Wednesday, February 17, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十三章 制度と職業・「私」を演じる私 

 私とは私のことを知る人にとっての私である。私自身が一人でいる時に自分とは一体なにかと思い巡らせる時、そこに立ち現れる像とは端的に自分の知る他人にとっての自分であり、性格である。これはある意味では動かし難いことである。
 しかも人間は皆自分が生業を自分にとって誇りあるものとし、他者に対する差別化として意識している。そこで自分自身を他者と峻別するものとして意識するという形で自己を規定するものとしての私というものを考える。
 これはしかしある意味では私を性格的に規定する仕方である。だが私には名前があり、それは当然一つの社会的記号である。だから名前の持つ響き自体も全く我々の精神に影響を与えないとは言えないけれど、やはりそれは性格とか職業とかほどのものではない、と私は思う。
 私はだから私という存在を他者に対して演じている。そこで展開する私とは私が一人でいる時に思い巡らせる内的世界とは勿論違っていて、それは端的に他者に接する接し方の決意であり、実際の「接し」による実践である。
 勿論この決意は初めて会う人に対してとか、あまり好感を抱いていない他者と接する時にはかなり緊張した構えを構成するし、初めて会う人でも接しやすいと思っている場合にはかなり緊張は解れているし、既にかなり親しい間柄ではかなり自己内の本音なども語り合えるまでになっている。しかしそれでも尚他者に対しては、一人でいる時に思い巡らせていることとは違う心理で臨んでいる。
 ある部分では私たちは既にどんな職業に就いていても、当然のことながら、自分がその職業における草分けには殆どの場合なれない。つまり画家を目指す人は大勢いるだろうが、彼らは既に美術館があり、画廊があり、学芸員がいて、画商がいるという一つのアートのシステム内に自己を組み込んでいこうとすること自体が職業的決意である。
 そういう意味では文学者を目指す人たちは既に出版社があってそこで本を出版しているという現実を受け入れること自体が小説家とか詩人とかという職業を選択することと一致している。勿論現在ある出版界的現実自体に批判的意見を持つことも自由だし、アーティストとして現在の諸々の美術を取り巻くシステム自体に対して懐疑的精神を持つということもまた意味あることであると自己で認識するのなら、それを踏まえて新たな今までとは違う職業の成立させ方自体を考えるということもまた自由である。尤もそれはかなり困難なことであるけれども。
 兎に角私は私をある意味ではそういった諸々の社会的規約とか、社会制度的現実に対して自己を受け入れさせることを通して自己を確立している。故に我演じる故に我ありということである。
 私は他者に対して一人でいた時に久し振りに会う友人に対してどういう態度で接するかという事自体をある意味ではかなり意図的に、勿論親しい友人の前では然程緊張することなく接することが出来る。しかしやはりどこかでは心の片隅で意図的に自己を演じている。
 演じられる自分を認識している自分が、あの時はああ言ったけれども、今度はこう言おうとか、今度はこれは言うまいとか考えているわけだが、それは自分一人でいる時に考えることと、ある人と会っている時に思いついたことが複合化されている。
 私はどういう性格で、どういう考え方とか信条を持った人間であるという規定とは即ち自己に対する記述である。この記述を他者に対して宣言すること自体が他者と接する態度であり、言語行為なのである。
 だから他者に接する時、その他者に対する査定というものが必ずあり、その査定に対して「だからこそ~と接する時には~という態度で接しよう」とか「だからこそ~と接する時には~のようなことを述べよう」といった決意を持つことが出来るのである。
 決意とは他者に対してなされる行動、行為によって具現化されるのであり、その意味では他者に対する感情の表れと見做すことも出来る。
 査定自体は必ず一回は自己の内部で記述されている。ある他者と接して別れた後では必ずその他者に対する印象を綜合しているからである。そして「あの人は私にとっては~という性格の人だ」という事(性格だけでなく態度、考え方、話し方であってもいい)を記述している。
 今度はその記述を援用しながら、他者に実際に接する時のための構えを作るわけである。
 だから自己を演じる私とは、ある意味ではその都度の他者との「接し」によって得られる他者に対する想念、つまり他者全般への想念であると同時に、その他者全般への想念から引き出されるある個人である他者への想念と、その想念を下において次はどう接し、どういうことを述べるべきか、ということを実際の言語行為や接し方において具現化させるための構えを構成するために必要な記述が我々の脳内で行われるわけである。
 故に制度の中で我々が演じる自己、つまり他者に対して接しさせる私というものは、そういう私にとってのある他者固有の想念と、他者全般に対する想念とが総合化されて構築された私の社会観というものと密接に、ある特定の自己行為に対する反省と、そういった諸々の自己行為全般に対する反省とを伴った自己固有の社会全体への感じ方、考え方を伴った気分や思想を実際の行為(態度、言語行為)を通して我々は他者と接し、言語行為を育むのである。その時演じる私というものは、私自身が過去における幾多の他者接触経験を通した反省意識などによって今後の他者に対する「接し」を決意させること、勿論個々の特定の他者に対する「接し」の状況(それは「接し」の後で接する一例として過去の全「接し」の総合化への素材となる)と、そうではないもっとマクロ的な「接し」全般への自己内の想念を基調としたその都度の決意である。
 だから結論として言えることとは、端的に私を演じる私とは、私による他者全般の想念を基調とした他者像というものと、個々の特定の他者に対する異なった像というものが共存した形で形成されているその都度の他者観というものを反映した「他者全般像への私の側からの返礼」であり、私によって規定され把握されてきている他者像という記述(それ自体かなり複雑でとても一言で済む記述ではないから、諸記述の綜合と言ってよい)に対してその都度「次はどういう態度、言語行為で接しよう」という決意である。勿論常にその場その時に固有の状況性に依拠したものであるその都度の判断というものが常に突発的に加わる。だからこそその突発性を期待して我々は次の機会を持とうと決意し、その他者全般に対する総合化された想念をその都度書き換えているのである。その際にも実際に他者と「接し」を持つことにおける各状況下での固有の構えと、構え全般に対する決意と、実際に各固有の状況を持ったことに対する反省と、その反省によって次回の「接し」に対して決意をすることの反復が、徐々に自己自身への像を少なくともあまりにも各状況において異なった分裂状態を回避するように安定化しようと、固定化させようとその都度修正する。そしてその修正自体もまた一つの固有の構えとなり、次の「接し」によって具現化される。そうやって展開された各状況下での経験が他者や社会全般への総合化された想念を我々に構成させ、次第に我々はその構成化された想念を私を演じる私における私の次回の「接し」における態度、言語行為決意をするための道具として利用しようとするのである。

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