犯罪は無責任なのであるが、とりわけ特定の怨恨性のないむしゃくしゃしたからやったということを無責任な犯行と取り敢えずは呼んでおこう)が継続的に発生するのだろうか?
北野武監督が少し前テレビで「暴力描写を非難されて、暴力が主体ではない映画を撮ることにしたが、客の入りが悪いので一番得意な暴力描写を再び手掛けた」と言っていたが、彼は「暴力映画が犯罪を誘発するとは思わない」と言ってもいた。
私も同意する。暴力描写とは映画の一つの表現であり、表現を鑑賞することで暴力行為が誘発されるという根拠はまるでない。前の記事でも書いた様に、寧ろ現代人のライフスタイル全般から派生する特殊な状況が誘引材料となっているという考え方の方がまだしも説得力がある。
だがゲームソフトの暴力描写性自体もやはり映画以上のものがあるが、それ自体が誘引材料になっているとも言い難い。
無責任で、無根拠な他者一般への怨恨とは、特定の侮辱や苦痛を与えた他者への恨みとは異なって、端的に自分自身の厭世観を只他者にぶつけるというところにある様に思われる。
どうせ人間は死ぬ、死ぬのなら、いっそ他人を道連れにしてやろうという目論みがあるのだろうが、それは孤独に対する極度の忍耐力不足から来ている。
一人で何かを行動したり、思考したりすること自体に耐えられないという心理がある様に思われる。それは裏を返せば集団内で何かを実践していて、自分の存在理由が見出せないでいても、別段不安を感じない様な状況に支配されている事を望むという心理でもある。
群集心理的な脆弱さが私達には確かにある。しかし重要なことは、そうしながらも本当は自己を常に別の地点に保有している者も大勢いるということだ。
が時としてそういった確固たる自己を保有する事自体に纏わる意志強固である事に耐えられない者は、只管群集心理に身を任せるということを選択し、その状況は何時でも保持していなければ不安となる。
不安解消の為に向こうから自分に集団が押し寄せ、それに依拠していればいい状況以外ではこちらから集団全般に対し「俺を一人にするな」と異議申し立てをし、その仕方が極度に切羽詰ってくると通り魔殺人的犯行へと駆り立てる様になるのだ。
これは職業病的な身体論とは無縁の問題である。それは端的に孤独に耐えられないという心理だ。只ライフスタイルに於いて現代社会では全く対人関係を構築しないでいても、尚生活が維持し得る情況を容易に手にすることが出来る。情報摂取に関してもそうである。すると我々はその容易に入手し得る特殊状況を選択する成員が社会に増大すると、次第にその生活選択を我先にすることの出来ない成員は、取り残された心理にもなる。
周囲では多くがそういう生活スタイルを平気で日常化しているのに、それが出来ないでいる事に纏わる不安が増大してくるというわけだ。
勿論現代でもパソコン一つでオンラインショッピングをしている人達だけが消費者であるわけではない。だが選択肢に於いてその様な直接の対人交渉を回避出来る手段が多くなってくると、選択肢を多く持たないで、しかもネットインフラ活用することの億劫さから、サイバーアレルギーになってくると、確かに銀行のATMなどでの女性の声が人工的だし、0120のサーヴィスの声も無機質だから、そういった生活環境自体に次第に人間的交流を可能化する余地を見出せなくなっていき、疎外感を募らせるということは多いにあり得る。
そこで他者全般へと異議申し立てをして「俺を置いていかないでくれ」という発信を最後の手段無責任な犯行という甘えで実践していくこととなるのだ。
自己責任的生活スタイルの選択は、恐らく多くの成員にとっては憩いがあるというよりは、呪縛から解放されるという意識の方が大きいだろう。しかしそういった選択肢の多様化自体についていけないタイプの成員にとっては、厭世観を募らせることとなる。そうなってくると、寧ろ職業病に罹ることの方に救いがあることとなる。
一日中パソコンの画面に見入って注意をしていなければいけない職業のストレスには、そういった状況を打開するという目的が生じる故、そういう時間以外のスポーツをするとかの工夫を考案することに意識が向かう。
しかしその様な現代人の選択肢以前の持っていなければならないハウツー自体に、ある種の違和感を持ってしまう成員にとって「そこからの解放」という目的意識を持つ成員が存在する(しかも大多数がそうである)という事実は耐えられまい。そもそも電子機器を購入して0120に電話するという機会自体が自分にとっては無縁なので、現代人のライフスタイル全体が自分とは無縁に、しかし巨大な環境変化として実感されるわけだ。
精神疾患に罹るという事態が、現代人に必須のアイテムに起因することであるなら、職業病対策という形で打ち出せるが、そもそも現代人に必須のアイテム自体への違和感がある場合、対策を立てるということが公レヴェルでは実践され得ないままでいることの方が圧倒的だろう。
かつて駅でホームに入る前には駅員が切符にパンチで通過した証拠を残したりして、人間がそこにはいたが、今では不在である。そしてそれ自体一々不便であると通常は感じない。しかしそれ自体に荒廃した対人関係であるという意識を巣食わせる成員がいたとしたら、その現代生活の便利さはそれ自体抵抗する対象となる。しかし最早昔へと戻ることはあり得ない。
すると、社会自体は職業病対策を打ち立てることに躍起で、職業病に罹る可能性のない成員の持つ不安を解消する手立ては一切打ち立てることがない以上、それは只単にそういった成員の怠惰であると決め付けられる。そこで彼等は抵抗を試みるのかも知れない。
寧ろ彼等がそういった現代生活へのついていけなさを別の形で発散する手段を見出すのであれば、救いはあるのかも知れない。それこそ暴力映画、風俗などで憂さ晴らしをするという手段を見出せるのであれば、それなりにストレスは溜まらないで済むということもあり得よう。
しかし恐らく通り魔殺人へと赴く成員達にはそういった心の遊びはないのだろう。切羽詰ったこと自体を余りにも真面目に受け取るのだ。その遊びのない真摯さ自体が引き起こすストレス解消されなさが私達に次第に「あの人少し変よ」という態度を益々取らせ孤立感を深めていくのである。
現代生活が利便性を追求すればするほど、利便性の全部を享受することが不可能となっていく。従ってそういった全ての利便性への追求自体の断念を余り深刻にならない形で受容し得る様な精神的鍛錬をしてく必要に現代人は直面している。「ここからここまでなら、私は便利さを追求するが、そこから先は別段取り立てて必要としない」という意識を個として携えている事自体を別に誇りとするでもなくかと言って「修正すべき習慣」とすることもなく、必要となったら享受することを考えようという、いい意味でのいい加減さを常に忘れない様に心がけるべきかも知れない。
何故この様な無責任な犯行(全ての犯罪は無責任なのであるが、とりわけ特定の怨恨性のないむしゃくしゃしたからやったということを無責任な犯行と取り敢えずは呼んでおこう)が継続的に発生するのだろうか?
