教育現場では既に生徒達子供の心理を現場の教師自身が把握し損ねている。それが桐生市小六女子自殺事件や新潟県神林村や福岡県筑前町中学生自殺事件などに顕著であるが、地方部に於いて自殺を多発させている。これは既に情報化社会が極めて狭い範囲で営まれていて、その遣り取りの時間的な過密さから心理的に生徒達の心を蝕んでいる。
世界中で既に国家権威や指導者層の権威が失墜しているのは、只単に彼等の無策によるだけでなく、もっと本質的な情報ネットワークによる意図的な情報漏洩、流出映像等によって組織、集団へ各個人が謀反することを可能としているネット情報発信行為の無限の可能性への惑溺による。
事実上情報には国境はなく、それは国家権威レヴェルで情報統制を不可能化しているのと、情報行為の送受信自体が機密情報を維持していくことを不可能としている。
従って我々内部では情報が機密化され保護されることよりは、誰かによって漏洩されることの方を期待する心理を構成してしまっている。
WikiLeaksの世界的規模での展開がそれを象徴している。従って件の航海士による流出映像は彼によらなくても、誰か別の個によって行われていたと誰しも想定し得る。
しかしその情報を享受する個に於いては、リア充的な対人関係で情報を摂取しているのでも、送信しているのでもない。勿論部分的にはリア充的対人関係構築も可能だ。しかしそれはあくまでネットインフラを通したヒューマンリレーションに於いては部分的なものへと後退している。
故に必然的に情報行為はワイドに摂取するが、それをリア充的に伝え合うということに於いては極めて限定的なサークルへと帰属させてしまっている。その極めて閉鎖的なクラスターが世界中で一見世界を情報ネットで繋げている様でいて、その実小さなクラスターに身を寄せ合っているという現実を作り上げている。それが子供の社会にも雛形として反映している。
子供社会とは大人社会の情報送受信閉鎖性の雛形以外ではない。
つまり閉じてしまっているサークルというヒューマンネットクラスターから既に多くの市民が逃れられない様な意味では、それを横目で見られるのは自分自身ではさして多くのフォロウをツイッターで維持せず、しかし極めて多数のフォロワーを外部からは獲得し得る著名人に限定されていってしまう。彼等は全ての情報をリア充ではなしに、横目で見ているが、それをフォロウしているツイーター一般はあくまで違う。極めて限定的な双方向的送受信サークルというスモールクラスターメンバーでしかない。
実はその小さなクラスターに身を寄せ合う図式をWkiLeaksなどの経営者達は知っている。つまりそういう閉鎖的な送受信という方式が世界中に浸透していることを前提に、そこから情報漏洩を吸い取ることを目論みているのである。閉鎖サークル(ツイッターの常連からミクシーにまで至っている)では基本的に内部のルールに従わざるを得ないが、その閉鎖的な小社会成員的気分とは時として、そこから逃れたいという欲望を産出する。
それが時として匿名の情報漏洩的誘惑へとネットユーザーを誘う。情報クラスターは万民に等質の情報を受け渡すが、それは事実上一方通行であり、こちらからは特殊情報しか発信して外部全体に価値ある情報として認知され得ないという暗黙のピアプレッシャーが、時として組織、集団謀反的漏洩行為へと誘引する。
子供社会での自殺は実はこういった閉鎖サークル、例えば小学校六年生の同級生の間だけで過密に送受信の遣り取りを行わざるを得ないという閉鎖送受信クラスター内で身を寄せ合うという日常的習慣化した情報行為によって、そこからの逃れられなさが加速化させている。
等質情報が飛び交うということと、その情報の存在理由の特殊性という規準に於ける差異、つまり凡庸な情報と、価値ある情報との差異は歴然としており、内実的には自己内に閉鎖空間的にウェブ上で知覚的に対峙している個と、その個をちっぽけで無価値なものへと後退させる特殊情報(例えば尖閣列島中国漁船海上保安庁船への衝突映像とかの)の世界中の市民、ユーザーへの等質的受け渡しという二律背反が次第にユーザーを虚無的気分へと持っていく。
どんな情報も摂取し得るが、こちらから発信する情報の価値は微々たるものであるという認識を持たずにウェブサイトを利用する者は、基本的に現代社会ではゼロである。この事実こそWikiLeaks等の経営者達の行為を再考する必要へと我々を導く。
つまり万民に平等に受け渡されるリア充の無化こそが我々の社会を寧ろ自己閉鎖的気分へと持っていく。情報に支配されている気分を例えば全ての2ちゃんねるユーザー、ツイーター達に齎すのだ。ニコニコ動画やYouTubeといったメディアが増殖していけばいくほど、リア充的実感から遠ざかって行く。その情報支配からの虚無的逃れられなさこそが小児自殺やいじめの類発を招聘している。
いじめは情報送受信クラスターの閉鎖的結社性に依存している。外部の人間、例えば小学校六年A組の生徒の間での送受信は基本的にB組の成員には無関係である。それは大人社会ではイントラネット的な送受信クラスターによっても実現化している。
しかし事実上B組にも我がA組と等質の情報は受け渡されている。そこには違いがない。しかし自分はA組であるなら、B組の成員へと悩みを仮に告白しても、閉じたA組内での遣り取り自体から解放されるわけではない。それが全て携帯などを使った閉鎖送受信クラスターによって支配されていると、次第に子供社会内ではその逃れられなさを自己内で深刻化していってしまう。
悩みを外部に打ち明ければ打ち明けるほど四面楚歌状態を招来するのである。
43歳の航海士による流出映像事件は従って彼本人による孤独な決断であったればこそ実現したが、そのことにより彼は最早組織の成員たることを今後許されまい。つまり外部へと情報を流出する組織、集団謀反行為はその行為によって等質化された情報が外部全体に広まれば広まるほど閉鎖サークルの情報送受信クラスター内部では決定的に非成員としての烙印を押される。
それは情報自体が一種のサリン的ロールを担ってしまっているということ以外ではない。この情報価値のサリン化の前では我々は既に一個人の情報が齎す結果を常に想定せずにネットを利用することは出来ない。それは閉鎖サークル内であってさえ同様である。そこがリア充的対人関係のクラブロー的性質との最大の違いである。
子供は大人と違って外部に存在する別のクラスターに自らの意志で参入する機会を作ることが出来ない。その出来なさが自己帰属クラスター内での閉鎖性を人生に於ける全体化してしまう。いじめの本質とは実はこの情報送受信クラスター=閉鎖サークルの成員としての誇り、対外部的差別化の意識が作り出す。
それは自分自身が公務員であるとか、官僚であるとか、公認会計士であるとか、弁護士であるとかそういう職業意識と等質のものである。人間に帰属意識がないのであれば、一切のいじめも発生しない。いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない。
繰り返すが大人は仮に一つの情報送受信クラスター閉鎖サークルでいじめに遭っても、それ以外のサークルを掛け持ちすることが可能である。子供にはそれが出来ないということを現場の教師全員が疎いということは出来る。つまり子供は既に認知レヴェルでも思考レヴェルでも大人と等質の情報送受信者であり、クラスター内での閉鎖的ヒエラルキーのネットから自由ではいられないということをもっと切実な問題として現場教師並びに学校経営者達は心得ておくべきなのである。
我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Sunday, December 5, 2010
Thursday, November 25, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十四章 人の悪口、陰口と世論調査
私の嫌いで信用出来ない人とは「私人の悪口を言う人って嫌い」と言う人である。
何故か?それは二つ意味においてそうである。
まず人の悪口というのは全く言わないでいると、特に生き馬の目を抜く様な集団内の会合、組織内会議などの連続する日々に於いて、極めて息苦しくなるし、ストレスも充満する。とりわけ自分の集団内での立場が芳しくない時、或いは自分と意見的に合う人や同調者が少ない場合などはそうである。日頃のストレスだけが溜まる重要な場で息をつかずに何かを討議したり、プロジェクトを進行させたりしていく時には、時間外にストレス解消を巧く日常的に配分していく必要は絶対にある。それなしにいると、次第にフラストレーションが溜まり精神衛生的によくないからだ。意気投合して同じ他者の悪口を言い合えるということは、端的にかなりいいことである。
しかし重要なことは、ある人の悪口をある相手を捉まえて言って、その者が憤ったり反意を示したりしない様な相手を直観的に選ぶ必要がある。これは結構難しい。何故なら相手に誰かの悪口を言って、それに同調して貰えるということは、色々な意味で、つまり思想的傾向から性格から何から何まで阿吽の呼吸で理解し合える部分がなければ駄目なのであり、そういった相手を選び取ることはかなり直観的である必要がある以前に、そうでなければ出会えないものであるからだ。それはある程度運命的出会いでもあり、生涯巡り合えぬ者もいるだろう。それはそれでよい。
さて私が人の悪口を言うことを嫌うと言う人を嫌いで信用出来ない二つ目の理由は、端的にその意見自体が論理的に矛盾しているからである。当然であろう。何故なら人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。
要するに差別する人が嫌い、とか、人に厭な態度を取る人が嫌い、とかそういった全ての言説は差別する人への差別であり、厭な態度を取る人へ取る厭な態度以外ではなく、その事実に気付いていない段で、積極的にその者によって批判されている差別者や厭な態度を取る人以上に寧ろ始末に終えない。
さて人間関係とはある意味で、我々はそういった一緒に誰かの、勿論厭な人への悪口を言い合う相手を探す為に必死に集団内で動き、仲間を作っていっているということなのであり、それを外れる如何なる人間関係も、社会も、共同体もない、と言っても過言ではない。
只それが集団の人数が多くなり、規約、規則、公約が大きくなればなるほど、巧妙にその人間の対他者観に於ける精神実利的な本音性を隠蔽していくのである。まさにそれが地方公共団体とか国家とか民族とか社会とかなのである。
従って本音を一切言わないままで、実はそう言わずにいる(本音は言うものではないと直接誰かに言うということもそうだし、本当に心の中の本音そのものを安易に人には告げないでいるということ)人同士で皆のそれぞれてんでばらばらな本音を「一応体裁上では」守りましょう、つまり最低限皆の共通するところではどの様な他者にもプライヴェートな空間は守りましょうということが、公的規準なのであり、それを皆暗黙の内に理解している(現実には)。
さて問題なのは、しかしこの社会も、この国家も、この民族も実は極めて個人と同じ様に常に誤りを犯すということだ。しかし個に於ける粗相に対しては誰しもとやかく言い、それを悪いことであると思わないのに、それがかなり多くの人数となり、ある纏まりになっていくと(つまり集団化、組織化されると)次第に容易に本音を敵対者同士でも言えなくなってくる。それはある個人を名指しして気の合う友人同士で悪口を言い合うことと違ってきてしまうのだ。
だから例えばマスコミはかなり頻繁に世論調査をしては、テレビ、新聞などでニュースとして、記事として視聴者や購買者に流すのだ。しかし重要なことは、ある時節に於いて、ある責任者自身による恣意的判断によってその世論調査自体が実施され、その結果を情報として流すということ自体に纏わる意図とか方針は一切見えてこないし、又公表されない。実はここに極めて大きな問題がある。
ここ数年何人もころころと短期間で総理大臣と政権が交代してきたことの理由の一つにも、実はこの極めて恣意的判断による世論調査の、しかも極めて頻繁に執行されてきたという事実に最大の理由があるとも言えるのだ。
ある部分菅総理乃至菅政権自体が例の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関して映像を国民に公表しなかったという事実も、極めて今述べた世論調査によって国民が政権批判をするのではないかということへの恐怖がそうさせた、とも言い得るのだ。つまり政府、国会、否政治全ての局面で全ての関係者がこの世論という化け物(それは一切実体がないし、誰もその信憑性からその本質的正しさ、見解の意味の精度、世論の傾向自体の本質的一致があるのか、ということを確認も証明もし得ない)に右往左往し、まさに翻弄されている、と言っても過言ではない。
それは国会答弁にも反映されている。APECでの総理の中国主席との対談での紙きれのメモを見て話していたことへの批判、ヨンピョン島での北朝鮮軍からの砲撃時での政府の対応に対する決然としなさ(北に対する非難を明確化していなかったなどの)、又小沢元幹事長への党内対応に対する批判(山本一太、世耕 弘成による参議院予算委員会内での質疑から)となって立ち現れている。まさにそれらは一切人の悪口を言ってはいけないという不文律だけを踏襲する為に人が誰とも本音を言い合わない状況を示唆さえする、国会内で見られる政治家による国民へのパフォーマンスだけなのだ。まさにそれを国会中継を視聴している国民が「そういう見栄を与党に対し野党は切ることを期待している」ということを前提とした「やらせ」、言ってみれば見え透いた猿芝居なのである。
