Saturday, February 27, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十七章 応用と実用①他者とは?

 学問とはどんな分野であれ本来は実用的価値を持つものでなければならない。しかし我々は七面倒臭いことは全て専門家に任せておけばよいという意識を恐らく近代社会以降特に分業システムにおいて介在させた。それがある意味では現代社会まで継続している最大の偶像崇拝的逃避の生活者における意識である。
 だが専門家の中には上から目線ではないもっと実用的な視点から専門分野の応用ということを考えている人はきっと少なくはない。しかし学者というものは概して特に日本では四年制大学を卒業後、大学院に二年、更に三年というように院生として残り修士課程から博士課程までを履修した者のみをプロとして扱う世間の不文律故に、彼ら自身が一切実社会での経験を持たないままプロの学者になってしまうことの方が多く、しかも一般会社員で例えば営業部員などは自分の受け持ち区域での営業成績を上げることに血道を挙げているので、次第に最初は学生の頃のような学業的教養を身につけたいという気持ちを持っていても、その時間的精神的余裕を失い会社員としての社会人意識の中で学者とか特殊専門職の人たちと自分たちが全く異なったタイプの人種であると意識するようになるし、又学者や専門家も専門家バカ的な性格を次第に身につけ、両者の乖離は益々顕著となり、まるでこれが同じ人間同士であるということ自体が信じられないくらいに人生観自体にも差異を生じていく。
 従って一般社会の側から専門家に対してある種の学業履修的意識が余暇においてあっても尚我々は専門家や学者一般と一般会社員との間の生活観、人生哲学の間には越えられない壁を形成してしまうから、応用とか実用ということにある種の懐疑すら専門家は抱いてしまい、その姿勢を敏感に感じ取る一般社会人たちは益々専門的学問を浮世離れした異次元の世界である、と認識するようになる。だからそういう両者の乖離自体を憂える専門家が仮にいたとしても、それはかなり億劫な作業であると同僚たちからの同意を得ることすら困難となる。
 だがある部分では専門的学問の世界の側から言えば中途半端に一般社会に阿るくらいなら、いっそかなりシビヤに専門性を追究していった方が余程いいという考えも出て来るし、また実際本格的に専門家以外の一般社会人たちが専門学問を履修したいと思う時彼ら自身も、その学問が即座には社会生活に役に立つようなものとは一線を画した世界であると覚悟して臨むということもあり得る。
 例えば数学は実用範囲のものと専門家が考えるものとではかなりの乖離があるし、それは哲学とか言語学においてもそうである。だが敢えて哲学をこういう場面では応用可能であると考えると、対人関係において何らかの拗れを来たした時などは、人間の感情を冷静に分析することを通して哲学が意外と役に立つこともあるかも知れない。
 そこで他者に共感するということと反感を持つということの両方について少し考えてみよう。
 他者とは私たちにとって私自身の代理を果たすことが出来ない、とりわけ幸福観情においてはそうである。同僚の結婚や出世とは自分自身にとっては、それが果たし得ていない者にとっては羨望と嫉妬の対象でしかない。
 しかし他方他者とは、例えば今の同僚の例で言えば、仕事上で何か困った時には助け合うということにおいて責任分担すべき存在である。そこで他者に対して自分が不得意な分野に関する知識とかメソッドなどを教えて貰う代わりに自分はその者よりも得意な分野においてはこちらから積極的に情報を提供してあげようという気持ちになることを通して同僚同士の信頼感というものは醸成される。
 つまり仕事とはあくまでお金を稼ぐものであり、その仕事をして幸福な家庭を築いたり、充実した余暇を過ごしたりするということ自体が一つの幸福的価値であるなら、我々はその仕事において相互にいい時間の使い方、社全体の業績と自分たちの実績に直結するような工夫をし合うことを通して円滑にビジネスが運用されることを相互に願う場合、責任倫理において結びついている人間関係である。
 一方家庭とはそういうビジネス的責任とは別箇の人間的触れ合いを求めるということが、例えば今述べたビジネス上での円滑な運用を相互に協力し合う対人関係が形成されている者は価値として見出され得るだろう。
 すると家庭的憩いという意味ではそれを心情倫理として最後の砦として残しておこうという決意が一方であるからこそ、逆にビジネス上ではかなり激烈な企業間の競争を掻い潜っていこうという相互の同志意識を同僚との間で形成するということは、他者の存在理由をそのそれぞれの成員において固有のロールを意図的に付与して臨んでいるということが言える。
 つまり同僚同士では相手も又自分と似たり寄ったりの生活観とか幸福感情を抱いているに違いないという目測を建前として形成された責任倫理的結びつきなのである。
