Saturday, February 27, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十七章 応用と実用①他者とは?

 学問とはどんな分野であれ本来は実用的価値を持つものでなければならない。しかし我々は七面倒臭いことは全て専門家に任せておけばよいという意識を恐らく近代社会以降特に分業システムにおいて介在させた。それがある意味では現代社会まで継続している最大の偶像崇拝的逃避の生活者における意識である。
 だが専門家の中には上から目線ではないもっと実用的な視点から専門分野の応用ということを考えている人はきっと少なくはない。しかし学者というものは概して特に日本では四年制大学を卒業後、大学院に二年、更に三年というように院生として残り修士課程から博士課程までを履修した者のみをプロとして扱う世間の不文律故に、彼ら自身が一切実社会での経験を持たないままプロの学者になってしまうことの方が多く、しかも一般会社員で例えば営業部員などは自分の受け持ち区域での営業成績を上げることに血道を挙げているので、次第に最初は学生の頃のような学業的教養を身につけたいという気持ちを持っていても、その時間的精神的余裕を失い会社員としての社会人意識の中で学者とか特殊専門職の人たちと自分たちが全く異なったタイプの人種であると意識するようになるし、又学者や専門家も専門家バカ的な性格を次第に身につけ、両者の乖離は益々顕著となり、まるでこれが同じ人間同士であるということ自体が信じられないくらいに人生観自体にも差異を生じていく。
 従って一般社会の側から専門家に対してある種の学業履修的意識が余暇においてあっても尚我々は専門家や学者一般と一般会社員との間の生活観、人生哲学の間には越えられない壁を形成してしまうから、応用とか実用ということにある種の懐疑すら専門家は抱いてしまい、その姿勢を敏感に感じ取る一般社会人たちは益々専門的学問を浮世離れした異次元の世界である、と認識するようになる。だからそういう両者の乖離自体を憂える専門家が仮にいたとしても、それはかなり億劫な作業であると同僚たちからの同意を得ることすら困難となる。
 だがある部分では専門的学問の世界の側から言えば中途半端に一般社会に阿るくらいなら、いっそかなりシビヤに専門性を追究していった方が余程いいという考えも出て来るし、また実際本格的に専門家以外の一般社会人たちが専門学問を履修したいと思う時彼ら自身も、その学問が即座には社会生活に役に立つようなものとは一線を画した世界であると覚悟して臨むということもあり得る。
 例えば数学は実用範囲のものと専門家が考えるものとではかなりの乖離があるし、それは哲学とか言語学においてもそうである。だが敢えて哲学をこういう場面では応用可能であると考えると、対人関係において何らかの拗れを来たした時などは、人間の感情を冷静に分析することを通して哲学が意外と役に立つこともあるかも知れない。
 そこで他者に共感するということと反感を持つということの両方について少し考えてみよう。
 他者とは私たちにとって私自身の代理を果たすことが出来ない、とりわけ幸福観情においてはそうである。同僚の結婚や出世とは自分自身にとっては、それが果たし得ていない者にとっては羨望と嫉妬の対象でしかない。
 しかし他方他者とは、例えば今の同僚の例で言えば、仕事上で何か困った時には助け合うということにおいて責任分担すべき存在である。そこで他者に対して自分が不得意な分野に関する知識とかメソッドなどを教えて貰う代わりに自分はその者よりも得意な分野においてはこちらから積極的に情報を提供してあげようという気持ちになることを通して同僚同士の信頼感というものは醸成される。
 つまり仕事とはあくまでお金を稼ぐものであり、その仕事をして幸福な家庭を築いたり、充実した余暇を過ごしたりするということ自体が一つの幸福的価値であるなら、我々はその仕事において相互にいい時間の使い方、社全体の業績と自分たちの実績に直結するような工夫をし合うことを通して円滑にビジネスが運用されることを相互に願う場合、責任倫理において結びついている人間関係である。
 一方家庭とはそういうビジネス的責任とは別箇の人間的触れ合いを求めるということが、例えば今述べたビジネス上での円滑な運用を相互に協力し合う対人関係が形成されている者は価値として見出され得るだろう。