北野武監督が少し前テレビで「暴力描写を非難されて、暴力が主体ではない映画を撮ることにしたが、客の入りが悪いので一番得意な暴力描写を再び手掛けた」と言っていたが、彼は「暴力映画が犯罪を誘発するとは思わない」と言ってもいた。
私も同意する。暴力描写とは映画の一つの表現であり、表現を鑑賞することで暴力行為が誘発されるという根拠はまるでない。前の記事でも書いた様に、寧ろ現代人のライフスタイル全般から派生する特殊な状況が誘引材料となっているという考え方の方がまだしも説得力がある。
だがゲームソフトの暴力描写性自体もやはり映画以上のものがあるが、それ自体が誘引材料になっているとも言い難い。
無責任で、無根拠な他者一般への怨恨とは、特定の侮辱や苦痛を与えた他者への恨みとは異なって、端的に自分自身の厭世観を只他者にぶつけるというところにある様に思われる。
どうせ人間は死ぬ、死ぬのなら、いっそ他人を道連れにしてやろうという目論みがあるのだろうが、それは孤独に対する極度の忍耐力不足から来ている。
一人で何かを行動したり、思考したりすること自体に耐えられないという心理がある様に思われる。それは裏を返せば集団内で何かを実践していて、自分の存在理由が見出せないでいても、別段不安を感じない様な状況に支配されている事を望むという心理でもある。
群集心理的な脆弱さが私達には確かにある。しかし重要なことは、そうしながらも本当は自己を常に別の地点に保有している者も大勢いるということだ。
が時としてそういった確固たる自己を保有する事自体に纏わる意志強固である事に耐えられない者は、只管群集心理に身を任せるということを選択し、その状況は何時でも保持していなければ不安となる。
不安解消の為に向こうから自分に集団が押し寄せ、それに依拠していればいい状況以外ではこちらから集団全般に対し「俺を一人にするな」と異議申し立てをし、その仕方が極度に切羽詰ってくると通り魔殺人的犯行へと駆り立てる様になるのだ。
これは職業病的な身体論とは無縁の問題である。それは端的に孤独に耐えられないという心理だ。只ライフスタイルに於いて現代社会では全く対人関係を構築しないでいても、尚生活が維持し得る情況を容易に手にすることが出来る。情報摂取に関してもそうである。すると我々はその容易に入手し得る特殊状況を選択する成員が社会に増大すると、次第にその生活選択を我先にすることの出来ない成員は、取り残された心理にもなる。
周囲では多くがそういう生活スタイルを平気で日常化しているのに、それが出来ないでいる事に纏わる不安が増大してくるというわけだ。
勿論現代でもパソコン一つでオンラインショッピングをしている人達だけが消費者であるわけではない。だが選択肢に於いてその様な直接の対人交渉を回避出来る手段が多くなってくると、選択肢を多く持たないで、しかもネットインフラ活用することの億劫さから、サイバーアレルギーになってくると、確かに銀行のATMなどでの女性の声が人工的だし、0120のサーヴィスの声も無機質だから、そういった生活環境自体に次第に人間的交流を可能化する余地を見出せなくなっていき、疎外感を募らせるということは多いにあり得る。
そこで他者全般へと異議申し立てをして「俺を置いていかないでくれ」という発信を最後の手段無責任な犯行という甘えで実践していくこととなるのだ。
自己責任的生活スタイルの選択は、恐らく多くの成員にとっては憩いがあるというよりは、呪縛から解放されるという意識の方が大きいだろう。しかしそういった選択肢の多様化自体についていけないタイプの成員にとっては、厭世観を募らせることとなる。そうなってくると、寧ろ職業病に罹ることの方に救いがあることとなる。
一日中パソコンの画面に見入って注意をしていなければいけない職業のストレスには、そういった状況を打開するという目的が生じる故、そういう時間以外のスポーツをするとかの工夫を考案することに意識が向かう。
しかしその様な現代人の選択肢以前の持っていなければならないハウツー自体に、ある種の違和感を持ってしまう成員にとって「そこからの解放」という目的意識を持つ成員が存在する(しかも大多数がそうである)という事実は耐えられまい。そもそも電子機器を購入して0120に電話するという機会自体が自分にとっては無縁なので、現代人のライフスタイル全体が自分とは無縁に、しかし巨大な環境変化として実感されるわけだ。
