Monday, November 3, 2014

第八十七章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑧ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

前回はIS(イスラム国)が現代文明の利器を最大限に利用して文明圏全体から恩恵を被りつつ、詰まり自由主義と資本主義の矛盾を叫びテロ行為をする事自体の矛盾が彼等の行為の正当性を疑わしいものにしているという結論だった。
尤も絶対王政時代でさえ王政が唯一正しいものであったかどうかに関して否であると考えていた人達は大勢居ただろう。だが彼等の全てが王政を倒そうと思っていた訳ではない。現代でもイスラム国的な挙に出る事を想念上では脳裏に介在させた事がある人は多いだろう。だが実際彼等のしてきている事はやはり国際的犯罪と言っていい。キリスト教自体はパリサイ人やユダヤ教律法学者達にとっては危険思想であったものの、犯罪とは違った。イエスのしている事は説諭であり、友に語り掛ける形式だったからだ。その点ではイスラム国のしている事はやはりテロ行為に拠ってプロパガンダ的に犯罪暴挙を正当化しようとするある種の逃げである。
しかし民主主義に全く欠点がないとは勿論言い切れない。それは何度か述べたが、大勢の意見だけが常に正しいという事になる、でも実際は少数派の意見の方が正しかったと後から振り返って言える事も多々ある。それだけでない。恐らく民主主義とは最も平均的で毒にも薬にもならない施策が最も法案として通過しやすいという事も言える。つまり秀逸な思想や発想が踏み躙られていくという事はあり得る。と言ってテロリズムに拠ってその否定的意図を示す事が正しいとは絶対に言えない。
しかし如何に民主主義であれ自由主義経済であれ、その弱点や欠点に対してどうすべきかの議論は絶えず自由にして、積極的に今の侭でいいのかという論議をする事を推し進める必要がある。そしてそれを余りしていない国家群では当然今回のイスラム国の様な事態がシリアやイラク等で起きたという事実を成程と思わせるものはある。それはアメリカ合衆国や日本の様な国でも民主主義自体の問題点をも(資本主義自体の問題点はそれなりに常に為されているという事は言えるが)検討するという機会をもっと増やすべきではないだろうか。
これはしかしかなり成果主義や数値主義と個性主義との間でも言える事だ。個性主義とか人格評定主義は人間性という基準が人それぞれ異なっていて、曖昧だという事に関しては数値評定主義の方がずっと公平だと言える。だが当然の事ながら試験の数値だけだとそれも又得意不得意の試験運の様なものも言える。それを無くす為に何度も試験をする事もやはり出来ない。此処で色々なディレンマは確かに浮上する。
つまり今現行のものとはそれ以外に取り敢えずいい方策が見出されていないからという消極的理由に拠るのだ。民主主義も自由主義もその標榜自体が一人歩きして何かそれ以外の事を考える事を全て封殺する様な不可侵対象化してしまえば、当然それも一つの認識論的、思想的テロリズムである。思想弾圧とは何を容認してそれ以外のものを否定しようが性質は同じである。民主主義は常に独裁主義(ファシズム)等に拠る社会全体の暴挙となっていったプロセスの後でそれを是正する意味合いでのみ正当とされる。
それは国家体制でも言える。共和制であれ立憲君主制であれ、それ等はそれ以前の形態での何等かの歴史的否定的結末自体に拠って反省的に齎されているに過ぎない。従ってそれを自由に論議する事だけは侵されてはならない。そういう風に自由に論議する事と、それでも尚実際には今の形態が正当とされているという事実に対し、それなりに(仮に批判精神を持とうが)遵守しようという判断とは当然両立し得る。
本シリーズの曖昧な同一化とは民主主義で自由主義体制で、資本主義経済を最も順当なものとするという欧米先進国モデルを正当としているという事自体への問題提起的意味合いがある。つまりそれ等が一体化されている事へ何の疑問も抱かないとしたなら、それはそれで意識の欠如である。つまり絶対君主制や王制自体の問題点からそれらが成立し、今も天皇制も残存していても、それは民族の統合の象徴という形で日本国憲法(現行憲法)では規定されている様に、民主主義や表現の自由が侵されるものではない。しかし同時に表現の自由とは何処迄適用されるべきなのか、とか実際に個人情報を侵害する様なタイプのヘイトスピーチや他者の表現の自由を阻止する様な表現は当然自由ではない様な意味で、常に自由とはどういう事であるかの論議も絶やすべきではないと言い得る。
尤もリアルスピーチとフィクション上での表現はそれなりに分ける必要があるし、リアルスピーチでもフィクションとは違う形で表現に自由は保証されるべきである。ケースバイケースの検証が常に要求される。今欧米先進国では確かに立憲君主制を採用している国々があるが、その事実が絶対王政へ逆戻りする事はそうないとも思われるが、それさえ国民全体の総意として正に逆説的に民主主義で決定されれば、それは実施されて然るべきだとも言えるのだ。その点ではブータンの様な君主制自体へ一切の疑問を国民が持たない(とされているが、実質的にそうであるかを私は確認し得ないので、一応それを正しいとして)という様なケースも当然あり得るので、一律的に正当なる国家形態を論う事は不可能である。
それは結局市民、住民が住んできた歴史、生活状況全てに関する固有の事情で常に判断されるべきだとだけ言える。(つづき)

