Wednesday, August 17, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十八章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却Part2

 前回のことを踏まえて纏めてみると、我々は死者に対して絶対的他者として生者と区別し、端的に死者を差別することによって逆に生の事実を辛うじて実感している。つまりそれだけ生は生き生きとしたものでは既になくなっている。死者を出した悲惨な事故や災害を報道することによって、それを視聴する側の全ての生者が未だ自分達は死んでいないという事実を改めて自覚することを促す装置としてマスコミ、マスメディアは存在する。

 しかしその事は一方では死事実に向き合わず、生を「死ではない」という形でしか単純に理解出来ないという我々の惰性的思考傾向に対する無反省性を際立たす。要するに我々は死者に対して気の毒と思い、死者の死事実を報道し、弔う。しかしそうしながら、ではそれに比べ我々の生がどれだけ有意義で、又存在理由からして死ではないということの感謝や生存の価値を見出しているかというと心もとない。つまり我々はある部分では用意周到に死事実に意識の上で向き合わず、真摯に問うことを拒否しているが故に、却って死者に対する憐憫を持つ様に馴らされているのだ。我々は生が死より一層価値と光を放っているということを確証出来ないが故に、却って死者に対する挽歌と憐憫を積極的に行い、死を遠い事実として思考の上から出来る限り葬り去ろうとしているのだ。

 我々は死者を我々とは遠い別の絶対的他者であると見做すことによってのみ、生を輝かしいものとして自覚出来るのであり、それは即ち生に対する絶対的肯定とか絶対的死に対する優位を確証しているのとは違うのである。つまり生の意味と理由、根拠を我々は誰も実は理解していないし、それを他者に説明することも出来はしないのである。
 だからこそ絶対的他者は自己の中に巣食ってもいるのである。つまり自己の中の絶対的他者こそが、生を闇雲に輝かしい、生まれてきてよかったと思い込み、死を忌避すべき事実として葬り去っているだけなのである。
 ではその絶対的他者とは一体なのだろうか?


 それは端的に私が一人で生きているのではない、という外部から押し着せられる一つの事実への認知である。
 社会は確かに一人で生きているわけではない。途方もなく大勢の数え切れない人達が犇き合って生活している。その中の一個の個人であるという意識を介在させずに社会と関わり生活している者はいない。つまりその事実、そして誰しもがそうである中のたった一人の自分という意識こそが自己内に巣食っている絶対的他者なのであり、それが自己を監視しもするのである。
 モラルも反モラルも、常識も伝統も通念も世間知も全て言語習得以降の慣習的、習慣的な事実であり、それは言語的思惟や言語共同体成員として同化せざるを得ない形で我々は自己行為を考える。その考え自体を支えるものとして私は絶対的他者を自己内に設定したのである。

 これは見えない形で自己行動を縛り、他者への眼差しを注がせる。だから或いはこの絶対的他者こそが我々に「取り敢えず」生は死より尊く価値があり、死んだ方がいいという想念を生の価値の前では邪念にしているのである。
 人類以外で弔いの習慣を持つ者は哺乳類ではゾウであると言われる。或いはイルカ辺りもその様な習慣があるかも知れない。そしてネアンデルタレンシスはそういった習慣があったればこそ我々と同じ人類の一部として理解されてきたし、最近では彼等と我々とは異なった種であると完全には言い切れないことも報告されている。DNA解析レヴェルでもそうであると言われてきている。
 デネットが「解明される意識」でも「解明される宗教」でも葬儀と埋葬の習慣を我々が持つことを、他者に対する慈しみ自体が、自己の身体が死して後邪険に扱われたくはないというある部分では自己本位の感情がそうさせている、という見解はロバート・トリヴァースによる戦略的互恵的利他主義の理念からも大いに啓発されているところはある。しかしやはり哲学者としてのデネットはそれだけでなく、イコンとしての身体、我々の生きた肉体という発想を持っているのだろうと思う。
 デネットに葬儀と埋葬の習慣を持たせるものとして絶対的他者を考えることは出来る。それは死者が絶対的他者であることが、実は死して生きているのではない魂となっている状態に対する無条件の尊崇の念が逆に自己内の自己に対して取らせる他者や社会全般への態度や行為を規定する価値的、モラル論的正義論的水準の尺度こそ絶対的他者であるとすれば、それは集団的和合、集団的同意という事実への無視出来なさ、というもの以外ではないだろう。
 それはだから却って完全なるアウトロー的生活を余儀なくされている成員にこそ切実に自覚されることでもあるのだ。例えば日本人は世界の民族の中では明かにそういった要素がある。