 勿論相手は実際には何を考えているかは定かではないし、実際上仕事上での義務さえ果たしておれば相互に余暇の時間の過ごし方は基本的に自由であるし、相手の嗜好を阻む理由も、又向こうからとやかく言われる筋合いもない。そういったドライで割り切った対人関係自体が逆にビジネス上での協力関係を運命共同体のように形成させていくということも稀ではないだろう。
 つまり人間とは一方では家庭内において、他方では職場とか配偶者や家族以外の他者と全く異なった意識で接して相手を尊重するのだ。それはある意味では人格的にも多重性を持たせながら各成員に対して臨むということでさえある。
 現代哲学において他者という命題は実存主義や精神分析を取り入れた考え方(ラカン、レヴィナス)といったものから、分析哲学系(ライル、オースティン、ストローソン)といったタイプのものと色々とあるが、実際の所一切実用的応用性などないと言ってさえよい。
 だが唯一我々に提言出来るのは、相手に対して責任の持てない不必要な思い遣りとか対人的配慮などよりは、相手の事は自分の事ほど明確には分かり合えないということを前提にしてだが、相手の自分とは異なった価値を尊重し侵害することなく接し、その代わり向こうからもこちらのプライヴァシーを侵害して貰わないように配慮し合うということ、それはある部分では積極的に功利主義的な配慮でもあるが、それをカント的根本悪的な性悪説に依拠させる以前に、他者とは私とは決定的に違う、それはこちらから向こうに対してそうなのだから、向こうからこちらに対してもそうであろう、という推測に対する一定の信頼を得るということを前提としているということだ。故に相手がこちらに全て真意を語り、全て偽っていないとは必ずしも言い切れないが、それはこちらから相手に対しても全て自己真意を吐露しているわけではないということを自分が一番よく知っているのだから、我々はそういう相互の了解を「あるもの」として、勿論それが曖昧化していく過程を察知したのなら、意図的に相互の了解を得るための対話を、敢えて時には対立軸も鮮明化しつつ持つということが求められる。
 それは他者という哲学的における我々にとって乗り越えがたい(つまり容易に理解することが出来ないということを意識しておれば、そう衝突もないが、それを忘れると途端に相手に誤解を招く)命題であり、その乗り越え難さ自体が、存在を存在たらしめると考えることが出来る。
 つまり人間は相手に対してもっと知りたいとか理解したいという欲求も止み難く持つ。だがそれは「相手の事を全て知る必要はない」従ってこちらからも相手に対して「全てを打ち明ける必要はない」ということを相互に認可し合うということをベースとしている。だから逆に相手の事を自分が一番よく知っているというある種の馴れなれしさを持つ事が次第に相手を疎ましく思わせる事(そう相手から思われる事も、こちらからそう思う事も)であり、その行き違いが反感を生むのだ。そしてあまり接近し過ぎると他者とはそうなるという事を相互に察知し合う関係においてこそ共感を持つ機会を多くするということだ。
 それは実は契約関係的責任倫理対人間である同僚とか友人だけでなく、実は夫婦間にも親子間にも全く該当するのである。寧ろ他人だから言えることと、親族や家族だから言えないことということが矛盾なく共存しているのが個人の内的世界なのである。それはまさに最初に述べた学者や専門家と一般社会人、会社員という生き方の違う人たちの間の関係にもまさしく該当することなのである。
 この哲学命題の実用性と、学問の日常生活への応用ということはもう少し続けて少しずつ違い角度から掘り下げていこうと思う。

Tuesday, February 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十六章 トラフィック・モメントと偶像崇拝的逃避 人間の移り気を逆利用せよ

 我々は何事にも真摯に当たれと心がける一方、どうしても何かに熱中出来ないという気分の時もある。そういった時私たちは無理にそのものに没入しようとはせず、気分転換も必要である。それどころか創造性とは寧ろ、従順に一つ事に勤しむ努力からではなく(勿論基本としてはそういう心がけがあったとしても尚)辟易、退屈凌ぎから生まれることが多い。つまり人間に固有の移り気を逆利用することこそが、本当は求められている。
