Saturday, December 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十二章 人生も世界もア・プリオリに規定されているのか、それとも?

 当たり前のことだが、我々は生まれてくる前に何か人生とはこういうものだということを知らされて生まれてくるわけではない。予め筋書きが与えられた役者の様な人生は一つもない。何も知らされずある日突然生まれてきて、ある日突然他者とも出会い、ある日突然異性に惹かれ、ある日突然就職し、大人社会の現実に晒され、ある日突然何の前触れもなく(つまり何も知らされず)死ぬ。
 であるならある意味では全てが皆目分からないというブラックボックスに包まれた未来に対して、暗闇の中を彷徨っている様なものである。しかしやがて向こう側に光が見えてきたりする時は確かにある。従って予め世界とはこういうものだ、という全貌が規定されていて、只我々は絨毯の上に偶然迷い込んだ蟻の如く室内をうろうろと歩き回っていて(尤も蟻はいつまで経っても室内全体の在り方を知ることはないのだけれど)、いつかは世界の全貌が仄見えてくるという経験を持つことだけを期待して生きている様なものかも知れない。
 最近ある学会のシンポジウムに出席した。私が属する哲学の学会の会員の一人(論理学者)が企画に携わった論理学者から言語学者を誘った共同シンポジウムであった。
 私は一応基礎的には哲学も学んだが、そもそも純粋に哲学を系譜学的に哲学史的に学んできたわけではなく、かなり後からそれを追っかけて曲がりなりにもプロ級の人と専門的な対話が出来るくらいに習得してきたに過ぎない。寧ろ最初私はポストモダンが持て囃されていた時節柄、ソシュールその他の言語学、記号学に対する関心からたまたま隣接する言語哲学へも踏み込み、やがて分析哲学全般へも触り程度であるが垣間見ることとなったに過ぎない。それ以前は哲学と言えば実存主義とかメルロ・ポンティなどの現象学との出会いが大半であった。
 当のシンポジウムでは、賞味二十五分から三十分くらいの間で講演を纏める発表者の内容をその時初めて一切のレジュメを見ることなしに聞かされるわけであるが、曲がりなりにも何を研究しようとしているのかをその場だけで理解出来る内容とはある程度限定されてくる。全ての発表内容を隅から隅まで理解出来る参加者など恐らく一人もいない。その時私は当然言語学者の話の方が粗方何をしようとしているかということを理解出来た。一方私が所属する学会の会員の専門の論理学は極めて専門色が強く、既に現代論理学が細分化されているので、コンピューター言語などとのリンケージに於いて考えられてきているので、当然その発表時間内だけで全ての流れを把握することは正直困難だった。しかしかなり興味を惹かれる方向へと学問全体が動いているということだけは感じられたので、帰宅してから早速幾つかの聴きなれなかったテクニカルタームをウィキペディア検索などをして考えてみようとはしてみた。
 その時分かった事は現代論理学は私の様な素人から見れば、一つの重層性と、階層性によって各専門領域が区分されているということである。例えば一つの構文に対して、その構文自体はア・プリオリに我々の眼前に提示されているのだが、構文の構造解析をする時に彼等は恐らく属性毎に異なったアプローチの仕方を取っているのだろうと思う。つまり私自身が発表後幾つかの質問を専門家に対してした返答から察するに、構文を構造解析する時にシンタックス(統語)とか意味とか別箇の属性毎に異なったアプローチの仕方を採用することで避けられるある種の誤謬とか推論の誤り自体が発生する可能性を最初から見越して、論理的に解析処方を構築していくという仕方は、既に一つの科学であり、固有のエンジニアリングテクノロジーである。
 一方言語学では言語自体の規則は寧ろ最初から我々が自然言語として援用されている当の現実自体に示されていて、その規則性の解析を如何に有効な構文モデルを構築するかによって理解しようとする姿勢である。これは寧ろ哲学の言語を使えば素朴実在論であり、反実在論とか様相論理などを駆使する分析哲学のア・プリオリな真理論とは対極のものである。
 そして当然私は以前ソシュールやイェスペルセンなども読んでいたので、各発表者の短い時間内での発表を聴いてその場である程度全貌を曲がりなりにも理解出来たのはこちらの方である。
 そしてこの二つの全く異なった分野の共同シンポジウムに於いて顕著に示されたこととは、ア・プリオリに規定されていると捉える真理論である論理学とは我々の言語的思考全体に渡って、それを根底から支える想像力や認識力を構築していく為の世界把握的な真理の雛形を予め前提しているが、言語学の方はその様な前提そのものは持たず、あくまである部分では現象学的メソッドで現実に我々によって日常生活に於いて既に援用されている規則を、例えば日本語と英語の比較検討の上で考察するという態度である故、論理学の様なア・プリオリな真理論としての重層性はない。ではだからと言って言語学が欠陥を持っているとは必ずしも言い切れない。何故なら言語学とはその素朴なアプローチであるが故に規則の解析に於いてナンセンスとか言語表現上での意味と無意味、意味伝達可能性と不可能性を具に発見することが出来る。それはある意味では論理学の側からすれば新鮮な発見でもあった筈である。つまり論理学者の方から誘いをかけたシンポジウムであることの理由はそこら辺にある。
 とかく論理学者は単純な真理を敢えて難しく捉えてしまう癖がある。つまりカテゴライズされたメソッドを伝統的に踏襲しようとしたり、重層性に於いて理解したりしようとすると、却って現実に於ける単純な真理や彼等にとって専門である筈の論理さえすり抜けていってしまう可能性がある。従って論理学者のアキレス腱とは端的に曖昧性の解消などを論理的構造分析からアプローチする場合に、その当の曖昧性を発生させる要因を掴み損ねるという性質がある。もっと簡単に言えば真理論的に解析する余り、論理的構造分析ではない仕方からのアプローチである方がずっと有効である様な場合さえ、何とか論理、もっと言えば理屈的な脳内思考で解決しようとしてしまうというところがあるのである。それは「私とは何か」などの様な分析哲学的解析でも言えることである。尤もこの問題はそれはそれでかなり厄介な問題を含むので、別の機会に詳述しようと思う。
 言語学の場合は逆に最初から規則という現実をア・プリオリな真理から解析しようという姿勢そのものがないので、却ってある規則の例外などを示す場合に、その例外の発生要因を真理論的に予め脳内で設定された前提からロジカルに証明する必要がないので、言語学外的な例外発生要因の解明可能性を却って容易に示しやすいとさえ言える。この素朴な態度は固有の科学であり固有のエンジニアリングテクノロジーであるよりは、寧ろ最も現実的な経験論であると言える(論理学で前提される真理論はあくまで合理論的な色彩は強い)。
 すると最初に触れた生の不確実性と未来への予測出来なさと、何事かの人生上での出来事に対する告げ知らされなさの問題に戻ると、論理学とはあくまでその告げ知らされなさを克服して、「いや、しかし本当はある筋書きは存在するのだ」という前提の下に思考を進行させていく学問であるとは言えるのではないか?逆に言語学の場合はそもそもその様な前提など設定する様な野心自体を持たないので、人生全体の設計図に対してはブラックボックスのままにしておいて一向に差し支えないという態度である様に私には思われた。最も自然言語研究の分野は意思疎通上での予測不能性や不確実性を蓋然性から解析していこうとするので、同じ言語学でも統語構造モデルを現実に即して考えていくというアプローチとも全く異なっている。そして会に於いて休憩時間内にある研究者から小耳に挟んだことには、同じ言語学でもこの二つのアプローチは反目し合っているということであった。もしそれが本当のことなら(恐らく本当であろうが)、かなり当の問題は錯綜している。
 既に言語学と論理学の接点的領域ではparser(パーサ、或いはパーザ)などの自然言語構造解析プログラムなども使用されているし、理論計算機科学、数理論理学のラムダ計算なども使用されていて、そのメソッドの選択に従って恐らく同じ言語学でも論理学でも全く今後の展開可能性は異なってくるのだろう。そういった意味では仮に異分野の専門家が「そのメソッドを応用するメリットは何ですか」とか「そのメソッドから引き出される推論や解にはどういう意味があるのですか?」と質問しても、講演者本人自身が恐らく哲学者に「世界の真理とは何ですか」とか脳科学者に「意識とクオリアの関係とは何ですか」とダイレクトに質問する様なもので、絶対に客観的に説明を加えて返答すること自体が不可能であるだろう。
 つまり何も筋書きも一切告げ知らされずにある日突然生まれてきて、幾多の出来事と幾多の出会いを持ちながらある日突然死ぬ人間の生涯の様なもので、そもそも自分が疑問に思ったことにアプローチするその仕方、疑問の持ち方から疑問の解消の仕方自体が各自異なり分野、或いは専門領域毎に異なっているが故に、研究メソッドのメリットも立てられる推論や導出される解自体の意味も客観的に他者に説明すること自体が不可能なのである。
 これは世界を世界の外側から俯瞰して、人生全体の時間を予定調和的に筋書きの様に検討すること自体の不可能性と全く同じことである。

Sunday, December 19, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十一章 シニフィアンの肥大化と無責任主義の横行

 「原爆仕方ない」「暴力装置」「拙劣」「法務大臣とは二つのことだけ言えばいい」「仮免許から本免許」といった失言の数々が我々にとって意味することとは、端的にある言説がある人から吐かれることに於ける不適切性の判定基準が実に皮相なレヴェルで、それが大衆レヴェルで印象づけられることである。
 要するに啓蒙的立場にある政界の人達による発言は気をつけよということだ。しかしその倫理にはある種の言葉的実感は伴われていない。要するに形だけでも粗相をしない様に振舞えという要請である。
 失言はその失言をある人に吐かせた原因や理由よりも、その失言が「失言である」と受け取られることによって齎されるネガティヴな波及効果の方がより重視される。そこでは言葉を紡ぎ出すモティヴェーションは一切問われていない。要するに言葉に粗相さえなければ凡庸であっても、言葉尻を他者から捕らえられる様な頓馬な者よりもずっと有能であるという不文律によって政界は既に支配されている。
 そこには言葉に対する責任感よりも、言葉が最初に吐かれた状況や前提となる背景よりも、それが波及した時の効果のみを重視する極度の結果主義が鮮明化している。
 しかしこれは現代政界にのみ顕著な事実ではなかった。寧ろ人類が言葉を、言語行為を有した段階で既に予兆されてきたことだ。だからこそ我々はプラトン本人とプラトニズムが、デカルト本人とデカルト主義が、ダーウィン本人とダーウィニズムが、マルクス本人とマルキシズムが何処かでずれ込んでいるということを自覚せずに青年期から過ごしてきたことなど一度もなかった。要するにイズムは必ずそれを波及させた本人のモティヴェーションから発想から、真意からずれる。これこそが真理なのである。そしてそれを考慮に入れずに言葉を外部に出す者は恐らく一人もいない。何故なら言葉を出す時内的に心に立ち現れていることと、それが相手に何らかの形で伝わることの間にずれがあると知っていればこそ、我々は敢えて言葉を出そうとするわけだからである。
 言葉にはその言葉を出そうとする意志の中に「あった」ことを鮮明に伝えようとする段で既に必ず変形、歪曲が施されているし、それを知らずに言葉を外部に出力する存在者はいない。つまり一回一回の発言は只それだけでなく、その者の行為として実績となってしまうというアカウンタビリティやコンプライアンスの俎上では端的に、どんなに些細なことであれ、真意や心の中で言葉を出そうとする時とは違う付加価値が加わる。それが誇張であったり、強調であったりといった要するに作為である。
 考えが我々の心に立ち上がる時、その考えを伝える(述べる、書き留める)時、その考えを抱いたプロセスに就いて述べたり、考えを巧く読み取られる様に計らったりする故、そこに必ず心に「立ち上がったこと」自体からすれば、変形とずれを来たす。そしてこれが意味として他者から了解され、それが相手の心に留めて於かれること、或いはそれが言い伝えられることの間には、述べたことや書き留められたことから又ぞろずれて変形される。これが波及することによるずれであり変形である。
 つまりそこに言葉が責任として問われる筋合いも出て来るのだ。
 しかしその言葉自体の意味的波及効果ばかりを重視すると、次第に言葉の力が只単に宣伝効果の様なものに成り下がる可能性もある。否必ずそうなっていく。責任は言葉自体ではなくその言葉の波及効果にあるからである。
 しかしある言葉が快く受け取られるか、そうではないかとは端的に、その言葉を受け取る側の気分の問題もある。従ってどんなに適切な意味を兼ね備えた言葉であれ、よくよく考えられた言葉であれ、それが伝わる際には誤解だけに彩られ、不快なものになる(否その言葉が適切であればあるほど)という可能性も常にセロではない。その様な不条理、理不尽、運命にその都度委ねられている受け取られ方の恣意性こそが残酷な事実であり、それはシニフィエよりもシニフィアンの方が社会では肥大化してしまうという条理である、摂理である、真理である。
 従って政治家などは、完全にその波及効果を巧く調整し、その都度結果責任、つまり言葉の意味の波及効果を適切にリードしていける者のみを政治的勝者にしていく。これは帝国主義時代の政治家に求められていたことと全く性質を異にしている。つまり営業的体裁主義であるとも言える。そこには言葉が伝えたいことなど寧ろどうでもよく、如何に伝わるか、伝えられるかという効果の問題、つまりずれと変形を如何に逆用していくかという智恵の問題となる。従ってある部分では形だけでも粗相のない様に言葉を「援用」させていかれる冷めた目が必要だということになる。それが責任倫理の発生起源であり根拠であるとさえ言える。
 終わりよければ全て良しというこの理念に於いては、内的動機や良心や内心の誠実性より、既に結果と波及効果を念頭に入れた戦略だけが価値であるという考えがある。だが、それが言葉の持つ当初からの運命的性質であり、言葉の歴史的事実である。従って歴史自体も必ず言葉の伝えられ方の中に歴史的事実内容も込められていて、それは必ず起きた事、起こった事とずれている。変形されている。その変形自体を適切に鑑みることがもし歴史家に必要とされているなら、それはそれでカール・ポパーの言う様に歴史は(解釈に於いては)科学的であらねばならない。しかし同時にそのずれ方とか変形され方も又一律ではないとすれば、歴史として「伝えられたこと」そのものを科学的に分析しても仕方ないという意味ではユルゲン・ハバーマスの言う歴史は科学ではないという考えも正しいが故に、この二人の論争は共に真実を突いていることとなる。
 その意味では常々中島義道が言う様に全ての成功には偶然性が必ず付き纏っている。要するにたまたま最初に大きく認められてしまった何らかの仕事をした者が、そのことによって次第に新たな仕事に於いて、その評定に見合う様な仕事を積み重ねる機会を与えられその機会を逃さないことによって益々成功者となっていくのである。
 仕事がその都度のピアプレッシャーに対応した構えの表明であるとしたら、その際に齎される言葉による思考もそうである。つまり言葉とはその都度の内的な心に立ち現れたことに対する表明の決意であり、表明し、それを表明すると決意することによって意志を明確化したものとして外部から評定されることを期待することによって、自らの意志を不動のものにしていこうという作為である。
 しかし当の問題は既に現代社会ではある言葉が意味として受け取られる仕方自体が余りにも予測がつかない。従って責任倫理は益々内的な決意よりも、外部に出力されたことから齎される波及効果自体に委ねられている。それを私は責任を持とうという内的決意からではなく、外部に言葉的メッセージとして発信してしまってから後に得られる波及効果を鑑みてその都度発信仕方を調整していくというある種の内的には完全責任を取れない、つまり無責任主義に積極的に加担していく様な決意こそが現代人の意思疎通には内在していると考えている。それはまさに抽象表現主義アーティストであったジャクスン・ポロックがドゥリッピングという手法によって平面キャンバスを床に置いて、その上に跨って絵の具や塗料を滴らせた刷毛からそれを跳ね落としていったその結果から絵画の描きの進行をその都度決定していった様な、偶然性に身を委ねる(それはダダイスムやシュールレリスムによって既に実験的には実行されてきたことの進化的試みであったのだが)仕方に似ている。無責任に発してその効果から責任を考えるというシュールレアリスム的手法であるオートマティズムを彷彿させる。
 その意味では我々の住む現代社会とは既にジェットコースター的に人生の成功と挫折が運命づけられている責任と無責任の境界の明確化していない極めて偶然性の強い「際の曖昧さ」を際立たせている時代なのである。しかしそれは本当に現代社会に於いてのみ切実であり始めたことだったのだろうか?
 それ自体が一つの大いなる幻影である可能性の方が強い。つまり今こそ一番切実に思える永井均の言葉を援用すれば唯今論的見方がここで採用されているだけかも知れない。
 つまり全ての存在者に於ける運命とは常にジェットコースター的に先行きどうなっていくか分からなさだけが支配している、或いはしていたのかも知れないのである。

Wednesday, December 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十章 日本人の精神構造と戦後社会の精神

 現代社会であるパワーを持った政治家、官僚、知識人など全てのエリート層と、それを支持する母体、或いはそれを支持する大衆という図式から考えると、ある極めて矛盾した歪な構造を日本社会が携えていることは誰しも感じ続けてきたことだろう。
 社会には我々個々人が携える信条とか良心とか良識とは又一種別箇の独特な暗黙の良識が蔓延っている。これはそう容易に全ての個々人に越権させることを許さぬものがある。その一つが学閥であり、その一つが資本主義社会のルールであり、その一つが世論形成システムである。
 勿論他にも沢山あるのだが、その三つの内今回は後者二つに就いて扱おう。
 戦後日本社会はGHQの占領下様々な敗戦処理の中で政策が取られた。その一つが財閥解体であり、その一つが農地改革である。
 とりわけ日本では財閥解体がなされたのにも関わらず、一切手付かずだった組織が幾つかある。それが外務省であり、あらゆるマスコミ報道機関であり、NHKである。この事実が意味するところは極めて重大である。
 現代日本の資本主義ルールは実は極めて固有の情感に彩られている。それは一言で言えばまさに「出る杭は打たれる」であり、それに真っ向から抵抗した政権こそ小泉政権であり、竹中金融路線であり、ホリエモンであり、哲学界では中島義道による対話論である。それ等全てを私は肯定してはいない。しかしそういうトライアルとしてそれらの活動が位置づけられることから日本社会を読み解くことには意味がある。
 現今の世論形成に於いて極めて大きなバロメータになっているものに国会中継がある。これはNHKが取り仕切ってきた。そしてこの番組枠で放映される発言や個々の政治家(与野党問わず)のイメージは決定的な国民自身への記憶の印象となって、世論形成の際の国民自身の意志決定に影響を与えている。
 従って政治家は如何に発言から立ち居振る舞いに至るまで、否ファッションまで気を遣い(恐らくファッションコーディネーターからメイクアップアーティストまで雇っているだろう<少なくとも経済力のある大臣、与野党有力政治家達なら>)如何に巧く国民に自己政治信条から政策的主張を「イメージづけるか」に苦慮する。
 しかしNHKの放送枠で示されるイメージに対して常にそれを批判したり、解釈したりする存在こそ民放である。民放の指針とは常に前後左右に揺れていて、絶対に一貫性はない。それを言うならNHKも然程ない。しかし少なくともNHKは民放ではないので、民間の企業や法人組織に対する利害関係からは一見解放されている様に見える。しかし実際は各自治労、官公労、連合、それ以外の全ての組合組織とは密接に繋がっている。そのことを知らずにNHKを見ている視聴者は恐らくいまい。
 従って日本式資本主義ルールはそういった見えない良識というバリアを張り巡らせていて、個々人間のフェアな競争原理とは一線を分かっている。これこそ竹中平蔵が改革に乗り出そうとしていたことであるが、小泉元総理はその改革にストップをかけた。さしもの竹中如きにその種の改革は優勢民営化の様には絶対に行かないと踏んでいたからである。このことも又誰しもが周知の事実である。
 一方で民放が激烈な与党批判に終始していて、しかしその民放による批判的見解の激烈さに対する融和剤、調整作用をNHKが常に買って出ている、否そういう役割であることを暗黙に我々国民自身が認可してしまっている。
 しかし一時期放送受信料の未払いが多発して、それに対する対処として新会長による政策転換により、民放アナウンサーやタレントを多く起用する様になった(鳥越俊太郎やタモリ、姜尚中など)ことから、一見NHKは改革されたかの如き様相を呈しているが、一般社会の良識を維持し続けるという機能に於いてNHKは厳然と戦後の体質をそのまま引き摺っている。事実NHKはスタッフ職員などに関しては東大、京大、早稲田、慶応四大学からしか中途採用を取らない。それにも増して日本のビジネスパーソンから主婦に至るまで、日頃の情報摂取に於いて、極めて多くの局のニュースを受信することが出来るにも関わらず、大半の情報は日本記者クラブなどによって検閲されていることも又知らぬ者はいまい。そして例えばテレビ朝日は日本テレビよりは左寄りであり、「相棒」などのドラマでは必ず警察組織とか検察組織が組織毎隠蔽体質であることを告発する内容のドラマに仕立て上げていて、その正義的ものの見方の定型自体に視聴者は殆ど疑問を抱かない。それは要するにドラマの世界だからということで、大して気にも留めないままでいるのだ。
 しかし実際に選挙などで蓋を開けてみると、去年の政権交代の時もそうだったし、昨今の地方選挙でも補欠選挙でもそうだったが、極めて民法各局での世論誘導型の方針に影響を受けている。最近では唯一異なっていたのは2005年の優勢解散総選挙の時くらいであった。あの時は郵政民営化に対する反対陣営の意見が喧しく民放で論争されたが、蓋を開ければ自民党の圧勝であった。
 しかしそれ以外では大半が民放の世論誘導に有権者達は踊らされてきた。しかし実際我々有権者達は幾つかの政府へのクーデターを経験してきた。それらの挙の正当性や結果的な善悪を取り敢えず保留にしても、その一つが今述べた郵政解散総選挙に纏わる小泉元総理による参議院法制定否決後決断された衆議院解散という挙であり(これは総理大臣による特例的な解散権乱用である)、もう一つは小渕元総理が倒れた際に密室で次期総理を森氏に決めたこと(青木幹夫、村上正邦、野中広務、亀井静香と森喜朗元総理の五人組による暴挙。2000年)である。これも皆知らぬ者はいない。
 にも拘らず我々日本人は民主主義の正当なる手続きよりも、その時々で狡猾に一切のルールを無視してことなかれでことを穏便に済ますという手法に慣れきっている。その証拠にこれらの挙に対する法的、手続き的無視への批判は終ぞなされ得ない(あるいはうやむやにされてしまっている)。
 つまりそういった手続き無視の、ある意味では結果させよければどんな手法を使っても許されるという不文律を形成させてきたものこそ、日本人固有の良識である。そしてそれを形成させてきた元凶としてNHKと民法による暗黙の世論形成とその融和、或いは調整という共犯関係である。そしてそれに加えて日本社会では出版企業界や論壇、学閥などが何処かでそれらと歩調を合わせるかの様に(実際の名を挙げれば日本学術会議を頂点とする学会組織全部、それに大学組織、大手出版社各社である)右へ倣えをしてきた。
 それら全体が右に倣えをすると、必然的に電通や博報堂などの大手宣伝媒体はあたかもそこで形成された暗黙の合意を世論であるとして各民放に流すCMを制作し、それを放映して世論として煽る。彼等はアウトソーシングのプロであるので民間下請け機関全ては大手宣伝媒体の命令に付き従う。
 視聴者は次第にかつて自分達自身がクーデターを起こしておきながら、小泉フィーヴァーによる政権運営自体に「劇場型政治である」と批判した野中広務による批判的提言のままに、ビジネスパーソンも主婦も学生も劇場化された社会世相に対し、それが恣意的にNHKと民放とその支持母体である各種組合組織、そして新聞社や日本記者クラブ、それを陰で助長している学閥、大学経営者、大手出版社、宣伝媒体の思惑であることを知ってか知らずが、世論とは「そういうものだ」という諦念によって「相棒」などによるドラマ制作のモティヴェーションや小説、映画、演劇の世界での現実描写と、実際の社会の様相との間の境界を明確に持つことなく、虚構と現実の境目を曖昧化させつつ、一旦失言をしたとされると、その本人の思惑とかモティヴェーションなどは全く顧みられず竹中平蔵の言葉を借りれば「魔女狩り」の如き様相で訴追する様になるのだ。その事実に日本国民は一切抵抗する心の余裕はない。
 この日本社会の固有の世論形成に纏わる連動性が、ソフトバンクであれやフーであれ民間企業の経営戦略にもかなり制約を課してきたことだけは確かである。要するに日本式資本主義社会とは、世論形成に伴う固有の全体的ムードが支配的になり、その受信者である国民の間で実相と虚的な事実との間での見分けがつかなくなり、その「見分けのつかなさ」自体を受け入れる形でしか民間企業も政界も官僚組織も職務を遂行出来なくなってしまう形でしか運営されていない。これは一切の正当なる権力遂行を事実上不可能と化している(そのことを直観的に訴えているのが中島義道の「善人ほど悪い奴はいない_ニーチェの人間学」(角川新書)である)。
 小泉元総理に郵政解散総選挙の暴挙を遂行せしめたのは他ならぬこの「見分けのつかなさ」とそのことへの国民、全ての有権者による諦念である。「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは見分けがつかぬものなのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 政治も国会中継によるショーであり、官房長官の発言も首相のぶら下がり会見も全て「やらせ」性に彩られている。つまりそういった現実と虚構との間の「見分けのつかなさ」への諦念こそ、中島義道をして当の本で批判せしめている 2ちゃんねる の匿名の書き込みを、ストレス解消として助長しているのである。
 確かに現代でも東浩紀、茂木健一郎、宇野常寛といった時代の寵児達はいる。しかし彼等の活動全般を彩っているのは只単に反映であり、勿論反映行為が悪いことであるわけではないのだが、端的に彼等の活動全般は決して社会を変革はしない。その変革出来なさの実態を時にアイロニカルに、時にアレゴリカルに<動物化するポストモダン>とか<大きな物語の喪失と小さな物語の乱立>とか<クオリア>とかの語彙によって時代を象徴しているだけである。
 それはある意味ではダニエル・デネットが「ダーウィンの危険な思想」でスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジといった古生物学者(paleontologists)達が提唱した化石発見から引き出される進化論的考え、つまり断続平衡説への物語性への批判(それはあくまで実際に発見されたものだけに依拠して判断されるが故に、発見されていないもの全般への完全無視に直結するという懸念からなされた哲学的批判だった)に見られた真理論と相同のベクトルを持っている。
 要するに我々は理解しやすい物語(このことに関しても批判論的に中島は例の本でヒトラーの戦略を引用している)に惹き付けられ易い。しかしその陰には必ず恣意的な策謀、つまり作為があるのだ。そして魔女狩り的なenthusiasmが必ず存在するのだ。そのenthusiasmを助長しているものこそ、「そういうものだ」という諦念であり、「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは<見分けがつかぬもの>なのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 今回の菅総理による法人税の引き下げは民主党与党延命策としてはまあまあだったが、またぞろ我々の眼前にマスコミ全般と各支持母体による思惑からどんな世論形成的良識が発動されるか、我々は少なくも自己防衛的に注視していく必要だけはあろう。

Monday, December 13, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十九章 一般化、波及効果と普及