Monday, October 13, 2014

第八十六章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑦ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

 現代社会は先進国と呼ばれる国家群が何等かの形で特権的地位を得ている事で、それ以外を発展途上国と呼ぶ事を慣例化させ、先進国がかつて絶対王制であった事から、その瓦解、革命に拠り、王政的問題点への反省的地平で先進国が民主主義を自由平等友愛的観点から採用していて、それがスタンダードでそれ以外の国家形態を少なくとも世界全体の平和和平安定維持路線の為の代表にはなり得ないものと認識し、世界中に認識させる事を慣例化させている。
 しかもロシア革命が農奴解放の為に履行され、ソヴィエト連邦として再生した後の共産主義の国家運営的な失敗を通して資本主義・自由主義こそがスタンダードであるとしてそれ以外の共産主義的国家運営と、政治体制を少なくともスタンダードではないものとして認識し、世界中に認識させる事で世界の取り敢えずの安定が図られている。
 その際に重要なのは資本主義・自由主義経済がスタンダードで、それを維持する為の方策として民主主義が一番妥当であり、何かそれ以外の方策を思いつく事自体が反安定志向と読み取られる事を暗に我々へ強制する形で国連をはじめとする世界基準全体が運用されている(国連では共産党一党独裁体制である中国のみ例外的扱いとなっている。ソ連は崩壊今ロシアとして再生されたロシアは欧米常任理事国<アメリカ、イギリス、フランス>を指針としてやがて対等となる事が暗に期待されている)。
 此処で重要な事は資本主義・自由主義といった体制自体が最も妥当な安定地点であるする事でそれを維持する為のやはり最も妥当な、それ以外これといった方策が今の所(か、或いはもう永遠にと思っている人達も大勢居るだろうが)民主主義以外では見出されないという認識の下で、この二つの体制が抱き合わせとなっているのが世界秩序安定志向的妥当性と言える。
 重要な事は我々が歴史自体を実験する事が出来ず、一度ある体制に持ち込めば、それ以外の体制自体が試みられる事を含め実験的では居られない、取り敢えず今敷いている体制は一つの実験で、やがてそれ以外の体制へ移行する事もあり得る等という悠長な事を言う暇が一切与えられず、施行されている体制自体が善で、それ以外は悪として認識される事こそが政治の歴史的必然なのだ。従って実験的であり得る事を証明するには現体制を崩壊させ(つまり流血を伴う革命を履行し)、然る後に別の新たな体制へ持ち込む以外に方策がないという事だ。今年は民主主義、来年は絶対王政、その翌年は原始共産制(貨幣経済でなく物々交換<バーター>交易を中心とした)を施行させ、その内のいずれが一番効果的であるかを実験する事等全く不可能だという事自体が歴史とは実験し得ないし、され得ないという事である。
 従って鎌倉幕府が一つの実験であったと仮に歴史家が言ったとしても、それはあくまで鎌倉時代の後八百年以上の年月がかかって過去を歴史として振り返る時のみ有効な言葉の使い方だと言えるのだ。
 従って現体制がその様に世界平和和平維持安定秩序が挿げ替えられぬ以上、誰しも運命論的には(実現可能性としてではなく、あくまで観念夢想的には)本当に資本主義・自由主義経済と民主主義が抱き合わせである事だけが正義で、それだけが最も全ての市民の幸福に繋がるとは言い切れないし、そうであると完全善として現在体制を肯定する事も出来ないのだが、では何かそれ以外の方策等可能であろうかという思考実験を経た後誰しもが、それ以外に取り敢えず(何か人類全体を生存の危機へ落とし込む様な事態にでも直面せぬ限り)誰しもが思いつく事等なかろう、どんな天才でもそれは不可能であろうという目測で(そういうものがあり得るのだと言い出せば、それは只観念的夢想と言うより妄想に過ぎまいと誰しもが思ってしまう)事態がずっと継続していると言えるのだ。
 現代社会がこの資本主義・自由主義経済社会と民主主義体制を曖昧に同一化させ一致させる事をスタンダードとする視点とは、明らかに理論物理学等の不確定性原理や、それ以降のファジー理論等の実用的な社会インフラ維持のテクノロジーがそれだけが取り敢えず自然なものと思わせてきていると言える。
