Wednesday, February 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十二章 いい加減さを逆利用するしかない 

 我々の住む世界は生き物の世界であり、要するに相手は自分の思うとおりには絶対に行かないのだ。まずこのことが極めて重要である。つまり人間とは他者、つまり自分以外の人間の気持ちを自分の思うとおりになど絶対に動かすことが出来ないのである。
 だから逆にもし相手が自分の予想以上に何か自分がしたことに共鳴したり、関心を示したり、感心したりした場合、そこには必ず何らかの誤解がある、と考えた方がよい。
 その最たるものとして言葉というものを位置づけることが出来る。
 つまり人間は機嫌の悪い時には何を言っても相手は聞く耳を持たないし、また自分に関心があることを他人に強要することなど絶対に出来ない相談なのである。
 だからこそ相手のその思うとおりにならなさ自体が一つの面白さであり、我々にとって極めて重要な命題となるのである。
 言葉がでは何故そのように相手が自分の思い通りにならない存在であることを時として懐柔してくれる武器であるかと言うと、それは言葉が今述べたように素晴らしき誤解を作る道具であるからに他ならない。
 かつて金融危機の到来する以前には数学や物理学の法則などを援用して色々な株式市場方程式を作って持て囃された時代もあった。それ等全てを一括して悪いことであるなどとは露ほども思わない。だが重要なことは累進的に景気や利潤が増幅していくということを前提にした経済理論は全てまやかしであると考えていた方がより無難ではあるし、また企業内の勤務評定という一種の資本主義社会での価値評定システム自体をもっと柔軟に改変していく必要性は十分にある。
 会議の為の様々なセッティング、プレゼンなどにおける計画書とか稟議書とかの書き方自体が定型化しているということ自体が憂えるべきことである。
 それらは端的にそれを見る人に関心を持たせるような仕方の工夫が必要である。細かい指示よりもより大きなメリットのあることを全ての出席者の関心を注ぐように書くということが求められているように思われる。
 特に日本では会社の中途採用などでも一切それまでの職歴に固執するが、それもおかしい。そもそも仕事とは前に何をしていたかということで今後の業務がどうなるということとは本質的に異なるからである。
 例えば前職で失敗したから、今度の仕事に再起を賭けるという意図があったって別段今後の業務に差し障るというものでもない。また前の職場で有能であった人材が新しい職場でもそうであるという保証はどこにもない。
 それは職種に関係なく該当する真理である。勿論ヘッドハンティングのようなケースもあるだろうが、それにはそれなりの綿密な次の仕事と職場に関する相互の同意が必要であろう。
 思い通りにいかないからこそ、我々は相手の意思を聞き、こちらの意思を伝える言葉を利用してきたのである。つまり自分の持っている関心や興味、あるいは自己信念といったものとは、全て個人の経験と体験的事実に起因した価値規範に基づいている。従ってまずこちらの持つ価値規範の在り方を説明することから始めなければ我々は相手に自分の持っている関心や興味の意味を説明することは出来ない。 
 そういう意味では背景となる事実に対する指摘をしておくということがプレゼンなどで求められていることではないだろうか?
 そういう意味では律儀に指示通りに動き、只管機械のように動くビジネスパーソンよりは、これはあくまで私の考えであるが、適度にサボる巧さ、つまり適度に息抜きをして、いい加減にする部分を常に携えているビジネスパーソンの方が結局長い時間から見ればいい業績を上げているのではないだろうか?
 つまりその変則的なリズムを仕事に応用しているからこそ、そういったタイプの仕事人たちは同じような反復の仕事自体にも単調さを感じずに済み、寧ろ限りない差異に常に自覚的であり、その都度の対処に情熱を持って当たれるのではないだろうか?
 つまり一見単調なものの中に変化とか微細な差異性を見出すという能力が、仕事全体に変化をつけてマンネリに陥ることを未然に防止しているのである。
 だから稟議書でも伝聞等でも我々は段階的に説明することをする前にまず、結論的なメッセージを書き、その下に順序よくその結論に達した根拠を論理的に説明するということが最も有効なメッセージ文の体裁ではないかと思う。
 プレゼンなどでも多くの出席者にとって関心のある事柄をまず言及して、然る後自分がそのプロジェクトにおいて担当することになった経緯やそのプランニングのプロセスにおいて思念した事なども織り交ぜて語ると、より説得力が増すというものである。そのプロジェクトに関わるのが何より自分であり、自分にとってこのプロジェクトに関わる意義やいい意味での生き甲斐、使命感を説明することが出来れば、後は詳細なプランの概要へと突入していった方が効果的であると言える。
 つまり人間の心理に有効に活用していいこととは、端的に余剰であり、無駄である。これらは急がば回れ式の心のゆとりを我々に与える。どんなに切迫したムードでのプロジェクト(再起を図るとかの)であっても、いやそうであればあるほど、和やかなムードを集団に持ち込むことを要するのである。つまり相手が至極厄介な他者であればあるほど友好的ムードをまず作ることが要求される。そういう場合には却って律儀で、くそ真面目な仕方では駄目である。適度の不良っぽさ、適度の「さぼり」的テクニック、適度の遊び的天真爛漫さを持ち込むことが必要である。
 そういう時に自分の過去における失敗談などを面白おかしく述べるということも有効かも知れない。
 兎に角切羽詰まった時ほど心のゆとり、心の余裕を要するわけだから、端的にいい加減さ、それは手を抜くということではなく語義通りのいい意味での無意味さ、いい意味での余剰、いい意味での遊び的部分を挿入することが知性的にも感性的にも業務促進的にも求められているのである。
 その仕方を教えろ、だって?それは自分自身の経験と知性を総動員して自分の頭で考える事が重要なのである。人に勧められてするような話には一切の説得力がない。

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