Thursday, March 9, 2017

第九十一章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて12 仮面を素顔とする様なコミュニケーションがリア充を異様なものにした

 凄く重要なことは森友学園の籠池理事長の様な極度に右傾化した教育理念を自然なものに感じている経営者を輩出する背景には、ネットコミュニケーションがあらゆる意味で日常生活に浸透して、最早書き言葉で文字を綴り手紙を郵送するという習慣がなくなってきているだけでなく、銀行に預金をする様に自分にとって重要な情報、文書や写真やあらゆるデータをネット空間上に保存する様な社会通信システムがある。つまり加速度的に10年前の社会情勢自体を遥か大昔の出来事であるかの様に思わせるウェブサイト通信システムの世界的定着と、それに伴う生活スタイルや習慣やコミュニケーションの在り方の激変が、ネット空間上でアメリカ合衆国のNSCに全てを監視・盗聴・傍受されていることを承知で、仮想的な本音だけを、そしてそういった直に人と会って考えを伝える機会よりずっとネット上で仮想会話や仮想情報送受信に慣れきってしまった現代人は、既にリア充という事態を奇異なものとして認識することさえ定着させてしまった。自らをSNSのアバター所有者とかブログ管理者として、そして送受信発信者としての本音が仮面を被った人格であることの方を自然と受け取ってしまっている以上、情報的財産の維持さえ、直に物質として自分の家屋に保存することより、サーヴィスを享受する権利を維持することの方に比重をかけてしまっている以上、我々は本物とかリアルな物質に実質的な現代社会の内実に即した価値とは見做していないということを意味する。
 我々はだからかつて活字を組む前に原稿用紙やメモ帳に筆跡として文字を綴る習慣さえ殆ど無くしてしまっているので、手先の文字執筆さえ入力という仮面性を纏って生活していると言っていいのである。
 現代人の意志決定とは実は既にそういった本音と言うもの、リア充的な共同体対人関係がメインではない、つまり仮面をつけて都市空間を歩行することの方を却って自然で、前提された生活環境条件としている。だからその反動で同一組織、法人、つまり集団内では閉鎖的な前近代的な軍隊組織に近い感性さえ或る種の懐かしさとして介在させてしまいがちなのである。だから森友学園の今回のスキャンダルはブラック企業が増殖しているブラック経営者に固有の諦念的な現代社会への対処的仕方のニヒリズムを教育者や教育理念家さえ抱え込んでしまわないと、この現代社会の激変スピードについていけない、感性的にアナクロニスティックな社会での存在理由的な自己定立からしかそれへ対処しきれないからこそ、明治期の教育勅語を新しい精神財産として彼等は称賛するのである。
 コミュニケーションのメソッドや習慣による仮面的リアルを自然な常識にして、リア充の方を寧ろ異常な事態とすることで肯定せざるを得ない現代社会生活に於ける現代人のメンタリティがアメリカのトランプ政権による保護主義的政策や北朝鮮のミサイル発射やキム・ジョンナム氏暗殺を助長させ、世界的規模でナショナリズムや極右のヘイトスピーチを盛んな現象にさせているのである。それらは全て仮面的リアル自体の潜在的な我々誰しもが持つ恐怖心が、しかし今のネット社会や送受信システムの整備された世界現状を変えることができない諦念が無意識に生じさせている潜在意識の意義申し立てであると言ってもよいのだ。
 ではこの全コミュニケーションの偽装性と仮面性に対して、どういう個の信念を維持していけばよいかということを考えてみよう。また乖離しつつある心のシェルター願望と、常習化を益々強めるコミュニケーションの偽装性と仮面性との折り合いに就いても考えてみよう。

Thursday, May 7, 2015

第九十章 現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて11 ツールにディヴァイスで何でもアップしやすさと監視されることに慣れていくことに就いて