 或いはそうなっていかざるを得なさから、そうなっていきたくはないという願望の全てがこの自己内第三者的視点の不可避的導入とも言える絶対的他者の巣食わせに由来していると言える。
 だからこの絶対的他者的意識水準を維持しているという自覚がある限り、我々は何処かでは自分の死後も弔って貰いたいし、貰えるだろうという目算に於いてのみ、社会成員として他者を死を無碍にすることは出来ないと心に留め置いているのだ。
 死者が絶対的他者であるのは、如何なる成員であっても、死して生者全体から離脱することで、生前如何にエゴイスティックであった様な成員さえ生者を特権化された存在に押し上げることで、しかしそれは儚い夢の様な時間でもあることを承知で、年配者が若輩者を激励し、生の共同体の奉仕することを尊いとすることで成り立つ社会成員全体の有様を何処かでは死者が見守っていると思いたい我々の想念傾向に由来すると言える。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十七章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却

 第六十三章で述べた死事実に対する忘却は他者の死の悲惨、突発的な予測不可能性によって逆に支えられている。
 
 今日もニュースで静岡県浜松市天竜川下りの船が転覆して七十代女性と六十代女性二人が死亡、そして八十代男性、船頭の人、そして二歳の少年が行方不明であることが報じられた。しかし我々はこういった突発的事故(事故とは常に突発的である)の前でそれが台風の時であるとか激流の時ではないにも関わらずほんの偶然的な事態の到来によって突然命を奪われる方もいると感慨に耽る。

 しかし実はそういった突発的な他者の死を確認することが出来るという事実への自覚、認識、認知自体が我々自身がこちら側で生きて生活していけている、と実感させ、そのことによって死事実が自分にも遠からず必ず到来すると知っていて、それを忘れようとしている。
 つまりそうやって死を受け入れる準備をせずに、自分自身が生きているという事実の方を寧ろ大きく意識に介在させることで、却って自分自身の死さえ突発的である様な最期を招聘することとなっているのだ。死んでみて生きてきた間の出来事全部が実は夢であったという胡蝶の夢の様な説話を生み出す背景はその死事実の忘却に安穏と乗っかって、そこに出来るだけ疑問を抱かない様に心がけているという我々の日常的行為事実があるのである。

