我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Saturday, January 31, 2015
第八十八章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑨ マスメディアと政府が翻弄される
イスラム国の暴挙に拠って後藤健二氏の尊い生命が奪われるという形での寝覚めとなってしまった今日は現代世界でこの種の狂信的宗教カルト的テロリスト集団にどう世界が対処したらよいかということに就いて誰しもが頭を抱え込んでしまう事態となっている。一つには既に方法論的には彼等は愉快犯的なメソッドを対世界へ示しているのだ。そして世界中のマスメディアがそれを大事として報道すればする程彼等にとってはしめしめということとなるということだ。
既に彼等の中には大義的なこととか宗派イデオロギー的なこととかさえそれ程重要ではないのかも知れない。
だがこの種のテロ行為を防ぐ手立て自体もなかなか見出し難いが、同時に今回の様に起きてしまった場合、それを解決に導く手立てもなかなかない。一切の報道が差し控えられていさえすれば隠密に何等かの特殊部隊を潜入させるということも可能かも知れないが、マスコミ全部の口を塞ぐこと自体が全く無意味である。ウェブサイトで蛮行自体を晒すことを彼等がしてしまっているからだ。
イスラム国(ISIL)はある意味では極めて現代ツールを巧く利用した集団だと言える。その意味では既にアメリカ等を彼等の最大の敵としている彼等はその時点でアメリカ型資本主義の一端無しには一切の蛮行を成立させない様にしていることを自ら認めてしまっているとも言える。
彼等は世界中のマスメディアが自分達のしていることを非難し大きな事件として報道すること自体を利用している。世界中が騒げば騒ぐ程多くの狂信的なシンパを獲得することも可能である。勿論有識者達の言う様に現在の彼等は既に内部分裂を来しているかも知れない。と言うより最初からきちんとした統制の取れた集団ではなかったのかも知れない。しかしそれは現在迄のキューバの国家体制を敷いてきている党の革命評議会自体も元々はそうであっただろうし、全ての集団の基礎とは悪い言葉で言えば烏合の衆的要素に満ちたものである。全ては結果論なのだ。
ISILの目論見は世界中が掻き回されてきているということ自体だけ取ったなら完全に成功している。彼等に先駆けて世界中を震撼させたオウム真理教がISILにも大きなヒントを与えていることは言えることだし、無差別テロ的な色彩に今度はよりイデオロギー的な妄想、つまり世界経済の資本アメリカ一極集中的事実への批判として日本も加担国として巻き込まれた形だが、報道自体が後藤氏が殺害されるとそちらにだけ意識を集中させつい先だって殺害された湯川遥菜氏のことへは殆ど言及しなくなるというある種その場凌ぎ的な態度自体への批判体として彼等が君臨することに愉悦を感じ入っているかも知れないとも推察される。
今日民主主義と表現の自由の一般市民の獲得に拠り国家自体が絶大な権威と権力を持つことを政治家に困難にしているし、それを国民が望んでもいない。それは世界中で徐々に浸透している(北朝鮮の様な国家も未だに存在するので、全てとは言えないものの)と言える。其処で隠密に救出作戦を立てることも困難なのだ。
政治家はあらゆる角度から批判に晒される。其処で通り一遍のことしかカメラの前では語れない。そしてそれは国会や集中審議等でも同様である。各プレスが控えているので秘密を保持し難くなっている。結局もし全てを隠密に救出作戦等を立てるなら、敢えて国民からの批判を覚悟で一切の決裁を待たずに履行するしかない。時にはそういうことも必要だろうが、今回の様な事件では其処迄する覚悟を政治家が持てなかったということなのだろう。
この種の事件が連発すると、国内に滞在する全ての中東系市民が疑惑の目で見られるし、事実中にはISILから送られたスパイも居ないとは限らないので、結局中東アラブ系市民全体への差別的眼差しが作られることも極めて厄介なことである。シリア、イラク、ヨルダンといった国民はそういったことを憂慮しているだろう。
現代型のテロリズムとテロリスト集団はマスコミと政府を嘲笑出来る愉悦が第一目的であるし、かなりそれが実現されてしまっている。宗教的イデオロギー自体も正義論であるから正統のものであるなどとも勿論どんな種類のものでも言えないが、それにも増してそれを利用する悪辣なテロリスト集団の統制的原理も全く正当性を欠いている。だがこの種の集団の行動にはその様な訓戒自体が既に効力を発揮しない。
脅迫の仕方から動画自体の発信の仕方に到る迄かなり支離滅裂であることからも、内部統制もだし、外部からのISIL自体の利用価値を巡るヒズボラやアルカイダ等の考え方もまちまちであり、又ISIL構成要員自体がばらばらである可能性も高い。となると益々集団全体の狂信的行動はエスカレートする可能性は高い。
現代社会は体裁的には皆が平和に暮らす為に演技しているが、その演技自体が表層的なポーズであり思想ではないので、この様な悲惨な事件が起きても、我関せずとしている市民の方がずっと多いし、マスコミ自体それを利用して報道を活性化させているに過ぎない。政治自体も運用は各種利権団体の代弁機能を担っているに過ぎず、その事実を逃れようとする議員に対しては(例えば山本太郎の様な)熾烈な批判を集中させる。それは天皇陛下に手紙を渡す等の行為を稚拙なメッセージとして葬り去りながら、自分だけはそういう批判を浴びせかけられぬ様に用意周到に黙っているという選択肢を最もましなものだと全市民に心得させてしまう。
マスメディアはウェブサイトが暗々裏に世界中で勝手に利用され秘密の会合その他全ての遣り取りをしていることを承知しながら、その全てを暴き立てること自体不可能であることも承知で、しかし時折余りにも見過ごせない事件のみ集中的に扱おうという態度を決め込んでいる。今回の事件に関しても責任問題等も大いに問われることだろう。しかし仮にそういったことを契機に政局が不安定化したとしても、それこそがISILの思う壺であり、彼等はしたり顔でそれを静観することだろう。
この問題に関してはことの成り行きを見守り再度取り扱うこともあるだろう。
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