 我々は既にウェブサイトで容易に何でも自分の意見を私的な事と知っていてSNSが公共掲示板であることを知っていてしかし一切の検閲がないことをいいことに、臆することなく何でもアップしている。勿論そのことで公職を追われる人も居るが、この検閲されなさ自体は永続的なものとして維持されていくだろう。
 要するに我々は既にツールを通した意見の自由にアップ出来ること自体を、たとえそれがかなり変態的なオナニーの自撮りであっても、それを除去されない自由を謳歌してしまっている。リヴェンジポルノに就いて何度か触れたが、それ等も幾分自分の極め付けのプライヴァシーである性行為さえアップしても咎められないマゾ的な自己顕示欲ともタイアップされて行為へ踏み切らせている。つまり変態的な自己露出狂趣味さえ咎められない公的場とかアウェーさえホームであっていいという現代人の開き直りがアップしやすさを無くさない様に現代人が取り計らうことを促進している。そしてそれは自由を疎外する権力を批判する装置として全人類的にウェブサイトのアップしやすさが容認されているということ以外でない。
 つまり変に検閲することの方が作為的な権力の側のテロリズムであるという認識が我々に共通しているのである。だからSNSでのアップし易さ自体が権力の酷く歪な乱用を批判する為に有効な価値としてアップし易さを認めている訳だ。だからドローンさえ官邸に侵入する事件があったとしても取り締まるより、歪な権力の乱用(濫用)を防止する装置として取り締まり自体も緩やかにという世論の方が世界的には強い。
 それと引き換えにと言っては言い過ぎの誹りを免れないかも知れぬが、実はビッグデータシステムでスパコンに拠り集計される個人情報を我々はある程度なら監視されていることにも慣れていこうと決意しているとも言える。セックスさえ人に見せたい欲求さえあるのだから今や人類は多少のプライヴァシーを侵害されても変に犯罪的匂いを立ち込めさせることなどあるまいと自信のある市民は、ビッグデータ収集に拠って犯罪が未然に防止され得るなら、多少の監視されている状況を受け入れようとマゾ的な欲求回路を開いているとも言える。
 それは在る部分知人同士では羞恥感情を相互に尊重し合うし、プライヴァシーは重要だが、知らない人に何を覗かれようとそんなことを気にしていなど居たら、現代社会は生き抜けない、だから余りにも猟奇的でない限り自分がする多少の悪等誰も気にしないと高を括っている証拠である。事実立小便をするくらい余りにも同じ場所で頻度も高く何度も繰り返ししない限り一度何処かでテキトーにそれをしたからと言ってそれで逮捕されることはないだろうし、それ程警察とは暇ではない。
 結局現代人は小さな悪には眼を瞑り巨悪だけは発動させない様にしようと、小悪実践者全員が同意して、アップしやすさを相互に与えておいて、それで小さなストレスは軽減させ時折フラストレーション解消の為に多少過激なツイートをさせておいて溜飲を下げさせる様に全他者の悪を容認しておいて(それが国家形式になると国防的措置と、そのデタント的な相互の協定になるのだが)、それでも尚眼に余るもののみを極悪と相互に容認し合うという暗黙の協定がウェブサイト有効利用の下に暗々裏に決定されている様なものなのだ。
 それは相互にかなり幼稚でもあり、大人的態度を捨てて迄、ある程度のナルシス的過激さは相互に認め合いつつ、それ等小悪でそれ以上の悪を発動させまいとしている不文律を破壊する危険行動のみ監視されるべき対象として全成員が溜飲を下げることに全人類的に同意しているのである。それはそうすることで電子機器を通した余りにも忙し過ぎる情報摂取を撲滅させることが不可能だという自覚の下に、巧く小悪を方便として利用して全世界的なインフラの利便性、コンヴィニエンスを維持しつつ、インフラに一定程度なら支配されることをマゾ快楽的に受容していこうと決意し、それを完全に捨てて前時代の不便さから得てしまうに違いないフラストレーションを全成員が感じずに済む様に暗黙の内に取り計らっているのである。
 我々はだからプライヴァシーの本質的意味を徐々に変えてきているという風にも言えるのだ。(つづく)

Saturday, May 2, 2015

第八十九章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑩ ドローン侵入愉快犯とエゴサーチとリヴェンジポルノとハニートラップPart1

