Sunday, July 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 志向すること、構えることの意識出来なさ

 我々は通常自分の意識を外在的に覚知することは出来ない。何故なら意識それ自体は意識内容だからだ。これは現象学者達ならとっくに考えてきたことである。
 それは言語にも言える。言語それ自体、或いは論理それ自体は何事かを言語として語る時、何事かを論理的に説明する時には語れない。これはウィトゲンシュタインや、彼に影響を受けた大勢の分析哲学者達ならとっくに考えてきたことである。
 要するに我々は生活上で何らかの行為をする時、行為へと赴く時、具体的行動をしている時その事自体から外在的地点で自分を考えることは出来ない。
 勿論反省意識をその都度持つことは出来るから、その反省内容自体を外在的だと呼ぶことは不可能ではない。しかし反省や記憶された事柄の想起も又極めて主観的な様相を帯びている。それは自分自身という枠からはみ出ることはやはり出来ない。
 つまりその事は志向するという事、意図するという事、構える事自体が意識的にせよ無意識的にせよ外在的には語れないし、外在的に感知する事も認知する事も出来ないという事を意味する。
 フランシス・クリックの様な生物学者、脳科学者でも脳内の脳作用それ自体を我々は今現在の脳に於いて理解する事は出来ないと言っている。それはfMRIを通して観察しても同じことである。
 我々は自分の脳をまるで機械を操作する様に、機械のメカニズムを理解して脳を利用しているのではない。その様に意図しても、その意図自体を産出する意志自体を操作する事は出来ない。
 それは私達が自分で自分の欲求自体をどうする事も出来ないという事、自分の感情をどうする事も出来ないという事を示している。
 自分の外側に自分自身が立つことが出来ないということは、ドッペルゲンガー的状況でも全く変わりない。自分を外側から見る自分自身の外側には立てないという様に、自分と自分を見る自分は無限後退を来たすのだ。
 認知心理学、脳生理学の世界で幾つかの前提がある。医学的、神経学的な考えでは局在論はワイルダー・ペンフィールドによる脳地図というものがある。ある身体部位の神経を脳のある部位が司るということを実験で発見し、書いた地図がある。
 この局部的見方を今取り敢えずペンフィールド型視野と呼ぶことにしよう。
 それに対し、局部論と対抗する形で得られたノーマン・ゲシュヴィンドによる局部と局部とを連結する経路自体に問題があるからこそ脳疾患が生じることを発見したネットワーク理論を、ここで今取り敢えずゲシュヴィンド型視野と呼ぶことにしよう。
 私達は確かにある脳部位がペンフィールド型視野で発火する時点でその部位を動かしたり、皮膚感覚を研ぎ澄ましたりするだろう。そしてそれ自体を認知したり、感知したりする時は局在論的ではなくネットワーク理論的、つまりゲシュヴィンド型視野で考えれば、確かに局部同士の連結作用自体がそれを司っていると言うことが出来る。
 しかし重要なことはクリックが言う様な意味でその作用自体をそういう意志を脳で持つ時に、我々は知る事が出来ないだけでなく、我々はそもそも腕を上げたり、眉毛が痒いので掻いたりする事自体を脳作用で理解することは永遠に出来ない。何故なら我々は脳作用それ自体を外在的に視覚的に確認出来たとしても尚、実はその作用自体を「私に」誘引する心的な作用自体をも先ほどの無限後退の例と同じ様に終ぞ外在的視点に立つ事が出来ないからである。
 それは私達がここ数週間の自分の心理構造とか心理的傾向を理解する事が反省意識の上で可能であったとしても尚、その反省意識へと私自身を転じさせる事そのものをその時点で理解する事が出来ないし、その作用そのものをfMRIで視覚的に確認出来たとしても尚、その脳内思考の現時点での根拠を知る事が出来ないという事でも理解され得るだろう。
 それは科学では我々自身が決して意志そのものを理解する事が出来ないという事を意味している。科学とは端的にその意志そのものの在り方を何らかのメソッドでその都度示す事が出来るだけであり、意志そのものの正体から発生根拠に至るまで一切の理解を得る事が出来ないということをも意味している。
 繰り返すが反省意識に於いてそれらの根拠に就いて考えることなら出来る。しかしその事は我々が直ちにそれら意志そのものをどうする事が出来るという事へは決して直結しない。
 例えばある行為をしたいと思うこと、或いは数ヶ月先の自分の「したい事」を未然に知る事が出来ないという意味で我々は一切意志そのものを計画立てたり、操作したりする事が出来ないという事だ。それは計画を立てても、その通りにすると意志する事や、その通りにしてきて退屈したり飽きたりする事自体をどうする事も出来ないという事に於いてそうである。