精神疾患に罹るという事態が、現代人に必須のアイテムに起因することであるなら、職業病対策という形で打ち出せるが、そもそも現代人に必須のアイテム自体への違和感がある場合、対策を立てるということが公レヴェルでは実践され得ないままでいることの方が圧倒的だろう。
かつて駅でホームに入る前には駅員が切符にパンチで通過した証拠を残したりして、人間がそこにはいたが、今では不在である。そしてそれ自体一々不便であると通常は感じない。しかしそれ自体に荒廃した対人関係であるという意識を巣食わせる成員がいたとしたら、その現代生活の便利さはそれ自体抵抗する対象となる。しかし最早昔へと戻ることはあり得ない。
すると、社会自体は職業病対策を打ち立てることに躍起で、職業病に罹る可能性のない成員の持つ不安を解消する手立ては一切打ち立てることがない以上、それは只単にそういった成員の怠惰であると決め付けられる。そこで彼等は抵抗を試みるのかも知れない。
寧ろ彼等がそういった現代生活へのついていけなさを別の形で発散する手段を見出すのであれば、救いはあるのかも知れない。それこそ暴力映画、風俗などで憂さ晴らしをするという手段を見出せるのであれば、それなりにストレスは溜まらないで済むということもあり得よう。
しかし恐らく通り魔殺人へと赴く成員達にはそういった心の遊びはないのだろう。切羽詰ったこと自体を余りにも真面目に受け取るのだ。その遊びのない真摯さ自体が引き起こすストレス解消されなさが私達に次第に「あの人少し変よ」という態度を益々取らせ孤立感を深めていくのである。
現代生活が利便性を追求すればするほど、利便性の全部を享受することが不可能となっていく。従ってそういった全ての利便性への追求自体の断念を余り深刻にならない形で受容し得る様な精神的鍛錬をしてく必要に現代人は直面している。「ここからここまでなら、私は便利さを追求するが、そこから先は別段取り立てて必要としない」という意識を個として携えている事自体を別に誇りとするでもなくかと言って「修正すべき習慣」とすることもなく、必要となったら享受することを考えようという、いい意味でのいい加減さを常に忘れない様に心がけるべきかも知れない。
Saturday, June 12, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十二章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル
秋葉原の通り魔殺人事件やつくば通り魔殺人事件などがあった年から丁度二年が経ち、秋葉原では又歩行者天国を再開しようという動きがあった。この二つの事件以前にも池袋で同じ様な通り魔殺人事件があり、犯人は既に死刑になっている。
さて現代に於けるこの種の犯罪は固有の性格を帯びている。まずそれらの被害者達は犯人と何の関わりもなく、完全なる赤の他人であり、それらの殺人動機が直接的怨恨ではないということだ。又それらはどんなに多数の被害者を生んだとしても、例えば政治的・思想的テロと違って法治国家や経済社会的現実に直接根を張った事件ではない(勿論間接的には法治国家や経済社会的現実が影響を与えていることは否めないのだが)ということである。
又そうであるが故に意味深なものがある。つまり例えば秋葉原通り魔殺人事件の犯人である加藤智弘容疑者には内的に鬱屈した心理があったとしても、それは政治や経済自体に直接アピールするものでは決してなく、そうであるが故にネット上で共感者さえ呼び起こすことが可能だったのだ。つまり彼等による犯罪の特質とは端的に全くの犯罪素人による犯行であるにもかかわらず、殺す人数や残虐性に於いて寧ろ素人であるが故にプロよりも残忍であるという側面もあるのである。
その全く合理的文脈のなさ、全くの無計画性、全くのイデオロギー欠如した動因など、全てに於いてアマチュア性とオタク性が濃厚である。又だからこそ「或いは運命の悪戯で私が犯人であった可能性もある」と一般の人々に思わせる要素もあるわけだ。
しかしそれら鬱屈した心理に於いて私達は安易に派遣社員に対する社会全体の処遇とか、規制緩和の行き過ぎた結果という風に単純に捉えきれない(そういう一面を仮に認めたとしても)とは言えないだろうか?