 現代という時節とは、確定的な叙述、完全論理無矛盾的な真理の述定自体へリアリティを感じる事が困難な複雑な真理構造を直観的に全人類が把促している時代なのである。だからこそ共産主義経済の失敗に拠り、歴史的にその期間自体を後世の歴史家が実験だったとしようという事で、修正資本主義を導入する事で極端な資本主義経済での矛盾を表出させぬ方策を加味して取り敢えず資本主義は運営されてきている。しかし格差は依然として大きな問題であり、マネタリズム以降の金融資本主義がリーマンブラザース倒産に拠りリーマンショックを人類が経験すると、再び金融帝国主義化していかざるを得ない現代資本主義へ疑念を抱く観念は多くの世界市民に共有されている。しかしその共有は常に漠然とした不安にとどまっており、自分自身の生活が取り敢えずの安定を確保する事さえ出来れば、やはり現体制以外に理想的な形態等あり得ないのだと納得せざるを得ないシステムへ心自体を持っていく。
 不安的直観を増大させる事は鬱的心理であるか妄想以外にはないと割り切る事自体が現代人のある種の現体制への同意納得となっている。
 従ってイスラム国をはじめとするある種のテロリズムへ訴える政治行動自体は、そういった同意納得の欺瞞的ではあれ、それ以外に方策が無い事を納得する度に封印させていこうとする理性という立場の前では、確かに完全理性破綻と見做される。
 哲学者なら、その欺瞞性自体を論う事に意味を感じるが、哲学者のそういった誠実性は危険極まりないと一般社会自体が暗に規定している限り、専門哲学者はよりロジカルな精緻で微細な弁証法へと明け暮れ、専門哲学は益々唯論理実証性のゲームへと邁進し、しかし過去の哲学の持っていた哲学命題設定に付帯するモティヴェーション自体が形骸化させる形で残存している歪な数論理学に移行してしまった。
 しかしそうしなければ実際に哲学が行動思想への足掛かりになる危険性は既に第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦時に田辺元が経験していた事である。つまり哲学はやはり国家主義や国家覇権主義、帝国主義的他国の侵略に利用されやすいのである。それを承知している専門哲学は、そうならぬ為の予防措置を論理自体に内包させているから難解なのである。
 それを振り切って反社会的な破壊へ直結するものこそヘイトスピーチであるが、ヘイトスピーチとはそれに共感し得る観衆や聴衆が幻惑的に自己理性を消失するある種の陶酔へと自己欺瞞的に没入する、つまり歪に情感主義的な感性へ赴く以外には同調し得ない性質のものである。
 つまりだからこそある種の反国家主義的なイスラム国的テロ世界活動が、異様に理想超越主義的に輝いてある種のアウトロー的青年達の心を鷲掴みにするのだろうと思われる。それはヘイトスピーチの持つ民族アイデンティティ的な溜飲を下げさせ効果と違って、より強力にアナーキズム路線なのである。
 そのアナーキズムは資本主義・自由主義と民主主義の曖昧な同一化に同意納得している現代人、人類全体への極度の懐疑は被さっているのである。しかしそれはやはりもう一つの現代社会的人類同意納得的なリアルに対するヘイトスピーチでもあるのだ。それは残虐な一般市民への殺害とその映像公開とに拠って性格的に決定づけられているからだ。これは完全に現代のウェブサイトコミュニケーション時代のインフラやツールやディヴァイスを前提してしまっている。その点が徹底していない、つまり時代が産み落としてしまっている負の側面という生活を拭い去らす事自体が困難な程現代社会、現代人類的同意納得に加担し、依存してしまっているのだ。そんな事をするくらいならいっそアーミッシュの様に電気さえ使わないという生活を死守すべきである。しかし彼等はそういった時代を無視する勇気さえもない。寧ろグーグルやアップルやマイクロソフトを利用する事でしか成り立ちえない一種のゲームとなってしまっているのだ。
 この珍妙さ自体が彼等の行動を正当化させる事を困難とする第一理由である。
 次回は現代社会のインフラを全く消滅させて我々が生活していけるだろうかと言う思考実験を軸に考えていってみたい。

