Wednesday, January 6, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五章 命題的態度と構えについて

 私たちはある意味では世界というものを自‐他の知覚的、自己同一性的認識以外にも、かなり主観的な様相で把握している。
 例えばジョン・レノンという一人の極めて魅力的人物にとっての世界一つをとってみても、彼にとってある時期はポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンが中心であり、ある時期においては妻シンシアと息子ジュリアンであり、ある時期はビートルズという集合体であり、ある時期からはヨーコ・オノであり、ある時期からは妻ヨーコと息子ショーンという風に世界はその都度、中心となる人物的対象、つまり自らの人生における最大の関心事であったと思われる。
 つまり客観的自己認識以外にも我々は世界の様相を決定させる親近度としての世界というものが存在する。
 一般にドナルド・デヴィドソンによって提出された命題的態度とは、自‐他認識的な客観性のように世界に対して考えられるが、我々は他方かなり主観的世界から世界一般を理解しているとも言える。 
 つまり世界の中に立たされている自分という認識と同時に、世界そのものを自分で構成しているという認識が同時に成立するように、処々の知覚や関心が反省意識の中で統合されて世界となるとも言えるが、その時々での感情的関心志向性によって世界がその都度の関心や知覚を伴って顕現している、とも言い得るのである。
 だから命題的態度が「自分は今何をしたがっている」と言う時にも、その自分がまっさらな自分である以前的にあるバイアスのかかった自分であるということを最も自分は知っている。
 つまりある行為へと自らが生きる身体と共に構える時、そこには我々にとって手慣れた方法とか、習慣とか、要するに親しみを感じさせる仕方や世界への対峙仕方、見方が備わっている。それらがない状態では世界に対峙することも、世界を構成することも出来ない。
 世界そのものは常に一定の価値を与えられたものとしてのみ我々は世界を事実として認知する。
 ホッブスは世界へと事実として向き合った。しかしカントは世界を我々による我々自身への権利問題を育む場として捉えた。この二つはある意味ではかなり親密に相補的である。
 我々は知性も感性も全て身体に宿っていると一般には考えている。しかしその身体は言語によって把握されてもいる。つまり我々は身体という情動を育む場と、言葉という認知を促進する場の両方を生きている。そしてそれらは一体化したり融合したりしている筈なのに、常に二極分裂されているかの如く世界に立ち現れるかのように全てを知覚し、全てに関心を注ぐ。カントにとって理性や理念は全て理想を追い求めることを権利として我々が保持していることに対する確認の意図によってのみ意味があった筈だ。
 つまりその時点で我々は既に価値の呪縛から逃れられない。それは否定的ニュアンスだけでなく肯定的ニュアンスとしてもそうである。
 価値自体も実は一つの気分であり衝動である。我々が身体という語彙を与えている身体自体もまた一つの価値である。その価値を言葉で認識しもする。つまり身体という一つの価値を言葉によって確認する。その事実、つまり身体の中に宿る衝動や気分ということと、衝動や気分を言葉によって世界を理解することを通して作るという側面が両義的に鬩ぎ合っている。だからこそ価値自体が情動をも生み出す。
 だからクオリア自体は、過去の潜在的記憶をも含めた再認に他ならない。再認という記憶作用において我々は主体的に想起することもするが、身体の内奥から想起が自然に沸き上がることもある。それらは受動的ではあるが、嫌々そうなっているのとも決定的に違う。主体的でも受動的でもない想起こそが理性を超えた想起である筈だ。
 それは言語認識的な意味からも、前言語認識的な意味からも両義性と弁証法のディアレクティクであると言える。
 命題的態度は従って「意思決定理論(decision theory):*選択(choice)・選好(preference)を、確率(probabilities:信念に相当)と効用(utilities:欲求に相当)とによって形式的に説明する。」http://phil.flet.mita.keio.ac.jp/person/yosaku/doc/murota/hail05a.pdfと室田憲司が示しているところによると、選好とはミステリアス・ガイダンス(Mysterious Guidance)である。つまり我々にはその都度、意思決定を合理化される神秘的誘いがある。
 それらが過去への反省意識の中で「あああれがあのことをしたきっかけとなった」とトラフィック・モメント(Traffic Moment)として位置づける。
 つまりその時々での関心志向性こそが一つのその時々での我々の人格を形成しているとも言える。だからその時々での他や物質への、あるいは道具への接し方には固有の構えがある。使い慣れたボールペン、使い慣れた自室のトイレ、見慣れたブログ、座り慣れた自室の椅子。
 その構えの傾向性こそが我々の他者への態度、外界での歩行や移動にも固有のトラフィック・モメントを与えている。そこにも人格と行動という両義性がある。つまりある人格がある行動を、ある行動がある人格を形成している、という風にである。
 その時々での固有の構えというやはり一つの気分であり衝動であるものこそが、ある行為を、ある言語行為を誘引しているトラフィック・モメントであり、それが関心を抱いている外界の、あるいは自の内部でのミステリアス・ガイダンスを追い求めて行為は断ち切られたり、新たに求められたりする。
 つまりあるミステリアス・ガイダンスに引き寄せられてトラフィック・モメントを作るということ自体の中に全ての命題的態度が具えられているのである。

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