 波及するものは創造者にも予測し得ないということを前章で述べた。しかし波及するものそれ自体にはそういった性質が備わっていたと考えることが出来る。誰しも自分にとって自信ある創造物を普及させたいと願う。しかし予想外に「~すれば~なる」式の予想は当たらない。それが完全には理解され得ないから我々はチャレンジする。完全に普及しきってしまうに違いないと思えることと、そうであると知っていることの間には天と地ほどの距離がある。何故なら普及すると分かっているものは普及させる価値すらないとさえ言えるからだ。それは自明なことである筈だ。
 白鵬があと少しで双葉山が打ち立てた連勝記録を凌駕するというところで負けた一件は記憶に新しいが、実際双葉山の天才性には様々な要因が絡み合っていて、それはある種の偶然性の集積という奇蹟でもある。例えば彼の記録がどんなに偉大でも、それが人間の範囲を超えていないということが重要なのだ。
 ウサイン・ボルトもチーターと走って短距離で敵った走者ではなし、そういう走者はいない。同様に双葉山でもゴジラやキングコングと戦っていたわけではない。
 恐らくそれが双葉山と同じ様な記録を出し得たかも知れない、能力の保持者は世界中には何人もいただろう。否日本国内にさえいたかも知れない。しかし前者に於いてはたまたまその国には相撲という競技自体がなかったのだし、後者に於いてはその人もそうだし、その人の家庭環境が相撲に全く関心がなかったのだし、仮に関心があったとしても相撲取りになることを両親が許さなかったら、実現しないこともあり得る。
 しかし双葉山は違った。あらゆる条件が揃っていたし、且つ彼自身も非情な努力をした。
 そういう様な意味でデカルトのコギトも、フォードの自動車も存在しているのかも知れない。
 しかし恐らくデカルトのコギトと同じ様なことを考えていた人はいた筈だ。だからこそデカルトがそれをそれまで考えてきたことはあっても終ぞ明確化せずに終えた無数の人達を代表して、明確化し得たからこそ、後代の人々の多くが(全てでは勿論ない)なるほど、そうだと思えたのだ。
 それはデカルトがコギトを通して示したことが皆一度は考えたことがあるのに、それを大したことであると思わずに遣り過ごしてきたか、明確化せずに見過ごしてきたものの中で、デカルト本人だけは価値ありとして、書き留めておき、次第に理論化していったのだ。そしてそれはその時点で彼自身でもある程度の波及力を持つであろうという自信があっただろう。しかし彼の死後数百年と経っても色褪せることなく受け継がれていくなどとは彼自身さえ予想出来なかったのだ。それが真実に偉大なる波及力と言える。波及しだして普及しきってしまえば、それは一般化される。それはデカルトの特許では最早ない。それはフォードの発明した自動車を運転する際に一々彼に特許料を支払っているのではないことと同じである。
 しかし波及効果を持ち、普及しきるという事実の前では一度は誰しも考えたことがあるということが極めて重要なのだ。我々はどこかでそれらに対する記憶を痕跡として残している。その痕跡を擽るということが重要なのである。だからこそ「そうだ、その通りだ。この考えは素晴らしい」と普及していく様な波及効果を持つのである。
 それはある部分では善的な存在ばかりではなかっただろう。近著「善人ほど悪い奴はいない」で中島義道が示しているヒトラーもそうであった。しかし彼の考えや戦略は後世に於いて悪しき例外として位置づけられるに至っている。それが何時までそうであるかは私にも予想出来ない。又いつかはヒトラーの愚行自体が英雄視される時代が到来しないという保証は私にも確約しきれない。
 しかし存在の仕方として善的である偉大なることとは、何処かで郷愁を誘う要素があるのではないだろうか?それはデカルトのコギトにもあったし、自動車の様な利便性の極致であっても、あるのではないだろうか?
 体格にしても技能習得にしても、双葉山と互角に戦える条件の持ち主は他にもいた。しかしその条件を双葉山がなした偉業へと費やす決断と、それをさせる環境が他にはなかった。であるからには双葉山自身も、或いは全く別の方向へ自ら持って生まれた条件を利用して、例の連勝記録を打ち立てることはなかったにせよ、別の偉業をなし遂げた可能性があるものとして、例の偉業を成し遂げたのである。
 それは本人の中では「~をしなければ~をしていたであろう」という終ぞ実現し得なかったことへの郷愁となって時々立ち現れているということはあり得る。私くらいの才能の者にでもそれはある。
 偉業や偉大なる発明は時間が経てば一般化される。普及しきってしまえば波及力さえ過去のこととなる。波及効果は、その発明や発見や偉業が、それをなした人と付帯して切っても切り離せない状況下であることを示している。しかし普及しきってしまえば、或いはその事実に疑念を誰しも抱かなくなった時、それは一般化が果たされた、と言える(それはデカルトのコギトが哲学者内にある程度留まっているのに対し、ガリレオ・ガリレイによる「それでも地球は回る」ではないが、太陽の周りに回っていることを本気で疑う者はいない。そしてフォードの名を一々記憶せずに車を運転している人が大半である)。

Sunday, December 12, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十八章 何物も世界を変えることは出来ない/エリートも時代の寵児も神にはなれない、否なったとしても

 誰しも野心家であるなら、如何にして自分が想念し得る理想の世界へと、現世界をシフトさせられるだろうかと考えるだろう。これは別に狂人の発想ではない。意外と普通の考えなのである。
 そういう風に世界を変えてみせるとか、見せたいとか思うこと自体にはある自然さがある。つまりそういう風に世界と関わる意志と欲求があるということだからだ。
 しかしそれは容易ではないし、又今迄それを実現させてきた者がある意味では一人もいなかったとも言える。アレクサンダー大王も、チンギスハーンも、ヒトラーも世の中を変えることが出来ただろうか?
 ではそもそも世の中を変えるということは一体何を意味するだろうか?
 それは恐らく私の考えではカリスマでも支配者でも独裁者でもない。それはあくまで人間生活の一部を変えるということを意味し、それは人間の習慣と技術である。
 この二つはある部分では確実に世界を変える。或いは変えてきた。
 如何なる時代の寵児も、少なくとも現代では出版界、マスコミ全般を総動員しても、その手法と、既成概念の踏襲から世の中を変えているのではなく、世の中の動向(精神史的にも生活技術論的にも)反映しているのであり、一時的な大衆啓蒙への幻想の中でカンフル剤として作用しているに過ぎない。
 何故ならそういった革命的行為の様に映る著述内容や講演内容、或いは時代の旗手としてのイメージ自体が旧態依然的保守主義の向こうを張る形で既に保守勢力と手を結んでいるからだ。
 しかしそういった動向を支えるのが仮に大衆と呼ばれる層であるとしたら、そしてその時代の寵児を持ち上げつつ、その著作を購入することを通して出版界やマスコミが新刊本を刊行し、テレビに出演させることを通して、その寵児の持つイデアを普及させようと世間一般が動く時、それを動かしているのは彼を寵児として認可する消費者の行動であり、彼の本を読むことを習慣とする諸決意なのである。
 その意味では永井均が朝日カルチャーセンター講義で述べていたデカルトのコギトが世界的に哲学界に普及していって、その後の哲学動向の幾ばくかを大きくシフトさせたとすれば、デカルト自身のアイデアもさることながら、それを運んできた文字であり言葉である、という問題提起は大きな意味を持つ。
 寧ろデカルトがコギト・エルゴ・スムと言った時、それを意味化してきたのは、或いは哲学命題的に価値化してきたのは、それを文字化した制度であり、その言葉自体である。その意味では仮にコギトの神がデカルトであったとしても尚、デカルトという神自身は、自らがその言葉によってなした行状が後世にどういう波及力を持っていくかということまでは予想し得なかった。つまりその事実こそが神とは万能ではなく、有限の力しかないという永井均の「私、今そして神」の主張を裏付けることとなる。
 従って仮に時代の寵児となっていったとしても尚、その寵児が自分の考え出したアイデアが波及していくその全過程を予想することは出来ない。車が現代社会の必須アイテムになっていく過程の全てをフォードが立ち会うことが出来なかった様に。つまりフォードは確かに自動車を発明した。しかし彼の発明がどの様に世界を変えるかということまでは想定出来ず、世界を変えたのはフォード自身ではなく、全ての自動車ユーザーであるドライヴァー達であり、そのドライヴァーの存在によって恩恵を被った乗車した人達であり、その利便性を享受することを習慣化した全ての人達自身と、彼等による利用習慣自体である。
 その意味では学者や専門技術者達は一番そのことをよく知っている。何故なら彼等は自分達のしていることが後世にどういう波及力を持ち得るかを想定することは出来ないし、又出来るのであればそれをすることを躊躇せざるを得ないとも言えるからだ。
 かつてノーベル賞受賞者全員にパネルディスカッションさせた所、一切話しがちんぷんかんぷんだったという話を聞いたことがある。当然であろう。彼等は全て別箇の分野のスペシャリストであり、であるが故に相互に共通した経験を持たない。共通した経験を持たぬ者同士が学際的な意見交換をすることが出来る筈がない。そしてそれを一番学者達本人が知っている。或いは技術者、エンジニア達本人が。
 経験が共有されないということは分析哲学でよくある、ある人達が共に同じ雲を見ていても、それが同じ様に見えているとは限らないということとは違う。そういうレヴェルで言っているのではなく、共同注意的にその場に居合わせればある程度の共通了解を得ることが可能だという意味で、である。つまりそれすら違う専門家同士では物理的に実現不可能である。その様に経験が共有されぬ限り、本質的に学際性自体は成立不能である。
 従ってそれ等専門的技術、ノウハウ全体を統合することも不可能である。又それでよいと知っている者のみが専門的フィールドで成功を収めることが可能である。
 ロボット工学者達が仮に会社のフロント嬢のロボットを如何に精巧に作り上げたとしても、終日そのロボットと共にいて尚且つ絶対にそれがロボットだと気づかないままでいられるということ自体が決して実現不可能であると知っていればこそ、そういったロボットを開発し得るのかも知れない。
 何故なら、もしそれが可能だと思った瞬間、それ以上精巧なロボットを開発していくこと自体を、その実現による波及力によって不気味な社会が到来するのではないかという恐怖と共に躊躇するかも知れないからである。安穏ともっと精巧なロボットを開発することに勤しめるのが、それが一時のマジックでありフェイクの範囲を超えないことを彼等が一番自覚しているからである。

 もしこの世の中に本当にエリートと大衆というものの差があるとしたら、エリート達とは端的に、自分達がどんなに努力しても世界を本質的に変えることなど不可能で、絶対に微々たる改革しか遂行し得ないということを知っている者のことをのみ言うと言っても過言ではない。
 アーティストだって文学者だって、自分が作る作品が世界を変えられないことを重々知っている。ほんの些細な共鳴しか創出し得ないことを知っている。そしてそれは諦観とかニヒリズムではない。そう思っていられないのなら、寧ろ精神病理的状態である、と言える。
 逆に大衆というものが本当にこの世の中に存在し得るとしたら、何時まで経っても真剣に人間とロボットの境界を無くせ、何時かロボットと結婚して幸福になり得る社会の到来を夢想することが出来るということかも知れない。しかしそれはそれである種の精神病理的状態であると言える。
 ここで示したエリートの本当に世の中が変えられるという幻想と、何時かエリートによって世の中が完全にユートピア(それがその者が夢想するユートピアであり、決してそのユートピア自体は他の人達との間で共有されていないということが問題なのである。それは極めて独我論的な夢想なのであり、公共性も普遍性もないのである)が到来するということを期待し、夢想するということがもし何らかの形で接合し得たのなら、まさに共同幻想的なリンケージが発生し、かつてのナチズムの様な状況の到来を意味することになろう。
 従ってそういった精神病理的な夢想や夢物語を語る者をエリートとは通常見做さない。もし実在的に、現実的にエリートが必要とされているとしたら、それは現実の些細な局面での意識改革のみ可能であるということを熟知していて、それを啓蒙しようとしつつ、全ての人にそれを伝えられないことをも熟知しているということになる。勿論中には完全に世の中が変えられると夢想している人もいるだろう。しかし実際上彼等は絶対に世の中に一定のパワーを獲得することは出来ない。つまり出来ないからこそ、彼等は夢想者なのである。
 フォードは自動車を発明したという意味では、コギトの発明者でもあるデカルト同様神である。しかし神にも永井均が言う様に限界があるのである。そしてその限界を何かを発明しようがしまいが、最初から知っている者のみをエリートと呼ぶべきなのであり、それが出来るのだと大衆に思わせる者、又自分自身も大衆からそういった要望を付託されその気になり、実現可能性を信じる者をエリートとは呼ばない。又呼ぶべきではない。それは扇動者と呼ぶべきである。
 従ってゲームソフトの開発者達は恐らくゲームによってもし世の中を変えられるとしても、それが極一部であることを知っている。ゲームソフトを日常生活で活かすことの出来る人も一握りだし、ゲームソフトの世界を現実であると受け取る精神病理的状態の青年達は世界の何も変えない。変えないが故にネトゲ廃人となっても、それはゲームソフト開発者の目論見の範疇である。勿論全ての人達がネトゲ廃人になる様な事態になっていった時に初めてデカルトのコギトやフォードの自動車の様に、本人(神)さえその波及力を予想し得ないということになるのだが、実際上ゲームソフトはそこまで普及しないだろう。事実それをしない中年や老人だけでなく、青年も大勢いるからである。
 もし世の中全体がネトゲ廃人になったら、まさに世の中の人全員が喫煙により寿命を短くしていく様なものであり、ゲームソフトは一切収益を上げられなくなるだろう。つまり一部の人達がネトゲ廃人となり、一部の人達が有効利用出来るということを彼等開発者達は知っていればこそ、それを何時までも開発し得るのだ。それはアーティスト達が自分達の創造する作品世界が極めて一部の人達だけに愉悦を与えると知っていればこそ、アートに全く関心のない人達へ啓蒙する使命を持ち得、自分達がそれなりにエリートとして君臨出来ると知っているからこそ、ギャラリーや美術館と協力し合えるのと同じである。
 その意味ではアートのモードも自動車のエンジンも哲学命題であるコギトとかそれ以外の多くの概念も、全て、それを発案した人を神としつつも、それ自体自立して、それを利便性として享受する人達と共に、そのものの力によって習慣の一部を若干変えていくことで充足されている。
 だから波及力という観点からmemeとのたまったリチャード・ドーキンスのもう一つの謂いを借りれば、ヴィークルvehicleであるデカルトやフォード(という神)を借りて、コギトといった概念や自動車の利便性自体が神から自立してユーザーの利便性享受と合致して、その事実が世の中を変えていくのである。勿論一部かなり変えるが、別の一部は一切変えないという形で、である。
 ところでこのドーキンスのmemeもvehicleもかなり大きく波及した概念である。しかしそれすら未だにアインシュタインの相対性理論(特殊、一般共に)が完全普及しているとは言い難いのと同じ様な意味でやはり一部である。そのこと自体のアレゴリーとしてもアイロニーとしてもこれらの概念が君臨しているということも実に興味深い。
 そして恐らくアインシュタインもドーキンスも彼等の提出した概念が全ての市民によって完全理解された段階で完全に過去のものとなり、まさにガリレオ・ガリレイが狂人ではないと現代人が知っている(狂人以外)様な意味で一般化されるのである。その段階では彼等は既にエリートではなくなる。そしてそこには大衆もいない。
 従ってエリートとは大衆がいる、という幻想だけは完全捨象仕切れていない人ということにもなり得る。そして自分をエリートと考える人がもしそうであるなら、いっそ自分自身がどんなに高い社会的地位にありながらも、一部ではそれを恥じていて、或いはその微力であることを熟知しているということになろうか?すると再び翻ってエリートとは自分自身ではエリートとも思っていないし、大衆が向こう側にいるとも思っていないが、周囲が彼(女)自身をエリートであると見做したくなる、そういう存在であるということになる。
 しかし前章でも書いたが、実際上政府指導者層もジュリアン・アサンジ氏もそれなりにエリートであったとしても尚、彼等自身双方共に情報摂取という人類の不可避的現実自体に乗っ取られているということこそが極めて問題であり、苛烈な事実なのであり、それは現代人自身がパソコンを使っているのではなく、既にパソコンに使われているのだという苛烈な事実と同様、問題にすべき論点とはそこにあるのである。
 次回はその点に就いて考察してみよう。

Saturday, December 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十七章 世界の中に巣食う短絡した思考と未来予想

 中国人反体制作家、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式が本人不在、そして賞金受け渡しなしという異例の事態によって執り行われた。本質的なことは、中国という巨大なナショナリズムとその中での個という意識の間に大きなずれを顕在化させるのに充分なテクノロジーと情報化社会が既に世界中に到来しているということである。従って北朝鮮も今のままの体制で何時までも続くということはかなり難しいのでは、と容易に未来予想を立てることが出来る。
 未来予想はある意味では形而上的に歴史を解釈していく必要がある場合もある(いつもではない)。とりわけかなり不測の事態が延々と反復させていく様な現代社会では計算的数値にばかり頼っていたらリーマンショックの様な痛烈な竹箆返しを食らうということが大いにあり得る。
 しかし重要なことは世相とか時代の空気が資本主義社会の経済的動向を決定し、各個人の行動を規定しているということはほんの一部であるとだけは言いたい。
 例えばアートは実質的にはビジネス的には画商や美術商(アートディーラー)や批評家(クリティック)、そして学芸員(キュレイター)によって運営されているかに見える。しかしそれは大いなる資本主義社会の幻影であり、実質的には個以外の芸術創造行為以外によって培われてきた試しはない。それは出版ビジネスにしても同じである。出版社という極めて実体のない媒介がさも出版界を動かしている様に見えるのは、あくまで表層的な現象に過ぎず、文学であれ批評であれ専門学問や技術であれ、全てそれぞれの分野に取り組む個の営々たる努力と地道な行為によってのみ営まれてきたのだ。
 政治に目を転じてみると、鹿児島県阿久根市での竹原信一市長リコール成立失職に就いて言えることとは、阿久根市の駅にかつて停車していたJRの特急が新幹線開通により、廃止され、しかも阿久根市には新幹線が停まらないという、あくまで交通機関の経営上での経済効率主義だけが、延々と繰り返されてきた市議会と、市議会への市長による出席拒否、専決処分などの抵抗主義的サボタージュとの不毛な対立の持続を招聘しているとさえ言える。
 否違うのだ、ああいう対立自体が名古屋市議会と河村市長との対立と同じ様に日本政治を地方から変革していく道筋になっていくのだ、という肯定的な見解もあり得よう。つまりその為に阿久根市に特急が停車しなくなったこと自体は逆に禍転じて福となす的事態であったのだ、という考えである。
 しかしそれにしても、それでは余りにもマスメディア自体の報道活性化だけを狙った世界の構図、つまりマスメディアが他人のあれこれ、自分自身の生活実体とは殆ど何の関係もない多くの余分な情報を摂取させることだけでアドレナリンやテストステロンを我々に放出させていく様な、要するに生理的システムとしてマスメディアによって我々の知的好奇心を作り上げているのだ、という妙な現代社会の機能維持論が提出されかねない。
 その一つの顕著な例こそ市川海老蔵が被害を受けたとされる事件の連日の報道である。梨園という特殊社会が抱える苦悩と矛盾は例の大相撲の野球賭博問題とも共通した日本国民の情感を誘うものがあるというマスコミの目論見が露呈している。
 つまりマスコミであれネットインフラであれ情報化社会の情報送受信システムの前で我々はいつしか短絡した未来予想という思考に絡め取られてしまっているとも言えるのだ。
 それはまさに大学機構全体が学問を運営してきたという幻想を大学関係者に植え付けてきたことと同じである。或いは学会自体が学者の思想を構築してきたのだ、という考えである。それは断じて違う。大学は教育機関であり、後進の育成という機能はあるが、学問自体はあくまで大学にも所属する学者や研究者という個人である。又学会はそれらの専門家が利用すべき組織にしか過ぎない。それは極めて便利であるが、それ以上ではない。またそうであるべきである。
 しかし実体は違う。対人関係的、組織主義的ヒエラルキーは厳然と聳えている。それはまさに新幹線事業の経営成功の為に阿久根市市民の利便性を四捨五入していった経済効率主義とも全く構造は同じである。個の為の利便性がまさに個を締め付け、寧ろ利便性自体が個を呪縛する様になってしまっている。だからこそ中国国家は共産党一党支配によるヒエラルキーによってあれだけの経済発展を遂げているのにも関わらず国際秩序から、市民の自由と権利までも搾取してしまっているのだ。それは国家という利便性自体がそれを享受する個々の主体を無視し、利便性自体の維持がその享受者全体を呑み込み優先してしまっているのである。
 ある意味ではジュリアン・アサンジ氏別件逮捕問題も極めて重要な問いを孕んでいるが、情報という利便性自体が我々を個による主体的決意以前的に優先してしまっているということ自体に、アサンジ氏も、彼を付け狙う大勢の国家指導者も同様ではないだろうか?
 解剖学者で思想家である養老孟司による言葉を借りれば「ああすればこうなる」式の単純な未来論理予想が色々な事物の間にある現象や微細な機能を無視して無効化させてしまっているという実態が、中国にも阿久根市にもネットインフラにもマスコミにも浸透しきってしまっていると言える(まさにNHKでさえ市川海老蔵関連のニュースをトップニュースに持っていったこと自体にそれが兆候している。あの酒井法子報道の時と全く同じである<今は全く彼女の事など世間もマスコミもどうでもいい態度である>)。ほとぼりが冷めたらこの梨園スターのニュースも次第に影を掠めていくに違いない。その時には又別のニュースが踊るだけである。
 勿論劉氏ノーベル賞受賞やアサンジ氏逮捕ニュースは、その類ではない。或いは阿久根市や名古屋市の市長と議会との対立もその類ではない。一つのニュース報道の中にはその種の世界的規模、国内規模の重要性と、話題性として一時息抜きをする為のゴシップとが入り混じっている。それはそれでよい。問題はそれらの現象全体を短絡的未来予想の下で報じられたことを一々真に受けたり、気分をその都度換えていったりする我々個の生活のリズムが、我々自身の思考力をもっと長期的スパンで物事を推し量ったり、もっと大局的視点から想定して思惟することを妨げてしまう巨大な誘引材料となっているということである。
 否年に何度も有名な祭のある京都、奈良、鎌倉、川越、成田といった古都や城下町の観光と同じ様な祭気分だと思えばよいという意見もあるかも知れない。<地方毎の文化芸能、伝統行事は違うものとも思えるが?なら梨園スターだって伝統芸能だから重要なニュースじゃん、とも言えてしまうのだが>勿論ニュースで毎日学術的な内容、文芸的な内容だけを流せ、などと言っているわけではない。
 しかし大局的視点を全ての個だけでなく政府や国家全体の動向に於いても持たせなくなっている様な状況自体はやはり経済効率主義一辺倒と同じ様に批判されて然るべきではないだろうか?
 一番重要なことは我々自身が未来を作っていくということである。従って「~になれば~になる」式の短絡的未来予想を余り頻繁に日常的に慣れきってしまうことは危機以外ではない。従って我々はやはりかなり意図的に思考自体の利便性に我々自身が絡め取られてしまわぬ様に常に神経を研ぎ澄ましていく必要は現代社会にはある、と言えないだろうか?
 その意味では劉暁波氏ノーベル平和賞受賞関連のことや、ジュリアン・アサンジ氏逮捕関連のことは余り単純に考えるべきではない。勿論梨園スターのスキャンダルもあっていいし、スタータレントの文学賞受賞と、賞金辞退と寄付のニュースがあってもいい。しかし思考の利便性自体が主張し始めて我々自身によって主体的に未来を創出していくという気概を機械的にマスメディアの動向が乗っ取ってしまう事態だけは忌避しなければならない。
 まさに短絡的思考に慣れきって「考えない習慣」をつけることは案外快楽的なことなので、我々による未来創出という想念の前では危機なのである。
 未来は予想すべきものではない。創出するべきものなのである。

 付記 今回の問題提起は大衆とインテリ、エリートという区分けと棲み分けと社会的共存の問題へと移行させていく価値がある様に思われる。(河口ミカル)

Monday, December 6, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十六章 いじめの精神分析

 「いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない」と前章で述べた。それはあくまでいじめられる側がいじめられていると認識していることに就いての記述である。
 いじめとは端的にいじめられている者が、必要以上に「虐められているという被害者意識」を告白(或いは表明)することに於いて、それを表明された者が「虐めている加害者、或いは虐めを黙認している無責任者」としての烙印を押されることへの反発心から「そういう風に思うお前が意識過剰だ」という主張となって、その表明を快く受け入れず、封印しようとする、或いは無視しようとすることに起因する。これが最初のいじめの発生現場である。
 要するに「巧く立ち回れないお前が悪い」という<いじめられている被害者の肩を持つこと>を忌避しようとする普通者の態度がいじめられている側を意気消沈させることから いじめ は顕在化するのである。
 従って虐める側からすれば、虐められていると意識過剰となっている者を排斥したい、擁するに「うざったい」「うざい」気分になっているということ以外ではない。
 皆自分自身が虐められたくはないし、要するに仲間外れになっていく気分だけは味わいたくはないという気持ちから、次第に自ら虐められている(仲間外れにされている)という表明をする者を自分の近くに寄せ付けておきたくはない、遠ざけておきたいという気持ちから、その者に多少邪険な態度を取る。するとそのことを、そうされた者が意識過剰に「俺を置いていかないでくれ」と縋る反応し、そうされた者が益々その者を遠ざけて無関係なことと自己をしておきたいが故に相手に邪険な態度を取るという悪循環こそが いじめ の本質的構造である。
 だから意外といじめとは単純な心理なのである。つまり虐める側にしてみれば、自分自身を他者一般、周囲の人達から虐められる様な立場や状況に陥れたくはないが故に、少しでもそのことに対し とろい奴 を余り自分と親しい間柄だと周囲からは思われたくはないという単純な自己防衛心に根差す。そして虐められる側としてみれば、何故それまでは結構話に乗ってくれていたのに、ある段階から次第に邪険になっていくその様変わり自体の意味を疎いものであるから気がつかなくて、益々両者の距離が心理的には遠ざかっていくことなのだ。
 従って虐める側は虐めているという意識は極めて希薄であるにも関わらず、虐められる側は極めて深刻なのである。
 だからいじめられることを避ける唯一の方法とは、虐められているという気持ちにならなければいいのである。つまりいじめられることを避けたいが為にいじめられているという告白を聞きたくないという普通の人の心理を汲めば、いじめられているという告白など誰にもしなければいいのだ。又仮に相手を買い被ってそういう告白をも聴いてくれるだろうと踏んでそうしたとしても、その者が自分を避けていくようになったとしたら、それは向こうもいじめられている側であると周囲から認識されたくはない、つまり大勢を敵にしたくはないという保身を取る弱虫なのだ、と理解して余り必要以上にその者の行方を追わぬ様にする、ということ以外にはない。
 従っていじめとはいじめられる側が過剰にいじめる側に聖人君子的に期待し過ぎることから、逆にそれが裏切られた時の幻滅によって、相手を冷たい奴だと思う心理に由来する。世の中に神様の様な人など一人もいない。しかし苦悩している時その話を聴いてくれる人とは神様の様に思える。しかしそういった告白を余り重ねて相手にしていくと、相手も次第にうんざりし始める。自分だって悩みがあるのである。それを代わりに聴いてくれるということを常に自分へ悩みを告白する者に期待することはなかなか難しい。それが出来ないからこそ相手はいつも自分に悩みを告白してくるのだ。相手は自分を強い奴だと買い被っている。これがいじめられていることに於ける苦悩を告白される者の立場から見た心理である。
 要するに過剰に存在理由の大きさを勝手に他者から期待されることの鬱陶しさ、しんどさが、端的にその期待してくる者に対して邪険な態度を取らせるということは極めて自然なことである。
 つまり いじめ とはいじめられる側に最初の責任の発端がある場合がかなり多いのである。しかもそのことはなかなかそのいじめられていると意識過剰となっている者へは直接は言い難い。これが益々自分で自分の意識過剰、つまり他者依頼的に他者存在理由を自己にとって期待し過ぎること、そしてその期待に添えない旨を暗に示す相手の態度を邪険と受け取ることから、益々両者の間に溝が開き、その溝の深さが修復不能となった状態を、我々はいじめと呼ぶのである。
 端的に誰しも他者から過剰に期待されたくはないと同時に、他者から遠ざけられたくはない。であるが故に他者とは常に相手が誰であろうとも適度の距離を保とうとするし、又格別に誰かの味方にもなりたくはないし、格別に誰かの敵にもなりたくはないという心理が普通なのである。
 その普通さを必要以上に聖人的に解釈して期待し偶像視することから、次第にその期待する者を鬱陶しく疎ましく思う様になるというその態度への過剰反応こそが、いじめられている者の心理に発生することなのである。
 だから本来ならいじめられている者にその旨を巧く伝える者があれば一番いい。しかしこういうロールとは実に気が重いものであり、適当に全てを受け流して自分自身を自分で守ることの出来る成員達全員はそういうロールを自ら買って出るということは余りないのである。
 だからこそ時々悲劇的な結末を迎える。
 勿論いじめる側が正しいと私は言っているのではない。虐める側も度が過ぎれば立派な罪である。しかし恐らく一人一人の加害者は、自分自身が被害者にはなりたくはないという気持ちだけ一杯であり、そんなに意図的にいじめてやろうという気さえない。勿論中にはそういう悪辣な者もいよう。しかしそういった悪辣者に対しては必ず批判勢力も発生してくる筈だ。しかし当のいじめられてきた者にとっては(とりわけ子供は)そんな冷静に全ての事実を俯瞰することは出来ない。従って子供社会の場合は教師の立場である大人の監督責任であり、現場の指導責任である。
 つまり大人なら、相手が自分から次第に遠ざかっていくことの遠因に、自分が相手を過剰に期待し過ぎて、頼り過ぎて必要以上の告白などをしてしまったから、或いは相手は自分の方の悩みも自分から相手へ告白しなければいけなくなるのではないか、という億劫さと臆病さを持ち出すのだ、つまり相手は真摯に自分に接し過ぎることを嫌がっているのだ、もっとビジネスライクに接して欲しかったのだ、と相手の立場に立って理解することが出来るし、そういった心の余裕を人生経験上持てる。しかし子供にその心の余裕はない。子供は深刻化されてしまった問題に対し、それを別の形でストレス解消するだけの手段も力もないのである。
 従って周囲の大人があざとくそれを気がついてあげなければいけないのだ。
 又極めて重要な真理として次の点は指摘しておいた方がいいだろう。
 悩みとは人に告白して聞いて貰うことによって実は深刻化するのだ。つまり内的な苦悩とはパロール上でも何らかの形で言説化することによって明示されてしまうが故に決定的なものとなってしまう。これはほんのちょっとした思い込みさえ一旦口に出して人に伝えると「本当のこと」になってしまうこともある(デマなどはその最たるものである)ことからも理解されよう。
 従ってかなり深刻で自己の力によって修復可能ではないこと以外なら、余り安易に他者に悩みとは打ち明けるべきではない、と心得ておく必要は、特にビジネス的な意味で生き馬の目を抜く現代社会人にはある、と言うべきであろう。
 勿論子供に同じことを要求することは出来ない。しかし恐らく子供は普段から余り弱過ぎる大人を周囲に、或いは家庭で見ていると、自分自身も強くもなれないし、その必要も感じないし、大人を尊敬して悩みを打ち明けるということもしなくなる。つまり子供の側から大人に見切りをつけてしまうのである。従って自殺することだけが唯一の解決法となってしまうという悲劇も招聘されるのだ。
 大人が容易に配偶者の前で悩みを打ち明け過ぎるのなら、気をつけるべきである。子供のいない場でそうすべきである。子供は大人の態度の逐一を観察している。大人が大人らしく振舞えば、或いは少なくも子供にそう思わせていられれば、必然的に自分で修復不可能な悩みを大人に相談する様にもなろう。まず大人が強くなり、相手に対して過剰期待しない思い遣りを持てずに、誰が子供の苦悩を除去してあげることが出来よう。