それはニュース報道にも言える。まずトップニュース自体が国民が「そういうものに一番今関心があるだろう」という想定が前提されているし、司法も裁判員の心のケアの為に死刑判決の出た被告に上告を勧めるという事態にまで発展している。端的に司法はつい先日出た裁判員参加裁判による初の未成年への死刑判決によって今後幾多の類似案件が似た判決になっていく可能性、つまり世論自体に司法も逆らえないという社会での不文律(事実上三権分立も、司法のケース毎に独立した判断自体も全て建前であり、世の中全体の世論<の様な雰囲気としてそれに従わざるを得ないものとして裁定者に迫る実体の実はない>に従属していずには存在し得ない)に沿って履行されている。
つまり誰も社会自体の運営に、実はかなりのレヴェルで深くこの実体なき世論が強迫観念として全ての人達(マスコミ自身さえそうであるし、政治家、経営者、司法関係者等全て)に浸透している。そしてそれを問うことは一切しない。本当はまさにその実体なきものへの従属こそ問わねばならないと言える。劇映画の流行やゲームソフトの流行自体がその時代の世相を反映するのは、ある意味では世論迎合であり、ある意味では世論という実体なきものへの批判であり、その都度監督や製作者、クリエイター達の時代への読みと表現意図によって決定されているが、その決定が只商業資本として収益が回収され得るということだけが目的化してしまっている様な状態が社会全体に蔓延しているということだ。
この際私は世論調査とはもう少し緩やかに、せめて三ヶ月に一度くらいにしておくべきであると全てのアンケートその他の調査機関並びにマスコミ全各社に提案したい。そうしないと、次々と不測の事態へと直面する政府や行政全体へ、常に不確実な世論迎合的な与野党の政争だけの顕現を招聘し、一切の実りある国民全体への利益として還元され得る国会も、政治的決定(政府その他による)もなされ得ないと思う。
何故これだけ頻繁に世論調査をしなければいけないか?それは人の悪口を公的には確かにそうであるが、言ってはいけないことであるという不文律に余りにも心の奥底まで我々が強迫観念的に従属しきっているが故に、それを踏み外すことを恐怖して、その代理機能として世論自体が肥大化してしまっているからである。その肥大化した実体なき世論は一人歩きして、全ての権力者、権威執行者まで一切の悪口を言わない様に口を閉ざさせているのである。それは悪口を言う事を極度に忌避する雰囲気から作られ、それが陰湿な陰口へと変質し、次第にそれがスケープゴートを探し、その者が見つかると一斉に攻撃することに全ての外野席観客は右へ倣えするのだ(まさにその都度法相であったり、官房長官だったり、国土交通相だったり、文部科学大臣だったり、防衛大臣だったり、要するにその都度誰でもいいのだ、そういういじめ対象さえ見出せれば)。
私は何も本音を全て言え、と言っているわけではない。一定の本音を全ての人に言い合える様な雰囲気を政治家、マスコミ各社経営者は雰囲気として作る努力をせよ、と言っているのだ。
全くそつなく粗相をすることをしないだけの形式踏襲主義者だけが大手を振るえるが故に、言いたいことを噤むことが常習化していくのだ。例えば確かに前柳田法務大臣の地元広島でのスピーチでの内容の一部は不適切且つ思慮を欠いてはいた。しかしそれを必要以上に問責決議への持ち込む野党と、その野党の要請に容易につき従ってしまう与党内での予定調和的集団内見せしめ的態度の同調からは、実際形骸的秩序だけを維持していく姑息な政治家の保身本能だけが透けて見える。
今こそ人の悪口を所詮相互に言い合える仲間を求めて我々は集団内を彷徨い歩き、色々な場所へと移動し、社会行動という形で動いているのだ、という物事の本質に、社会全体も所詮抗い難いのだという真理を見据え、下手に体裁だけを取り繕うことを控え目にするという心がけを持っていくべきではないだろうか?そうすれば政権担当者も姑息に国民へ情報を隠蔽するという様な見え透いた策を弄することなく虚心坦懐に政権運営を図っていくことだろう。
下手な猿芝居にだけ執心しているが故に、子供達は一切大人を信頼も、尊敬もしなくなり、子供の社会の内部でじくじくと陰湿ないじめが進行していくのだとも言える。
次回はその子供のいじめに就いて考えてみたい。
何故か?それは二つ意味においてそうである。
まず人の悪口というのは全く言わないでいると、特に生き馬の目を抜く様な集団内の会合、組織内会議などの連続する日々に於いて、極めて息苦しくなるし、ストレスも充満する。とりわけ自分の集団内での立場が芳しくない時、或いは自分と意見的に合う人や同調者が少ない場合などはそうである。日頃のストレスだけが溜まる重要な場で息をつかずに何かを討議したり、プロジェクトを進行させたりしていく時には、時間外にストレス解消を巧く日常的に配分していく必要は絶対にある。それなしにいると、次第にフラストレーションが溜まり精神衛生的によくないからだ。意気投合して同じ他者の悪口を言い合えるということは、端的にかなりいいことである。
しかし重要なことは、ある人の悪口をある相手を捉まえて言って、その者が憤ったり反意を示したりしない様な相手を直観的に選ぶ必要がある。これは結構難しい。何故なら相手に誰かの悪口を言って、それに同調して貰えるということは、色々な意味で、つまり思想的傾向から性格から何から何まで阿吽の呼吸で理解し合える部分がなければ駄目なのであり、そういった相手を選び取ることはかなり直観的である必要がある以前に、そうでなければ出会えないものであるからだ。それはある程度運命的出会いでもあり、生涯巡り合えぬ者もいるだろう。それはそれでよい。
さて私が人の悪口を言うことを嫌うと言う人を嫌いで信用出来ない二つ目の理由は、端的にその意見自体が論理的に矛盾しているからである。当然であろう。何故なら人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。
要するに差別する人が嫌い、とか、人に厭な態度を取る人が嫌い、とかそういった全ての言説は差別する人への差別であり、厭な態度を取る人へ取る厭な態度以外ではなく、その事実に気付いていない段で、積極的にその者によって批判されている差別者や厭な態度を取る人以上に寧ろ始末に終えない。
さて人間関係とはある意味で、我々はそういった一緒に誰かの、勿論厭な人への悪口を言い合う相手を探す為に必死に集団内で動き、仲間を作っていっているということなのであり、それを外れる如何なる人間関係も、社会も、共同体もない、と言っても過言ではない。
只それが集団の人数が多くなり、規約、規則、公約が大きくなればなるほど、巧妙にその人間の対他者観に於ける精神実利的な本音性を隠蔽していくのである。まさにそれが地方公共団体とか国家とか民族とか社会とかなのである。
従って本音を一切言わないままで、実はそう言わずにいる(本音は言うものではないと直接誰かに言うということもそうだし、本当に心の中の本音そのものを安易に人には告げないでいるということ)人同士で皆のそれぞれてんでばらばらな本音を「一応体裁上では」守りましょう、つまり最低限皆の共通するところではどの様な他者にもプライヴェートな空間は守りましょうということが、公的規準なのであり、それを皆暗黙の内に理解している(現実には)。
さて問題なのは、しかしこの社会も、この国家も、この民族も実は極めて個人と同じ様に常に誤りを犯すということだ。しかし個に於ける粗相に対しては誰しもとやかく言い、それを悪いことであると思わないのに、それがかなり多くの人数となり、ある纏まりになっていくと(つまり集団化、組織化されると)次第に容易に本音を敵対者同士でも言えなくなってくる。それはある個人を名指しして気の合う友人同士で悪口を言い合うことと違ってきてしまうのだ。
だから例えばマスコミはかなり頻繁に世論調査をしては、テレビ、新聞などでニュースとして、記事として視聴者や購買者に流すのだ。しかし重要なことは、ある時節に於いて、ある責任者自身による恣意的判断によってその世論調査自体が実施され、その結果を情報として流すということ自体に纏わる意図とか方針は一切見えてこないし、又公表されない。実はここに極めて大きな問題がある。
ここ数年何人もころころと短期間で総理大臣と政権が交代してきたことの理由の一つにも、実はこの極めて恣意的判断による世論調査の、しかも極めて頻繁に執行されてきたという事実に最大の理由があるとも言えるのだ。
ある部分菅総理乃至菅政権自体が例の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関して映像を国民に公表しなかったという事実も、極めて今述べた世論調査によって国民が政権批判をするのではないかということへの恐怖がそうさせた、とも言い得るのだ。つまり政府、国会、否政治全ての局面で全ての関係者がこの世論という化け物(それは一切実体がないし、誰もその信憑性からその本質的正しさ、見解の意味の精度、世論の傾向自体の本質的一致があるのか、ということを確認も証明もし得ない)に右往左往し、まさに翻弄されている、と言っても過言ではない。
それは国会答弁にも反映されている。APECでの総理の中国主席との対談での紙きれのメモを見て話していたことへの批判、ヨンピョン島での北朝鮮軍からの砲撃時での政府の対応に対する決然としなさ(北に対する非難を明確化していなかったなどの)、又小沢元幹事長への党内対応に対する批判(山本一太、世耕 弘成による参議院予算委員会内での質疑から)となって立ち現れている。まさにそれらは一切人の悪口を言ってはいけないという不文律だけを踏襲する為に人が誰とも本音を言い合わない状況を示唆さえする、国会内で見られる政治家による国民へのパフォーマンスだけなのだ。まさにそれを国会中継を視聴している国民が「そういう見栄を与党に対し野党は切ることを期待している」ということを前提とした「やらせ」、言ってみれば見え透いた猿芝居なのである。
それはニュース報道にも言える。まずトップニュース自体が国民が「そういうものに一番今関心があるだろう」という想定が前提されているし、司法も裁判員の心のケアの為に死刑判決の出た被告に上告を勧めるという事態にまで発展している。端的に司法はつい先日出た裁判員参加裁判による初の未成年への死刑判決によって今後幾多の類似案件が似た判決になっていく可能性、つまり世論自体に司法も逆らえないという社会での不文律(事実上三権分立も、司法のケース毎に独立した判断自体も全て建前であり、世の中全体の世論<の様な雰囲気としてそれに従わざるを得ないものとして裁定者に迫る実体の実はない>に従属していずには存在し得ない)に沿って履行されている。
つまり誰も社会自体の運営に、実はかなりのレヴェルで深くこの実体なき世論が強迫観念として全ての人達(マスコミ自身さえそうであるし、政治家、経営者、司法関係者等全て)に浸透している。そしてそれを問うことは一切しない。本当はまさにその実体なきものへの従属こそ問わねばならないと言える。劇映画の流行やゲームソフトの流行自体がその時代の世相を反映するのは、ある意味では世論迎合であり、ある意味では世論という実体なきものへの批判であり、その都度監督や製作者、クリエイター達の時代への読みと表現意図によって決定されているが、その決定が只商業資本として収益が回収され得るということだけが目的化してしまっている様な状態が社会全体に蔓延しているということだ。
この際私は世論調査とはもう少し緩やかに、せめて三ヶ月に一度くらいにしておくべきであると全てのアンケートその他の調査機関並びにマスコミ全各社に提案したい。そうしないと、次々と不測の事態へと直面する政府や行政全体へ、常に不確実な世論迎合的な与野党の政争だけの顕現を招聘し、一切の実りある国民全体への利益として還元され得る国会も、政治的決定(政府その他による)もなされ得ないと思う。
何故これだけ頻繁に世論調査をしなければいけないか?それは人の悪口を公的には確かにそうであるが、言ってはいけないことであるという不文律に余りにも心の奥底まで我々が強迫観念的に従属しきっているが故に、それを踏み外すことを恐怖して、その代理機能として世論自体が肥大化してしまっているからである。その肥大化した実体なき世論は一人歩きして、全ての権力者、権威執行者まで一切の悪口を言わない様に口を閉ざさせているのである。それは悪口を言う事を極度に忌避する雰囲気から作られ、それが陰湿な陰口へと変質し、次第にそれがスケープゴートを探し、その者が見つかると一斉に攻撃することに全ての外野席観客は右へ倣えするのだ(まさにその都度法相であったり、官房長官だったり、国土交通相だったり、文部科学大臣だったり、防衛大臣だったり、要するにその都度誰でもいいのだ、そういういじめ対象さえ見出せれば)。
私は何も本音を全て言え、と言っているわけではない。一定の本音を全ての人に言い合える様な雰囲気を政治家、マスコミ各社経営者は雰囲気として作る努力をせよ、と言っているのだ。
全くそつなく粗相をすることをしないだけの形式踏襲主義者だけが大手を振るえるが故に、言いたいことを噤むことが常習化していくのだ。例えば確かに前柳田法務大臣の地元広島でのスピーチでの内容の一部は不適切且つ思慮を欠いてはいた。しかしそれを必要以上に問責決議への持ち込む野党と、その野党の要請に容易につき従ってしまう与党内での予定調和的集団内見せしめ的態度の同調からは、実際形骸的秩序だけを維持していく姑息な政治家の保身本能だけが透けて見える。
