Friday, January 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第八章 偶像崇拝的逃避と軽蔑

 真に人間に対する尊敬心というものは必要であろう。従って相手に対して敬意を抱くということは大事なことであるかも知れないが、どんな相手であろうと相手を尊崇し過ぎ、崇拝しだすと全く様相を変えてしまう。
 私はそのことを偶像的に相手を崇拝することで、相手に対する普通の人に対して接するような配慮を忘れ、相手の能力や寛大さ、包容力を信じ過ぎて却って相手に対する配慮に欠く心理状態になることを「偶像崇拝的逃避」という風に勝手に呼んでいる。この心理の最大の問題点とは端的に他者に対する配慮というものが崇拝する相手には通用しなくなって、相手を過大な能力の保持者であるとしながら、相手に頼りきることを言っているのである。
 日本人は政治家に対してこのような心理で臨むことが多い。彼等も所詮人間であり官僚も裁判官とも全く同じで間違いも犯せば、欠点だってある。
 しかしあまりにも相手の立場が社会的地位が大き過ぎて対等ではないということから、逆に何を相手に言ってもいいとか(批判したりする時に言えることであるが)過大な自分たちへの期待を当然のことである、とそう思ってしまうことが多いと思われる。
 従って私は本ブログの最初の「トラフィック・モメント」において尊敬という心理が意外と軽蔑に近いということを言ったのだが、結果的には尊崇している相手に何を言っても相手がその鷹揚さにおいて許してくれると思い込むことこそ最大のミステイクである。それは軽蔑している相手に素気無い態度を取ることと寸分変わりないものである。
 ある意味では相手の能力を過大に評価し過ぎたり、相手を信用し過ぎたりするということは、相手に対する自分の側の責任を忘れ去って、相手を支える態度を放棄しているが故に私はそれを逃避と呼んだのである。
 つまり相手を真に思うならば、相手も又人間であり欠点もあれば弱点もあるということで過大な期待を相手にかけないということに尽きる。だから逆に相手に対して期待し過ぎるということを平気で行うという心理にはどこか相手の魅力に対してつけこむ、つまりその当の本人を覚めた目で見るということを放棄していくことを誘うミステリアス・ガンダンスが待ち構えているのだ、と捉えた方がいいかも知れない。
 つまり相手を尊崇することを通して無意識の内に相手が失脚した段人になると、可愛さ余って憎さ百倍ということを実践して、普段のストレスとか鬱憤を解消することを望んでいることになるからである(これは相手が人間ではなく真理とか原理とか信仰心とかにも言えることである)。
 我々は相手に対してそれがどんなに社会的地位とか経済力とか、要するに自分と対等ではない部分を発見してさえ特別扱いをすることは結果的に相手に対する非礼へと直結する、ということだけは心得ておかなければならない。
 だから政治家に対してもいつも批判的な眼差しを忘れずにいることも大切だが、相手が少しでも血を見せたなら突いてやろうという悪意を持つくらいなら、最初からあまり期待し過ぎずにいることが大事だし、何か苦境に陥っても、最後の復活のチャンスを相手に与える心の余裕を持たない限り、いつまで経っても我々は自己責任を偶像を尊崇することを通して尊崇者からのマインドコントロールをされ続けるという脆弱な個という図式から脱却出来ずに、偶像崇拝的逃避と軽蔑の往復を余儀なくされると言える。
 このような尊崇と軽蔑の反復であるようなトラフィック・モメントとは最悪な心理的構えである。

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