Sunday, December 5, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十五章 桐生市小六女子自殺事件その他の社会的背景と情報送受信クラスター=閉鎖集団の問題

 教育現場では既に生徒達子供の心理を現場の教師自身が把握し損ねている。それが桐生市小六女子自殺事件や新潟県神林村や福岡県筑前町中学生自殺事件などに顕著であるが、地方部に於いて自殺を多発させている。これは既に情報化社会が極めて狭い範囲で営まれていて、その遣り取りの時間的な過密さから心理的に生徒達の心を蝕んでいる。
 世界中で既に国家権威や指導者層の権威が失墜しているのは、只単に彼等の無策によるだけでなく、もっと本質的な情報ネットワークによる意図的な情報漏洩、流出映像等によって組織、集団へ各個人が謀反することを可能としているネット情報発信行為の無限の可能性への惑溺による。
 事実上情報には国境はなく、それは国家権威レヴェルで情報統制を不可能化しているのと、情報行為の送受信自体が機密情報を維持していくことを不可能としている。
 従って我々内部では情報が機密化され保護されることよりは、誰かによって漏洩されることの方を期待する心理を構成してしまっている。 
 WikiLeaksの世界的規模での展開がそれを象徴している。従って件の航海士による流出映像は彼によらなくても、誰か別の個によって行われていたと誰しも想定し得る。
 しかしその情報を享受する個に於いては、リア充的な対人関係で情報を摂取しているのでも、送信しているのでもない。勿論部分的にはリア充的対人関係構築も可能だ。しかしそれはあくまでネットインフラを通したヒューマンリレーションに於いては部分的なものへと後退している。
 故に必然的に情報行為はワイドに摂取するが、それをリア充的に伝え合うということに於いては極めて限定的なサークルへと帰属させてしまっている。その極めて閉鎖的なクラスターが世界中で一見世界を情報ネットで繋げている様でいて、その実小さなクラスターに身を寄せ合っているという現実を作り上げている。それが子供の社会にも雛形として反映している。
 子供社会とは大人社会の情報送受信閉鎖性の雛形以外ではない。
 つまり閉じてしまっているサークルというヒューマンネットクラスターから既に多くの市民が逃れられない様な意味では、それを横目で見られるのは自分自身ではさして多くのフォロウをツイッターで維持せず、しかし極めて多数のフォロワーを外部からは獲得し得る著名人に限定されていってしまう。彼等は全ての情報をリア充ではなしに、横目で見ているが、それをフォロウしているツイーター一般はあくまで違う。極めて限定的な双方向的送受信サークルというスモールクラスターメンバーでしかない。
 実はその小さなクラスターに身を寄せ合う図式をWkiLeaksなどの経営者達は知っている。つまりそういう閉鎖的な送受信という方式が世界中に浸透していることを前提に、そこから情報漏洩を吸い取ることを目論みているのである。閉鎖サークル(ツイッターの常連からミクシーにまで至っている)では基本的に内部のルールに従わざるを得ないが、その閉鎖的な小社会成員的気分とは時として、そこから逃れたいという欲望を産出する。
 それが時として匿名の情報漏洩的誘惑へとネットユーザーを誘う。情報クラスターは万民に等質の情報を受け渡すが、それは事実上一方通行であり、こちらからは特殊情報しか発信して外部全体に価値ある情報として認知され得ないという暗黙のピアプレッシャーが、時として組織、集団謀反的漏洩行為へと誘引する。
 子供社会での自殺は実はこういった閉鎖サークル、例えば小学校六年生の同級生の間だけで過密に送受信の遣り取りを行わざるを得ないという閉鎖送受信クラスター内で身を寄せ合うという日常的習慣化した情報行為によって、そこからの逃れられなさが加速化させている。
 等質情報が飛び交うということと、その情報の存在理由の特殊性という規準に於ける差異、つまり凡庸な情報と、価値ある情報との差異は歴然としており、内実的には自己内に閉鎖空間的にウェブ上で知覚的に対峙している個と、その個をちっぽけで無価値なものへと後退させる特殊情報(例えば尖閣列島中国漁船海上保安庁船への衝突映像とかの)の世界中の市民、ユーザーへの等質的受け渡しという二律背反が次第にユーザーを虚無的気分へと持っていく。
 どんな情報も摂取し得るが、こちらから発信する情報の価値は微々たるものであるという認識を持たずにウェブサイトを利用する者は、基本的に現代社会ではゼロである。この事実こそWikiLeaks等の経営者達の行為を再考する必要へと我々を導く。
 つまり万民に平等に受け渡されるリア充の無化こそが我々の社会を寧ろ自己閉鎖的気分へと持っていく。情報に支配されている気分を例えば全ての2ちゃんねるユーザー、ツイーター達に齎すのだ。ニコニコ動画やYouTubeといったメディアが増殖していけばいくほど、リア充的実感から遠ざかって行く。その情報支配からの虚無的逃れられなさこそが小児自殺やいじめの類発を招聘している。
 いじめは情報送受信クラスターの閉鎖的結社性に依存している。外部の人間、例えば小学校六年A組の生徒の間での送受信は基本的にB組の成員には無関係である。それは大人社会ではイントラネット的な送受信クラスターによっても実現化している。
 しかし事実上B組にも我がA組と等質の情報は受け渡されている。そこには違いがない。しかし自分はA組であるなら、B組の成員へと悩みを仮に告白しても、閉じたA組内での遣り取り自体から解放されるわけではない。それが全て携帯などを使った閉鎖送受信クラスターによって支配されていると、次第に子供社会内ではその逃れられなさを自己内で深刻化していってしまう。
 悩みを外部に打ち明ければ打ち明けるほど四面楚歌状態を招来するのである。
 43歳の航海士による流出映像事件は従って彼本人による孤独な決断であったればこそ実現したが、そのことにより彼は最早組織の成員たることを今後許されまい。つまり外部へと情報を流出する組織、集団謀反行為はその行為によって等質化された情報が外部全体に広まれば広まるほど閉鎖サークルの情報送受信クラスター内部では決定的に非成員としての烙印を押される。
 それは情報自体が一種のサリン的ロールを担ってしまっているということ以外ではない。この情報価値のサリン化の前では我々は既に一個人の情報が齎す結果を常に想定せずにネットを利用することは出来ない。それは閉鎖サークル内であってさえ同様である。そこがリア充的対人関係のクラブロー的性質との最大の違いである。
 子供は大人と違って外部に存在する別のクラスターに自らの意志で参入する機会を作ることが出来ない。その出来なさが自己帰属クラスター内での閉鎖性を人生に於ける全体化してしまう。いじめの本質とは実はこの情報送受信クラスター=閉鎖サークルの成員としての誇り、対外部的差別化の意識が作り出す。
 それは自分自身が公務員であるとか、官僚であるとか、公認会計士であるとか、弁護士であるとかそういう職業意識と等質のものである。人間に帰属意識がないのであれば、一切のいじめも発生しない。いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない。
 繰り返すが大人は仮に一つの情報送受信クラスター閉鎖サークルでいじめに遭っても、それ以外のサークルを掛け持ちすることが可能である。子供にはそれが出来ないということを現場の教師全員が疎いということは出来る。つまり子供は既に認知レヴェルでも思考レヴェルでも大人と等質の情報送受信者であり、クラスター内での閉鎖的ヒエラルキーのネットから自由ではいられないということをもっと切実な問題として現場教師並びに学校経営者達は心得ておくべきなのである。

Thursday, November 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十四章 人の悪口、陰口と世論調査

 私の嫌いで信用出来ない人とは「私人の悪口を言う人って嫌い」と言う人である。
 何故か?それは二つ意味においてそうである。
 まず人の悪口というのは全く言わないでいると、特に生き馬の目を抜く様な集団内の会合、組織内会議などの連続する日々に於いて、極めて息苦しくなるし、ストレスも充満する。とりわけ自分の集団内での立場が芳しくない時、或いは自分と意見的に合う人や同調者が少ない場合などはそうである。日頃のストレスだけが溜まる重要な場で息をつかずに何かを討議したり、プロジェクトを進行させたりしていく時には、時間外にストレス解消を巧く日常的に配分していく必要は絶対にある。それなしにいると、次第にフラストレーションが溜まり精神衛生的によくないからだ。意気投合して同じ他者の悪口を言い合えるということは、端的にかなりいいことである。
 しかし重要なことは、ある人の悪口をある相手を捉まえて言って、その者が憤ったり反意を示したりしない様な相手を直観的に選ぶ必要がある。これは結構難しい。何故なら相手に誰かの悪口を言って、それに同調して貰えるということは、色々な意味で、つまり思想的傾向から性格から何から何まで阿吽の呼吸で理解し合える部分がなければ駄目なのであり、そういった相手を選び取ることはかなり直観的である必要がある以前に、そうでなければ出会えないものであるからだ。それはある程度運命的出会いでもあり、生涯巡り合えぬ者もいるだろう。それはそれでよい。
 さて私が人の悪口を言うことを嫌うと言う人を嫌いで信用出来ない二つ目の理由は、端的にその意見自体が論理的に矛盾しているからである。当然であろう。何故なら人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。
 要するに差別する人が嫌い、とか、人に厭な態度を取る人が嫌い、とかそういった全ての言説は差別する人への差別であり、厭な態度を取る人へ取る厭な態度以外ではなく、その事実に気付いていない段で、積極的にその者によって批判されている差別者や厭な態度を取る人以上に寧ろ始末に終えない。
 さて人間関係とはある意味で、我々はそういった一緒に誰かの、勿論厭な人への悪口を言い合う相手を探す為に必死に集団内で動き、仲間を作っていっているということなのであり、それを外れる如何なる人間関係も、社会も、共同体もない、と言っても過言ではない。
 只それが集団の人数が多くなり、規約、規則、公約が大きくなればなるほど、巧妙にその人間の対他者観に於ける精神実利的な本音性を隠蔽していくのである。まさにそれが地方公共団体とか国家とか民族とか社会とかなのである。
 従って本音を一切言わないままで、実はそう言わずにいる(本音は言うものではないと直接誰かに言うということもそうだし、本当に心の中の本音そのものを安易に人には告げないでいるということ)人同士で皆のそれぞれてんでばらばらな本音を「一応体裁上では」守りましょう、つまり最低限皆の共通するところではどの様な他者にもプライヴェートな空間は守りましょうということが、公的規準なのであり、それを皆暗黙の内に理解している(現実には)。
 さて問題なのは、しかしこの社会も、この国家も、この民族も実は極めて個人と同じ様に常に誤りを犯すということだ。しかし個に於ける粗相に対しては誰しもとやかく言い、それを悪いことであると思わないのに、それがかなり多くの人数となり、ある纏まりになっていくと(つまり集団化、組織化されると)次第に容易に本音を敵対者同士でも言えなくなってくる。それはある個人を名指しして気の合う友人同士で悪口を言い合うことと違ってきてしまうのだ。
 だから例えばマスコミはかなり頻繁に世論調査をしては、テレビ、新聞などでニュースとして、記事として視聴者や購買者に流すのだ。しかし重要なことは、ある時節に於いて、ある責任者自身による恣意的判断によってその世論調査自体が実施され、その結果を情報として流すということ自体に纏わる意図とか方針は一切見えてこないし、又公表されない。実はここに極めて大きな問題がある。
 ここ数年何人もころころと短期間で総理大臣と政権が交代してきたことの理由の一つにも、実はこの極めて恣意的判断による世論調査の、しかも極めて頻繁に執行されてきたという事実に最大の理由があるとも言えるのだ。
 ある部分菅総理乃至菅政権自体が例の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関して映像を国民に公表しなかったという事実も、極めて今述べた世論調査によって国民が政権批判をするのではないかということへの恐怖がそうさせた、とも言い得るのだ。つまり政府、国会、否政治全ての局面で全ての関係者がこの世論という化け物(それは一切実体がないし、誰もその信憑性からその本質的正しさ、見解の意味の精度、世論の傾向自体の本質的一致があるのか、ということを確認も証明もし得ない)に右往左往し、まさに翻弄されている、と言っても過言ではない。
 それは国会答弁にも反映されている。APECでの総理の中国主席との対談での紙きれのメモを見て話していたことへの批判、ヨンピョン島での北朝鮮軍からの砲撃時での政府の対応に対する決然としなさ(北に対する非難を明確化していなかったなどの)、又小沢元幹事長への党内対応に対する批判(山本一太、世耕 弘成による参議院予算委員会内での質疑から)となって立ち現れている。まさにそれらは一切人の悪口を言ってはいけないという不文律だけを踏襲する為に人が誰とも本音を言い合わない状況を示唆さえする、国会内で見られる政治家による国民へのパフォーマンスだけなのだ。まさにそれを国会中継を視聴している国民が「そういう見栄を与党に対し野党は切ることを期待している」ということを前提とした「やらせ」、言ってみれば見え透いた猿芝居なのである。
 それはニュース報道にも言える。まずトップニュース自体が国民が「そういうものに一番今関心があるだろう」という想定が前提されているし、司法も裁判員の心のケアの為に死刑判決の出た被告に上告を勧めるという事態にまで発展している。端的に司法はつい先日出た裁判員参加裁判による初の未成年への死刑判決によって今後幾多の類似案件が似た判決になっていく可能性、つまり世論自体に司法も逆らえないという社会での不文律(事実上三権分立も、司法のケース毎に独立した判断自体も全て建前であり、世の中全体の世論<の様な雰囲気としてそれに従わざるを得ないものとして裁定者に迫る実体の実はない>に従属していずには存在し得ない)に沿って履行されている。
 つまり誰も社会自体の運営に、実はかなりのレヴェルで深くこの実体なき世論が強迫観念として全ての人達(マスコミ自身さえそうであるし、政治家、経営者、司法関係者等全て)に浸透している。そしてそれを問うことは一切しない。本当はまさにその実体なきものへの従属こそ問わねばならないと言える。劇映画の流行やゲームソフトの流行自体がその時代の世相を反映するのは、ある意味では世論迎合であり、ある意味では世論という実体なきものへの批判であり、その都度監督や製作者、クリエイター達の時代への読みと表現意図によって決定されているが、その決定が只商業資本として収益が回収され得るということだけが目的化してしまっている様な状態が社会全体に蔓延しているということだ。
 この際私は世論調査とはもう少し緩やかに、せめて三ヶ月に一度くらいにしておくべきであると全てのアンケートその他の調査機関並びにマスコミ全各社に提案したい。そうしないと、次々と不測の事態へと直面する政府や行政全体へ、常に不確実な世論迎合的な与野党の政争だけの顕現を招聘し、一切の実りある国民全体への利益として還元され得る国会も、政治的決定(政府その他による)もなされ得ないと思う。
 何故これだけ頻繁に世論調査をしなければいけないか?それは人の悪口を公的には確かにそうであるが、言ってはいけないことであるという不文律に余りにも心の奥底まで我々が強迫観念的に従属しきっているが故に、それを踏み外すことを恐怖して、その代理機能として世論自体が肥大化してしまっているからである。その肥大化した実体なき世論は一人歩きして、全ての権力者、権威執行者まで一切の悪口を言わない様に口を閉ざさせているのである。それは悪口を言う事を極度に忌避する雰囲気から作られ、それが陰湿な陰口へと変質し、次第にそれがスケープゴートを探し、その者が見つかると一斉に攻撃することに全ての外野席観客は右へ倣えするのだ(まさにその都度法相であったり、官房長官だったり、国土交通相だったり、文部科学大臣だったり、防衛大臣だったり、要するにその都度誰でもいいのだ、そういういじめ対象さえ見出せれば)。
 私は何も本音を全て言え、と言っているわけではない。一定の本音を全ての人に言い合える様な雰囲気を政治家、マスコミ各社経営者は雰囲気として作る努力をせよ、と言っているのだ。
 全くそつなく粗相をすることをしないだけの形式踏襲主義者だけが大手を振るえるが故に、言いたいことを噤むことが常習化していくのだ。例えば確かに前柳田法務大臣の地元広島でのスピーチでの内容の一部は不適切且つ思慮を欠いてはいた。しかしそれを必要以上に問責決議への持ち込む野党と、その野党の要請に容易につき従ってしまう与党内での予定調和的集団内見せしめ的態度の同調からは、実際形骸的秩序だけを維持していく姑息な政治家の保身本能だけが透けて見える。
 今こそ人の悪口を所詮相互に言い合える仲間を求めて我々は集団内を彷徨い歩き、色々な場所へと移動し、社会行動という形で動いているのだ、という物事の本質に、社会全体も所詮抗い難いのだという真理を見据え、下手に体裁だけを取り繕うことを控え目にするという心がけを持っていくべきではないだろうか?そうすれば政権担当者も姑息に国民へ情報を隠蔽するという様な見え透いた策を弄することなく虚心坦懐に政権運営を図っていくことだろう。
 下手な猿芝居にだけ執心しているが故に、子供達は一切大人を信頼も、尊敬もしなくなり、子供の社会の内部でじくじくと陰湿ないじめが進行していくのだとも言える。
 次回はその子供のいじめに就いて考えてみたい。

Monday, November 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十三章 先行きの見えない気分転換

 かつてジョン・ケネス・ガルブレイスによって「不確実性の時代」と呼ばれた頃我々は未だ何処かで未来に対して確固とした像をぼんやりとではあるが、思い描くことが可能なのではないかという期待と不安の入り混じった気持ちでいた。それはある程度経済的困窮が解決されれば、何とかなるのではないかという能天気な楽観主義が完全には棄て去られてはいなかったということを意味する。
 しかし現実にはそういった楽観的憶測とは裏腹に我々の社会は益々先行きが不透明な時代へと突入したと言える。その典型的象徴的事件こそ大阪地検特捜部証拠隠滅事件であり、尖閣諸島中国漁船衝突事故映像流出事件だったと言える。
 しかしそもそも先行きとは常に不安定であり、我々の心の奥底に不安を生じさせるものでしかあり得なかったのだ。しかし十数年前までなら我々は経済社会での、とりわけ商業資本主義と金融システムの良好な運営によって何とか少なくとこの先十年というスパンでの展望は立てられると思っていた。
 しかしその能天気な予想は無残にも打ち砕かれる。それがリーマンショックでありサブプライムローン問題であったと言える。
 それに加え現在では既に我々の社会を取り巻く環境に於いて極めて重要且つ必須のものであるところの情報に関する摂取の仕方と、情報流通の仕組みそのものが大幅に変わった。それは激変という形ではなく、寧ろ根本的情報の存在理由の変化である。
 例えばかつて我々は人類には基本的に全ての階層や全ての職業、全ての年齢の人達によって共有され得る価値や理念があるのだ、ということを疑うことはなかった。寧ろ全ての専門分野がその前提の下に推進されてきたと言ってよい。
 しかし今日それらの大前提自体が既にがたがたと音と立てて崩れ落ちようとしている。
 このことは寧ろスタートする時点から全ての命題を考え直さなければいけないということを意味している。
 情報は全ての人類にとって共有されるべきでもなく、そうなっていくことも寧ろ積極的に「不可能」であると言っていいほどの性質のもとなっている。つまり情報自体が最初から全ての個から見て異なった像であるしかないということを通し、自然科学などでは既にハイゼンベルグの不確定性原理などで物質の存在に対して突きつけられた命題を少し遅れて社会科学に於いてやっと到達した様な感がある。
 尖閣諸島中国漁船衝突事故があった時既に世界各国の首脳はその情報を得ていただろう。従ってその後のロシア大統領メドベージェフによる国後島訪問は、その期に乗じた行為であったことは明白だ。
 要するに鳩山前首相が普天間問題で困窮したが為に麻生元首相までの間に自民党との間で締結されていた案件が全て一旦棚上げにされたことによって、米政府との間に不必要な不協和音を奏でさせたことを各国の首脳は熟知していた。その流れで尖閣諸島の中国漁船衝突事故以降の全ての事件が起きるべくして起きたと言うべきである。
 従ってこの期に乗じて韓国までが竹島問題に言及してこなかったこと(今のところそうであるが)に、日本は韓国経済がかなり上向きであることに感謝しなければいけない。それは韓国国民の心意気に対してではなく、あくまで国際経済社会的偶然に対してである。
 しかし中国のバブルもいつかは(それがいつかは定かではないが、そんなに遠い話ではないと私は思う)必ず弾ける。その段階でインドか韓国かシンガポールかインドネシアかヴェトナムかが世界の経済動向のキー的存在になっていたとしても、その事実はそれらの国々もやがて昨今のアメリカや日本、そしてやがて中国すらも経験するであろう末路を辿るであろうという事実の前では極めて無力で非力な事実でしかない。
 一番現代社会で問題化されざるを得ない事実とは、全ての情報が次第に中央統括システムによって管理したり操作したりすること自体が不可能となっているということである。この事実はある意味では世界中の全ての国家、政府の存在理由を根底から揺るがす。何故ならそもそも情報とは国家や政府といった存在が何処かでは統括し得るという前提で全ての国家共同体は運営されてきたからだ。
 しかし恐らく今後あらゆる商取引に関するデータでも推測でも瞬時に世界を駆け巡る時代に於いて、そもそも商業行為上での秘密とか公平性というもの自体を死守する事自体が、インターネット、グーグル、YouTube、WikiLeaksなどが完全定着していなかった時代に於いてのみ成立し得る資本主義社会の規準であるとして全く無力且つ弊害とすらなってきている。
 しかしかつての様に全ての情報を何らかの形で制御し、管理していく為には世界的規模で今迄に行き渡ったインターネットインフラ、ウェブサイト全てを破壊するしか既に手はない。
 しかしそれは不可能である。何故ならそれは法的にも人類の自由への志向を侵害するし、商行為的にもそうである。つまり世界の隅々にまで浸透してしまっている毛細管現象的ネットワークは、その時点で世界のどの区域もどの機関も中央統括的立場に立つことは所詮不可能であるということを意味している。
 それはアメリカ政府であれ国連であれ実際上只の一つの中継点でしかないという地位へと脱落させる。
 かつて「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが反響を呼んだが、まさにパソコンを所有している各個人が全て世界の中心になり得るということを象徴していたタイトルだったとも言える。そしてその事実を今回の流出映像事件は物語っていた。
 そうすると、今後世界は商取引レヴェルでも何らかの案件に対する処理でも、例えば商取引に関わる企業や法人、或いは案件に直接関わる当該者達自身のその時々での利害という安易な発想では一切それらを推進することが不可能となっていく。何故ならそれらの行為の末にAであれBであれ想定され得る結果次第で世界はどうなっていくかということを瞬時に世界市民全体が予想し得るからである。
 従ってこれからの全ての経営者、政治家達はかなり慎重でかなり情報的戦略を駆使した決断をその都度出していかなければならないという熾烈な課題を突きつけられたことを意味する。
 ある意味では全ての秘密、全ての秘匿的行為を無効化させていくだけの力がネットインフラにはある。
 そしてそれはかつての様な大企業や大財閥的な存在、或いは長期持続的政権運営や維持自体を不可能とする、つまり安定的な政治経済状況を決して許さない、常に不安定でどちらへと転ぶか不透明であるという事態だけが恒常的に持続していく、そういう時代、否既に時代ではくずっとそうである様な状態に我々人類がシフトしたということを意味する。
 そういった状態へと完全以降してしまった人類の心には既にかなり大きな気分転換を余儀なくされているということが出来る。恐らく精神分析的に言えば、その気分転換はその先にその気分が打開されれば、あれこれこういうことが出来るとか、こういう気分になると予想することが不可能な、ある意味では常に気分転換を求めていくしかない、それでいてその気分転換は一切その先にどうなっていくという保証のないものとして我々人類が絶滅するまで持続していくのではないだろうか?
 このこと自体は既に我々人類にとって否定的ニュアンスとして溜息をついている暇を我々に与えていない。寧ろこの不安定を人類自身が愉しんいくしかない。つまり先行き不透明なのにもかかわらず、常にその不安定から脱出することだけを志向し、それでいてその先にどうなるということを絶対に予想し得ない様な気分転換の恒常的状態をゲーム感覚で愉しんでいくしか手はないのである。
 世の中には数多の文学賞や文藝賞が存在するが、毎年の様に多くの受賞者を輩出しているが、その中の何人が長期的に活躍する作家となっていくかは審査員となった作家も出版社も予想することは出来ない。それと同じ様に世界経済から一国の政治さえ、恐らく数年先までも見通すことなど出来はしない。
 従って今回のAPECによって日本が現政権時代に北方領土問題を解決し得るなどと誰も期待していない様に、常に一つの政権がなし得ることはほんの一つだけ、それは経済社会に於いて金融問題から税金対策まで全てを一挙に解決することが不可能な様な意味で、或いは情報機器的メーカーの戦略が何もかも全ての分野でトップに立つことも、新奇商品戦略を打ち立てることも不可能である様な意味で、極めて常に限定的で短期的目標しか立てられないということを意味する。
 つまり永遠に我々の社会も国家も政府も、理想的経済良好状態も到来することはないし、全てが解決し安定化することがないという不安定状態だけが恒常的に持続するということを意味する。
 しかしそれは実は人類が誕生した瞬間から決定されていたことなのだ。しかし戦争により、とりわけ人類発の核兵器使用というおぞましい出来事を経験した世界市民が第二次世界大戦終結時に、その安定を希求したのだった。しかしそれが一時の苛烈な戦争から解放された時代の人々によって思い描かれる幻想であったということだけが自明化していった数十年だった気さえする。
 そういう意味ではまさに東浩紀の言った様に「大きな物語の崩壊と小さな物語の林立」という「動物化するポストモダン」的状態こそが平素であるこの時代で我々はよくかつて言われた集団生活とか社会生活への同化、協調を促進する為の人生論が全く効力を失い、寧ろ各自に備わったパーソナリティ障害的要素、かつて恥部とされた部分こそ着目して、昨今もあった小学生自殺事件に見られる様ないじめに対する抵抗力を備えさせていく必要がある。
 それは強ければいいということではない。大半のいじめや嫌がらせに慣れていく必要があるということである。渡辺淳一や小泉純一郎の言った様な鈍感力の価値の再考をすべきだということだ。
 従ってこれからはかつて理想とされた孔子等による老境的理想を絶対に許さない、癌患者でさえ死ぬその日までは社会から疎外されたり同化出来ずにいる事自体への対処に追われたりして、絶対に老化や安寧を許さない厳しい時代に突入したと言える。と言うことは「そういうことは若い奴に任せておけ」、或いは「そういうことは上の者に任せておけ」という様な言説を一切許さない、あらゆる前例や社会通念踏襲的安定を許さない、まさに各自世界市民が個で自己防衛し、自己主張し、自己管理することだけがあらゆる個を救うという時代に突入したことを意味する。
 実質的に世界は無政府状態こそが普通であるという時代へと今後益々突入していく。そういった中で我々一個の個は、まさにそうであるが故に中央統括的権力や決定的指導力や唯一価値を信仰し得ぬからこそ青年世代に哲学や精神分析が大きな啓示を与えている様に、既にカストロとゲバラによる革命的行為も、長期安定的政治家による政権も、バブルも、恐らく二大政党制も一切実現し得ぬままに今世紀を過ごしていくことだろう。
 それはまさに先行きの見えない気分転換を常に四苦八苦している様な恒常的落ち着きのなさを体験していく(それはまさに常に性行為の相手がいないことにもどかしさを味わっているか、まさに常に性的絶頂だけを長期持続していくことに慣れるかしかないということに近い)ことである。そういう時代に生きていく為には自己内のパーソナリティ障害的要素を価値的に見直し、自己内の今迄短所であると理解していたあらゆるネガティヴ要因を、逆に肯定的に活かしていく回路を探っていく必要がある。
 この問いは極めて重要なので、再び取り上げることとしたい。

