Friday, April 29, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十九章 思想や学問には何が出来るか?序章

 今から丁度十年前の2001年という年は、下半期の9月11日に起きたアメリカ国内での同時多発テロによって世界を震撼させた。それは人類にとって国家間、民族間の怨恨というものが私達世界市民に齎す人災的な不可避的側面を浮き彫りにしたものだった。
 それから丁度十年後の今年は、とりわけ日本人にとって今年は未曾有の大災害を齎した自然災害である東日本大震災によって記された年となってしまった。

 同時多発テロが人類に齎したことは、文明を発展させてきたその影に存在し続けたアメリカという国の覇権を巡る、そのパワーから零れ落ちていくサイドからの逆襲という側面が強かったので、必然的に人類が結束しなければというモティヴェーションに掻き立てられるということとは少し様相が違った。何故ならそれはある意味では文明圏の利権とエゴイズムとが絡んだ遠因によって引き起こされていたと誰しも知っていたからである。
 しかし今回の大震災は少なくとも文明社会での都市構造が自然災害によって直撃されるということに於いては文明の脆弱さを露呈したが、地震が起きて津波が押し寄せればどの国でも似た様な状況が招聘されるだろうという目測から世界に与えた心理的効果は9.11とは本質的に違う。
 3.11とは恐らく未来から世界が自然災害に文明社会がどう拮抗していくべきかというテーゼに於いて反省的材料を提供していくこととなった年だったということになるだろう。

 だから却って日本社会内部にあった様々な亀裂が一方では運命共同体という形で結束させる心理へと日本人を向かわせたとも言えるこの震災による悲劇は、しかし例えば経済社会という現実の維持に於いては何ら自然災害によって齎される犠牲とは無頓着の非関係性を露呈したとも言える。
 何故なら経済学者や金融専門家達によるパネルディスカッションなどでは彼等は特に金利や需要と供給、金融システムの維持に腐心し続け、それが結局日本人の性善説的信仰である自粛などものともしない様な形で、経済流通によって初めて復興も可能になるという青写真を提供してはいたものの、経済専門家達は端的に全員起業家でも経営者でもないということである。彼等は日本銀行を中心とする政府筋の金融管理に就いては熟知していても、決して市場自体に精通しているわけではないということだ。彼等が理解しているのはあくまで経済市場原理なのであって、市場自体の動向は常に不透明であり、予測のつかなさに於いてのみ維持されてきているからである。
 この点で世界中のありとあらゆる専門家、つまり学者とか研究者達は予測のつかなさに於いて、予測がつく原理的な部分だけの理解とシステム管理的鉄則に拘り続けてきている人達である、ということを露呈してきたここ数年の世界情勢だったとさえ言える。
 人々の需要とは常にその都度の心理によって動かされており、それは移ろいやすさによって支えられていると言っても過言ではない。その意味では人類の記憶に鮮烈に印象付けられてきたその都度のイヴェントが仮に十年前には9.11であり、その十年後の今年は東日本大震災3.11であるとしたら、今現在の私達はあくまでアルカイダ、ヒズボラ、ハマスその他によるイスラム原理主義組織が与えていた時代的気分、つまり思想的潮流は、案外脆弱にも自然災害の前には崩れ去り、今既に我々の眼中には自然災害から誘引される都市型災害からのサヴァイヴァルという一点に集約されている様に思える。これは現時点でのカタストロフィにしか我々は動じられ得ないということを意味している。

 だから金融管理システム構築に腐心する経済学者達のテーゼは実はそういった自然災害による恐怖が取り敢えず、余震なども収まって余り頻繁には起きなくなってきた段階から初めて浮上する市民共通の関心事なのである。

 勿論都市空間と、住宅空間の復興自体は経済的流通が出来る限り非常時突発以前の状態へと正常化することだけが迅速になし得るとも言える。しかしその為に経済金融討議をしても、その主旨が広く国民に説得力を持つかというと甚だ疑問であるとは言えよう。それは漫才などのお笑いが今被災地に直ぐに必要かと言われれば、それは違う、未だ時期早尚であると我々が判断してしまうこととも関係があろう。
 自然災害による不可避的な文明破壊とは、ある意味では心理的には国民とか市民を結束させる。それが運命共同体的な心理へと我々を常に突発的な自然災害が誘引させていくという例外的な事態の持つ一つの可能性ではあるとも言える。

 政治の世界では震災による復興支援に於ける国家の責任の所在を巡って与野党が論争しているが、実際我々一般市民の目から言えば、彼等は自己勢力拡大と利権死守の為に奔走していると映ってしまう。だからこそこんな時には我々にとって思想とはどうあるべきか、果たして我々を救うことが可能なのだろうかという問いも齎される。
 学問は復興プランに於いて建築とか地政学、地理学的見地から急務だし、精神医療をも含む医療全般、交通機関などによるインフラ整備の諸技術、東電を元として多くの問題を露呈した電力供給の問題など諸科学が急務的に必要とされている。しかし一方社会科学一般はこの緊急事態に於いて、それこそ漫才の様に即座には役立たないものもかなり多く、それ等の専門家達が今後どの様に取り組んでいくべきかということは彼等なりに苦悩を持って脳裏を駆け巡っていることであろう。それは文学とか芸術などにも言えることである。そして風評被害などを生む土壌である情報化社会のマスコミからウェブサイトまで含めた情報インフラに対する在り方自体の模索も今後益々急務とされていこう。

 つまりだからこそ思想が学問とか芸術、文化全般に対して指針的ロールを担う必要があるのである。生きているということは死者に対する鎮魂という作業を使命としてもいるが、同時に生きている者だからこそ享受すべき心の内面での幸福感情というものに対して必要な様々なアプローチに対して考えていくべきでもあるのだ。
 つまり何時かは誰しも死ぬということに於いて、何時死んでもある部分ではし残してしまったという後悔を出来るだけない様な状態へと心を持っていくということ自体が宗教的命題としても常に残されていて、しかしそういった死の命題はエンジニアリング的な技術革新と、経済学などをも含んだ文明維持合理性の名の下では必ず隠蔽されていく。これは私だけでなく多くの論者が以前から度々指摘してきたところのことである。
 つまり一見役に立たない様な心の学問的な学究的態度とか、関心こそが、経済学者とか金融システム管理的専門家にも即座に理解出来ない市場動向とか、経済市民の需要と経営者達の供給の動向、つまり予測つかなさに対する処方の目処を立たせるとも言い得るのである。

 ずばりシステム管理上でのエンジニアリングにとって最大の盲点とは、人間は合理主義的にだけで全てを判断しているそういう生き物ではない、ということに尽きる。この点で私は分析哲学的専門性とか論理学的専門性だけではない形での生の哲学的命題の復権と、思想の果たす役割をもう一度真剣に熟考する価値がある、と考えるのだ。恐らくそれは文学や芸術や批評をも変質させていくことだろうし、科学技術革新に対する方向性もある程度決定させていく様に思えるのである。

 次回からは人類サヴァイヴァルと、人類生存にとって認識的にどういった思想や学問が必要とされていくかということの予想と、今現在に於いて重要な論点に就いて考えていってみたい。