 首相官邸にドローンを侵入させる愉快犯が現れ数日官邸対テロ機能に就いて取り沙汰され、マスメディアは大童だった。だがこの種の犯罪は充分予想されたことである。却ってメディアが大事として報じさえしなければ政府や現政権の体面は保てた。だが表現の自由が憲法で保証されているから、メディアは大きく掻き立てた。しかし誰かが死んだ訳ではないし、もし個人情報がドローンに拠って他者から盗まれ、その事で人が死んだらそちらの方がずっと深刻且つ重大な事件である筈(又べき)であるが、国家全体の国防機能不備の方に論われるべき重大案件はすり替えられてしまう。これが一種の国家第一主義的な右傾化した現象でなくて何であろう。 ドローンを飛ばした容疑者は結局そうすることで、却って国家とか政府とか現政権といったものがどういう反応をするかを見計らう目的が暗に在ったに違いない。その意味では犯人の目論見にまんまと国家全体が引っ掛かったのである。
 そういう案件の積み重ねが結局国民の側が国家の国防機能を信用しないということを明るみに出し、又どれくらいの対愉快犯対策を平素から講じているかを犯人側はほくそ笑みながら試してきているという憂うべきだ、と言うべきか、あたかも想定した通りだった、と言うべきか、そういう事態となっている。
 現代人は自己能力がどれ位公的な幻想をぶち破れるかを試す愉快犯的資質を誰しも持たざるを得ない状況と言うか、既に時代の必然を引き受けている。その一つが明らかにエゴサーチである。自分のウェブサイトを通したメッセージ発信能力がどれくらいのものかを確かめる為にそれをする訳だが、結局それはアップロードしやすさ、そしてそれがかなり現代社会の情報通信では必須の事態として歓迎されてもいる訳だが、そのアップしやすさを国家や政府がコントロールしようとすると、途端に治安維持法に拠ってかつて軍国主義国家へ驀進していった日本国家、大日本帝国の誤りを日本では彷彿させてしまい、当然その事に現代のマスメディアは黙ってはいない。
 だが個人レヴェルではエゴサーチする事で実現してしまっているナルシス的欲望の実現が、増長していってしまうと、リヴェンジポルノをネット上で公開して、そうしてまで追い詰めようとする別れた相手への復讐を実現化させてしまえる現代は、言ってみれば露出狂的変態性欲的な願望に拠ってウェブサイトのアップローダー達のメンタリティがアドレナリンを放出することを快楽として受け取っている証拠である。
 このジャン・ジャック・ルソーが露出狂であり、性的変質者でもあった様な肥大化した情報化社会での情報量的知の在り方と、性的マゾッホ的な見られる快楽は癒着しており、その事とドローン操縦愉快犯の自己能力の顕示欲とはかなり一体化した現代人に固有の性格であるとさえ言える。自分のマスターベーションをする姿態を動画で投稿する様な変態的欲望は、そうすることで、つまりマゾ的に他者にその姿態を見られることで興奮するという現代社会固有のアップしやすさが生んでいるとも言えるが、寧ろ実態的には、変態的な迄の自己プライヴァシー暴露趣味的欲望自体がアップしやすさを現代人の総意として要請していると捉えた方がいいかも知れない。
 つまり歪んだ形でしか自己欲求実現を満喫出来ないある種の対自的なサディズムでもある処のマゾッホ的な自己プライヴァシー暴露趣味は、自己顕示欲が歪んだ形で誰しもが変質的にならざるを得ないアップし易さ自体を却って同時代的共時性の共有事実として開き直って、真っ当な正常とかつて言われた自己節制性や自己変態的欲望の巧いコントローラー達をこそ寧ろ守旧主義者とか保守主義者として批判することを通してサティライアシスやニンフォメイニアックな性的快楽主義者達が一穴主義的婚姻論者達を爪弾きにしていく様なセンシビリティこそ正常だと言いかねない逆差別社会の深層が到来している。
 だからハニートラップとはそういった普通の正常のと言われてきた人達が陥りやすい誘惑の罠として国家的陰謀で策謀に拠って敵対勢力を殲滅しようとする人達に愛用されてしまっているとも言える。
 結局凄くウィルス対策に優れたPC機器が愛用されていく様な意味で、国家自体もあらゆる愉快犯を退けさせるだけの国防的インフラの整備に治安への安堵を確保し得ると言い切れるだけの愛国心を果たしてどれ位の市民が持っているだろうか?其処迄国家全体から管理されたいなどと誰しも思って等居ないだろう。
 と言って愉快犯とか変態暴露趣味的なリヴェンジポルノアップローダー達の行動を何処かで冷やかにしかし、密かな覗き趣味で上から目線で見物しようと決め込んでいる大勢のネットユーザーの一人ではないと断固言い切れるだけの日常的な禁欲主義を維持している市民は一体どれ位の数存在し得るのだろうか?テレビ番組のウェブ上の閲覧も既に制御し切れなくなっている現代社会では、テレビ局の方がウェブサイト全体のムーヴメントに追随的に存在し続けていくしかない時代である今日では、他人のマゾヒスティックな露出狂的快楽を自分も又秘めているということを何とか隠蔽しつつ、対自的には、その欺瞞性を自覚せぬ訳にはいかない日常の中で社会の治安とかも考えなければいけない時代に我々は生きていると言えないだろうか?

