Monday, January 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第九章 価値の組み換えについて

 近代ケインズ理論等による勤労観自体の組み換えが今求められているのではないか、という視点で考えてみたい。
 現代の脳科学や神経科学では既にリラックススと集中が統合された形での成果ということがリハビリテーション理論等とタイアップされて注目を集めている。脳波もその一つだし、グリア細胞の仕組み等も注目を集めている。まさにかつて仏教世界で問われてきた呪文とか思念とか想念が見直されてきているとさえ言い得るのである。
 すると我々は意識化された世界だけに注目するのではなく、夢現の状態とか、まどろみなどの世界のリアリティにもっと敏感になった方がいいかも知れない。
 つまり言葉自体が既に生の時間における死の挿入、つまり不在と表象という生の生きられたものに対する一つの死というメリハリをつけることであるとすれば、その変化を意味化することが一つの我々に要請された意志ということになる。
 つまり意味化とは全ての情報の中から忘却すべきものを一切忘却することを通して、メリハリのある主観的関心を惹くもののみを記憶する脳のシステムを応用したものである、と捉えることが出来る。それは古典的勤労観とは別種ののんびりとした創造的世界への再考ということである。
 意味とは端的に偏差である。それは同一の単純な反復ではない。従ってそのメリハリの中から特筆すべき価値が浮上することをごくニュートラルな脳の状態で活性化させることが出来るか否かということが、量産システムから質的転換を絶えず行うと言うことに直結する。
 記憶は過去事象全体への一つの価値的投企であり、過去化である。それは同一反復に対する辟易が生んだ自動的な構えである。無意識の活用は脳を絶えず、その時々で関心のあるものの方へと傾注させ、その赴く動きに逆らわないということに尽きる。
 だからいい意味での成果主義が近代的勤労観から脱却していく必要性の上では、不安や鬱的世界を只ネガティヴに捉えるのではなく、その内向性自体に価値を認め、活用するということである。それは生だけを価値とするのではなく死も又一つの価値とするということ、そして記憶されるべきものだけに注目するのではなく、忘却されるものをも価値として注目するということである。
 要するに脳は絶えず関心領域を移行させているし、それは端的に切り替えを欲しているということである。だからものとものの間とか人と人の間の偏差とか類型的偏差と共通性を絶えず注目しているけれども、我々自身が意識化において言語的説明がし難いだけである。だから睡眠もそうであるが、寝たい時に寝て、働きたい時に脳を働かせるということ、そして概ね規則正しくあった方がよくでも、常に同じ労働のルティンと、同じ時間配分ではなく、メリハリをつけるような無計画的計画、あるいはその時々に応じた成果における予定変更、あるいは大胆な新計画を絶えず怠らない、原則に呪縛されることを拒否し続けることが意識的に求められている。
 それこそが生成過程を我々が楽しむということである。夢の世界は大概がネガティヴな内容であり、それは不安を顕現する。しかしその不安とは端的に希望と表裏のものである故、それをポジティヴな価値に変換していくことをルティンとするような創造性が求められているのである。
 その意味では脳科学、神経科学、認知科学、制御工学、精神分析、哲学、論理学、倫理学等が常に隣接し合うように画策し、どれを選択するかという意志決定ではなく、それらを常に緊密に連携させ得る可能性を探るような統合的な学問体系と実践課程が要請されているのではないだろうか?

 意味とは価値化であり、脳内記述に他ならない。従って価値倫理システムをより活性化するためには、メリハリと我々の脳を疲労させないような形で常にリフレッシュするようなリラクゼーションと、意味創造のリハビリテーションが求められている。それは生成のシステム自体に常に立ち会うということであり、絶えず関心を注ぐという心的状態を肯定的に創り出すことであり、ネガティヴな価値をポジティヴな利用の仕方を率先してすることである。そしてそのためにはメリハリ自体を、ハレとケとか、聖と俗とか、固定化と流動ということを絶えずインタラクティヴに作用させ続けること、つまり外界とのインターフェイスを固定化させるだけではなく変則的にしていくことでもある。流動的固定化、固定化的流動、俗的聖、聖的俗、ネガティヴ的ポジティヴということが常に変換され続けるようなことが極自然に行われることが望ましいということになるのである。
 それは構えを意識的にするだけではなく(そういう必要性のある時はそれでよいが)自動的に対象を移行させたり、要するにそこにもメリハリを導入したりするということである。
 次章ではそのために我々の存在自体を一つの捉え方として羞恥をポジティヴに捉えることの基本的考えについて述べたい。そのためにも本章でのメリハリを一つの遊びとして捉える認識が重要となってくる。

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