 夢を見ると必ず知人も登場する。しかし印象に残ったテレビの画面を通して観た人物も登場するし、かつてお世話になった人、そして最近知り合った人とかが同じ状況で登場する。彼等には個々は全く何の関係もないにも関わらず「私」の記憶と私の認知によって彼等が私の脳裏では同一地平上の存在なのである。
 だから覚醒していて日常的に仕事をしたり食事をしたりする場面での生の時間だけが「本当の時間」であり、睡眠していて見る夢の時間が虚の時間であるとも言い切れないのだ。つまり実はそちらの方こそが「本当」の「私」の時間であり、そういった眠っている間に見た夢のことなど露ほども他者には気づかれぬ様に済ました顔をしている時間こそが虚であるとも言える。
 すると哲学的独我論、独在論にも俄然説得力が出て来る。つまり夢は必ずしも突発的ではないのだ。只死のみ突発的なのだ。そして生の中で挿入された死は意識を失っている睡眠の時間である。夢も見ていないノンレム睡眠時間である。
 夢は何処かで前に観た夢の記憶も脳に残存しているから、関連性があるし、繋がりも必ずあるのだ。しかし覚醒時の日常の方が必ずしもそうではない。寧ろ仕事とか会う顔それぞれに違う対応をしている時間の我々は却って全て虚的な心理で通している。そこには純粋に我である必要すらない。だから案外死事実への忘却を作っているものは覚醒時の会社や通勤電車の中での私達の方ではなく、各自睡眠時に見る夢の中の私達なのかも知れないのである。
 つまり意識を失っていても尚何らかの内容が夢の中で展開されることをもって、我々は却って死から遠いと自らに言い聞かせられるのだ。しかし通勤電車や会社で見せる公の態度を取る時間の方の私達は却って死に慣れてしまっている。本音を只管隠蔽することだけを心がけている(それが全く出来なくなった時かなり深刻な精神状態であるとは言える)。

 だから生とは死に慣れることをもって、公の職務や顔を維持することを社会が我々に強制し、しかし睡眠時にのみ我々は我々を我々自身の公の姿を作っている意識から解放させるのだ。又そうすることによって実は生がある日突発的に消滅する死の突発性自体の避けられなさに対して、その恐怖を紛らわさせ、要するに死事実を忘却出来なさを実感しているのだ(その証拠に夢を見ている時の半意識の方がずっと死への恐怖を強く私は感じる)。つまり夢とは生への未練が見させているとも言えるのである。

 私達が生きている間に経験する実際の死は全て他者の死である。人事なのである。否そうであるしかあり得ないのだ。自分の死はある日当然向こうからやってくるが故に、避けられない事態であるし、又その時期が何時であるかを我々は予測出来ないのである。
 だからこそ他者の死を沢山認知することでその恐怖から逃れているのだ。

 確かに東日本大震災に於ける死者の数はトータルなものではなく、一個一個の死自体は数えられないものであるという謂いは既に言い古されている。誰しもが悲惨な大事故や大災害の時に使う。しかしそれはそう言いながら実感からはやはり遠い。何故なら全て他者の死に就いてだからである。
 実は自己の死とは恐らく生きている間に感じる、生きているが故に恐怖する死への感じとは違うものだろう。全ての生きているのに必要な力が失われることなのだから。それは恐怖とか未練とかそのものを一切必要としない何かもっと全く別の事態なのである。

 だから寧ろ他者の死はそれがとりわけ自分の生活に密着している他者の死であるなら、それ迄ずっとその者と共に過ごしてきた生の中の時間が失われていってしまい、その時間の追憶を出来るのがその者との間でのことに限って完全に自分以外誰もいない、ということから、やはりそれはある自分自身にとってかけがえのない「ある自分」つまりその他者にだけ示していた自分の死以外ではないのだ。このことは別ブログ(このBlogger)「死者/記憶/責任」で既に述べたことである。
 しかしこれは常に別の形で述べ続ける必要を感じることなのである。つまり他者の死とはそれ自体その他者が生きていた時間を自分が知っていて、共有していたという事実に対する認知なのであり、その時間の共有者の死とはある意味でその時間を共有してきた自分の名実共に消滅する事実への覚知なのだ。それは只単に自分も何時か同じ様に去っていかねばならない、ということだけではない。
 寧ろ死ぬ瞬間迄ずっとその共有した事実を忘れずに生きていくことに対する予想から生まれる途方もない憔悴感を含んだ行く末の不安以外ではないのだ。それは親しかった者との間で特にそうなのである。

 だから逆に全く見ず知らずの人の死とはそれ自体どんなに美辞麗句で「一個の死は数ではない」と言っても、その言説吐露事実自体が既に欺瞞的な彩りを隠せないのだ。何故ならそれはやはり歴然と知らない人の死であるからである。だから本当に切実な自分が愛する者の死を経験した者は死者の数を数えるという行為自体の批判的言説として「一個の死とは数ではない」などとは言わないに違いない(勿論人によるということは言えるのだが、一々他者の言説へ批判を加えることはある程度切実な死別へ遠いということを意味する場合は多い筈だ)。