Friday, October 10, 2014

第八十五章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑥ 民主主義だけが絶対的正統とも正当とも言えないけれど

 我々は実は真に社会として理想形であるのはどんな形態であるかを判断する事が出来ない。何故なら日本であるなら明治期以降の天皇制と今の天皇制は全く性質が異なっている(とは言え精神的には今日本人は先祖返りしている部分はあるのだが)し、欧州諸国も絶対王政から離脱している(韓国もそうだし、中国もそうだ)し、要するに民主主義国家であるという体裁以外の体裁を経験していない我々がひょっとしたら絶対君主制的社会が悪とは決めつけられないし、それは全ての民族や国家で言える事なのだ。
 又民主主義が王政国家やそれ以外の君主制より誤りがない、間違いないとも言い切れない。要するに仮に民主主義国家で生活していても、それが一応他の体裁より適切であり妥当であると我々がしているに過ぎず、今ある形こそが理想であるとも必ずしも言い切れないのだ。例えば確かに民主主義国家では選挙等で全ての最終決裁が行われる。議員は全て選挙で選ばれる。しかし当然の事ながら選挙では民衆、つまり有権者全員がある間違った選択、誤った傾向へ政治全体を選挙結果に於いて当選した議員を国会や地方議会に送り出す事で赴かせてしまう事も稀ではないし、要するに衆愚的な誤りを犯してしまう危険性と常に隣り合わせである。
 民主主義では要するに昨今の裁判員制度と同じ様にあくまで素人の数の方が多いのだが、一部専門家だけに全てを任せておくのが危険であるという前提で設定されているので、何時も何時もだとは勿論言い切れない(意見としてのマジョリティが正しい場合の方が勿論多い事は多い)のだけれど、要するに衆愚的に誤った判断を有権者の大半がして、誤った政治とその政局的傾向を作り出してしまう事も大いにあり得るのだ。
 上記の事実では当然世界の趨勢であるところの民主主義自体への懐疑的眼差しが生じる事も必然となる。この事の昨今の顕著な傾向こそイスラム国であるとも言える。と言うのもそもそも民主主義とはあくまで欧米先進国を中心に発展してきているし、世界が世界標準だと信じて疑わない事の大半が絶対王政崩壊後の民主主義である事は間違いのない事実だからである。
 その点ではイスラム国の行動自体に否定的批判的な多くのイスラム教文化圏でも存在する事も当然であるが、そもそもイスラム教文化圏は、日本や韓国や中国が東南アジアとも欧米先進国とも又違う文化習慣を持っているが故に、異なった精神性を形式としての民主主義(中国は昨今動向が注視されるべき香港と、台湾では民主主義が実現しているけれど、中華人民共和国はそうではないけれど)に加味して考究していく必要性はあるのと同じ様に、全く仮に体裁として民主主義を採用していても、欧米スタンダードとは精神的文化基盤の異なる思考回路と理性主義を持っていると言っていい。となればそういった世界標準自体を多く欧米キリスト教文化圏で援用されてきている交易、貿易システム等も含めた世界的な正義決裁性自体への懐疑としてイスラム国の様なタイプの行動が誘発されても、その事自体は(仮にどんなにイスラム国行動が理不尽で否定すべきものであってさえ)必然的な展開だと考えてよい。
 勿論彼等の行動に拠って民主主義が崩壊し、世界中がイスラム国的思想で行動する様になるなどとは考え難い。だが同時にこういったイスラム国的行動自体は、仮にイスラム国が国際世論に拠って制圧され弱体化していってさえ、恐らく何等かの形で、それを制圧させようとする国際世論を嘲笑う如く、もぐら叩き的様相で維持されていくのではないかとは容易に予想され得る。 つまりどんなに世界的にスタンダード化された標準類型で世界が一定の安定を得てさえ、必ず其処から零れ落ちる類例も常に産出され得るからだ。
 その意味での香港ムーヴメント自体注視されていくべきだし、欧米民主主義国家群が中国に拠って統制される事を望む全人代面子の思想と、中国の経済力に依存せざるを得ない香港中小大企業の動向全体が、ある程度イスラム国的な思想を彼等以外に出現させるか否かを決定していくという風にも考えられる。
 イスラム国の首謀者達が一定程度の知性を持っているのなら、恐らくロシアとウクライナとの動乱以降の思想的展開、世論、或いは香港内部での中国拠りの思想と反体制的自由思想との成り行き自体を静観しているだろう。
 それらの事を勘案して我々がある程度結論してよいと思われる事とは、要するに我々は全ての妥当なる、と言うより妥協的安定維持の為には取り敢えず民主主義以外にいい方法を知らないからこそ、それを採用しているに過ぎない、勿論民主主義自体も発展進化可能性は充分秘めている、にも関わらずこのかなりの程度真っ当な決裁を可能とする制度さえ、必ず落ち度も齎していくだろうという目測自体が絶えず何等かの形で日本国内で、そして世界中に派生させていった赤軍派の様なタイプの反国家主義、反民主主義的集団(其処ではリンチの様な行動も正当化される。しかし例えばキューバ自体も現在でも革命分子に拠る革命成功の後衛として機能しているし、それは決定的に欧米先進諸国とは異なる政治的リアルがある)は何等かの形で勃興しつつ、やがて鎮圧され消滅するが、大勢の世界市民から忘れられた頃に再度勃興していくという経路を世界史が辿るであろう事も又容易に想像され予想され得る事である事も間違いない。
 取り敢えず現代時点ではイスラム国へ参加希望をしている(既に参加しているメンバーは日本からも居るだろうが)人達が何故そういう行動へ走るのかという部分での動機分析と共に、これからそういう考えへ赴きそうなタイプの市民へどういう啓蒙をするかという事以前的に、そういう感性や思想を封じ込めるのではなく、民主主義体制自体の問題点に関しては真摯に問い詰めていく理性と自由な論争を許す空気だけは封じ込めてはいけないとだけは言い得る処の事ではないだろうか?
付記 次回は民主主義と自由主義経済、資本主義経済との曖昧な融合、共同戦略に対する再検討と考究を主旨とする。