つまりもっと現代人に固有の心理、精神状態から捉えるべきではないだろうか、という事だ。何故ならこの種の犯罪は少なくとも日本社会では失われた十年以前には然程多発することなどなかったからである。
私達の日常に於いて昨今、朝の通勤時間帯に於ける満員電車では席に座っている人達の顔さえ見えないという状態でない限り、否そういう状態であっても尚、携帯電話を片手に送信されてくるメッセージを読んだり、ツイッターをしたりという光景が大半となっている。携帯電話などは実用的な観点に立てば必要な時以外は一切仕舞い込んでいてもいいものなのに、多機能化する携帯に於いては既に精神的に利用者は依存体質になってしまっている。片時もその画面から目が離せないという異常状態が発生している(最近では遂に駅のホームで携帯電話の画面に意識が釘付けとなった女性がホームに進入してくる電車の車両と車両の間に頭を出してしまい、ぶつかり死亡した事故まで起きた)。
かつて農村家庭の人達は今以上に田植えなどの際に腰を屈める姿勢で仕事をしていたが為に腰が曲がってしまうということがあった。これは一種の職業病である。
又音楽関係者、プロデューサーや歌手達は一日中凄い音量のエレキサウンドを耳にしているので、難聴になってしまうという職業病に隣接している。
プロゴルファーは一日中炎天下のコースを回るので、一番どの職業よりも皮膚癌になる可能性が高く、小さな癌が頬や鼻の鉄片に出来るという事態は珍しくない。
これはそれぞれプロフェッショナルな仕事に纏わる必然的な病理的現実である。
しかし現代人にとってとりわけかなり大多数のホワイトカラーにとって一日中営業関係での顧客リストから金融関係の株式などに纏わる情報を示したパソコンの画面に意識が釘付けになっているという事態が極度に視力を落とす、といった職業病的現実は、一部の人達だけの問題では既になくなってきている。又先ほど述べた携帯電話使用に纏わる日常的現実では、我々は既に逸早く誰よりも情報を摂取するオブセッションに捕らえられ、実際に人と会って話すことよりも、携帯上、ネット上で人と繋がる事自体から片時も意識を離すことの出来ないというオブセッションはある種現代社会が生む極度の異常状態であり、そういうサイバー空間のヴァーチャリティそのものを現実以上のリアリティを持って接していかざるを得ないという状況が、ある意味では先ほど述べた通り魔殺人事件を勃発させてしまう、衝動的抑制力破壊誘引性として作用しているとは考えられないだろうか?
一日中同じ姿勢でパソコン画面に釘付けになり、一日中歩行中でも携帯画面に釘付けになっているという状態が、身体姿勢的な意味でも、精神状態的な意味でも極めて鬱屈した精神状態を引き起こし、常に情報を摂取していなければ済まないという精神的ゆとりを極度に失わせているとは言えないだろうか?
現代では既に恋愛さえ戦後社会の様なロマンを剥奪され、出会いそのものが人工的にセッティングされているし、それは射精産業自体が隆盛を極めてバブル期以降登場したかつてホテトル、マントルなどと呼ばれた売春ホステスの派遣であるデリヴァリーヘルス嬢などが暗躍する時代に於いて性行為さえ資本主義論理に管理されているという現代特有の世相とも関係があるのではないだろうか?
衝動を喚起させるもの、とりわけ殆ど無思想的で無節操的で全く文脈欠如的な衝動を誘引させるものとはそういった現代人のライフスタイルそのものにあるのではないかと私は考えているのである。
だからと言って我々はパソコンを撤収したり、携帯電話を廃止したりすることは実質上不可能である。しかし少なくとも一日中同じ姿勢でいたり、一日中意識をそこに釘付けにさせたりすることを意識的に規制していくことは可能ではないだろうか?
現代人が何故この様に情報を摂取したり、一時的な言葉の遣り取りによってネット上で対人関係的繋がりを保持したりし続けていなければ不安で仕方がないという精神状態になってしまっているのだろうか?そのことを少し考えてみたい。
一つは現代社会に於ける資本主義形態が完全にコスト削減一本槍になっているということが挙げられる。勿論単純に無駄もまた一つの創造誘引性であるなどと悠長なことをビジネス上では言っていられないということはある。だが現代人の不安はある意味では携帯電話やパソコン上でツイッターなどに依存し過ぎているという日常的習慣自体が生み出している、とも言えるのである。
流通コスト、情報コストの削減という資本主義社会のルールに随順する形で我々はこれらの機器を開発してきた。しかしそうする中でそれらの機器の恩恵以上に、機器自体の魅力、便利さに対して夢中になってしまう魔力の虜になっているのである。
同じ様なこととして性行為や飲酒、喫煙にも中毒性ということはあり得る。しかしこれらは所詮そうなっていく傾向の人達はある程度限られる。それは生活形態的にも生活水準的にも言える。しかしパソコンや携帯電話中毒症状は、その利用者数から言えば桁違いに日本社会で嵌ってしまう可能性のある人達の多さを保証してしまっている様なものなのだ。
つまり誰しもが情報格差がなくなっていくという事実自体は革新的なことだったし、情報共産主義は現代人の権利、平等の観点から言っても全く理に適っている。それでも尚そういった生活習慣自体が齎す弊害については真剣に考えなければならないのではないだろうか?
その為には我々は折角パソコン、携帯電話以外にも多くのメディアを有しているのだから、何もビジネス時間帯や利用必要時以外までそれら機器に意識を釘付けにしないで、本(電子書籍でもいいが、目には余り未だよくないかも知れない)もあるし、電車の中で車窓を眺める心の余裕もあっていいのではないか?
電車の中で窓から外の移り行く景色を眺める心のゆとりをもう一度現代人が取り戻した時私達は逆に本当の意味でパソコンや携帯電話の有用性に対する認識を新たにすることが出来るのではないだろうか?
さて現代に於けるこの種の犯罪は固有の性格を帯びている。まずそれらの被害者達は犯人と何の関わりもなく、完全なる赤の他人であり、それらの殺人動機が直接的怨恨ではないということだ。又それらはどんなに多数の被害者を生んだとしても、例えば政治的・思想的テロと違って法治国家や経済社会的現実に直接根を張った事件ではない(勿論間接的には法治国家や経済社会的現実が影響を与えていることは否めないのだが)ということである。
又そうであるが故に意味深なものがある。つまり例えば秋葉原通り魔殺人事件の犯人である加藤智弘容疑者には内的に鬱屈した心理があったとしても、それは政治や経済自体に直接アピールするものでは決してなく、そうであるが故にネット上で共感者さえ呼び起こすことが可能だったのだ。つまり彼等による犯罪の特質とは端的に全くの犯罪素人による犯行であるにもかかわらず、殺す人数や残虐性に於いて寧ろ素人であるが故にプロよりも残忍であるという側面もあるのである。
その全く合理的文脈のなさ、全くの無計画性、全くのイデオロギー欠如した動因など、全てに於いてアマチュア性とオタク性が濃厚である。又だからこそ「或いは運命の悪戯で私が犯人であった可能性もある」と一般の人々に思わせる要素もあるわけだ。
しかしそれら鬱屈した心理に於いて私達は安易に派遣社員に対する社会全体の処遇とか、規制緩和の行き過ぎた結果という風に単純に捉えきれない(そういう一面を仮に認めたとしても)とは言えないだろうか?