 つまり親しい者、愛する者との死別は全く違う次元の問題であればこそ、逆に他者の死はやはり見ず知らずであれば数えられてしまうのだし、これは残酷であるが我々の生きているという事実に於ける真実である。

 又死んだことで救われる生もあり得るということを我々は驚くほど問わない。勿論突発的な事故によって命を奪われる場合はそうではない場合も多いだろう。しかし生きていれば全て幸福であるという観念自体は全く無反省的な認識でしかない。
 他者の死という事実に対する安穏とした一々憔悴しなさこそが、逆にいざという時自分にとって切実な他者や愛する家族の死に対して毅然としていられる様にするのだ。そしてこれは死事実に対する慣れを何処かで受け入れていくという無意識の決意である。
 それは死を異様に悪と決めつけることで喪失する生への未練の過剰自体から解放されるという認識に対する見直しに他ならない。
 死は歓迎的な事実ではない。しかしでは生が必ず歓迎すべき事実でしかあり得ない、と誰が明言出来るのだろうか?
 我々はその意外と重要な問いには常に眼を塞ぎ耳を塞いできたのである。

Tuesday, August 9, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十六章 資本主義社会の矛盾点としての金融システムの崩壊

 世界同時株安は実は既にリーマンショックの時点である程度予想し得た。つまり金融システムは日本ではバブル期に大勢の芸能人、スポーツ選手、ビルオーナーなどに対して行った信用取引等の勧誘によって、バブル崩壊後多額の負債を抱えた株主達を沢山作った。しかしそういった時でも実際に株取引等を一切行わない日本人は大概が、そういった取引きを迂闊に行う者が悪いのだ、とそう捉えたし、今回の金融危機でもそうだろう。それはとりわけ国家公務員や地方公務員などの職種の人達(とりわけ官僚などの高学歴者)、或いは地方都市に於いて小売商等を経営する人達に於いて顕著に見られる傾向である。
 しかし実際金融システムはそういった大手企業等の株主達だけでなく、大勢の小口投資家達(そちらの方が頭数はずっと多い)によって支えられている。
 しかしにも関わらず実際に世界的規模の金融システムが崩壊の危機に晒されると、途端に政府もそういった小口投資家達の被害は切って捨て、要するに大企業の救済にだけ乗り出す。民主党政権によるJAL救済などもそうであった。
 つまり資本主義システムに於いてとりわけ金融システムはそういった本来なら頭数的に最もそのシステムを支えている人達をいざとなったら切って捨てるという冷酷な合理主義によって支えられているのだ。

 例えば今回イギリスロンドン暴動で、北部エンフィールドのソニー倉庫が暴徒達によって炎上させられても、多くの日本人は仮にそうなったところで、イギリス政府なり、イギリスのソニー関係者達によって賠償責任がなされる、とそう安易に考えるかも知れない。しかしそういった時イギリスのソニーにこそ投資している個人の投資家も必ず日本人も含んでいて、そういった被害に対しては眼を瞑るのである。
 これは昔GNPと言っていたところをGDPへと移行させたところで、国家主義的発想という意味では何ら変わりない。
 本来資本主義は国家レヴェルではなく個人レヴェルで幸福を追求するものであった筈だ。しかし実際に蓋を開けてみると、アメリカでもリーマンショックの時もサブプライムローンとかで結局大勢の低賃金労働者達が辛酸を舐めさせられた。
 つまり自由主義の御旗である個人の幸福追求が何時の間にか、政府直轄的管理ビジネスに於いて四捨五入させられ、弱者切捨て的発想になっているのだ。この点でも官僚や公務員は然程憤慨しない。彼等は国民の税金によって生活が生涯保証されているからである。