Saturday, April 5, 2014

第八十四章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑤ 仕事、職業という仮面が言語の仮面性を作る

 もし我々が我々の行為全部を自覚的で意識的であり、その意義を問う事を止める事に潔しとしないなら、我々はどんな行為もそうおいそれとは為し得ずに終わるだろう。生涯何もせず何をすべきかだけを考え続ける人生というものを想定しなければいけなくなる。
 しかし我々はそうしない。必ずと言っていい程何かする。仕事もそういったものの中の一つだし、余暇にする趣味も旅行もそうである。
 我々は端的に反省的存在者ではない。だからこそ時に反省を自省的に必要だと悟る。しかし全ての社会成員が好き勝手に振舞い一切の法も存在しないとしたら、恐らくするべき事を常に真剣に考えざるを得なくなるだろう。何故ならそういった社会とは法秩序もないが故に生存自体を自己に確保する事が困難となるからだ。しかし実際は社会とは法秩序に拠って運営されている。あらゆる商売に対して商法というものが規定的な尺度として存在し得るからこそ自由に誰しもが建前上では商売をする事が可能なのだ。そして何故その様に法秩序を我々が施行させてきたかと言うと、全てを自己決裁する困難さを全ての社会成員が同意しているからである。それは暗黙の同意であるし、それを誰しも当然だと思っている。それが文明社会というものだからだ。
 だからこそ我々はそういう社会総意としての法秩序と経済社会で気楽に自己行為を為せるとしたら、それは全行為の全次元での自己決裁ということを途方もなく困難で、辛い事であると知っているからだ、とも言える。そればかりか全行為自己決裁である社会ではそもそも義務も権利もない。それは少なくとも文明社会ではなく野生に近い。しかしそこ迄自己行為の利害や自己生命の生存を自己決裁で維持しなくてもいい様に社会が我々に権利と義務を与えているなら、その中で我々に拠って行われる行為は全て建前的に保証されることとなる。それが仕事であり、職務である。
 我々が他者にある部分では全面依存している事を自己に認められ得るのは自己も又誰か自分以外の他人が自分に依存している事を保証する事に同意しているからであり、その相互依存自体が分業という形で我々の自己存在を社会的に認知し得、認知させ得るのだ。
 従って社会内存在的な意味での仕事人、職業人である自己とはそれ自体相互容認的な仮面仮装だと言える。我々は他者から自己に対して必要以上の問い詰めをさせない代わりに自己からも他者に必要以上の詮索や干渉を行わない事が暗に全成員の総意である事に同意しているのである。それこそが社会人として生きるという事、生活するという事なのだ。
 しかし何故そう同意しているかと言うと、人生の全時間を我々自身が反省的自己として過ごすということが誰しもにとって耐えられないからである。
 我々が四六時中反省的自己であることを人生を全うするとしたなら、我々は先にも述べた様に何もおいそれとは行為し得ない。しかし我々はそうではない。義務と権利との引き換えに同意していればこそ気楽に電車にも乗るし、自販機でジュースを買いもする。 我々は絶えず何故我々が生きているのかとか、何故自分自身が生きているのかという問いだけに時間を割く事が耐え難いのだ。何故そうであるかと言えばそう自己へ問う事自体が、自己へ本音を吐き続けなければ問えない性質の事であると薄々知っているからである。
 本音だけを常に他者、他人に吐き続ける事程苦痛な事はない。それはそれを聴かされる他者にとって苦痛である以前にまず自分自身で耐え難いのである。それは反省的自己だけで人生の時間を費やす事を予告してしまう事を誰しも知っているからである。そしてそういった無為な結論の出ない自己内論争の果ての他者とのコミュニケーションが所詮そうする事で相互に詮索と干渉をし合う事を我々は熟知しているので、必然的に我々は相互に本音を言い合う事を回避させ合う為に仕事とか職業という分業社会的秩序の仮面を被るのである。
 仕事の履行とは端的に相互不干渉の同意の下に行われる仮面仮装の意味合いがあるのである。
 我々は実は自分自身を全人生の時間を反省的自己へと費やす事を困難と感じさせる事実として、自分自身の本音というものが一体どういうものであるかを意外とよくは知らないのである。
 何故なら一般的に本音とは概して自己自身の他者とは無縁のそれであるよりはずっと、他者との関わりに於ける他者から自分への、或いは自分から他者への希望である事が大半であるからである。純粋に他者との関わりを介在しない自己の本音という事が仮にあるとしても尚、その正体を突き止める事自体が又途方もない自省的時間を確保しなければいけないと我々は知ってもいるのだ。
 かくして我々はよくは分からない自己の本音を相互に示し合わない様に暗に画策しつつ、常に自覚的ではない自己本音というものを常に不問に付す形で仕事や職務という公務の履行へと意識を移行させつつ、その仕事や職務を邁進する事を相互に価値化する事で、本音の所在追求を回避しつつ、自己本質究明を相互に執行猶予し合っているのである。
 本章の結論的に言えば、我々は人生での全行為に対して非哲学者であればこそ、逆に時として反省的自己も必要だという形で哲学を一つの学的なツールとして価値化し得るのであり、全人生の時間を哲学的自己として過ごす者が仮に居たとしたら、その者は正真正銘の狂人である。
 我々は自己を他者に対して相互に狂人ではない旨を示す為に自己に対して仕事、職業という形での仮面を装着するのである。その事にどんなに天才的な哲学者や思想家でも例外ではない。