Tuesday, November 9, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十二章 尖閣列島中国漁船衝突事故映像流出を巡る情報の在り方に就いて 

 今日神戸のインターネットカフェで例の映像が投稿されたことが発覚した。ニュースではそれ以上の情報を開示していなかったが、実際には警察はもっと先まで突き止めているのかも知れない。
 重要なことは常に我々に到達する情報は、それより前に幾多のプロセスを通して検閲されて伝えられているということだ。その点では中国漁船映像は極めて時節を得て公開された感があった。尤もそれは不法投稿によるものだったのだが。
 と言うことは菅政権が菅総理の衆議院予算委員会による発言の様に「もっと後の時代になったら適切な判断だったとされるだろう」という思惑が示す様に、要するに情報統制を政府がしようとしていた(それは千石官房長官による「犯罪者を英雄視することを私は承服しない」発言にも現れていた)ことを意味する。
 流出映像で示された一部始終を政府は一般公開することは憚られると判断したことだけは間違いない。ではそれ程まで一般公開すべきではない性質のものだったのだろうか?
 もし仮に「これくらいだったら、もっと早く一般公開していたってよかったのではないか」という意見が出されたなら、「にも関わらず隠そうとした」という考えが出されるし、逆に「やはりこれほどのことなら隠そうとしたって仕方なかったんじゃないか」という意見が出されたなら、一体誰が最初にこの映像をリークしたのかという、恐らく内部関係者に政府見解に対する謀反人がいたことになり、その意味では完全に政府統制が内部に於いて不徹底であるという批判も出されるが故に、二重の意味で菅政権は苦境に立たされることは必至である。
 又もし神戸の投稿者がそれ以前に誰かから映像の元となるものを渡されて、その最初に内部で裏切った者がもし突き止められれば、その者が英雄視される可能性は高い。世論とはそういうものである。つまり菅政権はこの様な展開になっていった段で実は既に敗北していたのだ。
 菅総理の言った様に、確かにあの時期に実際に一般公開していたのなら、日本国民の騒ぎは今この流出映像を見た時以上の騒ぎようだった可能性はある。しかしそれでもやはり実際に海上で何があったのかを一般国民に知らせるべきだったのではないだろうか?
 つまり重要なこととは、隠すということを決意したのなら、どんなことがあっても最後までそれを貫き通せなければいけないということなのである。結果的にはそれは出来なかった。つまり誰かが裏切ったからである。つまり誰か内部で裏切る者が出るという予想を政府が立てられなかったという事実一つでも一般国民へ情報を隠蔽しようとした思惑自体が既に誤りであったことが分かる。つまりこうなっていく事態を想定して、国民の恐らく一部であろうが、デモなどをして騒ぐことを承知で敢えて一般公開に踏み切っておれば、恐らく今の様な野党からの攻撃を得ることもなかっただろうし、機転の利いた判断であったと菅総理は流石と言われていたかも知れない。
 私自身は既に現代社会では政府ごときがどんなに画策しても尚この種の情報は必ず遠からずリークされていく運命にある、と考えている。文章などによる記録ではなく映像による記録であるなら尚更である。千石長官も言っていたが、文章では公式のものは丸秘ファイル化することは可能だが、この種の映像は撮影者から送られてきた原映像を編集する段で既に相当の数の人員が関わっていたということからも容易に外部に流出され得ることは予想された筈である。
 つまりリークされてはならない映像という発想を抱いたこと自体で既に菅総理は判断に誤りがあったと言うべきだろう。その判断を政府が通達した段階で既に反意を抱いた者は相当多数だったと想像される。「どうして?」という思いを抱いたのは千石長官クラスのトップにもいたのではないか?
 つまりその種の政府関係者筋内での不協和音の介在自体が既に多くの国民の間で政府に対する信頼を損ねている。これは一重に総理大臣の度量の問題ではなかっただろうか?
 歴史はある程度時間が経ってみなければ、一つの決断も正しかったのか否かを判断することは出来ない。そういう意味では今回の一件にしても、もう少し時間が経った後には「やはり菅総理があの時即座に一般公開しなかったことは正しかった」と判断される時期も来るかも知れない。
 しかしその時には必ず「しかしあの時政府見解に対して謀反を起こした者がいたればこそ、そう言えるのだ」と付け加わる可能性は高い。何故ならあの映像がずっと今もって封印され続けていたのなら、恐らく今後の中国との日本による外交の展開次第では、より深刻な政府筋の責任問題へと発展していった可能性も否定出来ないからである。
 要するに政府筋のトップに現代情報化社会に於ける基本的なインフラ、ツール、メディア全体への理解に乏しい者しか配備されていないという事実に方により重大な国民の側からの不安がある。尤もこれから情報管理的ノウハウを徹底的に踏襲した要員を政府が囲うことになったとしたなら、今よりももっと政府に対する疑心暗鬼が国民の間に蔓延していく(まさにソ連のKGBの様に)可能性もある。ある意味では政府情報統制とは緩やかなものであって丁度いいという国民の間での暗黙の合意が成立し得る可能性は皆の中にあるのではないか?
 例えばグーグル、ヤフークラスの情報ツールのプロが政府要因に参画していき、世界中の情報を一手に統制し、管理していく様な事態を想像してみよう。それこそ恐怖政府と言えないだろうか?そうなる一歩手前で今回の様な事態で踏みとどまっていたことを思えば、もし仮に最初にリークした犯人が発覚したとしても、政府な尚慎重に刑罰その他を考えないと、その時にはかなり現政権は危機的状況に陥る可能性は高い、とだけは今言える気がするのである。

 付記 今しがた(12:05現在)ニュースで海上保安庁職員が上司に自分が映像を流出させたと告白した旨が伝えられた。やはり内部の謀反者による犯行だった。今後の成り行きに眼は離せない。<国会の中継から、部下が上司に既に午前九時の段階で海上(巡視艇)で告白していたらしい。(14:40現在)四十三歳の神戸海上保安部保安官が名乗りを挙げ、自分自身でインターネットカフェで投稿したと言う。同僚達は戸惑いを隠せないと言う。制服組の連帯感も仄見えた。(17:04現在)>(Michael Kawaguchi)

Saturday, October 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕第三十二章 ツイッター上で飛び交う非難ツイートに見られる人間性

 人間性とはある部分では自己の感情的気分の調整と、未来へと向けられたヴィジョンの持ち方にあるとすれば、それはかなりの部分発話や記述に於ける意味志向的な、固有の言葉を持つモティヴェーションにあると考えてもいいだろう。
 今回の尖閣問題では極めて隣国中国の日本への態度の取り方には国際政治上での傲慢を曝け出したが、昨日大きなデモが日本でもあったらしい(ニュースでは報道されなかった)が、それらも含めて、ツイッター上で様々な尖閣問題を取り巻く国際情勢や政府筋に対する詮索的ツイートが目立った。その多くは訳知り顔の物言いと内容であり、自分だけが一番よく世界を熟知しているかの如く様相であった。それは民主代表選に関しても全く同じことが言えた。
 しかし最もそれらのツイートの持つ様相で気になる要素とは、端的に常に脳裏に他人のこと、他者一般にしか念頭にないという振る舞いを平素からしているとしか思えない様な想像をさせるということであった。つまり端的にそれらのツイートの多くは常に他人の行動、動きに対して関心を注ぎ、興味を抱くことからだけ全ての行動を決定させている様な人間の像が浮かび上がっていたのだ。
 人間はかなり多くの部分を現代社会ではとりわけそうであるが、外部的な情報によって左右されていってしまうというのはある程度は仕方ないことである。しかしその情報に右往左往することそれ自体の問題点を熟知していたが故にブログとかツイッターをし始めたのではなかっただろうか?
 せめて自分で書くブログとか自分の呟きを示すツイッター上ではその様な外部情報に端を発する言説を一時的にだけでもやめる様にすればいいのに、そもそもツイッターが他者に読まれる可能性を最初から考慮に入れた呟きであるが故に煽動的内容の外部情報に振り回されている言説も自然多くなっていってしまうのだ。
 しかしやはりそれは本末転倒である。この様な只情報摂取に対する裏情報的内容のツイートの持つ大半がこれ見よがしに目立とう根性である受け狙い性は人間性という語句を柄にもなく持ち出さざるを得なくなってしまうのだ。政治は確かに大事である。しかし政治をあれこれうだうだと討議してみても、少なくも自分で投票したりすることが出来る選挙以外ではどれほどの社会全般への影響力があるのだろう。否だからこそある種の叫びとしてそれらのツイートも作用するのだ、という見解に対して私は「それは余りにもお粗末ではないか」と言いたくなる。
 政治に関する本当の意味での情報とは余程内部事情に精通している者でない者によるものは大半がガセネタである。昨今マスコミ全体の論調さえそういう趣が支配的であることを鑑みると、大半のツイートは確固たる立証性のないその場限りの受け狙いであることが分かる。
 勿論我々は政治を片時も変な方向に行かぬように監視していくべきではある。しかしそのことと別箇にこの様な政治的緊急時にツイッター上で流言飛語的に同じマターに関して言及するということにどれ程の社会的効用があるのだろう?殆ど何の意味もなく、社会全体の何をも変えぬであろう。
 そもそもツイッターは社会を変革する為に存在し始めたものであるのではなく、自己内部での精神衛生的処理の為に始めたことであった筈だ。
 勿論政治の動きを只静観していたのでは遅いとは言える。しかしならばいよいよツイッター等で言葉を遣り取りすることくらい現実を何も変えないものはない。言葉をネットインフラ上で発信することの変革効果とは端的に自己内の精神的安定を獲得することと、感情調整、脳内衛生的な処理の問題なのである。勿論そこには相互に言葉を眼にし、受信する側にも得るものはある。しかしそれら全ては現実の行動や社会的投企(企投)とは全く違った次元であるが故に意味があるのである。従ってあたかもツイッター上で固有の言説を発信し続けること自体で何らかの行動へと直結すると信じて確たる証拠もなしに、裏情報的内容のツイートをすることにどれほどの意味があるだろうか?否無意味であるばかりでなく眼でそれらの情報を追ってしまう自分を発見するだけでも害悪である(従って私はそういったツイートを発見する度にそれらのツイーターをブロックし続けている)。
 情報の信憑性とは発信者の社会的地位や平素の言動全体への社会的信用度に比例する。当然のことながらマスコミやマスメディアによって示されている態度全般に不審を抱かざるを得ないのと同じ様なタイプの著名人の言説を信用することは出来ないし、そこら辺の判断自体は全て個人に委ねられているし、それこそその選択は個人の責任である。
 マスコミやマスメディアは何らかの情報を発信する段階で既に恣意的な思惑が絡む。つまりある時節に於いてある固有の情報内容を発信するという段で既に、その情報を発信することによって、その情報を摂取した我々がどういう反応をするかということをも見越したある種の情報戦略が介在していることを忘れて只闇雲にそれらの情報を受け取ってはいけない。もっと斜交いにものを見る癖をつけるべきである。
 しかしツイッター上での多くの裏情報的内容のツイートにはそれがない。つまり人格的陶冶という観点から言えば、社会批判性の皆無な批判に終始している、というのが私の感想である。
 要するにことの成り行きを静観して、次に自己が取るべき態度をじっくりと考える余裕を持ち、妄りに十分な思索を通さないままでの発信を控える様にすべきだ、ということだ。
 もし何らかのイヴェントがあって即座に何か発信するにしても、外部情報全体への懐疑的精神を失わない限りでの理性が要求される、と言ってよい。闇雲に全てを即断し未来の展開を断定する様なツイートなど言語道断である。疑問や懐疑的見解ならいいと思う。私が最も嫌うツイートとは端的にガセネタ的な内容の裏情報的ツイートを平気でしておきながら、それが誤りであった時にも一切責任を取らないままツイートし続ける態度の者にまさにマスコミ全体へ憂えるべき我々の批判自体差し向けられていくべきであるのに、一切発信者は罪にも問われないという無責任性にある。
 人間性とは根幹では平素の些細な行動選択、行為選択に見られるマナーの問題へと常に帰着する、と私は考える。全てを理解し尽した様な言辞でのツイートを多く見るにつけ、私は本質的責任を問えない多くの市民がいる、ということを残念に思う。そんなツイートをしている暇があるのなら、他に自分自身の為にすることは山ほどある、と私は言いたい。

Tuesday, September 7, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十一章 書かれたことに公共的意味が付与されるということ 

 古代ギリシャのプラトンやアリストテレスから、今日のリチャード・ローティやジョン・ロールズに至るまで全ての書かれたテクストは、その書いた人の内的なモティヴェーションとしての感情や、それが書かれる時代に於いて作用する意味などを今日的な意味で(その意味では現代の執筆者によるテクストは未だ後世にどういう意味を付与されるかは定かではない。しかし十年前のテクストには今日現在の意味を付与して我々は読む)読み換えられている。
 それは書かれたことの意味が、書いた者にとっての意味より優先される、つまり書くという行為自体が既に書いたことによって書いた時にどういう意図を内的に示していたかという筆者の思惑を超える、ということを意味する。
 又書くという行為を選んだ人達は、既にその時点で内的にどういうモティヴェーションで臨んだかということが然程書いた後では重大な意味を持たないということを予め了承する形で常に臨まない限り、その作業は持続され得ないということだけは知っている筈だ。
 従って本章のテーマはまさに二十八章と連携している。
 ソクラテスはプラトンによってその意志を後世に伝えられたから、それはそれでプラトンを通したソクラテス像しか我々には接する機会が与えられていない。
 しかしそれ以後多くは(ソシュールなどの例外を除いて)本人による直筆が出版されてきているわけだ。
 その点でカントに対してカント派とか新カント派とか、ヘーゲルに対する右派、左派とか、フロイト主義者達が後世色々と分派していったという事実はまさに、カント自体、ヘーゲル自体、フロイト自体が、彼等個々のキャラクターとか、生きていた時代の実像とは全く無縁に語り伝えられて来たということを意味する。
 従ってデカルト主義者とはデカルト本人にとっては極めて本意であれ不本意であれ、彼自身がテクストを書いたという事実に纏わる彼個人の思いなどは、まさに「どうでもいい」という位相でのみ彼のテクストが語られるということを意味している。
 その意味では全ての書かれる言葉は、その場で発声して語られる言葉以上に、申し開きや言い訳を許されないということである。
 まさに哲学とは(実はかなり文学もそうなのだが)書いた当人の志を殺して、死んだものとして意味体形としてのみ成立している事態、つまり哲学の全歴史がそうである、ということが言える。
 私は昨日次の様なツイートをツイッター上に載せた。

○言葉は意味化されることで一回リアルタイム性や発信者に固有のモティヴェーションを徹底的に無化される必要がある。そうすることでその言葉を再生させる読み手によって思想化される。それが所謂哲学の歴史であり(宗教や科学の歴史でもあるだが)、言葉はaliveからdeadに一回なる必要がある。

○意味はリアルタイムから永遠の相へ移送される。言わばそれが我々の言語的思惟に備わった宗教性である。言語行為はそれ自体一つのリアルタイムの祈りである。それなしに成立し得ない。我々は生きているのだ。死者と決別し、いつかは自らも死者となりゆく事を承知でその狭間で言葉を紡ぎ出しているのだ。

 もし書くという行為が一切なく、只実際に対面して誰かに告げるだけであったなら(それでもそれをヴィデオに撮っておくという行為が成立すれば、又記録的意味合いを持つのだろうが)、或いは意味とは常に前者のリアルタイムとしてだけ存在しよう。
 しかしその場の臨場感と、その場でのメッセージ伝達だけで言葉が終始しないということは、言葉が書かれるということに根差している。
 つまり書くという行為に付帯するモティヴェーションとは、書くことによって消去されていくものだし、又そうでなければ書くという行為を滞りなく成立させない。
 書かれた言葉とは、それを書かれた後で誰によって読まれることになっても、もう一度書いた筆者の意志を意味として読み手によって読まれるということであり、それは読者による勝手な、恣意的な(そうである以外にはない)筆者の意図の再生である。つまりそれが書き手による書きたいという欲求、つまりモティヴェーションの「思想化」に他ならない。
 思想化するとは、端的にそれを書いた時点でのみ通用する言説から(従って政治<経済であってもいいが>的経緯に於いて書かれた政治的予想の記述は、ある程度時間が経つと、余程予言が当たっていない限り無効化される)、何時読まれても納得し得る内容へと価値的に転化される。
 何故そうするかというと、それは永遠の相<層と言ってもいい>へと移送されることを旨としているということだ。それは潜在的な人類の願望である。つまりもっと簡単に言えば「残したい」ということに他ならない。それを私は後者で書き手が書いている時点で、この記述は後々まで残ればいいと思念している段に於いて、宗教的、リアルタイムでの祈りである様に思われる。
 これは神の実在的価値云々の問題では勿論ない。
 つまり我々は生きている限り他者の死と遭遇するが、その他者の死の遭遇とは、いつか自分もまた鬼籍に入るということを了解することでもある。すると我々はその了解の中で何かを「残したい」という感情でリアルタイムで書き綴るという行為を選択している。
 リチャード・ドーキンスは自分の文章を比較的ロングスパンで読まれ得ることを心がけて書いているとどこかで書き綴っているが、まさにその意図こそが「残したい」という欲求であり願望であり、書くことのリアルタイム的なだけではないもっと普遍的なモティヴェーションである。
 つまり書く時の直接的モティヴェーションは、それを書かれたものとして残すという意味から、もっと根源的、間接的モティヴェーションによって、リアルタイムの感情を無化することすら、書き手に欲させる。
 つまり書くという行為は思考や思念に於ける私的言語の不可能性を試行錯誤的に「哲学探究」で訴えたウィトゲンシュタインの言う様に、まさに個人的なことを書こうとする段で、既に公共的意味の文脈に自らの文章が把握され得るという了解と願望によって支えられている、と言うことが出来る。
 
 そこには晒すことでのナルシシズムも介在している。しかしそのナルシシズムは書いている自分の姿とか、その時の内心の感情がどうであるかということに於いてヌードダンサーよりは間接的なことであり、映画でヌードシーンを演じる女優は、書くことと、ヌードダンサーとの間の中間であることは誰しも理解されよう。
 つまり間接的ナルシシズムとは端的に意味を読まれること、普遍的意図として解釈されることに愉悦を感じているのであり、それは羞恥心を克服してステージ上で性行為を演じ、カメラの前で性行為を実際に執り行うアクター、アクトレス達にとっての「敢えて羞恥心を催す行為を衆目の面前で行う」ことに於けるナルシシズム(性的能力の誇示と、スタイルとか肉体の美の誇示)に視られるその場性とも関係はなくなはないが、やはり思考力とか意味把握能力とか、或いは筆力という技能へのものである。要するにもっともっと間接的であるということだ(ヌードダンサーの場合には振り付けや身体のくねらせ方のテクニックに対する意図的な戦略、技に近い)。
 個人的感慨を無視されて誰にでも理解される様に自己の記述した文章が伝達されることを望むという心理とは、歴史に意図的に参入する、歴史的文脈構成という人類の英知に加担するという意味合いも当然あるのだ。
 それはビールマンや森末の技が結果的に後世に残った様な意味での普遍化ではあるが、彼等より、より残す意図が最初から前提されているし、読み手もそういうものとして書かれたものを読むという社会ゲームが古代より前提されていた、ということをも意味するのである。

Thursday, September 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十章 言語とは偶像である

 通常我々が「科学者」と言う時、物理学者等をはじめとする自然科学者とか理数系技術者のことを言う。生命工学者とか認知神経学者とか化学者とかである。そこには数字を扱うこともさることながら実験をするというイメージがある(勿論専門家ではない人達一般から見た見方としてである)。
 学術的には社会科学や人文科学も学者であるなら科学者と言っても決して定義上では間違いではないし、そう呼ぶべきかも知れないが、それは一般にイメージされる像とは離反している。何故なら通常彼等人文系、社会学系の人達のことを私達は只「学者」と呼ぶ。
 要するに私達は語彙を一般的をイメージを通して使っている。だからアメリカと言えば通常、南北アメリカ大陸全体とか北米(アングロアメリカ)や中米南米(ラテンアメリカ)ではなく、アメリカ合衆国のことを指す。 
 科学者に話を戻すと、実際始終計算をしたりしているのは、却って社会学者とか心理学者の方かも知れない。寧ろ物理学者などはある時発作的に数式を集中して書く時間を設けるかも知れないが、それ以外の時間はそんなに始終せせこましく計算してデータを出しているとは限らない(勿論そういうタイプの人もいるだろうが)。
 要するに私が言いたいのは、全ての慣用される語彙とは、例えば職業で言えば、ある職業に付帯する制度的なイメージとか何らかの外部から観察される行動的なイメージ、或いは白衣を着たりしているその姿格好から日常会話ではイメージして、ある人に対して「あの人は科学者だ」とか「あの人は研究者だ」とか言うわけである。
 だから逆に普段はいつも背広を着ている画家がいたとしたら、「あの人は一見画家らしくないわよね」などと言うのだ。
 要するに私達がする全ての語彙選択とは、端的に専門的な正確な定義よりも圧倒的に、時と場合により、相手により相互了解され得る様に、つまり「伝わる様に」配慮されてその相互了解的イメージを援用しているのである。
 このことは言語行為的語彙選択を巡る語彙体系の把握自体が常に大雑把なもの、つまり精確さ以上にイメージ依拠的なある種の曖昧さ、一般的漠然としたイメージを含み込む偶像を使用していることを示している。
 偶像とはその輪郭もディテールも精確ではない。
 もし全ての言語行為で大体のイメージでではなく精確なデータだけしか告げてはならないとしたなら、私達は誰とも一言も言葉を交わすことは出来まい。又自分自身も他者から何かを問い質されるかも知れない故、こちらからは滅多なことで質問出来なくなってしまう。相手にばかり完璧さを求める訳には通常はいかないからだ。
 つまり大まかなイメージを相互に想定することで相手との間で伝え、伝えられる遣り取りとは、相互の厳密な報告義務へと直結する様なストレスを相互に軽減し、相互に遠慮なく相互の思念を伝え合うことをしやすくする為に、相手へ説明し、そうすることで相手から説明して貰う為に、敢えて精確さや厳密さよりも、相手にとって理解しやすさ、つまりイメージしやすさを自動的に求め、既に語彙選択する段階から実在の忠実な再現よりも、相手が実在を相手なりに想像しやすくする為に敢えて分かりやすく一般的イメージに翻訳して報告するわけだ。その意味では説明して理解しやすくする配慮には比喩的な部分がある、ということである。
 比喩とは端的にある物事を専門的なヴェールから剥ぎ取り、そのイメージを一般化して、誰にでも理解しやすくする配慮とも言える。アレゴリカルな表現がシニカルにもなりやすいのは、一般的に専門性を剥ぎ取る操作自体が、専門性のヴェールに包んだままでいる態度の専門家や学者に対する批判となってその理解しやすさへの操作が顕現されているからである。
 その意味では全ての批評も又アレゴリーであるとも言える。
 しかし言語自体のこの種の相手に応じた翻訳操作こそ偶像の誘発であるということは、逆に我々が日常的に自分にとってよくは知らない事全般に対してそういう態度、つまり自分なりに納得しやすい形で理解しているということの中にある漠然としてはあるが、そう間違いではない判断自体に偶像化作用があるということを意味している。
 つまり説明とはそういう操作を誰しも個々で行っているということを前提に成り立っている。
 しかし会話とは面白いもので、そうやって一旦理解が相互に得られれば、次第に相手の知らない領域に対する説明にも「これは本当は~と言うんだけど」と専門用語とかテクニカルタームを使用していく様になるし、その専門用語の業界的略語や、相互理解に於いて即座に相互に作った略語や代名詞を利用したりする様になる。すると途中から話に加わった人には即座には全く理解出来ない様になる。その様にメタ内容に対する理解度に応じた省略表現や代名詞の多様に従って相互にそれが全く相互に一致しているかどうかは確めようがないが、少なくとも相互に脳内に共通了解していると思われる像、つまり理解という偶像を巡って会話していく様になるのだ。
 理解という偶像とは端的にそれまで話し合ってきた話の道筋と大意である。それを了解し合っているか否かは話が展開していくか否かに依存するし、話の中で相互に相手の言うことに対して同意し得るか否かに依存する。勿論時々は相互に意見が食い違うことがあっても、大筋では話の展開に双方が沿って考えを押しし進めることが可能であるという事態こそが、理解という偶像を双方が把握しているか否かが規準となるのである。
 語彙に於いて我々が川なら川、山なら山というものを何らかの形で理解しているからこそ、その語彙を使用することで相手と意思を伝え合い了解を得られる。同じ様に文章全体の持つ報告的要素自体にその種の理解が得られるからこそ我々は一定時間対話だけで時間を満たすことが出来るのだ。
 従って科学者という言葉の持つ一般的イメージ自体も、相互の了解に於いていずれかが科学者である場合には、その一般的イメージ自体への是正が申告され、専門性と本来にあるべきイメージへと相互に話は展開していくだろう。だから逆に双方とも科学者ではない場合科学者に対して何らかの話題を相互に持つ場合には、その展開は期待出来ない。そういう場合には相互に科学者に対する理解や尊敬があるなら、一層話しは盛り上がるだろうが、逆にマイナスのイメージしか持ち得ない場合には堂々巡りを来たすが故に話題のチェンジが図られるだろう。
 その理解の偶像自体への相互の確信と非確信の差こそがそれまで交わしてきた話題の続行と中断を決するのだ。
 纏めよう。
 語彙、名詞も動詞も一定の一般的イメージによって会話上では援用される。それが多少歪なものであってさえ、そのイメージの方が定着している場合、そのイメージに沿って援用される。相互に仮に科学者である場合には、その通り一遍のイメージでは話題は運ばれない。しかし彼等とて彼等にとって余り馴染みのない領域の話題ではやはり通り一遍の通用するイメージで何らかの話題に於いてある語彙が援用されるだろう。
 そして次第に相互に相互のある話題に関する意見、考え方、理解の度合いを知り、相互に理解領域やその深度のずれを知り、そこから理解という偶像、つまりある話題に於ける相手の認知度や理解度や感情を軸として話題は展開する。理解という偶像とは従ってその都度対話する相手に応じて臨機応変に仮説されていくということである。それは恐らく語彙自体への偶像的理解と違ってもっと状況依拠的でありその場限りのものである。しかし親密な関係に於いてある人物AとBとが再びある話題に於いて盛り上がる時その都度反復的に援用されるものであるとしたなら、それこそ業界用語や隠語が同一業界内でかなり長期に渡って援用され続ける様に、ある個人同士では永続的に援用されることはあり得る。しかしそれでも社会全体に蔓延したある職業に対して付帯するイメージとかある街に対して付帯するイメージよりは刹那的であり泡沫のものである。
 語彙の持つ定着している一般的通り一遍にイメージとはその語彙によって示される対象に対する同時代の全ての人達にとってある程度共通した感情なのである。従ってある特殊業界内の隠語とかテクニカルターム(特にある時代に趨勢となっている様な使い方がされるもの)等は、そういう社会全体のその専門の世界や業界に対する一般的に付与された、通り一遍のイメージ全体に対する抵抗の意図がある場合も少なくないということは言えるかも知れない。
 そこら辺の内と外の区分けによって生じる齟齬が生む閉鎖社会が形成する共通了解世界に対しては章を変えて論説する価値があるだろう。