つまりもっと現代人に固有の心理、精神状態から捉えるべきではないだろうか、という事だ。何故ならこの種の犯罪は少なくとも日本社会では失われた十年以前には然程多発することなどなかったからである。
私達の日常に於いて昨今、朝の通勤時間帯に於ける満員電車では席に座っている人達の顔さえ見えないという状態でない限り、否そういう状態であっても尚、携帯電話を片手に送信されてくるメッセージを読んだり、ツイッターをしたりという光景が大半となっている。携帯電話などは実用的な観点に立てば必要な時以外は一切仕舞い込んでいてもいいものなのに、多機能化する携帯に於いては既に精神的に利用者は依存体質になってしまっている。片時もその画面から目が離せないという異常状態が発生している(最近では遂に駅のホームで携帯電話の画面に意識が釘付けとなった女性がホームに進入してくる電車の車両と車両の間に頭を出してしまい、ぶつかり死亡した事故まで起きた)。
かつて農村家庭の人達は今以上に田植えなどの際に腰を屈める姿勢で仕事をしていたが為に腰が曲がってしまうということがあった。これは一種の職業病である。
又音楽関係者、プロデューサーや歌手達は一日中凄い音量のエレキサウンドを耳にしているので、難聴になってしまうという職業病に隣接している。
プロゴルファーは一日中炎天下のコースを回るので、一番どの職業よりも皮膚癌になる可能性が高く、小さな癌が頬や鼻の鉄片に出来るという事態は珍しくない。
これはそれぞれプロフェッショナルな仕事に纏わる必然的な病理的現実である。
しかし現代人にとってとりわけかなり大多数のホワイトカラーにとって一日中営業関係での顧客リストから金融関係の株式などに纏わる情報を示したパソコンの画面に意識が釘付けになっているという事態が極度に視力を落とす、といった職業病的現実は、一部の人達だけの問題では既になくなってきている。又先ほど述べた携帯電話使用に纏わる日常的現実では、我々は既に逸早く誰よりも情報を摂取するオブセッションに捕らえられ、実際に人と会って話すことよりも、携帯上、ネット上で人と繋がる事自体から片時も意識を離すことの出来ないというオブセッションはある種現代社会が生む極度の異常状態であり、そういうサイバー空間のヴァーチャリティそのものを現実以上のリアリティを持って接していかざるを得ないという状況が、ある意味では先ほど述べた通り魔殺人事件を勃発させてしまう、衝動的抑制力破壊誘引性として作用しているとは考えられないだろうか?
一日中同じ姿勢でパソコン画面に釘付けになり、一日中歩行中でも携帯画面に釘付けになっているという状態が、身体姿勢的な意味でも、精神状態的な意味でも極めて鬱屈した精神状態を引き起こし、常に情報を摂取していなければ済まないという精神的ゆとりを極度に失わせているとは言えないだろうか?
現代では既に恋愛さえ戦後社会の様なロマンを剥奪され、出会いそのものが人工的にセッティングされているし、それは射精産業自体が隆盛を極めてバブル期以降登場したかつてホテトル、マントルなどと呼ばれた売春ホステスの派遣であるデリヴァリーヘルス嬢などが暗躍する時代に於いて性行為さえ資本主義論理に管理されているという現代特有の世相とも関係があるのではないだろうか?
衝動を喚起させるもの、とりわけ殆ど無思想的で無節操的で全く文脈欠如的な衝動を誘引させるものとはそういった現代人のライフスタイルそのものにあるのではないかと私は考えているのである。
だからと言って我々はパソコンを撤収したり、携帯電話を廃止したりすることは実質上不可能である。しかし少なくとも一日中同じ姿勢でいたり、一日中意識をそこに釘付けにさせたりすることを意識的に規制していくことは可能ではないだろうか?
現代人が何故この様に情報を摂取したり、一時的な言葉の遣り取りによってネット上で対人関係的繋がりを保持したりし続けていなければ不安で仕方がないという精神状態になってしまっているのだろうか?そのことを少し考えてみたい。
一つは現代社会に於ける資本主義形態が完全にコスト削減一本槍になっているということが挙げられる。勿論単純に無駄もまた一つの創造誘引性であるなどと悠長なことをビジネス上では言っていられないということはある。だが現代人の不安はある意味では携帯電話やパソコン上でツイッターなどに依存し過ぎているという日常的習慣自体が生み出している、とも言えるのである。
流通コスト、情報コストの削減という資本主義社会のルールに随順する形で我々はこれらの機器を開発してきた。しかしそうする中でそれらの機器の恩恵以上に、機器自体の魅力、便利さに対して夢中になってしまう魔力の虜になっているのである。
同じ様なこととして性行為や飲酒、喫煙にも中毒性ということはあり得る。しかしこれらは所詮そうなっていく傾向の人達はある程度限られる。それは生活形態的にも生活水準的にも言える。しかしパソコンや携帯電話中毒症状は、その利用者数から言えば桁違いに日本社会で嵌ってしまう可能性のある人達の多さを保証してしまっている様なものなのだ。
つまり誰しもが情報格差がなくなっていくという事実自体は革新的なことだったし、情報共産主義は現代人の権利、平等の観点から言っても全く理に適っている。それでも尚そういった生活習慣自体が齎す弊害については真剣に考えなければならないのではないだろうか?