 それは何故そういう意志が生じるのかという反省意識に於ける判断全部を無効化する。何故なら反省意識を生じるという事自体が常に外在的に解明されるべき根拠として残されるからである。
 その事実をもって我々が脳そのものの奴隷だと考える事も不可能ではない。いや脳作用自体が仮に解明されても意識そのもの、意志作用そのもの、或いは感情や欲求そのものの奴隷であるという認識は常に残される。
 それはある部分では存在そのものの奴隷であるとも言える。存在と言うと、只単に木々も森も海も存在する。しかしそれらに存在という「形」で規定を与えているのは私達だ。その意味では存在の奴隷である事が出来るのは、只私達のみ、つまり自分自身が世界に存在する事、或いは存在しつつ世界を作っている事を知る事の出来る我々のみである。存在の奴隷であると覚知し得るのは只存在と存在する事自体を理解出来る存在者のみだからである。
 実は世界そのもの、木々や森、海だけでなく自分自身を存在として規定する事自体も又一つの構えであり志向である。そしてそれを何故そうするのかという根拠を問う事が確かに出来る。それを哲学的問いとも認知科学的問いとも名指す事も可能だ。しかしその存在するものを存在するものとして、存在することを存在することとして把握し覚知(把捉)し存在規定する事自体を何故と問う事は出来ない。それは個々の判断自体の根拠が問える事とは別箇にそうである。
 その問う事の出来なさとは、私達自身が存在規定をする生の意味が反省意識に於いて問えても尚、個々の判断作用自体の発生根拠から、その発生根拠の事後的認識が可能であっても、私達自身の、或いは私達という存在自体の外部に立って操作する事が出来ないという意味でそうである。
 それは私達が私達自身の存在を外在的に認識する事が出来ても、その外在的認識をその時点で生きる私達自身を存在として問う事が出来ないという意味でそうである。それは要するに私達の問う事をも含めた脳内判断から行為に至る迄全ての私達の生の出来事を操作する事も、決められた通りにする事も出来ない(決められた通りにしていくか、途中で予定を変更するかという事全体を操作する事そのものが出来ない。何故なら決めても明日私は死んでいるかも知れないし、決めた事を忘れるかも知れないからである)という事自体が、志向も構えも全て脳内判断作用自体が既に我々による操作とか規格外的事実である以上、科学で幾らそれらを機能として解明し得たとしても尚、脳自体の存在理由、脳自体の存在根拠を我々の脳内判断や思考から別箇に脳で下す事自体が不可能であるという事の別の謂いでもある、という事である。

Sunday, July 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 我々が政治とスポーツに求めるもの‐真に優れたパフォーマンスとは何か?

 FIFAワールドカップも終了し、全く予想外なことにスペインが13回目の出場で初優勝、準優勝も初めてのオランダだった。そして日本は前日に参議院選挙が執り行われた。歴史的与党の敗北を喫した日本では、それまでベスト16まで 岡田ジャパンが快進撃を繰り広げたこととは対照的な展開に国民も去年の政権交代から一転して奈落に落ち込んだ状態の内閣に対して今後の展開に不安材料を見出すことにもなった。
 政治とスポーツとは特にその予想外の展開に受け手である一般市民は注目せざるを得ない意識的構えを日々構成してしまう。電車の週刊誌の中吊り広告や、いつも利用するポータルサイトのニュースや会社の昼食中などでする同僚との会話でも政治とスポーツは一番頻繁の話題にしやすいものである。
 しかもウガンダではワールドカップ観戦中のレストランで爆破テロ事件があり、アメリカ人なども含む大勢が死去したニュースも同じ日に報じられた。
 現代社会で行き抜く為には些細なことで心を動じさせないようにするということが暗黙の内に、特に都市社会で生活する文明人には求められていることである。2001年9月11日に一体自分は何をしていたかと即座に私なら思い出せるが、あれだけ悲惨なニュースを映像で目にしても尚我々はどこかで一々そういう悲惨に対して意気消沈せずに日頃と同じ様に過ごしていかねばならないという心がけをどこかで行っている。
 つまり本当に悲しいこととは自分の周辺で起こることに限定すべきであるという生活上の智恵がいつの間にか定着している。それは都市社会で生活するマスメディア、マスコミによって四六時中報道されるニュースをその都度受け流していくことを心がけている市民全体の暗黙の約定の様なものである。
 それはかなり幼い頃から私達が身につけてきた習慣である。
 しかしその習慣は他方、楽しいイヴェントがあると必ず心浮き立たせ、それまでに鬱積していたストレスを巧く吐き出す作用をさせる為に、一時ルティンから解放されるというもう一つの構え、固有のストレス解消的構えを構成することと抱き合わせになってきている。