今こそ人の悪口を所詮相互に言い合える仲間を求めて我々は集団内を彷徨い歩き、色々な場所へと移動し、社会行動という形で動いているのだ、という物事の本質に、社会全体も所詮抗い難いのだという真理を見据え、下手に体裁だけを取り繕うことを控え目にするという心がけを持っていくべきではないだろうか?そうすれば政権担当者も姑息に国民へ情報を隠蔽するという様な見え透いた策を弄することなく虚心坦懐に政権運営を図っていくことだろう。
下手な猿芝居にだけ執心しているが故に、子供達は一切大人を信頼も、尊敬もしなくなり、子供の社会の内部でじくじくと陰湿ないじめが進行していくのだとも言える。
次回はその子供のいじめに就いて考えてみたい。
Monday, November 15, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十三章 先行きの見えない気分転換
かつてジョン・ケネス・ガルブレイスによって「不確実性の時代」と呼ばれた頃我々は未だ何処かで未来に対して確固とした像をぼんやりとではあるが、思い描くことが可能なのではないかという期待と不安の入り混じった気持ちでいた。それはある程度経済的困窮が解決されれば、何とかなるのではないかという能天気な楽観主義が完全には棄て去られてはいなかったということを意味する。
しかし現実にはそういった楽観的憶測とは裏腹に我々の社会は益々先行きが不透明な時代へと突入したと言える。その典型的象徴的事件こそ大阪地検特捜部証拠隠滅事件であり、尖閣諸島中国漁船衝突事故映像流出事件だったと言える。
しかしそもそも先行きとは常に不安定であり、我々の心の奥底に不安を生じさせるものでしかあり得なかったのだ。しかし十数年前までなら我々は経済社会での、とりわけ商業資本主義と金融システムの良好な運営によって何とか少なくとこの先十年というスパンでの展望は立てられると思っていた。
しかしその能天気な予想は無残にも打ち砕かれる。それがリーマンショックでありサブプライムローン問題であったと言える。
それに加え現在では既に我々の社会を取り巻く環境に於いて極めて重要且つ必須のものであるところの情報に関する摂取の仕方と、情報流通の仕組みそのものが大幅に変わった。それは激変という形ではなく、寧ろ根本的情報の存在理由の変化である。
例えばかつて我々は人類には基本的に全ての階層や全ての職業、全ての年齢の人達によって共有され得る価値や理念があるのだ、ということを疑うことはなかった。寧ろ全ての専門分野がその前提の下に推進されてきたと言ってよい。
しかし今日それらの大前提自体が既にがたがたと音と立てて崩れ落ちようとしている。
このことは寧ろスタートする時点から全ての命題を考え直さなければいけないということを意味している。
情報は全ての人類にとって共有されるべきでもなく、そうなっていくことも寧ろ積極的に「不可能」であると言っていいほどの性質のもとなっている。つまり情報自体が最初から全ての個から見て異なった像であるしかないということを通し、自然科学などでは既にハイゼンベルグの不確定性原理などで物質の存在に対して突きつけられた命題を少し遅れて社会科学に於いてやっと到達した様な感がある。
尖閣諸島中国漁船衝突事故があった時既に世界各国の首脳はその情報を得ていただろう。従ってその後のロシア大統領メドベージェフによる国後島訪問は、その期に乗じた行為であったことは明白だ。
要するに鳩山前首相が普天間問題で困窮したが為に麻生元首相までの間に自民党との間で締結されていた案件が全て一旦棚上げにされたことによって、米政府との間に不必要な不協和音を奏でさせたことを各国の首脳は熟知していた。その流れで尖閣諸島の中国漁船衝突事故以降の全ての事件が起きるべくして起きたと言うべきである。
従ってこの期に乗じて韓国までが竹島問題に言及してこなかったこと(今のところそうであるが)に、日本は韓国経済がかなり上向きであることに感謝しなければいけない。それは韓国国民の心意気に対してではなく、あくまで国際経済社会的偶然に対してである。
しかし中国のバブルもいつかは(それがいつかは定かではないが、そんなに遠い話ではないと私は思う)必ず弾ける。その段階でインドか韓国かシンガポールかインドネシアかヴェトナムかが世界の経済動向のキー的存在になっていたとしても、その事実はそれらの国々もやがて昨今のアメリカや日本、そしてやがて中国すらも経験するであろう末路を辿るであろうという事実の前では極めて無力で非力な事実でしかない。
一番現代社会で問題化されざるを得ない事実とは、全ての情報が次第に中央統括システムによって管理したり操作したりすること自体が不可能となっているということである。この事実はある意味では世界中の全ての国家、政府の存在理由を根底から揺るがす。何故ならそもそも情報とは国家や政府といった存在が何処かでは統括し得るという前提で全ての国家共同体は運営されてきたからだ。
しかし恐らく今後あらゆる商取引に関するデータでも推測でも瞬時に世界を駆け巡る時代に於いて、そもそも商業行為上での秘密とか公平性というもの自体を死守する事自体が、インターネット、グーグル、YouTube、WikiLeaksなどが完全定着していなかった時代に於いてのみ成立し得る資本主義社会の規準であるとして全く無力且つ弊害とすらなってきている。
しかしかつての様に全ての情報を何らかの形で制御し、管理していく為には世界的規模で今迄に行き渡ったインターネットインフラ、ウェブサイト全てを破壊するしか既に手はない。
しかしそれは不可能である。何故ならそれは法的にも人類の自由への志向を侵害するし、商行為的にもそうである。つまり世界の隅々にまで浸透してしまっている毛細管現象的ネットワークは、その時点で世界のどの区域もどの機関も中央統括的立場に立つことは所詮不可能であるということを意味している。
それはアメリカ政府であれ国連であれ実際上只の一つの中継点でしかないという地位へと脱落させる。
かつて「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが反響を呼んだが、まさにパソコンを所有している各個人が全て世界の中心になり得るということを象徴していたタイトルだったとも言える。そしてその事実を今回の流出映像事件は物語っていた。
そうすると、今後世界は商取引レヴェルでも何らかの案件に対する処理でも、例えば商取引に関わる企業や法人、或いは案件に直接関わる当該者達自身のその時々での利害という安易な発想では一切それらを推進することが不可能となっていく。何故ならそれらの行為の末にAであれBであれ想定され得る結果次第で世界はどうなっていくかということを瞬時に世界市民全体が予想し得るからである。
従ってこれからの全ての経営者、政治家達はかなり慎重でかなり情報的戦略を駆使した決断をその都度出していかなければならないという熾烈な課題を突きつけられたことを意味する。
ある意味では全ての秘密、全ての秘匿的行為を無効化させていくだけの力がネットインフラにはある。
そしてそれはかつての様な大企業や大財閥的な存在、或いは長期持続的政権運営や維持自体を不可能とする、つまり安定的な政治経済状況を決して許さない、常に不安定でどちらへと転ぶか不透明であるという事態だけが恒常的に持続していく、そういう時代、否既に時代ではくずっとそうである様な状態に我々人類がシフトしたということを意味する。
そういった状態へと完全以降してしまった人類の心には既にかなり大きな気分転換を余儀なくされているということが出来る。恐らく精神分析的に言えば、その気分転換はその先にその気分が打開されれば、あれこれこういうことが出来るとか、こういう気分になると予想することが不可能な、ある意味では常に気分転換を求めていくしかない、それでいてその気分転換は一切その先にどうなっていくという保証のないものとして我々人類が絶滅するまで持続していくのではないだろうか?
このこと自体は既に我々人類にとって否定的ニュアンスとして溜息をついている暇を我々に与えていない。寧ろこの不安定を人類自身が愉しんいくしかない。つまり先行き不透明なのにもかかわらず、常にその不安定から脱出することだけを志向し、それでいてその先にどうなるということを絶対に予想し得ない様な気分転換の恒常的状態をゲーム感覚で愉しんでいくしか手はないのである。
世の中には数多の文学賞や文藝賞が存在するが、毎年の様に多くの受賞者を輩出しているが、その中の何人が長期的に活躍する作家となっていくかは審査員となった作家も出版社も予想することは出来ない。それと同じ様に世界経済から一国の政治さえ、恐らく数年先までも見通すことなど出来はしない。
従って今回のAPECによって日本が現政権時代に北方領土問題を解決し得るなどと誰も期待していない様に、常に一つの政権がなし得ることはほんの一つだけ、それは経済社会に於いて金融問題から税金対策まで全てを一挙に解決することが不可能な様な意味で、或いは情報機器的メーカーの戦略が何もかも全ての分野でトップに立つことも、新奇商品戦略を打ち立てることも不可能である様な意味で、極めて常に限定的で短期的目標しか立てられないということを意味する。
つまり永遠に我々の社会も国家も政府も、理想的経済良好状態も到来することはないし、全てが解決し安定化することがないという不安定状態だけが恒常的に持続するということを意味する。
しかしそれは実は人類が誕生した瞬間から決定されていたことなのだ。しかし戦争により、とりわけ人類発の核兵器使用というおぞましい出来事を経験した世界市民が第二次世界大戦終結時に、その安定を希求したのだった。しかしそれが一時の苛烈な戦争から解放された時代の人々によって思い描かれる幻想であったということだけが自明化していった数十年だった気さえする。
そういう意味ではまさに東浩紀の言った様に「大きな物語の崩壊と小さな物語の林立」という「動物化するポストモダン」的状態こそが平素であるこの時代で我々はよくかつて言われた集団生活とか社会生活への同化、協調を促進する為の人生論が全く効力を失い、寧ろ各自に備わったパーソナリティ障害的要素、かつて恥部とされた部分こそ着目して、昨今もあった小学生自殺事件に見られる様ないじめに対する抵抗力を備えさせていく必要がある。
それは強ければいいということではない。大半のいじめや嫌がらせに慣れていく必要があるということである。渡辺淳一や小泉純一郎の言った様な鈍感力の価値の再考をすべきだということだ。
従ってこれからはかつて理想とされた孔子等による老境的理想を絶対に許さない、癌患者でさえ死ぬその日までは社会から疎外されたり同化出来ずにいる事自体への対処に追われたりして、絶対に老化や安寧を許さない厳しい時代に突入したと言える。と言うことは「そういうことは若い奴に任せておけ」、或いは「そういうことは上の者に任せておけ」という様な言説を一切許さない、あらゆる前例や社会通念踏襲的安定を許さない、まさに各自世界市民が個で自己防衛し、自己主張し、自己管理することだけがあらゆる個を救うという時代に突入したことを意味する。
実質的に世界は無政府状態こそが普通であるという時代へと今後益々突入していく。そういった中で我々一個の個は、まさにそうであるが故に中央統括的権力や決定的指導力や唯一価値を信仰し得ぬからこそ青年世代に哲学や精神分析が大きな啓示を与えている様に、既にカストロとゲバラによる革命的行為も、長期安定的政治家による政権も、バブルも、恐らく二大政党制も一切実現し得ぬままに今世紀を過ごしていくことだろう。
それはまさに先行きの見えない気分転換を常に四苦八苦している様な恒常的落ち着きのなさを体験していく(それはまさに常に性行為の相手がいないことにもどかしさを味わっているか、まさに常に性的絶頂だけを長期持続していくことに慣れるかしかないということに近い)ことである。そういう時代に生きていく為には自己内のパーソナリティ障害的要素を価値的に見直し、自己内の今迄短所であると理解していたあらゆるネガティヴ要因を、逆に肯定的に活かしていく回路を探っていく必要がある。
この問いは極めて重要なので、再び取り上げることとしたい。
しかし現実にはそういった楽観的憶測とは裏腹に我々の社会は益々先行きが不透明な時代へと突入したと言える。その典型的象徴的事件こそ大阪地検特捜部証拠隠滅事件であり、尖閣諸島中国漁船衝突事故映像流出事件だったと言える。
しかしそもそも先行きとは常に不安定であり、我々の心の奥底に不安を生じさせるものでしかあり得なかったのだ。しかし十数年前までなら我々は経済社会での、とりわけ商業資本主義と金融システムの良好な運営によって何とか少なくとこの先十年というスパンでの展望は立てられると思っていた。
しかしその能天気な予想は無残にも打ち砕かれる。それがリーマンショックでありサブプライムローン問題であったと言える。
それに加え現在では既に我々の社会を取り巻く環境に於いて極めて重要且つ必須のものであるところの情報に関する摂取の仕方と、情報流通の仕組みそのものが大幅に変わった。それは激変という形ではなく、寧ろ根本的情報の存在理由の変化である。
例えばかつて我々は人類には基本的に全ての階層や全ての職業、全ての年齢の人達によって共有され得る価値や理念があるのだ、ということを疑うことはなかった。寧ろ全ての専門分野がその前提の下に推進されてきたと言ってよい。
