Monday, May 16, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十一章 為政者達にとっての現代ウェブサイト社会と世界

 今回は為政者の立場に立って思考実験してみよう。私自身その様な立場に立てる可能性はほぼゼロであるが、却ってそのことが思考実験を容易にしているとも言えよう。
 今年のムバラク政権崩壊のニュースも記憶に新しいが、私達の社会では既にウェブサイト世界によって世界は急速に距離が縮められている。それは少なくとも形而上的にはそうであった。当然のことながら東日本大震災が形而下的には世界は分断されているということを私達に突きつけたからだ。
 私達は一方では既に全く遠僻地に住む人々と容易に交信し合える。にも関わらずある部分では地震などがあった場合、その窮状を助け合えるのは地元、近所の人達だけであるとも言える。
 しかし政治という局面では少なくとも現代社会は為政者による巨大な権力が行使され、そのエフェクトが即座に実感されることで、その反応は凄まじい勢いでウェブサイト上を駆け巡る。その速さと権力に対する批判の凄さは恐らく全ての世界中の為政者達の精神に既に昔の様に容易には人心を統治し得ないという諦念を与えているだろう。
 つまり彼等はある部分では極めて神経症的に自分達による権力の行使に対する反応を間近に知ることが容易であり、その容易さに於いて常に針の莚に座っている様な気分を与える。
 これは新聞記者達にだけパフォーマンスをしていればよかった前時代には考えられなかったことである。つまり今現在の為政者達にとって一瞬で駆け巡るウェブサイト上での情報の遣り取り、交信行為の過密自体が最大の恐怖なのである。
 これは精神分析的にも心理学的にも恐らく現代に固有の政治家の内心でのプレッシャーを与えているに違いない。
 だから勢い彼等はある部分では計画通りには一切行かなさも実感させ、博打的なパフォーマンスで一回当てると二匹目の泥鰌を狙う心理へと容易に自己を追い込んでしまう。
 従って現代の為政者にとって最大の課題は恐らく有能なブレーンを保持しているかということである。結局いい決断が効果を生むということの背景には常にそのブレーンの駆使能力と判定されざるを得ない。
 ブレーンに信頼されない為政者達は失政へと転落する。これだけは間違いない。
 現代では既にマスコミの力は煽動的な機能でしかないと多くの市民が覚醒している。この事実も極めて大きい。例えば今回の大震災ではカタストロフィの映像を多く放映したりすることによって不必要に不安感を煽ったということでマスメディアは多く批判を浴びている。しかしこのことは裏を返せば為政者達にとっては好都合でもあるのだ。何故ならマスメディアより自分達自身の為政に対して信頼を勝ち得る余地をそこに見出し得るからである。
 今現在ツイッターなどでは為政者、つまり首脳に対する評定に於ける辛辣な批判とマスコミ批判とが混在している。しかし重要なことはウェブサイト利用者の中には既にかなり多数新聞やテレビ報道を中心に信頼性を置いていないということであり、そういった意味ではニコニコ動画やYoutube、WikiLeaksなどの画像を通して情報摂取をしているユーザーも多数に上る。これが一面ではマスコミ攻勢に対する巧い回避方法にしていけるかどうかこそが為政者の政権維持と、施政センスなのである。つまり一方では権力者の無策は即座にウェブサイト上で批判の集中砲火を浴びる。しかし批判は常に政府にだけ向けられているわけではないので、新聞やテレビに対する批判をしているユーザーも多いので、その隙間に為政者は可能性を見出し得る筈なのである。
 権力者にとって魅力的に映る、市民からの信頼、政府に対する信用といった二文字は、現代では極めて色褪せて見えている。そうしているのは当然ウェブサイト上での自由な書き込みである。
 しかし昔の権力者達の様な独裁的な行為、或いは政界内根回しだけで全てが滞りなく遂行されるお膳立て的政治からの脱却は小泉政権時代の元総理の功績であるが、権力者が固有の権力自体への耽溺、陶酔を不可能化しているのがウェブサイト上での交信の過密であり、それは既に新聞やテレビにまで影響を与えている。
 つまり現代為政者達は既にウェブサイト上での交信の過密という消滅させ得ぬ威力によって長期安定政権をかなり困難にしているのだが、その常に緊張が持続され得なければならないというストレス自体へ魅力を保持し得る者のみ為政者としての立場に立ち得るという実質を作り上げている。これは旧態依然的権力の構造を全く変えてしまってきているし、本質的に権力が大らかさではなく、緊張の糸を緩められなさにあるということを意味する。
 しかしそれは逆に緊張してことに当たっていると同時に、そう「見せ掛けられ」且つ権力自体を楽しむ心の余裕を為政者達にはより求められている、ということも言える。要するにパフォーマンスと内心が乖離していてもよかった過去の権力と違って、それはパフォーマンスの仕方自体に既に完全に行動論的責任倫理が問われてしまう現代では、本心と真摯さと実権を振るう心のゆとりの全てが一体化された「嘘のない見せ掛け」を求められている、ということが出来る。
 それを後戻り出来ない様にしてきたのが映像であり、映像が個々のパソコンによって閲覧可能化されたウェブサイト世界であることだけは間違いない。
 現代の為政者達は交信過密な強大なる被監視状態を楽しむ異常性さえ求められているのである。