 ところで人間は未来に対して何かする、と意志し、決心(意図)を持つ時、そのもの(未来にするべきこと)以外の全てを選択的に埒外に葬り去ることによって、積極的に差別化している。そのことは実はその中にも必ず何らかの成果へと導く要素も混入しているわけだから、それらを含めて一括して不必要であると見做すことによって決心する(振り切る)わけだから必然的に如何なる正当なる決心であってさえ、偏見や決め込み(決め付け)が介在していることが分かる。つまりそれは「それは本来価値かも知れないが、何も自分が担う必要はない、それを得意とする者に任せておけばいい」ということで、自分以外の適性を保持している者に任務を委譲することからも、一つの偶像崇拝的逃避心理のものなのだ。それは他人でも「明日やればよい」「いずれやろう」というように、私たち自分自身の中での「未来の自分」「いつかそれをやる自分」という他人へと偶像崇拝的逃避をしているのだ(尤もいつかはやるということは永遠に来ないことも多いのだが)。この決心の介在する偏見や決め付けという「うっちゃり」とは偶像崇拝的逃避という形での責任転嫁システムを招来させるべく何らかのミステリアス・ガイダンス、つまり「今それをしたい」と思うこと以外の全ては「うっちゃって」おこうという気持ちにさせる魅力を目前に認識させている筈だ。だが同時に「したいこと」は「しなければいけないこと」と対になっており、必然的に一旦は「うっちゃって」おいたことを「再び取り掛かれねば」と思い、それを履行する故に「今したいこと」→「やはりしておかなければいけないこと」との間の往来や短い往復が果たされることとなる。
 それはある意味では適度に私たちの移り気を援用した巧妙なるトラフィック・モメントの価値化に他ならない。あるいはもっと限定的に言えばラップ・モメントの価値化である。
 義務感にのみ苛まれていては、私たちは真に豊かな創造性を仕事に発揮することは出来ない。
 従ってある意味では只従順に一つ事にのみ執心せざるを得ない生真面目さは、あまり創造的ではないどころか、寧ろ弊害ですらある。
 私たちは自らの中にある怠惰、楽をしたい気持ち、愉しみを求める気持ちといった移り気(ウィム)や、気まぐれさ自体を常に有効利用すべく勤めねばならない。何事もしていることのその時々で愉しみを発見しなければ、私たちは何事もなし遂げることは出来ない。
 
 付記 
 昔は会社や役所等の組織では部長等が他の部下全員を監視出来るようなポジションに机と椅子を陣取り、ヒエラルキーによって集団を構成していた。しかし今日我々は既に個人毎に職種の適性があるかという評定以上に(寧ろそういった選択問題より以上に)、一つの義務履行方法や手順こそ個人毎に最も有効な方法が存在するのであり、決められた手順通りにするという事自体が、それに従順である(そのことに対して我慢する)ことで給与を支払われるというシステムだったが、これは最早時代遅れである。
 自分にとってよりしやすい仕方を見出していくべきであり、一つの型に嵌め込むということは不合理である。
 同じ一つの部屋である程度の監視付きで業務履行した方がよい、と思う成員のみ所定の職場を希望選択させるということを含めて自宅であれ、別の場所であれ、納期厳守さえすれば仕事をする時間帯さえ自由にする(即座に直に指示を与え、仰ぐ必要性がない限り)ことが望ましいとさえ言えるだろう。そのことが時間差通勤を促進し、朝夕のラッシュアワーの込み具合を軽減する手立てともなろう。

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十五章 表現形式と思想哲学流派について

 私たちにとってある固有の表現形式の持つ精神はどんな時代でも不変であるように思えるが、実際はどんなジャンルのものでも少しずつ変容してきている。例えば映画は映画創成期と現在とではその在り方を随分と変えて来ている。にもかかわらずある部分ではいつまで経っても映画は映画である、と私たちからは思える。
 つまりそれらはある水脈として延々と同じ祖先を持つものとして引き継がれてきているからである。
 映画は当初は演劇から影響を大きく受けてきていたが、次第に音楽とかその時代毎のファッションからも影響を受けていくようになる。
 文学には散文、韻文というように色々な形式があり、小説には小説の流儀があるとされる。だが小説には色々なタイプがあり、例えば文体からしてエッセイ風のものから、もっと実録物のようなドキュメントと報道の要素を取り入れたものもあるし、ハードボイルド調のものでは、犯罪的な道具とか登場人物の仕事をする服装などが重視されたりする。
 またサルトルのような哲学者が書けば当然哲学的思想が反映されたものとなり、文体も全く変わってくる。
 にもかかわらず我々はあるものを小説と呼び、あるものを詩と呼ぶし、そのこと自体に疑いを差し挟まない。そういう意味では恐らく詩も小説も変遷してきているのに、そこには祖先を同じくする水脈という固有性以外に、詩との違いというものを、プロではなく一般読者や愛好家たちが差異性の下に理解しているということが言える。
 つまり小説内部においてはどんどんスタイルも語られる内容も変わって行っているのにもかかわらず、詩との関係、つまり差異の方は、勿論それ自体も微妙には変わって行っているのだろうが、小説内部での変遷よりは不動に近い、つまり変わり難いということが言えるということになる。