しかし今日それらの大前提自体が既にがたがたと音と立てて崩れ落ちようとしている。
このことは寧ろスタートする時点から全ての命題を考え直さなければいけないということを意味している。
情報は全ての人類にとって共有されるべきでもなく、そうなっていくことも寧ろ積極的に「不可能」であると言っていいほどの性質のもとなっている。つまり情報自体が最初から全ての個から見て異なった像であるしかないということを通し、自然科学などでは既にハイゼンベルグの不確定性原理などで物質の存在に対して突きつけられた命題を少し遅れて社会科学に於いてやっと到達した様な感がある。
尖閣諸島中国漁船衝突事故があった時既に世界各国の首脳はその情報を得ていただろう。従ってその後のロシア大統領メドベージェフによる国後島訪問は、その期に乗じた行為であったことは明白だ。
要するに鳩山前首相が普天間問題で困窮したが為に麻生元首相までの間に自民党との間で締結されていた案件が全て一旦棚上げにされたことによって、米政府との間に不必要な不協和音を奏でさせたことを各国の首脳は熟知していた。その流れで尖閣諸島の中国漁船衝突事故以降の全ての事件が起きるべくして起きたと言うべきである。
従ってこの期に乗じて韓国までが竹島問題に言及してこなかったこと(今のところそうであるが)に、日本は韓国経済がかなり上向きであることに感謝しなければいけない。それは韓国国民の心意気に対してではなく、あくまで国際経済社会的偶然に対してである。
しかし中国のバブルもいつかは(それがいつかは定かではないが、そんなに遠い話ではないと私は思う)必ず弾ける。その段階でインドか韓国かシンガポールかインドネシアかヴェトナムかが世界の経済動向のキー的存在になっていたとしても、その事実はそれらの国々もやがて昨今のアメリカや日本、そしてやがて中国すらも経験するであろう末路を辿るであろうという事実の前では極めて無力で非力な事実でしかない。
一番現代社会で問題化されざるを得ない事実とは、全ての情報が次第に中央統括システムによって管理したり操作したりすること自体が不可能となっているということである。この事実はある意味では世界中の全ての国家、政府の存在理由を根底から揺るがす。何故ならそもそも情報とは国家や政府といった存在が何処かでは統括し得るという前提で全ての国家共同体は運営されてきたからだ。
しかし恐らく今後あらゆる商取引に関するデータでも推測でも瞬時に世界を駆け巡る時代に於いて、そもそも商業行為上での秘密とか公平性というもの自体を死守する事自体が、インターネット、グーグル、YouTube、WikiLeaksなどが完全定着していなかった時代に於いてのみ成立し得る資本主義社会の規準であるとして全く無力且つ弊害とすらなってきている。
しかしかつての様に全ての情報を何らかの形で制御し、管理していく為には世界的規模で今迄に行き渡ったインターネットインフラ、ウェブサイト全てを破壊するしか既に手はない。
しかしそれは不可能である。何故ならそれは法的にも人類の自由への志向を侵害するし、商行為的にもそうである。つまり世界の隅々にまで浸透してしまっている毛細管現象的ネットワークは、その時点で世界のどの区域もどの機関も中央統括的立場に立つことは所詮不可能であるということを意味している。
それはアメリカ政府であれ国連であれ実際上只の一つの中継点でしかないという地位へと脱落させる。
かつて「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが反響を呼んだが、まさにパソコンを所有している各個人が全て世界の中心になり得るということを象徴していたタイトルだったとも言える。そしてその事実を今回の流出映像事件は物語っていた。
そうすると、今後世界は商取引レヴェルでも何らかの案件に対する処理でも、例えば商取引に関わる企業や法人、或いは案件に直接関わる当該者達自身のその時々での利害という安易な発想では一切それらを推進することが不可能となっていく。何故ならそれらの行為の末にAであれBであれ想定され得る結果次第で世界はどうなっていくかということを瞬時に世界市民全体が予想し得るからである。
従ってこれからの全ての経営者、政治家達はかなり慎重でかなり情報的戦略を駆使した決断をその都度出していかなければならないという熾烈な課題を突きつけられたことを意味する。
ある意味では全ての秘密、全ての秘匿的行為を無効化させていくだけの力がネットインフラにはある。
そしてそれはかつての様な大企業や大財閥的な存在、或いは長期持続的政権運営や維持自体を不可能とする、つまり安定的な政治経済状況を決して許さない、常に不安定でどちらへと転ぶか不透明であるという事態だけが恒常的に持続していく、そういう時代、否既に時代ではくずっとそうである様な状態に我々人類がシフトしたということを意味する。
そういった状態へと完全以降してしまった人類の心には既にかなり大きな気分転換を余儀なくされているということが出来る。恐らく精神分析的に言えば、その気分転換はその先にその気分が打開されれば、あれこれこういうことが出来るとか、こういう気分になると予想することが不可能な、ある意味では常に気分転換を求めていくしかない、それでいてその気分転換は一切その先にどうなっていくという保証のないものとして我々人類が絶滅するまで持続していくのではないだろうか?
このこと自体は既に我々人類にとって否定的ニュアンスとして溜息をついている暇を我々に与えていない。寧ろこの不安定を人類自身が愉しんいくしかない。つまり先行き不透明なのにもかかわらず、常にその不安定から脱出することだけを志向し、それでいてその先にどうなるということを絶対に予想し得ない様な気分転換の恒常的状態をゲーム感覚で愉しんでいくしか手はないのである。
世の中には数多の文学賞や文藝賞が存在するが、毎年の様に多くの受賞者を輩出しているが、その中の何人が長期的に活躍する作家となっていくかは審査員となった作家も出版社も予想することは出来ない。それと同じ様に世界経済から一国の政治さえ、恐らく数年先までも見通すことなど出来はしない。
従って今回のAPECによって日本が現政権時代に北方領土問題を解決し得るなどと誰も期待していない様に、常に一つの政権がなし得ることはほんの一つだけ、それは経済社会に於いて金融問題から税金対策まで全てを一挙に解決することが不可能な様な意味で、或いは情報機器的メーカーの戦略が何もかも全ての分野でトップに立つことも、新奇商品戦略を打ち立てることも不可能である様な意味で、極めて常に限定的で短期的目標しか立てられないということを意味する。
つまり永遠に我々の社会も国家も政府も、理想的経済良好状態も到来することはないし、全てが解決し安定化することがないという不安定状態だけが恒常的に持続するということを意味する。
しかしそれは実は人類が誕生した瞬間から決定されていたことなのだ。しかし戦争により、とりわけ人類発の核兵器使用というおぞましい出来事を経験した世界市民が第二次世界大戦終結時に、その安定を希求したのだった。しかしそれが一時の苛烈な戦争から解放された時代の人々によって思い描かれる幻想であったということだけが自明化していった数十年だった気さえする。
そういう意味ではまさに東浩紀の言った様に「大きな物語の崩壊と小さな物語の林立」という「動物化するポストモダン」的状態こそが平素であるこの時代で我々はよくかつて言われた集団生活とか社会生活への同化、協調を促進する為の人生論が全く効力を失い、寧ろ各自に備わったパーソナリティ障害的要素、かつて恥部とされた部分こそ着目して、昨今もあった小学生自殺事件に見られる様ないじめに対する抵抗力を備えさせていく必要がある。
それは強ければいいということではない。大半のいじめや嫌がらせに慣れていく必要があるということである。渡辺淳一や小泉純一郎の言った様な鈍感力の価値の再考をすべきだということだ。
従ってこれからはかつて理想とされた孔子等による老境的理想を絶対に許さない、癌患者でさえ死ぬその日までは社会から疎外されたり同化出来ずにいる事自体への対処に追われたりして、絶対に老化や安寧を許さない厳しい時代に突入したと言える。と言うことは「そういうことは若い奴に任せておけ」、或いは「そういうことは上の者に任せておけ」という様な言説を一切許さない、あらゆる前例や社会通念踏襲的安定を許さない、まさに各自世界市民が個で自己防衛し、自己主張し、自己管理することだけがあらゆる個を救うという時代に突入したことを意味する。
実質的に世界は無政府状態こそが普通であるという時代へと今後益々突入していく。そういった中で我々一個の個は、まさにそうであるが故に中央統括的権力や決定的指導力や唯一価値を信仰し得ぬからこそ青年世代に哲学や精神分析が大きな啓示を与えている様に、既にカストロとゲバラによる革命的行為も、長期安定的政治家による政権も、バブルも、恐らく二大政党制も一切実現し得ぬままに今世紀を過ごしていくことだろう。
それはまさに先行きの見えない気分転換を常に四苦八苦している様な恒常的落ち着きのなさを体験していく(それはまさに常に性行為の相手がいないことにもどかしさを味わっているか、まさに常に性的絶頂だけを長期持続していくことに慣れるかしかないということに近い)ことである。そういう時代に生きていく為には自己内のパーソナリティ障害的要素を価値的に見直し、自己内の今迄短所であると理解していたあらゆるネガティヴ要因を、逆に肯定的に活かしていく回路を探っていく必要がある。
この問いは極めて重要なので、再び取り上げることとしたい。
Tuesday, November 9, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十二章 尖閣列島中国漁船衝突事故映像流出を巡る情報の在り方に就いて
今日神戸のインターネットカフェで例の映像が投稿されたことが発覚した。ニュースではそれ以上の情報を開示していなかったが、実際には警察はもっと先まで突き止めているのかも知れない。
重要なことは常に我々に到達する情報は、それより前に幾多のプロセスを通して検閲されて伝えられているということだ。その点では中国漁船映像は極めて時節を得て公開された感があった。尤もそれは不法投稿によるものだったのだが。
と言うことは菅政権が菅総理の衆議院予算委員会による発言の様に「もっと後の時代になったら適切な判断だったとされるだろう」という思惑が示す様に、要するに情報統制を政府がしようとしていた(それは千石官房長官による「犯罪者を英雄視することを私は承服しない」発言にも現れていた)ことを意味する。
流出映像で示された一部始終を政府は一般公開することは憚られると判断したことだけは間違いない。ではそれ程まで一般公開すべきではない性質のものだったのだろうか?
もし仮に「これくらいだったら、もっと早く一般公開していたってよかったのではないか」という意見が出されたなら、「にも関わらず隠そうとした」という考えが出されるし、逆に「やはりこれほどのことなら隠そうとしたって仕方なかったんじゃないか」という意見が出されたなら、一体誰が最初にこの映像をリークしたのかという、恐らく内部関係者に政府見解に対する謀反人がいたことになり、その意味では完全に政府統制が内部に於いて不徹底であるという批判も出されるが故に、二重の意味で菅政権は苦境に立たされることは必至である。
又もし神戸の投稿者がそれ以前に誰かから映像の元となるものを渡されて、その最初に内部で裏切った者がもし突き止められれば、その者が英雄視される可能性は高い。世論とはそういうものである。つまり菅政権はこの様な展開になっていった段で実は既に敗北していたのだ。
菅総理の言った様に、確かにあの時期に実際に一般公開していたのなら、日本国民の騒ぎは今この流出映像を見た時以上の騒ぎようだった可能性はある。しかしそれでもやはり実際に海上で何があったのかを一般国民に知らせるべきだったのではないだろうか?
つまり重要なこととは、隠すということを決意したのなら、どんなことがあっても最後までそれを貫き通せなければいけないということなのである。結果的にはそれは出来なかった。つまり誰かが裏切ったからである。つまり誰か内部で裏切る者が出るという予想を政府が立てられなかったという事実一つでも一般国民へ情報を隠蔽しようとした思惑自体が既に誤りであったことが分かる。つまりこうなっていく事態を想定して、国民の恐らく一部であろうが、デモなどをして騒ぐことを承知で敢えて一般公開に踏み切っておれば、恐らく今の様な野党からの攻撃を得ることもなかっただろうし、機転の利いた判断であったと菅総理は流石と言われていたかも知れない。
私自身は既に現代社会では政府ごときがどんなに画策しても尚この種の情報は必ず遠からずリークされていく運命にある、と考えている。文章などによる記録ではなく映像による記録であるなら尚更である。千石長官も言っていたが、文章では公式のものは丸秘ファイル化することは可能だが、この種の映像は撮影者から送られてきた原映像を編集する段で既に相当の数の人員が関わっていたということからも容易に外部に流出され得ることは予想された筈である。
つまりリークされてはならない映像という発想を抱いたこと自体で既に菅総理は判断に誤りがあったと言うべきだろう。その判断を政府が通達した段階で既に反意を抱いた者は相当多数だったと想像される。「どうして?」という思いを抱いたのは千石長官クラスのトップにもいたのではないか?
