Sunday, September 11, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十九章 表現のリアリティと日常的態度と構えの変質に就いてPart1

 若い頃から詩人としても活躍してきたという映画監督の園子温氏はテレビインタビューで絶望を描こうとしていた映画のテーマを急遽最後に希望を持たせる内容へと変更させたと最新作に対するコメントを述べていた。希望を持たざるを得ず、生半可な絶望が一切リアリティを失ってしまったという弁は「絶望が希望に負けた」という氏の表現によく言い表されていた。
 現実世界での圧倒的リアリティが表現者に表現する際のモティヴェーションに於いて決定的な強制力を持ってしまうという現実をまざまざと見せ付けられた思いを感じずにここ半年を過ごした日本国内在住の日本人、或いはそれ以外の民族の表現者達などいはしないだろうし、又そう感じずに過ごした人達が居るなら、そういった人達が表現者であると言えるのかと私が言うとしたら、それは余りに教条的物言いであると言えるだろうか?
 確かに哲学者であれ科学者であれ、今回の震災が精神的に齎した影響は決して小さくはない筈だし、それはそれ自体が自立したものとして職業的使命とは別個のことである、と理性では割り切っていても、生活者としての感情からはそうは行かないという面も否定出来ない。
 
 確かに時代性という意味では映画監督も脚本家も、小説家も詩人も、劇作家も役者も等し並にあるモティヴェーション上での規制を受けてしまうということは否定出来はしない。
 東浩紀による文学評論世界での展開がゲーム的世界でのリアリティに侵食されてきているという主張が「動物化するポストモダン」や「ゲーム的リアリティの誕生」でなされてきた時代背景には確かに時代的な閉塞感が在った。しかしそれは今年あった未曾有の自然災害による有無を言わせぬ生活者に押し寄せる力とも少し違った。従って引き篭りという精神的疾病的現実が問題化された背景には対人関係という軸が中心に位置していた。
 しかし自然災害はそういった精神的サヴァイヴァル以前的な意味で物理的にサヴァイヴァルしていかざるを得ない真の意味での緊迫感と絶対的臨場感、現実的強制力がある。
 未だ都市機能が回復していない箇所は数多く在るし、商店経営者達が一時帰宅してみると、商品が略奪されている現実も当然あるし、テレビでも連日報道されている。被害に遭われた家族の方には誠にお気の毒としか言い様がないし、生活上の救援がなされて然るべきである。
 しかしある日突然全ての家屋や財産を奪われて辛うじて生命だけは助かった放浪者にとって見出された商店での食料や飲料を生命をその時点で維持する為に必要であるということは倫理命題以前的な問題ではないだろうか?事実家族全員を津波で目の前で失って茫然自失でいたとしても尚居住家屋が抽選とかで当たって生活していられる人達は只生活しているだけであっても、記憶迄失われるということはないかも知れないが、全く財布も貯金も底を尽きて徘徊している人達の中にはきっと記憶喪失になっている人達も居るに違いない。

 さてそういった圧倒的現実の猛威に於ける表現者のリアリティとは平時のそれとは比較しようもない程変質を迫られるということはよく了解出来る。そして詩人はそういったカタストロフィに直面した人間の精神に肉薄しようとし、心理学者や哲学者もそういった非常時での人間精神の在り方を問おうとする。映画監督や劇作家や写真家はまさに現実に起こってしまって、今も尚起きつつある決定的な無秩序地帯と化している東北地方を中心とする都市や村落の現実に対して、一切目を瞑り耳を塞ぐことを潔しとしないという心の在り方は理解出来るし、当然であろう。
 その意味では引き篭り的精神疾患的な対現実的精神の持ちようというリアリティはかなり大きな打撃を蒙り、対他的に説得力を失っている様にも思えるし、それは事実であろう。

 しかし一方こういった悲惨なる自然災害的な現実を前にしても当然心の持ち様自体は各人各様であるということも間違いないだろう。
 例えば非常時に於いて仮住まいで夜一人寝る時にラジオを耳にDJの語りに癒される人から、クラシック音楽、或いはポップスの歌に癒される人達、或いはクロスワードパズルをすることで心が沈静化する人達、数学の数式を解くことで癒される人達、絵画作品を鑑賞することで心を平静へ保つことの出来る人達といった様に各人各様であることは、こういった状況でも変わらないのではないだろうか?