Saturday, January 31, 2015

第八十八章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑨ マスメディアと政府が翻弄される

 イスラム国の暴挙に拠って後藤健二氏の尊い生命が奪われるという形での寝覚めとなってしまった今日は現代世界でこの種の狂信的宗教カルト的テロリスト集団にどう世界が対処したらよいかということに就いて誰しもが頭を抱え込んでしまう事態となっている。一つには既に方法論的には彼等は愉快犯的なメソッドを対世界へ示しているのだ。そして世界中のマスメディアがそれを大事として報道すればする程彼等にとってはしめしめということとなるということだ。
 既に彼等の中には大義的なこととか宗派イデオロギー的なこととかさえそれ程重要ではないのかも知れない。
 だがこの種のテロ行為を防ぐ手立て自体もなかなか見出し難いが、同時に今回の様に起きてしまった場合、それを解決に導く手立てもなかなかない。一切の報道が差し控えられていさえすれば隠密に何等かの特殊部隊を潜入させるということも可能かも知れないが、マスコミ全部の口を塞ぐこと自体が全く無意味である。ウェブサイトで蛮行自体を晒すことを彼等がしてしまっているからだ。
 イスラム国(ISIL)はある意味では極めて現代ツールを巧く利用した集団だと言える。その意味では既にアメリカ等を彼等の最大の敵としている彼等はその時点でアメリカ型資本主義の一端無しには一切の蛮行を成立させない様にしていることを自ら認めてしまっているとも言える。
 彼等は世界中のマスメディアが自分達のしていることを非難し大きな事件として報道すること自体を利用している。世界中が騒げば騒ぐ程多くの狂信的なシンパを獲得することも可能である。勿論有識者達の言う様に現在の彼等は既に内部分裂を来しているかも知れない。と言うより最初からきちんとした統制の取れた集団ではなかったのかも知れない。しかしそれは現在迄のキューバの国家体制を敷いてきている党の革命評議会自体も元々はそうであっただろうし、全ての集団の基礎とは悪い言葉で言えば烏合の衆的要素に満ちたものである。全ては結果論なのだ。
 ISILの目論見は世界中が掻き回されてきているということ自体だけ取ったなら完全に成功している。彼等に先駆けて世界中を震撼させたオウム真理教がISILにも大きなヒントを与えていることは言えることだし、無差別テロ的な色彩に今度はよりイデオロギー的な妄想、つまり世界経済の資本アメリカ一極集中的事実への批判として日本も加担国として巻き込まれた形だが、報道自体が後藤氏が殺害されるとそちらにだけ意識を集中させつい先だって殺害された湯川遥菜氏のことへは殆ど言及しなくなるというある種その場凌ぎ的な態度自体への批判体として彼等が君臨することに愉悦を感じ入っているかも知れないとも推察される。
 今日民主主義と表現の自由の一般市民の獲得に拠り国家自体が絶大な権威と権力を持つことを政治家に困難にしているし、それを国民が望んでもいない。それは世界中で徐々に浸透している(北朝鮮の様な国家も未だに存在するので、全てとは言えないものの)と言える。其処で隠密に救出作戦を立てることも困難なのだ。
 政治家はあらゆる角度から批判に晒される。其処で通り一遍のことしかカメラの前では語れない。そしてそれは国会や集中審議等でも同様である。各プレスが控えているので秘密を保持し難くなっている。結局もし全てを隠密に救出作戦等を立てるなら、敢えて国民からの批判を覚悟で一切の決裁を待たずに履行するしかない。時にはそういうことも必要だろうが、今回の様な事件では其処迄する覚悟を政治家が持てなかったということなのだろう。
 この種の事件が連発すると、国内に滞在する全ての中東系市民が疑惑の目で見られるし、事実中にはISILから送られたスパイも居ないとは限らないので、結局中東アラブ系市民全体への差別的眼差しが作られることも極めて厄介なことである。シリア、イラク、ヨルダンといった国民はそういったことを憂慮しているだろう。
 現代型のテロリズムとテロリスト集団はマスコミと政府を嘲笑出来る愉悦が第一目的であるし、かなりそれが実現されてしまっている。宗教的イデオロギー自体も正義論であるから正統のものであるなどとも勿論どんな種類のものでも言えないが、それにも増してそれを利用する悪辣なテロリスト集団の統制的原理も全く正当性を欠いている。だがこの種の集団の行動にはその様な訓戒自体が既に効力を発揮しない。
 脅迫の仕方から動画自体の発信の仕方に到る迄かなり支離滅裂であることからも、内部統制もだし、外部からのISIL自体の利用価値を巡るヒズボラやアルカイダ等の考え方もまちまちであり、又ISIL構成要員自体がばらばらである可能性も高い。となると益々集団全体の狂信的行動はエスカレートする可能性は高い。
 現代社会は体裁的には皆が平和に暮らす為に演技しているが、その演技自体が表層的なポーズであり思想ではないので、この様な悲惨な事件が起きても、我関せずとしている市民の方がずっと多いし、マスコミ自体それを利用して報道を活性化させているに過ぎない。政治自体も運用は各種利権団体の代弁機能を担っているに過ぎず、その事実を逃れようとする議員に対しては(例えば山本太郎の様な)熾烈な批判を集中させる。それは天皇陛下に手紙を渡す等の行為を稚拙なメッセージとして葬り去りながら、自分だけはそういう批判を浴びせかけられぬ様に用意周到に黙っているという選択肢を最もましなものだと全市民に心得させてしまう。
 マスメディアはウェブサイトが暗々裏に世界中で勝手に利用され秘密の会合その他全ての遣り取りをしていることを承知しながら、その全てを暴き立てること自体不可能であることも承知で、しかし時折余りにも見過ごせない事件のみ集中的に扱おうという態度を決め込んでいる。今回の事件に関しても責任問題等も大いに問われることだろう。しかし仮にそういったことを契機に政局が不安定化したとしても、それこそがISILの思う壺であり、彼等はしたり顔でそれを静観することだろう。 この問題に関してはことの成り行きを見守り再度取り扱うこともあるだろう。

Monday, November 3, 2014

第八十七章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑧ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