Wednesday, February 12, 2014

第八十三章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて④ 言語とは仮面なのだろうか?

 重要なことは、我々は本当に自分自身の気持ちというものを完全に把握しているのだろうか、ということである。自分の気持ちとは必ず自分自身をもう一人の自分の中の他人的な見方をする自分に拠って俯瞰されている。と言うより自分自身を観ようとするもう一人の(否自分に拠って観られる自分こそもう一人の自分かも知れないけれど)目とは必ず自分的ではないと自分で知っている自分の中に巣食わせているある種の他人である。ヘーゲルとかサルトル流に言えば対自ということなのだろうが、もっとそれより他者全般への虚栄心とかも含んだものも観方を我々は決して完全には捨てられないのだ。
 まず意志決定というものの中に完全に自分自身へ欺くことのないと言い切れるある種の誠実性があるのだろうか?
 態々決心しなければいけないことというのは、必ず何処か自然に余り深く考えずに実行して、しかもそのことで後々悔やむということのないこととは違う側面がある。
 つまり決心するとは自然なことではないのである。
 と言うことは意志決定というものの中に必ず自己欺瞞的部分があると考えることの方がそうでないより自然だということとなる。
 何かに関して話題にしていて、云々Aと云々Bとではどちらが好きですか?と聞かれてそのAとBとの分類の仕方自体に余りしっくりと行かないという気持ちがある場合、その質問に対して返答する場合は、明らかに強いて答えるのなら、という条件が付帯する。その場合その条件を敢えて言わずに返答する場合相手、つまり自分への質問者に対して余りその質問の正当性に関してきちんと相互承認を経ずに適当に(ネガティヴな意味のテキトー)返答するということを選択していることになる。
 その場合その返答は明らかに相手の質問の適切性を敢えて不問にして為されているので、必然的に相手の態度への無思慮的な迎合がある。要するに問いと返答の在り方への問いかけを省略していい加減にコミュニケーションをしている。と言うより全てのコミュニケーションを哲学的に精査してその適切性を抽出して会話することなど我々は出来はしないし、しはしない。
 と言うことはコミュニケーション自体にそういった全ての適切性を不問に付すという厳密にはその意義を問わないという性質がある、と考えることは自然である。
 コミュニケーション自体がそうであるなら、必然的に言語自体にもそういった余り深く一々為されている語彙選択とか文脈選択とかの正当性を問い詰めないという曖昧さを一定程度許容しようとする性質が備わっているのだ、と考えても強ち間違いと迄は言えないということにもなる。
 例えば「もし貴方が誰か一人だけしか助けられないとしたなら、貴方にとって一番愛する人ですよね、そうでしょう?」等と言う場合畳み掛けるその最後の付加疑問文は明らかに同意を得たいというある種の要請である。しかしそれを拒むことも返答者としては自由であるし、事実その自由を付与されていればこその質問の筈である。
 しかし我々の会話ではしばしばそういう風に完全に自由を相互に承認し合う形ではなく、物事の進行を会話上でも滞りなくさせたい気持ちから付加疑問文への返答を半強制的に補足することはある。
 勿論それを拒む自由も選択も常にあり得る。しかしどんな場合でも必ず完全自由を承認し合うことは出来ないと言っていい。それどころか我々は積極的に真実に濃密な対話を実現させる為に日頃から濃密にする必要のない多くの会話を滞りなく済ませる為に相互完全自由承認自体を回避しているのだ。
 これはある意味では言語行為の中に日常惰性的な意味での仮面装着を相互に認可し合っている証拠ではないだろうか?
 もし我々が全く仮面を必要としないのであれば、そもそも言語等を使用するということはあり得るだろうか?つまり相互完全自由承認の回避を促す選択肢を敢えて問う以前の習慣とするということの内に、我々は仮面を外す時、或いは外すべき時もあるが、それ以外では完全に仮面を脱ぎ捨てていてはいけない、或いはそうであることは適切ではないと考えている、或いはそういうものでいいと感じている、ということが言えるのではないか?
 つまり言語行為とはそもそも完全な誠実性だけを履行する為のツールなのではなく、幾分の欺瞞を差し挟みながら、欺瞞ではない仮面を全て脱ぎ捨てる時間をより特別の時間として認識しつつ、その時の為に、それ程ここぞという時ではない時間ではエネルギーを節約している、と言えるのである。
 しかし、となると言語自体は欺瞞である場合とそうでない場合もあり得るのだから、論理的には仮面をつけたり外したりという反復だということになる。そしてそれは言語自体が仮面であるとは言えないもっとメタレヴェルの行為だということとなる。
 しかし我々はどういう時にしっかりと仮面を被り、どういう時はそうではないかということを何か定式的に理解してそうしている訳ではない。となると我々は必ずしも理性的にある時は仮面を被り、別のある時には仮面を外すということをしているとは限らない(勿論そういう時もある)ということとなる。
 つまり仮面を理性的に装着する時と、そうでなく感覚的に察知して咄嗟にそういう風に身構える時と、感性的に装着しなければいけない場合さえ、それを外したくなる時もあるし、理性的に仮面を外すこともあるということとなる。それは意志決定とか決心に於いて自然にそうするのではないということと関係があるものと思われる。そしてそれは事実その様に行われている、と私は考えるのである。次回はそのことから考えてみる。(つづき)