 すると家庭的憩いという意味ではそれを心情倫理として最後の砦として残しておこうという決意が一方であるからこそ、逆にビジネス上ではかなり激烈な企業間の競争を掻い潜っていこうという相互の同志意識を同僚との間で形成するということは、他者の存在理由をそのそれぞれの成員において固有のロールを意図的に付与して臨んでいるということが言える。
 つまり同僚同士では相手も又自分と似たり寄ったりの生活観とか幸福感情を抱いているに違いないという目測を建前として形成された責任倫理的結びつきなのである。
 勿論相手は実際には何を考えているかは定かではないし、実際上仕事上での義務さえ果たしておれば相互に余暇の時間の過ごし方は基本的に自由であるし、相手の嗜好を阻む理由も、又向こうからとやかく言われる筋合いもない。そういったドライで割り切った対人関係自体が逆にビジネス上での協力関係を運命共同体のように形成させていくということも稀ではないだろう。
 つまり人間とは一方では家庭内において、他方では職場とか配偶者や家族以外の他者と全く異なった意識で接して相手を尊重するのだ。それはある意味では人格的にも多重性を持たせながら各成員に対して臨むということでさえある。
 現代哲学において他者という命題は実存主義や精神分析を取り入れた考え方(ラカン、レヴィナス)といったものから、分析哲学系(ライル、オースティン、ストローソン)といったタイプのものと色々とあるが、実際の所一切実用的応用性などないと言ってさえよい。
 だが唯一我々に提言出来るのは、相手に対して責任の持てない不必要な思い遣りとか対人的配慮などよりは、相手の事は自分の事ほど明確には分かり合えないということを前提にしてだが、相手の自分とは異なった価値を尊重し侵害することなく接し、その代わり向こうからもこちらのプライヴァシーを侵害して貰わないように配慮し合うということ、それはある部分では積極的に功利主義的な配慮でもあるが、それをカント的根本悪的な性悪説に依拠させる以前に、他者とは私とは決定的に違う、それはこちらから向こうに対してそうなのだから、向こうからこちらに対してもそうであろう、という推測に対する一定の信頼を得るということを前提としているということだ。故に相手がこちらに全て真意を語り、全て偽っていないとは必ずしも言い切れないが、それはこちらから相手に対しても全て自己真意を吐露しているわけではないということを自分が一番よく知っているのだから、我々はそういう相互の了解を「あるもの」として、勿論それが曖昧化していく過程を察知したのなら、意図的に相互の了解を得るための対話を、敢えて時には対立軸も鮮明化しつつ持つということが求められる。
 それは他者という哲学的における我々にとって乗り越えがたい(つまり容易に理解することが出来ないということを意識しておれば、そう衝突もないが、それを忘れると途端に相手に誤解を招く)命題であり、その乗り越え難さ自体が、存在を存在たらしめると考えることが出来る。
 つまり人間は相手に対してもっと知りたいとか理解したいという欲求も止み難く持つ。だがそれは「相手の事を全て知る必要はない」従ってこちらからも相手に対して「全てを打ち明ける必要はない」ということを相互に認可し合うということをベースとしている。だから逆に相手の事を自分が一番よく知っているというある種の馴れなれしさを持つ事が次第に相手を疎ましく思わせる事(そう相手から思われる事も、こちらからそう思う事も)であり、その行き違いが反感を生むのだ。そしてあまり接近し過ぎると他者とはそうなるという事を相互に察知し合う関係においてこそ共感を持つ機会を多くするということだ。
 それは実は契約関係的責任倫理対人間である同僚とか友人だけでなく、実は夫婦間にも親子間にも全く該当するのである。寧ろ他人だから言えることと、親族や家族だから言えないことということが矛盾なく共存しているのが個人の内的世界なのである。それはまさに最初に述べた学者や専門家と一般社会人、会社員という生き方の違う人たちの間の関係にもまさしく該当することなのである。
 この哲学命題の実用性と、学問の日常生活への応用ということはもう少し続けて少しずつ違い角度から掘り下げていこうと思う。

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