Thursday, August 26, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十九章 言語―情動、価値、倫理

 言語行為をする時私達は「AはBである」という形で何かを相手に伝える時、その相手を選んでそのことを伝えるという一事を取っても、既に情動的行為であることが了解される。その相手は今話している相手でなくてもよかった筈だが、どういうわけかある話者を相手に選んで何かを伝えているのである。だからそれがジョン・ラングショー・オースティンの言うconstativeであったとしても尚、特定の相手に何かを伝えるという状況全体が既に情動的である。
 語彙選択がもし相手に従ってある程度限定されるなら、それもまた情動的であると言える。年配者や社会的地位上位者に対する配慮の中にも情動的判断がある。
 言語行為自体が既にそういった相対的な対他者判断が介在している以上、どんなに形式的、対外的な言辞であれ、発話であれ全て情動的な位相から語られるべき筋合いのものである。
 だが情動とはそれが発動されるということ(勿論脳内で、であるが)には、それ以前的に一つの社会制度的呪縛と、それに対する半強制的同意という事実がある。小学校を卒業すれば中学校に行くという順路もそうだし、税金を払うという義務もそうである。
 要するに社会制度的な追随的行為自体への懐疑心などそこに持ち込む余裕はない。だからこそ逆にその事実全般に対して反省意識(勿論それも言葉を習得しているという制度受容的現実に支配されているのだが)を個的に持つ時に、我々は価値的な認識を抱く。それは日頃どんな些細なことに於いても持つ心の作用であり、それらが集積されて一定の信条とか人生に対する思想を持つということが、個々の場面にも情動を発動する誘引材料ともなっている。
 つまり自己に対して他者自体が環境である様な意味では自己さえもが環境なのである。それは身体的存在論的にもそうだし、物理的な意味だけでなく精神的にもそうである。
 従ってそういった固有の環境の所有者として、或いはその住人として生存している我々は個々の場面に於いて情動を発動する時、明らかに既に一定程度常に確立されて保持している信条や人生に対する思想という裏づけ、或いは背景と言ってもいいが、そういうものによって意味づけられている。従ってどんなに感情的なことであっても動物本能的な部分を持っていても尚、それは認識論的な意味でも存在論的な意味でも言葉習得者としての思考秩序と無縁で成立しているわけではない。
 又価値自体は常に主観的部分を持つだけではなく、その主観的部分を社会成員全般との間で一致部分と齟齬部分を自己なりに常に意識しているから、自己と他者一般、自己と共鳴し得る他者の考えとか、そういった相対的判断も必ず介在する。そこで我々は価値自体の体系に対して、その体系に対する明示的認識がない場合でさえ、一定の思考をする。そこから倫理的問いが産出されるのである。
 もし地球上に私一人しか生存していない状況である日突然私が地上に存在を齎されたなら、私は果たして自己という意識を保有し得ただろうか?もしし得たとしても恐らく今の様なものとしてではなかっただろう。
 つまり価値とは既にそれが成立する段階で、自分以外の多数の生存者としての人間の存在を前提している。そしてその多数の存在の中の一個の存在という認識が根底にあればこそ、我々は価値を自己のものとして他全般との対比の中で価値化し得る。そこには当然一致部分と齟齬部分双方へ認識が張り巡らされている。
 価値自体が孤立的なものの様にかなり思われる場合ですら、それはウィトゲンシュタインが後期に到達した概念である「私的言語」同様、一個の生存者だけでの共同体の非存在では成立し得ないものと少なくとも私にはそう思われるのだ。
 価値とは漠然とした何か大きなものという認識があると同時に、ある特定の領域に於いて自分にとって価値あるもの、つまり具体的なものもある。例えば小説家がどこそこのメーカーのプリンターが文章作成後のプリントには適しているとかの考えも一つの価値であろう。
 しかしその様な個別具体的な価値とは、それよりは大きな価値、つまり今の例で言えば、小説家は小説やエッセイを書き、それを発表してそれで稼ぐという社会的制度上での行為事実が前提されていて、それ自体も又一個の社会内的価値である。
 つまり一個の固有の価値はそれ自体だけでぽつんと存在しているのでは決してなく、あらゆる他の諸価値との間での相対的位置関係を常に意識的ではない場合にせよ、持っているのである。
 そこに初めて価値全体を支える体系、つまりその時々での私達自身による判断を一般的傾向から、特殊な決意を産出することに至るまで規定していく様な指針として立ちはだかる。
 それこそが価値全体を例えば一個の個である「私」が抱くということであり、その事実全体を支える認識力である。しかしその認識力は常に私を個として成立させる社会成員全体の共同体的秩序や、制度上での半強制的現実に晒されている。そこにその現実自体に対して好悪、善悪、快不快を判断させるべき世界の体系がある、と言ってよい。その自己内価値体系と、世界にもそれがある意味では自己内価値体系の雛形として、ある意味では社会通念的見本として、ある意味では対自己的に強制してくる脅威として存在し得るものこそ、倫理体系的な価値である。
 それが先行しているのか、それともまず自己内価値体系が先行しているのかとい問いは無意味である。既にそれらは一束で纏まった思考の作用である。
 世界自体を覆う体系自体が言語的認識を言語習得してきた我々の幼少期に既におぼろげながら介在してきたというのは紛れもない事実であるし、それを並行させて自己内価値体系は我々をその都度自己内で要請されつつ保持してきたのだ。
 倫理がもし漠然としてでも大切なものである(それは守るとか守らないということ以前に思考することに於いて、反省意識に於いても現在時点での決断とか意志とか意図に於いても)という意識が我々にあるとしたら、それはこの我々自身が言語習得してきた幼少期から現在迄の思考航路自体への反省意識と、それなしに言語共同体内で生存してはこられなかったという事実への覚醒によってである。
 従って倫理自体が全ての情動を決定すると言うよりは、寧ろ倫理という概念を殊更思念する時があるという事実とは、端的に情動的にある行為を正当のものとするか、そうではないかという思念が自己行為に於いても他者行為観察に於いても思考上介在するという事実を持ってであろう。ある好悪、善悪、快不快を情動的に判断し得るという能力こそが我々をして、それらを一纏めにして世界全体の価値体系というひょっとしたら幻であるかも知れない絶対的規準を想定せずにはおかない。つまりそれが幻想であれ思念されるという事実があらゆる社会投企を我々が試みるという行為事実の根拠であることは間違いない。
 その中でも我々は常にそれを行為として意図として決定させるものがやはり自己内価値体系であることを知っている。勿論それは行為している時には一々そう思念されるわけではないものの、ある行為を終えて後そうだったと考えることが出来る。
 そして自己内価値体系全体が常に外側に思念上、問題設定上、仮想されている世界全体の価値体系と連動しているという事実全体を認識論的に我々に納得させ得るものこそ倫理である、と言ってもいいだろう。
 そしてその倫理への問いにもまた、情動的判断は常に付き纏う。
 従って世界とは全体的価値体系という幻想を自己内で創出することで他者全般へと我々を接する様に仕向ける事実自体を、一個の世界事実として容認させる様な一つの秩序である。そしてそれは価値を巡る例えば「私」個人と、それ以外の全世界構成成員との間の関係を倫理から規定するべく思考させる様な形での思考判断自体が情動によって誘引されている、と言うことも出来る。
 従って因果的先行関係を全ての思考行為根拠として設定することの不可能性だけが、情動的発動と価値設定の不可分性、価値認識、倫理的反省という一連の思念と行為を意味づけるとも言い得るのだ。

Wednesday, August 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 二十八章 テクスト主義とモティヴェーション主義

 構造主義では我々はシニフィエとシニフィアンという区分けをかなり流用した。これはソシュール起源の考えをヤコブソンが発展させて完成させたものである。シニフィエは意味内容、シニフィアンは意味作用とされた。
 現代で最もこの考えに基づいているのは批評界かも知れない。批評言語とはメタ言語を一番理解しやすいものであるとも言える。小説や詩に対する批評が、言葉自体への言葉による解釈という形を取るからだ。
 分析哲学では大半の論客が意味作用としての解釈をモットーとしている。つまりあるテクストは書かれた背景とか書いた人の内的動機がどうであれ、結果として示された言語自体の主張や、言語全体の持つ意味作用的可能性を重視するという意味で、それを仮にテクスト主義と呼ぼう。それに対し、あくまでどういう動機で書かれたか、どういう時代的背景で書かれたかということを重視する考えをモティヴェーション主義と呼ぼう。
 テクスト主義は文学批評でも分析哲学でも科学主義に根差している。それに対しモティヴェーション主義は書いた人の心の事情とか、様々な内的、個人的理由を重視するわけだから、人道主義的であると言えよう。
 しかし私は完全にテクスト主義者である。
 何故ならある書かれた言葉群とは、あくまで作者、筆者の意図とか思惑を遥かに超えて普遍的価値になることは必然であるし、又そうであるべきだと考えるからである。
 このことを私は「言葉の運命」と捉えている。
 だから本章は前章の否定ということに就いて考えた第一弾から継続された内容であると考えてもいい(前章のPart2は時間をかけて本論の結論へと持っていこうと思う)。
 言葉とは本来それを発する、或いは記す人の脳内に浮かんだ想念に形を与えたものである。しかしそれは一旦発話されたり、記述されたりすると、明らかに外部に出力され、「言葉」自体として独立して作用する。それをシニフィアン的位相から考えてもいいし、社会性と捉えてもいいが、要するに発した人内部の事情がどうであるかということや、書いた人内部の思惑がどうであるかということとは別箇に、それ自体として認識され、独立した意味を与えられる(その言葉を受け取る全ての人によって)ということが「言葉の運命」であると考えているのである。
 意味とは何らかの意味を伝えたいと欲する人の脳内に留まっている内は、意味作用しているわけではないが、一旦それが発話とか記述に於いて実現されると、それを聴く人、それを見る人から意味を与えられ、意味作用という社会的現象を引き起こす。
 従って歴史哲学的に解釈すれば、カントが書いた論文は、それ自体カントの内心の思惑とか書いた動機以上に、そのテクストがどう読まれるか、つまり筆者の意図とは別箇の社会性を帯びた現象的一例として例えば「純粋理性批判」が解釈され得る対象となるし、その受け取られ方自体が「純粋理性批判」の齎す後代への波及力となり、その受け取られ方の方をこそ、我々はその当もテクストを通したカントの意図と受け取るのだ。従ってカントがそれを書いた時点での思惑からは大分ずれ込んでいるということは当然あり得ることである。にも拘らず私はカント自身の内部の意図や思惑、書いた動機などよりもそちらの方を優先すべきである、と考えるのである。
 つまりそれこそ言葉自体が自立し、独立した価値と力があるという考えに拠るものなのである。
 何故私がモティヴェーション主義を排するかというと、それはモティヴェーションを他人である我々が読み取るという行為的意図にある不純さを感じるからである。つまり我々はそれほど他人のことを理解出来る筈がないからである。しかしその立場を重視する人達はあたかも自分達だけがそれをよく理解し得ると考えているが、よく考えてみると、彼等も又「本当はカントが考えていた事は~だった」と書かれたテクストとか、カント自身が著したテクストの文面からそう受け取っているという事実を忘れている。
 従って他人の心をまさに自分自身だけが理解出来る自分の内心の様に理解出来ない以上、テクスト主義しか成立し得ないということこそ科学的客観主義であると私は考える。
 では科学的客観主義は万能かという意見がモティヴェーション主義から提出され得よう。つまり客観的な分析ではなく直観的な理解だってあるのだ、と言う風に。しかしそれは違う。何故なら分析とはそもそも直観に根差すからである。そのことをモティヴェーション主義は見落としている。私達は直観自体を全く分析を通さずに信じるということにある危惧を感じなければならないと私は考える。
 それほど我々は我々自身の理性を信じてはいけない。人間はその日その時の気分でかなり縦横無尽に恣意的な解釈を施すものなのだ。つまりだからこそ「言葉の運命」を真摯に受け取るなら、我々は仮に内心では大した志を持たないふと思いついた一言であっても、それがいい意味作用を呼び起こすものをこそ重視すべきなのである。どんなに真摯にモティヴェーションを持っていたとしても、それが心無く他者を不快にしたり傷つけたりする言葉を我々は歓迎するだろうか?
 そこがまさに責任倫理的な考えを重視するか、心情倫理的な考えを重視するかの境目である。
 カントは確かに心情倫理的に根本悪とかそういう内心の動機に根差した善意志を重視した。しかしそれはあくまで内心の動機や言葉を産出する心の在り方自体が、言葉へと転用される段に反映してしまうということを彼が熟知していたからではないだろうか?
 このことの結論は保留にするが、責任倫理をカントが少なくとも無視して哲学書を書いた様に私には思えないのである。そしてそれは勿論私がカントテクストに接して読んできた(専門的に熟読してきたわけではないにせよ)得た解釈である。その意味では私も又テクストを通してしか当然カントを理解することは出来ない。
 結果主義とテクスト主義は微妙に違う様に私には思える。結果さえよければ何をしてもいいという考えと、発せられた、記された言葉の意味の可能性を重視しようという考えとは根本的に私には違うものであると思う。
 何故なら本章で述べてきた後者は責任倫理的であるが、前者は歪な功利的思惑だけが見透かされる心情倫理である様に思われるからである。
 ここにテクスト主義から考えてきた「言葉の運命」が深く社会性、つまり倫理の問題に抵触しているということが明白化したのではないだろうか?
 次回は言葉の持つ倫理性に就いて問おうと思う。

Monday, August 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十七章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part1

 昨今脳科学分野に於いて神経経済学など新奇な潮流学問も導入され、次第に以前羽振りよかった社会生物学や進化心理学が片隅に追い遣られて来ている。しかし別に神経心理学が進化しても必ずしも進化心理学や社会生物学が全て無価値になった訳ではない。認知科学が現象学のメソッドを今でも場合に因っては流用する様に、全て利用価値はある。全否定も全肯定も安易な背理論へ赴かせるだけだ。集団遺伝学的からだけじゃなく古生物学、解剖学から見たっていいわけだし。
 しかし潮流というもの自体は絶えずその流派を作ろうと画策するその時代毎に存在する一群の人々の政略的思惑があるから、そんなに簡単に全ての分野の考え方を並列的に辞書の様に利用価値あるものとしてストックしておけばよい、という風に巧くはいかないものらしい。
 だがその様な学問間の思惑に於いて各該当者達自身が相変わらず援用してきた一つの態度がある。それが否定だ。
 否定とは断固たる意志とスタンスを示す為に必要な態度である。
 だが面白いことに文面上では肯定と否定は只単にある命題「AはBである」を、それに並列的に「AはBではない」という形で二値論理的に配分するだけである。それは論理値としての認識上でに浮上する秩序でしかない。
 つまりだからこそその秩序に於いて否定を採用する時には、肯定を採用する時以上に内的感情が露にされるとも言い得る。
 入学試験、入社試験に於いては採点基準が既に学校や大学側、会社側などにあって、それに随順する形で機械的に処理されていくことが多いだろう(又そうでなければ公平ではない)が、学界的現実、社内通達的現実に於いて、学者、ビジネスマンに関わらず否定とは、否定的通達を申告すべき相手に対する通達者の感情が最も露になっているとも言える。
 だからこそ肯定と否定の二分しかないという現実に於いて、本当は否定したくはないのに責任上否定せざるを得ない場合や、本当は肯定したくはないのに肯定せざるを得ない場合が必ず状況としては付帯する。そこに逡巡や躊躇を持った決定というものが登場してくる余地がある。
 又それは些細な日常会話でも散見される。
 例えば相手の言いたいことを理解し得る場合は、感情的には相手の言いたいことに同意したい気持ちがあっても、責任上それをすることが憚られるという様な場合、肯定したいのに否定せざるを得ない場合が出てくる。
 逆に慣習上どうしても社会的地位的にある人が否定しなければいけない圧力がかかっている様な場合、その慣習自体を悪習として拒否発動することには勇気が要るし、その場合に相手を否定せず肯定する場合、肯定に纏わる意志決定に介在する否定決定への逡巡が重要な動因となる。その場合不正が蔓延っているような状況下相手を慣例上では肯定しなければまずい雰囲気の中で相手を否定すべき場合(見過ごせない場合)、否定に纏わる意志決定に介在する肯定決定への逡巡が介在することとなろう。
 もしそういった複雑な心的過程を通過した上で意志決定されている様な場合の脳内作用が脳神経学的に鮮明になれば、必然的に唯認知メカニズムの論理至上性への否定乃至批判的データが産出され得る可能性はある。それは情動が論理的に明示可能となることに他ならない。そうするには、対論理自体への拒否反応自体を論理的に明示する必要がある。
 要するに否定を只単に認知事項としてではなく、情動反応的態度的構えとして立証する必要があるのである。
 肯定と否定に纏わる論理決定性とはそれ自体言語ゲーム的制度への加担と依拠がその本質にある。肯定命題に於いて我々は言語ゲームへの信頼を絶対化している。それに対し否定命題に於いて我々は言語ゲームに依拠しているものの絶対化してはいない。それは相対理解誘引的明示だ。ここに重要な論点がある。
 つまり会議でも何でも相互の意見交換に於いて意思疎通的意味合いでも、同意出来る意見が提出され続けている間は和やかであり、一つの内閉的空間内でも各成員毎の言語ゲーム自体への参加意義も、意見交換自体の存在理由的認識でも相互に会議開催自体へ絶対的信頼が保たれる。しかしそういう場合よりは、多くは途中で意見の食い違いが顕在化したり、議事進行上で何らかのトラブルに遭遇する。それこそある意見に対する否定的見解の登場によって、和やかさは一気に緊張感に包まれ、相互理解は前提されていなかった旨が全参加者間で明白となる。そうなると今度は相互理解を最初から対立軸自体の明確化をする中で誘引する様に各参加者が明示していく必要性に迫られる。
 共感、賛同、賞賛には端的にその意見なり何なりに一定の加担自体へ逡巡や躊躇は一切ない。しかし否定に於いてある意見や命題的正当性への見解に於いて否定的関係を示すことには、その正否自体を問われること、つまり自ら回答者として問われている状況自体への賛同ということに於いてのみ参加意義を認めているわけだから、必然的に依拠的である。
 だからこそ肯定は加担的であり、否定は依拠的であるというのが心的実相なのである。つまり依拠には固有の「致し方なさ」があるのである。
 拠って結論的には加担と依拠を論理的に明示し得れば、唯論理ゲームの不毛を摘発することが哲学的に可能となる。それは言い換えれば肯定と否定の非対称性の明示なのである。
 唯論理ゲーム自体の不毛性を摘発し、それを無効化へと追い込む為に必要とされるものとは、端的に非対称性が明らかに介在し、積極肯定と消極肯定の差異と相同のメカニズムがあることを証明すればよい。
 我々が何かを肯定する時明らかに否定に対する逡巡は微細だ。何故ならそういう発想自体が余り思い浮かばぬ故だ。が否定する時には明らかに肯定に対する逡巡は切実だ。それは肯定したくはないという欲求に拠って成立する命題だ。この非対称性、差異こそが論理的二値性への懐疑を招聘し得るかも知れない。
 逆に肯定に於ける否定に対する逡巡は誰か特定の存在者から反論された時のみである。否定する者さえ不在であれば我々は肯定に否定への逡巡(反論されれば躍起だが)をする必要はない。ここに言語ゲームの存在者間応対状況依拠性がある。メタレヴェルでの言語ゲームの発生根拠である。そこにキーがあるのだ。
 要するに肯定は論理空間的信頼と認知信念的だけど、否定は情動的なのだ。それを論理的に明示出来れば、かなり面白い二値論理的論理至上主義批判論が書ける。

まず単純に我々は次の図式を描くことが可能だ。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationこの段階論的な過程が心的には存在する。肯定と否定の二分法に収まらぬ。しかも②は強制された同意、③は強制された禁止だ。

しかし一方それは只否定感情へと肯定感情から至る強弱に対する段階論的認識に過ぎず、本質的心的理由が無視されている故、次の図式を思い描くことを可能とする。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationとしたが、様相的には①→③/④→②という経路も考えられる。要するに最初は正直な気持ち、後で強制が入るという事だ。それは外圧的屈服である。

 次回はこの外圧的屈服ということの心的過程とその根拠について考えたい。 

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 感動の構造

 私達は何らかの形で日常生活で感動を味わうことがある。それは日常的に些細な場面に於いてもだ。しかし感動の中でも演劇や映画、映像、戯曲(つまりドラマ全般)を読んだりする時の感動は、又一際変わっている。勿論その特殊な感動を我々は日々求めてやまない。
 今回はそれを取り上げて考えてみよう。
 感動とは何処か我々自身がいつか死滅することを我々自身が知っていて、その儚さ自体への諦観とか、虚しさと関係があるかも知れない。
 だから感動は自分自身の行状に対してであるが、より直接的に感動している自分を発見し得るのは他者全般への感動だろう。その中でも先ほどのドラマ全般からの感動は、より自分自身で感動していることが理解しやすい感動である。
 それを少し分析してみよう。
 とりわけ悲劇的結末のドラマに関して考えてみよう。

 私達は悲劇を好む。それは悲劇的現実が実際にある事を知っているからであり、その現実の冷酷さそのものを必死に生きる我々自身にそこはかとない感銘を受ける。生きているということを感銘する自分をまざまざと見つめつつ、しみじみと感じるのだ。
 悲劇には最終的には救いのなさがあり、その救いのなさに自分自身が巻き込まれる可能性は常にあるが、その可能性が現実になる迄は他者がそれに巻き込まれていく姿を見て気の毒だと思う。憐憫が生じていることが、悲劇をより感銘に咽ぶものとする。
 だが肝心なことは、可能性としては何時何時自分も同じ運命を辿るかも知れないけれど、今現時点では未だそうではないという状況が外部で自分自身へと語りかけるドラマに感動することを許すのだ。その意味では感動とは残酷さと裏腹であるとも言えるし、それを皆どこかでは知っている。
 それは自分自身は安全地帯にいて、その安全地帯にいない気の毒なヒーローやヒロイン達を鑑賞することを通して、ああ自分自身はそういう状況に巻き込まれていずによかったと溜飲を下げる仕組みでもある。
 悲劇には古代よりギリシャ悲劇とか色々な伝統的な文化がある。ウィリアム・シェークスピアも同じ様に過去の文化遺産から咀嚼している。ギリシャ神話「ピュラモスとティスベ」をベースに書いたとも言われているし、ヴェローナというイタリアの都市に15世紀(間違いかも知れない)にあった教皇派と法王派との市民同士の争いで実際にあったことをベースにしているとも言われている。
 しかしシェークスピア自身が着目していたのは、当然のことながら、人々が悲劇に感動するという体質を先験的に持っているということそのことである。
 悲劇的結末を迎えるドラマに対してある種の感動を我々が得るのは、余りにも巧く行き過ぎること自体に懐疑的であるからだ。それは自分自身の人生を振り返ってみても分かることだし、他人の人生を見ていても分かる。
 余りにも幸運な人というのは殆どいないということを我々は知っていて、それどころか大半の人達が恵まれず、不遇であることを知っている。
 だからラッキーな主人公のドラマも時には息抜きにはいい(特にアクション映画などではそうかも知れない)が、いつもであっては飽きてくる。
 悲劇には自分自身さえ最悪の状況でなければ、適度に自分自身の人生の中にあった挫折に対する記憶と、そこから得た教訓を思い出すことも出来るし、自分自身の人生がドラマ化され得ぬある種の余りにもドラマにならなさ自体を承知で、ドラマになる悲劇自体へ価値的に我々の心は称揚する。ドラマとは全ての人達からの憧れ、美しき人生に於いて、その心の純粋さ故に滅ぶという運命の過酷さに、やがて来る私達自身の死という運命自体への予感と、その予感を常にどこかでは忘れ去ろうとしている楽観主義に於いて、自分自身の代わりにドラマの中で美的に生き抜き、美的に滅んで欲しいという欲求なのである。それを見たいという欲求なのだ。
 それは端的に私達自身が自らの死に対し怯え、只管美しく生きることを通して様々な軋轢の中で押し潰されることを未然に阻止し、出来る限り巧く衝突を避けて生きている自分自身を美しいと感じないということをも知っているからである。
 もっと簡単に言えば人は皆、自分自身は美しくあることより、衝突を避け、巧く余り辛くはない人生を送りたいが、純粋に生き、様々な衝突と軋轢の中で打ち滅ぼされていく美しき者の姿に対して一定の敬意と尊崇の気持ちだけは持っていて、理解出来るからである。
 だからそういった偶像を歴史上の悲劇的人物や、それらをベースに作られた戯曲や小説、映画のヒーローやヒロインの存在によって充足させているのである。
 自分自身は小狡く、円滑に仕事や地域社会での安定した生活を守る様に、周囲に美しさを引き受けてくれる他者に、あらゆる正義や倫理的信念を責任転嫁することを通して、自分自身は過大な責任を負わされるストレスを極力回避すること自体が一般的な人生の生き方である。
 つまり我々はその範囲内で楽しみとか、息抜きとか、人生を豊かにする仕事の遣り甲斐とか幸福感を獲得しているのであり、主義や信条、理念だけに殉じるという生き方自体は、仮にそういう態度で生きている人があったとしても、大半はお門違いか勘違いで、依怙地でそういうスタンスを貫いているに過ぎない。
 人間は何より自分が信じて疑わないドグマの信者である。ドグマとは仮にどんなに崇高なことを言っても宗教心と何ら変わりないものである。だからこそ逆にドラマの中では理想系としての美しさを表現されることを望み、それも又一つの創作上のドグマであることを知りながら、潜在的には自分自身の人生も又どこかではドグマに支配されているという直観を必ず介在させて生活しているので、「そうではない美しさ」をイデアの様にドラマの中に封じ込められていることを期待し、その者が美しく死ぬとまるで自分自身にも僅かながらもそういう美しさを履行し得る可能性が残されているのではないか、という気持ちを起こさせるのだ。
 人間にとって歴史とは一つのフィクションの様なものでもある。何故なら既に過去は現在には存在しないからである。現在に存在しないものは如何にリアリティのあることとして過去に自分自身で体験されたことでさえ、どこか空ろな感じを我々は抱く。
 ということは我々は常に記憶と知識と経験の上で膨大なフィクションを心に保有して現在を生きていることとなる。生きることは記憶を頼りに現在を現在として認識し、未来へ向かってその不確実性の中から何かを掴み取ろうとする躍起な心との共存である。
 感動はそういった小説世界、戯曲世界、映画世界といった虚構自体が、実際にあった出来事自体すら虚構化されつつある時間の中で一瞬出来事とか人間の心の動きの有り様に対する価値として受け止めておきたい気持ちが誘引する「閉じ込め」作用である。
 どんどん虚構化していってしまう実際にあったこと、経験したこと、記憶の中だけにある自分自身の過去のことを、やがて死んでいくことを知っている主体が「自分自身の人生、それは感動的な事実であった」と思いたい気持ちが、同じ様な気持ちを持って存在していたとされる歴史上、創作上の人物の美しい行為に対する共感することこそ感動の正体であり、「自分自身も本質はそうであるのに、実際には様々な社会的軋轢によってそれを実現し得ぬままでいるのだ」という事の自己弁解と、それでも尚悲劇的主人公の姿に感動出来る自分の理解能力自体への確認によって安堵を得ることこそが、感動という心の作用の本質的構造であると言えないだろうか?