 その一つがスポーツである。だから相撲などで不祥事が続き、その存続さえ危ぶまれることを含めて、そういった全体を注視し、監視していこうという注目の仕方から、我々市民の個々の生活を規定していく政治全体への注視と監視も同じ、余り悲惨なニュースには一々動じないという決意的な構えと、だからそこお祭的なイヴェント、例えばオリンピックもそうだし、ゴルフの全米ツアーでもそうだし、テニスのウィンブルドンでもそうであるが、その開催中にはどういう試合の展開になっていっているのかということへの好奇心と関心をその都度イヴェント全体の動向へと焦点化する構えとは抱き合わせであり、いつも容易に後者の方にシフトさせる様に構える癖がついている。
 つまりそうすることで、会社内で昼休みなどで同僚と会話する材料にすることも出来るし、そういった関心を同化させることを通して社会成員としての暗黙の同調的態度を取ることで、仲間外れに自己立場を立たせることを防止しているのである。
 相撲でいい一番を取った力士に拍手喝采を送るような意味で選挙で当選した政治家に対して期待しながらそのテレビ特番でのインタビューを観たり、ワールドカップなどの勝者のインタビューや、そのことに触れた記事を読んだりすることを通して「巧い仕方」で決めるシュートや選挙遊説中の街頭演説とか、市民と握手をしたりする姿全般へ我々はグッド・パフォーマンスであるという評定をいつの間にか下している。
 我々にとって印象に残るシュートや技、立ち居振る舞いといった全てはいいパフォーマンスなのであり、そのいいパフォーマンスの持つ語り草になり得る要素こそ、我々が知らず知らずの内にヒーローへと期待するものであり、そういう行為を容易に見せてくれる者を我々はヒーローと呼ぶ様にしているのである。
 しかしそのグッド・パフォーマンスとは他方では今日あった爆破テロ的事件の悲惨を常にどこかでは目を瞑って遣り過ごす我々の習慣をどこかで浄化させてくれるものとして我々が密かに悲惨なニュースに巻き込まれて死んでいく犠牲者達全般への鎮魂を、余り深刻ではない形で示してくれる代理的行為なのであり、政治という直接的に市民生活に影響を与える政策行動、法案成立努力全般にある我々によって注視される行為も、実は代理的に生活全般を規定する共同体、社会、国家の約定であるにも関わらず、グッド・パフォーマンスを期待する心理にも答えているのである。
 それは余りにも手際よく勝利へと導くスポーツのグッド・プレイと、政治家の立法政策的、行政的手腕、それを権力者として一定の説得力を持って国民に示すことを期待する我々が求めている「いいアクション」つまりグッド・パフォーマンスとは、それを共同注意的に常に目撃者として注視している我々市民同士の心理的結束とその心理的結束を前提した集団行動、それはビジネス自体もそうだし、余暇の行動もそうだが、要するに社会に我々自身が関わることを理由づける、根拠づけることでもある。それを確認し合う為にこそお互い同じ場に居合わせるということだ。
 それはワールドカップの決勝戦を観戦しているファン達だけでなく一会社のデスクに座っているどの市民でも同じである。
 そしてそれは先ほども述べた様に悲惨な犠牲者を出すイヴェントも時々挿入されるこの現代社会の現実を常に一方では考慮に入れながら、その悲惨な犠牲に自分が巻き込まれずに済んでいること自体への感謝を相互に頷き合う様な場でもあるのだ。
 グッド・パフォーマンスを相互に共同注意し合えることの機会の多さを求めて我々は同じ会社のデスクに隣の同僚と共に座っているのだし、家庭に戻れば家族団欒とか余暇でのプランに熱中するのだ。
 実は経済的好況に見舞われることも、いい試合を観戦し合えることも、悲惨な事件の巻き添えを食らうことも全く同じ淡々とした日常のほんの少しの角度の違いでしかない。しかし常に何らかの余り大きなカタストロフィに見舞われない現場に居合わせるか、まさにそういう現場に居合わせるかという確率の問題に直面している我々は仮に最悪の状況に立ち会っているのだとしたら、尚その最悪の状況から何とか離脱させる為の努力を誰しもしている。そしてその際にも「手際よい行動」はあり得るのであり、そのグッド・パフォーマンスを我々歓迎するのであり、そういう行動を自分が取れるのなら、それに越したことはないと誰しも思うのであり、そしてそれを隣の同僚がなし得たのであるなら、素直に拍手喝采することに吝かではないのである。
 居合わせること、立ち会うことの中で、その場にいなかった者には理解出来ないものとして、同時代を生きる我々にとって政治もスポーツもがある様に、我々個々の市民が立ち会う、居合わせる固有の場がその都度設定されているのだ。
 そしてその時々に固有のグッド・パフォーマンスのエピソード記憶を我々は気が付かぬ内に求めて都会を歩き、自分が帰属する集団が行動する場へと足を運んでいるのである。