つまりその種の政府関係者筋内での不協和音の介在自体が既に多くの国民の間で政府に対する信頼を損ねている。これは一重に総理大臣の度量の問題ではなかっただろうか?
歴史はある程度時間が経ってみなければ、一つの決断も正しかったのか否かを判断することは出来ない。そういう意味では今回の一件にしても、もう少し時間が経った後には「やはり菅総理があの時即座に一般公開しなかったことは正しかった」と判断される時期も来るかも知れない。
しかしその時には必ず「しかしあの時政府見解に対して謀反を起こした者がいたればこそ、そう言えるのだ」と付け加わる可能性は高い。何故ならあの映像がずっと今もって封印され続けていたのなら、恐らく今後の中国との日本による外交の展開次第では、より深刻な政府筋の責任問題へと発展していった可能性も否定出来ないからである。
要するに政府筋のトップに現代情報化社会に於ける基本的なインフラ、ツール、メディア全体への理解に乏しい者しか配備されていないという事実に方により重大な国民の側からの不安がある。尤もこれから情報管理的ノウハウを徹底的に踏襲した要員を政府が囲うことになったとしたなら、今よりももっと政府に対する疑心暗鬼が国民の間に蔓延していく(まさにソ連のKGBの様に)可能性もある。ある意味では政府情報統制とは緩やかなものであって丁度いいという国民の間での暗黙の合意が成立し得る可能性は皆の中にあるのではないか?
例えばグーグル、ヤフークラスの情報ツールのプロが政府要因に参画していき、世界中の情報を一手に統制し、管理していく様な事態を想像してみよう。それこそ恐怖政府と言えないだろうか?そうなる一歩手前で今回の様な事態で踏みとどまっていたことを思えば、もし仮に最初にリークした犯人が発覚したとしても、政府な尚慎重に刑罰その他を考えないと、その時にはかなり現政権は危機的状況に陥る可能性は高い、とだけは今言える気がするのである。
付記 今しがた(12:05現在)ニュースで海上保安庁職員が上司に自分が映像を流出させたと告白した旨が伝えられた。やはり内部の謀反者による犯行だった。今後の成り行きに眼は離せない。<国会の中継から、部下が上司に既に午前九時の段階で海上(巡視艇)で告白していたらしい。(14:40現在)四十三歳の神戸海上保安部保安官が名乗りを挙げ、自分自身でインターネットカフェで投稿したと言う。同僚達は戸惑いを隠せないと言う。制服組の連帯感も仄見えた。(17:04現在)>(Michael Kawaguchi)
重要なことは常に我々に到達する情報は、それより前に幾多のプロセスを通して検閲されて伝えられているということだ。その点では中国漁船映像は極めて時節を得て公開された感があった。尤もそれは不法投稿によるものだったのだが。
と言うことは菅政権が菅総理の衆議院予算委員会による発言の様に「もっと後の時代になったら適切な判断だったとされるだろう」という思惑が示す様に、要するに情報統制を政府がしようとしていた(それは千石官房長官による「犯罪者を英雄視することを私は承服しない」発言にも現れていた)ことを意味する。
流出映像で示された一部始終を政府は一般公開することは憚られると判断したことだけは間違いない。ではそれ程まで一般公開すべきではない性質のものだったのだろうか?
もし仮に「これくらいだったら、もっと早く一般公開していたってよかったのではないか」という意見が出されたなら、「にも関わらず隠そうとした」という考えが出されるし、逆に「やはりこれほどのことなら隠そうとしたって仕方なかったんじゃないか」という意見が出されたなら、一体誰が最初にこの映像をリークしたのかという、恐らく内部関係者に政府見解に対する謀反人がいたことになり、その意味では完全に政府統制が内部に於いて不徹底であるという批判も出されるが故に、二重の意味で菅政権は苦境に立たされることは必至である。
又もし神戸の投稿者がそれ以前に誰かから映像の元となるものを渡されて、その最初に内部で裏切った者がもし突き止められれば、その者が英雄視される可能性は高い。世論とはそういうものである。つまり菅政権はこの様な展開になっていった段で実は既に敗北していたのだ。
菅総理の言った様に、確かにあの時期に実際に一般公開していたのなら、日本国民の騒ぎは今この流出映像を見た時以上の騒ぎようだった可能性はある。しかしそれでもやはり実際に海上で何があったのかを一般国民に知らせるべきだったのではないだろうか?
つまり重要なこととは、隠すということを決意したのなら、どんなことがあっても最後までそれを貫き通せなければいけないということなのである。結果的にはそれは出来なかった。つまり誰かが裏切ったからである。つまり誰か内部で裏切る者が出るという予想を政府が立てられなかったという事実一つでも一般国民へ情報を隠蔽しようとした思惑自体が既に誤りであったことが分かる。つまりこうなっていく事態を想定して、国民の恐らく一部であろうが、デモなどをして騒ぐことを承知で敢えて一般公開に踏み切っておれば、恐らく今の様な野党からの攻撃を得ることもなかっただろうし、機転の利いた判断であったと菅総理は流石と言われていたかも知れない。
私自身は既に現代社会では政府ごときがどんなに画策しても尚この種の情報は必ず遠からずリークされていく運命にある、と考えている。文章などによる記録ではなく映像による記録であるなら尚更である。千石長官も言っていたが、文章では公式のものは丸秘ファイル化することは可能だが、この種の映像は撮影者から送られてきた原映像を編集する段で既に相当の数の人員が関わっていたということからも容易に外部に流出され得ることは予想された筈である。
つまりリークされてはならない映像という発想を抱いたこと自体で既に菅総理は判断に誤りがあったと言うべきだろう。その判断を政府が通達した段階で既に反意を抱いた者は相当多数だったと想像される。「どうして?」という思いを抱いたのは千石長官クラスのトップにもいたのではないか?
つまりその種の政府関係者筋内での不協和音の介在自体が既に多くの国民の間で政府に対する信頼を損ねている。これは一重に総理大臣の度量の問題ではなかっただろうか?
歴史はある程度時間が経ってみなければ、一つの決断も正しかったのか否かを判断することは出来ない。そういう意味では今回の一件にしても、もう少し時間が経った後には「やはり菅総理があの時即座に一般公開しなかったことは正しかった」と判断される時期も来るかも知れない。
しかしその時には必ず「しかしあの時政府見解に対して謀反を起こした者がいたればこそ、そう言えるのだ」と付け加わる可能性は高い。何故ならあの映像がずっと今もって封印され続けていたのなら、恐らく今後の中国との日本による外交の展開次第では、より深刻な政府筋の責任問題へと発展していった可能性も否定出来ないからである。
要するに政府筋のトップに現代情報化社会に於ける基本的なインフラ、ツール、メディア全体への理解に乏しい者しか配備されていないという事実に方により重大な国民の側からの不安がある。尤もこれから情報管理的ノウハウを徹底的に踏襲した要員を政府が囲うことになったとしたなら、今よりももっと政府に対する疑心暗鬼が国民の間に蔓延していく(まさにソ連のKGBの様に)可能性もある。ある意味では政府情報統制とは緩やかなものであって丁度いいという国民の間での暗黙の合意が成立し得る可能性は皆の中にあるのではないか?
例えばグーグル、ヤフークラスの情報ツールのプロが政府要因に参画していき、世界中の情報を一手に統制し、管理していく様な事態を想像してみよう。それこそ恐怖政府と言えないだろうか?そうなる一歩手前で今回の様な事態で踏みとどまっていたことを思えば、もし仮に最初にリークした犯人が発覚したとしても、政府な尚慎重に刑罰その他を考えないと、その時にはかなり現政権は危機的状況に陥る可能性は高い、とだけは今言える気がするのである。
付記 今しがた(12:05現在)ニュースで海上保安庁職員が上司に自分が映像を流出させたと告白した旨が伝えられた。やはり内部の謀反者による犯行だった。今後の成り行きに眼は離せない。<国会の中継から、部下が上司に既に午前九時の段階で海上(巡視艇)で告白していたらしい。(14:40現在)四十三歳の神戸海上保安部保安官が名乗りを挙げ、自分自身でインターネットカフェで投稿したと言う。同僚達は戸惑いを隠せないと言う。制服組の連帯感も仄見えた。(17:04現在)>(Michael Kawaguchi)
Saturday, October 2, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕第三十二章 ツイッター上で飛び交う非難ツイートに見られる人間性
人間性とはある部分では自己の感情的気分の調整と、未来へと向けられたヴィジョンの持ち方にあるとすれば、それはかなりの部分発話や記述に於ける意味志向的な、固有の言葉を持つモティヴェーションにあると考えてもいいだろう。
今回の尖閣問題では極めて隣国中国の日本への態度の取り方には国際政治上での傲慢を曝け出したが、昨日大きなデモが日本でもあったらしい(ニュースでは報道されなかった)が、それらも含めて、ツイッター上で様々な尖閣問題を取り巻く国際情勢や政府筋に対する詮索的ツイートが目立った。その多くは訳知り顔の物言いと内容であり、自分だけが一番よく世界を熟知しているかの如く様相であった。それは民主代表選に関しても全く同じことが言えた。
しかし最もそれらのツイートの持つ様相で気になる要素とは、端的に常に脳裏に他人のこと、他者一般にしか念頭にないという振る舞いを平素からしているとしか思えない様な想像をさせるということであった。つまり端的にそれらのツイートの多くは常に他人の行動、動きに対して関心を注ぎ、興味を抱くことからだけ全ての行動を決定させている様な人間の像が浮かび上がっていたのだ。
人間はかなり多くの部分を現代社会ではとりわけそうであるが、外部的な情報によって左右されていってしまうというのはある程度は仕方ないことである。しかしその情報に右往左往することそれ自体の問題点を熟知していたが故にブログとかツイッターをし始めたのではなかっただろうか?