Wednesday, January 22, 2014

第八十三章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて③ ハニートラップとリベンジポルノ、或いはマスコミの精神分析

 ウェブサイト上で個人的な恨みをはらす為に嫌がらせ(harassment)をする最も現代で問題となっているのがリベンジポルノと呼ばれる行為である。しかしこれはある部分ではウェブサイト上で広まれば社会問題となる、つまり不適切な行為であると見做されることを承知で広めようとするので、その本質はマスコミの似非的な大衆の好奇心に漬け込むストラテジーと相同のものである、と言うよりマスコミのえげつない仕方を個人で応用して行なうのはこのリベンジポルノだ、と言える。
 対しもっと国家機密、組織の機密の漏洩、あらゆる集団秩序を乱す機密事項の漏洩を旨とするスパイによるなりすましで最も昨今世界的に問題となってきたものがハニートラップである。要するに色仕掛けに拠る機密事項の入手とその漏洩である。
 ハニートラップはあくまで公的な社会秩序、集団内モラルの破壊を目的としているという意味で敵対する組織・集団・国家等の陣営に拠って巧みに送り込まれた色仕掛けのスリーパーに拠る行為であるのに対し、リベンジポルノは私的な怨恨を公的場であるところのウェブサイト上に流布させる悪辣な行為である。
 しかしハニートラップがなされたと見做され報道されるや、その罠に引っ掛かった政治家であれ経営者であれ、その無防備さを一斉に揶揄され批判され、リーダーとしての器を疑われ辞任に迄追い込まれることも多々あることを考慮すれば、それも又マスコミが漬け込む特権的権力者の汚点追求という観点から、やはりこれも仕掛ける側からすればマスコミのえげつなさを応用していると言い得る。
 性行為はあらゆる行為の中で最も無防備な態勢(体勢)を行為者へ強いる。それは睡眠に次ぐ防備を不可能とされる行為だ。其の点ではそういった人間の動物的側面を利用しようとすることは、利用される側の羞恥や、そういった羞恥的場面を知られたくはないという社会的顔(体面)の保持という虚栄心の軛を弄り回そうとする悪意に彩られている。そして利用しようとする者が利用される者が決して知られたくはない側面を暴露しようとするということ自体に、利用者が逆にそうされたら、最も体面に傷をつけられると知っている、という意味に於いて、最も卑劣且つ用意周到である。
 その罠に引っ掛かった者は既に利用しようとした者の悪意を責めるということをする余裕を持てないからである。本来なら名誉毀損で訴えることも可能であるにも関わらず、知られたくはないことを知られてしまったことの穴埋めに何とか体面をそれ以前の状態へ戻そうとする必要性から、犯罪者の側への非難と責任追求と罪状を証明する心の余裕を一挙に奪うからだ。
 其の点ではマスコミ自体が既に一世紀以上もの長きに渡って決して報道して騒動としてしまったこと自体へ責任を問われない特権的パワーとなっている事実を差し置いて、この二つの性的な罠を論じることは出来ない。確かに非力な市民の個人のプライヴァシーを侵害した場合マスコミは陳謝し、場合に拠ってはきちんと賠償をする。しかしそれは権力者、政治家や大企業の経営者へは当て嵌らない。その区別こそが社会全体、国家全体がマスコミへ暗黙に容認している特権である。
 ある国家、組織、法人全体へ不利益となる<知られてはまずい情報>をリークする為に色仕掛けするハニートラップも、個人情報として知られては人間的人格から派生する羞恥を隠しきれない苦悩を催す映像をリークするリベンジポルノも、マスコミの特権の乱用、一切責任を問われないことで高を括っている惰性的無反省的態度を、充分応用し戦略的に活用しているという意味でマスコミ戦略の敵対陣営、個人に拠る模倣性が高い。
 となるとハニートラップとリベンジポルノを精神分析することはマスコミをリークされた情報であれば何でも報じてしまうという野放図を放置した侭である我々自身のマスコミへの接し方を精神分析することでもあり、そうすることがマスコミに帰属する成員達の精神分析をすることと同じだ、と言える。
