Saturday, October 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕第三十二章 ツイッター上で飛び交う非難ツイートに見られる人間性

 人間性とはある部分では自己の感情的気分の調整と、未来へと向けられたヴィジョンの持ち方にあるとすれば、それはかなりの部分発話や記述に於ける意味志向的な、固有の言葉を持つモティヴェーションにあると考えてもいいだろう。
 今回の尖閣問題では極めて隣国中国の日本への態度の取り方には国際政治上での傲慢を曝け出したが、昨日大きなデモが日本でもあったらしい(ニュースでは報道されなかった)が、それらも含めて、ツイッター上で様々な尖閣問題を取り巻く国際情勢や政府筋に対する詮索的ツイートが目立った。その多くは訳知り顔の物言いと内容であり、自分だけが一番よく世界を熟知しているかの如く様相であった。それは民主代表選に関しても全く同じことが言えた。
 しかし最もそれらのツイートの持つ様相で気になる要素とは、端的に常に脳裏に他人のこと、他者一般にしか念頭にないという振る舞いを平素からしているとしか思えない様な想像をさせるということであった。つまり端的にそれらのツイートの多くは常に他人の行動、動きに対して関心を注ぎ、興味を抱くことからだけ全ての行動を決定させている様な人間の像が浮かび上がっていたのだ。
 人間はかなり多くの部分を現代社会ではとりわけそうであるが、外部的な情報によって左右されていってしまうというのはある程度は仕方ないことである。しかしその情報に右往左往することそれ自体の問題点を熟知していたが故にブログとかツイッターをし始めたのではなかっただろうか?
 せめて自分で書くブログとか自分の呟きを示すツイッター上ではその様な外部情報に端を発する言説を一時的にだけでもやめる様にすればいいのに、そもそもツイッターが他者に読まれる可能性を最初から考慮に入れた呟きであるが故に煽動的内容の外部情報に振り回されている言説も自然多くなっていってしまうのだ。
 しかしやはりそれは本末転倒である。この様な只情報摂取に対する裏情報的内容のツイートの持つ大半がこれ見よがしに目立とう根性である受け狙い性は人間性という語句を柄にもなく持ち出さざるを得なくなってしまうのだ。政治は確かに大事である。しかし政治をあれこれうだうだと討議してみても、少なくも自分で投票したりすることが出来る選挙以外ではどれほどの社会全般への影響力があるのだろう。否だからこそある種の叫びとしてそれらのツイートも作用するのだ、という見解に対して私は「それは余りにもお粗末ではないか」と言いたくなる。
 政治に関する本当の意味での情報とは余程内部事情に精通している者でない者によるものは大半がガセネタである。昨今マスコミ全体の論調さえそういう趣が支配的であることを鑑みると、大半のツイートは確固たる立証性のないその場限りの受け狙いであることが分かる。
 勿論我々は政治を片時も変な方向に行かぬように監視していくべきではある。しかしそのことと別箇にこの様な政治的緊急時にツイッター上で流言飛語的に同じマターに関して言及するということにどれ程の社会的効用があるのだろう?殆ど何の意味もなく、社会全体の何をも変えぬであろう。
 そもそもツイッターは社会を変革する為に存在し始めたものであるのではなく、自己内部での精神衛生的処理の為に始めたことであった筈だ。
 勿論政治の動きを只静観していたのでは遅いとは言える。しかしならばいよいよツイッター等で言葉を遣り取りすることくらい現実を何も変えないものはない。言葉をネットインフラ上で発信することの変革効果とは端的に自己内の精神的安定を獲得することと、感情調整、脳内衛生的な処理の問題なのである。勿論そこには相互に言葉を眼にし、受信する側にも得るものはある。しかしそれら全ては現実の行動や社会的投企(企投)とは全く違った次元であるが故に意味があるのである。従ってあたかもツイッター上で固有の言説を発信し続けること自体で何らかの行動へと直結すると信じて確たる証拠もなしに、裏情報的内容のツイートをすることにどれほどの意味があるだろうか?否無意味であるばかりでなく眼でそれらの情報を追ってしまう自分を発見するだけでも害悪である(従って私はそういったツイートを発見する度にそれらのツイーターをブロックし続けている)。
 情報の信憑性とは発信者の社会的地位や平素の言動全体への社会的信用度に比例する。当然のことながらマスコミやマスメディアによって示されている態度全般に不審を抱かざるを得ないのと同じ様なタイプの著名人の言説を信用することは出来ないし、そこら辺の判断自体は全て個人に委ねられているし、それこそその選択は個人の責任である。
 マスコミやマスメディアは何らかの情報を発信する段階で既に恣意的な思惑が絡む。つまりある時節に於いてある固有の情報内容を発信するという段で既に、その情報を発信することによって、その情報を摂取した我々がどういう反応をするかということをも見越したある種の情報戦略が介在していることを忘れて只闇雲にそれらの情報を受け取ってはいけない。もっと斜交いにものを見る癖をつけるべきである。
 しかしツイッター上での多くの裏情報的内容のツイートにはそれがない。つまり人格的陶冶という観点から言えば、社会批判性の皆無な批判に終始している、というのが私の感想である。
 要するにことの成り行きを静観して、次に自己が取るべき態度をじっくりと考える余裕を持ち、妄りに十分な思索を通さないままでの発信を控える様にすべきだ、ということだ。
 もし何らかのイヴェントがあって即座に何か発信するにしても、外部情報全体への懐疑的精神を失わない限りでの理性が要求される、と言ってよい。闇雲に全てを即断し未来の展開を断定する様なツイートなど言語道断である。疑問や懐疑的見解ならいいと思う。私が最も嫌うツイートとは端的にガセネタ的な内容の裏情報的ツイートを平気でしておきながら、それが誤りであった時にも一切責任を取らないままツイートし続ける態度の者にまさにマスコミ全体へ憂えるべき我々の批判自体差し向けられていくべきであるのに、一切発信者は罪にも問われないという無責任性にある。
 人間性とは根幹では平素の些細な行動選択、行為選択に見られるマナーの問題へと常に帰着する、と私は考える。全てを理解し尽した様な言辞でのツイートを多く見るにつけ、私は本質的責任を問えない多くの市民がいる、ということを残念に思う。そんなツイートをしている暇があるのなら、他に自分自身の為にすることは山ほどある、と私は言いたい。