Tuesday, February 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十六章 トラフィック・モメントと偶像崇拝的逃避 人間の移り気を逆利用せよ

 我々は何事にも真摯に当たれと心がける一方、どうしても何かに熱中出来ないという気分の時もある。そういった時私たちは無理にそのものに没入しようとはせず、気分転換も必要である。それどころか創造性とは寧ろ、従順に一つ事に勤しむ努力からではなく(勿論基本としてはそういう心がけがあったとしても尚)辟易、退屈凌ぎから生まれることが多い。つまり人間に固有の移り気を逆利用することこそが、本当は求められている。
 ところで人間は未来に対して何かする、と意志し、決心(意図)を持つ時、そのもの(未来にするべきこと)以外の全てを選択的に埒外に葬り去ることによって、積極的に差別化している。そのことは実はその中にも必ず何らかの成果へと導く要素も混入しているわけだから、それらを含めて一括して不必要であると見做すことによって決心する(振り切る)わけだから必然的に如何なる正当なる決心であってさえ、偏見や決め込み(決め付け)が介在していることが分かる。つまりそれは「それは本来価値かも知れないが、何も自分が担う必要はない、それを得意とする者に任せておけばいい」ということで、自分以外の適性を保持している者に任務を委譲することからも、一つの偶像崇拝的逃避心理のものなのだ。それは他人でも「明日やればよい」「いずれやろう」というように、私たち自分自身の中での「未来の自分」「いつかそれをやる自分」という他人へと偶像崇拝的逃避をしているのだ(尤もいつかはやるということは永遠に来ないことも多いのだが)。この決心の介在する偏見や決め付けという「うっちゃり」とは偶像崇拝的逃避という形での責任転嫁システムを招来させるべく何らかのミステリアス・ガイダンス、つまり「今それをしたい」と思うこと以外の全ては「うっちゃって」おこうという気持ちにさせる魅力を目前に認識させている筈だ。だが同時に「したいこと」は「しなければいけないこと」と対になっており、必然的に一旦は「うっちゃって」おいたことを「再び取り掛かれねば」と思い、それを履行する故に「今したいこと」→「やはりしておかなければいけないこと」との間の往来や短い往復が果たされることとなる。
 それはある意味では適度に私たちの移り気を援用した巧妙なるトラフィック・モメントの価値化に他ならない。あるいはもっと限定的に言えばラップ・モメントの価値化である。
 義務感にのみ苛まれていては、私たちは真に豊かな創造性を仕事に発揮することは出来ない。
 従ってある意味では只従順に一つ事にのみ執心せざるを得ない生真面目さは、あまり創造的ではないどころか、寧ろ弊害ですらある。
 私たちは自らの中にある怠惰、楽をしたい気持ち、愉しみを求める気持ちといった移り気(ウィム)や、気まぐれさ自体を常に有効利用すべく勤めねばならない。何事もしていることのその時々で愉しみを発見しなければ、私たちは何事もなし遂げることは出来ない。
 
 付記 
 昔は会社や役所等の組織では部長等が他の部下全員を監視出来るようなポジションに机と椅子を陣取り、ヒエラルキーによって集団を構成していた。しかし今日我々は既に個人毎に職種の適性があるかという評定以上に(寧ろそういった選択問題より以上に)、一つの義務履行方法や手順こそ個人毎に最も有効な方法が存在するのであり、決められた手順通りにするという事自体が、それに従順である(そのことに対して我慢する)ことで給与を支払われるというシステムだったが、これは最早時代遅れである。
 自分にとってよりしやすい仕方を見出していくべきであり、一つの型に嵌め込むということは不合理である。
 同じ一つの部屋である程度の監視付きで業務履行した方がよい、と思う成員のみ所定の職場を希望選択させるということを含めて自宅であれ、別の場所であれ、納期厳守さえすれば仕事をする時間帯さえ自由にする(即座に直に指示を与え、仰ぐ必要性がない限り)ことが望ましいとさえ言えるだろう。そのことが時間差通勤を促進し、朝夕のラッシュアワーの込み具合を軽減する手立てともなろう。

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