 これは我々一般の大衆が詩に求めるものと、小説に求めるものとが明らかに違うと言うことに起因する。つまり我々自身の脳裏に個々の形式の持つ意味への記憶が潜んでいるからである。ここで言う意味とは端的に伝達する成員間の同意に依存する。だからあるジャンルが極度に変遷してしまって、前にあった善さが失われてきているのなら、その欠落を穴埋めする別のジャンル(全く新しいものであっても、既成のものであっても)が担うということもあり得る。
 例えば同じ散文と言っても、小説に比べれば哲学論文はあまり文体に必要以上に拘り過ぎてはいけないということだ。概念規定の方にもっと心血を注げということである。それは特に論理優先主義の分析哲学系の論文だとより、そういうことになるが、他方、生の原理優先主義であるところの現象学においては散文的ロジックが、ロジック方程式的な構造よりも重視される、ということは言えるだろう。
 スポーツにはスポーツの文体のようなものがあるのだろう。つまりゲーム毎にルールがあるからだ。オリンピックなどでは種目毎に異なった要求されるスキルと耐性がある。そして実際的スポーツ行為における実力と、本番の試合における偶然性への対応能力、端的に相手との駆け引きの能力は又別箇に必要とされる。
 従ってどんなにいい試合をしても勝ちは勝ち、負けは負けということだ。そういう意味では終わりよければ全て良しという性格はある。最も苦戦した時には必ず反省材料が揃っていて次回にもっといい勝ち方をするスキルを身につけることが要求される。
 このことは興行的性格のものには似たような要求があると言っていいだろう。例えばテレビ番組には今ネット社会に太刀打ちするためにもっとそれまでにない価値観を求められているかも知れない。あるいは出版物自体も同じ運命にあるだろう。
 つまりあるものの出現はそれまでの規制のメディアの在り方を変貌させずにはおかない。例えばブログはツイッターが定着しつつある現在、それまでの価値観から少しずつ脱却してツイッターにはない要素を見出されつつあるだろう。つまりツイッターによって既に充足してしまったことにおいてなら既にツイッターに委譲させてしまっているからだ。従って映画が出来た時に演劇に求められたこと、あるいはテレビが出来た時に映画に求められたことと同じような状況がブログには求められて然るべきである。
 あらゆる文藝的な表現主題は常に相互に影響し合ってきたと言える。明治初期には小説などという表現形式はなかった。従って最初は歌人だった人とかが小説家に転向したりしたわけである。
 映画監督がテレビやコマーシャルのディレクターになったりすることと同じことは現在でも日々行われているだろう。
 そしてそれを推し進めることとは常にあるメディアのユーザーのディマンドである。要するに我々自身がどこかで常に目移りをすること、関心事項とか領域を移行させていっている、つまり三つから四つ、四つから五つという風に利用するメディアを増加させるに従って、様相も頻度も変化させるあるメディアから別のメディアへの切り替え(スウィッチ)と又戻ること(トラフィック)との間に介在するユーザーの心理とは端的に潜在的な生活上のニーズであろう。
 それは哲学や思想、宗教といった心の領域の知識、体感的要求においても相同である。一人の哲学者が論理学や分析哲学から、現象学や社会哲学へとある命題を追究していくプロセスで容易にスウィッチしたりトラフィックを持ったりする契機、つまりスウィッチ・モメントやトラフィック・モメントにはユーザーのレヴェルだけでなく、恐らくメーカーのレヴェルでも既にユーザーに先駆けて仕掛けるということは日常茶飯事であろう。
 又新奇なアイデアやメディアが席捲した後に必ず訪れる倦怠期のようなもの、つまり辟易していくユーザーの心を繋ぎとめるもの、あるいは再利用価値を再認識させるメーカーにとっての戦略(ストラテジー)を先読みするようなユーザーたちも常にいたことだろう。
 それらも時代と共に各メディアの存在理由自体は変遷して行っているのにもかかわらず、意外と生活レヴェルでのニーズ自体は不便な時代も、便利になった時代も基本は変わりないということと、それでも尚付加価値的なことを購買誘引材料とするというストラテジーも常に介在している。だがその付加価値自体も常に基本的に不変なユーザーのニーズとアメニティということが必ず介在しているわけである。だから仮に詩なども既に本で読まなければいけないということがなくなっているのであれば、ブログででもいいし、ツイッター上でもいいし、ポータブルで読める各種のメディアからでもいいということだ。
 携帯電話で読める小説さえ流行するわけだから、全くそれ以外の新しい詩の読まれ方自体の変遷とか流行によって詩の形態も内容も、精神も徐々に変質していくということさえ極めて必然的なことなのである。それを躊躇して新たなニーズに対して耳を塞いでいてはいけない。

Friday, February 19, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十四章 記述とは何か?