 日本のソニー倉庫炎上のニュースと同じことが韓国企業で行われ、それが韓国国内で報道されたとしよう。すると恐らく多くの韓国人は反イギリスデモをして騒ぐであろう。日本では既にウルルン島に入国拒否された自民党議員が三人いて、しかも独島と韓国側から呼ばれる竹島が占領されていても、然程怒り心頭に発しないまでに、そういった意味でのナショナリズムはすっかり白けきっている。しかしにも関わらず個人投資家達の金融危機に於ける悲惨には眼を瞑り、あくまで大企業を救うことだけを考える。
 これは資本主義、自由主義の理念である公平の原理に於いては甚だ矛盾した態度である。

 ライブドアショックの時も、辛酸を舐めさせられたのはあくまで個人の投資家達であった。しかし日本のマスコミはほとぼりが冷めたら、堀江元社長を又テレビに出演させたりした。
 世界同時株安の憂き目に一番大きく遭遇しているのは個人の投資家達である。これだけは間違いない。そして実際理念上では資本主義とはそういった数多くの個人投資家達の苦労と、犠牲の下に例えば政府も、国家も守られているのである。もし彼等が(恐らくバブル期でさえ)信用取引などをして、多額の借財を背負わずに済んだなら、今日の様に数多くの大企業が生延びられなかったであろう。勿論幾つかの大手金融機関は失われた十年の間に倒産もした。
 しかし一部では韓国には未だに残存している個人の内部に燻るナショナリズムは、少なくとも今の日本では希薄である。それはある部分では韓国より日本の方がソフィスティケートされた国民性であるということは言える(韓国では結婚に関しても家柄とか縦の系譜を異様に重視するが故に決して自由ではない)が、同時に個人の幸福より国家全体、政府による大企業優先主義的な救済措置のみを望む体質に関しては韓国や中国の人民による極度のエゴイズムに見習うべき部分はある。

 恐らく領土問題でも尖閣列島にせよ(ここも中国の脅威に晒されている)明確に日本の領土であると主張し中国の覇権を阻止することも出来なければ、北方領土にせよ、今後余程のカリスマティックな政治家が出現しなければ決して戻ってくるということはないだろう。
 日本とアメリカに共通する資本主義社会に対する個人の対処の仕方の弱点は、メジャーな存在を救い、個人が犠牲になることを致し方ないとソフィスティケートされた民主主義的ナショナリズムで変に大人な態度で我慢してしまうところなのである。しかし実態としては大企業内部で多くの責任を取るべき罪悪のある人達を逆に個人を犠牲にすることによって救ってしまっているのだ(韓国だったなら死刑判決が出ても可笑しくない人達である)。この点ではアメリカの十年前の方がずっと進んでいた。かなり大勢の金融家達を刑務所でと送り込んだからだ。今後のアメリカ国内での責任問題に私は注目していきたいが、かなり国内世論も二分していくのではないだろうか?
 又何か報道されたり、分かり次第このことを取り上げていきたい。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十五章 老いることを許さない社会Part2

 今日本では(外国は一体どうなのだろうかとも思うが)、毎日電車への飛び込み自殺が行われている。毎年三万人以上の自殺者を出し、その数はずっと交通事故死者より上回っている。
 これ等の遠因として私は日本国内にある全ての電子機器メーカーとそれを後押しする政府の施政方針にあるのではないかという考えを抱いている。

 前章では震災時等でも活躍してきたツールの利便性から万人にとって一部のエリートやインテリ達だけが社会の推進役となったり、オピニオンリーダーになったりする時代の終焉からポジティヴな面から現代社会を捉えた。
 しかし今回は逆のアプローチを試みてみよう。