せめて自分で書くブログとか自分の呟きを示すツイッター上ではその様な外部情報に端を発する言説を一時的にだけでもやめる様にすればいいのに、そもそもツイッターが他者に読まれる可能性を最初から考慮に入れた呟きであるが故に煽動的内容の外部情報に振り回されている言説も自然多くなっていってしまうのだ。
しかしやはりそれは本末転倒である。この様な只情報摂取に対する裏情報的内容のツイートの持つ大半がこれ見よがしに目立とう根性である受け狙い性は人間性という語句を柄にもなく持ち出さざるを得なくなってしまうのだ。政治は確かに大事である。しかし政治をあれこれうだうだと討議してみても、少なくも自分で投票したりすることが出来る選挙以外ではどれほどの社会全般への影響力があるのだろう。否だからこそある種の叫びとしてそれらのツイートも作用するのだ、という見解に対して私は「それは余りにもお粗末ではないか」と言いたくなる。
政治に関する本当の意味での情報とは余程内部事情に精通している者でない者によるものは大半がガセネタである。昨今マスコミ全体の論調さえそういう趣が支配的であることを鑑みると、大半のツイートは確固たる立証性のないその場限りの受け狙いであることが分かる。
勿論我々は政治を片時も変な方向に行かぬように監視していくべきではある。しかしそのことと別箇にこの様な政治的緊急時にツイッター上で流言飛語的に同じマターに関して言及するということにどれ程の社会的効用があるのだろう?殆ど何の意味もなく、社会全体の何をも変えぬであろう。
そもそもツイッターは社会を変革する為に存在し始めたものであるのではなく、自己内部での精神衛生的処理の為に始めたことであった筈だ。
勿論政治の動きを只静観していたのでは遅いとは言える。しかしならばいよいよツイッター等で言葉を遣り取りすることくらい現実を何も変えないものはない。言葉をネットインフラ上で発信することの変革効果とは端的に自己内の精神的安定を獲得することと、感情調整、脳内衛生的な処理の問題なのである。勿論そこには相互に言葉を眼にし、受信する側にも得るものはある。しかしそれら全ては現実の行動や社会的投企(企投)とは全く違った次元であるが故に意味があるのである。従ってあたかもツイッター上で固有の言説を発信し続けること自体で何らかの行動へと直結すると信じて確たる証拠もなしに、裏情報的内容のツイートをすることにどれほどの意味があるだろうか?否無意味であるばかりでなく眼でそれらの情報を追ってしまう自分を発見するだけでも害悪である(従って私はそういったツイートを発見する度にそれらのツイーターをブロックし続けている)。
情報の信憑性とは発信者の社会的地位や平素の言動全体への社会的信用度に比例する。当然のことながらマスコミやマスメディアによって示されている態度全般に不審を抱かざるを得ないのと同じ様なタイプの著名人の言説を信用することは出来ないし、そこら辺の判断自体は全て個人に委ねられているし、それこそその選択は個人の責任である。
マスコミやマスメディアは何らかの情報を発信する段階で既に恣意的な思惑が絡む。つまりある時節に於いてある固有の情報内容を発信するという段で既に、その情報を発信することによって、その情報を摂取した我々がどういう反応をするかということをも見越したある種の情報戦略が介在していることを忘れて只闇雲にそれらの情報を受け取ってはいけない。もっと斜交いにものを見る癖をつけるべきである。
しかしツイッター上での多くの裏情報的内容のツイートにはそれがない。つまり人格的陶冶という観点から言えば、社会批判性の皆無な批判に終始している、というのが私の感想である。
要するにことの成り行きを静観して、次に自己が取るべき態度をじっくりと考える余裕を持ち、妄りに十分な思索を通さないままでの発信を控える様にすべきだ、ということだ。
もし何らかのイヴェントがあって即座に何か発信するにしても、外部情報全体への懐疑的精神を失わない限りでの理性が要求される、と言ってよい。闇雲に全てを即断し未来の展開を断定する様なツイートなど言語道断である。疑問や懐疑的見解ならいいと思う。私が最も嫌うツイートとは端的にガセネタ的な内容の裏情報的ツイートを平気でしておきながら、それが誤りであった時にも一切責任を取らないままツイートし続ける態度の者にまさにマスコミ全体へ憂えるべき我々の批判自体差し向けられていくべきであるのに、一切発信者は罪にも問われないという無責任性にある。
人間性とは根幹では平素の些細な行動選択、行為選択に見られるマナーの問題へと常に帰着する、と私は考える。全てを理解し尽した様な言辞でのツイートを多く見るにつけ、私は本質的責任を問えない多くの市民がいる、ということを残念に思う。そんなツイートをしている暇があるのなら、他に自分自身の為にすることは山ほどある、と私は言いたい。
今回の尖閣問題では極めて隣国中国の日本への態度の取り方には国際政治上での傲慢を曝け出したが、昨日大きなデモが日本でもあったらしい(ニュースでは報道されなかった)が、それらも含めて、ツイッター上で様々な尖閣問題を取り巻く国際情勢や政府筋に対する詮索的ツイートが目立った。その多くは訳知り顔の物言いと内容であり、自分だけが一番よく世界を熟知しているかの如く様相であった。それは民主代表選に関しても全く同じことが言えた。
しかし最もそれらのツイートの持つ様相で気になる要素とは、端的に常に脳裏に他人のこと、他者一般にしか念頭にないという振る舞いを平素からしているとしか思えない様な想像をさせるということであった。つまり端的にそれらのツイートの多くは常に他人の行動、動きに対して関心を注ぎ、興味を抱くことからだけ全ての行動を決定させている様な人間の像が浮かび上がっていたのだ。
人間はかなり多くの部分を現代社会ではとりわけそうであるが、外部的な情報によって左右されていってしまうというのはある程度は仕方ないことである。しかしその情報に右往左往することそれ自体の問題点を熟知していたが故にブログとかツイッターをし始めたのではなかっただろうか?
せめて自分で書くブログとか自分の呟きを示すツイッター上ではその様な外部情報に端を発する言説を一時的にだけでもやめる様にすればいいのに、そもそもツイッターが他者に読まれる可能性を最初から考慮に入れた呟きであるが故に煽動的内容の外部情報に振り回されている言説も自然多くなっていってしまうのだ。
しかしやはりそれは本末転倒である。この様な只情報摂取に対する裏情報的内容のツイートの持つ大半がこれ見よがしに目立とう根性である受け狙い性は人間性という語句を柄にもなく持ち出さざるを得なくなってしまうのだ。政治は確かに大事である。しかし政治をあれこれうだうだと討議してみても、少なくも自分で投票したりすることが出来る選挙以外ではどれほどの社会全般への影響力があるのだろう。否だからこそある種の叫びとしてそれらのツイートも作用するのだ、という見解に対して私は「それは余りにもお粗末ではないか」と言いたくなる。
政治に関する本当の意味での情報とは余程内部事情に精通している者でない者によるものは大半がガセネタである。昨今マスコミ全体の論調さえそういう趣が支配的であることを鑑みると、大半のツイートは確固たる立証性のないその場限りの受け狙いであることが分かる。
勿論我々は政治を片時も変な方向に行かぬように監視していくべきではある。しかしそのことと別箇にこの様な政治的緊急時にツイッター上で流言飛語的に同じマターに関して言及するということにどれ程の社会的効用があるのだろう?殆ど何の意味もなく、社会全体の何をも変えぬであろう。
そもそもツイッターは社会を変革する為に存在し始めたものであるのではなく、自己内部での精神衛生的処理の為に始めたことであった筈だ。
勿論政治の動きを只静観していたのでは遅いとは言える。しかしならばいよいよツイッター等で言葉を遣り取りすることくらい現実を何も変えないものはない。言葉をネットインフラ上で発信することの変革効果とは端的に自己内の精神的安定を獲得することと、感情調整、脳内衛生的な処理の問題なのである。勿論そこには相互に言葉を眼にし、受信する側にも得るものはある。しかしそれら全ては現実の行動や社会的投企(企投)とは全く違った次元であるが故に意味があるのである。従ってあたかもツイッター上で固有の言説を発信し続けること自体で何らかの行動へと直結すると信じて確たる証拠もなしに、裏情報的内容のツイートをすることにどれほどの意味があるだろうか?否無意味であるばかりでなく眼でそれらの情報を追ってしまう自分を発見するだけでも害悪である(従って私はそういったツイートを発見する度にそれらのツイーターをブロックし続けている)。
情報の信憑性とは発信者の社会的地位や平素の言動全体への社会的信用度に比例する。当然のことながらマスコミやマスメディアによって示されている態度全般に不審を抱かざるを得ないのと同じ様なタイプの著名人の言説を信用することは出来ないし、そこら辺の判断自体は全て個人に委ねられているし、それこそその選択は個人の責任である。
マスコミやマスメディアは何らかの情報を発信する段階で既に恣意的な思惑が絡む。つまりある時節に於いてある固有の情報内容を発信するという段で既に、その情報を発信することによって、その情報を摂取した我々がどういう反応をするかということをも見越したある種の情報戦略が介在していることを忘れて只闇雲にそれらの情報を受け取ってはいけない。もっと斜交いにものを見る癖をつけるべきである。
しかしツイッター上での多くの裏情報的内容のツイートにはそれがない。つまり人格的陶冶という観点から言えば、社会批判性の皆無な批判に終始している、というのが私の感想である。
要するにことの成り行きを静観して、次に自己が取るべき態度をじっくりと考える余裕を持ち、妄りに十分な思索を通さないままでの発信を控える様にすべきだ、ということだ。
もし何らかのイヴェントがあって即座に何か発信するにしても、外部情報全体への懐疑的精神を失わない限りでの理性が要求される、と言ってよい。闇雲に全てを即断し未来の展開を断定する様なツイートなど言語道断である。疑問や懐疑的見解ならいいと思う。私が最も嫌うツイートとは端的にガセネタ的な内容の裏情報的ツイートを平気でしておきながら、それが誤りであった時にも一切責任を取らないままツイートし続ける態度の者にまさにマスコミ全体へ憂えるべき我々の批判自体差し向けられていくべきであるのに、一切発信者は罪にも問われないという無責任性にある。
人間性とは根幹では平素の些細な行動選択、行為選択に見られるマナーの問題へと常に帰着する、と私は考える。全てを理解し尽した様な言辞でのツイートを多く見るにつけ、私は本質的責任を問えない多くの市民がいる、ということを残念に思う。そんなツイートをしている暇があるのなら、他に自分自身の為にすることは山ほどある、と私は言いたい。
Tuesday, September 7, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十一章 書かれたことに公共的意味が付与されるということ
古代ギリシャのプラトンやアリストテレスから、今日のリチャード・ローティやジョン・ロールズに至るまで全ての書かれたテクストは、その書いた人の内的なモティヴェーションとしての感情や、それが書かれる時代に於いて作用する意味などを今日的な意味で(その意味では現代の執筆者によるテクストは未だ後世にどういう意味を付与されるかは定かではない。しかし十年前のテクストには今日現在の意味を付与して我々は読む)読み換えられている。
それは書かれたことの意味が、書いた者にとっての意味より優先される、つまり書くという行為自体が既に書いたことによって書いた時にどういう意図を内的に示していたかという筆者の思惑を超える、ということを意味する。
又書くという行為を選んだ人達は、既にその時点で内的にどういうモティヴェーションで臨んだかということが然程書いた後では重大な意味を持たないということを予め了承する形で常に臨まない限り、その作業は持続され得ないということだけは知っている筈だ。
従って本章のテーマはまさに二十八章と連携している。
ソクラテスはプラトンによってその意志を後世に伝えられたから、それはそれでプラトンを通したソクラテス像しか我々には接する機会が与えられていない。
しかしそれ以後多くは(ソシュールなどの例外を除いて)本人による直筆が出版されてきているわけだ。
その点でカントに対してカント派とか新カント派とか、ヘーゲルに対する右派、左派とか、フロイト主義者達が後世色々と分派していったという事実はまさに、カント自体、ヘーゲル自体、フロイト自体が、彼等個々のキャラクターとか、生きていた時代の実像とは全く無縁に語り伝えられて来たということを意味する。
従ってデカルト主義者とはデカルト本人にとっては極めて本意であれ不本意であれ、彼自身がテクストを書いたという事実に纏わる彼個人の思いなどは、まさに「どうでもいい」という位相でのみ彼のテクストが語られるということを意味している。
その意味では全ての書かれる言葉は、その場で発声して語られる言葉以上に、申し開きや言い訳を許されないということである。
まさに哲学とは(実はかなり文学もそうなのだが)書いた当人の志を殺して、死んだものとして意味体形としてのみ成立している事態、つまり哲学の全歴史がそうである、ということが言える。
私は昨日次の様なツイートをツイッター上に載せた。
○言葉は意味化されることで一回リアルタイム性や発信者に固有のモティヴェーションを徹底的に無化される必要がある。そうすることでその言葉を再生させる読み手によって思想化される。それが所謂哲学の歴史であり(宗教や科学の歴史でもあるだが)、言葉はaliveからdeadに一回なる必要がある。
○意味はリアルタイムから永遠の相へ移送される。言わばそれが我々の言語的思惟に備わった宗教性である。言語行為はそれ自体一つのリアルタイムの祈りである。それなしに成立し得ない。我々は生きているのだ。死者と決別し、いつかは自らも死者となりゆく事を承知でその狭間で言葉を紡ぎ出しているのだ。