 平常時に感動したもの全てが白けて一切の感動を呼び起こさないという虚無感、今の今迄震災という現実がなかった時にはよかったと思えた全てが白々しく、説得力を失ってしまっているという現実の絶対的リアリティによるフラッシュバック状態から脱却出来ずにいる状態自体も決して否定出来はしない。しかし同時にこんな物理的状況であり、時代的状況であり、世相であればこそ、平常時に感動した心の在り様をもう一度取り戻して、ああいうことが一切起きなかった以前の状態で感じた感動を取り戻すということも必要は作業ではないだろうか?

 何時聴いてもバッハやベートーヴェンやブラームスの音楽は心を癒すし、思索や思念を深めるとも言い得る。偉大な文学や哲学、演劇、絵画等美術、或いは建築の美に心酔する心の在り方を希望の光として認識することは決して悪いことではない。
 リアリティを失ってしまったことへの意志的な復権作用も必要ではないだろうか?
 精神分析や哲学という心への透徹した眼差しを要する学問に於ける一つの時代現象として引き篭もりやオタクといった社会事実は認められるだろう。勿論幾分それ等が席捲した時代の効力はそれ等からは失われることは致し方ないと言えるだろうが、その問いかけの全てが無効化するわけではない。そういった問い掛けは実は引き篭もりとかオタクといった語彙のなかった1970年代迄にも寺山修司などによって問い掛けられていたとも言えるし、映像世界でも寺山は活躍したが、同じく映像では鈴木清順や大島渚、篠田正浩、深作欣二、岡本喜八、五社英雄、神代辰巳、藤田敏也、黒木和雄、若松孝ニ、和泉聖治、工藤栄一、村川透といった人達によって営々と描かれてきた。又現在でも前記の何人かやその他その時代の人達によっても、或いは河瀬直美の様な後続世代の表現者達によっても受け継がれてきている。そしてそれ等の文化遺産や問い掛けられてきた問題意識は消滅しているわけではない。
 それは金子みすずの詩が今もって尚、我々に対して変わらぬ命への賛歌を訴えかけてくれると我々が知っていて、そしてその自由で瑞々しい、そして平明な韻律とフレーズ自体に寧ろこういった悲惨なるカタストロフィに直面しているが故に我々の精神は呼び覚まされることを渇望している、とは言えないだろうか?

 相田みつをの詩と絵でもそうであるし、棟方志功の板画もそうである。私達の心は常に彼等の持ち得た精神の妙を理解することを欲しているのだ。

 ある部分ではかつて安部公房が描出した記憶喪失者的徘徊は現実に起きつつあるし、それ等は既に表現世界の観念的リアリティから直前に散見され得る現実の絶対的リアリティへと変質してしまっている。「燃えつきた地図」や「砂の女」のリアリティは恐らく我々が東日本大震災を経験する以前に持っていた質とは決定的に異なってしまっていることだろう。それはそれでいいのだ。
 問題なのは、その変質という事実に我々自身がどう向き合うべきか、ということである。寺山の「田園に死す」或いはそれ以前の「書を捨てよう、街に出よう」がある時代に持っていた時代的リアリティと精神の構図を、では今現在3.11以降に我々自身に降りかかる全ての現実の中でどう捉えなおし、そこにこれ迄と全く変わらずに我々の心の中に巣食い続けてきているものと、今迄は全くなかったが3.11以降に決定的に居座り続けてきてしまっているものとがどう折り合いをつけて我々の心に共存しているかを見定めることを通して、我々は表現者としてでもいいし、思索者としてでもいいし、科学的分析者としてでもいいのだが、その日々織り成される行為の意味づけをしていくか、ということが精神の上でも現実世界への投企という意味でも求められているのではないだろうか?
 
 私自身は然程若い世代には属さない人間であるので、もう少し時間が経ってから一度真剣に被災地にも訪れ、現地で復旧作業に勤しむ方々にとって迷惑のかからない形で、足手まといにならない限りで私なりに出来る作業を現地で行いたい、と今は考えている(然程遠くない将来に挙行しようとは考えているが、正確な日時は決めていない)。その被災地行きに到る迄私は私自身の精神の構図をこの五十年とちょっとの人生の中でどれくらい今現時点での私自身の生きている者としてのミッションで位置づけられるか、ということが実際に被災地に訪問する時に役立ってくれるのではないか、と考えている。