 マスコミは社会全体が自分達を報道する機関として必要だと認識しているということへの認知を前提にして取材報道を行なう。それはニュースその他の諸々の情報公開を我々自身が求めるからだ。我々はどんな些細なことでも公的なことで隠されていると知りたくなるという好奇心がある。当然機密事項として保全されるべき事項もあると弁えていても、いざその実態を知らせるぞとマスコミに唆されれば耳を塞ごうとはしない。これがマスコミの成員達に固有の特権意識を持たせている。
 そのマスコミの成員たるジャーナリストの<求められるから報じる>という意識を国家全体の利益、組織全体の利益として政治経済上の政策政局スパイ、産業スパイとして色仕掛けでオフレコ事項をスパイする成員も、個人の怨恨を晴らす為に仕掛けるウェブサイト上のリークをする個人も応用活用している。マスコミという存在、ジャーナリズムという存在が地球上に人類に存在しなかったならハニートラップもリベンジポルノも存在し得ないだろう。
 と言うことは組織や集団自体がマスコミと直接関係のない業務を執行する場合でも、個人が必ずしもマスコミ、ジャーナリズム活動自体に精通していず関心も然程ない場合でも、その応用活用をしやすい、ということ自体が、組織・集団・個人とはその数的なメジャーマイナーに関わらず既存の好奇心を満たす機能を模倣する快楽をその自己利益の保持と維持の為に必然的に持っている、と捉えてよいこととなる。
 これは集団も個人も所詮その利益追求の為には悪をも履行するものだ、という性悪的な人間の性質を示している様に思われる。
 ある知られたくはないことは隠す側からすれば自己防衛的に隠す必要性があるが、暴こうとする側からすればその者が隠そうとすればする程知りたくなるというえげつない好奇心を持つ、ということだ。
 それは既にウェブサイトでは止めることの出来ないポルノサイト、アダルトネット配信が存在することと、それを見たくなることは誰しもあり、それを止めることが出来ないということとが対となって既にウェブサイト上で消去することが不可能となっていることとも大いに関係する。個人が検閲すること自体を違法ダウンロードの様に違法化する必要性は確かにあるかも知れないが、事実上その好奇心に拠ってダウンロードすることを歯止めすることは不可能である。アップロード自体も、それをすることに拠って罪に問われても、することを阻止することも不可能である。罪に問われても尚ハッキングを止めない犯罪者が次から次へと登場することと、それは本質的には同じである。
 となるとハニートラップもリベンジポルノも既にそれを完全に排除し、消滅させることは不可能である、という前提で対処していくしかない、ということとなる。
 これらのえげつないリークを閲覧することを押し留めさせるものとは、唯一そういったえげつない好奇心よりもっと有益な情報摂取や学習というものがあるのだ、という至極真っ当なモラルだけである。そしてそれはえげつなく閲覧する全ネットユーザーも勿論承知していることである。
 恐らくウェブサイトが完全に世界へ張り巡らされた時点で既に殺人が地球上、人類史上で完全に撲滅されることがない様な意味で、これらのリークも消滅することはないということだけは決定されていたのだ。そしてそれを未然に防止するには、無防備な状況へと追い込まれる性行為自体を、安易に誘いに乗らない様に個人的に心掛ける以外の注意事項等ありはしないのだ、ということである。
 そしてマスコミのえげつなさを応用活用させることを阻止することは、結局個人の油断と隙をつかれぬ注意とモラル的な抑制力だけなのである。
 しかしドーピングがどんどん進化している様に拳銃がどんどん進化している様に、恐らく今後ハニートラップもリベンジポルノもどんどん進化していって、人を信用するということは善であるという観念さえ罠を仕掛けられた個人に疑いを抱かせる様な性悪説的心的作用を助長する様な社会状況も、きっと時と場合に拠っては必ず未来でも到来することだろう。その時我々は性行為という最も個人にとって無防備な行為をも利用する悪は滅びない、しかしそれを自分自身が如何に敵対する陣営の個人に対しても、離別して恨みを持つかつてのパートナーに対しても行なうことだけは自制するという決意だけがその都度そのえげつない行為を反復させることを辛うじて阻止することくらいなら出来るであろう。