その為には我々は折角パソコン、携帯電話以外にも多くのメディアを有しているのだから、何もビジネス時間帯や利用必要時以外までそれら機器に意識を釘付けにしないで、本(電子書籍でもいいが、目には余り未だよくないかも知れない)もあるし、電車の中で車窓を眺める心の余裕もあっていいのではないか?
電車の中で窓から外の移り行く景色を眺める心のゆとりをもう一度現代人が取り戻した時私達は逆に本当の意味でパソコンや携帯電話の有用性に対する認識を新たにすることが出来るのではないだろうか?
Tuesday, June 1, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 日本社会を覆うどんよりとした悪といい子ぶった態度
この文章を書くちょっと前に現政権の首相が退陣表明した。僅か八ヶ月の政権だった。尤も党自体はそのまま存続し、再び解散総選挙に縺れ込む事はないだろう(そうなったらなったで面白いと考えている人もいるかも知れないが)。
人間には余り格式ばった正しさには耐えられないところがある。哲学者中島義道は正しいことを正しいと言われると人間は途轍もなく苛立たしく思うと「怒る技術」などで書いている。
それは人間が清廉潔白であることだけでは生きていけないということを表わしている。
しかし日本はある部分では政権与党に於いてもそうだし、ある宗教団体に支えられている政党に関しても言えることであるが、何人かのフィクサーが実質上では金権的支配を履行している。
それはどんよりとした悪である。それは端的に反社会性を地で言っているが、一定の民衆から支持を得ている。
今回の首相と幹事長の退陣はそのつけを払わされたと見る見方もあるだろう。つまり出来ないことまでも含めて、それが正義だからマニフェストし過ぎたことが退陣劇を招いた。その割には一切その事への言及は首相からなされなかったのは残念である。と言うよりある意味ではそれくらいには悪の部分も件の辞めていく首相も持っていたということだろう。
一番悪質で、それが結構ある部分では国民に受けてしまう体質とは、この国に淀むいい子ぶった態度である。だからこそ出来もしない県外移転ということを退陣していく首相はノウノウとぶったのである。それを支える精神的「潔白さを望む」体質が日本人にはある。
これは恐らく日本人にのみ特徴的なことではないだろう。
又興味深いのは、いつまで経ってもその影響力を行使し続ける何人かのフィクサーはお互い同士はそれほど親しくはないだろうが、政界、宗教団体、マスコミも含めて何人かがいて、その影響力はいつも前面には出てこないが、ここぞという時には意外に根強い底力を発揮する。
別のブログで反社会性とはかなり悪どいことをして、それでいて警察には捕まらないということである、と私は述べたことがあるが、それを力のない市民レヴェルで行う内は微笑ましいが、それが国家レヴェルとなると、いささか国家全体を固有の淀んだ空気にしていく。
そういったフィクサー達は中にはもう大分年配者になっている人もいる。
年功序列という考えは、日本では根強く地方の社会では残っている。それはある部分では企業などで実力主義的考えが取り入れられてもなくなりはしない。
政権与党が全ての役員を刷新しても、首相を交代させても、日本人の中に奇妙な清廉潔白願望がある限り変人と言われた宰相の時の様な独走を許すことにもなるし、又出来もしない責任倫理にも悖るいい加減な無責任政治を招くだけであろう。
私達は反社会性ということをもっと憎めないレヴェルで追求していく必要がある。つまりこういう風に余りにも頻繁に総理大臣が交代する様な体たらくは、かなり危険思想家達、つまり煽動的右翼などに付け入る隙を与えてしまう。
マックス・ヴェーバーは政治が悪によって悪を征す部分があると考えていたが、まさにその通りである。人間の意思疎通には適度のアンチ・ヒーロー志向共感的作用と、相手の出方を待ち、こちら側に出来る限り有利に持ち込もうとするギャンブル的感性が宿っている。それが全く無い意思疎通など只の井戸端会議である。
だが予想外に日本人はこの井戸端会議が好きである。日常的に趣味の集いなどに於いて地域社会、地方共同体のどんよりとした悪や、いい子ぶった礼節的年功序列が蔓延っていると言える。つまりそういう場所での何と言うことのない個々の対人関係術が更に拡張されたものこそ、現今の政治状況であり、マスコミは巨大な井戸端会議化していると言える。
もっと我々内部に巣食う悪の要素を逆利用すべきなのである。それはフィクサーを温存させていく様な保守主義に於いてではなく、相手との駆け引きを、陰湿ではない形で、ユーモアを交えて戦略的意思疎通をし合う中でその都度の適切な政治判断を引き出すような策略的な知性を復権させるべきである。
フィクサーを温存させてきた日本社会の体質の一番根っこにあるものとは、端的に権威者を信用し過ぎる懐疑心のなさである。そこに哲学的思惟が欠如した国民性がある。
従ってこの国では意思疎通とは相手への配慮だけである。欧米で哲学的に配慮という概念が出てきたのはハイデッガーなどが魁であったが、その前には一切の配慮を否定する様な歴史的経緯があったが、日本はそれと丁度逆である。
いい子ぶった態度を善しとする潔さを理想とする主義は、滅びの思想に近い。それは赤穂浪士、新撰組、特攻隊、ヤクザ等にも共通する心理である。
人間はそもそもいい子ではない。その事に真摯であり正直であることだけが意思疎通にいい意味でスリリングな井戸端会議ではない形でのギャンブル的感性とアンチ・ヒーロー共感型心理をも巧く利用していけばどんよりとした悪といい子ぶった理想を背中合わせにしてきた停滞的ムードを払拭することが可能なのだ。