Sunday, July 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 志向すること、構えることの意識出来なさ

 我々は通常自分の意識を外在的に覚知することは出来ない。何故なら意識それ自体は意識内容だからだ。これは現象学者達ならとっくに考えてきたことである。
 それは言語にも言える。言語それ自体、或いは論理それ自体は何事かを言語として語る時、何事かを論理的に説明する時には語れない。これはウィトゲンシュタインや、彼に影響を受けた大勢の分析哲学者達ならとっくに考えてきたことである。
 要するに我々は生活上で何らかの行為をする時、行為へと赴く時、具体的行動をしている時その事自体から外在的地点で自分を考えることは出来ない。
 勿論反省意識をその都度持つことは出来るから、その反省内容自体を外在的だと呼ぶことは不可能ではない。しかし反省や記憶された事柄の想起も又極めて主観的な様相を帯びている。それは自分自身という枠からはみ出ることはやはり出来ない。
 つまりその事は志向するという事、意図するという事、構える事自体が意識的にせよ無意識的にせよ外在的には語れないし、外在的に感知する事も認知する事も出来ないという事を意味する。
 フランシス・クリックの様な生物学者、脳科学者でも脳内の脳作用それ自体を我々は今現在の脳に於いて理解する事は出来ないと言っている。それはfMRIを通して観察しても同じことである。
 我々は自分の脳をまるで機械を操作する様に、機械のメカニズムを理解して脳を利用しているのではない。その様に意図しても、その意図自体を産出する意志自体を操作する事は出来ない。
 それは私達が自分で自分の欲求自体をどうする事も出来ないという事、自分の感情をどうする事も出来ないという事を示している。
 自分の外側に自分自身が立つことが出来ないということは、ドッペルゲンガー的状況でも全く変わりない。自分を外側から見る自分自身の外側には立てないという様に、自分と自分を見る自分は無限後退を来たすのだ。
 認知心理学、脳生理学の世界で幾つかの前提がある。医学的、神経学的な考えでは局在論はワイルダー・ペンフィールドによる脳地図というものがある。ある身体部位の神経を脳のある部位が司るということを実験で発見し、書いた地図がある。
 この局部的見方を今取り敢えずペンフィールド型視野と呼ぶことにしよう。
 それに対し、局部論と対抗する形で得られたノーマン・ゲシュヴィンドによる局部と局部とを連結する経路自体に問題があるからこそ脳疾患が生じることを発見したネットワーク理論を、ここで今取り敢えずゲシュヴィンド型視野と呼ぶことにしよう。
 私達は確かにある脳部位がペンフィールド型視野で発火する時点でその部位を動かしたり、皮膚感覚を研ぎ澄ましたりするだろう。そしてそれ自体を認知したり、感知したりする時は局在論的ではなくネットワーク理論的、つまりゲシュヴィンド型視野で考えれば、確かに局部同士の連結作用自体がそれを司っていると言うことが出来る。
 しかし重要なことはクリックが言う様な意味でその作用自体をそういう意志を脳で持つ時に、我々は知る事が出来ないだけでなく、我々はそもそも腕を上げたり、眉毛が痒いので掻いたりする事自体を脳作用で理解することは永遠に出来ない。何故なら我々は脳作用それ自体を外在的に視覚的に確認出来たとしても尚、実はその作用自体を「私に」誘引する心的な作用自体をも先ほどの無限後退の例と同じ様に終ぞ外在的視点に立つ事が出来ないからである。
 それは私達がここ数週間の自分の心理構造とか心理的傾向を理解する事が反省意識の上で可能であったとしても尚、その反省意識へと私自身を転じさせる事そのものをその時点で理解する事が出来ないし、その作用そのものをfMRIで視覚的に確認出来たとしても尚、その脳内思考の現時点での根拠を知る事が出来ないという事でも理解され得るだろう。
 それは科学では我々自身が決して意志そのものを理解する事が出来ないという事を意味している。科学とは端的にその意志そのものの在り方を何らかのメソッドでその都度示す事が出来るだけであり、意志そのものの正体から発生根拠に至るまで一切の理解を得る事が出来ないということをも意味している。
 繰り返すが反省意識に於いてそれらの根拠に就いて考えることなら出来る。しかしその事は我々が直ちにそれら意志そのものをどうする事が出来るという事へは決して直結しない。
 例えばある行為をしたいと思うこと、或いは数ヶ月先の自分の「したい事」を未然に知る事が出来ないという意味で我々は一切意志そのものを計画立てたり、操作したりする事が出来ないという事だ。それは計画を立てても、その通りにすると意志する事や、その通りにしてきて退屈したり飽きたりする事自体をどうする事も出来ないという事に於いてそうである。
 それは何故そういう意志が生じるのかという反省意識に於ける判断全部を無効化する。何故なら反省意識を生じるという事自体が常に外在的に解明されるべき根拠として残されるからである。
 その事実をもって我々が脳そのものの奴隷だと考える事も不可能ではない。いや脳作用自体が仮に解明されても意識そのもの、意志作用そのもの、或いは感情や欲求そのものの奴隷であるという認識は常に残される。
 それはある部分では存在そのものの奴隷であるとも言える。存在と言うと、只単に木々も森も海も存在する。しかしそれらに存在という「形」で規定を与えているのは私達だ。その意味では存在の奴隷である事が出来るのは、只私達のみ、つまり自分自身が世界に存在する事、或いは存在しつつ世界を作っている事を知る事の出来る我々のみである。存在の奴隷であると覚知し得るのは只存在と存在する事自体を理解出来る存在者のみだからである。
 実は世界そのもの、木々や森、海だけでなく自分自身を存在として規定する事自体も又一つの構えであり志向である。そしてそれを何故そうするのかという根拠を問う事が確かに出来る。それを哲学的問いとも認知科学的問いとも名指す事も可能だ。しかしその存在するものを存在するものとして、存在することを存在することとして把握し覚知(把捉)し存在規定する事自体を何故と問う事は出来ない。それは個々の判断自体の根拠が問える事とは別箇にそうである。
 その問う事の出来なさとは、私達自身が存在規定をする生の意味が反省意識に於いて問えても尚、個々の判断作用自体の発生根拠から、その発生根拠の事後的認識が可能であっても、私達自身の、或いは私達という存在自体の外部に立って操作する事が出来ないという意味でそうである。
 それは私達が私達自身の存在を外在的に認識する事が出来ても、その外在的認識をその時点で生きる私達自身を存在として問う事が出来ないという意味でそうである。それは要するに私達の問う事をも含めた脳内判断から行為に至る迄全ての私達の生の出来事を操作する事も、決められた通りにする事も出来ない(決められた通りにしていくか、途中で予定を変更するかという事全体を操作する事そのものが出来ない。何故なら決めても明日私は死んでいるかも知れないし、決めた事を忘れるかも知れないからである)という事自体が、志向も構えも全て脳内判断作用自体が既に我々による操作とか規格外的事実である以上、科学で幾らそれらを機能として解明し得たとしても尚、脳自体の存在理由、脳自体の存在根拠を我々の脳内判断や思考から別箇に脳で下す事自体が不可能であるという事の別の謂いでもある、という事である。

Sunday, July 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 我々が政治とスポーツに求めるもの‐真に優れたパフォーマンスとは何か?

 FIFAワールドカップも終了し、全く予想外なことにスペインが13回目の出場で初優勝、準優勝も初めてのオランダだった。そして日本は前日に参議院選挙が執り行われた。歴史的与党の敗北を喫した日本では、それまでベスト16まで 岡田ジャパンが快進撃を繰り広げたこととは対照的な展開に国民も去年の政権交代から一転して奈落に落ち込んだ状態の内閣に対して今後の展開に不安材料を見出すことにもなった。
 政治とスポーツとは特にその予想外の展開に受け手である一般市民は注目せざるを得ない意識的構えを日々構成してしまう。電車の週刊誌の中吊り広告や、いつも利用するポータルサイトのニュースや会社の昼食中などでする同僚との会話でも政治とスポーツは一番頻繁の話題にしやすいものである。
 しかもウガンダではワールドカップ観戦中のレストランで爆破テロ事件があり、アメリカ人なども含む大勢が死去したニュースも同じ日に報じられた。
 現代社会で行き抜く為には些細なことで心を動じさせないようにするということが暗黙の内に、特に都市社会で生活する文明人には求められていることである。2001年9月11日に一体自分は何をしていたかと即座に私なら思い出せるが、あれだけ悲惨なニュースを映像で目にしても尚我々はどこかで一々そういう悲惨に対して意気消沈せずに日頃と同じ様に過ごしていかねばならないという心がけをどこかで行っている。
 つまり本当に悲しいこととは自分の周辺で起こることに限定すべきであるという生活上の智恵がいつの間にか定着している。それは都市社会で生活するマスメディア、マスコミによって四六時中報道されるニュースをその都度受け流していくことを心がけている市民全体の暗黙の約定の様なものである。
 それはかなり幼い頃から私達が身につけてきた習慣である。
 しかしその習慣は他方、楽しいイヴェントがあると必ず心浮き立たせ、それまでに鬱積していたストレスを巧く吐き出す作用をさせる為に、一時ルティンから解放されるというもう一つの構え、固有のストレス解消的構えを構成することと抱き合わせになってきている。
 その一つがスポーツである。だから相撲などで不祥事が続き、その存続さえ危ぶまれることを含めて、そういった全体を注視し、監視していこうという注目の仕方から、我々市民の個々の生活を規定していく政治全体への注視と監視も同じ、余り悲惨なニュースには一々動じないという決意的な構えと、だからそこお祭的なイヴェント、例えばオリンピックもそうだし、ゴルフの全米ツアーでもそうだし、テニスのウィンブルドンでもそうであるが、その開催中にはどういう試合の展開になっていっているのかということへの好奇心と関心をその都度イヴェント全体の動向へと焦点化する構えとは抱き合わせであり、いつも容易に後者の方にシフトさせる様に構える癖がついている。
 つまりそうすることで、会社内で昼休みなどで同僚と会話する材料にすることも出来るし、そういった関心を同化させることを通して社会成員としての暗黙の同調的態度を取ることで、仲間外れに自己立場を立たせることを防止しているのである。
 相撲でいい一番を取った力士に拍手喝采を送るような意味で選挙で当選した政治家に対して期待しながらそのテレビ特番でのインタビューを観たり、ワールドカップなどの勝者のインタビューや、そのことに触れた記事を読んだりすることを通して「巧い仕方」で決めるシュートや選挙遊説中の街頭演説とか、市民と握手をしたりする姿全般へ我々はグッド・パフォーマンスであるという評定をいつの間にか下している。
 我々にとって印象に残るシュートや技、立ち居振る舞いといった全てはいいパフォーマンスなのであり、そのいいパフォーマンスの持つ語り草になり得る要素こそ、我々が知らず知らずの内にヒーローへと期待するものであり、そういう行為を容易に見せてくれる者を我々はヒーローと呼ぶ様にしているのである。
 しかしそのグッド・パフォーマンスとは他方では今日あった爆破テロ的事件の悲惨を常にどこかでは目を瞑って遣り過ごす我々の習慣をどこかで浄化させてくれるものとして我々が密かに悲惨なニュースに巻き込まれて死んでいく犠牲者達全般への鎮魂を、余り深刻ではない形で示してくれる代理的行為なのであり、政治という直接的に市民生活に影響を与える政策行動、法案成立努力全般にある我々によって注視される行為も、実は代理的に生活全般を規定する共同体、社会、国家の約定であるにも関わらず、グッド・パフォーマンスを期待する心理にも答えているのである。
 それは余りにも手際よく勝利へと導くスポーツのグッド・プレイと、政治家の立法政策的、行政的手腕、それを権力者として一定の説得力を持って国民に示すことを期待する我々が求めている「いいアクション」つまりグッド・パフォーマンスとは、それを共同注意的に常に目撃者として注視している我々市民同士の心理的結束とその心理的結束を前提した集団行動、それはビジネス自体もそうだし、余暇の行動もそうだが、要するに社会に我々自身が関わることを理由づける、根拠づけることでもある。それを確認し合う為にこそお互い同じ場に居合わせるということだ。
 それはワールドカップの決勝戦を観戦しているファン達だけでなく一会社のデスクに座っているどの市民でも同じである。
 そしてそれは先ほども述べた様に悲惨な犠牲者を出すイヴェントも時々挿入されるこの現代社会の現実を常に一方では考慮に入れながら、その悲惨な犠牲に自分が巻き込まれずに済んでいること自体への感謝を相互に頷き合う様な場でもあるのだ。
 グッド・パフォーマンスを相互に共同注意し合えることの機会の多さを求めて我々は同じ会社のデスクに隣の同僚と共に座っているのだし、家庭に戻れば家族団欒とか余暇でのプランに熱中するのだ。
 実は経済的好況に見舞われることも、いい試合を観戦し合えることも、悲惨な事件の巻き添えを食らうことも全く同じ淡々とした日常のほんの少しの角度の違いでしかない。しかし常に何らかの余り大きなカタストロフィに見舞われない現場に居合わせるか、まさにそういう現場に居合わせるかという確率の問題に直面している我々は仮に最悪の状況に立ち会っているのだとしたら、尚その最悪の状況から何とか離脱させる為の努力を誰しもしている。そしてその際にも「手際よい行動」はあり得るのであり、そのグッド・パフォーマンスを我々歓迎するのであり、そういう行動を自分が取れるのなら、それに越したことはないと誰しも思うのであり、そしてそれを隣の同僚がなし得たのであるなら、素直に拍手喝采することに吝かではないのである。
 居合わせること、立ち会うことの中で、その場にいなかった者には理解出来ないものとして、同時代を生きる我々にとって政治もスポーツもがある様に、我々個々の市民が立ち会う、居合わせる固有の場がその都度設定されているのだ。
 そしてその時々に固有のグッド・パフォーマンスのエピソード記憶を我々は気が付かぬ内に求めて都会を歩き、自分が帰属する集団が行動する場へと足を運んでいるのである。

Wednesday, June 30, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル②

 前の記事を書いてから暫く経って再び広島で自動車を使った通り魔殺人的無差別犯罪事件が発生した。
 何故この様な無責任な犯行(全ての犯罪は無責任なのであるが、とりわけ特定の怨恨性のないむしゃくしゃしたからやったということを無責任な犯行と取り敢えずは呼んでおこう)が継続的に発生するのだろうか?
 北野武監督が少し前テレビで「暴力描写を非難されて、暴力が主体ではない映画を撮ることにしたが、客の入りが悪いので一番得意な暴力描写を再び手掛けた」と言っていたが、彼は「暴力映画が犯罪を誘発するとは思わない」と言ってもいた。
 私も同意する。暴力描写とは映画の一つの表現であり、表現を鑑賞することで暴力行為が誘発されるという根拠はまるでない。前の記事でも書いた様に、寧ろ現代人のライフスタイル全般から派生する特殊な状況が誘引材料となっているという考え方の方がまだしも説得力がある。
 だがゲームソフトの暴力描写性自体もやはり映画以上のものがあるが、それ自体が誘引材料になっているとも言い難い。
 無責任で、無根拠な他者一般への怨恨とは、特定の侮辱や苦痛を与えた他者への恨みとは異なって、端的に自分自身の厭世観を只他者にぶつけるというところにある様に思われる。
 どうせ人間は死ぬ、死ぬのなら、いっそ他人を道連れにしてやろうという目論みがあるのだろうが、それは孤独に対する極度の忍耐力不足から来ている。
 一人で何かを行動したり、思考したりすること自体に耐えられないという心理がある様に思われる。それは裏を返せば集団内で何かを実践していて、自分の存在理由が見出せないでいても、別段不安を感じない様な状況に支配されている事を望むという心理でもある。
 群集心理的な脆弱さが私達には確かにある。しかし重要なことは、そうしながらも本当は自己を常に別の地点に保有している者も大勢いるということだ。
 が時としてそういった確固たる自己を保有する事自体に纏わる意志強固である事に耐えられない者は、只管群集心理に身を任せるということを選択し、その状況は何時でも保持していなければ不安となる。
 不安解消の為に向こうから自分に集団が押し寄せ、それに依拠していればいい状況以外ではこちらから集団全般に対し「俺を一人にするな」と異議申し立てをし、その仕方が極度に切羽詰ってくると通り魔殺人的犯行へと駆り立てる様になるのだ。
 これは職業病的な身体論とは無縁の問題である。それは端的に孤独に耐えられないという心理だ。只ライフスタイルに於いて現代社会では全く対人関係を構築しないでいても、尚生活が維持し得る情況を容易に手にすることが出来る。情報摂取に関してもそうである。すると我々はその容易に入手し得る特殊状況を選択する成員が社会に増大すると、次第にその生活選択を我先にすることの出来ない成員は、取り残された心理にもなる。
 周囲では多くがそういう生活スタイルを平気で日常化しているのに、それが出来ないでいる事に纏わる不安が増大してくるというわけだ。
 勿論現代でもパソコン一つでオンラインショッピングをしている人達だけが消費者であるわけではない。だが選択肢に於いてその様な直接の対人交渉を回避出来る手段が多くなってくると、選択肢を多く持たないで、しかもネットインフラ活用することの億劫さから、サイバーアレルギーになってくると、確かに銀行のATMなどでの女性の声が人工的だし、0120のサーヴィスの声も無機質だから、そういった生活環境自体に次第に人間的交流を可能化する余地を見出せなくなっていき、疎外感を募らせるということは多いにあり得る。
 そこで他者全般へと異議申し立てをして「俺を置いていかないでくれ」という発信を最後の手段無責任な犯行という甘えで実践していくこととなるのだ。
 自己責任的生活スタイルの選択は、恐らく多くの成員にとっては憩いがあるというよりは、呪縛から解放されるという意識の方が大きいだろう。しかしそういった選択肢の多様化自体についていけないタイプの成員にとっては、厭世観を募らせることとなる。そうなってくると、寧ろ職業病に罹ることの方に救いがあることとなる。
 一日中パソコンの画面に見入って注意をしていなければいけない職業のストレスには、そういった状況を打開するという目的が生じる故、そういう時間以外のスポーツをするとかの工夫を考案することに意識が向かう。
 しかしその様な現代人の選択肢以前の持っていなければならないハウツー自体に、ある種の違和感を持ってしまう成員にとって「そこからの解放」という目的意識を持つ成員が存在する(しかも大多数がそうである)という事実は耐えられまい。そもそも電子機器を購入して0120に電話するという機会自体が自分にとっては無縁なので、現代人のライフスタイル全体が自分とは無縁に、しかし巨大な環境変化として実感されるわけだ。
 精神疾患に罹るという事態が、現代人に必須のアイテムに起因することであるなら、職業病対策という形で打ち出せるが、そもそも現代人に必須のアイテム自体への違和感がある場合、対策を立てるということが公レヴェルでは実践され得ないままでいることの方が圧倒的だろう。
 かつて駅でホームに入る前には駅員が切符にパンチで通過した証拠を残したりして、人間がそこにはいたが、今では不在である。そしてそれ自体一々不便であると通常は感じない。しかしそれ自体に荒廃した対人関係であるという意識を巣食わせる成員がいたとしたら、その現代生活の便利さはそれ自体抵抗する対象となる。しかし最早昔へと戻ることはあり得ない。
 すると、社会自体は職業病対策を打ち立てることに躍起で、職業病に罹る可能性のない成員の持つ不安を解消する手立ては一切打ち立てることがない以上、それは只単にそういった成員の怠惰であると決め付けられる。そこで彼等は抵抗を試みるのかも知れない。
 寧ろ彼等がそういった現代生活へのついていけなさを別の形で発散する手段を見出すのであれば、救いはあるのかも知れない。それこそ暴力映画、風俗などで憂さ晴らしをするという手段を見出せるのであれば、それなりにストレスは溜まらないで済むということもあり得よう。
 しかし恐らく通り魔殺人へと赴く成員達にはそういった心の遊びはないのだろう。切羽詰ったこと自体を余りにも真面目に受け取るのだ。その遊びのない真摯さ自体が引き起こすストレス解消されなさが私達に次第に「あの人少し変よ」という態度を益々取らせ孤立感を深めていくのである。
 現代生活が利便性を追求すればするほど、利便性の全部を享受することが不可能となっていく。従ってそういった全ての利便性への追求自体の断念を余り深刻にならない形で受容し得る様な精神的鍛錬をしてく必要に現代人は直面している。「ここからここまでなら、私は便利さを追求するが、そこから先は別段取り立てて必要としない」という意識を個として携えている事自体を別に誇りとするでもなくかと言って「修正すべき習慣」とすることもなく、必要となったら享受することを考えようという、いい意味でのいい加減さを常に忘れない様に心がけるべきかも知れない。

Saturday, June 12, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十二章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル 

 秋葉原の通り魔殺人事件やつくば通り魔殺人事件などがあった年から丁度二年が経ち、秋葉原では又歩行者天国を再開しようという動きがあった。この二つの事件以前にも池袋で同じ様な通り魔殺人事件があり、犯人は既に死刑になっている。
 さて現代に於けるこの種の犯罪は固有の性格を帯びている。まずそれらの被害者達は犯人と何の関わりもなく、完全なる赤の他人であり、それらの殺人動機が直接的怨恨ではないということだ。又それらはどんなに多数の被害者を生んだとしても、例えば政治的・思想的テロと違って法治国家や経済社会的現実に直接根を張った事件ではない(勿論間接的には法治国家や経済社会的現実が影響を与えていることは否めないのだが)ということである。
 又そうであるが故に意味深なものがある。つまり例えば秋葉原通り魔殺人事件の犯人である加藤智弘容疑者には内的に鬱屈した心理があったとしても、それは政治や経済自体に直接アピールするものでは決してなく、そうであるが故にネット上で共感者さえ呼び起こすことが可能だったのだ。つまり彼等による犯罪の特質とは端的に全くの犯罪素人による犯行であるにもかかわらず、殺す人数や残虐性に於いて寧ろ素人であるが故にプロよりも残忍であるという側面もあるのである。
 その全く合理的文脈のなさ、全くの無計画性、全くのイデオロギー欠如した動因など、全てに於いてアマチュア性とオタク性が濃厚である。又だからこそ「或いは運命の悪戯で私が犯人であった可能性もある」と一般の人々に思わせる要素もあるわけだ。
 しかしそれら鬱屈した心理に於いて私達は安易に派遣社員に対する社会全体の処遇とか、規制緩和の行き過ぎた結果という風に単純に捉えきれない(そういう一面を仮に認めたとしても)とは言えないだろうか?
 つまりもっと現代人に固有の心理、精神状態から捉えるべきではないだろうか、という事だ。何故ならこの種の犯罪は少なくとも日本社会では失われた十年以前には然程多発することなどなかったからである。
 私達の日常に於いて昨今、朝の通勤時間帯に於ける満員電車では席に座っている人達の顔さえ見えないという状態でない限り、否そういう状態であっても尚、携帯電話を片手に送信されてくるメッセージを読んだり、ツイッターをしたりという光景が大半となっている。携帯電話などは実用的な観点に立てば必要な時以外は一切仕舞い込んでいてもいいものなのに、多機能化する携帯に於いては既に精神的に利用者は依存体質になってしまっている。片時もその画面から目が離せないという異常状態が発生している(最近では遂に駅のホームで携帯電話の画面に意識が釘付けとなった女性がホームに進入してくる電車の車両と車両の間に頭を出してしまい、ぶつかり死亡した事故まで起きた)。
 かつて農村家庭の人達は今以上に田植えなどの際に腰を屈める姿勢で仕事をしていたが為に腰が曲がってしまうということがあった。これは一種の職業病である。
 又音楽関係者、プロデューサーや歌手達は一日中凄い音量のエレキサウンドを耳にしているので、難聴になってしまうという職業病に隣接している。
 プロゴルファーは一日中炎天下のコースを回るので、一番どの職業よりも皮膚癌になる可能性が高く、小さな癌が頬や鼻の鉄片に出来るという事態は珍しくない。
 これはそれぞれプロフェッショナルな仕事に纏わる必然的な病理的現実である。
 しかし現代人にとってとりわけかなり大多数のホワイトカラーにとって一日中営業関係での顧客リストから金融関係の株式などに纏わる情報を示したパソコンの画面に意識が釘付けになっているという事態が極度に視力を落とす、といった職業病的現実は、一部の人達だけの問題では既になくなってきている。又先ほど述べた携帯電話使用に纏わる日常的現実では、我々は既に逸早く誰よりも情報を摂取するオブセッションに捕らえられ、実際に人と会って話すことよりも、携帯上、ネット上で人と繋がる事自体から片時も意識を離すことの出来ないというオブセッションはある種現代社会が生む極度の異常状態であり、そういうサイバー空間のヴァーチャリティそのものを現実以上のリアリティを持って接していかざるを得ないという状況が、ある意味では先ほど述べた通り魔殺人事件を勃発させてしまう、衝動的抑制力破壊誘引性として作用しているとは考えられないだろうか?
 一日中同じ姿勢でパソコン画面に釘付けになり、一日中歩行中でも携帯画面に釘付けになっているという状態が、身体姿勢的な意味でも、精神状態的な意味でも極めて鬱屈した精神状態を引き起こし、常に情報を摂取していなければ済まないという精神的ゆとりを極度に失わせているとは言えないだろうか?
 現代では既に恋愛さえ戦後社会の様なロマンを剥奪され、出会いそのものが人工的にセッティングされているし、それは射精産業自体が隆盛を極めてバブル期以降登場したかつてホテトル、マントルなどと呼ばれた売春ホステスの派遣であるデリヴァリーヘルス嬢などが暗躍する時代に於いて性行為さえ資本主義論理に管理されているという現代特有の世相とも関係があるのではないだろうか?
 衝動を喚起させるもの、とりわけ殆ど無思想的で無節操的で全く文脈欠如的な衝動を誘引させるものとはそういった現代人のライフスタイルそのものにあるのではないかと私は考えているのである。
 だからと言って我々はパソコンを撤収したり、携帯電話を廃止したりすることは実質上不可能である。しかし少なくとも一日中同じ姿勢でいたり、一日中意識をそこに釘付けにさせたりすることを意識的に規制していくことは可能ではないだろうか?
 現代人が何故この様に情報を摂取したり、一時的な言葉の遣り取りによってネット上で対人関係的繋がりを保持したりし続けていなければ不安で仕方がないという精神状態になってしまっているのだろうか?そのことを少し考えてみたい。
 一つは現代社会に於ける資本主義形態が完全にコスト削減一本槍になっているということが挙げられる。勿論単純に無駄もまた一つの創造誘引性であるなどと悠長なことをビジネス上では言っていられないということはある。だが現代人の不安はある意味では携帯電話やパソコン上でツイッターなどに依存し過ぎているという日常的習慣自体が生み出している、とも言えるのである。
 流通コスト、情報コストの削減という資本主義社会のルールに随順する形で我々はこれらの機器を開発してきた。しかしそうする中でそれらの機器の恩恵以上に、機器自体の魅力、便利さに対して夢中になってしまう魔力の虜になっているのである。
 同じ様なこととして性行為や飲酒、喫煙にも中毒性ということはあり得る。しかしこれらは所詮そうなっていく傾向の人達はある程度限られる。それは生活形態的にも生活水準的にも言える。しかしパソコンや携帯電話中毒症状は、その利用者数から言えば桁違いに日本社会で嵌ってしまう可能性のある人達の多さを保証してしまっている様なものなのだ。
 つまり誰しもが情報格差がなくなっていくという事実自体は革新的なことだったし、情報共産主義は現代人の権利、平等の観点から言っても全く理に適っている。それでも尚そういった生活習慣自体が齎す弊害については真剣に考えなければならないのではないだろうか?
 その為には我々は折角パソコン、携帯電話以外にも多くのメディアを有しているのだから、何もビジネス時間帯や利用必要時以外までそれら機器に意識を釘付けにしないで、本(電子書籍でもいいが、目には余り未だよくないかも知れない)もあるし、電車の中で車窓を眺める心の余裕もあっていいのではないか?
 電車の中で窓から外の移り行く景色を眺める心のゆとりをもう一度現代人が取り戻した時私達は逆に本当の意味でパソコンや携帯電話の有用性に対する認識を新たにすることが出来るのではないだろうか?