 私たちの脳は無限ということを思い描くことが出来る。しかし恐らくこの地球も宇宙も存在を持続する時間は有限であろう。それを考慮に入れればたとえ数字が無限大ということを考えられても、いつかは全てのコンピューターも破壊されてしまい、無限という観念自体が人類にとって一個の単なる幻想であったということが、尤もそのようには一切回顧する存在者自体が不在であるなら、時間自体が消滅すると言ってもよい。
 時間の消滅に関してはリチャード・ドーキンスも指摘しているし、恐らく多くの論者が考えていることだろう。
 ところで「凡そ一般的に~は~である」という記述が一般化であるとするなら、一般化は一般化される当の対象自体を固定化されたものとして取り扱う。
 だがよく考えると地球の存在時間も、宇宙のそれも実際は必ずしも予定調和ではないだろう。その時々の宇宙全体の事情によって仮に凡そは寿命が限られていても尚、それらの消滅の正確な日限は我々にとって皆目規定することが出来ない。であるとするなら、当然記述するということの内には欺瞞が潜んでいる。要するにいつ消滅するか分からない当の対象を「凡そ宇宙とは~である」と規定することは出来ない。
 それは宇宙が滅んで、その宇宙を滅ぶ瞬間を目撃し、その目撃談を宇宙が滅んでもその外部で認識出来るもう一人の存在者に向けて発することによってしかなし得ないからである。
 そうなると、我々は実は一切の一般化というもの自体が、常にその場限りの欺瞞的な満足を得るための方法という結論へと導いていってしまう。
 つまり記述とはある意味では全体というものをその都度「想定して」臨んでいるに過ぎないとも言える。従って1+1が2にならない世界へと突如この宇宙が変貌するという可能性も絶対にないとは言い切れないということになる。
 クリプキが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」で示したクワスのパラドックスは実は懐疑自体が一般化され得ないということ、つまり懐疑自体が懐疑すること自体をも含むというラッセルのパラドックスを内包しているからである。
 規則という常に我々の生活に援用されるもの自体をもし懐疑すると、一挙に懐疑された当の規則に成り代わる別の規則をも懐疑の対象として包み込む。するとその懐疑は「懐疑というものはその都度なら成り立ち得るも、一般化することは出来ない」ということを意味する。
 するといつか絶滅する人類、いつか消滅する宇宙において、その日限が確定し得ないにもかかわらず、それまでに起こる全てのイヴェントを予定調和的に「宇宙の~の法則は~である」と言い切る一般化、つまり記述とは全て欺瞞ということになる。
 予め人類の絶滅や、宇宙の消滅という事態が起きる日限が確定されていればこそ、一般化が成立し得る筈なのに、それが未確定であるのに「宇宙の~の法則は~である」と言い切ってしまうのは、只一重に我々がそうしていかねば不安で仕方がないということのみに起因する、と言ってよい。
 もし本当に人類が絶滅する日限を我々が知ることが出来たなら、その時初めてそれまでの間にどういうことが起きるのかということについて有限個の可能世界を提示し得るかも知れない。つまりそれまでに法則の全てが予定調和的に理解されるべく構造で組み立てられていない限りそのような日限など確定し得ない筈だからである。
 だから無限に世界や宇宙が存続するということを前提にした一般法則自体が成立し得るという考え自体を懐疑へと放り込む必要がある。懐疑自体が一般化し得ないということは、確定化された人類消滅の日限までに人類が刻むことの出来る数字こそが数字の有限最大である。しかしそれを我々は恐らく知ることが出来ない。よって我々は無限大という観念を捨て去ることは出来ないし、また懐疑一般ということをいつか地球も宇宙も消滅するということが確定的であるようにして懐疑自体を一般化して記述出来るような幻想を一方で抱きつつ、他方懐疑自体をも無限にあるということとして一般化するという矛盾を同時に提出せざるを得ない。
 だが奇妙なことには恐らく仮に地球、人類、宇宙の存在消滅する日限が仮に確定的であっても、その間の可能世界様相自体は無限にあり得るということにもなってしまう。

Wednesday, February 17, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十三章 制度と職業・「私」を演じる私 

 私とは私のことを知る人にとっての私である。私自身が一人でいる時に自分とは一体なにかと思い巡らせる時、そこに立ち現れる像とは端的に自分の知る他人にとっての自分であり、性格である。これはある意味では動かし難いことである。
 しかも人間は皆自分が生業を自分にとって誇りあるものとし、他者に対する差別化として意識している。そこで自分自身を他者と峻別するものとして意識するという形で自己を規定するものとしての私というものを考える。
 これはしかしある意味では私を性格的に規定する仕方である。だが私には名前があり、それは当然一つの社会的記号である。だから名前の持つ響き自体も全く我々の精神に影響を与えないとは言えないけれど、やはりそれは性格とか職業とかほどのものではない、と私は思う。