悪戯っ子であり、悪い子であることの自覚こそが政治に活気あるディベートを復活させることに繋がる。それがどんよりとした悪といい子ぶった態度が交代に出現する様な振り子現象から離脱する唯一の方策である。
付記 現在迄のところ、野党に与党に変わり得るべき力量の党も人材もない。こういう時期に安易に野党に加担してはいけない。危険である。それだけは避けねばならない。政権与党の中核を担う世代の力量に委ねていくしかあるまい。(河口ミカル)
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a69a-1.html
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-19a3-1.html
人間には余り格式ばった正しさには耐えられないところがある。哲学者中島義道は正しいことを正しいと言われると人間は途轍もなく苛立たしく思うと「怒る技術」などで書いている。
それは人間が清廉潔白であることだけでは生きていけないということを表わしている。
しかし日本はある部分では政権与党に於いてもそうだし、ある宗教団体に支えられている政党に関しても言えることであるが、何人かのフィクサーが実質上では金権的支配を履行している。
それはどんよりとした悪である。それは端的に反社会性を地で言っているが、一定の民衆から支持を得ている。
今回の首相と幹事長の退陣はそのつけを払わされたと見る見方もあるだろう。つまり出来ないことまでも含めて、それが正義だからマニフェストし過ぎたことが退陣劇を招いた。その割には一切その事への言及は首相からなされなかったのは残念である。と言うよりある意味ではそれくらいには悪の部分も件の辞めていく首相も持っていたということだろう。
一番悪質で、それが結構ある部分では国民に受けてしまう体質とは、この国に淀むいい子ぶった態度である。だからこそ出来もしない県外移転ということを退陣していく首相はノウノウとぶったのである。それを支える精神的「潔白さを望む」体質が日本人にはある。
これは恐らく日本人にのみ特徴的なことではないだろう。
又興味深いのは、いつまで経ってもその影響力を行使し続ける何人かのフィクサーはお互い同士はそれほど親しくはないだろうが、政界、宗教団体、マスコミも含めて何人かがいて、その影響力はいつも前面には出てこないが、ここぞという時には意外に根強い底力を発揮する。
別のブログで反社会性とはかなり悪どいことをして、それでいて警察には捕まらないということである、と私は述べたことがあるが、それを力のない市民レヴェルで行う内は微笑ましいが、それが国家レヴェルとなると、いささか国家全体を固有の淀んだ空気にしていく。
そういったフィクサー達は中にはもう大分年配者になっている人もいる。
年功序列という考えは、日本では根強く地方の社会では残っている。それはある部分では企業などで実力主義的考えが取り入れられてもなくなりはしない。
政権与党が全ての役員を刷新しても、首相を交代させても、日本人の中に奇妙な清廉潔白願望がある限り変人と言われた宰相の時の様な独走を許すことにもなるし、又出来もしない責任倫理にも悖るいい加減な無責任政治を招くだけであろう。
私達は反社会性ということをもっと憎めないレヴェルで追求していく必要がある。つまりこういう風に余りにも頻繁に総理大臣が交代する様な体たらくは、かなり危険思想家達、つまり煽動的右翼などに付け入る隙を与えてしまう。
マックス・ヴェーバーは政治が悪によって悪を征す部分があると考えていたが、まさにその通りである。人間の意思疎通には適度のアンチ・ヒーロー志向共感的作用と、相手の出方を待ち、こちら側に出来る限り有利に持ち込もうとするギャンブル的感性が宿っている。それが全く無い意思疎通など只の井戸端会議である。
だが予想外に日本人はこの井戸端会議が好きである。日常的に趣味の集いなどに於いて地域社会、地方共同体のどんよりとした悪や、いい子ぶった礼節的年功序列が蔓延っていると言える。つまりそういう場所での何と言うことのない個々の対人関係術が更に拡張されたものこそ、現今の政治状況であり、マスコミは巨大な井戸端会議化していると言える。
もっと我々内部に巣食う悪の要素を逆利用すべきなのである。それはフィクサーを温存させていく様な保守主義に於いてではなく、相手との駆け引きを、陰湿ではない形で、ユーモアを交えて戦略的意思疎通をし合う中でその都度の適切な政治判断を引き出すような策略的な知性を復権させるべきである。
フィクサーを温存させてきた日本社会の体質の一番根っこにあるものとは、端的に権威者を信用し過ぎる懐疑心のなさである。そこに哲学的思惟が欠如した国民性がある。
従ってこの国では意思疎通とは相手への配慮だけである。欧米で哲学的に配慮という概念が出てきたのはハイデッガーなどが魁であったが、その前には一切の配慮を否定する様な歴史的経緯があったが、日本はそれと丁度逆である。
いい子ぶった態度を善しとする潔さを理想とする主義は、滅びの思想に近い。それは赤穂浪士、新撰組、特攻隊、ヤクザ等にも共通する心理である。
人間はそもそもいい子ではない。その事に真摯であり正直であることだけが意思疎通にいい意味でスリリングな井戸端会議ではない形でのギャンブル的感性とアンチ・ヒーロー共感型心理をも巧く利用していけばどんよりとした悪といい子ぶった理想を背中合わせにしてきた停滞的ムードを払拭することが可能なのだ。
悪戯っ子であり、悪い子であることの自覚こそが政治に活気あるディベートを復活させることに繋がる。それがどんよりとした悪といい子ぶった態度が交代に出現する様な振り子現象から離脱する唯一の方策である。