 まず一日の内八時間余りをデスクの前にあるPC端末の経理処理や外部からの情報摂取に追われている業務の人達にとって、より反射神経とPC画面への集中力を求められ、それは次から次へと若くて頭脳明晰な社員を入社させる方針の一般企業にとって恐らく青年世代でもそれ等機器を充分使いこなせる人達は一部であるだろうが、そういったエリートを入社させ、あらゆる業務スピードが劣化してきた年配者員をリタイアさせる方がずっと企業利潤と収益アップの観点からは合理的であろう。
 それは青年世代にはより一部のエリート以外の大半の人達をおちこぼれにして、又年配者にとってはリストラへの恐怖に怯えさせる。
 四十五十となると、肩や腰も疲労がたまりやすくなるし、日々戦々恐々としている人達は大勢いるだろう。そしてそういった人達で友人もいなければ家族もいない人達、或いは家族が居ても家庭内離婚している様な人達が挙って毎日自殺しているのではないか、という想像は尽く。

 Googleのポータルサイトでは画面遷移の時間節約の為に、文字を全部入力しない内にその文字に一番近い有名企業や、多くの人達が検索したい事項へと画面が遷移しやすい様なシステムにもう大分前から移行している。例えば私がある研究者ソニー・クライトン(私のこの文章の為に勝手にでっち上げた名である)という名前をググろうとすると、ソニー(あの有名な企業の)が筆頭の画面に遷移する様になっている。
 これは時間節約の為だけではなく、やはり大企業へと収益が行く様にGoogle自体が取り計らっている証拠である。これは要するに多額の費用を支払っている大企業への配慮からであろう。
 この部分ではGoogleも一企業である以上の存在ではないので、当然個人ユーザーの利便性を無視して、四捨五入的発想で、より大勢の大企業の情報を求めている人達向けの利便性を優先している証拠である。
 そればかりではない。Twitterであれ何であれ多くのツール自体が益々携帯端末、PDA端末、タブレット端末その他のデバイスを併用するユーザーにとってのみ便利な様にどんどんリニューワルされていっている。要するに全ての機器を製造するメーカーの商品への購買意欲をそそる様にのみ改変されていっているという面は否めない。

 今世界をアメリカ国債の暴落によってドル安の波が覆っている。これは中国や日本という巨大な国家全体を揺るがす大事だし、その波は全世界に波及する。やがて中国もバブルは弾けるだろうし、世界はその時経済危機、金融危機に見舞われるだろう。既にその予兆は出始めている。
 大震災によって日本に関係するあらゆる株価が大暴落してきているが、ここに一つの資本主義経済全体が抱える問題点がある。危機対応することに向いている様にシステム全体が作用しない様になっているのだ。
 勿論現代社会は既に完全共産主義へ移行することは不可能である。しかし少なくとも全世界の経済学者達は真剣に危機対応型のシステム改変ということを真剣に考えるべき時期に差し掛かっている。

 自然災害の場合、全ての被害は不可抗力的側面はある(勿論政府対応とかでの人災的側面は否めないものの)が、こと金融システム自体は人工的な社会インフラであり、人間の頭脳による産物である筈である。従ってそれさえもが、自然災害等に対してさえ脆弱であるということは、やはりシステム自体に何処か不備があるとしか思えない。

 先ほどのGoogleのポータルサイト上での改変とは恐らくほんの些細な一現象でしかないだろう。しかしそういった一つ一つの現象が集積され、世界中のシステムの旧態依然が各個人の利便性を損なっているとしたら、この部分での矛盾を解消させる一切の努力なしに、資本主義世界経済の金融システムの改変も不可能なのではないだろうか?
 つまり利便性に於いてはより全てのユーザーに対して平等である様な在り方をまず基本としてニューツールやリニューワルを行っていくべきではないだろうか?

