Saturday, January 30, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十章 他人の目が気になることの構え

 文章は本当は一番言いたいことを述べるべきだし書くべきなのに、なぜか書く段になって他人の目を気にして書いてしまうということはよくあることだ。
 だから日記がそういう意味では他人に見せるわけではないから一番いいのだが、日記も毎日つけていくと段々ノートも溜まるし、尤も一日に一言だけであるならそれほどでもないが、一応散文の体裁をとったものばかり毎日つけていけばかなりの量となるので、整理も大変である。それに字の下手な人はなかなか後で自分の文章を読み返すことが厭になるということで、ツイッターやブログでそれを書き込めば整理とか字の下手さ加減の問題については一挙に解決する。
 しかしそれらは他人の目に触れてしまう。そこで他人の目を気にした当たり障りのないことを書いていってしまう傾向もある。人が書いたものを見るかもしれないということが、どうしても一人で書いて後で一人読み返すということとは違った意識を与えてしまう。これは一つの構えである。つまり他人ならそのことに関してどう考えるだろう、どういう意見を持つだろうということを前提とした何らかの考えを書き込むということになってしまう。
 しかしそれは一体一人で書いて一人で読み返すような日記形式の場合でも同じではないのか?その点はやはりかなり難しいと言える。たとえ後で読み返すのが未来の自分だけであっても、やはりそれはそれで今の自分からすれば立派な他人でもある。そこで我々は未来の自分という特殊な他人に向けてものを書く時やはりそれなりの配慮を心がけるものではないだろうか?
 しかしブログ、ツイッターでは最初から色々な人が、しかもそれも知らない人が読んでいるかも知れないということを前提として書き込む。そこで我々は自分で書く文章を後で読み返すという自分の考え方、感じ方の変遷を知るために書き込むということと、それに加えて他人一般が自分の考え方、感じ方に対してどういう意見を持っているのか、どういう意見が反響を呼び、どういう意見がそうではないか、つまり黙殺されるのかという違いを知りたいという欲求も必ず介入している。 
 しかし少なくとも日記につける時に記述されるよりはずっとオブラートに包んだ表現に終始する可能性は大きい。つまりあまり直接的表現を避けようとする意識が無意識に働くということはあるかも知れない。しかし恐らくそれでも尚我々はそのオブラートの包み方自体に自己の考え方、感じ方の変遷を読み取ることは十分可能であろう。
 つまりもう一度自分の書いた文章を読み返してみた時に、意外と思えることもあるだろうが、必ずあっそうだあの時はあんなことを考えていた、感じていたということをある時は即座に、ある時には暫く経ってから何らかの形で思い出すことが出来る。尤も七年も八年も経ってからそれを読み返すという場合ではそうもいかないこともあるだろうが。
 問題は要するに他人の目を気にするということの構え自体が、実はかなりの部分未来の自分へも向けられているのであり、未来の自分を納得させられないものが他人をも納得させることが出来るだろうかという目測は常に我々の念頭にあるように思われるのだ。
 哲学的他者と言うと、ある意味では存在者として生活しているということ、そしてそれが遠目で確認出来る存在をも含む。しかし他人という時、我々は明らかに私が京都を旅行した時に道を尋ねたり、駅で尋ねたりする観光客とか駅員といった人たちは他人である。他者は実はそこに不在であれ、世界にたった一人孤島で過ごす人間にとっても想念上、表象上存在し得る。しかし他人はそうではない。必ず何らかの反応を私に示すのだ。それは「大覚寺はどうやって行けばよいのですか?」と天龍寺で質問する時、そこで働いている事務員の人や住職の人たちは他人である。他者ではない。他者は仮に私に対して一切の意思疎通を拒む者であっても規定し得る存在である。
 要するに他者の中で限定的に必ず自分に反応を返す者を我々は一応他人と呼ぼう。そういう意味では我々は他人の目を一切気にせずに生活していくこと自体は実質上不可能である。
 そこで未来の自分という他人を軸とした実際の他人への対応、接し方といったことが実はかなり重要な指針となっている、と言うことが出来る。つまりツイッター、ブログで我々が何かを語ろうとする時、そこには必ず「誰かは定かではないけれど、誰かは見てくれている」という意識を前提に何かを書くわけだから、必然的に我々はある部分かなり日記的意識の延長として日記を「完成させる」ことをその都度心がけているということも言えるが、日記のような読み返すことが目的ではなく、ツイットするその時、あるいはブログを更新するその日の他人の反応を確かめるためだけになされる、ということもあり得る。
 つまり我々はブログやツイッターに文字を書き込む意識が最初から全く日記のように後で読み返すという目的を持たないように分けて考えるということも可能である。
 日記の完成体として認識する段でのブログ、ツイッターと、そうではなく最初から全く違った目的において書き込むという両方の使用仕方が存在するということだ。
 しかしいずれにせよ、そこには自分一人で考えた内容を書き込むということはあるが、メールやチャットよりもより便利であるから他人とか知人とそれらの代わりにツイッターに参加するという目的は大いにあり得るが、それ以外でなら、日記は未来の自分という一番切実な他人、そしてツイッターやブログはその日その日更新記事を確認してくれる他人、つまり同時進行性ということが問題となっている。そしてそこには当然特殊な構えがある。それは相手の顔は見えないが、意味世界だけで理解し合えるという一つの言語の可能性を見出しているのだ。
 しかし本を読む時著作者のプロフィールを写真でだけ知っている場合、テレビ等で知っている場合、実際一切のそういうデータがない場合とでは、やはりその本を読んだ感想という意味では一切データのないものが一番意味内容を把握するという面では善いと言える。
 そういう意味では相手の顔が見えないということは真理領域的なこと、つまり意味世界ということから言えば最良の意思疎通手段だ、と言える。何故なら実際の人間関係には必ずパワーバランスが介入してしまうからだ。相手の年齢、相手の職業、相手の性格や人格が具体的に付帯してしまって、「純粋な意味」(そんなものが仮にあってという想定の下での観念であるが)だけで意味伝達し合えないということが言える。
 だから我々は実際の知人も必要だが、既にネット上だけでの知人も、実際の知人からは得られないいい意味での純粋な意味世界的意思疎通パートナーとして必要としているのである。それは決してネット社会の対人関係的閉塞感というネガティヴな文明批評からは理解出来ないもっと本質的に有意義なものである、と私は考えている。
 つまりそこには固有の構え、純粋に一人の世界であるのに、その文字書き込みに対する反応を知る時、我々は実はその「一人でいることを理解してくれているもう一人の一人でいる他人」という存在を常に念頭に置いているわけだから、必然的に「一人でいること」の意味を真に覚醒させてくれる手段としてブログやツイッターは存在しているのだ。
 「一人でいること」の構えとは本質的にどんな共同体であっても、我々は所詮一人で生れて来て、一人で死んで行くという運命の下で孤独は悪いことではない、という再認の意味もあるのだ。
 実際に四人で会って話すということと、ツイッター上で四人で連携して同じ話題について書き込むという時の構えは「一人でいること」の意味はより後者にあり、実際に会って四人で談話する時は集団を構成している、という意識の構えになることだけは確かなことであるように思われる。

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