もし書くという行為が一切なく、只実際に対面して誰かに告げるだけであったなら(それでもそれをヴィデオに撮っておくという行為が成立すれば、又記録的意味合いを持つのだろうが)、或いは意味とは常に前者のリアルタイムとしてだけ存在しよう。
しかしその場の臨場感と、その場でのメッセージ伝達だけで言葉が終始しないということは、言葉が書かれるということに根差している。
つまり書くという行為に付帯するモティヴェーションとは、書くことによって消去されていくものだし、又そうでなければ書くという行為を滞りなく成立させない。
書かれた言葉とは、それを書かれた後で誰によって読まれることになっても、もう一度書いた筆者の意志を意味として読み手によって読まれるということであり、それは読者による勝手な、恣意的な(そうである以外にはない)筆者の意図の再生である。つまりそれが書き手による書きたいという欲求、つまりモティヴェーションの「思想化」に他ならない。
思想化するとは、端的にそれを書いた時点でのみ通用する言説から(従って政治<経済であってもいいが>的経緯に於いて書かれた政治的予想の記述は、ある程度時間が経つと、余程予言が当たっていない限り無効化される)、何時読まれても納得し得る内容へと価値的に転化される。
何故そうするかというと、それは永遠の相<層と言ってもいい>へと移送されることを旨としているということだ。それは潜在的な人類の願望である。つまりもっと簡単に言えば「残したい」ということに他ならない。それを私は後者で書き手が書いている時点で、この記述は後々まで残ればいいと思念している段に於いて、宗教的、リアルタイムでの祈りである様に思われる。
これは神の実在的価値云々の問題では勿論ない。
つまり我々は生きている限り他者の死と遭遇するが、その他者の死の遭遇とは、いつか自分もまた鬼籍に入るということを了解することでもある。すると我々はその了解の中で何かを「残したい」という感情でリアルタイムで書き綴るという行為を選択している。
リチャード・ドーキンスは自分の文章を比較的ロングスパンで読まれ得ることを心がけて書いているとどこかで書き綴っているが、まさにその意図こそが「残したい」という欲求であり願望であり、書くことのリアルタイム的なだけではないもっと普遍的なモティヴェーションである。
つまり書く時の直接的モティヴェーションは、それを書かれたものとして残すという意味から、もっと根源的、間接的モティヴェーションによって、リアルタイムの感情を無化することすら、書き手に欲させる。
つまり書くという行為は思考や思念に於ける私的言語の不可能性を試行錯誤的に「哲学探究」で訴えたウィトゲンシュタインの言う様に、まさに個人的なことを書こうとする段で、既に公共的意味の文脈に自らの文章が把握され得るという了解と願望によって支えられている、と言うことが出来る。
そこには晒すことでのナルシシズムも介在している。しかしそのナルシシズムは書いている自分の姿とか、その時の内心の感情がどうであるかということに於いてヌードダンサーよりは間接的なことであり、映画でヌードシーンを演じる女優は、書くことと、ヌードダンサーとの間の中間であることは誰しも理解されよう。
つまり間接的ナルシシズムとは端的に意味を読まれること、普遍的意図として解釈されることに愉悦を感じているのであり、それは羞恥心を克服してステージ上で性行為を演じ、カメラの前で性行為を実際に執り行うアクター、アクトレス達にとっての「敢えて羞恥心を催す行為を衆目の面前で行う」ことに於けるナルシシズム(性的能力の誇示と、スタイルとか肉体の美の誇示)に視られるその場性とも関係はなくなはないが、やはり思考力とか意味把握能力とか、或いは筆力という技能へのものである。要するにもっともっと間接的であるということだ(ヌードダンサーの場合には振り付けや身体のくねらせ方のテクニックに対する意図的な戦略、技に近い)。
個人的感慨を無視されて誰にでも理解される様に自己の記述した文章が伝達されることを望むという心理とは、歴史に意図的に参入する、歴史的文脈構成という人類の英知に加担するという意味合いも当然あるのだ。
それはビールマンや森末の技が結果的に後世に残った様な意味での普遍化ではあるが、彼等より、より残す意図が最初から前提されているし、読み手もそういうものとして書かれたものを読むという社会ゲームが古代より前提されていた、ということをも意味するのである。
それは書かれたことの意味が、書いた者にとっての意味より優先される、つまり書くという行為自体が既に書いたことによって書いた時にどういう意図を内的に示していたかという筆者の思惑を超える、ということを意味する。
又書くという行為を選んだ人達は、既にその時点で内的にどういうモティヴェーションで臨んだかということが然程書いた後では重大な意味を持たないということを予め了承する形で常に臨まない限り、その作業は持続され得ないということだけは知っている筈だ。
従って本章のテーマはまさに二十八章と連携している。
ソクラテスはプラトンによってその意志を後世に伝えられたから、それはそれでプラトンを通したソクラテス像しか我々には接する機会が与えられていない。
しかしそれ以後多くは(ソシュールなどの例外を除いて)本人による直筆が出版されてきているわけだ。
その点でカントに対してカント派とか新カント派とか、ヘーゲルに対する右派、左派とか、フロイト主義者達が後世色々と分派していったという事実はまさに、カント自体、ヘーゲル自体、フロイト自体が、彼等個々のキャラクターとか、生きていた時代の実像とは全く無縁に語り伝えられて来たということを意味する。
従ってデカルト主義者とはデカルト本人にとっては極めて本意であれ不本意であれ、彼自身がテクストを書いたという事実に纏わる彼個人の思いなどは、まさに「どうでもいい」という位相でのみ彼のテクストが語られるということを意味している。
その意味では全ての書かれる言葉は、その場で発声して語られる言葉以上に、申し開きや言い訳を許されないということである。
まさに哲学とは(実はかなり文学もそうなのだが)書いた当人の志を殺して、死んだものとして意味体形としてのみ成立している事態、つまり哲学の全歴史がそうである、ということが言える。
私は昨日次の様なツイートをツイッター上に載せた。
○言葉は意味化されることで一回リアルタイム性や発信者に固有のモティヴェーションを徹底的に無化される必要がある。そうすることでその言葉を再生させる読み手によって思想化される。それが所謂哲学の歴史であり(宗教や科学の歴史でもあるだが)、言葉はaliveからdeadに一回なる必要がある。
○意味はリアルタイムから永遠の相へ移送される。言わばそれが我々の言語的思惟に備わった宗教性である。言語行為はそれ自体一つのリアルタイムの祈りである。それなしに成立し得ない。我々は生きているのだ。死者と決別し、いつかは自らも死者となりゆく事を承知でその狭間で言葉を紡ぎ出しているのだ。
もし書くという行為が一切なく、只実際に対面して誰かに告げるだけであったなら(それでもそれをヴィデオに撮っておくという行為が成立すれば、又記録的意味合いを持つのだろうが)、或いは意味とは常に前者のリアルタイムとしてだけ存在しよう。
しかしその場の臨場感と、その場でのメッセージ伝達だけで言葉が終始しないということは、言葉が書かれるということに根差している。
つまり書くという行為に付帯するモティヴェーションとは、書くことによって消去されていくものだし、又そうでなければ書くという行為を滞りなく成立させない。
書かれた言葉とは、それを書かれた後で誰によって読まれることになっても、もう一度書いた筆者の意志を意味として読み手によって読まれるということであり、それは読者による勝手な、恣意的な(そうである以外にはない)筆者の意図の再生である。つまりそれが書き手による書きたいという欲求、つまりモティヴェーションの「思想化」に他ならない。
思想化するとは、端的にそれを書いた時点でのみ通用する言説から(従って政治<経済であってもいいが>的経緯に於いて書かれた政治的予想の記述は、ある程度時間が経つと、余程予言が当たっていない限り無効化される)、何時読まれても納得し得る内容へと価値的に転化される。
何故そうするかというと、それは永遠の相<層と言ってもいい>へと移送されることを旨としているということだ。それは潜在的な人類の願望である。つまりもっと簡単に言えば「残したい」ということに他ならない。それを私は後者で書き手が書いている時点で、この記述は後々まで残ればいいと思念している段に於いて、宗教的、リアルタイムでの祈りである様に思われる。
これは神の実在的価値云々の問題では勿論ない。
つまり我々は生きている限り他者の死と遭遇するが、その他者の死の遭遇とは、いつか自分もまた鬼籍に入るということを了解することでもある。すると我々はその了解の中で何かを「残したい」という感情でリアルタイムで書き綴るという行為を選択している。
リチャード・ドーキンスは自分の文章を比較的ロングスパンで読まれ得ることを心がけて書いているとどこかで書き綴っているが、まさにその意図こそが「残したい」という欲求であり願望であり、書くことのリアルタイム的なだけではないもっと普遍的なモティヴェーションである。
つまり書く時の直接的モティヴェーションは、それを書かれたものとして残すという意味から、もっと根源的、間接的モティヴェーションによって、リアルタイムの感情を無化することすら、書き手に欲させる。
つまり書くという行為は思考や思念に於ける私的言語の不可能性を試行錯誤的に「哲学探究」で訴えたウィトゲンシュタインの言う様に、まさに個人的なことを書こうとする段で、既に公共的意味の文脈に自らの文章が把握され得るという了解と願望によって支えられている、と言うことが出来る。
そこには晒すことでのナルシシズムも介在している。しかしそのナルシシズムは書いている自分の姿とか、その時の内心の感情がどうであるかということに於いてヌードダンサーよりは間接的なことであり、映画でヌードシーンを演じる女優は、書くことと、ヌードダンサーとの間の中間であることは誰しも理解されよう。
つまり間接的ナルシシズムとは端的に意味を読まれること、普遍的意図として解釈されることに愉悦を感じているのであり、それは羞恥心を克服してステージ上で性行為を演じ、カメラの前で性行為を実際に執り行うアクター、アクトレス達にとっての「敢えて羞恥心を催す行為を衆目の面前で行う」ことに於けるナルシシズム(性的能力の誇示と、スタイルとか肉体の美の誇示)に視られるその場性とも関係はなくなはないが、やはり思考力とか意味把握能力とか、或いは筆力という技能へのものである。要するにもっともっと間接的であるということだ(ヌードダンサーの場合には振り付けや身体のくねらせ方のテクニックに対する意図的な戦略、技に近い)。
個人的感慨を無視されて誰にでも理解される様に自己の記述した文章が伝達されることを望むという心理とは、歴史に意図的に参入する、歴史的文脈構成という人類の英知に加担するという意味合いも当然あるのだ。
それはビールマンや森末の技が結果的に後世に残った様な意味での普遍化ではあるが、彼等より、より残す意図が最初から前提されているし、読み手もそういうものとして書かれたものを読むという社会ゲームが古代より前提されていた、ということをも意味するのである。
Thursday, September 2, 2010
〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十章 言語とは偶像である
通常我々が「科学者」と言う時、物理学者等をはじめとする自然科学者とか理数系技術者のことを言う。生命工学者とか認知神経学者とか化学者とかである。そこには数字を扱うこともさることながら実験をするというイメージがある(勿論専門家ではない人達一般から見た見方としてである)。
学術的には社会科学や人文科学も学者であるなら科学者と言っても決して定義上では間違いではないし、そう呼ぶべきかも知れないが、それは一般にイメージされる像とは離反している。何故なら通常彼等人文系、社会学系の人達のことを私達は只「学者」と呼ぶ。
要するに私達は語彙を一般的をイメージを通して使っている。だからアメリカと言えば通常、南北アメリカ大陸全体とか北米(アングロアメリカ)や中米南米(ラテンアメリカ)ではなく、アメリカ合衆国のことを指す。
科学者に話を戻すと、実際始終計算をしたりしているのは、却って社会学者とか心理学者の方かも知れない。寧ろ物理学者などはある時発作的に数式を集中して書く時間を設けるかも知れないが、それ以外の時間はそんなに始終せせこましく計算してデータを出しているとは限らない(勿論そういうタイプの人もいるだろうが)。
要するに私が言いたいのは、全ての慣用される語彙とは、例えば職業で言えば、ある職業に付帯する制度的なイメージとか何らかの外部から観察される行動的なイメージ、或いは白衣を着たりしているその姿格好から日常会話ではイメージして、ある人に対して「あの人は科学者だ」とか「あの人は研究者だ」とか言うわけである。
だから逆に普段はいつも背広を着ている画家がいたとしたら、「あの人は一見画家らしくないわよね」などと言うのだ。
要するに私達がする全ての語彙選択とは、端的に専門的な正確な定義よりも圧倒的に、時と場合により、相手により相互了解され得る様に、つまり「伝わる様に」配慮されてその相互了解的イメージを援用しているのである。
このことは言語行為的語彙選択を巡る語彙体系の把握自体が常に大雑把なもの、つまり精確さ以上にイメージ依拠的なある種の曖昧さ、一般的漠然としたイメージを含み込む偶像を使用していることを示している。
偶像とはその輪郭もディテールも精確ではない。
もし全ての言語行為で大体のイメージでではなく精確なデータだけしか告げてはならないとしたなら、私達は誰とも一言も言葉を交わすことは出来まい。又自分自身も他者から何かを問い質されるかも知れない故、こちらからは滅多なことで質問出来なくなってしまう。相手にばかり完璧さを求める訳には通常はいかないからだ。
