Tuesday, February 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十五章 表現形式と思想哲学流派について

 私たちにとってある固有の表現形式の持つ精神はどんな時代でも不変であるように思えるが、実際はどんなジャンルのものでも少しずつ変容してきている。例えば映画は映画創成期と現在とではその在り方を随分と変えて来ている。にもかかわらずある部分ではいつまで経っても映画は映画である、と私たちからは思える。
 つまりそれらはある水脈として延々と同じ祖先を持つものとして引き継がれてきているからである。
 映画は当初は演劇から影響を大きく受けてきていたが、次第に音楽とかその時代毎のファッションからも影響を受けていくようになる。
 文学には散文、韻文というように色々な形式があり、小説には小説の流儀があるとされる。だが小説には色々なタイプがあり、例えば文体からしてエッセイ風のものから、もっと実録物のようなドキュメントと報道の要素を取り入れたものもあるし、ハードボイルド調のものでは、犯罪的な道具とか登場人物の仕事をする服装などが重視されたりする。
 またサルトルのような哲学者が書けば当然哲学的思想が反映されたものとなり、文体も全く変わってくる。
 にもかかわらず我々はあるものを小説と呼び、あるものを詩と呼ぶし、そのこと自体に疑いを差し挟まない。そういう意味では恐らく詩も小説も変遷してきているのに、そこには祖先を同じくする水脈という固有性以外に、詩との違いというものを、プロではなく一般読者や愛好家たちが差異性の下に理解しているということが言える。
 つまり小説内部においてはどんどんスタイルも語られる内容も変わって行っているのにもかかわらず、詩との関係、つまり差異の方は、勿論それ自体も微妙には変わって行っているのだろうが、小説内部での変遷よりは不動に近い、つまり変わり難いということが言えるということになる。
 これは我々一般の大衆が詩に求めるものと、小説に求めるものとが明らかに違うと言うことに起因する。つまり我々自身の脳裏に個々の形式の持つ意味への記憶が潜んでいるからである。ここで言う意味とは端的に伝達する成員間の同意に依存する。だからあるジャンルが極度に変遷してしまって、前にあった善さが失われてきているのなら、その欠落を穴埋めする別のジャンル(全く新しいものであっても、既成のものであっても)が担うということもあり得る。
 例えば同じ散文と言っても、小説に比べれば哲学論文はあまり文体に必要以上に拘り過ぎてはいけないということだ。概念規定の方にもっと心血を注げということである。それは特に論理優先主義の分析哲学系の論文だとより、そういうことになるが、他方、生の原理優先主義であるところの現象学においては散文的ロジックが、ロジック方程式的な構造よりも重視される、ということは言えるだろう。
 スポーツにはスポーツの文体のようなものがあるのだろう。つまりゲーム毎にルールがあるからだ。オリンピックなどでは種目毎に異なった要求されるスキルと耐性がある。そして実際的スポーツ行為における実力と、本番の試合における偶然性への対応能力、端的に相手との駆け引きの能力は又別箇に必要とされる。
 従ってどんなにいい試合をしても勝ちは勝ち、負けは負けということだ。そういう意味では終わりよければ全て良しという性格はある。最も苦戦した時には必ず反省材料が揃っていて次回にもっといい勝ち方をするスキルを身につけることが要求される。
 このことは興行的性格のものには似たような要求があると言っていいだろう。例えばテレビ番組には今ネット社会に太刀打ちするためにもっとそれまでにない価値観を求められているかも知れない。あるいは出版物自体も同じ運命にあるだろう。
 つまりあるものの出現はそれまでの規制のメディアの在り方を変貌させずにはおかない。例えばブログはツイッターが定着しつつある現在、それまでの価値観から少しずつ脱却してツイッターにはない要素を見出されつつあるだろう。つまりツイッターによって既に充足してしまったことにおいてなら既にツイッターに委譲させてしまっているからだ。従って映画が出来た時に演劇に求められたこと、あるいはテレビが出来た時に映画に求められたことと同じような状況がブログには求められて然るべきである。
 あらゆる文藝的な表現主題は常に相互に影響し合ってきたと言える。明治初期には小説などという表現形式はなかった。従って最初は歌人だった人とかが小説家に転向したりしたわけである。
 映画監督がテレビやコマーシャルのディレクターになったりすることと同じことは現在でも日々行われているだろう。
 そしてそれを推し進めることとは常にあるメディアのユーザーのディマンドである。要するに我々自身がどこかで常に目移りをすること、関心事項とか領域を移行させていっている、つまり三つから四つ、四つから五つという風に利用するメディアを増加させるに従って、様相も頻度も変化させるあるメディアから別のメディアへの切り替え(スウィッチ)と又戻ること(トラフィック)との間に介在するユーザーの心理とは端的に潜在的な生活上のニーズであろう。
 それは哲学や思想、宗教といった心の領域の知識、体感的要求においても相同である。一人の哲学者が論理学や分析哲学から、現象学や社会哲学へとある命題を追究していくプロセスで容易にスウィッチしたりトラフィックを持ったりする契機、つまりスウィッチ・モメントやトラフィック・モメントにはユーザーのレヴェルだけでなく、恐らくメーカーのレヴェルでも既にユーザーに先駆けて仕掛けるということは日常茶飯事であろう。
 又新奇なアイデアやメディアが席捲した後に必ず訪れる倦怠期のようなもの、つまり辟易していくユーザーの心を繋ぎとめるもの、あるいは再利用価値を再認識させるメーカーにとっての戦略(ストラテジー)を先読みするようなユーザーたちも常にいたことだろう。
 それらも時代と共に各メディアの存在理由自体は変遷して行っているのにもかかわらず、意外と生活レヴェルでのニーズ自体は不便な時代も、便利になった時代も基本は変わりないということと、それでも尚付加価値的なことを購買誘引材料とするというストラテジーも常に介在している。だがその付加価値自体も常に基本的に不変なユーザーのニーズとアメニティということが必ず介在しているわけである。だから仮に詩なども既に本で読まなければいけないということがなくなっているのであれば、ブログででもいいし、ツイッター上でもいいし、ポータブルで読める各種のメディアからでもいいということだ。
 携帯電話で読める小説さえ流行するわけだから、全くそれ以外の新しい詩の読まれ方自体の変遷とか流行によって詩の形態も内容も、精神も徐々に変質していくということさえ極めて必然的なことなのである。それを躊躇して新たなニーズに対して耳を塞いでいてはいけない。

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