前回はIS(イスラム国)が現代文明の利器を最大限に利用して文明圏全体から恩恵を被りつつ、詰まり自由主義と資本主義の矛盾を叫びテロ行為をする事自体の矛盾が彼等の行為の正当性を疑わしいものにしているという結論だった。
尤も絶対王政時代でさえ王政が唯一正しいものであったかどうかに関して否であると考えていた人達は大勢居ただろう。だが彼等の全てが王政を倒そうと思っていた訳ではない。現代でもイスラム国的な挙に出る事を想念上では脳裏に介在させた事がある人は多いだろう。だが実際彼等のしてきている事はやはり国際的犯罪と言っていい。キリスト教自体はパリサイ人やユダヤ教律法学者達にとっては危険思想であったものの、犯罪とは違った。イエスのしている事は説諭であり、友に語り掛ける形式だったからだ。その点ではイスラム国のしている事はやはりテロ行為に拠ってプロパガンダ的に犯罪暴挙を正当化しようとするある種の逃げである。
しかし民主主義に全く欠点がないとは勿論言い切れない。それは何度か述べたが、大勢の意見だけが常に正しいという事になる、でも実際は少数派の意見の方が正しかったと後から振り返って言える事も多々ある。それだけでない。恐らく民主主義とは最も平均的で毒にも薬にもならない施策が最も法案として通過しやすいという事も言える。つまり秀逸な思想や発想が踏み躙られていくという事はあり得る。と言ってテロリズムに拠ってその否定的意図を示す事が正しいとは絶対に言えない。
しかし如何に民主主義であれ自由主義経済であれ、その弱点や欠点に対してどうすべきかの議論は絶えず自由にして、積極的に今の侭でいいのかという論議をする事を推し進める必要がある。そしてそれを余りしていない国家群では当然今回のイスラム国の様な事態がシリアやイラク等で起きたという事実を成程と思わせるものはある。それはアメリカ合衆国や日本の様な国でも民主主義自体の問題点をも(資本主義自体の問題点はそれなりに常に為されているという事は言えるが)検討するという機会をもっと増やすべきではないだろうか。
これはしかしかなり成果主義や数値主義と個性主義との間でも言える事だ。個性主義とか人格評定主義は人間性という基準が人それぞれ異なっていて、曖昧だという事に関しては数値評定主義の方がずっと公平だと言える。だが当然の事ながら試験の数値だけだとそれも又得意不得意の試験運の様なものも言える。それを無くす為に何度も試験をする事もやはり出来ない。此処で色々なディレンマは確かに浮上する。
つまり今現行のものとはそれ以外に取り敢えずいい方策が見出されていないからという消極的理由に拠るのだ。民主主義も自由主義もその標榜自体が一人歩きして何かそれ以外の事を考える事を全て封殺する様な不可侵対象化してしまえば、当然それも一つの認識論的、思想的テロリズムである。思想弾圧とは何を容認してそれ以外のものを否定しようが性質は同じである。民主主義は常に独裁主義(ファシズム)等に拠る社会全体の暴挙となっていったプロセスの後でそれを是正する意味合いでのみ正当とされる。
それは国家体制でも言える。共和制であれ立憲君主制であれ、それ等はそれ以前の形態での何等かの歴史的否定的結末自体に拠って反省的に齎されているに過ぎない。従ってそれを自由に論議する事だけは侵されてはならない。そういう風に自由に論議する事と、それでも尚実際には今の形態が正当とされているという事実に対し、それなりに(仮に批判精神を持とうが)遵守しようという判断とは当然両立し得る。
本シリーズの曖昧な同一化とは民主主義で自由主義体制で、資本主義経済を最も順当なものとするという欧米先進国モデルを正当としているという事自体への問題提起的意味合いがある。つまりそれ等が一体化されている事へ何の疑問も抱かないとしたなら、それはそれで意識の欠如である。つまり絶対君主制や王制自体の問題点からそれらが成立し、今も天皇制も残存していても、それは民族の統合の象徴という形で日本国憲法(現行憲法)では規定されている様に、民主主義や表現の自由が侵されるものではない。しかし同時に表現の自由とは何処迄適用されるべきなのか、とか実際に個人情報を侵害する様なタイプのヘイトスピーチや他者の表現の自由を阻止する様な表現は当然自由ではない様な意味で、常に自由とはどういう事であるかの論議も絶やすべきではないと言い得る。
尤もリアルスピーチとフィクション上での表現はそれなりに分ける必要があるし、リアルスピーチでもフィクションとは違う形で表現に自由は保証されるべきである。ケースバイケースの検証が常に要求される。今欧米先進国では確かに立憲君主制を採用している国々があるが、その事実が絶対王政へ逆戻りする事はそうないとも思われるが、それさえ国民全体の総意として正に逆説的に民主主義で決定されれば、それは実施されて然るべきだとも言えるのだ。その点ではブータンの様な君主制自体へ一切の疑問を国民が持たない(とされているが、実質的にそうであるかを私は確認し得ないので、一応それを正しいとして)という様なケースも当然あり得るので、一律的に正当なる国家形態を論う事は不可能である。
それは結局市民、住民が住んできた歴史、生活状況全てに関する固有の事情で常に判断されるべきだとだけ言える。(つづき)