Tuesday, June 1, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 日本社会を覆うどんよりとした悪といい子ぶった態度

 この文章を書くちょっと前に現政権の首相が退陣表明した。僅か八ヶ月の政権だった。尤も党自体はそのまま存続し、再び解散総選挙に縺れ込む事はないだろう(そうなったらなったで面白いと考えている人もいるかも知れないが)。
 人間には余り格式ばった正しさには耐えられないところがある。哲学者中島義道は正しいことを正しいと言われると人間は途轍もなく苛立たしく思うと「怒る技術」などで書いている。
 それは人間が清廉潔白であることだけでは生きていけないということを表わしている。
 しかし日本はある部分では政権与党に於いてもそうだし、ある宗教団体に支えられている政党に関しても言えることであるが、何人かのフィクサーが実質上では金権的支配を履行している。
 それはどんよりとした悪である。それは端的に反社会性を地で言っているが、一定の民衆から支持を得ている。
 今回の首相と幹事長の退陣はそのつけを払わされたと見る見方もあるだろう。つまり出来ないことまでも含めて、それが正義だからマニフェストし過ぎたことが退陣劇を招いた。その割には一切その事への言及は首相からなされなかったのは残念である。と言うよりある意味ではそれくらいには悪の部分も件の辞めていく首相も持っていたということだろう。
 一番悪質で、それが結構ある部分では国民に受けてしまう体質とは、この国に淀むいい子ぶった態度である。だからこそ出来もしない県外移転ということを退陣していく首相はノウノウとぶったのである。それを支える精神的「潔白さを望む」体質が日本人にはある。
 これは恐らく日本人にのみ特徴的なことではないだろう。
 又興味深いのは、いつまで経ってもその影響力を行使し続ける何人かのフィクサーはお互い同士はそれほど親しくはないだろうが、政界、宗教団体、マスコミも含めて何人かがいて、その影響力はいつも前面には出てこないが、ここぞという時には意外に根強い底力を発揮する。
 別のブログで反社会性とはかなり悪どいことをして、それでいて警察には捕まらないということである、と私は述べたことがあるが、それを力のない市民レヴェルで行う内は微笑ましいが、それが国家レヴェルとなると、いささか国家全体を固有の淀んだ空気にしていく。
 そういったフィクサー達は中にはもう大分年配者になっている人もいる。
 年功序列という考えは、日本では根強く地方の社会では残っている。それはある部分では企業などで実力主義的考えが取り入れられてもなくなりはしない。
 政権与党が全ての役員を刷新しても、首相を交代させても、日本人の中に奇妙な清廉潔白願望がある限り変人と言われた宰相の時の様な独走を許すことにもなるし、又出来もしない責任倫理にも悖るいい加減な無責任政治を招くだけであろう。
 私達は反社会性ということをもっと憎めないレヴェルで追求していく必要がある。つまりこういう風に余りにも頻繁に総理大臣が交代する様な体たらくは、かなり危険思想家達、つまり煽動的右翼などに付け入る隙を与えてしまう。
 マックス・ヴェーバーは政治が悪によって悪を征す部分があると考えていたが、まさにその通りである。人間の意思疎通には適度のアンチ・ヒーロー志向共感的作用と、相手の出方を待ち、こちら側に出来る限り有利に持ち込もうとするギャンブル的感性が宿っている。それが全く無い意思疎通など只の井戸端会議である。
 だが予想外に日本人はこの井戸端会議が好きである。日常的に趣味の集いなどに於いて地域社会、地方共同体のどんよりとした悪や、いい子ぶった礼節的年功序列が蔓延っていると言える。つまりそういう場所での何と言うことのない個々の対人関係術が更に拡張されたものこそ、現今の政治状況であり、マスコミは巨大な井戸端会議化していると言える。
 もっと我々内部に巣食う悪の要素を逆利用すべきなのである。それはフィクサーを温存させていく様な保守主義に於いてではなく、相手との駆け引きを、陰湿ではない形で、ユーモアを交えて戦略的意思疎通をし合う中でその都度の適切な政治判断を引き出すような策略的な知性を復権させるべきである。
 フィクサーを温存させてきた日本社会の体質の一番根っこにあるものとは、端的に権威者を信用し過ぎる懐疑心のなさである。そこに哲学的思惟が欠如した国民性がある。
 従ってこの国では意思疎通とは相手への配慮だけである。欧米で哲学的に配慮という概念が出てきたのはハイデッガーなどが魁であったが、その前には一切の配慮を否定する様な歴史的経緯があったが、日本はそれと丁度逆である。
 いい子ぶった態度を善しとする潔さを理想とする主義は、滅びの思想に近い。それは赤穂浪士、新撰組、特攻隊、ヤクザ等にも共通する心理である。
 人間はそもそもいい子ではない。その事に真摯であり正直であることだけが意思疎通にいい意味でスリリングな井戸端会議ではない形でのギャンブル的感性とアンチ・ヒーロー共感型心理をも巧く利用していけばどんよりとした悪といい子ぶった理想を背中合わせにしてきた停滞的ムードを払拭することが可能なのだ。
 悪戯っ子であり、悪い子であることの自覚こそが政治に活気あるディベートを復活させることに繋がる。それがどんよりとした悪といい子ぶった態度が交代に出現する様な振り子現象から離脱する唯一の方策である。

 付記 現在迄のところ、野党に与党に変わり得るべき力量の党も人材もない。こういう時期に安易に野党に加担してはいけない。危険である。それだけは避けねばならない。政権与党の中核を担う世代の力量に委ねていくしかあるまい。(河口ミカル)
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a69a-1.html
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-19a3-1.html

Saturday, May 29, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 言語行為で駆け引きと配慮が一致する地点(理想的遣り取り)<発信者と受信者の利益>

 通常、電話もメールもツイッターのリプライも最初にメッセージを送信したり、かけたりして話す者が、そのメッセージを受信する者から何かの情報を得たいと要請しているか、さもなければこちらから向こう側へ情報を提供したいと考えている。従って送信者(発信者)は相手へ伝えたいか、相手から伝えて貰いたいかのいずれかである。
 通常、メッセージ発信者がメッセージ受信者から何らかの情報を引き出したいにせよ、こちら側から情報を向こうへ提供したいにせよ、いずれにせよ何らかの利益をそこから発信者が得たい、それが仮に実利的目的ではなくても、息抜きとかストレス解消の為の会話だとしても、そうすることを最初に望んだのが彼(女)であることは紛れも無い事実だ。
 するとメッセージ受信者に対して迷惑がかからないということを最低限の前提に理想的には相手のメッセージ受信者から感謝されることが最良の成果である。
 つまりこちら側から相手に言語行為を望み、且つ相手から感謝されるには、相手が望む情報をこちらが提供するように心がけるか、相手から情報を引き出しつつ、相手のこちらへの情報提供の快(相手から感謝される<この場合電話をかけて話しかけたり、ツイートのリプライをする人から>ことに於ける)を与えるように巧く持っていくには、余り性急に相手へ情報を与え(恩着せがましく)たり、相手から引き出そうと焦ることは禁物だ。
 つまりその相手の感情を荒立てずに、巧く言語行為を援用していくかどうかの技術、つまり駆け引きが、相手に対しあたかも挑戦するかのように受け取られずに、逆に感謝されるように持ち込むことこそが、寧ろ言語行為上の最高の駆け引きと言える。つまり言語行為上での駆け引きとは、駆け引きであるという形式を露骨に示し合うことなく(あまり、せっついたり、がっついたりして欲望を剥き出しにせずに)行うことこそが、逆に最高の駆け引きであるということだ。
 これは全ての大人の会話の基本だ。
 つまり全ての実りある会話とはメッセージ発信者(送信者)と受信者が偏利的でなく相利的に利益獲得、享受する形に於いて理想を見ることが可能である。
 このことは資本主義に於いて、生産者と供給者、或いはそれらと消費者の関係にも適用することが出来る。
 このことは人間が利益取得という実利性、功利性を前面に出すよりは、あくまでそれは結果として付帯してくることを理想とし、相互の遣り取り自体を楽しむ、或いはその遣り取りの円滑さ、行為に纏わる充実感を求める感情的動物であることを示している。

Thursday, May 27, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 出会いの必然と偶然と知らない世界と知る限界① 

 私達は日々自分にとって関わりの深い人達と交流し、一緒に仕事をし、共に暮らす。しかしその人達との出会いはかなり偶然的要素によって設定されていた筈だ。
 例えばどこで生まれ、どこで育ち、どういう学校や学歴を重ね、どういう職業に就いたかということによって(その経路自体も偶然的要素と、生まれ持った資質とか才能とかとも関係があるが)どんな人達と出会うかという事も決定される。知り合った相手の人達も自分と同じ様な偶然と必然の要素を抱えて貴方と出会うまで生活してきたわけだ。
 私達は現在インターネット上でブログ、ツイッター等で日々新たな出会いを作ろうと思えばかなり大勢の人達と知り合うことが出来る。しかしどんなに出会ったとしても、例えば百人親しい人が出来て、かなり深く交流する様になっていったとしても、せいぜいその中の数人と親しくなり後はそれほど密な付き合いではなく軽い付き合い、中には深く交流した後決裂していく他者もあるだろう。そして新たに補充していってもせいぜい数人加わるくらいだろう。
 兎に角日本人の人口の全員と知り合う事など物理的(時間的にも空間的にも)も、精神的にも不可能なのだ。
 だから山があって雨が降り水脈に沿って出来る川の様に、かなり細かい水路の決定には偶然的要素が介入しても、大まかな水脈の流れと方向は必然的に地形その他の条件によって左右されるということから決定されている様に、私達が出会う人達の顔ぶれも、どういう職種に就くか、あるいはどこに住むかで粗方決定されてしまう。
 勿論その中でも些細な部分ではよく行く中華料理店とか行きつけのスナックとかということで、そこに集う人達と出会うという形での偶然はあり得る。長く同じ場所に暮らしていても、恐らくかなり大勢の人達と一度も顔を見合さずに終えるということもある筈だ。
 つまり私達は自分にとって重要な出会いや、住む地域によって決定される出会いといったことを総計しても、せいぜい数百人以内の人と面識があり、それ以外で顔だけ知っている人もせいぜい同じくらいの範囲に留まるだろう。
 それは知ることが出来る限界が脳にもあるし、私達自身の個人的行動半径にもよるし、知らない世界、知らない人達が知っている世界や知っている人達よりも遥かに多いだろうということは、漠然とした確信、曖昧であるのに絶対的確信として私達の脳裏に収納されている。
 つまり自分が知り得る限界を知っていることで、逆に自分が知り得ないことの広大さを実感しているのだ。或いはこうも言える。確かに私達は自分の努力次第ではそれまでに手掛けてこなかった、取り組んで来なかったことにも挑戦することは可能だ。しかしそれまでしてこなかったことの数はしてきたことの数よりもずっと多いので、必然的に新たな挑戦をするとしても、その数は生きてきた年数からすれば残りの時間内で一定程度達成出来るものとなると、限られてくる。従ってかなり未来の不確実性に於いて、今後自分で出来る範囲というものは量的には限定されている。しかしずっとスポーツをしてきた人がそれ以前に関心さえ抱かなかった手工芸の世界で身を立てるということは現実味が薄いかも知れないし、ずっと事業をしてきた人がいきなり一度も描いたことのない絵画を始めるということも、趣味的に好きでなかったなら、かなり一撃を食らわされる大きな出会いで触発されるということがなければ展開し難い事である。勿論スポーツパーソンが趣味でもなかった手工芸に嵌るという可能性も常にゼロではないし、あらゆる可能性はあらゆる人達に開かれているとは言える。しかしそういった多くの開かれた可能性の中のほんの一部だけと出会う仕組みになっているとも言えるのだ。
 だからこそ前の段落の最初に述べた様に、知っている世界、知っている人の数がそれ以外の知らない世界、知らない人達の中のほんの一握りの偶然的出会いによって構成されていることを我々は薄々常に知っていて、それだからこそ知らない世界、知らない人達の広大な領野に自分自身が取り囲まれているということを概念的にも現実認識的にも薄々であるのに、あるいはその知らないが故に曖昧で確定的な像ではないにも関わらずかなりはっきりと我々は確信しているのだ。自分が知っている世界、知っている人達以外の多くの世界、大勢の人達が自分とその世界の周辺から、そのもっと先まで広大に続いている、と。
 勿論地球があって、それは球状であり、世界には色々な国々があり、どれくらいの人口を抱えているかということを我々は粗方知識として把握しているし、それ以外にも日々ニュースや新聞、その他本や人から聞くことなどから類推してその知らない世界とか、行ったことのない地域さえ想像することは出来るし、写真や映像で見たことがあるなら、それを更に引き伸ばして想像することはそんなに難しいことではない。
 従って全く目にしたことがないこと、一度も会ったことのない人でも想像することは出来る。
 しかしその想像は自分の中でも実際にしてみれば、或いは行ってみれば、会ってみれば、必ずそれまでの想像の通りだった部分以外の、意外な部分を発見するだろうということも経験上我々は確信を持って「その通りだ」と思っている。
 と言うことは世界とはその限界とは必ずあるし、自分が生を営んでいる時間にも限界があるのだし、しかも未来の事象は細かい所までは今からは把握出来ないし不確実である故、どう展開していくかは分からない。そして経験を出来ることの範囲も自ずと限られている。しかしやはり限界がある中でも放射状の開けている可能性の中の何かを我々は選択せざるを得ず、その自分にとっての世界の限界に対する曖昧ではあるが、そんなに逸脱することのない範囲でなら想像することも可能だし、しかし同時に確定的な像という意味では常に不確定的要素を残しつつ未来へと向き合っているのだ。つまり世界の限界とはそういう意味では時間の中で未来へと向き合っている限り確定的ではないし、常に流動的だし、限界ということ自体もイメージすることは困難なくらいにファジーなのだ。それは物質の最小単位が粒子であるか波動であるかという事自体も確定する事が出来ないのともどこか似ている。
 認識における世界の限界ということと、その実際の具体的像が思い描けるかということは全く乖離した状態にある、と言うことが出来る。
 と言うことはある意味ではその都度の「~である、或いは~ではないか」という判断や、世界の限界がある、と言った認識は、とどのつまり知る限界を知っていて、知らない世界、知らない人達といったこと、つまり未知の世界と他者全般を知る限界の中から楔止めしておく為の曖昧で不確定的な想像を停止させる為の処方である、ということになる。
 確かに知らない世界、知らない人々とは実際に遭遇もしていなければ、経験もしていない見聞きしていない世界且つ人達なのである故、想像に伴う労力は実際に見聞したことで費やされることとは桁違いに行ったり来たりして、要するに茫漠とし過ぎている。それは妄想的な思念に近い。従って一旦停止させる必要性を我々の脳は自らに命じるのだろう。
 それは一種の判断停止(エポケー)である。
 知らない世界や知らない人達とは、知る世界や知る人達という具体的像が脳に思い描けるが故に「それ以外」という形で認識可能である。つまり知る世界や人達がなければ必然的に「知らない世界、知らない人達」という想念は生じ得ようもない。故に知ることによって知らないことを作っているとも言える。しかし同時に知ることは知らないことと同時に把握されてもいる。
 例えば朝出勤時に、電車が人身事故か何かで遅れてきてやっとホームに到着した時ふと右隣にいた女性に「やっと来ましたね」と声をかけて、向こうも「そうですね」と返答したとすれば、その時左隣にいた男性には声をかけずに終わったということを意味する様な意味で、我々は誰かと出会った時、それと引き換えにその人と出会わなければ出会っていた人と出会わずに終わったということを認識することが可能である。それを運命と呼んでもそれは自由であるが、兎に角全ての人生上での時間はその様に何らかの選択をすることによって、逆に選択し損なった膨大な行為、出会いを積み重ねていくことでもあり、それは特定の経験を積み重ねれば重ねるほど、未経験のものをも積み重ねていくことだとも言える。
 つまり得ることで失っていくことの集積が人生だ、とも言えるわけだ。
 だからこそ私たちは「自分が歩んできた人生」が、「自分が歩むことなく終わった多くの人生」との集積の中からたった一個の「自分が歩んできた人生」を選び取ってきたということであると、それがそうしている時には終ぞ意図的ではないと思っていても、過去を振り返った時にはそう思えるのだ。
 従って自分が選び取ってきた(それがかなり偶然的な選び取りであったとしても尚)世界、人達とは、それと引き換えに選び取り損ねた多くの世界、人達との出会いの可能性を棄ててきた事を意味するから、必然的に選び取ったこととは、選び取らなかったこと全般に対する象徴的偶像であると言える。つまり知らないままで終えた世界、人達との出会いがなかったこと全般を代表して知ることとなった世界、人達との出会いが自分にとって存在しているというわけである。
 だから定義し直すと、知らない世界や知らない人達とはそれ自体偶像であるが、その偶像とは想像困難で曖昧な存在であるが故に、その想像出来なさを想像出来る「知る世界、知る人達」に委任することで、我々は「知る世界、人達」を「知らないままで終えた世界、人達」全般への偶像化しているとも言える。
 つまり偶像の不確定的曖昧さ、想像し難さを払拭する為に、知る確定的存在を利用して、それをもう一個の偶像とするという心的決定を下しているのである。
 だから私達人類にとって神に偶像がある場合、それは知らない世界、知らない力、知らない自然法則全般を、自分達の知る姿を通して(故にこそ神の偶像は人間を象っている。勿論アニミスティックな宗教では人間以外の動物、例えばヒンドゥー教では牛だったり、他にも象とか色々な動物だったりという風にされてきているわけであるが。)崇めることとしてきたのである。

Tuesday, May 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十八章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)PART2

 私たちが何か集団に属したりするように自分を持っていく時、そこには自分以外の誰しも何らかの形で集団に帰属して、或いはその様に自分を持っていって自分を鍛えているのだとそう思うからこそ、自分もそうしようと思う。
 これは何も態々ピアプレッシャーなどという語彙を使用しなくても誰しも思うことである。そしてどういう集団が自分には適合しているのだろうかと考える。
 その時必ずどの集団に属すにしても、何らかの形で自分にとって刺激になる様な自分を鍛えるのにいいと思える対自己的スパルタ教育的な決心と共に、それとは逆方向の「自分だって何とか務まるのではないか」という算段もある。つまりある意味では何をしても一切自分には勝ち目もなければ、歯も立たないような集団に自己を置くという決心はあり得ないと私は考える。
 それどころから全ての決心は「かなり自分よりも優位にある知性の集まりだ」とそう考えても逆に「でも自分の方が世渡りは巧い筈だ」とか、逆に「かなり自分よりも世渡りの巧い連中の集まりだ」とそう考えても、「でも自分の方がより知性では上である筈だ」という目算があってこそ、つまり何かに関してなら自分は決して他の成員全員と比較しても見劣りしないだろうという可能性に対する確信があってこそ、ある集団に帰属することを決意させることとなるのだ。
 ある部分では何か自分が決心する時に必要となることとは、全ての未来事象とは不確実である故、その不確実性の中には思ったよりもまずい結果になるということから、思ったよりもよい結果になるということまで触れ幅がある。
 しかしかなり十分に検討した結果、向こうがこちらを迎え入れてくれるのであるなら、それに対し快く承諾するか、それでも尚固辞するかということの間には必ず逡巡もあるし、躊躇もあるだろう。そして決心する時には「この集団に属したらかなり他の成員は自分よりも上手で二進も三進も行かないかも知れない」という不安と共に、それをも凌ぐ「いやもしかしたら、自分の努力次第では自分の能力を他の成員に誇示するいい機会かも知れないぞ」という希望(楽観的であるが、尤も楽観的ではない希望などないのだが)が介在して、その両者の釣り合いに於いて後者が僅かでも上回れば、迷うことなく決心するだろうし、かなり謙虚に「何、最初は皆から遅れを取ったとしても徐々に挽回していけばそれでいいさ」という気楽さがある場合(その場合他の成員の顔ぶれとか、中心人物に対する評定に於いてかなり感情的に良好であるということが前提となるが)でも、案外躊躇なく決心出来るとも言える。
 このことから、人間の感情が尊敬心自体も又、かなり侮蔑的感情と同居している、しかもそれは尊敬する対象に対して、同時に侮蔑的であり得るという意味でそうである、と言える。
 私達は愛情を持てるもの(物でも者でも)に対し一定の感謝の気持ちと同時に、一定のこちらの方が優位に立てるぞという打算とがかなりの比重で双方入り混じっていると言えるのだ。
 特別性悪論的な見方をしなくても我々は純粋動機主義的でもなければ純粋打算主義でもない、常にその中間辺りに我々自身の意志決定の合理化に対する基準を設けている。
 私たちはかなりその揺らぎの中に、自分を常に横たえて「次はどうしようか」と出方を探っているのだ。その出方とは自分自身の内心の感情を推し量るということ、つまり未来の自分も又今の自分からすれば他人であるし、又今の自分もその時(未来に於いては)の自分からすれば他人であるということに対する我々自身の了解に於いて、自分自身の出方に対する短時間に於ける直感的な思いを見定める事を通して、自分自身の性格的な決定傾向性をその都度査定している。
 又そうする事でその自分自身の仕方が、自分がよく知る周囲とか、一定の成功を収めている成員との間ではどれくらいの位置にあるのか、という相対的判断、メタ認知をすることを通して判断自体の、意志決定の合理化自体の仕方に対してその都度の判断、つまり反省をしたり、逆にこのままでいいのだと開き直ったりすることを促進するのである。
 故にこそ他者全般に対する「もしからしたら、かなり手強いかも知れないぞ」という判断と、「いや、それは思い過ごしで意外と御しやすい、思ったほどじゃないかも知れないぞ」という判断は常に隣接しており、ある意味では相互に中和し合っているし、解毒し合っているとさえ言える。
 だからこそ、愛する対象に対して同時にかなり畏怖の感情を抱いたり、逆に畏怖の感情を抱く対象に、同時に見縊っておいても大丈夫だという判断を同時に常に介在させたりしていくのである。
 これはアンヴィヴァレンツな感情である、とそう一言で言い切ってしまっても意外とつまらない。勿論そんなに単純ではない。常に本当は未来が完全に不確実である様に、反省しないで済む事自体も常に予測し得ない。かなり調子が悪い場合でも結果的には巧くいったと後で思えることもあれば、逆に絶好調で臨んだ割には芳しくない結果しかついてこない場合もかなり人生ではあることである。
 その不確実性に対するその都度の見切りをつけるという事自体が意志決定の合理化なのであり、その合理化とは、一つの対象に対する配慮ある尊重という相手に対する敬遠と同時に親しみのある気安さという対対象的な意味での防衛心の解除、の相反する二つの感情が同居し、その相反する感情は常にどちらかが少しだけ相手を凌ぎ、その力関係も徐々に揺れ動いているということが言えるのである。

Friday, April 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十七章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)

 今回は少し私的な経験から得た私流の日常生活での意志決定に役立つ自己分析について考えてみたい。
 私は一昨年ある哲学の有志研究グループと京都に永井均氏の講演を聴きに旅行した際に知遇を得た。彼等もまた永井氏の哲学に共鳴する人達で、私同様その講演を聴いていたのである。
 彼等は京都で活動するグループで既にその時点で数年以上活動を維持してきていた。彼等には京都流にアヴァンギャルド的な革新的なムードが最初からあった。それは端的にその場では如何なる社会的地位も年齢も階層も無化するという徹底した学究的態度である。
 それはある部分ではかつて私が所属していた中島義道氏の哲学塾カントでも共通した部分はあったし、氏による無用塾も似たところはあったと思うが、唯一決定的に異なるのは、氏自身が師であり指南役であるということだ。
 それは京都のグループには基本的になく、要するに世話役として若い26歳の青年が今現在担当しているし、それ以外のNPO法人の代表のある造船会社社長である40歳の中年男性と二人三脚で維持してきた、という歴史がある。
 さて私は当初彼等のその完全な平等主義にいささか面食らったし、相互の年齢とか経験を超えた完全対等主義的態度にどこまでついていけるかという事自体に関して、自分自身の忍耐力との兼ね合いから鑑みても不安はあった。しかも若い世代に当時十八歳(現在二十歳)の青年もいたし、彼等の中でも彼は突出して血気盛んだった。
 しかし私は彼等の中には何かある、という自分の中に彼等との交際が私自身に何か新鮮なものを齎してくれる予感のようなものと直観の方を優先したし、未だに彼等との交流が続いている事自体はそれを証明している。それだけ私は彼等との出会いを一つの大いなる邂逅と認識してきた。何故ならそれまでの私の人生でそれほど長く関わったグループは専門的な勉強以外ではなかったからである。
 この場合私自身が自己分析してみると、次のようになる。

① 最初彼等に接した時余りにも拘りのなさ、或いは対話における歯に絹着せぬストレートな対論において、新鮮さを感じ取りもしたが、同時にいささかの不安を感じた。或る種のアヴァンギャルド的過激さを私は匂いとして嗅ぎ取っていたということもある。
② しかしそれにもかかわらず、私は常に次に彼等と又会うべきかどうかを考えあぐねた。そしてそういう風にもう二度と会いたくはないと簡単に結論することが出来ないということは、それまでにそうなかったことだ、と思い当たった。
③ そこで私は私自身が彼等の存在に何か途轍もなく新鮮でいい雰囲気を嗅ぎ取っていて、率直に私自身はずっと同じ面メンバーで活動してきた彼等の中に私が加わっても私自身は新参者であるが故に軋轢はあるのではないかということを考えるようになっていったが、それでもそうだ、もう一度だけ出席してみようという思いも立ち上がっていた。軋轢その他への不安、それは端的に私自身が彼等の存在に惹かれているという何よりの証拠である、と思い至ったからである。

 そこで私は彼等が東京の高円寺まで出向いてきていたグループの研究会に一度出席することに決心した。そして以後続けて更に二回出席した。その都度世話役の26歳の青年が発表を担当した(最初一回は造船会社社長と合同発表であった)。そして続けて他人の発表をつきあったので、次回6月に私自身はこのブログなどで考えてきたことを発表することになったのである。
 ここには私自身の意志決定の合理化の過程が示されているように思うので、もう一度前記の①から③までを再考してみよう。

