Tuesday, February 9, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十一章 社会と個における相関的覚知

 私たちは時代と切り離して個を実感することは出来ない。つまりそれは端的に個というものは社会と、社会として迫ってくる集団的な幻想と常にかかわらずに成立しないということからも明らかである。
 しかし個はいつも不安である。何故なら社会全体、社会が規定して、規制してくるものの多くがそのまま何らかの形で存続しても尚、我々自身はそれを最後まで見守ることが出来ないからだ。
 そこで我々は自己内部にある境界を設ける。それが自分自身にとっての関心事と、そうでなないことという区分けである。
 勿論それ自体を誘引する外部メッセージが多々我々を取り巻いている。それらの中の幾つかを我々はいつの間にか自発的に(自発的であることは意志的であるよりも自動的でありことが多い)自らの関心領域に取り込んでいく。
 さてこれらとの出会い自体をミステリアス・ガイダンスであると認識することとは、端的に反省意識である。その反省意識がある部分ではトラフィック・モメントとなって次第にある領域に深入りしていくこととなるのである。
 しかし我々はいつも自己を完全に孤高の状態にのみ置いておくことは出来ない。つまり常に反復的に孤独、邂逅、日常的ルティンなどを繰り返す。その際に我々は次第に社会全体の動きをある部分では斜交いに眺めつつ、ある部分には特に関心を注ぎ、ある部分はなるように任せ、と言うより何が起きても無関心を決め込む。
 このことこそある意味では偶像崇拝的逃避である。つまり偶像崇拝的逃避とは端的に一切の存在を認めつつ、実はそれら全てを等価に取り扱うことが不可能であるという自覚と共に、ある領域に対して自己能力の限界から他者一般に委ねておこうとするわけである。
 だから政治の動向に関心のある者よりも、政治一般が必要であると認識していても、その動向に関心のある者一般にそれらの動向注視自体を委ねておこうという決意こそ、最初の社会に対する責任転嫁システムである。
 偶像崇拝的逃避は、自分が深くかかわる世界、例えば論理学者にとっての言語の問題や数学の問題においてその世界で既に活躍している人たちの業績とか現在進行形での出来事が無関心でいられる筈がなく、そういう場合には自己専門領域においてはあまり見られない。つまり多少関心はあるのだが、あるいは大いに関心があるのに、あまりそれだけに首を突っ込むことが出来ない何らかの魅力あるもの、領域に対して持たれる場合が多いと言えよう。
 その中間的重要性を持つ事物に、出来事に、概念に、世界観に持たれるもの、それは要するに自己にとって死守すべきもではないものの、やはりなくては困るものに対して抱かれる心理である。
 これはある意味では取るに足らない、自分にとって、あるいは社会的自己にとっても然程重要性を自分で持てないものとは違って、その存在の有無、あるいはその現在進行形での様相に対する情報的摂取自体の持つ意味合いは小さくないどころか、仕事とか、専門領域のような死守性とは違う形で、最大の存在理由がある、と言っても過言ではない。
 このような中間的重要性の豊かさ自体が既に人生の幸福観から、充実感に至るまで全てを決していると言ってさえ言い過ぎではない。
 今後本ブログではそのことに焦点化して考えていきたいのである。次回からはその意味で言語的メッセージについて色々か角度から考察していきたいのだ。まず手始めにビジネスレポートとかメッセージ文、伝聞といったことを携帯電話とか稟議書とか日常的場面で利用されるということを想定して文章の持つ力について考えてみたい。

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