Monday, October 13, 2014

第八十六章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑦ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

 現代社会は先進国と呼ばれる国家群が何等かの形で特権的地位を得ている事で、それ以外を発展途上国と呼ぶ事を慣例化させ、先進国がかつて絶対王制であった事から、その瓦解、革命に拠り、王政的問題点への反省的地平で先進国が民主主義を自由平等友愛的観点から採用していて、それがスタンダードでそれ以外の国家形態を少なくとも世界全体の平和和平安定維持路線の為の代表にはなり得ないものと認識し、世界中に認識させる事を慣例化させている。
 しかもロシア革命が農奴解放の為に履行され、ソヴィエト連邦として再生した後の共産主義の国家運営的な失敗を通して資本主義・自由主義こそがスタンダードであるとしてそれ以外の共産主義的国家運営と、政治体制を少なくともスタンダードではないものとして認識し、世界中に認識させる事で世界の取り敢えずの安定が図られている。
 その際に重要なのは資本主義・自由主義経済がスタンダードで、それを維持する為の方策として民主主義が一番妥当であり、何かそれ以外の方策を思いつく事自体が反安定志向と読み取られる事を暗に我々へ強制する形で国連をはじめとする世界基準全体が運用されている(国連では共産党一党独裁体制である中国のみ例外的扱いとなっている。ソ連は崩壊今ロシアとして再生されたロシアは欧米常任理事国<アメリカ、イギリス、フランス>を指針としてやがて対等となる事が暗に期待されている)。
 此処で重要な事は資本主義・自由主義といった体制自体が最も妥当な安定地点であるする事でそれを維持する為のやはり最も妥当な、それ以外これといった方策が今の所(か、或いはもう永遠にと思っている人達も大勢居るだろうが)民主主義以外では見出されないという認識の下で、この二つの体制が抱き合わせとなっているのが世界秩序安定志向的妥当性と言える。
 重要な事は我々が歴史自体を実験する事が出来ず、一度ある体制に持ち込めば、それ以外の体制自体が試みられる事を含め実験的では居られない、取り敢えず今敷いている体制は一つの実験で、やがてそれ以外の体制へ移行する事もあり得る等という悠長な事を言う暇が一切与えられず、施行されている体制自体が善で、それ以外は悪として認識される事こそが政治の歴史的必然なのだ。従って実験的であり得る事を証明するには現体制を崩壊させ(つまり流血を伴う革命を履行し)、然る後に別の新たな体制へ持ち込む以外に方策がないという事だ。今年は民主主義、来年は絶対王政、その翌年は原始共産制(貨幣経済でなく物々交換<バーター>交易を中心とした)を施行させ、その内のいずれが一番効果的であるかを実験する事等全く不可能だという事自体が歴史とは実験し得ないし、され得ないという事である。
 従って鎌倉幕府が一つの実験であったと仮に歴史家が言ったとしても、それはあくまで鎌倉時代の後八百年以上の年月がかかって過去を歴史として振り返る時のみ有効な言葉の使い方だと言えるのだ。
 従って現体制がその様に世界平和和平維持安定秩序が挿げ替えられぬ以上、誰しも運命論的には(実現可能性としてではなく、あくまで観念夢想的には)本当に資本主義・自由主義経済と民主主義が抱き合わせである事だけが正義で、それだけが最も全ての市民の幸福に繋がるとは言い切れないし、そうであると完全善として現在体制を肯定する事も出来ないのだが、では何かそれ以外の方策等可能であろうかという思考実験を経た後誰しもが、それ以外に取り敢えず(何か人類全体を生存の危機へ落とし込む様な事態にでも直面せぬ限り)誰しもが思いつく事等なかろう、どんな天才でもそれは不可能であろうという目測で(そういうものがあり得るのだと言い出せば、それは只観念的夢想と言うより妄想に過ぎまいと誰しもが思ってしまう)事態がずっと継続していると言えるのだ。
 現代社会がこの資本主義・自由主義経済社会と民主主義体制を曖昧に同一化させ一致させる事をスタンダードとする視点とは、明らかに理論物理学等の不確定性原理や、それ以降のファジー理論等の実用的な社会インフラ維持のテクノロジーがそれだけが取り敢えず自然なものと思わせてきていると言える。