 私はだから私という存在を他者に対して演じている。そこで展開する私とは私が一人でいる時に思い巡らせる内的世界とは勿論違っていて、それは端的に他者に接する接し方の決意であり、実際の「接し」による実践である。
 勿論この決意は初めて会う人に対してとか、あまり好感を抱いていない他者と接する時にはかなり緊張した構えを構成するし、初めて会う人でも接しやすいと思っている場合にはかなり緊張は解れているし、既にかなり親しい間柄ではかなり自己内の本音なども語り合えるまでになっている。しかしそれでも尚他者に対しては、一人でいる時に思い巡らせていることとは違う心理で臨んでいる。
 ある部分では私たちは既にどんな職業に就いていても、当然のことながら、自分がその職業における草分けには殆どの場合なれない。つまり画家を目指す人は大勢いるだろうが、彼らは既に美術館があり、画廊があり、学芸員がいて、画商がいるという一つのアートのシステム内に自己を組み込んでいこうとすること自体が職業的決意である。
 そういう意味では文学者を目指す人たちは既に出版社があってそこで本を出版しているという現実を受け入れること自体が小説家とか詩人とかという職業を選択することと一致している。勿論現在ある出版界的現実自体に批判的意見を持つことも自由だし、アーティストとして現在の諸々の美術を取り巻くシステム自体に対して懐疑的精神を持つということもまた意味あることであると自己で認識するのなら、それを踏まえて新たな今までとは違う職業の成立させ方自体を考えるということもまた自由である。尤もそれはかなり困難なことであるけれども。
 兎に角私は私をある意味ではそういった諸々の社会的規約とか、社会制度的現実に対して自己を受け入れさせることを通して自己を確立している。故に我演じる故に我ありということである。
 私は他者に対して一人でいた時に久し振りに会う友人に対してどういう態度で接するかという事自体をある意味ではかなり意図的に、勿論親しい友人の前では然程緊張することなく接することが出来る。しかしやはりどこかでは心の片隅で意図的に自己を演じている。
 演じられる自分を認識している自分が、あの時はああ言ったけれども、今度はこう言おうとか、今度はこれは言うまいとか考えているわけだが、それは自分一人でいる時に考えることと、ある人と会っている時に思いついたことが複合化されている。
 私はどういう性格で、どういう考え方とか信条を持った人間であるという規定とは即ち自己に対する記述である。この記述を他者に対して宣言すること自体が他者と接する態度であり、言語行為なのである。
 だから他者に接する時、その他者に対する査定というものが必ずあり、その査定に対して「だからこそ~と接する時には~という態度で接しよう」とか「だからこそ~と接する時には~のようなことを述べよう」といった決意を持つことが出来るのである。
 決意とは他者に対してなされる行動、行為によって具現化されるのであり、その意味では他者に対する感情の表れと見做すことも出来る。
 査定自体は必ず一回は自己の内部で記述されている。ある他者と接して別れた後では必ずその他者に対する印象を綜合しているからである。そして「あの人は私にとっては~という性格の人だ」という事(性格だけでなく態度、考え方、話し方であってもいい)を記述している。
 今度はその記述を援用しながら、他者に実際に接する時のための構えを作るわけである。
 だから自己を演じる私とは、ある意味ではその都度の他者との「接し」によって得られる他者に対する想念、つまり他者全般への想念であると同時に、その他者全般への想念から引き出されるある個人である他者への想念と、その想念を下において次はどう接し、どういうことを述べるべきか、ということを実際の言語行為や接し方において具現化させるための構えを構成するために必要な記述が我々の脳内で行われるわけである。
 故に制度の中で我々が演じる自己、つまり他者に対して接しさせる私というものは、そういう私にとってのある他者固有の想念と、他者全般に対する想念とが総合化されて構築された私の社会観というものと密接に、ある特定の自己行為に対する反省と、そういった諸々の自己行為全般に対する反省とを伴った自己固有の社会全体への感じ方、考え方を伴った気分や思想を実際の行為(態度、言語行為)を通して我々は他者と接し、言語行為を育むのである。その時演じる私というものは、私自身が過去における幾多の他者接触経験を通した反省意識などによって今後の他者に対する「接し」を決意させること、勿論個々の特定の他者に対する「接し」の状況(それは「接し」の後で接する一例として過去の全「接し」の総合化への素材となる)と、そうではないもっとマクロ的な「接し」全般への自己内の想念を基調としたその都度の決意である。