つまり大まかなイメージを相互に想定することで相手との間で伝え、伝えられる遣り取りとは、相互の厳密な報告義務へと直結する様なストレスを相互に軽減し、相互に遠慮なく相互の思念を伝え合うことをしやすくする為に、相手へ説明し、そうすることで相手から説明して貰う為に、敢えて精確さや厳密さよりも、相手にとって理解しやすさ、つまりイメージしやすさを自動的に求め、既に語彙選択する段階から実在の忠実な再現よりも、相手が実在を相手なりに想像しやすくする為に敢えて分かりやすく一般的イメージに翻訳して報告するわけだ。その意味では説明して理解しやすくする配慮には比喩的な部分がある、ということである。
比喩とは端的にある物事を専門的なヴェールから剥ぎ取り、そのイメージを一般化して、誰にでも理解しやすくする配慮とも言える。アレゴリカルな表現がシニカルにもなりやすいのは、一般的に専門性を剥ぎ取る操作自体が、専門性のヴェールに包んだままでいる態度の専門家や学者に対する批判となってその理解しやすさへの操作が顕現されているからである。
その意味では全ての批評も又アレゴリーであるとも言える。
しかし言語自体のこの種の相手に応じた翻訳操作こそ偶像の誘発であるということは、逆に我々が日常的に自分にとってよくは知らない事全般に対してそういう態度、つまり自分なりに納得しやすい形で理解しているということの中にある漠然としてはあるが、そう間違いではない判断自体に偶像化作用があるということを意味している。
つまり説明とはそういう操作を誰しも個々で行っているということを前提に成り立っている。
しかし会話とは面白いもので、そうやって一旦理解が相互に得られれば、次第に相手の知らない領域に対する説明にも「これは本当は~と言うんだけど」と専門用語とかテクニカルタームを使用していく様になるし、その専門用語の業界的略語や、相互理解に於いて即座に相互に作った略語や代名詞を利用したりする様になる。すると途中から話に加わった人には即座には全く理解出来ない様になる。その様にメタ内容に対する理解度に応じた省略表現や代名詞の多様に従って相互にそれが全く相互に一致しているかどうかは確めようがないが、少なくとも相互に脳内に共通了解していると思われる像、つまり理解という偶像を巡って会話していく様になるのだ。
理解という偶像とは端的にそれまで話し合ってきた話の道筋と大意である。それを了解し合っているか否かは話が展開していくか否かに依存するし、話の中で相互に相手の言うことに対して同意し得るか否かに依存する。勿論時々は相互に意見が食い違うことがあっても、大筋では話の展開に双方が沿って考えを押しし進めることが可能であるという事態こそが、理解という偶像を双方が把握しているか否かが規準となるのである。
語彙に於いて我々が川なら川、山なら山というものを何らかの形で理解しているからこそ、その語彙を使用することで相手と意思を伝え合い了解を得られる。同じ様に文章全体の持つ報告的要素自体にその種の理解が得られるからこそ我々は一定時間対話だけで時間を満たすことが出来るのだ。
従って科学者という言葉の持つ一般的イメージ自体も、相互の了解に於いていずれかが科学者である場合には、その一般的イメージ自体への是正が申告され、専門性と本来にあるべきイメージへと相互に話は展開していくだろう。だから逆に双方とも科学者ではない場合科学者に対して何らかの話題を相互に持つ場合には、その展開は期待出来ない。そういう場合には相互に科学者に対する理解や尊敬があるなら、一層話しは盛り上がるだろうが、逆にマイナスのイメージしか持ち得ない場合には堂々巡りを来たすが故に話題のチェンジが図られるだろう。
その理解の偶像自体への相互の確信と非確信の差こそがそれまで交わしてきた話題の続行と中断を決するのだ。
纏めよう。
語彙、名詞も動詞も一定の一般的イメージによって会話上では援用される。それが多少歪なものであってさえ、そのイメージの方が定着している場合、そのイメージに沿って援用される。相互に仮に科学者である場合には、その通り一遍のイメージでは話題は運ばれない。しかし彼等とて彼等にとって余り馴染みのない領域の話題ではやはり通り一遍の通用するイメージで何らかの話題に於いてある語彙が援用されるだろう。
そして次第に相互に相互のある話題に関する意見、考え方、理解の度合いを知り、相互に理解領域やその深度のずれを知り、そこから理解という偶像、つまりある話題に於ける相手の認知度や理解度や感情を軸として話題は展開する。理解という偶像とは従ってその都度対話する相手に応じて臨機応変に仮説されていくということである。それは恐らく語彙自体への偶像的理解と違ってもっと状況依拠的でありその場限りのものである。しかし親密な関係に於いてある人物AとBとが再びある話題に於いて盛り上がる時その都度反復的に援用されるものであるとしたなら、それこそ業界用語や隠語が同一業界内でかなり長期に渡って援用され続ける様に、ある個人同士では永続的に援用されることはあり得る。しかしそれでも社会全体に蔓延したある職業に対して付帯するイメージとかある街に対して付帯するイメージよりは刹那的であり泡沫のものである。
語彙の持つ定着している一般的通り一遍にイメージとはその語彙によって示される対象に対する同時代の全ての人達にとってある程度共通した感情なのである。従ってある特殊業界内の隠語とかテクニカルターム(特にある時代に趨勢となっている様な使い方がされるもの)等は、そういう社会全体のその専門の世界や業界に対する一般的に付与された、通り一遍のイメージ全体に対する抵抗の意図がある場合も少なくないということは言えるかも知れない。
そこら辺の内と外の区分けによって生じる齟齬が生む閉鎖社会が形成する共通了解世界に対しては章を変えて論説する価値があるだろう。
学術的には社会科学や人文科学も学者であるなら科学者と言っても決して定義上では間違いではないし、そう呼ぶべきかも知れないが、それは一般にイメージされる像とは離反している。何故なら通常彼等人文系、社会学系の人達のことを私達は只「学者」と呼ぶ。
要するに私達は語彙を一般的をイメージを通して使っている。だからアメリカと言えば通常、南北アメリカ大陸全体とか北米(アングロアメリカ)や中米南米(ラテンアメリカ)ではなく、アメリカ合衆国のことを指す。
科学者に話を戻すと、実際始終計算をしたりしているのは、却って社会学者とか心理学者の方かも知れない。寧ろ物理学者などはある時発作的に数式を集中して書く時間を設けるかも知れないが、それ以外の時間はそんなに始終せせこましく計算してデータを出しているとは限らない(勿論そういうタイプの人もいるだろうが)。
要するに私が言いたいのは、全ての慣用される語彙とは、例えば職業で言えば、ある職業に付帯する制度的なイメージとか何らかの外部から観察される行動的なイメージ、或いは白衣を着たりしているその姿格好から日常会話ではイメージして、ある人に対して「あの人は科学者だ」とか「あの人は研究者だ」とか言うわけである。
だから逆に普段はいつも背広を着ている画家がいたとしたら、「あの人は一見画家らしくないわよね」などと言うのだ。
要するに私達がする全ての語彙選択とは、端的に専門的な正確な定義よりも圧倒的に、時と場合により、相手により相互了解され得る様に、つまり「伝わる様に」配慮されてその相互了解的イメージを援用しているのである。
このことは言語行為的語彙選択を巡る語彙体系の把握自体が常に大雑把なもの、つまり精確さ以上にイメージ依拠的なある種の曖昧さ、一般的漠然としたイメージを含み込む偶像を使用していることを示している。
偶像とはその輪郭もディテールも精確ではない。
もし全ての言語行為で大体のイメージでではなく精確なデータだけしか告げてはならないとしたなら、私達は誰とも一言も言葉を交わすことは出来まい。又自分自身も他者から何かを問い質されるかも知れない故、こちらからは滅多なことで質問出来なくなってしまう。相手にばかり完璧さを求める訳には通常はいかないからだ。
つまり大まかなイメージを相互に想定することで相手との間で伝え、伝えられる遣り取りとは、相互の厳密な報告義務へと直結する様なストレスを相互に軽減し、相互に遠慮なく相互の思念を伝え合うことをしやすくする為に、相手へ説明し、そうすることで相手から説明して貰う為に、敢えて精確さや厳密さよりも、相手にとって理解しやすさ、つまりイメージしやすさを自動的に求め、既に語彙選択する段階から実在の忠実な再現よりも、相手が実在を相手なりに想像しやすくする為に敢えて分かりやすく一般的イメージに翻訳して報告するわけだ。その意味では説明して理解しやすくする配慮には比喩的な部分がある、ということである。
比喩とは端的にある物事を専門的なヴェールから剥ぎ取り、そのイメージを一般化して、誰にでも理解しやすくする配慮とも言える。アレゴリカルな表現がシニカルにもなりやすいのは、一般的に専門性を剥ぎ取る操作自体が、専門性のヴェールに包んだままでいる態度の専門家や学者に対する批判となってその理解しやすさへの操作が顕現されているからである。
その意味では全ての批評も又アレゴリーであるとも言える。
しかし言語自体のこの種の相手に応じた翻訳操作こそ偶像の誘発であるということは、逆に我々が日常的に自分にとってよくは知らない事全般に対してそういう態度、つまり自分なりに納得しやすい形で理解しているということの中にある漠然としてはあるが、そう間違いではない判断自体に偶像化作用があるということを意味している。
つまり説明とはそういう操作を誰しも個々で行っているということを前提に成り立っている。
しかし会話とは面白いもので、そうやって一旦理解が相互に得られれば、次第に相手の知らない領域に対する説明にも「これは本当は~と言うんだけど」と専門用語とかテクニカルタームを使用していく様になるし、その専門用語の業界的略語や、相互理解に於いて即座に相互に作った略語や代名詞を利用したりする様になる。すると途中から話に加わった人には即座には全く理解出来ない様になる。その様にメタ内容に対する理解度に応じた省略表現や代名詞の多様に従って相互にそれが全く相互に一致しているかどうかは確めようがないが、少なくとも相互に脳内に共通了解していると思われる像、つまり理解という偶像を巡って会話していく様になるのだ。
理解という偶像とは端的にそれまで話し合ってきた話の道筋と大意である。それを了解し合っているか否かは話が展開していくか否かに依存するし、話の中で相互に相手の言うことに対して同意し得るか否かに依存する。勿論時々は相互に意見が食い違うことがあっても、大筋では話の展開に双方が沿って考えを押しし進めることが可能であるという事態こそが、理解という偶像を双方が把握しているか否かが規準となるのである。
語彙に於いて我々が川なら川、山なら山というものを何らかの形で理解しているからこそ、その語彙を使用することで相手と意思を伝え合い了解を得られる。同じ様に文章全体の持つ報告的要素自体にその種の理解が得られるからこそ我々は一定時間対話だけで時間を満たすことが出来るのだ。
従って科学者という言葉の持つ一般的イメージ自体も、相互の了解に於いていずれかが科学者である場合には、その一般的イメージ自体への是正が申告され、専門性と本来にあるべきイメージへと相互に話は展開していくだろう。だから逆に双方とも科学者ではない場合科学者に対して何らかの話題を相互に持つ場合には、その展開は期待出来ない。そういう場合には相互に科学者に対する理解や尊敬があるなら、一層話しは盛り上がるだろうが、逆にマイナスのイメージしか持ち得ない場合には堂々巡りを来たすが故に話題のチェンジが図られるだろう。
その理解の偶像自体への相互の確信と非確信の差こそがそれまで交わしてきた話題の続行と中断を決するのだ。
纏めよう。
語彙、名詞も動詞も一定の一般的イメージによって会話上では援用される。それが多少歪なものであってさえ、そのイメージの方が定着している場合、そのイメージに沿って援用される。相互に仮に科学者である場合には、その通り一遍のイメージでは話題は運ばれない。しかし彼等とて彼等にとって余り馴染みのない領域の話題ではやはり通り一遍の通用するイメージで何らかの話題に於いてある語彙が援用されるだろう。
そして次第に相互に相互のある話題に関する意見、考え方、理解の度合いを知り、相互に理解領域やその深度のずれを知り、そこから理解という偶像、つまりある話題に於ける相手の認知度や理解度や感情を軸として話題は展開する。理解という偶像とは従ってその都度対話する相手に応じて臨機応変に仮説されていくということである。それは恐らく語彙自体への偶像的理解と違ってもっと状況依拠的でありその場限りのものである。しかし親密な関係に於いてある人物AとBとが再びある話題に於いて盛り上がる時その都度反復的に援用されるものであるとしたなら、それこそ業界用語や隠語が同一業界内でかなり長期に渡って援用され続ける様に、ある個人同士では永続的に援用されることはあり得る。しかしそれでも社会全体に蔓延したある職業に対して付帯するイメージとかある街に対して付帯するイメージよりは刹那的であり泡沫のものである。
語彙の持つ定着している一般的通り一遍にイメージとはその語彙によって示される対象に対する同時代の全ての人達にとってある程度共通した感情なのである。従ってある特殊業界内の隠語とかテクニカルターム(特にある時代に趨勢となっている様な使い方がされるもの)等は、そういう社会全体のその専門の世界や業界に対する一般的に付与された、通り一遍のイメージ全体に対する抵抗の意図がある場合も少なくないということは言えるかも知れない。
そこら辺の内と外の区分けによって生じる齟齬が生む閉鎖社会が形成する共通了解世界に対しては章を変えて論説する価値があるだろう。
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