Saturday, May 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十章 老いることを許さない社会

 震災によって首都機能の東京一元化経済推進政策自体への見直しが徐々にテレビ討論などでも叫ばれてきていることはいいことだし、浜岡原発停止指令を菅総理が出したことは決して悪いことではない。
 しかし生存を賭けた国家戦略に於いて重要なことは、社会機能維持と産業活動と経済循環が同時的に推進されていくことに他ならない。日本社会は依然老人が最も経済循環に於ける消費者として期待されている筈だ。何故なら子育てに忙しい三十代から五十代迄の世代は最も仕事的には大きな推進力であるが消費レヴェルでは抑え込むという傾向は否めない。
 一方情報化社会の担い手は多くが若者である。
 しかしよく考えてみよう。旅行などをする時間的余裕のある世代とは六十代であろう。七十代は元気な人はいいが、移動の忙しい旅はしない。尤もだからこそ観光的な魅力ある旅行を望むということはあり得る。
 高速バスは受けているのは専ら若者世代を中心とする移動を多くする仕事、旅行に於いてである。つまり経済政策、要するにGDPレヴェルでの推進に対する問いは、ある部分では老いていく人間の実像を踏まえて考えていくべきなのである。
 社会機能維持的観点から言えば確かに首都機能東京一元化は危ういと言える。しかしそれと文化的レヴェルでの全国各地での相互交流は又別の問題である。
 経済循環合理主義と社会機能維持の合理主義は一方ではより利便性の強い多機能モバイルなどをメーカーに製造推進している。しかしそれは極めて上級ユーザー向けにのみ創られている。つまり一番旅行などをする精神的、物理的余裕のある老年世代に対して使い勝手のいい様に作られてはいない。この点が問題である。
 つまり青年世代にとっての上級ユーザー向けの開発が一方で経済社会経済循環に於ける回転率的忙しさを作っていくことが加速化されると、老人に対して「のんびり生活していく」ということを許さない社会の到来となってしまう。新幹線の運賃が異様に高いなどの理由で勢い、遠出の旅は老年世代では差し控えられる様になる。
 高速バスが安くリラックスして旅出来る様にせざるを得ないのは新幹線の運賃が高過ぎることに由来している。
 だから社会機能全体を老年世代にとって心地よく過ごすことの出来る精神的余裕を与えていくべきである。つまり「老いることを許す社会」にしていくという方向性が行政レヴェルでも経済推進レヴェルでも求められている。
 その為にも老年世代にとって使い勝手のいい多機能モバイル、或いは少機能のものでもいいから、要するに一番子育てにかからない消費を老年世代に促進していく様な情報摂取機器の開発が求められている。そうすれば老年世代の観光消費によってより地方と都市部との連結機能も強化され、交通の利便性も促進されるし、文化的交流も相互に地方同士で盛んになっていくことだろう。
 又そうすることで多機能モバイルその他の機器の価格も安価なものとなり、サービス産業的競争力も推進されていくことだろう。
 社会は未来に期待される子供や青年だけでなく、働き盛りの中年や老後のゆとりを享受している老年世代といった多元的な世代の共存によって成立している、ということを忘れるべきではない。