Friday, February 19, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十四章 記述とは何か?

 私たちの脳は無限ということを思い描くことが出来る。しかし恐らくこの地球も宇宙も存在を持続する時間は有限であろう。それを考慮に入れればたとえ数字が無限大ということを考えられても、いつかは全てのコンピューターも破壊されてしまい、無限という観念自体が人類にとって一個の単なる幻想であったということが、尤もそのようには一切回顧する存在者自体が不在であるなら、時間自体が消滅すると言ってもよい。
 時間の消滅に関してはリチャード・ドーキンスも指摘しているし、恐らく多くの論者が考えていることだろう。
 ところで「凡そ一般的に~は~である」という記述が一般化であるとするなら、一般化は一般化される当の対象自体を固定化されたものとして取り扱う。
 だがよく考えると地球の存在時間も、宇宙のそれも実際は必ずしも予定調和ではないだろう。その時々の宇宙全体の事情によって仮に凡そは寿命が限られていても尚、それらの消滅の正確な日限は我々にとって皆目規定することが出来ない。であるとするなら、当然記述するということの内には欺瞞が潜んでいる。要するにいつ消滅するか分からない当の対象を「凡そ宇宙とは~である」と規定することは出来ない。
 それは宇宙が滅んで、その宇宙を滅ぶ瞬間を目撃し、その目撃談を宇宙が滅んでもその外部で認識出来るもう一人の存在者に向けて発することによってしかなし得ないからである。
 そうなると、我々は実は一切の一般化というもの自体が、常にその場限りの欺瞞的な満足を得るための方法という結論へと導いていってしまう。
 つまり記述とはある意味では全体というものをその都度「想定して」臨んでいるに過ぎないとも言える。従って1+1が2にならない世界へと突如この宇宙が変貌するという可能性も絶対にないとは言い切れないということになる。
 クリプキが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」で示したクワスのパラドックスは実は懐疑自体が一般化され得ないということ、つまり懐疑自体が懐疑すること自体をも含むというラッセルのパラドックスを内包しているからである。
 規則という常に我々の生活に援用されるもの自体をもし懐疑すると、一挙に懐疑された当の規則に成り代わる別の規則をも懐疑の対象として包み込む。するとその懐疑は「懐疑というものはその都度なら成り立ち得るも、一般化することは出来ない」ということを意味する。
 するといつか絶滅する人類、いつか消滅する宇宙において、その日限が確定し得ないにもかかわらず、それまでに起こる全てのイヴェントを予定調和的に「宇宙の~の法則は~である」と言い切る一般化、つまり記述とは全て欺瞞ということになる。
 予め人類の絶滅や、宇宙の消滅という事態が起きる日限が確定されていればこそ、一般化が成立し得る筈なのに、それが未確定であるのに「宇宙の~の法則は~である」と言い切ってしまうのは、只一重に我々がそうしていかねば不安で仕方がないということのみに起因する、と言ってよい。
 もし本当に人類が絶滅する日限を我々が知ることが出来たなら、その時初めてそれまでの間にどういうことが起きるのかということについて有限個の可能世界を提示し得るかも知れない。つまりそれまでに法則の全てが予定調和的に理解されるべく構造で組み立てられていない限りそのような日限など確定し得ない筈だからである。
 だから無限に世界や宇宙が存続するということを前提にした一般法則自体が成立し得るという考え自体を懐疑へと放り込む必要がある。懐疑自体が一般化し得ないということは、確定化された人類消滅の日限までに人類が刻むことの出来る数字こそが数字の有限最大である。しかしそれを我々は恐らく知ることが出来ない。よって我々は無限大という観念を捨て去ることは出来ないし、また懐疑一般ということをいつか地球も宇宙も消滅するということが確定的であるようにして懐疑自体を一般化して記述出来るような幻想を一方で抱きつつ、他方懐疑自体をも無限にあるということとして一般化するという矛盾を同時に提出せざるを得ない。
 だが奇妙なことには恐らく仮に地球、人類、宇宙の存在消滅する日限が仮に確定的であっても、その間の可能世界様相自体は無限にあり得るということにもなってしまう。

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