付記 現在迄のところ、野党に与党に変わり得るべき力量の党も人材もない。こういう時期に安易に野党に加担してはいけない。危険である。それだけは避けねばならない。政権与党の中核を担う世代の力量に委ねていくしかあるまい。(河口ミカル)
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a69a-1.html
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-19a3-1.html
Saturday, May 29, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 言語行為で駆け引きと配慮が一致する地点(理想的遣り取り)<発信者と受信者の利益>
通常、電話もメールもツイッターのリプライも最初にメッセージを送信したり、かけたりして話す者が、そのメッセージを受信する者から何かの情報を得たいと要請しているか、さもなければこちらから向こう側へ情報を提供したいと考えている。従って送信者(発信者)は相手へ伝えたいか、相手から伝えて貰いたいかのいずれかである。
通常、メッセージ発信者がメッセージ受信者から何らかの情報を引き出したいにせよ、こちら側から情報を向こうへ提供したいにせよ、いずれにせよ何らかの利益をそこから発信者が得たい、それが仮に実利的目的ではなくても、息抜きとかストレス解消の為の会話だとしても、そうすることを最初に望んだのが彼(女)であることは紛れも無い事実だ。
するとメッセージ受信者に対して迷惑がかからないということを最低限の前提に理想的には相手のメッセージ受信者から感謝されることが最良の成果である。
つまりこちら側から相手に言語行為を望み、且つ相手から感謝されるには、相手が望む情報をこちらが提供するように心がけるか、相手から情報を引き出しつつ、相手のこちらへの情報提供の快(相手から感謝される<この場合電話をかけて話しかけたり、ツイートのリプライをする人から>ことに於ける)を与えるように巧く持っていくには、余り性急に相手へ情報を与え(恩着せがましく)たり、相手から引き出そうと焦ることは禁物だ。
つまりその相手の感情を荒立てずに、巧く言語行為を援用していくかどうかの技術、つまり駆け引きが、相手に対しあたかも挑戦するかのように受け取られずに、逆に感謝されるように持ち込むことこそが、寧ろ言語行為上の最高の駆け引きと言える。つまり言語行為上での駆け引きとは、駆け引きであるという形式を露骨に示し合うことなく(あまり、せっついたり、がっついたりして欲望を剥き出しにせずに)行うことこそが、逆に最高の駆け引きであるということだ。
これは全ての大人の会話の基本だ。
つまり全ての実りある会話とはメッセージ発信者(送信者)と受信者が偏利的でなく相利的に利益獲得、享受する形に於いて理想を見ることが可能である。
このことは資本主義に於いて、生産者と供給者、或いはそれらと消費者の関係にも適用することが出来る。
このことは人間が利益取得という実利性、功利性を前面に出すよりは、あくまでそれは結果として付帯してくることを理想とし、相互の遣り取り自体を楽しむ、或いはその遣り取りの円滑さ、行為に纏わる充実感を求める感情的動物であることを示している。
通常、メッセージ発信者がメッセージ受信者から何らかの情報を引き出したいにせよ、こちら側から情報を向こうへ提供したいにせよ、いずれにせよ何らかの利益をそこから発信者が得たい、それが仮に実利的目的ではなくても、息抜きとかストレス解消の為の会話だとしても、そうすることを最初に望んだのが彼(女)であることは紛れも無い事実だ。
するとメッセージ受信者に対して迷惑がかからないということを最低限の前提に理想的には相手のメッセージ受信者から感謝されることが最良の成果である。
つまりこちら側から相手に言語行為を望み、且つ相手から感謝されるには、相手が望む情報をこちらが提供するように心がけるか、相手から情報を引き出しつつ、相手のこちらへの情報提供の快(相手から感謝される<この場合電話をかけて話しかけたり、ツイートのリプライをする人から>ことに於ける)を与えるように巧く持っていくには、余り性急に相手へ情報を与え(恩着せがましく)たり、相手から引き出そうと焦ることは禁物だ。
つまりその相手の感情を荒立てずに、巧く言語行為を援用していくかどうかの技術、つまり駆け引きが、相手に対しあたかも挑戦するかのように受け取られずに、逆に感謝されるように持ち込むことこそが、寧ろ言語行為上の最高の駆け引きと言える。つまり言語行為上での駆け引きとは、駆け引きであるという形式を露骨に示し合うことなく(あまり、せっついたり、がっついたりして欲望を剥き出しにせずに)行うことこそが、逆に最高の駆け引きであるということだ。
これは全ての大人の会話の基本だ。
つまり全ての実りある会話とはメッセージ発信者(送信者)と受信者が偏利的でなく相利的に利益獲得、享受する形に於いて理想を見ることが可能である。
このことは資本主義に於いて、生産者と供給者、或いはそれらと消費者の関係にも適用することが出来る。
このことは人間が利益取得という実利性、功利性を前面に出すよりは、あくまでそれは結果として付帯してくることを理想とし、相互の遣り取り自体を楽しむ、或いはその遣り取りの円滑さ、行為に纏わる充実感を求める感情的動物であることを示している。
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