 だから結論として言えることとは、端的に私を演じる私とは、私による他者全般の想念を基調とした他者像というものと、個々の特定の他者に対する異なった像というものが共存した形で形成されているその都度の他者観というものを反映した「他者全般像への私の側からの返礼」であり、私によって規定され把握されてきている他者像という記述(それ自体かなり複雑でとても一言で済む記述ではないから、諸記述の綜合と言ってよい)に対してその都度「次はどういう態度、言語行為で接しよう」という決意である。勿論常にその場その時に固有の状況性に依拠したものであるその都度の判断というものが常に突発的に加わる。だからこそその突発性を期待して我々は次の機会を持とうと決意し、その他者全般に対する総合化された想念をその都度書き換えているのである。その際にも実際に他者と「接し」を持つことにおける各状況下での固有の構えと、構え全般に対する決意と、実際に各固有の状況を持ったことに対する反省と、その反省によって次回の「接し」に対して決意をすることの反復が、徐々に自己自身への像を少なくともあまりにも各状況において異なった分裂状態を回避するように安定化しようと、固定化させようとその都度修正する。そしてその修正自体もまた一つの固有の構えとなり、次の「接し」によって具現化される。そうやって展開された各状況下での経験が他者や社会全般への総合化された想念を我々に構成させ、次第に我々はその構成化された想念を私を演じる私における私の次回の「接し」における態度、言語行為決意をするための道具として利用しようとするのである。

Wednesday, February 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十二章 いい加減さを逆利用するしかない 

 我々の住む世界は生き物の世界であり、要するに相手は自分の思うとおりには絶対に行かないのだ。まずこのことが極めて重要である。つまり人間とは他者、つまり自分以外の人間の気持ちを自分の思うとおりになど絶対に動かすことが出来ないのである。
 だから逆にもし相手が自分の予想以上に何か自分がしたことに共鳴したり、関心を示したり、感心したりした場合、そこには必ず何らかの誤解がある、と考えた方がよい。
 その最たるものとして言葉というものを位置づけることが出来る。
 つまり人間は機嫌の悪い時には何を言っても相手は聞く耳を持たないし、また自分に関心があることを他人に強要することなど絶対に出来ない相談なのである。
 だからこそ相手のその思うとおりにならなさ自体が一つの面白さであり、我々にとって極めて重要な命題となるのである。
 言葉がでは何故そのように相手が自分の思い通りにならない存在であることを時として懐柔してくれる武器であるかと言うと、それは言葉が今述べたように素晴らしき誤解を作る道具であるからに他ならない。
 かつて金融危機の到来する以前には数学や物理学の法則などを援用して色々な株式市場方程式を作って持て囃された時代もあった。それ等全てを一括して悪いことであるなどとは露ほども思わない。だが重要なことは累進的に景気や利潤が増幅していくということを前提にした経済理論は全てまやかしであると考えていた方がより無難ではあるし、また企業内の勤務評定という一種の資本主義社会での価値評定システム自体をもっと柔軟に改変していく必要性は十分にある。
 会議の為の様々なセッティング、プレゼンなどにおける計画書とか稟議書とかの書き方自体が定型化しているということ自体が憂えるべきことである。
 それらは端的にそれを見る人に関心を持たせるような仕方の工夫が必要である。細かい指示よりもより大きなメリットのあることを全ての出席者の関心を注ぐように書くということが求められているように思われる。
 特に日本では会社の中途採用などでも一切それまでの職歴に固執するが、それもおかしい。そもそも仕事とは前に何をしていたかということで今後の業務がどうなるということとは本質的に異なるからである。
 例えば前職で失敗したから、今度の仕事に再起を賭けるという意図があったって別段今後の業務に差し障るというものでもない。また前の職場で有能であった人材が新しい職場でもそうであるという保証はどこにもない。
 それは職種に関係なく該当する真理である。勿論ヘッドハンティングのようなケースもあるだろうが、それにはそれなりの綿密な次の仕事と職場に関する相互の同意が必要であろう。
 思い通りにいかないからこそ、我々は相手の意思を聞き、こちらの意思を伝える言葉を利用してきたのである。つまり自分の持っている関心や興味、あるいは自己信念といったものとは、全て個人の経験と体験的事実に起因した価値規範に基づいている。従ってまずこちらの持つ価値規範の在り方を説明することから始めなければ我々は相手に自分の持っている関心や興味の意味を説明することは出来ない。 
 そういう意味では背景となる事実に対する指摘をしておくということがプレゼンなどで求められていることではないだろうか?
 そういう意味では律儀に指示通りに動き、只管機械のように動くビジネスパーソンよりは、これはあくまで私の考えであるが、適度にサボる巧さ、つまり適度に息抜きをして、いい加減にする部分を常に携えているビジネスパーソンの方が結局長い時間から見ればいい業績を上げているのではないだろうか?
 つまりその変則的なリズムを仕事に応用しているからこそ、そういったタイプの仕事人たちは同じような反復の仕事自体にも単調さを感じずに済み、寧ろ限りない差異に常に自覚的であり、その都度の対処に情熱を持って当たれるのではないだろうか?