Sunday, August 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十四章 後戻り出来ない「いい意味で自閉的な」ナルシシズムの時代

 先日の日曜日のとある民放の情報番組に都知事の石原慎太郎氏と数学者の藤原正彦氏がゲスト対談で出演して色々な現状の日本に対する憂いを表明した。
 そこで石原氏が例によって「日本人が我欲に支配された」発言を繰り返した。
 その点では私にも同意し得る部分はあって、例えば竹島などの領土問題(最近では日本人自民党議員がウルルン島入島拒否されたことが記憶の新しい)では韓国サイドにすっかり領土を占領され、気象観測台、警察迄建造されてしまっている。これは一重に戦後の全総理大臣の責任である。このままだと尖閣列島から北方領土に至る迄全て未解決のまま永久に我々日本人は領土を失ったままでいることだろう。これは戦後日本人による平和教条主義のつけである。日教組的倫理観が外交や国防的観念をなし崩し的に駄目にしてしまったのである。

 しかし石原氏が日頃からよく発言している「日本人を駄目にしたもの、テレビ、パソコン、携帯」という三種の神器はテレビに関しては、それなくして石原氏が四回も都知事に当選することなどなかったろうに、と矛盾を禁じ得ないということと、後者二つも決して日本人から無くなるということなどないだろう、ということを感じざるを得ない。
 パナソニック、ソニー、東芝全社とも今年に入ってからずっとテレビの売れ行きは不調である。恐らく今後テレビが購買数を企業が回復されることはそうないだろう。つまり石原氏の日頃述べている第一の日本人を駄目にしてしまったテレビという代物は既に過去の遺物と化しているのである。
 第一にテレビに登場する人達(アナウンサーからコメンテーター、批評家、文化人全般)が既に世間一般で認定されている信用すべき存在というレッテル自体が鍍金を剥がされつつある。つまり現代人は「権威ある誰か」によって信用すべき存在を知りたいという欲求自体が希薄化している。つまりそれは自分で選びたいという欲求へと既に大分前から以降しているのだ。
 それを可能化させるものとして既にPC端末と携帯端末が利用されているのだ。

 テレビに登場する人達は既にそういった自分の考えで検索して認知したい世界の全ての中から自分の判断で選びたい欲求を殺ぐ、余分なものとなってしまっているのだ。テレビによる権威を象徴するものの一つは明らかに今迄は民放のCFであった。しかし現在各企業はテレビによる宣伝よりよりウェブサイト上にそれを求めている。しかも映像という瞬時に情報が消えてなくなるものと違ってウェブでは何時でも自由に検索出来る。その点でもスポンサーが民放につくということ自体が極めて現在では各放送局に於いて熾烈になってきているのだ。
 このままいけば遠からずテレビ局は倒産するだろう。つまりそうならない為に必死に生き残りを賭けて戦略を練っているのがテレビ局の現状である。しかしそれも時間の問題であると思われる。テレビが生き残る為には外部からの送受信を実際の番組内でもっと自由化するしかない。そしてそれを可能化する為には中央放送局の息のかかっていない地方独自のケーブルテレビ的システムに全面移行せざるを得ない。

 それから石原氏の負の三種の神器であるPCは絶対になくならない。既に日本人全員といっていい程の人達が自ら所有するPCから情報を発信している。その様に主体的に社会と関係を持とうという欲求を押し留めることは出来ない。つまりその部分では自己主張を文字入力によるメッセージによって執り行うという行為自体に内在するナルシシズムに一度開眼した人類は、それを元に戻すことは出来ないのである。
 これは世界的規模で見ても、エジプトやチュニジアの政変を実現した人民のパワーに於いてあらゆるウェブサイトツールの果たした役割を考えても極自然な流れである。
 日本のみならず世界的規模での政治家への尊敬心の後退という現象を促進しているものがウェブサイトであることだけは間違いない。今後益々政治家達はよりウェブサイト上で好感をもって存在自体が迎えられる為によりウェブサイト上の意見を重視する様になっていかざるを得ない。