 現代という時節とは、確定的な叙述、完全論理無矛盾的な真理の述定自体へリアリティを感じる事が困難な複雑な真理構造を直観的に全人類が把促している時代なのである。だからこそ共産主義経済の失敗に拠り、歴史的にその期間自体を後世の歴史家が実験だったとしようという事で、修正資本主義を導入する事で極端な資本主義経済での矛盾を表出させぬ方策を加味して取り敢えず資本主義は運営されてきている。しかし格差は依然として大きな問題であり、マネタリズム以降の金融資本主義がリーマンブラザース倒産に拠りリーマンショックを人類が経験すると、再び金融帝国主義化していかざるを得ない現代資本主義へ疑念を抱く観念は多くの世界市民に共有されている。しかしその共有は常に漠然とした不安にとどまっており、自分自身の生活が取り敢えずの安定を確保する事さえ出来れば、やはり現体制以外に理想的な形態等あり得ないのだと納得せざるを得ないシステムへ心自体を持っていく。
 不安的直観を増大させる事は鬱的心理であるか妄想以外にはないと割り切る事自体が現代人のある種の現体制への同意納得となっている。
 従ってイスラム国をはじめとするある種のテロリズムへ訴える政治行動自体は、そういった同意納得の欺瞞的ではあれ、それ以外に方策が無い事を納得する度に封印させていこうとする理性という立場の前では、確かに完全理性破綻と見做される。
 哲学者なら、その欺瞞性自体を論う事に意味を感じるが、哲学者のそういった誠実性は危険極まりないと一般社会自体が暗に規定している限り、専門哲学者はよりロジカルな精緻で微細な弁証法へと明け暮れ、専門哲学は益々唯論理実証性のゲームへと邁進し、しかし過去の哲学の持っていた哲学命題設定に付帯するモティヴェーション自体が形骸化させる形で残存している歪な数論理学に移行してしまった。
 しかしそうしなければ実際に哲学が行動思想への足掛かりになる危険性は既に第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦時に田辺元が経験していた事である。つまり哲学はやはり国家主義や国家覇権主義、帝国主義的他国の侵略に利用されやすいのである。それを承知している専門哲学は、そうならぬ為の予防措置を論理自体に内包させているから難解なのである。
 それを振り切って反社会的な破壊へ直結するものこそヘイトスピーチであるが、ヘイトスピーチとはそれに共感し得る観衆や聴衆が幻惑的に自己理性を消失するある種の陶酔へと自己欺瞞的に没入する、つまり歪に情感主義的な感性へ赴く以外には同調し得ない性質のものである。
 つまりだからこそある種の反国家主義的なイスラム国的テロ世界活動が、異様に理想超越主義的に輝いてある種のアウトロー的青年達の心を鷲掴みにするのだろうと思われる。それはヘイトスピーチの持つ民族アイデンティティ的な溜飲を下げさせ効果と違って、より強力にアナーキズム路線なのである。
 そのアナーキズムは資本主義・自由主義と民主主義の曖昧な同一化に同意納得している現代人、人類全体への極度の懐疑は被さっているのである。しかしそれはやはりもう一つの現代社会的人類同意納得的なリアルに対するヘイトスピーチでもあるのだ。それは残虐な一般市民への殺害とその映像公開とに拠って性格的に決定づけられているからだ。これは完全に現代のウェブサイトコミュニケーション時代のインフラやツールやディヴァイスを前提してしまっている。その点が徹底していない、つまり時代が産み落としてしまっている負の側面という生活を拭い去らす事自体が困難な程現代社会、現代人類的同意納得に加担し、依存してしまっているのだ。そんな事をするくらいならいっそアーミッシュの様に電気さえ使わないという生活を死守すべきである。しかし彼等はそういった時代を無視する勇気さえもない。寧ろグーグルやアップルやマイクロソフトを利用する事でしか成り立ちえない一種のゲームとなってしまっているのだ。
 この珍妙さ自体が彼等の行動を正当化させる事を困難とする第一理由である。
 次回は現代社会のインフラを全く消滅させて我々が生活していけるだろうかと言う思考実験を軸に考えていってみたい。