 つまり一見単調なものの中に変化とか微細な差異性を見出すという能力が、仕事全体に変化をつけてマンネリに陥ることを未然に防止しているのである。
 だから稟議書でも伝聞等でも我々は段階的に説明することをする前にまず、結論的なメッセージを書き、その下に順序よくその結論に達した根拠を論理的に説明するということが最も有効なメッセージ文の体裁ではないかと思う。
 プレゼンなどでも多くの出席者にとって関心のある事柄をまず言及して、然る後自分がそのプロジェクトにおいて担当することになった経緯やそのプランニングのプロセスにおいて思念した事なども織り交ぜて語ると、より説得力が増すというものである。そのプロジェクトに関わるのが何より自分であり、自分にとってこのプロジェクトに関わる意義やいい意味での生き甲斐、使命感を説明することが出来れば、後は詳細なプランの概要へと突入していった方が効果的であると言える。
 つまり人間の心理に有効に活用していいこととは、端的に余剰であり、無駄である。これらは急がば回れ式の心のゆとりを我々に与える。どんなに切迫したムードでのプロジェクト(再起を図るとかの)であっても、いやそうであればあるほど、和やかなムードを集団に持ち込むことを要するのである。つまり相手が至極厄介な他者であればあるほど友好的ムードをまず作ることが要求される。そういう場合には却って律儀で、くそ真面目な仕方では駄目である。適度の不良っぽさ、適度の「さぼり」的テクニック、適度の遊び的天真爛漫さを持ち込むことが必要である。
 そういう時に自分の過去における失敗談などを面白おかしく述べるということも有効かも知れない。
 兎に角切羽詰まった時ほど心のゆとり、心の余裕を要するわけだから、端的にいい加減さ、それは手を抜くということではなく語義通りのいい意味での無意味さ、いい意味での余剰、いい意味での遊び的部分を挿入することが知性的にも感性的にも業務促進的にも求められているのである。
 その仕方を教えろ、だって?それは自分自身の経験と知性を総動員して自分の頭で考える事が重要なのである。人に勧められてするような話には一切の説得力がない。

Tuesday, February 9, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十一章 社会と個における相関的覚知

 私たちは時代と切り離して個を実感することは出来ない。つまりそれは端的に個というものは社会と、社会として迫ってくる集団的な幻想と常にかかわらずに成立しないということからも明らかである。
 しかし個はいつも不安である。何故なら社会全体、社会が規定して、規制してくるものの多くがそのまま何らかの形で存続しても尚、我々自身はそれを最後まで見守ることが出来ないからだ。
 そこで我々は自己内部にある境界を設ける。それが自分自身にとっての関心事と、そうでなないことという区分けである。
 勿論それ自体を誘引する外部メッセージが多々我々を取り巻いている。それらの中の幾つかを我々はいつの間にか自発的に(自発的であることは意志的であるよりも自動的でありことが多い)自らの関心領域に取り込んでいく。
 さてこれらとの出会い自体をミステリアス・ガイダンスであると認識することとは、端的に反省意識である。その反省意識がある部分ではトラフィック・モメントとなって次第にある領域に深入りしていくこととなるのである。
 しかし我々はいつも自己を完全に孤高の状態にのみ置いておくことは出来ない。つまり常に反復的に孤独、邂逅、日常的ルティンなどを繰り返す。その際に我々は次第に社会全体の動きをある部分では斜交いに眺めつつ、ある部分には特に関心を注ぎ、ある部分はなるように任せ、と言うより何が起きても無関心を決め込む。
 このことこそある意味では偶像崇拝的逃避である。つまり偶像崇拝的逃避とは端的に一切の存在を認めつつ、実はそれら全てを等価に取り扱うことが不可能であるという自覚と共に、ある領域に対して自己能力の限界から他者一般に委ねておこうとするわけである。
 だから政治の動向に関心のある者よりも、政治一般が必要であると認識していても、その動向に関心のある者一般にそれらの動向注視自体を委ねておこうという決意こそ、最初の社会に対する責任転嫁システムである。
 偶像崇拝的逃避は、自分が深くかかわる世界、例えば論理学者にとっての言語の問題や数学の問題においてその世界で既に活躍している人たちの業績とか現在進行形での出来事が無関心でいられる筈がなく、そういう場合には自己専門領域においてはあまり見られない。つまり多少関心はあるのだが、あるいは大いに関心があるのに、あまりそれだけに首を突っ込むことが出来ない何らかの魅力あるもの、領域に対して持たれる場合が多いと言えよう。
 その中間的重要性を持つ事物に、出来事に、概念に、世界観に持たれるもの、それは要するに自己にとって死守すべきもではないものの、やはりなくては困るものに対して抱かれる心理である。
 これはある意味では取るに足らない、自分にとって、あるいは社会的自己にとっても然程重要性を自分で持てないものとは違って、その存在の有無、あるいはその現在進行形での様相に対する情報的摂取自体の持つ意味合いは小さくないどころか、仕事とか、専門領域のような死守性とは違う形で、最大の存在理由がある、と言っても過言ではない。
 このような中間的重要性の豊かさ自体が既に人生の幸福観から、充実感に至るまで全てを決していると言ってさえ言い過ぎではない。
 今後本ブログではそのことに焦点化して考えていきたいのである。次回からはその意味で言語的メッセージについて色々か角度から考察していきたいのだ。まず手始めにビジネスレポートとかメッセージ文、伝聞といったことを携帯電話とか稟議書とか日常的場面で利用されるということを想定して文章の持つ力について考えてみたい。