 ウェブサイト上でのメッセージに対する反応は何と言っても速い。これだけはもう押し留める事が絶対不可能である。勿論デマも速く伝わるという弱点もウェブサイトは持っている。しかしそれでも尚その弱点を大きく利点が上回っている。又災害時での情報メッセージに関してもテレビよりウェブサイトが勝っている。
 従ってテレビに頻繁に登場する人達は、既にウェブサイト上での世界市民的オピニオンを反映せざるを得ない狂言回し的ロールに後退しているし、当の石原氏自身がご自分に対してよくそう自覚しておられるだろう。
 世の中には人前で何かを話すことを不得意とする成員は大勢いる。それはあらゆるタイプの引き篭もりに於いてそうである。しかし恐らく太古から知性ある成員は皆そうであった筈だ。つまりあらゆる偉大な思想・哲学・文学等はそういった人前で語れない人達(まさにローマ時代のキケロの様な存在を最後に)によって育まれてきたのだ。
 しかしニーチェが僅かな自分の収入の全てを自費出版に注ぎ込んだ時代と違って現代ではPC端末さえ所有しておれば、誰しも瞬時に情報メッセージを送信することが可能となっている。従って石原氏的「正々堂々と自らの意見を言え」的メッセージが時代の趨勢になることは最早ないのだ。

 現代に固有の発信者(メッセンジャー)としてのナルシシズムはよりいい意味で自閉的である。
 例えばある人(存在者)が生きて生活していた空間はその者の死去に伴って徐々に生きていた時間が空間に与えていた影響力を退化させていく。それは長年使い慣れたある人の眼鏡が持ち主の死去に伴って生きて生活している人間の身体的律動からの影響を剥奪されて只の物となっていく過程自体を顧みれば必然である。私が死ぬ日迄使っているPCは私の死後徐々に私によって使われていたという痕跡を消し去っていくだろう。その冷厳な事実は実は、全ての存在者の平均寿命を全うすることを前提に言えば七十年以上の日々、全存在者が幼児期の思い出をも携えて、しかしある日忽然とそれ等全記憶を死をもって失う。しかしその瞬間迄全存在者の現象的な世界は只の一人、その身体の所有者以外からは推し量れない。つまりその事実に於いて全哲学の中で独在論ほど説得力あるものはない。独我論的世界から我々は全メッセージを発信しているのだ、という事実に覚醒せぬ存在者を成立させない時代に我々は生きている。それはいい意味で既に自閉的な意味でしか我々全個が自己に固有の価値観を見出せない、ということを意味する。

 我々は全て自閉的価値への注視者であらざるを得ないのだ。その自閉性に裏打ちされた固有のナルシシズムは全てのextrovertな対外的戦略や、外交的手腕、或いは社交辞令といった全てを益々形骸的な社会内に残存する尾骶骨的存在へと我々に認識させざるを得ない。

 先日の民放番組のもう一人のゲスト論客である藤原氏による「日本人は自らの歴史の素晴らしい側面だけを伝えないでネガティヴな要素ばかり見る」という意見も当たらない。何故なら我々一人一人の市民全員が日本語で発信する意欲と意志にとりつかれている限り、日本語自体も、より特権化された一部のエリートやインテリによって言葉が運用されるという現実を完全に打ち崩しているではないか!既にエリート階級やらインテリ階級自身が全員ウェブサイト上での匿名記述者をも含めた全メッセンジャーの意見の動向の方を手本としている(あらゆるジャーゴンからタームに至る迄)のである。
 我々は既に言葉や言葉によって語られる歴史自体が一部特権的カリスマによってのみ全市民へと浸透していくという社会運営、国家運営の幻想からすっかり離脱してしまっている。歴史は私達一人一人の市民のある部分ではマスコミ(それは最早一部の声でしかないのだが)を規準にすれば、まさに無言の声によってのみ作られていくという事、つまりお上から有り難く頂戴するものでは決してない、ということに覚醒していないメッセンジャーは一人もいない、そういう時代の住人なのである。