Wednesday, December 9, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三章 「ふりをすること」の正体

 私たちが何かの「ふりをする」時明らかにあまりそのことをしたくないのに、したいように振舞うことである。それはある部分偽装である。しかし偽装するということ自体に既に我々がある行動をする時、行動を他者に見られる場合、行動自体が真意に沿ったものであるということを他者に円滑に示すことが出来るか否かという振舞いにおける巧さという観念が定着していることを意味しよう。だから巧く他者に「何か」が伝えられるということ自体が既に内心と外面ということが乖離していくという現実に対する覚醒がある。だから巧く伝えようと思う時既にその者の内心では偽装するという選択肢もあるという認識は形成されている。「ふりをする」こととはだからあまりそれをしたくはないのに、義務的にしなければいけないという状況があって、あまり嫌々それをしている風に他者から察せられたくはないという事態の出現があって以降の人類による意識である、と言ってよい。
 それは行為自体に対する記述が脳内で常習化した末の結果である。だから何かを意識してする、そのように振舞うという、他者に向けられた意識そのものが既に他者に対する構えが臨戦態勢にあることを意味する。その時自らの行為を自動的にするのではなく、あくまで恣意的意図の下にするわけだから、行為自体への意識という意味で行為性として脳内で記述している。だから演技すること、振舞うこと、装うことといった全ては既にそれ自体で記述された末の意図である。
 本章で考えているところのものは第一章における後半の次の部分の認識に拠っている。

行為への意識が自・行為を振舞いとして意識させる

ここに自は自らの羞恥を知る。羞恥は行為への意識によって創出され、ア・プリオリに付与されたものとされる

羞恥は以後の行為、言語行為に「ふりをする」という意識を付与する

「ふりをする」という意識は自を他へ向けた構えと自の内的世界を二元化させる(二元的に認識させる)。

 つまり我々は自というものを他との疎通了解において考える時、自の行為、とりわけ言語行為において考えられる自分にとって自然であることと、他にとって理解しやすいこととの間に介在する齟齬を必ず自覚する。それは言語行為においてそうであるから、実際に語りの入らないジャスチャーにおいてもそうなる。
 つまり内的世界と外的世界をその段になって知るのである。それが最後の「自を他へ向けた構えと自の内的世界を二元化させる」ということに他ならない。
 しかしその過程で我々が必ずと言っていいほど経験することとは、端的に「こういう気持ちを伝えたのに伝わらなかった」とか「こう考えて話したのに理解して貰えなかった」という挫折である。挫折こそがこの内的世界と外的世界との齟齬を我々に教え、他に対してなされる自の行為を「振舞う」「装う」あるいは「ふりをする」という様相において理解させることとなる。
 だから「ふりをする」ことの本質的な実体とは恐らく「自然にする」ということ自体に内在するものに必ずあること、それが「敢えてする」こと「恣意的にする」こと「技とする」こと「意図的にする」こと「人工的にする」ことである。
 ここには自然であるということ自体に内在する多義性、両義性がある。
 トラフィック・モメントは偶像崇拝逃避によって自と他の領域を責任転嫁的に明確に峻別することにおける安心、そしてその安心を突き崩す他の自への領域侵犯によって、あるいは自の他の領域への好奇によって発動する。他によって見られる自の「在り方」に一抹の不安と懸念を感じるからこそ我々は「ふりをする」ことをその都度構える。自による自に対する他からの視線への同化を試みるのだ。
 よってトラフィック・モメントとは偶像崇拝的逃避があるからこそその再考と検証においてなされるのである。その際に偶像崇拝的逃避自体への懐疑が「ふりをすること」を促進すると考えてもいいだろう。

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