Friday, October 10, 2014

第八十五章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑥ 民主主義だけが絶対的正統とも正当とも言えないけれど

 我々は実は真に社会として理想形であるのはどんな形態であるかを判断する事が出来ない。何故なら日本であるなら明治期以降の天皇制と今の天皇制は全く性質が異なっている(とは言え精神的には今日本人は先祖返りしている部分はあるのだが)し、欧州諸国も絶対王政から離脱している(韓国もそうだし、中国もそうだ)し、要するに民主主義国家であるという体裁以外の体裁を経験していない我々がひょっとしたら絶対君主制的社会が悪とは決めつけられないし、それは全ての民族や国家で言える事なのだ。
 又民主主義が王政国家やそれ以外の君主制より誤りがない、間違いないとも言い切れない。要するに仮に民主主義国家で生活していても、それが一応他の体裁より適切であり妥当であると我々がしているに過ぎず、今ある形こそが理想であるとも必ずしも言い切れないのだ。例えば確かに民主主義国家では選挙等で全ての最終決裁が行われる。議員は全て選挙で選ばれる。しかし当然の事ながら選挙では民衆、つまり有権者全員がある間違った選択、誤った傾向へ政治全体を選挙結果に於いて当選した議員を国会や地方議会に送り出す事で赴かせてしまう事も稀ではないし、要するに衆愚的な誤りを犯してしまう危険性と常に隣り合わせである。
 民主主義では要するに昨今の裁判員制度と同じ様にあくまで素人の数の方が多いのだが、一部専門家だけに全てを任せておくのが危険であるという前提で設定されているので、何時も何時もだとは勿論言い切れない(意見としてのマジョリティが正しい場合の方が勿論多い事は多い)のだけれど、要するに衆愚的に誤った判断を有権者の大半がして、誤った政治とその政局的傾向を作り出してしまう事も大いにあり得るのだ。
 上記の事実では当然世界の趨勢であるところの民主主義自体への懐疑的眼差しが生じる事も必然となる。この事の昨今の顕著な傾向こそイスラム国であるとも言える。と言うのもそもそも民主主義とはあくまで欧米先進国を中心に発展してきているし、世界が世界標準だと信じて疑わない事の大半が絶対王政崩壊後の民主主義である事は間違いのない事実だからである。
 その点ではイスラム国の行動自体に否定的批判的な多くのイスラム教文化圏でも存在する事も当然であるが、そもそもイスラム教文化圏は、日本や韓国や中国が東南アジアとも欧米先進国とも又違う文化習慣を持っているが故に、異なった精神性を形式としての民主主義(中国は昨今動向が注視されるべき香港と、台湾では民主主義が実現しているけれど、中華人民共和国はそうではないけれど)に加味して考究していく必要性はあるのと同じ様に、全く仮に体裁として民主主義を採用していても、欧米スタンダードとは精神的文化基盤の異なる思考回路と理性主義を持っていると言っていい。となればそういった世界標準自体を多く欧米キリスト教文化圏で援用されてきている交易、貿易システム等も含めた世界的な正義決裁性自体への懐疑としてイスラム国の様なタイプの行動が誘発されても、その事自体は(仮にどんなにイスラム国行動が理不尽で否定すべきものであってさえ)必然的な展開だと考えてよい。
 勿論彼等の行動に拠って民主主義が崩壊し、世界中がイスラム国的思想で行動する様になるなどとは考え難い。だが同時にこういったイスラム国的行動自体は、仮にイスラム国が国際世論に拠って制圧され弱体化していってさえ、恐らく何等かの形で、それを制圧させようとする国際世論を嘲笑う如く、もぐら叩き的様相で維持されていくのではないかとは容易に予想され得る。 つまりどんなに世界的にスタンダード化された標準類型で世界が一定の安定を得てさえ、必ず其処から零れ落ちる類例も常に産出され得るからだ。
 その意味での香港ムーヴメント自体注視されていくべきだし、欧米民主主義国家群が中国に拠って統制される事を望む全人代面子の思想と、中国の経済力に依存せざるを得ない香港中小大企業の動向全体が、ある程度イスラム国的な思想を彼等以外に出現させるか否かを決定していくという風にも考えられる。
 イスラム国の首謀者達が一定程度の知性を持っているのなら、恐らくロシアとウクライナとの動乱以降の思想的展開、世論、或いは香港内部での中国拠りの思想と反体制的自由思想との成り行き自体を静観しているだろう。
 それらの事を勘案して我々がある程度結論してよいと思われる事とは、要するに我々は全ての妥当なる、と言うより妥協的安定維持の為には取り敢えず民主主義以外にいい方法を知らないからこそ、それを採用しているに過ぎない、勿論民主主義自体も発展進化可能性は充分秘めている、にも関わらずこのかなりの程度真っ当な決裁を可能とする制度さえ、必ず落ち度も齎していくだろうという目測自体が絶えず何等かの形で日本国内で、そして世界中に派生させていった赤軍派の様なタイプの反国家主義、反民主主義的集団(其処ではリンチの様な行動も正当化される。しかし例えばキューバ自体も現在でも革命分子に拠る革命成功の後衛として機能しているし、それは決定的に欧米先進諸国とは異なる政治的リアルがある)は何等かの形で勃興しつつ、やがて鎮圧され消滅するが、大勢の世界市民から忘れられた頃に再度勃興していくという経路を世界史が辿るであろう事も又容易に想像され予想され得る事である事も間違いない。
 取り敢えず現代時点ではイスラム国へ参加希望をしている(既に参加しているメンバーは日本からも居るだろうが)人達が何故そういう行動へ走るのかという部分での動機分析と共に、これからそういう考えへ赴きそうなタイプの市民へどういう啓蒙をするかという事以前的に、そういう感性や思想を封じ込めるのではなく、民主主義体制自体の問題点に関しては真摯に問い詰めていく理性と自由な論争を許す空気だけは封じ込めてはいけないとだけは言い得る処の事ではないだろうか?
付記 次回は民主主義と自由主義経済、資本主義経済との曖昧な融合、共同戦略に対する再検討と考究を主旨とする。