 重要なことは、私たちは何かを決断する時、敢えて決断するという場合、例えばある申し出を受け容れるか断るかという事に於いて、既に粗方自分の内心では受け容れるということと、断るということを決定してはいるが、受け容れる場合、それを憂慮なくスムーズに肯定出来る理由を、逆に断る場合は余り波風を立てずに婉曲に巧く断ることの出来るいい方法を模索していて、即決意を表明出来ないという時に、決断された行為を滞りなく決行する様に整えていること、つまり体勢を作ることを意志決定の合理化と呼ぶ、ということなのではないだろうか?
 確かに躊躇しているという意味ではある申し出を受け容れることと断ることとは隣接してはいる。つまり容易に受け容れられないことと容易に断れないという意味においてである。
 だがある決定的なこととしてこの二つは異なっている。それは受け容れる場合に即座に実行出来ない場合に往々にして我々に介在しているものとは、こちら側の沽券とかプライドとか、拘りであり、断る時に即座に実行出来ない場合に往々にして介在しているのは、明らかに相手を傷つけたくはないと言う、或いは断る自分が相手から悪く思われたくはないということである。
 その意味では私が京都で知遇を得た連中との哲学研究サークルに属する事となった経緯において私が①で既にある程度彼等の存在、そして彼等の活動自体に関心を持ち、惹かれているということが事後的な自己反省において判明していた。そして②で、もしその段階で一切次回もう一度会う気がないような場合、次回はどうしようか、などと考える筈はないと、私は考えたのである。
 ③において最後に私は本当は次回も出席したいのだが、ある部分ではそれを滞りなく実行させるものとして、自分より彼等の方が全員その時点では若い人達であったという事に於いて、自分に対して決して刃向かわない様なタイプの人間関係であるなら、私がどこかの講師として招かれてそこで生徒とか聴講生として集う人達と私自身は完全にビジネスとして講習料を徴収するという形で接する以外にはないが、少なくとも私は年齢的なこととか、そういった師弟関係的な階層性を求めて彼等と接していたわけではない、従って私は変な自分の中のプライドを一切棄てて彼等と全く対等の同レヴェルで研究し合うということを決心することとなったわけだ。
 要するに意志決定の合理化とは端的に「本当はそうしたいのだが<受け容れる場合でも断る場合でも>」それを押し留めようとする何らかの力を撥ね退ける理由を探っているということが出来る。
 それは今挙げた私が京都の連中と交流することとなる理由とは逆の「断りきれないのに、相手がどうしても好きになれない」という理由で自分の精神衛生的理由から断りたいという時に踏ん切りをつける為に正当的に断れる理由を探るという場合もある。
 
 そのことを考える際にかなり現代社会とは既に好感度よりも反感度によって最終決定を下す事が多いということを考えおく必要がある。つまり快・不快であるなら、何が心地よいからそれを選ぶという積極的理由よりも、寧ろ何が心地よくはないという消極的理由から何かを選ぶ、つまり職業などだったなら、積極的に「これがしたい」からではなく「これなら我慢出来るから」という理由で選択することが大半の人生では常套的なことではないだろうか、ということである。
 つまり何かに積極的に感動出来るからそれを選ぶというのは日常的には趣味的なレヴェルでの選択であり、義務的なこと、社会行動的なこと、職業とか対人関係的なこととは、理想的なことからではなく、もっと現実的なことで選択しているわけだ。それはある職業や行為や対人関係を選択する(例えば患者が精神科医を選択し、就職したい人が企業を選択する<勿論もし二三社から採用したという通知を受けた場合に限るが>)場合、「それ、あるいはその人なら我慢出来る」ということは、逆に「それ、あるいはその人だけは我慢出来ない」というものに対して、積極的に選ぶのではなく積極的に避ける形で、消去法的にある別のものを辛うじて選択するということである。
 それを極めて象徴的に示しているのが、ツイッターのフォロワーとフォロウィングの選択基準に既に最初からアンフォロウとブロックが具えられていることである。何故ならツイッターの場合自分のツイートに対して挑発的に喧嘩を仕掛けてくるツイーターが必ずいるからである。勿論友好的なツイーターもいる。だがそれはあくまで偶発的に自分のツイートに引っかかってきた人であり、理想選択によってではない。そのことが重要である。つまりツイッターでは偶発的邂逅自体にその都度、それを積極的に受け容れるか、それとも拒否するかという選択を迫られていて、その決断続行自体がツイッターをユーザーとして利用することを維持していく理由となっているのである。
 そういった消極的選択の、つまり常に向こうから偶発的に引っかかってくるフォロワーの選択をその都度していくという仕方であるツイッターは率直に言って「そうしてまでも得られる相互のツイート内容という瞬時で素晴らしか下らないかを判断することを通した情報摂取」を価値化されたものであると我々が感じ取っている場合にのみ積極的にツイートしていくことを我々に誘引することだろう。
 しかし少なくとも京都の哲学研究のサークルとの出会い、まさにそれこそが人生の邂逅ということなのだろうが、それに対して私が抱いた事後反省における①から③は、全て私は彼等の私の人生における存在理由を出会った瞬間認可していて、その認可を滞りなく正当なものとして認識し続けていく理由を、つまりそこに何の拘りもなく受け容れる理由を探るものであった、ということがこれで鮮明化したと言えよう。
 そしてツイッターのような便利で日常生活において直に人と会うことなく、それでも有益なコミュニケーションをすることを可能とする交流(言葉の上での純粋な意味提示行為としての)と、それをも含むが直に会うことによって得られる人間的交流ということの併存を我々が人生で多層的に望んでいるということを示してはいないだろうか?
 繰り返すがツイッターでは不快なツイーターを積極的に拒否していく、そして受け容れられるツイーターは消極的にアンフォロウしたりブロックしたりしないということにおいて成立している便利なメソッドである。メディアである。その消極的選択の持つ日常生活上での現実性、実利性、有用性といったことが、そういった「不快ではないこと」、つまり否定を否定したいという欲求が肯定を肯定したいという理想追求よりも、より長期持続には耐えられることという真理を表わしてもいるように私には思える。
 つまり退屈な行為の方がより長期持続には耐えられ、逆に瞬時に楽しい行為はあくまで短時間内で充足し、余り長期持続であると辟易していくものである(芸術表現では概して絵画は前者、音楽は後者であると言える)という真理を表わしているようにも私には思えるのである。

Friday, April 16, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 心地よい言葉の伝え方とは何か?言葉の持つ効果とは何か?

 言葉に於いて一番重要なことはその伝達内容、意味内容であることは誰しも知っている。にも関わらず同じ伝達内容でもその伝え方次第で全く変わった印象になってしまう。そのことは意外と日常的場面では重要である。
 それを言語学、構造主義的にシニフィエ、シニフィアンとヤコブソン的に考える必要はない。そういった学術概念規定的パラダイムとは少し違う問題である。
 伝え方には当然文法的配慮、言辞、表現方法等色々なことが考えられるが、一つは言葉を示す時の心構えとでもいっていいものがあるように思われる。
 言葉を発し合うこととは、それが実際の会話であれ記述を通した伝達であれ、その言葉の持つ意味を心地よく受信したいというごく自然な欲求に根差している。
 その為には発話者、記述者の言葉を最後まで心地よく聴いたり、読んだりすることを聴く側や読む側が自然に納得する形で発話者が記述者がその言葉の使い方を選ぶ必要がある。
 その極意とは端的にそれを聴く側、読む側が心の負担にならないような巧い言い方、つまりそういう不安を与えない情報様相にすること、それでいて取り繕った物言いではない真摯な言葉である。それはどういうものなのだろう?
 一つには助詞の使い方である。
 例えば相手の立場や年齢、職業などを考慮してもしないでも、一定の言葉の内容の後に加える「さ」や「な」や「よ」といった言辞はかなり日本語では大きなウェイトを持つ。
 「さ」にはある種のやるせなさが、「な」には対等な人間同士の同意確認、「よ」には相手に対して念を押す押し付けがましさが介在する。
 人間は言葉の意味だけでなく言葉の伝え方やタイミングなどを心地よい形で意味を伝えて貰いたいというごく自然な欲求がある。余計な一言、語彙、特に助詞が日本語では禁物である、と言ってもよい。
 つまり敢えて言えば、「言うべきことではない」とまでは決して言えないものの、敢えて言う必要もない、或いは言わぬに越したことはない、或いは言う必要がないから言わずに済ました方が無難な言葉はかなりあるのではないだろうか?
 特に対話においては発話であれ記述行為(メール、ツイッターその他)であれ、相手から対等だと思って貰いたいのであれば、相手に対して対等であるという態度をあからさまに示すべきではない。或いは少なくともそう受け取られる様な言辞をしないように注意すべきである。
 確かに理性論的には、仮にそういった言辞、助詞などによる物言いをしてしまっても、どうということはないと敢えて言うべきなのだろうが、如何せん人間は極めて心地よく相手の主張を聞き入れたいので、正しいことをあからさまに正しいのだ、と示されるとむかっとくるのだ。
 それは何故か?正しい事を正しいとあからさまに示されると、その主張を誇示する者の態度に即座に傲慢を読み取ってしまうものなのだ。
 それくらいのことに目くじらを立てることは確かに大人気ないとは言える。しかし人間は皆完全なる大人ではない。つまり神様ではないからだ。従ってそのような誤解を招く物言いなどは極力慎むに越した事はない。そう言う些細な日々の積み重ねでかなり得をする者と損をする者との間に開きが出てくる。
 繰り返すが、それを過大視すべきではない。しかし出来るだけ相手に不快な印象を与えないように気をつけるくらいなら誰にでも出来る範囲のちょっとした努力ではないだろうか?

Sunday, April 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 場を白けさせない為に「合わせる」工夫の意味

 我々は日常的に集団になると、集団が運用しているある固有の流れに身を任せるということがある。それは大きな政治経済の流れでもそうだし、小さな集団内での笑いなどでもあり得る。
 例えばある学会に入会した新人の会員がいたとしよう。それがたまたま分析哲学に関する学会だったとしよう。その学会では既にクワインの「論理的観点から」とかクリプキの「名指しと必然性」などの論文の検証からごく初歩的な会全体の知識や現代哲学的通念が共有されているとしよう。がその新人はその二冊をたまたま読んでいなかったとしよう。そこで皆が固定指示詞といった語彙を別の内容の論文を発表するある会員のプレゼンにおいて会員全員が流用していて、それを承知の上で会全体が進行していたとしよう。するとその新人は本当はそこで会の進行を止めて質問をしたかったのだが、その流れを阻む事自体を会の全体の運用から憚られて、その会終了後などにたまたま飲み会などが有志だけで開催された時たまたま隣の席に座ったやはり未だ入会後一年くらいの会員の人が感じがよかったので、そのことについて全員で何か発起人が音頭を取って司会していた時間帯を過ぎまちまち勝手に会話しだした頃を見計らって質問し、その会員から笑顔で親切に教えて貰うというようなことというのは日常茶飯なことである。特に学会などでは優れた論客などが数人主導権を握っていて、そう容易にその流れを堰き止めたり滞らせること自体憚られるものである。
 それは逆のケースでも十分あり得よう。例えば仮にテレビなどのメディアで文化人的に有名になったある本当は堅い専門分野の学者が、歌手やお笑いタレントたちが挙って出演するヴァラエティ番組にゲストとして出演した時など、そこに出演していた大勢のタレントたちが一瞬で理解したジョークとか駄洒落の意味を、余り昔からヴァラエティとか歌謡番組とかお笑い番組を見てこなかったその者が、皆が大爆笑になったので、適当に皆の歩調に合わせて一緒に笑うというようなことは、映画を見ていて皆が笑ったので、自分のつられて笑うということと同じくらいに頻繁にあり得ることである。
 その学者は番組収録とか生放送終了後に、たまたま打ち上げについて行って、個人的に親しくなったあるお笑いタレントから「あの時のジョークの意味私理解出来なかったのですが」と密かに二人だけで会話する機会を見計らって質問したら、相手のタレントは「何だ、そんな事ですか」と言って親切に教えてくれたという事もあり得よう。
 それが生涯を左右するような裁判などで自分が無実の罪を着せされて冤罪にされそうになった時に、判事や証人の証言などに対して反論したりすることの重大性に比べれば、たかが遊びなのだ。従って場の空気を敢えて白けさせる必要もあるまい、という配慮から「それどういう意味ですか?」などと質問することを憚るということの本質とは、ある部分では集団内での和秩序を維持するための協力とも言える。しかし実際上、我々が学生時代とか、少年少女時代に、学級委員会などで皆が理解しているような雰囲気の時とは、通常誰でも知っている四文字熟語をたまたま自分だけが知らなかった時など、その場で「聞くは一時に恥、聞かぬは一生の恥」的なことがあったとしても、その時に質問しないのであれば、あとでずっと損をするということででもない限り、家に帰って自分で辞書を引いて調べておこうとメモをとるなりしていたことを誰しも一度は思い出すことだろう。又どんなに偉い学者とか専門家でも誰しも一つか二つくらいは当たり前に普通の人が知っている熟語を知らなかったり、変則的な漢字の読み方などを間違って覚えていたりするものである。又仮にそういうことが一つあったからと言ってその人がいい仕事をしてきた人である場合、その人の社会的評定がぐらつくということがあってはならないだろう。そういうことで揚げ足を取ろうとする者がいたとしたら、その者の方が非常識であり卑劣である。
 話しを戻そう。その場の全体的な運用の流れを殺ぐことを恐れてよく理解していないことがあっても、その段では質問をすることを自ら積極的に控える工夫とは、協力であると同時に、集団内での責務偽装であり、同時に、そのことをその時に「よく理解出来ない」とか「知らない」ということを表明することで得る恥ずかしさを回避する意味合いから羞恥偽装でもある、この二つが合わさった意志選択である、と言えないだろうか?
 大人社会では恥ずかしさを素直に表明すること自体を忌避する工夫がある種の人生経験的狡さとなって身についており、それをこういう時に援用するのである。故に「知っているのに、知らない振りをする」という悪意もあるし、「知らないのに知っている振りをする」悪意もあり、後者にそれを位置づけることも可能であろう。もう少し高度になると「知らないのに知らない振りをする」ということになる。これは落語の高座で聞いた話からのものである。
 責務偽装とは若いアナウンサーがニュースで昔活躍して今はリタイアしている政治家とか実業家などの死去のニュース原稿を読む時に、本当は多少名前を聞いたことがあってもその原稿を読む本人はあまりよく知らなかったり、全く知らなかったりした場合でも、さもよく知っているような表情を浮かべてテレビのカメラに向かってそのニュースの視聴者に向かって原稿を読む行為などに見られる職務上での演技のことである。それを全体の運用、流れを殺ぐ結果へと結びつけないように巧く滞りなく「白を切る」ということが、まさに歌舞伎での十八番である勧進帳的な意味合いでもそうだし、もっとそんなに切羽詰ったことではないケースでも日々我々は経験していることである。
 そして老練で百戦練磨の大人、あるいは海千山千の大人というものは、本当は自分でよく知らないこともあるのに、さも全部知ったような表情や素振りをしたり、本当に親しくなった他者にしか自分の無知を曝け出さないようにしたりすることによってその場その時を巧く演技して切り抜けてきている。それは彼等が羞恥偽装をすることを子供なら心の中で悪意を持ってする、つまり嘘をついてはいけませんよ、と両親から躾けられていることを敢えて自己責任の下に逆らって行うようなこと、それがまさに子供が自我に目覚めていく過程でもあるのだが、それくらい朝飯前ということで本音と建前を使い分けるような処世術、処世訓を習得していくに従って子供が抱くような贖罪の心理など微塵もなくなっていく。またその倫理的贖罪心の鈍磨こそがある意味では厚顔無恥な老化現象、まさに感情の老化現象でもあるのだ。
 人間は時には恥をかいたっていいのである。それを畏れないで常に向上したり、分からないことは、相手は年配者であれ、自分より年少者であれ真摯に問い尋ねとりすることを厭わないでいるということこそが、精神的若さを維持していくことへ直結している、と言える。

 付記 この集団内運用、流れに協力する「合わせる」ことと、自己内の羞恥による無知の隠蔽は、サルトルの「存在と無」中の自己欺瞞とか、カナダ社会学者のゴフマンによる儀礼的無関心などとも関連づけて考察可能であろう。又勧進帳による武蔵坊弁慶による胸源義経に対するレスキューなどは私自身の定義からすれば詐欺偽装(サラ金の受付穣が笑みを浮かべて借金に訪れる人をさも親愛の情で惹き付ける演技や、テロリストに監禁された人が自らの拉致状況において、自分たちが人質として殺されないように如何にテロリストたちを刺激しないように友愛的態度を偽装することに見られる「合わせる」態度、振舞い)に近いものである。偽装心理については後章で詳述する。

Saturday, April 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 場が打ち解けたり、個人と親しくなったりするきっかけとは何か?

 通常我々は余り親しくはない相手に対しては、自分の正体を余り率直には示しはしない。或いは会合等で冊子が配られてそれに目を通している時も、その冊子でも説明が今一説明不十分であったりして、難解な説明であるが故に理解し辛いということがあったとしても、尚それを他者に悟られまいとして、あたかもふむふむよく理解出来るかの如き表情と振舞いで隣に座る社会人の人に内心を悟られまいとするだろう。
 ところがあるものの弾みで、隣に座る老紳士が仮に会合で説明する司会者に対して、その説明の途切れたところで質問をする。
 「この冊子の概要が今一つよく理解出来ないのですが。」
 そう言ってもう一度概要を説明願えないかと老紳士が聞くと、一斉に周囲の社会人全員がそれに頷き、笑みが毀れ、それまで一切隣に座る人に何か聞くということもなかったその場が一気に和み、相互に教え合ったり質問し合ったりする光景などということは日常的にはよく見られる。
 それは自治会でもそうだし、社会人向けの啓発セミナーなどでもそうである。
 これは意外と重要である。自分が相手に対して予防線を張って、一切自分の弱点、欠点、無知な部分を曝け出さないように配慮している内は、その相手に対して対人関係的には自己防衛心でガードしているわけだから、相手も又心を開かない。が、一旦自分がこれこれこういうことがよく呑み込めないのだ、とか、よく理解出来ないからもう一度説明してはくれないか、と質問すると、途端に相手は真剣に接してくれるようになる。
 ある種の他者に対して相手が信用出来るか否か未だ判然としないが為に張っている予防線を解除することを通して人は相互に信用したり、信頼したり出来るようになるのだ。
 端的に人間関係において他者と親しくなる条件というか、親しくなれるきっかけとは、自己の他者に対する優位を示すことではない。これは最も忌避すべき態度である。これは特に若い世代の人の年配者に対する態度に見られるが、これをしていると、年配者は若い人たちに対して自己経験上でのノウハウを伝授する気持ちにはなれないだろう。
 また相手を競争相手であると認識しているような態度では、真実の情報交換が望めるということはない。勿論例えば学会に出席するような場合我々は学会員全員が学者という意味ではライヴァルかも知れない。同一政党内での同僚議員などもそうかも知れない。がそれでも尚相互の信頼関係というものは、相手に対して挑発的態度で形成され得るだろうか?それは例えば政治の世界などで仲良しクラブ的な雰囲気では政策的な信条を貫くことが出来ないから、それは官政談合的な意味での「淀んだこと、腐敗」ということへと直結するから忌避すべきである、ということとは別箇に必要な態度である筈だ。
 例えば論議議題的には敵対する立場の者同士でも卑近であるが故に意外と必要な情報交換などにおいて、例えば営業マン同士が地理的、実際の営業区域の情報を相互に教え合ったりするということは、端的にライヴァル同士であるが故に必要な行為だろう。
 そこで相手に対して自己の弱みを一切示さずに対峙姿勢を崩さないままであれば、相手も又態度を硬化させ続けることだろう。従って必要な情報を欲しいということを真摯に打ち明け、よく新人で理解出来ないことであれば、上司、先輩、あるいはある事項に関して部下の方がよく心得ているのであれば、そういう他者に積極的に自己内の欠落した状況を説明して、相手から有効な情報を引き出すことも求められている。
 その為には積極的に自分の不得手なこと、不得意なこと、苦手なこと、理解しきっていない点などを真摯に相手に告げるという態度こそが、悧巧な他者との接しにおける他者の活用の仕方であり、情報化社会を生き抜く智恵と言えるのではないだろうか?
 そのようなビジネスシーンでなくても自然人的な触れ合い、つまり趣味のサークルなどでも積極的に自己のコンプレックスを告白し合うということこそが、親しくなるきっかけとして最もよく見られるパターンであることは誰しも心の奥底では知っていることではないだろうか?
 新入生諸君、新社会人諸君、転職者諸氏、リタイアされた方々諸氏、全ての人に言いたい。格好つけている内は誰も貴方に心を許して真摯に教えてはくれない、ということを。 
 そしてそんな事貴方だってとっくに知っている筈のことなのである。従って最近対人関係に苦慮しているということがあるなら、もう一度素直に誰でもいいから、自分の情報的不足、理解しきっていないことを頭を下げてもいいから(何かものを聞くということがそれほど苦痛なくらい頭を下げることではないことくらい貴方が一番よく知っている筈である)質問し、問い質して相手の情報的優位を認めて、指導、教授を仰ぐということをしてみてはいかがであろうか?

Thursday, April 1, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 実用と応用③人間に対するメタ認知について

 再び少し実社会的な俗なことについて考えてみたい。
 率直に言って私は哲学者、論理学者などをはじめとする学者一般に対して最大の不満と、彼等に対する欠如部分を認識している。それは純粋の学問を学ぶ姿勢と、彼等自身が教育者としての立場があるということから、世間知らずであることである。
 その最たるものは、彼等が極若い時期からずっと先生とか教授とか呼ばれてきているので、自分が担当する学生とか、カルチャーセンターなどでの一般社会人に対する応答に対しても若い学生たちとそうではない年配者に対しても同じように対応する。勿論学問自体に相手を社会的立場で区別して接することは許されないという不文律によって彼等はそうしているのだが、実際上人間は若い人には未だかなり多く時間が残されているし、年配者はそうではない。従って相手を見てアドヴァイスの仕方を教授や先生、講師と呼ばれ、そう世間から認識されている人は慮って対応すべきなのであるが、それがなかなか出来ないのが哲学者、論理学者(故に恐らく数学者とか理論物理学者たちもそうであろう)一般の最大の欠陥である。
 さて私の考える対人対応術とは、相手も見て対応せよ、ということである。相手が物分りのよさそうなタイプの人間かどうかを鑑みて我々は例えば道に迷ったりした時に質問する相手を選別している。それは殆ど直観的な判断である。それと同じことが全ての対人対応術に適用出来る。
 例えばカルチャーセンターなどで各講義を受講する聴講生として参加する社会人は、端的に大学院で学位を取ろうとしている学生と同じではない。院生などは本当にその者が将来学者としてものになるか、あるいは一般社会で通用する人間になるかどうか全くの未知数であるのに対して、聴講生はきちんと社会で働いたりして、それ相応の時間を人生で過ごしてきているのだから、全く異なった心得でよいし、またそういう区別をして接して来ない講師などを人間的に相手にするべきではない。
 学者とは一般に世間知らずの最たるものなのである。狭い世界でだけ生きている者なのである。故にそのことに対して自覚的で自省的なタイプの講師だけが信頼出来ると言える。
 また相手の本などを読んで、予めそういう講義を聴講する場合には、質問内容を考えておくということも大切である。相手は営業で知り合う一般社会人ではない。従って自己の専門的学問分野に対する自負だけに凝り固まった人達なのである。従って通常の市民のような大人性が欠如している人達なのだから、それ相応の適度に相手を持ち上げて相手の知の領域の内容を予めメタ認知して、相手からこちら側にとって有効な情報を聞き出すくらいの智恵が求められる。
 カントが言っている根本悪とか善意志といったことは、人生を抽象化した哲学純粋定理的な意味合いを帯びているのであり、それは実践したら危険である。それはニーチェにしてもウィトゲンシュタインにしてもハイデガーにしても、偉大な哲学はソクラテス以来全てそういう実用、応用的な危険性を伴うということをよく認識して学問に接するべきである。つまりそれこそがメタ認知なのである。
 従ってメタ認知とは、そういう風に相手(実際の人間であれ、書物上だけでの接しであれ)を対象化して認識し、その者の存在傾向をよく鑑みて接しよということである。
 その為には、本を読んで理解するということでなく実際に会って話しを聞いたり、質問したりする場合にはあまり最初から本音を言ってはいけない。本音とは相手の正体をよく認知してから然る後に少しずつ自己の内奥から引き出すべきものである。
 従ってあまり誠実過ぎる接し方を最初から他者には取るな、つまり相手をあまり信用し過ぎるなと私は言いたいのである。それは特に新人社員とか社会人一年生的な若い人には言いたいことである。
 それは例えば院生で担当して貰う教授に媚びよという事ではない。勿論それが必要なこともあろう。だが寧ろこちらが学費を支払って接しているのだから、必要以上の持ち上げをすることはない。だがそれでも尚、相手の立場、相手の学問的専門性と、思想傾向をメタ認知することによって、余り自己内の真意を全て明らかにするべきではない。
 人間は相手に対して一定の敬意を持つということは、最初からその者に対する感情を相手に正直に伝えることではない。つまりそういったクッションを置いて、寧ろ質問をした当の担当講師などが質問者に対して適切な応対をし、よいアドヴァイスや意見を引き出すようにする為には、寧ろこちら側の真意は積極的に抑えて、相手自身が本音や真意を言いたくなる雰囲気を作ることこそが求められているのである。
 つまりカントやニーチェといった哲学者が訴えてきている誠実性とは、心の中の本音を全て語れと言っているのではない、ということである。つまりカントが嘘をつくなと言っていることとは、端的に「全てを語れ」と言っているのではない、ということだ。「語るべき内容」よりも、「どういう風に語るべきか」と真摯に熟慮して語れ、ということなのだ。
 つまり相手があまり言いたくないことを引き出そうとしてはいけない、という事なのだ。相手が快く質問に返答してくれるような質問の仕方、つまり雰囲気作りが必要だということである。従って余り挑発的な質問をする、つまりそういう部分で変に誠実性を示してはいけないし、そういう風にバカ正直になれ、と哲学者は私達に語りかけているわけではない、ということだけを我々は心得ておくべきである。
 それは新入社員達にとって上司や先輩に対する接し方においても全く言えることである。
 だから逆に一般社会人を相手にする日頃は大学などで教授、講師などをしている人に求められていることとは、相手を見て区別して応対せよ、ということである。まかり間違っても相手が自分の聴講生だからと言って、青年も中年も老人も同じように応対すべきではない。それは哲学の講師であるなら、哲学命題的な意味で言っているのではない。それは全く差別するべきではない。勿論大人には大人の、青年には青年の哲学的心得はあるにはある。しかしそれは哲学命題的な意味では然程大きなことではない。私が言っているのはそうではない。相手の人生経験に応じて質問者であり得る聴講生に対する態度を区別せよ、と言っているのである。
 つまり質問をして相手から情報を引き出す立場であれ、相手から質問されて情報を供給する立場であれ、バカ正直に誠実であってはいけないということである。この世界において適度の嘘や欺瞞を一切なし得ないで誠実性だけで接する人がいたとしたら、只の狂人であると私は言いたいだけである。
 哲学命題における誠実性とはそういう社会的処世術と決して矛盾するものではない。実はもっと深いところにあるのである。その深いところをよく直観することを通して、寧ろそれほど深くはない世間的な礼節的部分では適度な処世術的智恵を働かせ、巧くやれということである。つまりそれこそが自分にとって有効でよき利益を得られるように他者と接するということである。その為にこそ冷徹に接するべき他者に対する像をメタ認知(勿論自分なりの主観によってでよい)をせよ、ということである。