Thursday, December 10, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四章 トラフック・モメントとは何か?

 私たちは個というものを考える時明らかに私と結び付けたがる。しかし個において私は公との相関においてのみ重要である。何故なら公において個を晒す時必然的に私が浮上するからである。しかし自という意識が私と共にあるとすると、それは他ということを私と公としてではない形で考えることを促す。公とは集団であり、個とはその一員であるという意識である。しかし案外私たちはそれをまず基本として叩き込まれ、然る後一人になった時に自を意識するのかも知れない。私とは公に対する個ということの性格を他から植えつけられている部分と自でしか理解出来ない部分との相克において顕在化しているとも言えよう。
 さて私にとって他者全員は、自にとっての他一般という形で何らかの形で公あるいは集団に属していると考えられるし、感じられるが(勿論例外もあるだろうが概ねという意味で)、しかしその他とは常に特定の自による関心対象である。その関心対象に対して私たちは自としても私としても固有の興味とかもっと知りたいという欲望を抱くが、常にその関心対象にのみ釘付けになっているわけではなく、刻々とその関心対象を移行させている。それは食べて歩いてパソコンでワードを打ち込んで、眠くなり睡眠を取り、散歩をし、風呂に入り、再びパソコンの前に向かうという行為の切り替えにおいても、関心対象の移行においても、実際に会う他者の顔ぶれに対しても、仕事のルティンにおける順番とか手順においても、常に切り替えをすることを誘引する動因と言う者がある。ある行為に赴くこと、ある行為を中断すること、それら全ては知覚自体がある対象にのみ注視していることが出来ないある種の辟易というものもあるし、移り気ということもある。それらは概して気分や衝動の問題である。
 しかしそれらを我々はあまり見てこなかったと言える。あるいは見ること避けてきたとも言える。それを私は関心対象、実際の行為に切り替え、中断、再開、変更の全てをトラフィック・モメントと呼ぶのである。これは端的に知覚と行為への動因である。
 我々は生において一度たりとも同じ状況での同じ知覚も行為もすることはない。常にその時々で一回限りのことである。
 私はある部分では自において成立する他、他において成立する自において、他に自以外の全て、つまり私で出来ること以外の全てを委ねておこう、そうすることで、その領域においては自は他に対して偶像崇拝する(前章でも述べた)、そして自においては他から一定の偶像崇拝された部分を担うという意識こそが、トラフィック・モメント足り得るのではないかと考えているのである。実はその中にこそ意図も、感情も、知覚も、自由意志も、意識も、クオリアも、記憶も介在したり、発生したり、持ち出されたりするのではないかと考えているのである。
 動因があるから記憶や感情があるのか、それとも記憶や感情があるから動因があるのかということは決着がつかない問題だろう。第一それは常に双方が双方の因果である。
 往来の契機(トラフィック・モメント)こそが往来を促し、往来が新たな往来の契機を形作ると言える。それは男女があるから愛の睦言があり、セックスがあり、愛の睦言をしたい気持ちがあり、セックスする欲望があるから男女があるとも言える。男女という差異が仮に私たちになくても尚、何かそれに代わる自と他の相関における動因は存在したであろうと我々は想定出来る。愛の睦言も男女の関係ではなければそれなりにあるし、自と他との間の羞恥とその温存、払拭全てに対する構えにおいてあると言えよう。それは第一章の図式における次の部分が該当する。

 行為への意識が自・行為を振舞いとして意識させる

ここに自は自らの羞恥を知る。羞恥は行為への意識によって創出され、ア・プリオリに付与されたものとされる

 偶像崇拝的逃避もある種の行為への動因である。何故なら他は他である立場とかある態度とかがあるということであり、自はそれとは別の意味で立場や態度があるということだからだ。しかし自においては私においてよりも立場や態度は希薄かも知れない。つまりそこにこそ哲学で自己と他者という概念を考える余地があると言える。
 偶像崇拝的逃避とはある部分では完全に他に対する関心を払拭する意味合いがある。不干渉であり無関心であり自自体への意識の集中へと切り替え、それに集中させるために他一切に自において行為不可能なことを委ねるという意識を持つ。あるいは自への集中においてそれを必然的に結果させる。
 つまりトラフィック・モメントにおける重要な動因の一つとして偶像崇拝的逃避というものを考えることが出来る。
 また偶像崇拝的逃避とはトラフィック・モメント成立に寄与する記述とも言える。そしてトラフィック・モメントが行為や知覚の切り替えを動因するとなると、それは知覚や行為を生じさせる時の構えであるとも言える。偶像崇拝的逃避はそれを意識の上で介在させる際に羞恥が生じると言える。自の全てを他に悟られたくはないという自動的な予防措置が心的にあり得る。何かを説明する時もそうだし、何かを聞きだそうとする時もそうだし、何かを終わらせようとする時もそうである。何らかの契機を必要とする。その時我々はトラフィック・モメントを探す。それが見出せればトラフィック・モメント自体が我々に行為や知覚の切り替えをする。
 一つの行為や知覚の持続は辟易を呼ぶ。そこで我々は偶像崇拝的逃避を応用してトラフィック・モメントを探る。それはほぼ同時的である場合もあるだろうし、多少時間的ズレがある場合もあるだろう。食事をし終えればレストランから出て行くし、トイレで用を足せば、トイレから出て行くし、ATMで金を引き下ろせば銀行から出て行く。一つの行為の終了に対する確認がこの場合トラフィック・モメントであり、ある長くつきあっている異性から許せない一言を聞いてそれが許せないと感じたら、別の異性に対して関心を示しだし、長く付き合ってきた異性と別れようと決意する時、その決意のトラフィック・モメントとするものこそその異性の不用意な一言である。
 つまり我々は公私を往来させる時も、行為や知覚を切り替える時も、新たな行為へと赴く時も、ある行為を中断したり、止めたりする時、ある集団から抜け出したりする時にもこのその決心を誘引し動因するトラフィック・モメントを自覚し、認識するのである。その際に我々は偶像崇拝的逃避を採用したり、利用したり、それ自体をトラフィック・モメントにしたりすることもあるわけだ。

付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇を取ります。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

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